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感動した日本人の話をコピペしていくスレ


1 :08/07/31 〜 最終レス :11/07/01
感動した日本人の話や尊敬できる日本人の話ををコピペして共有するスレ

2 :
 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
 「あそこでみんな死んでいったんだ……」
 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
 やがて戦況は日本に不利となり、
 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
 
 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
 
 日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。
 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
 その瞬間、彼は悟ったという。
 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。

3 :
阿羅 健一著「ジャカルタ夜明け前−インドネシア独立に賭けた人たち」より
金子智一の話(当時第一六宣伝部青年課長)
*日本が戦争に敗れ、蘭軍と英軍が進駐してきた時の話です。
イギリス軍は十月十七日に進駐して来ました。
バンドンはじめ主な都市には放送局があり、放送局はインドネシアが確保していますから、各地の様子は一日か二日
遅れですが、刻々と伝わってきます。イギリス軍がバンドンに進駐してきたころバンドンを沸かせたのはスマラン事件でした。
ジャワ島中部にあるスマランでも日本軍とインドネシアの間で武器の奪い合いがありました。十月十四日の夜、インドネシ
ア人たちが日本人の住宅地に来て、ここは危険だから、と日本人を連れ出し、市内のブル刑務所に入れてしまいました。
多くの日本人はインドネシア人に従ったのですが、連行されることに不安を感じた人たちはそれを振り切って日本軍のいる
所に逃げ込みました。
邦人が連行されたと聞いて日本軍も黙っているわけにはいきません。その夜遅く、暦の上では十五日暗いうち、日本軍は出動しました。
それを知ったインドネシア人は、刑務所に入れた日本人を生かしてはおけないと、次々と日本人をし始めました。刑務所
に連行された百数十人の日本人ほとんどがされましたが、そのとき、かすかに息が残っていた阿部頌二君が自分の流れる血で壁に、
バハギア ムルデカ 祝福独立
インドネシア独立 喜び死す
日本人万歳 大君
と書いて倒れました。これを、また虫の息で倒れていた高見角次郎さんが見ていて、十六日夕方になって助けに来た日本軍に伝えました。
高見さんは山梨県身延山の駅の助役をしていた人で、後に僕は高見さんからこのことを聞きました。血書を書いた阿部君は、慶応大
学を卒業して、森永業に勤めていた人ですが、私と同じ山形県生まれの人なので、深く心に残りました。
ブル刑務所の壁に書かれた血書は、スマランの日本軍だけでなく、ジャカルタからやってきた軍政監部政務班長の斎藤鎮男君や国務大臣を務めていたサルトノも見ました。
*確かこの血書は今でもインドネシアのどこかに保管されていると聞きました。
もしそうなのであれば是非一度あの国を訪れて拝見したいと思います。

4 :
こんな感じなのをネットなり本なりから拾ってきてコピペして教えてください

5 :
にしこり

6 :
おしん

7 :
ちきしょう誰も貼らねぇ
ロシア人から見た日本
http://www.teamrenzan.com/archives/readers/matsuo/post_372.html
ロシア人から評価されてるのは以外だったわ。

8 :
>>7
面白かった。
「本物の日本人」はまだまだ絶滅していないと信じたい。
では、ロシアつながりでこんなのはいかが。
「ひうらさんの思い出」
大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗り込んで北洋漁業に従事していた、ひうらさんは、
突然旧ソ連の警備船艇に拿捕され、乗組員一同、ウラジオストックに連行、抑留されました。
そこでの取り調べは惨たらしいもので、ありもしない犯罪の自白を強要され、半し状態で
再び日の目を拝めるかと思った程でした。
次の日、再び鉄格子の中から引き出されました。
いよいよされると半ば覚悟した途端、何故か旧ソ連官憲の態度が手のひらを返すように
豹変し、ロシアンティーまで振る舞われて、にこやかに釈放されるではありませんか。
捜査は打ち切られ、無罪放免となった彼等は施設の外に出ました。
彼等は「ともかく港へ向かおう」とふらつく足を海に向けました。
その瞬間、何故、助かったかが判りました。

9 :
(ここからは、本文をそのまま引用します。)
「沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、各艦砲身を陸に向け、
砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百幾千發ぞ
陛下の赤子にかすり傷だに負はせなばウラジオストックそのものを消滅させんばかりの
圧倒的武威を以て、ソヴィエト社會主義共和國聯邦を威圧して呉れてゐたのです
旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでせう
皆、感泣しました
鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひで‥‥」
こうして彼等は無事、日本に帰ることができました。
取るに足らない漁船の、わずかな人数の乗組員の為に、大国相手の戦争も辞さず、
瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖国日本に報いる為、と、その後、
ひうらさんは一層仕事に励んだそうです。
http://www.infosnow.ne.jp/~sevas/adult/japan/japan2.html

