2011年10月1期アニメサロン石原都政、今度は男女平等でないアニメを規制か?
TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼 ▼
・ 次のスレ
こんなBLEACHは一体、何をしてんだよ!!!!
女に嫌われてる女キャラ
【AT-X/キッズ/アニマックス】スカパ-アニメ総合スレッド その35
化物語◇物語シリーズ ネタバレスレ 15冊目◆偽傷
石原都政、今度は男女平等でないアニメを規制か?
- 1 :11/10/25 〜 最終レス :11/12/16
- 東京都「男女平等参画のための東京都行動計画の改定に当たっての基本的考え方について」
「ステレオタイプの男女像や、女性と子供を性的ないしは暴力行為の対象とした表現は男女平等参画を阻害する要因」
「東京都は青少年健全育成条例を改正し、青少年の健全な育成を図るため、インターネット利用や児童ポルノの根絶等に関する規定を設けた」
「メディア事業者による暴力や性表現の自粛等、自主的な取組を促す」
「内閣府の調査によると性・暴力表現に問題があると考えている人が8割に達している」
http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/index8files/shingikai/4th/dan1019mokuji.htm
東京都男女平等参画審議会「中間のまとめ」及び都民意見の募集
http://www.metro.tokyo.jp/INET/BOSHU/2011/10/22laj300.htm
- 2 :
- メディア規制キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!
- 3 :
- 東京都は立法府の公安警察の汚染度が酷いからな。
- 4 :
- もはや都政そのものがカルト化まっしぐらだな
- 5 :
- ナルトとかワンピースとかみんなアウトじゃん
- 6 :
- なにこのオカルト学園都市
- 7 :
- アニメまんが→男中心
リアル→男()
- 8 :
- 最近の石原は何やってんのよ
- 9 :
- ハンタ打ち切りのお知らせw
- 10 :
- また「仮想わいせつ画像」規制請願書が提出される
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/seigan/179/mifutaku/mi1790088.htm
青少年健全育成のため、児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の早期改正を求めることに関する請願
アニメやゲームを規制する請願が提出された
反対の声をあげるのは悪いことではなく、むしろよいこと
そうしないと、そのままなしくずし的に法案制定されてしまうという可能性はある
請願提出→(対応)→各委員会で審議→(通過)→議院で採決→(通過)→内閣で対応
どこに反対意見を送ればいいのでしょうかね?
sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/giin/179/yakuin.htm
参議院でのシステム、ちょっとわからない
それとも今は送らないほうがいい?
- 11 :
-
1
これメールでも反対意見を出せるので詳しくはURL先に行ってくれって
- 12 :
- >>4
ますます石原彰晃になってきたな。
- 13 :
- これってメンバーがキリスト教関係者ばかりじゃねーか
- 14 :
-
都はようするにミカジメよこせと言ってらっしゃる。
小田急・藤子Fのコラボも一言あったら文句なんぞ付ける気なかった。
- 15 :
- >>13
ガチでカルトが行政に入り込んでたのか
怖すぎだろ
- 16 :
- 石原だろ?
「男女平等なアニメを規制」ならわかるけどさw
- 17 :
- 業界が自主規制しなかったから云々言ってた奴は
これ見て、いったいどこまで業界は自主規制すべきだったって言うの?
