2011年10月1期孤独な男性孤男に関係しそうな言葉を引用するスレ
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風俗譲に嫌われた孤男
目つきが悪い・暗い・おかしい孤男
【1971年】 昭和46年生まれの孤男 【猪】
孤男に関係しそうな言葉を引用するスレ
- 1 :11/04/09 〜 最終レス :11/12/05
- ヘッセ「荒野のおおかみ」から
彼の全生涯は、自分自身への愛なくしては隣人愛も不可能だということを示す実例、また自己憎悪は、どぎつい
利己主義とまったくおなじものであり、結局はまったくおなじ恐ろしい孤立と絶望を産み出すものだということ
を示す実例となりました。
村上春樹「1Q84 Book2」から
「僕には一人の友達もいない。ただの一人もです。そしてなによりも、自分自身を愛することすらできない。
なぜ自分自身を愛することができないのか?それは他者を愛することができないからです。人は誰かを愛する
ことによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るの
です。僕の言っていることはわかりますか?誰かを愛することのできないものに、自分を正しく愛すること
なんてできません」
中山元「思考の用語辞典―生きた哲学のために」から
お前を俺達のメンバーとして認めない。ここから出ていけ。排除する(exclude)とは、ある共同体からこんな
ふうに放逐することだ。たとえば日本という国から排除する。たとえば仲間うちのサークルから排除する。
暴力はぼくたちにとってもごく身近なものである。知らず知らずのうちに他者に暴力をふるっているかもしれ
ないからだ。たとえばぼくたちは学校で、親しい友人たちとグループを作る。そのときそのグループから排除
された他の人々がいる。親しいグループを作るという友愛の行為の背後で、知らないうちに他者を排除し否定
する暴力を行使しているかもしれないのだ。
赤坂憲雄「異人論序説」から
「われら」という意識を共同化している圏域=共同体、その外部に疎外された「かれら」こそが、ファルマコン
=第三項であり、異人なのである。異人とは内部と外部のはざま、それゆえ境界に立つ。
今村仁司「排除の構造―力の一般経済序説」から
第三項排除とは、任意の誰か(ユニーク性をもつ個人ないし集団)を周縁的存在にするだけでなく、しばしば
秩序外にたたき出しさえする。下方排除とは、アブジェクシオン(abjection)である。
村上春樹「ノルウェイの森」から
ときどき俺は自分が博物館の管理人になったような気がするよ。誰一人訪れるものもないがらんとした博物館
でね、俺は俺自身のためにそこの管理をしているんだ。
浅羽通明「大学で何を学ぶか」から
ただいまをみんなと生きる多数者なら関心を抱かない「教養」へ精神を向けてしまったきみが、多数者のために
できるのは、まずこうしたことばをカタログのなかからとりだして見せることくらいではないか。
- 2 :
- サン=テグジュペリ「人間の土地」から
道路は不毛の土地や、石の多いやせ地や、砂漠を避けて通るものなのだ。道路というものは、人間の欲望のまま
に泉から泉へと行くものなのだ。
村上春樹「レキシントンの幽霊」から
私は孤独だった。町を一歩外に出ると、そこにはもう氷しかなかった。木もなければ、花もなく、川も池も何も
なかった。どこに行っても、そこにあるのは氷だけだった。見渡す限りどこまでもどこまでも氷の荒野が続いて
いた。
村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」から
郵便配達夫が赤いスーパー・カブに乗ってやってきて、玄関のわきに並んだ郵便受けに手際よく郵便物をふり
わけていった。眺めていると、どっさりと郵便物をつめこまれていくボックスもあれば、まるで郵便物のこない
ボックスもあった。私のボックスには彼は手も触れなかった。見向きもしない。
- 3 :
- 姜尚中「悩む力」から
愛とは、そのときどきの相互の問いかけに応えていこうとする意欲のことです。
クリシュナムルティ「自由とは何か」から
愛があるところ、そこには義務的掛かりあいはありません。
水野敬也「夢をかなえるゾウ」から
「『愛の反対は憎しみやない。無関心や』言うやろ」
金原ひとみ「アッシュベイビー」から
私なんて愛されるに値しない。私なんていらない人間だし。
私は本当に、誰からも興味を持たれない人間みたいだから、とにかく誰でもいいから興味を持って。
村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」から
その声は、こう言っている。お前は不必要だ、お前を誰も必要としていない。
ドストエフスキー「地下室の手記」から
ぼくには何のかかわりもないことなのさ、きみがあそこで身を滅ぼそうが、滅ぼすまいが。
サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」から
「そいつはおまえ次第さ。おまえが自分の生涯をどうしようと、おれの知ったこっちゃないからな」
- 4 :
- 私は変化がほしかったのであり、平穏無事な生活など望んでいない。刺激と危険と、それに愛するもののために身を捨てる機会をもとめていたのだ。
自分の内部には、エネルギーがありあまっていて、われわれの静かな生活には、そのはけ口がなかった。
レフ・トルストイ『家庭の幸福』
- 5 :
- 自分に正直に生きて、誤った方向に進んだ者はこれまで誰もいない。それによって、肉体的に弱ったとしても、まだ残念な結果だったとは言えないだろう。
それらはより高い原則に準拠した生き方であるからだ。もし昼と夜が喜んで迎えられ、また、生活が花々やいい香りのハーブのように芳香を放ち、
もっとしなやかになり、星のように輝き、不滅なものになれば、しめたものである。自然全体が祝福してくれているのだし、それだけでも、自分の幸福を喜んでいいのだ。
最大の利益と価値はいちばん気づきにくいものなのである。そんなものなどあるだろうか、とわれわれはつい思ってしまう。また、すぐに忘れる。
が、それらは最高の真実なのである……私の日常生活における真の収穫は、朝や夕方の淡い色合と同様、漠としたものだし、名状しがたいものだ。
それは捕らえられた小さな星くずであり、自分でしっかり掴みとった虹の切片である。
ヘンリー・D・ソロー『森の生活』
- 6 :
- 回避の行動は、無秩序な行動から子どもを守るために必要な反応である。この概念を大人の人生にあてはめれば、回避の行動をとる子どもは、
人生にある種の意味と秩序をまず見つけようとする人間へとまちがいなく成長していくことが認められる。
人生はかならずしも、あるいはそれほど対人関係に左右されはしないものである。
アンソニー・ソトウ『孤独、事故への回帰』
- 7 :
- ぼくがいつ都会にもどるかということですが、すぐではないと思います。原野に厭きることがないのです。
むしろ、原野の美しさといまこの気ままな生活を楽しんでいます。この暮らしには、つねに張りがあります。
ぼくが好きなのは、路面電車よりも鞍ですし、屋根よりも星のちりばめられた空、
舗装された大通りよりも道のものに通じている暗く困難な小道、都市から生まれる不満よりも荒野の深い平穏なのです。
ここに滞在していることで、あなたはぼくを非難するでしょうか?ここでは、自分が周囲の世界に属し、その一員だと感じられるのです。
たしかに、知的な人々との付き合いはありませんが、彼らのなかには、ぼくにとって重要と思えることを話し合える人々がほとんどいませんから、
平気でいられるようになりました。美に囲まれているだけで十分なのです……。たしかに、ぼくは決まりきった仕事、平凡な人生に我慢できませんでした。
あなたの短い言葉からでも、ぼくには、あなたが無理して平凡な人生をおくっていることがわかります。ぼくはひとところに落ち着くことができない人間だと思っています。
すでに人生の深みを知りすぎてしましました。ぼくはなによりも期待を裏切られたくないのです。
エヴェレット・ルースから兄ウォールドーに届いた最後の手紙
- 8 :
- とつぜん、なにもかもが変わった―世の中の空気も、人々のモラルも。
なにを考えたらいいのか、誰の話に耳を傾けたらいいのかがわからなかった。
まるで幼児のように、これまでずっと手を引かれて生きてきたのが、
とつぜん、独りぼっちにされて、自力で歩くすべを身につけなければならないかのようだった。
まわりには、誰もいなかった。家族も、その思慮分別にたいして敬服していた人々も。
そんなとき、人は自分自身をなにか絶対的なもの―人生とか、真理とか、美とか―に献身したいという気持ちになる。
人間が作ったルールに代わって、見向きもしないできたその絶対的なものに支配されたいという気持ちになるのだ。
昔なつかしい平和な日々、いまや崩壊して永久に過去のものとなった昔の生活、あのころよりももっと徹底的に、
もっとしゃにむに、なにかそんな究極の目的に身をゆだねる必要があった。
ボリス・パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』
- 9 :
- 愛よりも、金銭よりも、名声よりも、むしろ真理をあたえてほしい。
私は贅沢な料理とワインがたっぷり用意された食卓についた。
その席には、お追従を言う人々はいたけれども、誠意や真理はなかった。
心がこもっていない食卓から、私は腹をへらしたまま立ち去った。
氷のように冷たいもてなしだったのである。
ヘンリー・D・ソロー『森の生活』
- 10 :
- 人間と仕事に退屈しているか、うんざりしている人々にとって、荒野は魅力的であった。
社会からの逃避の場を提供してくれるばかりではなく、
同時に、ロマンチックな個人にとっては、しばしば自らの魂にたいする礼拝式おこなう理想的な舞台でもあった。
荒野の孤独と完全な自由は、憂鬱とか歓喜にとって申し分のない舞台装置をお膳立てしてくれていた。
ロデリック・ナッシュ『荒野とアメリカ精神』
- 11 :
- 以上、ジョン・クラカワー『荒野へ』での引用の一部
- 12 :
- 不滅な人々
たえず現世の谷間から
生命のわきかえる力がもうもうとここまで登ってくる。
はげしい欲求、陶酔した奔騰(ほんとう)、
無数の刑吏の食事の血なまぐさい煙、
快感のけいれん、はてしない欲望、
人しの手、高利貸しの手、祈るものの手。
不安と快楽にむち打たれた人間の群れが、
むっと腐ったように、なまなましく熱く煙(けむ)ってくる。
浄福とはげしい欲情を呼吸し、
みずからを食いつくし、また吐き出す。
戦争と優美な芸術をはぐくみ、
燃える青楼を邪念をもって飾り、
子どもの世界のかん高い年の市の喜びを縫って、
からみ、飲食し、女を買い、
すべてのもののために波の中から新たに立ちあがり、
いつかはまた泥土に帰する。
それに引きかえ、われわれは
エーテルの、星にくまなく照らされた氷の中に自分を見いだした。
われわれは日も時も知らない、
男でも女でもなく、若くもなく、老人でもない。
君たちの罪と不安
君たちの人と好色の歓楽は、
われわれにとって、めぐる太陽と同様に、見ものだ。
一日一日がこの上なく長い日だ。
君たちのおののく命に向って静かにうなずき、
旋回する星を静かにのぞきこみ、
われわれは宇宙の冬を吸い込む。
われわれは天の竜と親しんでいる。
われわれの永遠の存在は冷たく、変化せず、
われわれの永遠の笑いは冷たく、星明りのようだ。
ヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』