10 :
●ご苦労さん。ええもんができたな。さあ、今日からこの商品が売れなくなるような新商品をすぐに作ってや。
●運がいいと思えば運がよくなる。悪いと思えば悪くなる。運がいいとか悪いとか、本来そういうことはなく本人がどう思うかである。
●けっして失敗を運やツキ、他人のせいにしてはならない。そして成功は自分の力量とうぬぼれないこと。
●プラス思考すれば困っても困らない。
●一般的に成功している人、運が向いてきた人を見ると、やはり周囲にいる人も運がいい人ばかりである。
●自分の波動を変えたいと思うなら運のいい人に近づくことだ!
●エゴをなくし、プラス発想して、他人を肯定して、よりマクロの善を追及して、よく学んで、感謝と反省を日課とする。そうすればツキが寄ってくる。
●良いと思えば良いことが起こり、悪いことを思うとその通りになる。
●人に仕事をやらせてみて、7割できれば上出来で残りの3割はトップや幹部の責任である。
●短所を消す極意とは長所を伸ばすに尽きる。
●天地自然の理にしたがって生きる。
●この世に起こることは全て必然で必要、そしてベストのタイミングで起こる。
●良寛和尚曰く、災難に遭う時は災難に遭うが良き候。
●ついている時に考えたことは当たる。また意志決定したことは当たる。
●つきをもたらす5つの条件
 ・やりたいこと、楽しいことをやる。
 ・自信のあることはやっていい。
 ・自分だけでなく世の中のためになることならやる。
 ・責任のとれることならやる。
 ・恨まれることはしない。
●ピンチの法則
 ・ピンチは人生のリズムで周期的に必ずやってくる。予防策を講じていても、避けるこ  とはできない。
 ・ピンチに陥ってるときは全てマイナスに働き、八方塞りの感じになる。
 ・ピンチになると不安になるが、それは心理的なものにすぎない。ただし不安がすぎる  までは一定の時間がかかる。
 ・ピンチの折り返し点は創造よりかなり上にある。人間は自分が思った以上になかなか  落ち込まない。 
 ・ピンチから這い上がるチャンスはピンチになる前に考えていたことからは生まれない。
  苦しみに鍛えられ、それが薬となって次の対策が生まれる。
●人が悪口や批判を述べてくれるのは、道を誤らず、努力して、勉強し、自分を一回り大きくするためと考える。悪口が耳に入ってくること自体喜ぶべきである。また悪口というのは嫉妬と裏腹のことが多い。

11 :
>>8-9
当時の日本がロシアに対して出来たことが北朝鮮如きに出来ないなんて・・・
> 取るに足らない漁船の、わずかな人数の乗組員の為に、大国相手の戦争も辞さず、
> 瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖国日本に報いる為、と、その後、
> ひうらさんは一層仕事に励んだそうです。
この心境は羨ましくもありますねぇ。

12 :
ブラジル日本人移民の話
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog396.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog397.html

13 :
ブラジル人の日本人観は・・  2008年5月7日
http://www.excite.co.jp/News/politics/20080507/Economic_pol_080502_017_4.html
ジーコもこんなイメージを持ってあえて日本を選んだんだろうか。

14 :
ネットウヨ 捏造話で ーか(ネットウヨ川柳)

15 :
はぁ、氏ね朝鮮人

16 :
>>13
次買うコーヒー豆は絶対ブラジルにするわ!

17 :
アメリカのマスコミから記者会見で戦争責任について問われたヒロヒトは、「そういう言葉のあやについては、
私は文学的方面のことは知らないので、よくわかりません」といってました。

18 :
感動の名曲
http://m.youtube.com/details?v=FSaMY7TRgFI&rl=yes&client=mv-google&warned=1&stream_http=1&locale=ja_JP&guid=ON

19 :
系で知り合った10歳以上年上のオジサンの家へ。
そしたら「これ着て責めて欲しい」と言われて、レンコン掘りというか、 魚河岸の人が着てるような胸まであるゴム長を着させられ、捻りハチマキをさせられた。向こうは全裸。
まあこんなのもたまにはいいか、と愛撫してたら、オジサンが喘ぎ声の中、喋りだした。
「お、おにいちゃん…お、おかえりなさい…た、大漁だった?ねえ大漁だった??」
…オレは突然の、しかも想定の範囲を超えたセリフにポカーンとしてしまった。
オジサンは素に戻って、「…返事して欲しい」と恥ずかしそうにオレに言った。
プレー再開。
耳とかをなめつつ体中をさわさわと触る 「お、おにいちゃん、大漁だった?」
「ああ、大漁だったよ」
「あぁぁぁあぁすごいいいぃいぃ!、、な、なにが、、ハァハァなにが捕れたの?」
首を舌でやさしく舐めながらオレは答えた
「…鯛とか、、、ヒラメがいっぱい捕れたよ」
セリフを聞き、オジサンはびくんびくんと身体をひきつらせた
「はっ!はぁぁぁあんっ!イ、イサキは?イサキは、と、取れたの??」
チ○コをしごく 「ああ。でかいイサキが取れたよ。今年一番の大漁だ。」
「大漁っ!!イサキぃぃ!!おにいちゃんかっこいいいいぃぃぃい ぃくううううう!」
実話です。。きっと漁師の人との頃の体験というか、淡い恋心とかが あったんだろうなあ、といろんなことを考えさせられた一夜でした。

20 :
すごい捏造です、笑ってしまいますなw
これを信じてしまうのがインドネシアや台湾の土人
大韓では倭の悪事はけして許さないという社会的合意が
きちんと形成されています、これも民度の高さゆえ

21 :
>>20
そんなに民度の高い韓国人が世界中で嫌われてるのはなんでなんだぜ?

22 :
あんなに狭い国土で大韓とか笑わせる。
心の狭い人の住む、偏狭の国が'大'だってよwwwwww

23 :
>>20
民度の高い奴はインドネシア人や台湾人を「土人」とは呼ばねえよw
今更だけどお前ら韓国人は恥知らずなだな

24 :
韓国人は民度が高いので、アメリカで銃を乱射したり、テロ予告のいたずら電話をしたりしません。バカスwww

25 :
なんでこの世に韓国人が生きているの?