- 18 :
- 閉経した女は生きてる価値なしとほざいた過去も忘れたかボケ爺ww
- 19 :
- ベルゼバブを規制せよ
- 20 :
- ドラマとかに多い原作では男性のキャラがドラマになると女性に変更されて
意味もなく活躍するようなものか
- 21 :
- 石原はババァ発言もあるし
こんな案件職員が持ってきても受け付けんと思うけどね
- 22 :
- >>21
もうぼけてるから覚えてないよそんなこと
- 23 :
- 天然ガス発電所作るとか言ってるし、自分が原発推進派だったこともぼけて忘れてるんじゃないの?w
- 24 :
- じゃあ高速増殖炉の事も忘れてくれ。
- 25 :
- ティムコ商事破りの件は忘れないお
- 26 :
- 【知事】図書館の司書ってのは、どんな仕事をするの。
【記者】レファレンス業務といって…。
【知事】ある図書館なんか、外国でも日本でもそうですけど、身元がしっかりしてたら、
オートマティックに本を借りられるシステムになっていますよ。どの本がいいか悪いかと
いうことを司書に相談する読者なんて、ほとんどいないと思うんだね。私は司書の仕事っ
ていうのは、何も若い人だから非常にサービスが行き届かないってものじゃないと思うけ
ど、今の時代に人間を配置しなくたって、オートマティックに本を借りられりゃいいじゃ
ないですか。自分が選ぶってのは、自分で自分を選ぶって、その読者の感性なんだから、
そこまで司書が指導することもないし、できたものでもないし、そんな業務、果たしてな
かったと思うしね。この時代に、人手が足りなくなってきた。私はやっぱりそう思うけど、
その中で人件費を払って、旧来の何ていうのかな、図書館作業というものを人を雇ってす
るような時代じゃないんじゃないかな。本は本であるんだから。
はい、それじゃ。
(テキスト版文責 知事本局政策担当 細井)
- 27 :
- ベン・トーは男女平等に殴られないので規制すべき
- 28 :
- 男女平等な社会を作るならまず石原が死ぬべきだろ↓
ジェンダーフリー問題を巡り、リベラル・左派勢力やフェミニストとは犬猿の仲で日常的に応酬し合っている。
「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です 」
「男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。
そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」
「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」という発言をし、に発展したが、最高裁で石原側の勝訴が確定している。
- 29 :
- 2次女には優しくしてあげたい
けどそれを使う3次はイラネ
- 30 :
- 平等主義は悪魔の思想
私がこれまでお話ししてきた「聖なるウソ」の目的は、民族を無意識にすることでした。
身分階級の秩序、最高の法、支配する法といったものは、人間がなにも手を加えてい
ない本当の自然の秩序、自然の法則性をただ認めたものです。近代的な理念では、
それらを左右することはできません。
健全な社会であれば、人間は自然と三つの異なるタイプに分かれます。
精神がすぐれている人、筋肉や気性が強い人、そしてそれ以外の凡人。
もっとも凡人が大多数ですね。それ以外の選ばれたエリートは、ごく少数だと思います。
この少数者は、高貴な者の特権を持っています。その特権には、「幸福」や「美」「善意」な
どを地上に実現させることが含まれてます。
また、精神的な人間たちには、美しいものを味わうことが許されています。彼らにおいては、
「善意」は弱さとはならないのですね。
美しいものは、少数者のものです。
だから、「善意」も一つの特権なのです。
汚い手を使ったり、ものごとを悲観的に眺めたりする。ものごとを醜くとられる眼。あるいは、
ものごとの全体像に対して、むやみに腹を立てる。そういうのは下層民の特権です。
「世界は完全である」ともっとも精神的な者の本能は言います。不完全なものやレベルの低い
ものも世の中にはたくさんありますが、そういうものを全部含めたうえで、完全だと言うのです。
もっとも精神的な人間は、強者の自覚を持っています。それなので、他人が「もうダメだ。」と
言いだすところに、迷路の中に、厳しい人間関係の中に、そしてものごとを試してみることの中
に、自分の幸福を見つけます。
彼らは自制を求めます。
精神的な人間は、我慢することを自分の本能とする。そのような重い課題を彼らは特権とみ
なすのですね。そして、弱い人間だったら圧しつぶされてしまうと感じるような重荷を、もてあそ