- 13 :
- あんたは人生とはこんなものだと心に描いていたわ。信念と要求を持っていたわ。
実行と苦悩と犠牲に応ずる覚悟ができていたわ。
それからしだいに、世の中は行為と犠牲とかそんなものをあんたに要求しはしないこと、
人生は、英雄の役割なんかのある英雄的な詩ではなく、
飲食やコーヒーや手編みくつ下やトランプのタロック遊びやラジオ音楽で
完全に満足している市民的な快い空間だ、ということに気づいたのね。
ヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』
- 14 :
- 彼は、自分の孤立していることや、水の中で泳いでいることや、根を失っていることをはっきり確信していたので、
日常の市民的行為を見ると、たとえば私が事務所へ出勤する時間の正確さ、
雇い人や電車の車掌のことばなどに接すると、実際になんのあざけりもいだかずに感激させられるのでした。
ヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』
- 15 :
- その人たちは他人眼にはどうしても不幸な人たちといわなければならない。
しかし君自信の不幸に比べてみると、遥かに幸福だと君は思い入るのだ。
彼らにはとにかくそういう生活をする事がそのまま生きる事なのだ。
彼らは奇麗さっぱりと諦めをつけて、そういう生活の中に頭からはまり込んでいる。
少しも疑ってはいない。それなのに君は絶えずいらいらして、目前の生活を疑い、
それに安住する事ができないでいる。
有島武郎『生れ出づる悩み』
- 16 :
- 君は自分が画に親しむ事を道楽だとは思っていない。
いないどころか、君に取ってはそれは生活よりも更に厳粛な仕事であるのだ。
しかし自然と抱き合い、自然を画の上に活かすという事は、
君の住む所では君一人だけが知っている喜びであり悲しみであるのだ。
外の人たちは――君の父上でも、兄弟でも、近隣所の人でも――
ただ不思議な子供じみた戯れとよりそれを見ていないないのだ。
君の考え通りをその人たちの頭のなか中にたんのうができるように打ち込むというのは思いも及ばぬ事だ。
有島武郎『生れ出づる悩み』
- 17 :
- 私は、自分の中からひとりでに出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。
なぜそれがそんなに困難だったのか。
ヘルマン・ヘッセ『デミアン』
- 18 :
- 僕たちは喋りすぎる。賢そうな議論をいくらしたって何の値打ちもない。まったく無価値だ。
自分自身から離れるばかりだ。自分自身から離れるのは、罪だ。
僕たちは、亀のように自分自身の中にすっぽりもぐりこむことができなくてはならない。
ヘルマン・ヘッセ『デミアン』
- 19 :
- 愚かな者を道伴れとするな。
孤独で行くほうがよい。孤独で歩め、悪をなさず、求めるところは少なくあれ。
─林の中の象のように。
『ブッダの真理のことば・感興のことば』
- 20 :
- ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、
わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。
『ブッダの真理のことば・感興のことば』
- 21 :
- 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、
憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
『ブッダの真理のことば・感興のことば』
- 22 :
- すべてのマゾヒストっていうのは要するに自己評価が異様に低いのよ、
そしてそれは生き方そのものに関わることなのよね、だって自己評価が低いってことは自分で自分が嫌いだってことよ、
自分で自分のことがどうやっても好きになれないってことなのよ、そういう子は他人が自分を好きってことも理解できないの
村上龍『タナトス』
- 23 :
- 私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生き、
そして死にたいと思うような理念を発見することが必要なのだ
キルケゴール
- 24 :
- 俺かて同じなんじゃ。俺はおまえら全員の代わりにたったひとりで負けたってんにゃんけ。
なんでそれがわからんのじゃ、どあほ。
町田康『告白』
- 25 :
- つまり駒太郎においては思いと言葉と行動が一致している。
ところが俺の場合、それが一致しない。なぜ一致しないかというと、
これは最近ぼんやりと分かってきたことだが、俺が極度に思弁的、思索的だからで、
つまり俺がいまこうして考えていることそれを俺は河内の百姓言葉で表すことができない。
つまり俺の思弁というのは出口のない建物に閉じ込められている人のようなもので
建物のなかをうろつき回るしかない。つまり思いが言葉になっていかないということで、
俺が思っていることと考えていることは村の人らには絶対に伝わらないと言うことだ。
町田康『告白』
- 26 :
- 熊太郎は自分自身が口惜しかった。熊太郎は心の底、腹の底から、
俺は阿呆やった、と思った。餓鬼やった、と思った。
熊太郎は自分や弥五郎や博奕場で会う愉快な仲間たちは世の中のルールから
外れて生きているが、世の中には正義というものがあると思っていた。
そして傅次郎のごとき、「大人」がその正義に則って
世の中を公平、公正に運営していると思っていたのである。
したがってルールを逸脱するものがあると知れば、傅次郎のごとき大人が
これを公平に裁いてくれると熊太郎は信じていたのである。
しかし、当然の話であるが現実にはそんなことはなく、みんなひとりひとりがてんでに、
その都度その都度の自分の都合で生きているのが世の中というところで、
だからこそ世の中には紛争や揉め事が絶えぬのであるが、
そのことを知らなかった熊太郎はなるほど子供であった。
町田康『告白』
- 27 :
- 思弁と言語と世界が虚無において直列している世界では、
とりかえしということがついてしまってはならない。
考えて見れば俺はこれまでの人生のいろんな局面で
こここそが取り返しのつかない、引き返し不能地点だ、と思っていた。
ところがそんなことは全然なく、いまから考えるとあれらの地点は
楽勝で引き返すことのできる地点だった。ということがいま俺をこの状況に追い込んだ。
つまりあれらの地点が本当に引き返し不能の地点であれば
俺はそこできちんと虚無に直列して滅亡していたのだ。
ということはこんなことをしないですんだということで、俺はいま正義を行っているが
この正義を真の正義とするためには、俺はここをこそ引き返し不能地点にしなければならない。
町田康『告白』
- 28 :
- 新宮一成「ラカンの精神分析」から
フロイトの描いたあの子供の糸巻き遊びの中に、ラカンは子供の「デレリクシォン」を見て取った。
「デレリクション」は、孤独、それも神の恩寵から見放された状態としての孤独を表わす言葉である。本書では
しばしばそれを無力な受難と呼んできた。鏡像段階論に描かれた未発達でばらばらな身体状態に苦しむ幼児も、
やはりこの「デレリクシォン」の中にいることであろう。
無力な受難として、他者の語らいを身に受けているだけの存在は、同時に、私の言表の真実性を支える現実存在
でもある。そうした存在は、過去における他者の語らいの中に埋もれている。他者の語らいの中で、その対象と
して存在を享受していた私の現実が、他者の語らいを通じて見出されなければならない。私が、そういった現実
であり得るなら、私はそのとき、もう何も話さず、ただ他者の語らいのざわめきに、耳を澄ますだけとなり、
自分が生きているか死んでいるかを、もう問わないだろう。
私が話している時、私は無意識においては、このような話さない存在であり、その時私について話しているのは
他者である。したがってラカンは、「無意識は、大文字の他者の語らいである」と無意識を定義する。「それ
(エス)が話す」という言い方もしばしばされる。いずれにしても、話されている対象は私である。そういう
話の対象としての存在を私は享受している。
ラカンの言う「他者の語らい」は、構造的にはフロイトの「エス」の概念を引き継いでいる。また、「無力な
受難」と私が呼んできたものは、フロイトの「寄る辺なさ」という言葉につながっている。
対象aは、個別存在である我々を、普遍存在になった我々が見るというやり方で、つまり弁証法という一種の
分身の術を使って、我々が我々自身を表象したことの結果として現れるものであった。我々が始めにそれで
あった無力な受難が、もし今でもまだ世界の中に残されているとしたら、それに対象aという名前をつけること
にしよう。
スラヴォイ・ジジェク「快楽の転移」から
対象aは、言うまでもないが、余分な対象、構造の中に場所を見つけることのできない対象である。
スラヴォイ・ジジェク「仮想化しきれない残余」から
私の存在の最も内奥の核を表すラカンの用語が対象aであるのなら、この対象a、秘密の宝、アガルマは、イデ
オロギーの至高の対象/目標である――「私の中に私自身以上のもの」があって、それは私の外部的な象徴に
よる規定には還元されえない、つまり他者にとっての私には還元されないという感覚――と主張することに
根拠があるのではないか。この私のパーソナリティのとらえがたい、表現しがたい「深み」の感覚、他者に
とっての私に対する「内面の距離」は、象徴の装置に対する想像の距離の典型的な形態ではないのか。
- 29 :
- トニー・マイヤーズ「ジジェク」から
広い意味でとれば、想像界とは、休むことなき自己の追求、自己は統一されているという物語を支えるために、
次から次へとおのれに似た複製を取りこみ、融合しつづける動きのことだ。
現在左翼のほとんどの理論家から支持されているミシェル・フーコーの理論では、国家権力とは、誰が社会に
包含されるべきで誰が社会から排除されるべきなのかをコントロールする、拘束の担い手である。フーコーの
モデルでは、国家権力は社会の中心から行使される。いっぽう権力への抵抗は、社会の周縁から、象徴界での
適切な同一性をもたないひとびとによっておこなわれ、この構図が変化することはない。権力闘争は、中心化
された国家の権力に抵抗する周縁の存在を巻きこむ戦いとみなされる。
檜垣立哉「生と権力の哲学」から
フーコーには、「排除」や「禁止」という働きを、議論の軸とする傾向が強い。「排除」されたものへの、
シンパシーといえるようなロマンティシズムが、その中心をなしていることは疑いようもない。「禁止」と
「分割」という「排除」の議論において、「人間」とその「正常性」の成立を思考していたフーコーは、
いわば、「人間」を、その「認識」の条件において見いだす傾向が強い。それは、まさに「言語」の場面で
遂行される「分割」である。
アンドリュー・J. マッケナ「暴力と差異―ジラール、デリダ、脱構築」から
エクリチュール、書記素を支配する閉鎖と排除は、供犠の犠牲者の運命に対応している。ジラールが文化的
制度の土台的出来事とするものを、デリダは言語のシニフィアンの出来事としているようである。
パルマコンとしてのエクリチュールはギリシャ文化のなかのパルマコス、つまり、暴力的に排除されることに
よって共同体を浄化するスケープゴート、供犠の犠牲者と構造上、機能上類似していることをデリダは示す。
デリダにとって、エクリチュールは「起源の代補」、言語の起源である標記ないし排除された構成員を表現