26 :
天国のあなたへ   柳原タケ
娘を背に日の丸の小旗をふって、あなたを見送ってから、もう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのは、ほんのつかの間でした。
三二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは、今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三二歳の青年、私は傘寿を迎える年です。
おそばに行った時、おまえはどこの人だ、なんて言わないでね。
よく来たと言って、あの頃のように寄り添って座らせて下さいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと、孫のこと、また、すぎし日のあれこれを話し、思いっきり甘えてみたい。
あなたは優しく、そうかそうかとうなづきながら、慰め、よくがんばったねとほめて下さいね。
そして、そちらの「きみまち坂」につれて行ってもらいたい。
春、あでやかな桜花
夏、なまめかしい新緑
秋、ようえんなもみじ
冬、清らかな雪模様
など四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ、愛情を支えにして生きて参りました。
もう一度あなたの腕に抱かれ、ねむりたいものです。
力いっぱい抱きしめて絶対にはなさないで下さいね。

27 :
635 名前: 日出づる処の名無し [sage] 投稿日: 2006/05/14(日) 07:13:55 ID:Zq6hFoWI
佐賀県唐津市肥前町高串。小さな港町に小さな神社がある、
昔ここでコレラが発生したときに、伝染病の知識のない
地元の人の先頭にたち防疫と看護に尽くしてくれた、
警察官を祭る神社だ。自らは病にかかり死に行くとき、
「この地区のコレラは私が全て持って行きます。
2度とこの地に伝染病が入らないよう私が死んでも守ります」
と言い残しなくなった。
不思議なことにそれからコレラは終息し2度とこの地区では流行しなかった。
増田敬太郎巡査27歳。警察官として勤務したのはわずか1週間。
しかし名前は神として100年後も地元に残る。感謝

28 :
「所感」
栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、
身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。
思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、
これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。
自由の勝利は明白な事だと思います。
人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、
たとえそれが抑えられているごとく見えても、
底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、
かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。
我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。
ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、
今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に
自由の偉大さを証明していくと思われます。
自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが
吾人にとっては嬉しい限りです。
現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。
既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。
真に日本を愛する者をして立たしめたなら、
日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。
世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。
操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、
ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。
理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自者とでもいいましょうか。
精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。
一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、

29 :
ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を 国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。
ゆえに最初に述べたごとく、
特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、
そこには感情もあり、熱情も動きます。
愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。
天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、
死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
明日は出撃です。 過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、
偽らぬ心境は以上述べたごとくです。
何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。
明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、
心中満足で一杯です。
言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で
[編集] 遺本
遺本となった羽仁五郎著「クロォチェ」にはところどころに○印が付されていた。
それをたどると、愛する女性へ送られた言葉が浮かびうがってくる
「きょうこちゃん、さやうなら。僕は きみが すきだつた
しかし そのときすでに きみは こんやくの人であつた わたしは くるしんだ。
そして きみの こうフクを かんがえたとき あいのことばをささやくことを だンネンした
しかし わたしは いつもきみを あいしている」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3444094

30 :
最近最も感動した日本人は生地に出てくる産経の記者さん
以下引用
【北京五輪:評判のよくなかった日本の五輪取材記者たち  ゴミ撒き散らかし ボランティア学生をあごで使う】
 2008年08月28日12時21分 / 提供:LiveDoor News
 http://news.livedoor.com/article/detail/3797000/
>ちなみに、冒頭のトンデモ記者は日本の大手新聞社の特派員。その新聞社は、今回の北京五輪の報道方針について、
>「中国がオリンピックを開く資格があるかどうかを検証する」ことに置いているという。
  ↑  ↑  ↑  ↑  ↑  ↑  ↑
その記者って、どうやら産経新聞の記者のようです。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080814/acd0808140328001-n1.htm

31 :
そういえば上原良司さんの所感はいつのまにか英訳版が出来てYOUTUBEにあがってた
海外では特攻隊に関して少なからず誤解があるからいいかもな
タグがついてないからYOUTUBE内の検索に引っ掛からずほとんど再生されてないみたいだけど

32 :
【産経抄】 (2007/07/29)
 参院選での不毛ななじり合いなど伐とした社会の中で、心が
温まるようなニュースにめぐり合った。それも大阪発行夕刊の小
さな記事である。イラクの駐日大使が中越沖地震の被災地を見舞
い、復興支援中の自衛隊を慰問したというのだった。
 ▼ガーニム・ジュマイリ大使である。大使は25日に新潟の柏
崎市を訪ね、市長に「イラク国民を代表して」見舞いの言葉を述
べた。さらに、陸上自衛隊がサマワから撤退してこの日で1年に
当たるとして「友人たちの仕事を見て励ましたい」とも話したの
だという。
 ▼夕刊の記事はここまでだった。自衛隊に聞いてみると大使は
その後、柏崎市の海浜公園に設けられた陸自の復興支援基地をは
じめ、陸海空3自衛隊の支援部隊を律義にもすべて訪問して回っ
た。その間に、住民の避難所も訪ねる。何とも精力的な動きだっ
たようだ。
 ▼震災など大きな災害が起きた場合、現地を訪れる政治家は多
い。自分だけ目立とうという「オジャマ虫」さえいる。だが復興
のため汗を流している自衛隊員を激励しようという人はあまり見
かけない。それだけに、異国の大使の行脚ぶりには、頭が下がる
思いがした。
 ▼むろん自衛隊のイラクでの活動への「お礼」の意味もあった
のだろう。昨年まで2年半、厳しい風土と危険な環境の中で、自
衛隊が果たした人道復興支援は国際的にも高い評価を受けている。
大使の精力的で律義な動きは、そのことを雄弁に物語っていたの
である。
 ▼しかし日本人はといえば、イラク支援のことなどとっくに忘
れてしまったようにさえ思える。日本のための支援活動でもあっ
たのに、参院選で国際貢献はほとんど議論にならなかった。いっ
たい大使の目にはどのように映っていることだろう。