ぶのです。
精神的な人間は敬われるべきですが、同時に彼らは快活で、愛すべき人間でもあります。
彼らは支配を行いますが、彼らがそうしたいのではなくて、彼らの存在がそもそもそうなのです。
彼らは、「二番目の人」に成り下がることはできません。「二番目の人」とは、もっとも精神的な人
の近くにいて、支配を行うときのゴタゴタした面倒くさい問題を引き受ける人のことです。要するに彼
らは、もっとも精神的な人の右腕となって働いているわけですね。
- 31 :
- このように、人間が区別されているのは自然なことです。
これは、人間が意識的に作った制度ではありません。
もし例外があるとしたら、人間が生きていくうえで、一番上にくる法則です。
人間を三種類の階層に分けることは、社会を維持していくために、よりよい形に高めていくために
必要なのです。
権利の不平等こそ、権利があることの条件です。
権利は特権なのです。
もちろんそれぞれの人には、それぞれの特権があるはずです。
平凡な人にも特権があります。そして、もっとも精神的な者たちは、そういった平凡な人が持ってい
る特権を見くびることはありません。
なぜなら、高い場所を目指す生き方というのは、上に行くにつれ冷気が増し、責任が重くなっていく
からです。
要するに、高い文化とはピラミッドのようなもので、広い地盤の上にのみ築くことができるのですね。
だから、大勢の平凡な人たちの存在が大切なのです。
手工業、商業、農業、学問、芸術といった仕事の大部分は、ほどほどの能力とほどほどの欲望によ
って成り立っています。それは、貴族主義とも無政府主義とも関係がないものでしょう。
人が、公共の利益のために一つの歯車として働くことは、ごく自然なことです。
彼らを歯車として働かせているのは、社会ではありません。単純に「自分には何かをする能力がある
と感じる幸福感」がそうさせているのです。平凡な人にとっては、平凡であることが一つの幸福なのです
ね。
一つの能力によって専門的な仕事をするのが、人間の自然な本能です。高い文化はこういった平凡さ
の存在を条件としています。だから、平凡な人をバカにしてはダメなのです。
例外的な人間が平凡な人間を、思いやりを持って大切に扱うのは、単なるマナーの問題ではありませ
ん。それは、一言で言えば例外的人間の義務です。
世の中にはみすぼらしくていやらしい人間がたくさんいます。
その中でも一番下等なのは社会主義者でしょう。
仕事に対する意欲、働く楽しみ、仕事を成し遂げたときの満足感。それらに対し、いやらしい悪意を持っ
て攻撃するのが、社会主義者という名の下層民です。
不正は決して権利の不平等にあるのではありません。
不正は権利の「平等」を要求することにあるのです。
これまで言ってきましたように、「弱さ」「嫉妬」「復讐」から、劣悪なものは生まれます。
無政府主義者とキリスト教徒は、結局同じ穴のムジナなのですね。
- 32 :
- 民主主義なんていらない
これまでのお話で、キリスト教が「信仰」というものをどのように利用しているか、おわ
かりになったと思います。やはりキリスト教は、精神病院の世界なのですね。
しかし、キリスト教の僧侶たちにはそれがわかりません。なぜなら彼らは、病気は病気で
あり、精神病院は精神病院であるという事実を決して認めないからです。
キリスト教は病気を必要とする宗教です。人間を病気にさせることが、教会の本当の目的
なのです。
そしてなによりも教会こそが、精神病院です。
いつの間にか、世界中が精神病院だらけになってしまいました。
教会が望んでいるような宗教的な人間は単なるデカダンスです。民族が宗教にかぶれて
しまい、宗教が民族を支配してしまうと、必ず精神病患者が増えるのです。
宗教的な人の頭の中は、興奮した人や、疲れきっている人とよく似ています。キリスト教
が人類の頭上にかかげてきた、もっとも価値がある「最高」の状態とは、要するに心を病ん
だ状態なんです。
私は昔こういうことを言ったことがあります。
「キリスト教がやっているザンゲやお祈りなどの儀式は、てっとり早くボケ老人になる方法
だ」と。
キリスト教を生んだ土地は、もともと病的でした。
人間は誰でもキリスト教徒になれるわけではありません。人間は悔い改めてキリスト教を
信じるのではないのです。キリスト教徒になるためには、あらかじめ十分に病気でなければ
なりません。
健康的で、くだらないものを軽蔑する気力を持っている私たちは、肉体を誤解することを
教えた宗教、霊魂の迷信を捨てようとしない宗教、栄養失調を「手柄」にするような宗教、
健康を敵視し攻撃を仕掛けてくる宗教、を軽蔑します。
肉体はまるで死体のようなのに、魂だけは完全になれると思い込み、さまざまなデタラメ