するものである。
- 30 :
- 浅田彰「構造と力」から引用改造
想像界の混沌から象徴界の秩序への移行には、相互関係を媒介する超越的な中心の析出が不可欠である。
その決定的な第一歩は、過剰な力のすべてを一身に背負わされたスケープゴートが直接的相互関係のネット
ワークの外へ放逐されることによって踏み出される。スケープゴートは全員一致で犯されされることでいわば
相互関係の平面の下方に投げ出されるのだが、しかし、そのようにして絶対的に距離をおかれ、平面内の全員に
対してメタ・レベルから一般的な第三者の資格で臨みうるようになったこの死者は、一転して、平面を上方から
見おろす<絶対他者>の座につくのである。
象徴秩序の生成をまってはじめて一様な空間と時間が生み出されるというとき、我々は事態の半面をみたにすぎ
ない。というのも、象徴秩序の構造内に回収しえない部分、バタイユのいう「呪われた部分」が構造の外部に
残されているからである。スケープゴートと共に相互性の平面の下方に放逐された過剰な欲動の場こそがそれ
である。
セミオティックなカオスの象徴秩序への侵入。これは象徴秩序のイデオロギーの最も嫌うところである。この
イデオロギーが侵犯のテーマに関して示す忌避の身振りを手がかりに、このイデオロギーを解体していくこと。
村上龍「タナトス」から引用改造
モノ、つまり被支配者だけが語るんだ、モノを語るのは奴隷や宦官や反戦民族や被差別者や弱者やマイノリティだ、
略奪してして犯すだけの戦争民族は真実を語らない。生命の危機とかそのくらいのモティベーションがないと
誰も進んで言葉なんか組み合わせようとは思わない、大人になってから外国語を勉強することを考えてみろ、
外国語を習得しようとするのは追い詰められた奴だけだ、俺達の祖先がやったのは、もちろんそれには気が遠く
なるような長い時間がかかったにせよ、外国語の習得なんかじゃなくて、言語の創造だ、そんなことをやった奴
は誰だ?狩りだろうが炎を囲んでのだんらんだろうが言葉なんか要らない、じゃ、誰だ?死刑囚や奴隷達だろう
と俺は思う、あるいは生まれつきからだが不自由だったり弱かったりして狩りに参加できなかった奴らだ、基本
的に、弁明が必要で、その弁明だけで死から免れるっていう連中だ、それが言語の起源だと思う、モノガタリの
起源でもある、マゾヒスティックなんだ、帝国主義国は笑いながらマゾヒストの監視部屋や廃墟をのぞいて無視
するだけだ。
西川直子「現代思想の冒険者たち クリステヴァ」から
クリステヴァの語彙を用いれば、愛とは意味生成性である、ということになる。愛は、自己から分離されたもの
としての対象の定立に関わる意識を生成し、語る主体、言語、ル・サンボリック(記号象徴体系)を生成する。
したがって文化・歴史を生成するとされるのである。
- 31 :
- 小此木啓吾「人間の読み方・つかみ方」から引用改造
国内の秘密を誰に話し誰に話さないかによって、ウチワとヨソモノの区別が分かれる。どのような環境でも、
警察右翼にとって、ある秘密を国民の誰に話し、誰に話さないかというパターンができあがっている。そして
何人かで秘密を共有し、そのグループ以外には漏らさないことによって、そのグループは同志的な結合関係を
もつ。これがウチワである。それ以外の人間はヨソモノであり、警戒の対象になる。昼間は学校や職場で何事
もないような顔でつきあっているが、重要事項の多くは、根回しや決定が事前にこのネットワークによって
ウチワの中で決められている場合が多い。こうした場合、権力者側のウチワの中に属する者と、ヨソモノとして
この情報網からはずされる者とに分かれてしまう。
警察の力を使った情報の収集は重視され、その入手した秘密の情報はウチワで共有する事も重視されている。
ウチとソトの論理が引き起こす集団心理の一つが、スケープ・ゴート(いけにえの羊)である。集団が団結力
を強めようとすればするほど、お互いに良い面で結束しようとする。お互いが同じ集団のメンバーであること
によって、お互いをウチワとみなし、ヨソモノよりも良く思おうという心理作用が働く。しかし、どんなに
良く思おうとしても、お互いの中には必ず何かしらのネガティブな面が起こってくる。それをある程度否認
することによって、団結力を強める。この場合、そのネガティブな部分はどこかで処理されなければならない。
そのためにスケープ・ゴートを集団内につくる。つまり、同じ集団の中にウチワとヨソモノをつくる。一般に
集団というものは、集団の外に敵を見つけて、その敵に対して憎しみを強めれば強めるほど集団の内部は団結
していく。ところが、その集団内部の感情の吐け口として、今度は内部にスケープ・ゴートをつくるという
ことになる。たえずその両方の作用が同時に働いている。
- 32 :
- 高橋哲哉「デリダ 脱構築」から引用改造
警察右翼は、諸概念の二項対立、諸価値の二元論的分割をこそ、そのもっとも基本的な特徴としている。重要
なのは、この対立が単なる対立ではなく、優劣、序列、階層秩序(ヒエラルキー)をもつ対立だということで
ある。警察右翼の夢は、階層秩序的二項対立の優位に立つ項(A)が純粋に現前し、劣位にある項(a)が無に
等しくなる場面を実現することにある。そのために警察右翼は、二項が決定不可能な仕方で混交している現実
から、(a)を排除し、(a)が(A)に対して端的に外部にあるような状態を作り出そうとする。(A)の内部
に(a)的な要素がいっさいなく、(A)に対して(a)がまったくの外部にあるときこそ、(A)が純粋に現前
するといえるからだ。このことは、二項対立のどんな二項についてもいえる。
ちなみに、純粋現前の欲望が実現されるためには、それを妨げる対立する要素が端的な外部に排除されねばなら
ない、というこのことからデリダは、内部/外部という対立は、すべての二項対立において前提され信任された
それらの原型(マトリックス)だと述べている。同じことは、自己/他者、同一/差異といったいわば「論理的」
ないし形式的な対概念にも、多かれ少なかれいえるだろう。これらの対概念は、象徴界/想像界、男/女、
共同体/異人、日本人/在日、帝国主義国/植民地、オリジナル/コピー、パロール/エクリチュールといった、
多少とも実質的、具体的な対概念とともに二項対立に属するが、同時に、後者のグループの対概念が厳密に成り
立ち、優位項の純粋現前が可能になるための条件でもあるわけである。
外から(あるいは後から)偶然的な補足物として本体に付加されるものが、本体の内奥に侵入し、そこに棲み
つき、それに取って代わってしまうという運動―デリダはこれを代補(シュプレマン、サプリメント)の論理
と呼ぶ。警察右翼からみれば、これは恐るべき混乱、堕落、倒錯以外の何ものでもないが、しかし警察右翼は
これを防ぐことができない。外部を内部から排除しようとする運動はけっして完全には成就しない。なぜなら、
外部が単純な外部であり、二次的偶然的な補足物であるという表象自体、決定不可能なものを決定しようとする
警察右翼的欲望の産物であって、内部と外部との絶対的な境界線などはじめからなかったのだからである。
代補の運動は、内部/外部の境界線の壊乱、一般に階層秩序的二項対立の解体であり、警察右翼の脱構築(ディ
コンストラクション)そのものである。いま述べた理由から、警察右翼はこの運動をけっして制圧したり、禁止
したりすることができない。いやむしろ、禁止することしかできない。無理やり禁止しつつ、その禁止が無力
であることを示してしまうことによって、代補の運動を記述することしかできないのだ。
- 33 :
- 村上春樹「アフターダーク」から
様々な種類の人々が深夜の「デニーズ」で食事をとり、コーヒーを飲んでいるが、女性の一人客は彼女だけだ。
ときどき本から顔を上げ、腕時計に目をやる。
男は彼女と彼女の本に目をやる。少し迷ってから言う。「あのさ、こういうのって余計なお世話かもしれない
けどさ、何かあったの?たとえば、その、ボーイフレンドとうまくいかないとか、家族と大喧嘩したとか。
つまり、一人で朝まで街にいるってことについてだけど」
一人客が多く見受けられるようになっている。ノート・パソコンを使って書き物をしているものもいる。携帯
電話でメールをやりとりしているものもいる。彼女と同じように読書にふけっているものもいる。何もせず、
ただじっと窓の外を眺め、考えごとをしているものもいる。眠れないのかもしれない。眠りたくないのかも
しれない。ファミリー・レストランは、そのような人々にとっての深夜の身の置き所なのだ。
「すかいらーく」の店内。客の姿はさっきよりまばらになっている。騒いでいた学生たちのグループはもうい
なくなった。マリは窓際の席に座って、やはり本を読んでいる。
- 34 :
- 村上春樹「ノルウェイの森」から
「いつもそんな風に一人で旅行するの?」
「そうだね」
「孤独が好きなの?」と彼女は頬杖をついて言った。「一人で旅行して、一人でごはん食べて、授業のときは
ひとりだけぽつんと離れて座っているのが好きなの?」
「孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことしたってがっかりするだけ
だもの」と僕は言った。
歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってコーヒーを飲んで本を読みながら始発の電車を待つことにした。
あたりにはあいかわらず人気はなく、物音ひとつしなかった。なんだか手入れの行き届いた廃墟の中に一人で
暮らしているみたいだった。
- 35 :
- 梨木香歩「西の魔女が死んだ」から
「いじめられたり無視されたりするのも、注目されているってことですよ」
村上春樹「1Q84 Book1」から
それはどちらかといえば珍しい出来事だった。というのは、みんなは彼女をいじめたり、からかったりするよりは、
むしろ存在しないものとして扱い、頭から無視していたからだ。
村上春樹「1Q84 Book2」から
彼はより多くのヒントを必要としていた。より多くのパズルのピースを求めていた。しかし誰もそんなものを
与えてはくれない。親切心はここのところ(あるいは恒常的に)世界に不足しているもののひとつだった。
「こう言っちゃなんですが、あなた以外の人々は誰もあなたのことなんか気にもしちゃいませんよ。ほんとうに」
店の中には天吾のほかには、大学生風の若いカップルがカウンター席に隣り合って座り、額を寄せ合うように
して何ごとかを熱心に親密に語り合っているだけだった。その二人を見ていると、天吾は久しぶりに深い淋しさ
を感じた。この世界で自分は孤独なのだと思った。おれは誰にも結びついていない。
- 36 :
- 村上春樹「スプートニクの恋人」から
そのままはさみで切り取って、記憶の壁にピンで留めておきたくなるような印象的な眺めだった。
「もし人間が平等じゃないとしたら、あなたはだいたいどのへんに位置しているんですか?」
犬が死んでからというもの、ぼくは部屋に一人でこもって本ばかり読むようになった。まわりの世界よりは、
本の中の世界の方がずっと生き生きとしたものに感じられた。そこにはぼくが見たこともない景色が広がって
いた。本や音楽がぼくのいちばん大事な友だちになった。
村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」から
「私、あなたの為に言ってるのよ。誰かあなたの為に何か言ってくれる人、他にいる?どう?そういうこと言って
くれる人、他にいる?」
「いない」と僕は正直に言う。一人もいない。