33 :
一方、自称・東方礼儀の国の朝鮮人たちは…
当方メディア見聞ログ | 新潟地震で韓国人大喜び!(恒例)
ttp://tokelog.jugem.jp/?eid=33

34 :
>>31
YOUTUBEにあがってたんだ。
さっき見つけました。確かにコメントついてないですね。
英訳が見づらいようです。
所感は右左関係なく、日本人としての国を思う心が切々と伝わってきますので、
国を超えて共感を呼ぶでしょう。だが伝える媒体が少なすぎる。

35 :
国柄探訪:稲むらの火 (昭和初期の国定国語教科書の逸話)
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog050.html
「これはただ事でない。」
海辺の高台に住む庄屋の五兵衛は、今の地震の長いゆったり
としたゆれ方と、うなるような地鳴りでそう思った。海を見る
と波が沖ヘ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い
岩底が現れて来た。
「大変だ。津波がやって来るに違いない。」と、五兵衛は思っ
た。このままにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみに
やられてしまう。家にかけ込んだ五兵衛は大きな松明を持って
飛び出して来た。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と、五兵
衛は自分の田のすべての稲むらに火をつけた。
「火事だ。庄屋さんの家だ。」と村の者は、急いで山手ヘかけ
出した。高台から見下している五兵衛の目には、それが蟻の歩
みのように、もどかしく思われた。村中の人は、追々集まって
きた。五兵衛は、後から後から上がって来る老幼男女を一人々
々数えた。
やがて津波が村を襲った。一同は、波にえぐり取られてあと
かたもなくなった村を、ただあきれて見下していた。
稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包ま
れたあたりを明るくした。始めて我にかえった村人は、此の火
によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前に
ひざまづいてしまった。

36 :
人物探訪: Father Nogi
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog218.html
■7.暁天の星■
9月、日露講和が成立してウォシュバンらは帰国することとなった。
戸ロの方に乃木大将が立っている。
「・・・今諸君の我が軍を去られるに当って、
 一言を呈せずにはいられない。
 しかし訣別の辞を呈しようとするのではない。
 願わくはお互いの友情を、永久に黎明(れいめい、夜明け)
 の空に消ゆる星のごとくにあらしめたい。
 暁天(ぎょうてん、夜明けの空)の星は次第に眼には見えなくなる。
 しかし消えてなくなることはない。
 我々は諸君に会わず、諸君も我々に逢うことがないにしても、
 各々何処かに健在して、互いに思いを馳せることであろう」

37 :
>>31
見てみたけど、字幕が読みずらいね。
もったいないな。

38 :
なあ、そんなことより北海道を開墾して自給自足か、飢餓援助しねえか?

39 :
俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。
それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにグレた。
親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。
俺、親父のエロビデオとかかな?なんて思って見てみた。
そしたら・・・
病室のベットの上にお母さんがうつってた。
『〇〇ちゃん二十歳のお誕生日おめでと。なにも買ってあげれなくてゴメンね。
お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。
今頃、大学生になってるのかな?もしかして結婚してたりしてね・・・』
10分くらいのビデオテープだった。
俺、泣いた、本気で泣いた。
次ぎの瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。
みんなにバカにされるくらい勉強した。
俺が一浪だけどマーチに合格した時、親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。
そんで、二十歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。
また、よく見てみたら。
ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。
お母さんは、笑いながら『情けないわねぇ』なんて言ってるんだ。
俺また泣いちゃったよ。
父親も辛かったんだろうな、親父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、就職決まった時、親父が『これでお母さんに怒られなくて済むよ』なんていってた。
俺このビデオテープがあったからまっとうに生きられてる。

40 :
>>38
土地提供するよ

41 :
4 :日出づる処の名無し:2008/05/24(土) 20:16:15 ID:+ANJqXXf
度々すみません
ビデオはこちらからご覧下さい。
YouTube - 青山繁晴氏 硫黄島は生きるヒント1/3
http://www.youtube.com/watch?v=INiuEmtsJtM
YouTube - 青山繁晴氏 硫黄島は生きるヒント2/3
http://www.youtube.com/watch?v=8-J0Mev4TNE&feature=related
YouTube - 青山繁晴氏 硫黄島は生きるヒント3/3
http://www.youtube.com/watch?v=4hBUGxDmcik&feature=related

42 :
ソーセージでググってたらこんなの出てきた
http://homepage3.nifty.com/akagaki/indexb.html

43 :
インドのシン首相が21から23にかけて来日して22日に麻生総理と会談する模様です。
なぜマスコミはスルーするんですかね・・・。特亜なんかよりよっぽど友達になりたい感じだと思いますが。
そこで安部ちゃんが総理の頃に来日したインドのシン首相の演説
マンモハン・シン・インド首相演説
2006年12月14日
東京
河野洋平衆議院議長閣下
扇千景参議院議長閣下
安倍晋三内閣総理大臣閣下
衆議院議員ならびに参議院議員の皆様
著名な指導者の皆様ならびにご列席の皆様
 この威厳のある議会において演説の機会を得ましたことは栄誉なことと認識しております。
我々二カ国の国民が互いに寄せる善意と友情の表れです。
 ご列席の皆様
 日本とインドは文明的にも近い国であります。我々の最も古い絆を形成するのが、共通する遺産でもある仏教です。
二つの文化は歴史を通して交流し、豊かさを増してきました。1000年余り前、インドの僧侶ボディセナ(菩提僊那)は、
東大寺の大仏開眼供養に参列するため奈良を訪れました。近代においては、タゴールと岡倉天心が、アジアの偉大
なる両国の間に理解の新しい架け橋を築きました。
 科学技術の発展に基づく明治維新以降の日本の近代化と、戦後に日本再建の基となった活力と気概は、インドの
初代首相であるジャワハルラル・ネールに深い影響を与えました。ネール首相は、インドが日本と緊密な絆を結び、
その経験から学ぶことを望みました。
 インドが日本からのODA(政府開発援助)の最初の受益国になるよう尽力されたのは、当時の岸信介総理大臣でした。
今日、インドは日本のODAの最大の受益国であり、こうした援助に我々は深く感謝しております。
 日本の工業は、自動車や石油化学などインド産業の発展のために貴重な役割を果してきました。90年代の初頭、
インドが深刻な経済危機に陥った時期、日本は迷うことなく支援し続けてくださいました。
 1952年、インドは日本との間で二国間の平和条約を調印し、日本に対するすべての戦争賠償要求を放棄しました。
戦後、ラダ・ビノード・パル判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています。
 こうした出来事は、我々の友情の深さと、歴史を通じて、危機に際してお互いに助け合ってきた事実を反映するものです。