をでっちあげる宗教を。
- 33 :
- 彼らは「神聖」という言葉を、「完全」の代用品として、でっちあげました。本当にバカ
ですね。彼らの肉体は腐っています。
キリスト教は実にヨーロッパ的な運動です。
要するに、あらゆる種類のガラクタが集まってできている。言ってみればキリスト教は、
「人間のダメな部分」の集合体なのですね。キリスト教によって、社会のクズやガラクタが
権力にありつこうとするわけです。
キリスト教が発生したのは、多くの人が考えているように、高貴な古代文明が不敗したか
らではありません。現代でも、いまだにそんな説を唱えている学者もいますが、お話になり
ません。
本当はこういうことです。
頭の悪い下層民たちがキリスト教に染まっていった時代でも、ローマ帝国の中にはそれと
は正反対の、高貴で、美しく、成熟したタイプの人間がおりました。
しかし、多数者が支配するようになってしまった。キリスト教と同じ本能を持っている民
主主義が勝利を占めてしまったのです。
それではなぜ、不健康なキリスト教が勝利を占めたのか。
それはキリスト教が「国民的」ではなかったからです。
キリスト教は一つの民族だけが信じる宗教ではなくて、不健康でろくでもないあらゆる種
類のものに取りつく宗教なのです。それで、いたるところにたくさんの同盟者を持つ事が
できたのですね。
キリスト教は健康な人間に対する、不健康な人間の恨みを基本にしています。
美しいもの、誇りを持っているもの、気力があるもの、、そういうものを見たり聞いたりす
ることが、彼らにとっては苦痛なのです。
私はパウロが言った貴重な言葉を思い出します。
「神は世の中の弱い者を、世の中の愚かな者を、軽く見られている者を、お選びになる」
まさに、これがキリスト教の核心なのです。これによってキリスト教は勝利しました。
私たちは、「十字架にかかった神」という象徴の後ろに隠された恐ろしい目的に気づかな
ければなりません。「十字架にかかるものは、すべて神のような存在である。われわれは十
字架にかかる。それなので、われわれのみが神的である」というカラクリ。
キリスト教が高貴な思想を滅ぼしたのは、人類最大の不幸でした。
- 34 :
- 仏教の素晴らしいところ
さて、これまで私はキリスト教の問題点をあげ、それが最悪の宗教であることを説明して
まいりました。それでは他の宗教について私がどう考えているのか、これも大事なことなの
で、きちんとお話ししておきましょう。
ご存じのように、仏教という宗教があります。仏教もキリスト教に負けず劣らずたくさん
の信者がおります。仏教というと、キリスト教とはまったく違う宗教というイメージがある
ようですが、実は両方とも同じようなニヒリズムの宗教なのです。
しかし、仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。
仏教のよいところは、「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っていることです。
これは、仏教が何百年と続いた哲学運動の後に現れたものだからでしょう。インドで仏教が
誕生したときには、「神」という考えは、すでに教えの中から取り除かれていたのです。
そういう意味では仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教
と言っていいでしょう。
彼らは本当に現実的に世の中を見ています。仏教では「罪に対する闘い」などとキリスト
教のようなことを言いません。現実をきちんと見て、「苦しみに対する闘い」を主張するの
です。
仏教では、「道徳」という考えは自分をダマすことにすぎないと、すでにわかっているの
ですね。
ここが仏教とキリスト教の大きく違うところです。
これは私の言い方なのですが、仏教という宗教は「善悪の彼岸」に立っているのです。
つまり、善や悪というものから遠く離れた場所に存在している。
それは仏教の態度を見れば明らかです。
仏教が注意しているのは、次の二つです。一つは、感受性をあまりにも敏感にするとい
うこと。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、苦しみを受けやすくなってしまうからです。
そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的なものとして考えたり、難しい概念を使ったり、
論理的な考え方ばかりしている世界の中にずっといること。そうすると、人間は人格的にお
かしくなっていくのです。
- 35 :
- 読者の皆さんも「自分も思い当たるな」とか「ああ、あいつのことだな」とすぐにイメー