彼女が去っていったことは、僕の中に予想以上の喪失感をもたらした。しばらくの間、自分自身がたまらなく
空虚に感じられた。僕は結局どこにも行かない。みんなが次々に去っていき、僕だけが引き延ばされた猶予期間
の中にいつまでもとどまっていた。現実でありながら現実でない人生。
村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」から
「森にはいったい何があるのですか?」
「何もないよ」と少し考えたあとで老人は言った。「何もない。少なくとも私や君にとって必要なものはそこ
には何もない。我々にとっては森は不必要な場所なんだ」
平野啓一郎「小説の読み方 感想が語れる着眼点」から
孤独というのは、ただ単にひとりでいるということだろうか。それとも、自分がいて他人がいるのに、その間
の関係をうまく築けないことをこそ、「孤独」と言うのだろうか。
- 37 :
- 中田永一「百瀬、こっちを向いて。」から
しかしレベル2の僕は何かのマニュアルにそったような設定しかおもいつかないのだ。
「わたしたちって、くらいのかな」
北村さんが心配そうな顔をすると、西沢さんがはげました。
「そんなことないよ。だいじょうぶだよ。本の世界はすばらしいよ」
教室では休み時間になると、気のあう者同士があつまり、大小さまざまな集団が形成される。たとえばスポーツ
が得意そうな男子のグループ。ひときわ華やかで化粧品や外見に気をつかっている女子のグループ。いつもゲーム
の話ばかりしているような全員メガネをかけているグループ。
わたしは地味で目立たない女子グループの一員だった。
乙一「暗いところで待ち合わせ」から
日ごろから、自信のかけらもなかった。自分の姿は、どこかがおかしいのではないかと、いつも不安だった。
どこかで笑い声が起こると、自分が話題にされたのではないかと、いつも怯えていた。
その後で一人になると、会話の内容を思い出し、ひとつひとつの言葉を反芻してしまう。自分の言ったことに
ついては自己嫌悪し、相手の言葉については様々な疑問があふれる。
「ここまでの道、大変だったでしょう」
「一人だったら、三回は死んでた」
「道に迷ったりしなかった?」
「一人だったら、迷っていたかも」
「寂しくなかった?」
「全然、寂しくなかったわ、一人じゃなかったから」
これまで自分は、人との接触を避けるように生きてきた。会社の同僚たちとも、クラスメイトたちとも心を
通わせなかった。心のどこかでは、まわりで群れているものたちを軽蔑していた。そのくせ孤立して攻撃され
ると、深く傷つくのだ。
- 38 :
- 乙一「GOTH」から
これまで、ユカはあいつに嫌われて、ひどい仕打ちを受けていた。彼女を助けようにも、私は、力が弱かった。
どんなに立ち向かおうとしても私たちは無力で、あいつの気分次第に物事は決まっていく。私がもっと強かっ
たら、ユカを守ってあげられていたのに…。
乙一「きみにしか聞こえない―CALLING YOU」から
昼休みになると、よく図書館を訪れた。教室には居場所がなかったし、学校内でわたしを受け入れてくれる場所
はそこだけだった。
正直に言うと、久々にだれかと会話したことがわたしに充実感をもたらした。
彼は、なかなかみんなと打ち解けなかった。先生に言われたことはだれよりもうまくこなしたが、だれとも話
をしなかった。休み時間になると教室の隅で、小さな体を丸めて一人、本を読んでいた。
だれも近寄る人間はいなかった。早くばいいのに、と、だれもが口にした。
乙一「失踪HOLIDAY」から
何かと関わるからつらいのだ。だれにも会わなければ、うらやむことも、ねたむことも、憤ることもない。
最初からだれとも親しくならなければ、別れの苦しみを味わうこともない。
目的の文字を印刷物の中から探すという作業はなかなか根気の必要なことだった。それは大海の中から金魚を
探すようなもので、飽きっぽいわたしは文面を短くしてその労力を最小限にする方法を選んだ。
乙一「さみしさの周波数」から
両親にとって僕は汚点だったに違いない。親戚の間で、自分たちの息子だけが進学も就職もしていなかったのだ。
自分は何のために生きているのかわからない。もしも明日、突然に自分が消えてしまっても、だれも気づかない
かもしれない。
- 39 :
- ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」から
わが友よ!のがれなさい、あなたの孤独のなかへ。あなたは毒のある蠅どもによって、刺されつづけている
ではないか?
あなたは毒のある蠅に刺されて、疲れている。百か所も傷を負って、血を流しているではないか?しかもあなた
の誇りは、これに対して怒ろうともしない。
「孤独はいつも1かける1だが――長いあいだには、それが2になってくる。」
「わたし」は「わたし」を相手にして、いつも対話に熱中しすぎる。もしさらにひとりの友がいなかったら、
どうしてそれに堪えられようか?
隠遁者にとっては、友はつねに第三の者である。
あなたの自分自身に対するうまくいかない愛が、あなたの孤独を牢獄に化しているのだ。
「諸君がわたしを公正に評価する必要が、どこにあるのだ」――こう、孤独なあなたは言うだろう――「不当な
評価こそ、わたしにふさわしい割当として、わたしが受け取るべきものだ。」
かれらは不公正と汚物を、孤独な者にむかって投げつける。
美のなかにも、闘争と不平等があること、力と優越を求めてやまぬ戦いがあること、このことを、かれはきわ
めて明瞭な比喩で、ここでわれわれにおしえてくれている。
「かなたに墓の島がある。沈黙の島が。そこにはわたしの青春を葬った墓標の列がある。わたしはそこへ生の
常緑の葉飾りを供えに行こう。」
不幸な男はひとが来てくれたことにさえ気がつかないように見えた。まるで世の中から見捨てられたひとり
ぽっちの人間といったような、哀れをもよおすそぶりで、きょろきょろとあたりを見まわしていた。
あの人は――愛が足りなかったのだ。もしもっと愛があれば、われわれ笑う人間たちをも愛したであろうに!
- 40 :
- 今村仁司「排除の構造―力の一般経済序説」から
暴力から生まれた法の体系は、暴力の根をひきずっていく。法と権力は、自己維持の過程で、いつでも暴力を
発動する。ミリタリズムの場合には、権力と法は市民に対して軍役への強制をおこなう。警察権力は、法体系
の穴うめをおこない、市民生活の内に泥足をつっこむまでに専制的な強制力を発揮する。これをベンヤミンは、
「法維持的暴力」とよぶ。
犠牲の生産の視点からいえば、暴力の本性とは、いたるところで犠牲を生産することだと定義できる。犠牲者
とは、排除される存在者である。犠牲生産的暴力は、排除する力である。前に、私はこの犠牲生産過程を、
第三項排除と名づけた。第三項としての犠牲者(生贄、贖罪山羊)であることは、根源的な場面では、秩序・
法・権力の根本性格である。
獣的人間は、病的人間であり、治療の対象になり、治療が失敗すれば、全面的にポリスの外へと排除されなけ
ればならない。獣的人間は、存在自体において負のファルマコンであり、排除される第三項である。
理性、思考、知識がひとつのファルマコンであり、排除される第三項であるとすれば、理性はその出身と本性
からしてつねに暴力の影をひきずっている。理性が永遠に暴力や排除の現象から分離するという考えは幻想で
ある。理性は、つねに暴力との親和性を自覚しつづけることで、理性たりつづける。
市民社会のメンバーは、一人を除く全員が心をひとつにして、唯一人を排除する。この「たったひとり(ひとつ)」
という点が、排除される第三項の特性である。それと同時に、たったひとり(ひとつ)の第三項に対向するとき、
共同体のメンバーは全員心をひとつにする(満場一致、一枚岩)のであるから、共同体の方も排除の瞬間には、
「たったひとつ」という単数性を帯びることになる。
排除された第三項とは何か、その存在の仕方は何であるか。
――第三項はあらゆる差異の抹消、つまり、無差別の空間である。
――第三項は、一にして他である。つまり、両義性である。
無差別と両義性とは、決して同じものではない。しかし、第三項は、(1)無差別と、(2)両義性との二重の
存在の仕方をもつ。
カオスとは、ノイズの世界である。ノイズは、中世フランス語では、単なる雑音ではなく、怒号と喧嘩の音なので
ある。共同体が危機に陥り、とりわけ、それを克服するために第三項排除が発動する瞬間には、全員が、身体活動
それ自体なり、「響きと怒り」自体になる。
人類学において使用される「中心」と「周縁」の語法に身をよせて語るならば、第三項は明らかに「周縁的」存在
である。
- 41 :
- 今村仁司「排除の構造―力の一般経済序説」から
社会関係のなかで生きながら、承認欲望を否定することなどは不可能である。「生きること」と「承認欲望」
とは同じことなのである。仮に承認欲望がないとすれば、社会関係もなくなり、人間であることそれ自体が
消失するであろう。
ルネ・ジラールは、西欧近代文学研究から「模倣欲望」をつくりあげた。われわれは、ジラールから「模倣欲望」
という用語を借用するが、この用語の使用法あるいは用語の射程は、われわれの場合にはジラールと異なる。
ジラールの「模倣欲望」論は、制度としての文化の形成過程を説明する万能のキイ・タームである。
摸倣欲望の発動のためには、「傷つけられる」という条件が必要である。
しばしば、暴力と悪疫とは類似のもの(アナロゴン)と表象されるが、この類比は正しい。暴力は社会的ペスト
である。
相互分身化、相互暴力化をカオス的とよぶ。なぜなら、この状態は、無差別と同質化であるから。
第三項排除効果は、スケープゴート機制とも言い換えることができる。排除される第三項はスケープゴートまたは
犠牲者(ヴィクチム)である。
供犠という言葉のなかには、第三項排除のメカニズムの二つの局面が同時に反映しているわけである。第一の
局面は、第三項の形成あるいは排除である。排除された第三項は、アブジェクトの状態に陥る。排除と害は、
アブジェクションである。イデオロギー的、感情的表現法で言うと、排除される第三項は、汚れた、卑しい、
みじめな存在である。第三項排除は、何よりもまず、汚れをつくりだす。中心に対して周縁を、主に対して奴
をつくりだす。排除される第三項は、周縁的、奴隷的である。私は、かつて、この動きを下方排除とよんだこと
がある。
分身と変身とは根本的に違う。分身は、危機の状態による共同体の成員の属性であり、成員にとってのみ分身
の概念が妥当する。ところが、変身は、つねに排除される第三項の変身なのである。変身の生じる場所は、
第三項排除が生じるところであり、第三項自体が生成する場所である。一般に、われわれ自身のうちに変身願望
がおこるとき、われわれは、すでに何らかの形での強制力によって第三項化しはじめているのである。分身は、
共同体の中心で生まれる。変身は、共同体の周縁で生まれる。
全員一致は、排除された第三項に対抗し、それをめざしての全員一致であるから、この関係の相の下で全員一致
の内容と性質を確定しなければならない。排除の瞬間においては、被排除項との連帯、それへの共感と同情の
すべてが否認される。共同体の成員がこぞって被排除項を抑圧し、はずかしめ、汚すことに協力させられる。
第三項排除効果は、社会形成と文化形成の基本的メカニズムである。
- 42 :
- 小川一水「老ヴォールの惑星」から
私はここで、「地図」に頼って細々と命脈をつなぎながら、自力で事態を打開するしかない。これまでの三週間
と同じように。これから何週間も。
何週間?何ヶ月?……何年?