44 :
 日本を訪れるたびに、お国の発展を見て真に鼓舞され、寛大さに心を打たれます。私は、1992年の訪日を決して忘れ
ることがないでしょう。それは、インドの財務相として初の両国間の訪問でした。
 1991年に前例のない経済危機に対処した際、日本から送られた支援に謝意を述べるための訪日でした。
古い型を打破し、グローバル化しつつある世界での競争に備えるべく経済を開放し、新たな前進への道を乗り出す機会を、
あの危機は我々に与えたのでした。当時、弾力性や献身といった長所、あるいは逆境にあって如何に機会を創造するかと
いったことを日本から学ぼうとして、我々は日本に目を向けたのでした。
 新生インドの首相として、今日、私は日本に戻ってまいりました。過去15年間、インド経済は年率平均6パーセントを上回
る成長を遂げてきました。近年は一層弾みがつき、成長率は年間8パーセント以上に加速しています。現在、インドの投資
率は対GNP比で30パーセントに相当します。1990年代初頭に立ち上げた広範な経済改革の結果、インド経済は、経済
のグローバル化と多極化の進む世界の出現によってもたらされた課題やチャンスを受けいれる柔軟性を身につけました。
 インドは、開かれた社会、開かれた経済として前進を続けています。民主的な政体の枠組みの中でインドを変容させようとする我々
の努力が成功を収めることは、アジアと世界の平和と発展にとって極めて重要です。これまでに、10億を超える人々が民族や文化
など多元的な要素を抱えた民主主義の枠組みの中で貧困を撲滅し、社会と経済を現代化しようと試みた例は全くありません。
 インドは、現在、持続的な高度成長の波に乗っていると思います。サービス主導型かつ技術先導型の経済によるグローバル経済
との統合という新しいモデルを開発してきました。今日、インドは、情報技術、バイオテクノロジー、医薬品など、知識を基礎とする分
野で主要な役割を担う国として台頭してきました。道路、鉄道、電気通信、港湾、空港などから成る物理的および社会的インフラを
拡大し現代化するため、大規模な投資が行われています。こうした発展は、インドの製造業の競争力と生産性を大いに高めるでしょう。
 インドと日本が両国間の結びつきを急速に発展させるための土台は、こうした経過と国際的な筋書きの変化によって生まれました。
二つの古代文明にとって、戦略的かつグローバルな関係を含む、強固で今日的な関係を構築する時が到来したと思います。
それは、アジアと世界にとって大変重要な意味をもつでしょう。
 我々は、自由、民主主義、基本的権利、法の支配という普遍的に擁護された価値を共有するアジアの二つの大国です。両国間に
存在するこの共通の価値と膨大な経済的補完性を活用し、互いに相手国を最重要と認める強固なパートナーシップを築いていかなければなりません。
 また、新たな国際秩序の中で、インドと日本は国力に見合った均衡の取れた役割を演じなければならないという点でも、考え方を共
有しています。日印間の強い絆は、開かれた包容力のあるアジアを構築し、地域の平和と安定を強化するための重要な要素です。
 経済関係が二国間関係の基盤となるべきであり、この分野での結びつきを強力に推し進めることが必要です。日印間の貿易や投
資は、到底その可能性を発揮しているとはいえません。それとは対照的に、インドと中国、インドと韓国の貿易は好調で、昨年は両国
との貿易がおよそ40パーセントの伸びを示しました。中国との貿易は日印貿易の3倍近くに膨らんでおり、韓国との貿易も日印貿易とほぼ肩を並べています。
 経済協力の可能性を十分に生かすには、両国の政府、経済界、産業界の積極的な努力が必要です。
 将来、このパートナーシップを築くことができる最も重要な分野は、知識経済であると信じています。両国の経済構造、比較的得意
な分野の均衡状態、人口動態の違いなどを考えれば納得できるでしょう。