ジできるのではないでしょうか。
仏教を開いたブッダはそういったものを警戒して、フラフラと旅に出て野外で生活するこ
とを選びました。ブッダは食事にあまりお金をかけませんでした。お酒にも用心しました。
欲望も警戒しました。また、ブッダは自分にも他人にも決して気づかいしなかった。
要するにブッダは、いろいろな想念に注意していたわけです。
ブッダは心を平静にする、または晴れやかにする想念だけを求めました。
ブッダは、「善意」とは、人間の健康をよくするものだと考えたのです。そして神に祈る
ことや、欲望を抑え込むことを教えの中から取り除きました。
仏教では、強い命令や断定を下したり、教えを強制的に受け入れさせることはありませ
ん。なにしろ、一度出家して仏の道に入った人でも「還俗」といって再び一般の社会に戻る
ことができるくらいですから。
ブッダが心配していたことは、祈りや禁欲、強制や命令といったものが、人間の感覚ばか
りを敏感にするということでした。
仏教徒はたとえ考え方が違う人がいても攻撃しようとは思いません。ブッダは恨みつらみ
による復讐の感情を戒めたのです。
「敵対によって敵対は終わらず」とは、ブッダが残した感動的な言葉です。
ブッダの言うことはもっともなこと。キリスト教の土台となっている「恨み」や「復讐」
といった考えは、健康的なものではありません。
今の世の中では、「客観性」という言葉はよい意味で使われ「利己主義」という言葉は悪
い意味で使われています。
しかし、「客観性」があまりにも大きくなってしまい、「個人的なものの味方」が弱くなっ
てしまうのは問題です。また「利己主義」が否定され続けると、人間はそのうち精神的に
退屈になってくるものです。
こういった問題に対して、ブッダは「利己主義は人間の義務である」と説きました。要す
るに、問題を個人に引き寄せて考えよう、と言ったわけです。
あの有名なソクラテスも、実は同じような考え方をしています。ソクラテスは人間の持っ
ている利己主義を道徳へと高めようとした哲学者なのです。
- 36 :
- 多様な文化を認めないキリスト教
それではなぜ、仏教はこれほどまでにキリスト教と違うのでしょうか。
その原因は、まず仏教がとても温かい土地で誕生したということ、またその土地の人たち
が寛大でおだやかで、あまり争いを好まなかったことなどがあげられるでしょう。
そして重要なのは、仏教が上流階級や知識階級から生まれたことです。
仏教では、心の晴れやかさ、静けさ、無欲といったものが最高の目標になりました。そし
て大切なことは、そういった目標は達成されるためにあり、そして実際に達成されるという
ことです。
そもそも仏教は、完全なものを目指して猛烈に突き進んでいくタイプの宗教ではありませ
ん。ふだんの状態が、宗教的にも完全なのです。
ところがキリスト教の場合は、負けた者や押さえつけられてきた者たちの不満がその土台
となっています。つまり、キリスト教は最下層民の宗教なのです。
キリスト教では、毎日お祈りをして、自分の罪についてしゃべったり、自分を批判したり
している。それでもキリスト教では、最高の目標に達することは絶対にできない仕組みにな
っているのです。
フェアじゃないですよね。暗い場所でコソコソやっているというのがキリスト教な
のです。肉体が軽蔑され、ちょっとしたものにでもすぐに「イヤらしい」などといってケチを
つける。
かつてキリスト教徒は、ムーア人(八世紀にスペインに侵入したアラビア人)をイベリア
半島から追放したのですが、彼らが最初にやったことは、コルドバだけで二七〇軒もあった
公衆浴場を全部閉鎖したことでした。
キリスト教徒というのは異なった文化を認めようとしないのですね。それどころか、考え
方が違う人たちを憎むのです。そして徹底的に迫害する。とても暗くて不健康で危険な人た
ちなのです。
キリスト教徒ってのは、言ってみれば神経症患者みたいなものです。常に神経が過敏な状
態が、彼らにとっては望ましいのです。
キリスト教徒は、豊かな大地や精神的に豊かな人に対して、徹底的に敵意を燃やしまし
た。具体的に「肉体」を持っているものに反発して、自分たちは「霊魂」だけを信じてい
る。それで、張り合おうと思っているわけです。
キリスト教は、立派な心がけ、気力や自由、あるいは心地のいいこと、気持ちがいいこ
と、そして喜びに対する憎しみなのですね。
キリスト教が下層民のもとで誕生すると、やがてそれは野蛮な民族の間に広まっていきま
した。野蛮な民族は、仏教徒と違って、不満や苦しみを、敵に危害を加えるという形で外に
出していったのです。
逆に言いますと、キリスト教は野蛮人を支配するために、野蛮な教えや価値観が必要だっ