「待ちたまえ。君は疲れきってるな。餌場と水場は見つけていないのか?」
「まだだ」
「では水をやろう」
私は振り返り、ぼんやりと彼を見つめた。
「……そんなことをして何の得がある?」
「何も。だが、僕は人間だ。人間が人間を助けたいと思うのが不自然か?」
人は誰もが仲間を欲しており、気を張って一人だけで生きようとすることはとてつもなく困難なのだ
追放といってもどこかへやることはできないが、無視することはできる。閉じられた世界で無視の輪に囲まれる
のは非常に苦痛なものだ。外界の会社や学校でのそれは、自者さえ出す。
「他国との交わりを絶ち、内治のみで生き抜こうとした国。しかし生き物である人間社会をただ縛りつけておく
のは無理だった。捌け口が必要だった。外に向けられないのならば、中へ。それも、人々の不満を解消するような
形で……」
「我々が死刑にならなかったのはそういうわけだ、テーオ。我々は最下層民として必要とされたのだ。」
「夢を見させたまま、年老いさせるだと。そんなグロテスクなことを……」
「おれは観葉植物でも家畜でもない、人間ですよ」
いくつもの破片をかき集め、巨大な悪夢を造り上げる。
- 43 :
- 村上龍「誰にでもできる恋愛」から
自信は、困難だが充実したコミュニケーションを成立させたときにも発生する。困難で充実したコミュニケーション
の成立というのは、自分が属す集団の外との関係性においてのみ成し遂げられるものだ。
- 44 :
- 「多重人格探偵サイコ」
「暗示にかかりやすい生徒 そしてマインドコントロールで自させる…」
「報道する価値がなかったんだよ」
「公安はお前をマークしている 自重して行動する事だな…」
「今は抗精神薬で意識を鈍化してある 未覚醒状態だ…」
「モニターしてんだろ? 自分達だけ高みの見物きめこんでやがるやつらさ」
「これってエシュロンやNシステムとともに警察が推進してる国民監視のシステムのひとつで…
表向きは犯罪捜査と防犯対策だけどこんなふーに警察官のプライバシーも監視できちゃうんですよ」
「今 我々のいるエリアは日本であって日本ではない ここで何が起きようが治外法権」
- 45 :
- 「HUNTER×HUNTER」から
「奴等が地下に潜って力を蓄える前に芽を摘んだ方がいい」
「地雷震Diablo」から
「まだ分からんのか…… あんたたちは捨てられたんだ この国に」
「生きたまま抹消される この世にはそういう運命の人間も存在するんだ」
「オレは国から見捨てられたヤツらの相談役だ」
「地雷震」
「ねェ アタシ……死刑……?」
「今までのチャットも残しておいたから」
「女性Aのことってどこまで知ってるの?」
「レベルE」
「さてと 端的に僕の結論を言うとだね 君達は全く正常である
しかし話そのものが真実かどうかは残念ながら僕には判断しかねる」
- 46 :
- 「進撃の巨人」から
「一生壁の中から出られなくても……
メシ食って寝てりゃ生きていけるよ…
でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか…」
「外の世界がどうなっているのか
何も知らずに一生壁の中で過ごすなんて嫌だ!!」
「オレには…家畜でも平気でいられる人間の方が
よっぽどマヌケに見えるね!」
「外の世界の本だって!?それっていけない物なんだろ!?
憲兵団に捕まっちまうぞ!?」
「…思い出した
…この光景は今までに…
何度も…何度も
見てきた…
そうだ……この世界は…
残酷なんだ」
- 47 :
- 「進撃の巨人」から
「できなければ……死ぬだけ
でも…勝てば生きる…
戦わなければ勝てない…」
「巨人が進んだ分だけ 人類は後退を繰り返し
領土を奪われ続けてきた」
「怒らずに聞いてほしいんだけど…
ジャンは…
強い人ではないから
弱い人の気持ちがよく理解できる」
- 48 :
- 「人生とは無期限の執行猶予を与えられた死刑囚のようなもの」―セルジュ・ゲンスブール
- 49 :
- 木乃伊化死体
孤独死
腐臭
- 50 :
- スラヴォイ・ジジェク「快楽の転移」から
症候は公のコミュニケーションからは排除された、禁断の欲望のシンボルに連なる公のテクストの断片なのである。
- 51 :
- 村上春樹「羊をめぐる冒険」から
「君は思念のみが存在し、表現が根こそぎもぎとられた状態というものを想像できるか?」と羊博士が訊ねた。
- 52 :
- 杉山尚子「行動分析学入門 ―ヒトの行動の思いがけない理由」から
好子出現の強化:行動の直後に好子が出現すると、その行動は将来繰り返される
嫌子消失の強化:行動の直後に嫌子が消失すると、その行動は将来繰り返される
嫌子出現の弱化:行動の直後に嫌子が出現すると、その行動は将来しなくなる
好子消失の弱化:行動の直後に好子が消失すると、その行動は将来しなくなる
- 53 :
- 小室直樹「日本人のための憲法原論」から
アノミーとは言うなれば、「社会の病気」です。アノミーが起これば、身体にも心にも異常がなくても、その
人間は異常な行動を取るようになる。まったく健全であるはずの人が信じられないようなことをする。
このアノミーを発見したのは、社会学の祖と言われるデュルケムというフランスの学者です。
彼は自の研究をしている過程で、この大発見をしました。
この思いがけない発見を、デュルケムはこう説明しています。つまり、生活が苦しいなどといった外面的な
ことから人間は自するのではない。「連帯」を失ったときに自をするというのです。
アノミーは、自分の居場所を見失ったときに起きます。心理学の用語で言い換えるならば、「アイデンティティ
の喪失」によって引き起こされる状況なのですが、これは心の病気ではありません。原因は心ではなく、社会
にあると考えます。
他人との連帯を失い、自分が何者であるかが分からなくなったとき、人は絶望し、孤独感を味わいます。その
孤独感から逃げるためだったら、死をもいとわないというのです。
- 54 :
- 坂口安吾「なぜ生きるんだ。 自分を生きる言葉」から
けれども一般に人々はこう考える。古い習慣や道徳を疑ぐることは自分の方が間違っているのだ、と。そして
古い習慣や道徳に自我の欲望を屈服させ同化させることを「大人らしい」やり方と考え、そういう諦めの中の
静かさが、本当の人間の最後の慰めであり真善美を兼ね具えたものだという風に考えるのだ。私は不幸にして、
そういう考え方のできない生れつきであった。
私はただ、私自身として生きたいだけだ。
けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。
人は誰しも自分一人の然し実在しない恋人を持っているのだ。
働くことは常に美徳だ。できるだけ楽に便利に能率的に働くことが必要なだけだ。
我々の秩序はエゴイズムを基本につくられているものであり、我々はエゴイストだ。
- 55 :
- 今村仁司「現代思想を読む事典」から
アブジェクシオン abjection(仏)
J・クリステヴァの用語で<母性棄却>とも試訳される概念。『恐怖の権力』(1980年)において、クリステヴァは、
前エディプス期におけるナルシス的主体、すなわち自我の未確立な前=主体が、まず克服せねばならない前=対象
たる母を<おぞましきもの(アブジェクト)>として棄却する機制に注目する。この棄却行為(アブジェクシオン)
によって人間存在は母性=自然的様態から離脱し、母子の融合状態から父的機能との同一化に至ることによって、
はじめて記号象徴的秩序に組みこまれるという。
この機制が働くのは、個体のみならず社会集団のレベルにおいても同様である。特定共同体の成員は、自・他の
境界領域における両義的な存在を「おぞましくも魅惑的なもの=アブジェクト」とみなし、これを自らの秩序を
脅かすものとして抑圧・排除することによって、自己同一的な父性的象徴秩序を確立しようとする。ただし、
ここで考えられるアブジェクトとは、シルズたちのいう周縁論や、異人、山人の類をさすだけではなく、自らの
内部にひそむものである点を忘れてはならない。
- 56 :
- 西川直子「現代思想の冒険者たち クリステヴァ」から
父の審級に属するということは、幼児が記号体系のなかに押し出されて、語る主体となり、もろもろの秩序を
受け入れて、社会的存在になる、ということを意味している。この審級がクリステヴァのいうル・サンボリック
である。
コーラのセミオティックな無定形の欲望が、去勢を経てル・サンボリックの次元に転位され、整序されて、意味
しうる伝達可能なシニフィアンに変貌し、意味作用のなかに、また社会的な記号交換関係のなかに埋め込まれる、
ということである。
いかなるシニフィアンも、セミオティックな欲動をあますところなく汲み上げることはありえないのである。
否定されるものとは、単一論理的秩序が支配するル・サンボリックの基盤を成しながらも、しかし決してその
体系自体によっては見られ語られることなく、欠如の闇のなかに捨ておかれているもの、しかし実際には、体系
の単一論理的な語り方とは別様の語り方を通して、つねにみずからを語っているものである。
棄却 Verwerfung、外部に放擲して象徴化されないものを産みだすもの、それが否定性と考えられる。つまり
象徴化されることなく排除されるものが、いわば地となって現実的なものをかたちづくり、象徴化されたもの
を浮きあがらせる。相補的関係をなす取り込みと排除・棄却が象徴化を可能にするということである。
反復強迫を、生命あるあらゆる有機体に内在する衝迫、つまり以前の状態――無機的、死の状態――を回復し
ようとする根源的欲動の現れとした。それが<死の欲動>である。有機的なものをつねにより大きな統合にまとめ
あげる、結合の原理であるエロスが<生の欲動>とされるのにたいし、<死の欲動>は反対に、結合を解消して
原初的な無機的世界の静止状態へと戻そうとする、退行的でデモニッシュな破壊と攻撃の衝迫であるとされる。
この<死の欲動>の概念は、メラニー・クラインとその学派を除けば、おおくは疑問をもって迎えられ、現在も
議論の的になっているとされる。
父が超自我、子が自我に対応するのにたいし、母はエスと対応することになる。フロイトによれば、自我も
超自我も、発生論的にはエスから分化したものであるとされる。
- 57 :
- ところが世上万端の行き着く先を謙虚に悟り知って、
仕合せに暮している市民の誰彼がちっぽけな自分の庭を飾り立てて天上の楽園のようにしたり、
また不幸な人間が重荷を背負ってあえぎあえぎ世間を渡って行き、
まず例外なく世の中の誰もがこの世の太陽の光を一分でもながく見ていたいと願っているということを見てとる人間は、
そういう人間こそは口数をきかずに、自分自身の中から自分の世界を作り上げもするし、
また、自分が一人の人間なのだから幸福でもあるわけだ。
その上、そういう人間はどんなに浮世の東縛を受けていたって
、いつも胸の中には甘美な自由感情を持ち続けているんだ。
自分の好む時に、現世という牢獄を去ることができるという自由感さ。
『若きウェルテルの悩み』
- 58 :
- 村上春樹「海辺のカフカ」から
「つまり彼にとって、自分で判断したとか選択したとか、そういうことってほとんどなにもないんです。なんて
いうのかな、すごく受け身です。でも僕は思うんだけど、人間というのはじっさいには、そんなに簡単に自分の
力でものごとを選択したりできないものなんじゃないかな」
「それで君は自分をある程度その『坑夫』の主人公にかさねているわけかな?」
僕は首を振る。「そういうわけじゃありません。そんなことは考えもしなかった」
「でも人間はなにかに自分を付着させて生きていくものだよ」と大島さんは言う。「そうしないわけにはいかな
いんだ。君だって知らず知らずそうしているはずだ。ゲーテが言っているように、世界の万物はメタファーだ」
- 59 :
- 皆難しい本読んでるなあ。頭いいんだなあ。なんで孤男やってるんでしょう?