45 :
 科学技術の分野でも、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、生命科学、情報通信技術といった将来の成長分野での提携を加速さ
せていく必要があります。インドのソフト産業と日本のハード産業は、相乗効果を活用しながら発展しなければなりません。
 心ある賢人同士のパートナーシップは、人事の交流をより盛んにすることを意味します。私は、インドにおいて日本語を学ぶ学生の
数が増えることを願っています。日本語は、既にインドの中等教育で外国語の選択科目として導入されています。明日、安部総理大
臣と私は、「将来への投資構想」を立ち上げます。今後数年の間に何千人ものインドの若者が日本語を学ぶことができるようにしたいと望んでいます。
 相互が関心を持っているもう一つの分野は、エネルギーの安全保障です。アジア地域全体として、エネルギー供給の安全を保障し
、エネルギー市場を効率的に機能させることが必要です。
 我々は貿易とエネルギーの流れを確保するために、シーレーンを保護することを含めた、防衛協力の促進に同等の関心をよせています。
 日本と同様にインドも、増加するエネルギー需要に対応するため、原子力が現実的でクリーンなエネルギー資源だと考えています。
これを実現させるために、国際社会による革新的で前向きな取り組みが軌道に乗るよう、我々は日本の支援を求めます。
 テロは平和に対する共通の脅威で、開かれた我々の社会の調和と組織を脅かします。テロには多くの側面があり、その原因も多様で、
地理的な境界も無視されるという複雑な問題なのです。我々が力を合わせないかぎり、テロとの戦いには勝てません。
 私は、国連と国連安全保障理事会が今日の情勢に対応できるものになるよう、その活性化と改革に向けて両国が協力してきたことを
うれしく思います。両国は国連とさまざまな国連関係機関の効率強化に関心を持っています。この意味において、今、我々が置かれて
いるグローバル化された世界で、各国の相互依存関係を秩序正しく公正に運営していくべく、両国の協力関係を強化しなければなりません。
 アジアで最大の民主主義国と最も発達した民主主義国である両国は、お互いの発展と繁栄に利害関係を有しています。我々は、
インドの経済環境が投資のしやすいものになるよう努める決意です。日本企業に是非インドにおけるプレゼンスを拡大していただきたいのです。
安部総理大臣と私は、二国間の投資、貿易、テクノロジーの流れを増大させるべく、包括的経済連携協定の締結につながる交渉を開始します。
 我々のパートナーシップは、アジア全域に「優位と繁栄の弧」を創出する可能性を秘めています。それは、アジア経済共同体の形成の基礎となるものです。
 こういった日印間のパートナーシップを拡大させたいという希望や抱負は、あらゆるレベルでの交流を増すことによってのみ現実のものとなります。
我々はハイレベルでの「エネルギー対話」を設置することで合意していますが、このような機会がさらに多くの分野で設置されるべきであり、とりわけ貿易と産業分野では不可欠です。
 ご列席の皆様、
 いかなる戦略的パートナーシップにおいても、その礎となるのは人々の友情です。日本の若者の間で映画『踊るマハラジャ』が人気を博し
ていると聞き、うれしく思っています。インドの子供たちは、日本のロボット『踊るアシモ』を見て歓声を上げていました。また、日本ではインド
料理店の数が驚異的に増えているようですし、インドでも寿司と天婦羅への人気が高まってきたことは間違いありません。
 2007年は日印友好年であり、日印観光交流年でもあります。さらに、両国を結ぶ航空便の大幅な増便も望んでいます。老いも若きも多く
の日本人がインドを訪れ、古代と現代のインドが放つ数多くの輝きをご自身の目で見てほしいと思います。
 インドと日本の新たなパートナーシップという構想は、本日、その決定的瞬間を迎えました。私の訪日はこの構想を具体化するためであり
、21世紀をアジアの世紀にするために我々が努力して演じている役割に、将来の世代が感謝することができるようにするためなのです。
 ご清聴、ありがとうございました。

46 :
四、シベリア孤児の救出
http://www.geocities.jp/warszawakozia/zenpend.htm
シベリアに抑留されていたポーランド人は全部で二十万人に達していた。
そのうち長い抑留生活で親に死に別れた孤児が二千人を数え、
彼らは食べ物も無く飢え死にを待つばかりの悲惨な状況となっていた。  
孤児救援協会のビエルケビッチ女史は置き去り状態の孤児達を救おうと
イギリス、フランス、アメリカなど考えられるすべての国を回って援助を求めたが全部断られてしまった。
絶望したビエルケビッチ女史だったが、物は試しとシベリアに近い極東の日本へ
打診したところ直ちに反応があり、それから二週間もしない内に援助活動が開始された。
その中に当時八歳だったダミアン少年(ドクトル・コタインスキ)も混じっていた。
 「日本で親切にされて暮らしたあの三ヶ月が、私の生涯で一番幸せな日々となりました。
そしてあの懐かしい日本を離れなければならなかった日が、生涯で一番悲しい日となったのです。
私達の誰もが別れが悲しくて泣きました。 
ウラジオストックで私たちを待ち受けていて、ボロボロとなって汚れきった私たちを見るなり、
可哀想にと言って涙を浮かべながらしっかりと抱きしめてくれた日本赤十字の看護婦さんたち、
自分たちの実の子供のように優しく親切にしてくれた日本の施設の人たち、
次々に慰問に来てくれて、お菓子やおもちゃを私達の一人一人にくれた人たち。
遠足で動物園へ連れて行ってもらい、公園でお弁当を広げて食べた楽しい想い出。
皆で外へ出かける度に沢山の日本の人達に優しく声を掛けられ、
「かわいそうに」と言って優しく頭を撫でてもらい、
その場で「何でも好きなものを買いなさい」とお小遣いを貰ったこと。  
祖国ポーランドへ帰るためにアメリカへと向かう船が神戸港の岸壁を離れるとき、
私たちは全員甲板に整列して、教わった日本の歌を何度もそして何度も繰り返して歌いました。
君が代、桜、荒城の月、今でもはっきりと覚えています」