たのです。たとえば、初めての子どもを犠牲に捧げる風習や、晩餐で血を飲む儀式などがそ
うです。
このように、キリスト教というのは、人間の精神と文化への軽蔑なのです。
仏教は、いい意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。
残念なことに、ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は
人々を平和でほがらかな世界へと連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。
キリスト教は、野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによっ
てです。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、「文明化」させるための、キリスト
教的処方箋なのです。
仏教は文明が発達して終わりに向かい、退屈した状態から生まれた宗教ですが、キリスト
教は、いまだに文明にたどりついていないのです。
- 37 :
- キリスト教は「引きこもり」
私が一番興味があるのは、「イエスは本当はどんな人だったのか」ということです。時間
が経つと情報は正確に伝わらずに、次第にゆがんできます。『新約聖書』はインチキ本です
が、イエスのことを考えるときには、ある程度参考にするしかない
のかもしれません。
しかし問題は、イエスが何をしたのか、何を言ったのか、どのようにして死んだのかとい
うことではなく。イエスがどのようなタイプの人間であり、それが現在に伝えられているか
どうかなのです。
一つの例を出しましょう。
フランスの宗教史家・作家で『イエス伝』を書いたルナンという人がいます。この人の
本はまったくのデタラメです。彼はイエスのタイプを考えるときに、「英雄」と「天才」な
んてトンデモないものを持ち出してきました。
「英雄」というのは、『新約聖書』とは正反対の考え方です。
キリスト教では、抵抗しないという無能力が道徳になるのですから。
「悪いものには抵抗するな」と『新約聖書』にも書いてあります。これは、キリスト教のも
っとも深い言葉であり、ある意味ではキリスト教の「鍵」なのです。
しかし、「あらゆる人間は神の子だから平等だ」などと言っているイエスを「英雄」に仕
立て上げるなんて悪い冗談ですよね。
「天才」というのも違います。イエスの時代において「精神」という言葉は、私たちの時代
とはまったく異なった使われ方がされていたのですから。
キリスト教の精神構造はこうなっています。
内側に引きこもって、神経質にものごとを考えていると、不安や恐怖に襲われる。それが
極端になると、現実的なものを憎み始めるようになる。そして、とらえようもないもののほ
うへ逃げだしていくのです。
また、きちんとした決まりごと、時間、空間、風習、制度など、現実に存在しているすべ
てのものに反抗し、「内なる世界」「真の世界」「永遠の世界」などに引きこもるのです。
『聖書』にも、こう書いてあります。「神の国は、あなたの中にある」、と。
現実を恨むのは、苦悩や刺激にあまりにも敏感になってしまった結果でしょうね。それ
で、「誰にも触ってほしくない」となってしまう。
神経質になって悩み始めると、なにかを嫌うこと、自分の敵を知ること、感情の限界を知
ること、そういう大切なものを失ってしまいます。それは自分の本能が「抵抗するのに、も
う耐えきれないよ」とささやいていると感じるからでしょう。
彼らは最終的に、現実世界とは別の「愛」という場所に逃げ込みます。
それは、苦悩や刺激にあまりにも敏感になってしまった結果です。
実はこれがキリスト教のカラクリなのです。
キリスト教は病気の一種ですが、ある意味では、快楽主義が発展したものだと私は考え
ています。
私がこう言うと、皆さんは驚かれるかもしれません。「快楽を否定するキリスト教と快楽主
義は正反対じゃないか」と。
しかし、快楽主義を説いた古代ギリシアのエピクロスは、実は典型的なデカダンスなので
す。
これは私しか言っていないことですが、快楽主義は、ほんのちょっとした苦しみに対し
て、とてもおおげさに怖がるのです。そして結局、彼らの問題も、「愛」の宗教しか解決す
ることができません。
だから同じなんです。
- 38 :
- キリスト教が破壊したローマ帝国
人がウソをつくときって、どんなときでしょうか。やはり、そのウソによって何かを守る
ときか、あるいは破壊するときでしょう。これらは相反するものですね。
しかし、キリスト教は無政府主義者と同じなので、破壊のみを目指すのです。
歴史を振りかえれば明らかです。まさに歴史が証明しています。