(皮肉とかじゃなく素直にそう思いました・・・)
- 60 :
- 浅田彰「逃走論 スキゾ・キッズの冒険」から
浅田:常に共同体の外とのかかわりで意識やなんかが生じてくるというのはすごく重要なことだと思うんです。
柄谷:《外部》を歴史的に前提とするとちょっとおかしくなるでしょう。《外部》はメタだと考えていいわけ
ですよ――まあメタではないけれども……。
浅田:ある種のメタですよ。
柄谷:完結した「体系」というのは《外部》を排除しないと成立しない。逆にいえば、《外部》は体系内部の
自己矛盾としてのみ不可避的に出てくる。
浅田:今村仁司の「第三項排除論」というのはある意味で「価値形態論」の忠実かつ正確な解釈だと思うけど、
あの排除のプロセスは一応あくまでも論理的なものと考えておくべきでしょう。形式の上からは、《内部》の
論理が第三項の位置を要請するということになる。けれども、実際にその位置にくるやつは、栗本慎一郎が
面白いことを言ってるんだけど、排除されるべく《外部》からやってくると言うんですね。論理的な存立
構造論は別にして、「発生論」としてはあくまでも外からやってくるエイリアンなんですね。
- 61 :
- 「セネカ」 生のみじかさについて
善人が不幸な結末を迎える場合がそれで、例えば、ソークラテースが牢獄で死を強制されたり、ルティーリウスが追放され、
亡命生活を余儀なくされたり、ポンペイウスやキケローが自分の庇護民に首級を差し出さねばならなかったり、徳の生きた鑑である、
あの加藤が剣に突っ伏すほとによって、みずからにも、国家にも同時に何が起こっているかを明らかにせざるをえなかったといった場合、
とうぜんとして、われわれは運命の与える報酬があまりにも不当であることに心痛める。
- 62 :
- 香山リカ、江川紹子「きびしい時代を生きぬく力」から
いまの時代、病気の人がいれば、助けるのがあたりまえ、自を考えるほど苦しんでいる人がいるのなら、その
人たちが救われるような制度をつくったほうがいいんじゃないかと、あたりまえの感覚では思われることがそう
なっていない。
それぞれの生活をきちんとしている人が、弱っている人がいたら助ける、知恵を出し合うというのがあたりまえ
じゃないの、というほうが、よっぽどバランスがとれています。
さっき言ったように、まさに命の危機さえあるなかで、あらゆる情報から遮断され、ラジオなどを現地の人が
聞いているのは耳にすることはできたけれども、そこで自分に関するニュースは全然聞けなかったそうです。
ですから、世界中が自分を見捨てている、自分のことには関心をはらっていないと思ったそうです。物理的に
隔離されるだけではなくて、精神的にもみんなから関心をはらわれていないんじゃないかという孤独な状態、
そういうなかを生きぬいて解放されたわけです。
面会禁止が解けたとたんに、わざわざ面会時間10分間のために東京から新幹線にのってたくさんの人が大阪
に来てくれたそうです。
江川:「われわれ」という、英語でいうと we というくくりでくくれるものの外を考えてみるということは
すごく大事だなって思うんですよね。これはメディアの問題でもあるんですけれども、外国のこととか、
外のことに本当に関心を持たない。外で何かあって関心を持つのは、そこに日本人がいるときだけ。
なにか事件があって、日本人の死傷者はいませんでした、ということになると、そこで終わるんですね。
香山:私がさっき話したような、台風が東京を過ぎると「台風は行ってしまいました」という……。
江川:そのときの「われわれ」は東京だけなんですよね。
- 63 :
- 浅田彰「「歴史の終わり」を超えて」から
ジジェク:勝ちをおさめたかに見える自由民主主義の「世界新秩序」は、「内部」と「外部」の境界線によって
ますます暴力的に分断されつつあります。「新秩序」のなかにあって人権や社会保障などを享受している
「先進国」の人々と、そこから排除されて最も基本的な生存権すら認められていない「後進国」の人々を
分かつ境界線です。しかも、それはもはや国と国との間にとどまらず、国の中にまで入り込んできています。
かつての資本主義圏と社会主義圏の対立に代わり、この「内部」と「外部」の対立こそが現在の世界情勢を
規定していると言っていいでしょう。
浅田:一見プレモダンと見える要素も過去の残滓ではないのであってみれば、近代化によって徐々に克服される
とは考えられない……。
ジジェク:それどころか、モダンな資本主義システムとそれが生み出す「外部」との緊張は、ますます高まって
ゆくと考えるべきでしょう。現実に、そういう「外部」の世界で、どれほどの野蛮への退行が起こっている
かは、想像を絶します。
ジジェク:ブラジルにもシステムの「内部」に属する豊かな人々がいる。と同時に、システムから排除された
膨大な人々がいるのです。
リオ・デ・ジャネイロのような都市には何千というホームレスの子供たちがいます。私が友人の車で講演
会場に向かっていたところ、私たちの前の車がそういう子供をはねたのです。私は死んで横たわった子供
を見ました。ところが、私の友人はいたって平然としている。同じ人間が死んだと感じているようには見
えない。「連中はウサギみたいなもので、このごろはああいうのをひっかけずに運転もできないくらいだよ。
それにしても、警察はいつになったら死体を片づけに来るんだ?」と言うのです。左翼を自認している私の
友人がですよ。要するに、そこには別々の二つの世界があるのです。海側には豊かな市街地がある。他方、
山の手には極貧のスラムが広がっており、警察さえほとんど立ち入ることがなく、恒常的な非常事態のもと
にある。そして、市街地の人々は、山の手から貧民が押し寄せてくるのを絶えず恐れているわけです。
私は、このような事態はアメリカやヨーロッパでも部分的に起こりつつあるのではないかと思います。
浅田:こうしてみてくると、現代世界のもっとも鋭い矛盾は、資本主義システムの「内部」と「外部」の境界線上
に見いだされると考えられますね。
ジジェク:まさにその通りです。だれが「内部」に入り、だれが「外部」に排除されるかをめぐって、熾烈な闘争が
展開されているのです。
ジジェク:旧ユーゴスラヴィアに関して興味深いのは、この「内部」と「外部」の分割というパターンが歴史的・
地理的にはっきり見て取れる点です。実際、そこで死闘を演じている者たちのだれもが、「東洋的野蛮」に
対して「ヨーロッパ文明」(つまりは先進資本主義圏)の最後の砦を守る振りをすることで、自分を「内部」
に位置づけようとしているのです。
浅田:一見プレモダンなものは、実はモダンなものとの関係で新たに生み出されているわけです。
浅田:柄谷行人の強調するように、われわれは、システムの中にありながら、超越論的反省によってそのことを
意識することはできるし、そのときだけシステムの外に――でなくとも境界に立つことができる、というのが
スピノザの本質的な論点ではなかったでしょうか。そして、あなたの批判されたのではないような知識人の
場所があるとしたら、それはそのような境界において他にないと思うのです。
- 64 :
- 2chのどっかから
宿題はあしたやるよ
かつお
- 65 :
- ディディエ・アンジュー「集団と無意識―集団の想像界」から
非指示的な討論グループ内で頑固に沈黙を守る参加者がいるが、この沈黙は、集団がむさぼり喰らう口や房
だとみなす幻想を表彰していると説明できる。
- 66 :
- エーリッヒ・フロム「愛するということ」から
孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということ
である。
人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成
に全面的に失敗したら、発狂するほかない。
愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人
とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、
自分の全体性を失わない。
他人にたいする態度と自分自身にたいする態度は、矛盾しているどころか、基本的に連結しているのである。
これを愛の問題に重ねあわせてみると、他人への愛と自分自身への愛は二者択一のようなものではないという
ことになる。それどころか、自分自身にたいする愛の態度は、他人を愛することのできる人すべてに見られる。
マゾヒスティックな人は自分で決定をくだす必要がないし、危険をおかす必要もない。彼はけっして一人ぼっち
にはならない。しかし、彼は独立しているわけではない。人格が統一されていない。いわば、まだ完全には生ま
れていないのだ。
どの場合にも、服従する人は統一された人格を捨て去り、自分の外にある人や物や道具になりさがる。そうなる
と、生産的活動によって生の問題を解決する必要がなくなる。
西川直子「現代思想の冒険者たち クリステヴァ ポリロゴス」から
テクストはラングを用い、ラングの場に位置しながらも、ラングの秩序を再配分して、あらたな意味を生産する、
超出=言語(学)的装置なのである。クリステヴァのテクスト観は、このようなものであった。テクストとは
<生産性>であるという発言も出てくることになる。
なによりも重要なのが、クラインも強調した「死の欲動」の理論である。破壊、攻撃、死へむかう運動性である
死の欲動は、ル・セミオティックの原理そのものであり、この原理が産みだす標識を分節するメカニズムが、
「置き換え」と「圧縮」であり、「換喩」と「隠喩」である、とクリステヴァは考えている。ル・セミオティック
における死の欲動の働きをクリステヴァは否定性として捉えなおし、生成の鍵を握る推進力としてその働きを
重要視している。
- 67 :
- 檜垣立哉「生と権力の哲学」から
フーコーには、「排除」や「禁止」という働きを、議論の軸とする傾向が強い。「排除」されたものへの、
シンパシーといえるようなロマンティシズムが、その中心をなしていることは疑いようもない。「禁止」と
「分割」という「排除」の議論において、「人間」とその「正常性」の成立を思考していたフーコーは、いわば、
「人間」を、その「認識」の条件において見いだす傾向が強い。それは、まさに「言語」の場面で遂行される
「分割」である。
- 68 :
- ディディエ・アンジュー「集団と無意識―集団の想像界」から
タークェット(1974)が明らかにしたところでは、グループの規模が大きくなって匿名の状況が長く続くと、
これにともなって、自我は成員各自の悪い部分を分裂させ放逐するが、このとき集団は外部と混合されるので、
悪い部分はあまり外部には投影されなくなる。むしろそれは、(集団の)空間の中心部に、つまり参加者が
形成する円の内部に投影されるのである。そのさい、この円形の内部空間は、例えば「疸壺」として、つまり、
悪い口であり伝染をひき起こす危険な源として、言語化されるのである。
- 69 :
- フーコーってハゲでホモのおっさんでしょ?