47 :
電気を使わない「非電化」という選択肢(前編) http://www.nikkeibp.co.jp/style/eco/person/070223_hidenka01/
途上国での活動の一例が、一昨年秋から始まったナイジェリアでのプロジェクトだ。
ナイジェリアではオレンジの季節になると、消費しきれないほどの果実が実る。
しかし、ナイジェリア国内ではすべてを消費できず、その8割がたを腐らせていた。
その一方で、シーズンオフには国外(特に欧州)から高価なオレンジジュースを輸入
しているという現実がある。ナイジェリアはお金持ちどころか借金大国なのだが、
ジュース産業がないばかりに、こうした矛盾が生じていた。困り果てたナイジェリア
政府は、国内にジュース産業を育成すべく、ジュースの輸入を禁止し、先進工業国から
ジュース製造工場の技術導入を図ろうと考える。
「先進国で稼働している最新鋭の工場をつくることでもたらされるのが何かというと、
実は濃縮還元のまずいジュースであり、オレンジの酸の影響を受けかねないペットボトル
入りのジュースであり、電気や化学薬品を大量に使用することに伴う環境汚染なのです。
しかも、最新鋭の工場はほぼ全自動化されていますから、仮にそのジュース工場を
ナイジェリア国内に誘致したとしても、新たな雇用は発生しません。ナイジェリアの
失業率は6割ですから、全自動化する意味がないでしょう。すると、どうなるでしょう?
 結局、輸入品よりも高いジュースを生産することになり、輸入ジュースより売れず、
 新規雇用も発生せず、さらに借金がかさんでしまう可能性が大きいわけです」(藤村氏)。
そこで藤村氏がナイジェリア政府に提案したジュース工場のプランは、その正反対の内容である。
絞った果汁は煮沸せずに、約70℃でゆっくりと菌。あらゆる工程は自動化せずに、手間を
かけて製造する。それ故に、おいしくて安全なジュースができるし、電気や化学薬品等を
使わないので環境にも優しく、5年間で6000人もの雇用が見込まれるというモノだ。さらに、
そうして製造したジュースの価格は輸入品より安い。藤村氏のプランでは、そのような
ジュース工場をつくることで、5年後には借金を返済でき、6年目以降は“貯金”も可能だという。
先進国の全自動ジュース工場か、藤村氏の提案する非電化ジュース工場か。2つに増えた
選択肢を吟味すべく、政治家や学者、ジャーナリスト、起業家、女性……ナイジェリアの
識者や代表者が70人以上も顔を突き合わせて、30分間にわたって喧々諤々の議論を交わした
という。その結果、全員一致で、藤村氏の非電化ジュース工場が採択された。そのとき、
そこにいた全員が涙を流して泣いていた。

48 :
「アフリカは歴史的に欧州から辛酸を舐めさせられてきましたが、決してそれをよしと
思っていたわけではなく、選択肢がそれしかないと思うから、選んできただけなのです。
今回のジュース工場も『またいつものパターンだろう』と諦めて、勇気と希望を失っていた
ところに、非電化という、もうひとつの新しい選択肢を提示しました。私の経験上、
勇気と希望を失った人々が、再びそれを手にすると、老若男女を問わず全員が涙します。
ナイジェリアの人々の涙はそういう意味だったのだと思います」──藤村氏は当時を
振り返ってこう語った。

49 :
電気を使わない「非電化」という選択肢(後編)
http://www.nikkeibp.co.jp/style/eco/person/070302_hidenka02/
藤村氏が、新たな発明に至るまでの手順はいつも同じだ。まず、何に困っているのか
を現地の人たちに直接尋ねる。次いで、その悩みを解決できる発明品があれば、
いくらなら買えるのかを聞き出す。そして、その価格で成立するビジネスモデルを検討し、
事業化の骨子を決める。
発明は最後だ。試作品作りには若干の時間を要するが、コアとなる仕組みを発明するのは、
藤村氏によると「インスピレーション」=「瞬間芸」だという。
モンゴルにおいて非電化冷蔵庫の価格は、遊牧民からの実際のヒアリングの結果、羊2頭分
(日本円で7000円相当)に決まった。年収2万円のうちの 7000円である。彼らにとって、
夏場に自分たちが飼って食料にもしている羊の肉を腐らせて捨ててしまうことが、
どれほど深刻な問題だったのか、読者の皆さんには容易に想像していただけるだろう。
ここからが藤村氏のもう一つの素晴らしいところである。つまり、彼ら自身で持続的に
できるよう、ビジネスモデル(事業の骨子)を決めて実現までもっていく点だ。具体的には、
ウランバートルの起業家50人を集め、藤村氏はこう呼びかけた。
「遊牧民の方たちは、私の発明した非電化冷蔵庫を羊2頭分で買うと言っています。
実際のところ、私のビジネスモデルなら羊1頭分で非電化冷蔵庫を製造できますから、
あなた方、起業家が非電化冷蔵庫を地元で製造して、羊2頭分で遊牧民の方に売れば、
皆さんの手元には羊1頭分の利益が残りますよね。この事業をやりたい人はいませんか」(藤村氏)。
会場に集まった全員が手を挙げたという。当然かもしれない。単純に計算すれば、
粗利にして50%だからだ。藤村氏はその中から、人物に優れ、能力にも長けた起業家を選び、
非電化冷蔵庫の製造スキル、ノウハウを提供した。
「試作品の完成後に遊牧民の現地で行った予備実験では、外気温30℃の中でも冷蔵庫内は
4℃に保たれ、それを目にした遊牧民たちはみんな涙を流したという。
そう、ナイジェリアの人々と同じ涙だ。

50 :
ちなみに記事内の非電化冷蔵庫というのは放射熱で冷やす電気も動力も不要な冷蔵庫。
空の見える屋外にしか設置できない。
電気のない地域でも冷蔵庫が使えるのがすごい。

51 :
>>47
> 政治家や学者、ジャーナリスト、起業家、女性……ナイジェリアの
> 識者や代表者が70人以上も顔を突き合わせて、30分間にわたって喧々諤々の議論を交わした
> という。
30日間ではなく30分にわたってってのにワロタw
喧々諤々の議論どころか、ほとんど最初から全員一致で
賛成なんやんけwww