先ほども言いましたが、宗教的な法の目的は、人生をよりよくするためのいろいろな条件
や、社会の偉大な組織を「永遠化」させることです。
偉大な組織では、人生が豊かになるからこそ、キリスト教はそれに対して攻撃を仕掛ける
のです。
『マヌ法典』では、長い年月をかけて手に入れた収穫は、より利益を高めるために上手に運
用し、より大きく豊かに、完全に持ち帰るべきものとされています。
反対に、キリスト教はローマ人の巨大な業績を一夜のうちにぶち壊しました。
キリスト教は世界を破壊しつくしてしまった。
キリスト教と無政府主義者は、両方デカダンスです。解体したり、害毒を与えたり、歪曲
したり、血を吸う以外には何の能力もありません。立っているもの、持続するもの、未来を
約束するもの、すべてに対する恨みと呪いの固まりなのです。
キリスト教徒はローマ帝国の血を吸いつくしました。
ローマの歴史は素晴らしいものでした。本当はローマ帝国はさらに大きくなるはずだっ
た。ローマ帝国という驚くべき大規模な芸術作品は、まだ一つの始まりであり、数千年もの
時間がたって真価を発揮するようなビッグプロジェクトだったのです。
これほどの大事業は、歴史上で、かつて一度も行われたことがありませんでした。
ローマ帝国は偉大でした。たとえ、ろくでもない人間が皇帝になったとしても、土台が揺
らぐことはありませんでした。誰が皇帝になろうと、そんなものは偶然にすぎず、ほとんど
関係ないのです。
実はこれがすべての偉大な建築物の条件なんですね。
しかし、そんな偉大なローマ帝国でさえ、腐り果てたキリスト教徒を防ぐことはできませ
んでした。
ウジ虫たちは、暗闇や霧にまぎれてコソコソと人々に忍び寄り、「真なるもの」に対する
真剣さ、現実の世界で生きていくための本能を、人々から吸い取っていきました。そして一
歩一歩、ローマ帝国という巨大な建築物から「魂」を奪っていったのです。
- 39 :11/12/16
- ローマ帝国の人々は、自分の国に対して、自分の意見を持ち、真剣さと誇りを持っていま
した。ところが、その男性的な高貴な本性が奪われてしまったのです。
偽善者たちの陰謀が、ローマを支配して主になってしまった。
「地獄」「罪なき者の犠牲」「血を飲むことでの神秘的合体」といった気持ちの悪いヨタ話
が、下層民の恨みつらみによって広まっていきました。
かつて、古代ギリシアの哲学者エピクロスは、「負い目」「罰」「不死」といった考え方に
よって魂が汚されることを批判しました。
それについて、ローマの哲学詩人であるルクレティウスが『物の本質について』という本
を書いているので、一読してみるのもいいでしょう。
エピクロスは、地下的な礼拝と、キリスト教的な発想すべてに対して闘いを挑んだので
す。彼が「不死」を否定したことは、それこそ本当の救済と言っていいでしょう。
エピクロスは勝利をおさめるかに思われましたし、ローマ帝国のあらゆる尊敬すべき人た
ちは、皆エピクロスのような考えを持っていました。
ところが、そこにパウロが現れたのです。
ローマに敵対し、「世界」に敵対する下層民、恨みつらみの天才、ユダヤ人の中野ユダ
ヤ人、選りぬきの永遠のユダヤ人であるパウロが登場したのです。
パウロはこう考えました。
ユダヤ教から離れたキリスト者の小さな宗派運動を利用して、世界を焼き払ってしまおう
と。「十字架にかけられた神」というお話を使って、人々をダマしてやろうと。ローマ帝国
の中で、ねじ伏せられている下層民、反乱を起こしたがっている連中、陰謀を持っている無
政府主義者など、すべてのものの巨大な力を利用してやろうと。
「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ伝四の二二)とは、よく言ったものです。
パウロはあらゆる種類の地下的な礼拝を利用したのです。
頭がいいというか、ずる賢いというか。
パウロはそういった概念によって、真理を攻撃し、「救い主」をでっちあげて、自分に都
合のいいことを語らせたのです。
パウロは気づいてしまったのです。
「この世」を無価値にするためには、「不死の信仰」が必要であることを。
そして「地獄」という概念を使えば、ローマを支配することができることを。
「あの世」を使って人々をおどせば、この世界をつぶすことができることを。
TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼 ▲
・ 次のスレ
こんなBLEACHは一体、何をしてんだよ!!!!
女に嫌われてる女キャラ
【AT-X/キッズ/アニマックス】スカパ-アニメ総合スレッド その35
化物語◇物語シリーズ ネタバレスレ 15冊目◆偽傷