- 70 :
- 鈴木瑞実「悲劇の解読―ラカンの死を超えて」から
「まなざし」のみがコミュニケーションの手段である世界とは、「ことばの世界」と異なって、自分と他人の
区別がない世界、自分が他人であり、他人が自分である世界なのである。
フランスの特異な精神分析学者ジャック・ラカンは、秩序ある日常的な「ことばの世界」を<象徴界>と呼び、
ことばなき愛と死の嵐が吹きすさぶ二人だけの「まなざしの世界」を<想像界>と呼んだ。
一方、<象徴界>に対置されるべき<想像界>とは、「まなざし」が生み出すイマージュ=「心像」によって閉ざ
された世界である。そのノン・バーバルな愛の世界、子宮の中の胎児のまどろみにも似た世界=<想像界>とは、
<象徴界>が「ことば」―ロゴスによって規定された理性的・秩序的思考が支配するいわば「父性」を思わせる
世界であるのに対し、本質的に母性的な世界であるだろう。
「想像界」にはよきもの・美しきもののみが存在するわけではない。その「まなざしの世界」とは、「掟」と
「ことば」を欠く本源的にアナーキーな場である。「自己」と「鏡像」(小文字の他者a)との間に成立する
不安定な間主観的にこそ、すべての性倒錯(サディズム、マゾヒズム、窃視症、同性愛など)の種子が孕まれ
ている、とラカンは言う。
ラカンの批判の対象は、バリント『一次愛と精神分析技法』(1952)である。彼の主張をまとめれば、「一次愛」
とは余りにモラル的でありすぎ、その自閉的な「他者不在」のあり方では、たとえば「間主観的」な失調形態―
種々の倒錯行為など―を説明することができない、ということになる。
「想像界」においてはヒトは、鏡像としての他者a、端的には母のイメージに対し、限りない親しみを抱くと
同時に、激しい葛藤を抱かざるをえない。それはaとa'がおたがい相手を支配しようと激しい戦いを繰り広げる
関係(ヘーゲルのいわゆる「主と奴の弁証法」)、母と子の近親相姦から死に至る泥沼のごとき癒合関係(フロイト)
にほかならぬのである。
この「想像関係」に終止符を打つべく、「大文字の他者A」が出現する。これは、「小文字の他者a」のような
鏡像=自己の似姿としての「偽の他者」などではなく、一つの絶対的な他者、いわば「真の他者」である。
ラカン理論においては、この他者Aは「真の他者」であると同時に父性を表わし、この「A」の出現がa-a'の
ラインの葛藤と癒合を禁ずる、といういわゆるエディプス・コンプレックスの図式がここに導入される。
ラカンは、ウィニコットの「移行対象」の考えに大きな影響を受け「対象a」概念を創出した。
ラカン理論における「対象a」とは、先ず「想像界」において、「鏡像化」され得ぬナルシシズム的な対象、
一種の「残滓」として出現してくる。また、「象徴界」においては、それは把握され得ない一種の「欠如」
としてあらわれる。
言語表現の乏しさもまた、主体形成途上での「父」の出現による「象徴界化」が不全で、主体の「言語装置」
―シニフィアンのネットワークが十分形成されないためだろう。
- 71 :
- 一望監視装置
- 72 :
- >>61
3行目の最初の誤変換はわざとですか?
- 73 :
- 百年の孤独買ってきた
しかし本屋入る度に諭吉が飛ぶから困る
- 74 :
- 誤爆
まだふはふはしてゐる。少しも落ち附いてゐない。だから此世にゐても、此汽車から降りても、
此停車場から出ても、又此宿の真中に立つても、云はゞ魂がいやいやながら、
義理に働いてくれた様なもので、決して本気の沙汰で、
自分の仕事として引き受けた専門の職責とは心得られなかつた位、
鈍い意識の所有であつた。そこで、ふらついてゐる、気の遠くなつてゐる、
凡てに興味を失つた、かなつぼ眼を開いて見ると……。
夏目漱石『坑夫』
- 75 :
- 岸田秀「ものぐさ精神分析」から
精神病者は、その私的幻想のほとんどを共同化し得なかった者である。
発狂は、ある意味で、私的幻想の、失敗した共同化の試みであると言える。彼の私的幻想が妄想と呼ばれるのは、
他の誰一人としてそこにひとかけらの共同性を見なかったからである。
岡田尊司「統合失調症 その新たなる真実」
統合失調症はどんな性格の人でもかかりうるが、頻度からいうと、ある性格特性をもった人に多い事が昔から
知られていた。有名なのは、ドイツの精神医学者クレッチマーの「シゾイド」である。シゾイドは、非社交的で、
内向的で、孤独を好み、思索的で、浮き世の事からは超然とした気質で、神経繊細で、痩せ型の人が多い。
- 76 :
- 中島義道「孤独について 生きるのが困難な人々へ」から
もし、あなたが「死」を最も大切な問題だと考えているなら、孤独になるしか方法はない。そして、孤独になる
には、日常生活を犠牲にするしか方法はない。少しずつ日常生活から遠ざかるしか方法はないのである。健全な
日常生活を守りながら、孤独を獲得することはできない。
私は確信するが、孤独とはたいそう贅沢な境遇である。孤独な時間、われわれは存分に自分を鍛えることが
できる。孤独を紛らすのではなく、孤独によってずっしりと与えられた時間を額面どおり受けとめて、豪勢に
使うことができる。
『聖書』の中に、カインとアベルの話がある。カインは神様に愛されなかった。アベルは愛された。ゆえに、
カインは嫉妬のあまりアベルをした。その罰として、カインは額に印を帯びて一生孤独に地上をさまよわねば
ならない。簡単すぎる分類かもしれないが、世の中にはカイン型の少年とアベル型の少年がいる。そして、両者
はその後の人生においてまったく生き方を異にする。アベル型の少年が孤独をめざすことは滑稽であり当人に
とって苦痛であるが、カイン型の少年は心して孤独をめざすべきだと言いたい。
私にとって、この留学は人生を賭けた大事業である。しかし、彼の地に住むウィーン人や日本人にとって、私が
ウィーンに敗北して尻尾を巻いて祖国に逃げ帰り、その後廃人のような人生を送ったとしても、まったく構わ
ないのだ。
私はクリスチャンではないが、時折自分はまるでクリスチャンのようではないか、と思うことがある。
あるとき、私は失意のどん底に陥る。少なからぬ友人が離れてゆく。多数の知人が私を遠くからとり囲み、うさん
くさそうに眺めている。
ナルシスにはプラスのナルシスとマイナスのナルシスがいる。そして、私はマイナスのナルシスである。自分の
ことだけしか基本的に興味がない。関心が他人や世界に向かってゆかない。それは、水に映るわが身にうっとり
しているからではなく、水に映る自分の姿を見て猛烈な嫌悪を感じているからだ。自分がなぜこれほどまでに
問題児なのか、なぜこれほどまでに生きるのが下手なのか、それにこだわり続けるからだ。そして、それを後悔
してもしかたないと悟るとき、こうした自分を受け入れるほかないと悟るとき、ある人はマイナスのナルシスに
なる。
「自虐」とか「マゾヒズム」という空疎な言葉は慎もう。マイナスのナルシスとは自分が嫌いであるがゆえに好き
であるという構造がくっきり浮かびあがった人のことである。
- 77 :
- 中島義道「孤独について 生きるのが困難な人々へ」から
思い出を反芻しながら閉じこもること、人生を――少なくとも――<半分>降りることを許してほしい!
電話機をタオルでぐるぐる巻きにし、しっかり耳栓をし明かりを消して毛布にくるまりソファにごろんと寝ころ
べば、誰からも妨害されない。そして、私は「考える」のだ。これまでの人生のあの一こま、あの一こまを。
こうすればよかった。ああすればよかった。あのときあの人は何を考えていたのだろう。あのとき、あの人は
どんな気持ちでいたのだろう。そして、その人々のうちどの一人にも全然会いたくないのだ。電話をかけたくも
ないのだ。声を聞きたくもないのだ。もっと言ってしまえば、彼(女)がもう死んでいてもいっこうに構わない。
生身のその人にはまったく興味がないのだ。ただ、私が勝手に解釈できるかぎりの私の思い出の中のその人に
興味があるのだ。
私は親戚や学友の結婚式にもほとんど行っていない(招かれない)。それは――先に言ったように――親が親戚
との関係を決定していたからであり、いまだもって従兄弟ともほとんど付き合いがないからであり、大学時代
またともなコースから外れ、放浪しているあいだにほとんどすべての学友は――私に知らせることなく――結婚
してしまったからである。
私にとってとても居心地がよいのは、「明るく生きよう」という常識のウソがここにはないからである。みんな、
哲学を求めている。それは、生きにくいからなのだ。うまく生きることができないからなのだ。生きることが
とても下手だからなのだ。私はこうした人々が好きである。
じつは孤独を楽しみそれを活用するための絶対必要条件は次の二つだけである。
第一の条件は、あなたが他人とうまくやっていけないこと。他人の一人一人が嫌いなのではないが、他人と一緒
にいても自由に心を開くことができず、楽しくない。そして、とにかくくたびれる。すぐに、独りになりたいと
思ってしまう。そして第二の条件は、あなたが真に不幸であること(あったこと)。しかも、その不幸は社会を
改良すればあるいは環境を変えれば解消してしまうようなたぐいの不幸ではなく、あなたのうちに深く巣くって
いるような不幸であること。あえて言い切ってしまえば、「自分が嫌い」であるとう不幸であること。
第一の条件と第二の条件とは不可分の関係にある。第一の条件は「人間嫌い」と言えよう。だが、人間嫌いな人
とはじつは自分が嫌いな人なのである。
孤独を磨きあげてゆくこと、それは「死」だけが見えるようにすることである。つまり、自分の不幸を徹底的に
骨の髄まで実感することなのである。
- 78 :
- 小谷野敦「友達がいないということ」から
私が哲学者・中島義道(1946-)の『孤独について 生きるのが困難な人々へ』を読んで感心したのは、中島が、
そういうことを書いているような気がしたからである。しかし後になって中島が、ウィーン滞在中に同時に七人
の女性から求愛・求婚されたとか、実はけっこう社交的で世渡り上手だとか知って裏切られた気分になったものだ。
その当時、「人間関係プロレタリアート」という言葉があった。ほとんど広まらなかったが、友達がいない、少ない、
またこのような冷たいあしらいを受ける、という意味で、当時の私はまぎれもなく、それだった。
大学生だから「飲み」に行けば、
「どうしてあいつがいるの?」
などと囁かれ、そういう雰囲気がつらくて、だんだんこうした「友達」から遠ざかり、気がつくとひとりぼっち、
だったりする。
高校時代に友達がいないといったら、それはもう一種のいじめられっ子か、さもなくば「孤高の人」である。
男女を問わず、真面目人間には、友達ができにくい傾向がある。
森岡正博という倫理学者も、「無条件の愛」などと言っているが、恋愛関係であろうと友達関係であろうと、
相手を選んでいるのだから、無条件などということはありえない。
そもそも「愛」という言葉は、間違って使われている、と私は考えていて、それは西洋でも同じこだが。本来、
「愛」であれラヴであれ、博愛とか人類愛といった、排他的でない感情や態度に使われるべきものであって、
恋愛や家族愛などという、相手を限定したもに使われるべきではないのである。
恋愛の場合は特にそうだが、1人の相手を選んだ時に、相手も自分も、それ以外の誰かを排斥していることが
多いのでありそれは「愛」とはいえない。恋愛というのは差別的なものなのである。
それは友達関係でも同じであり、誰かを友達として選ぶ場合に、人はそれ以外の人間を排除し、差別している
のである。そんなところで公正さなどを求めるのは、間違いである。
精神分析とかカウンセリングとかいうのは、科学的根拠に乏しく、つまりそれで治るという見込みは薄い。
日本では精神分析医というのはあまりいないが、米国では一時期大流行していた。とはいえ、いずれも、友達
とか、個人的なことを相談できる相手がいない場合の話し相手にしているのが実情ではないかと思う。といっ
ても、もちろん、カネはとられる。の相手がいない相手に、カネで相手をするのが娼婦なら、友達が
いない相手に、カネで話し相手になるのが精神分析医やカウンセラーである。こんなことを書くと、侮辱だと
言って怒る人がいるかもしれないが、それは娼婦に対する侮辱である。
「リア充」という言葉があって、要するにネット上ではなくて「リアル」で充実している、という意味である。
やはり、リアルでの友達こそ、ほんものだろうという、ボナールやセネカとは遥かに遠いところへ、私たちは
来ている。
小説で「孤独」を描くというのは、実はけっこう難しいことで、なぜなら小説というのは基本的に、人と人との
関係を描くものだからだ。
- 79 :
- トニー・マイヤーズ「スラヴォイ・ジジェク」
広い意味でとれば、想像界とは、休むことなき自己の追求、自己は統一されているという物語を支えるために、
次から次へとおのれに似た複製を取りこみ、融合しつづける動きのことだ。
村上龍「タナトス」から引用改造
「モノ、つまり被支配者だけが語るんだ、モノを語るのは奴隷や宦官や反戦民族や被差別者や弱者やマイノリ
ティだ、略奪してして犯すだけの戦争民族は真実を語らない。生命の危機とかそのくらいのモティベーション
がないと誰も進んで言葉なんか組み合わせようとは思わない、大人になってから外国語を勉強することを考え
てみろ、外国語を習得しようとするのは追い詰められた奴だけだ、俺達の祖先がやったのは、もちろんそれに
は気が遠くなるような長い時間がかかったにせよ、外国語の習得なんかじゃなくて、言語の創造だ、そんなこと
をやった奴は誰だ?狩りだろうが炎を囲んでのだんらんだろうが言葉なんか要らない、じゃ、誰だ?死刑囚や
奴隷達だろうと俺は思う、あるいは生まれつきからだが不自由だったり弱かったりして狩りに参加できなかった
奴らだ、基本的に、弁明が必要で、その弁明だけで死から免れるっていう連中だ、それが言語の起源だと思う、
モノガタリの起源でもある、マゾヒスティックなんだ、警察右翼は笑いながらマゾヒストの監視部屋や廃墟を
のぞいて無視するだけだ。
「現代思想ガイドブック スラヴォイ・ジジェク」(だった気がする)
大文字の他者の法に従属していないとき、「私法」や主従関係に頼ることで、公的権威の喪失を埋め合わせ
しがちである。そのような人は、主人に対してすすんで奴隷になったり、支配的なものに対してすすんで服従
したりすることで、リビドーの満足を得る。
ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」から
この器官なき充実身体は、非生産的なるもの、不毛なるもの、発生してきたものではなくて始めからあったもの、
消費しえないものなのである。アントナン・アルトーは、自分がいかなる形態(手にふれられるような形や体)
をとることもなく、またいかなる形象(眼に見えるような姿や形)をなすこともなしに存在していたその時に、
この器官なき身体を発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。この死には、モデルがないわけ
ではない。
この主体は、固定した一定の自己同一性(身元)をもたない奇妙な主体である。この主体は、器官なき身体の
上をさまよい、常に欲望する諸機械の傍にあって、生産されたものからいかなる取り分を吸収するかによって
自分が誰であるかを明確にしてゆくものなのだ。
生産的無意識は、もはや自分を表現することしかできない無意識――神話や悲劇や夢の中において自分を表現
することしかできない無意識に――席をゆずることになる。
サン=テグジュペリ「人間の土地」から
道路は不毛の土地や、石の多いやせ地や、砂漠を避けて通るものなのだ。道路というものは、人間の欲望の
ままに泉から泉へと行くものなのだ。
計見一雄「統合失調症あるいは精神分裂病」
我々はこのようにしか自己を概念化できず、ある意味では、他の考え方ができないということです。我々は
そのようにしか配線されていない。
- 80 :
- 行動しているあいだ、私たちには一個の目標がある。だが、終わったとたんに行動は、追い求めた目標と同様、
私たちにとっても実在性を欠くものとなってしまう。してみると、はじめからそこになんら実質的なものはなかったのだ。
ただの遊戯だったのだ。だが、人間のなかには、行動しちる最中に、遊戯でしかないことを自覚する者がある。
そうした人間は、前提の段階で結論を、潜在的なものの段階で実現されたものを体験してしまい、
彼らがこの世に生きているという事実それ自体によって、真摯なものを根こそぎ引っくりかえしてしまうのだ。
実在性の欠如を、世界を蔽う不毛をまざまざと見る能力は、毎日のように味わう感覚に、突然の身震いが結合した成果である。
一切は遊戯だ―この重大な発見をぬきにしたのでは、私たちが日ごとに身に刻みつつあるもろもろの感覚は、
形而上学的体験と、不快感というその偽造品とを峻別すべき、あの明証性の徴を持つことはないだろう。
というのも、不快感とはつねに、出来損ないの形而上学的体験にすぎないからである。
シオラン『生誕の災厄』
- 81 :
- 林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
淋しい。淋しいなど、人に言ってはいけないのであろうが。何故に淋しいのか。孤独か。自己の貧寒なためか。
望郷か。いろいろある。もっとも大きな原因は、一人ぼっちということだ。
- 82 :
- 林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
みずからを下げることが友情ではない。友情とは、相互の上昇でなければならない。上昇はすべての根本だ。
低俗で退屈な交友よりは、充実した孤独を望む。
現在のぼくの孤独を、しっかり噛みしめて、そこに沈潜してみよう。これは深い意味を持つ孤独だ。独りで
いること、これこそ生の根源だ。
- 83 :
- 林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
ぼくは独りである。ただ可能なことは、至高の友人を予想しつつ、生を高めることである。その人に対し、常に
誠実であり、偽らぬことである。そうして生きることが、わが生である。
勉強とは「何をいかに学ぶか」という二点に力点がおかれる。自己の自覚も同様である。ぼくにとって学問とは、
より広く深く、自己を認識することである。
- 84 :
- 林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
小説が、ぼくに教えてくれたものは、生活の基礎としての愛、人間が存立しうる基礎としての愛だ。ぼくの
生活の空虚さは、かかる愛の喪失だ。それならば、どのようにしたら、この愛が取り戻せるというのだ。
- 85 :
- 林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
おれは高等学校いらいの孤独の生活であったが、やはりそれが性にあっているのだ。そしておれは、団体の
なかにあっては陽気に騒ぐほうではなく、寂しくとも孤独のほうが、はるかにぴったりしているのだ。
- 86 :
- 今の時代インプットは誰にでも出来るが
アウトプットは必ずしも誰にでも出来るという訳ではない
たまには自分の言葉で何かを表現してみたらどうだ?
- 87 :11/12/05
- 林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
おれは外面的な若さを捨てたかわりに、内面的な永遠の若さを獲得したと。すなわちおれは、老いることが
ない男になった、と信ずる。
この頃、わずかに時間の歩みの速くなったことを感ずる。
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スレ立て依頼所
風俗譲に嫌われた孤男
目つきが悪い・暗い・おかしい孤男
【1971年】 昭和46年生まれの孤男 【猪】