52 :
母を慕いて
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
第七七振武隊昭和二〇年五月四日出撃戦死 宮城県 一八歳
相花信夫少尉

53 :
>>21
全世界から羨望の目で見られている大韓国民

54 :
保守

55 :
漂流中に日本海軍「雷」が救助、元英大尉「恩人」の墓訪問
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081207-OYT1T00499.htm
昭和戦争中、現インドネシア・ジャワ島のスラバヤ沖海戦で乗艦が撃沈されて漂流中、
日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に救われた
元英国海軍大尉サムエル・フォールさん(89)が
7日、埼玉県川口市にある「雷」艦長だった工藤俊作・元海軍中佐の墓を訪れ、
66年ぶりに“再会”を果たした。
 1942年3月、フォールさんらが乗った英軍艦「エンカウンター」など2隻は
攻撃を受けて沈み、乗員のうち422人が24時間以上も油まみれの海で漂流した。
 近くを通りかかった工藤さん率いる「雷」が漂流者たちを救助。
雷の乗組員は、重油まみれのフォールさんらの体を丁寧にふき、衣服や温かい食事も与えた。
 フォールさんは帰国後、自らの体験を英国内で紹介し、
知人を通じて工藤さんの消息を捜した。2003年には自ら来日。
しかし、工藤さん自身が周囲に話さなかったこともあり、行方が分からないままだった。
 「サンキュー」。墓前でフォールさんは、墓をじっと見つめ、心の中でそうつぶやいた。
「助けられなければ死んでいた。この体験は一生を通じて、忘れることはない」。
フォールさんは、墓参り後の記者会見で、そう語った。
http://jp.youtube.com/watch?v=B0TIBmyTR1A
http://jp.youtube.com/watch?v=iMWy8wW1VSg&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=qhxMP9RrLwk&feature=related

56 :
飛行機特許の積立金のやつコピペしてくれ。

57 :
日本の医薬品産業が国際市場に占めるシェアは高くないが、それは決して日本に開発力が
ないという訳ではない。世界で売られている薬のルーツの4分の1が日本由来であったり、
1901年にフォン・ベーリンガーがノーベル賞をとった論文の共同執筆者は北里柴三郎氏で
あったり、世界で一番売れた人体薬(スタチン:遠藤章)そして動物薬/イベルメクチイン:
大村智)の開発は日本人である。更に世界最大のバイオベンチャー・アムジェン社の基を
築いたEPO薬の開発も日本人(東京大学医科学研究所の浅野グループ)によることからも
分かる通り、日本の技術力は確かである。
http://www.social-market-press.jp/works/12/index.html

58 :
>>53
妄想もそこまでいけばすごいと思うよ、本当に。

59 :
すでに米軍が沖縄に侵攻していた昭和20年5月のある日、二人の童顔の陸軍将校が、佐賀県の鳥栖小学校を突然訪ねてきた。
上野歌子先生が応対すると、二人は言った。
自分たちは上野音楽学校(現・芸術大)ピアノ科出身の学徒出身兵です。明日、特攻出撃することになりましたが、学校を出て今日まで演奏会でピアノを弾く機会がありませんでした。
もちろん祖国のために命を捧げる事は本懐ですが、今生の思い出に思いきりピアノを弾いて二人だけの演奏会をやりたいのです。
今日は目達原の基地から、あちらこちらとピアノを求め歩いて、やっとこの小学校にたどりつきましたが、どうぞお願いいたします。
上野先生の胸中には灼きつく熱いものがこみあげてきた。どうぞ兵隊さん、時間のある限り弾いて下さい。私もここで聴かせていただきます。
静かな放課後の音楽教室で、二人の少尉は、代わる代わるピアノに向ってベートーベンの「月光」などの曲を奏でた。その一時間程の間に、
どこから聞きつけたのか二十人程の学童達がいつの間にか集ってきて、一緒にピアノの演奏に耳を傾けた。
やがて帰隊の時刻も迫ってきた時、上野先生は二人に向って言った。有難うございました。こんな素晴らしいピアノを何年ぶりかで聴かせていただきました。
この子供達もあなた方のお姿と一緒に永遠に今日のピアノ演奏を忘れることはないでしょう。明日は愈々ご出発とのことですが、心からご武運を祈らせていただきます。
お別れにこの子供達と『海行かば』を合唱させていただきます。教室一杯に静かに『海行かば』が流れた。送られる二人の少尉もいつしか声をあわせて一緒に合唱していた。
帰り際、二人の少尉は「この戦争はいつかは終わります。しかし今自分達が死ななければ、この国を君たちに残すことはできません」といって、子供たちの頭をなで、満足の微笑みをたたえながら去って行った。
翌日の午前、鳥栖小学校の上空に一機の飛行機が現われ、二度、三度と翼を大きく振りながら南の空へ飛び去っていったという。この時のピアノは今も、鳥栖小学校に保存されているそうだ。

60 :
ムゥ〜おやつが食べたいな〜
あっ、シュークリームだ
おいしそう 食べよう
モグモグモグモグ おいしいな
モグモグモグモグ
もう一個ある これも食べちゃえ
モグモグモグモグ
モグモグモグモグ
あ〜おいしかった
ねえムーくん、ここにあったシュークリーム知らない?
知らないよ
変だなぁ 後でムーくんと一緒に食べようと思ったのに
おかしいな どうしたんだろう?
あんなおいしいシュークリーム どうしたんだろうね?
あんなおいしいシュークリーム?
それじゃまるでムーくん
あのシュークリームを食べたことがあるような言い方じゃないか?
ワッ しまった
さてはムーくん シュークリーム食べたでしょう?
知らないよ
ほら 白状しないと コチョコチョコチョコチョ
ムヒヒヒヒ 食べた 食べた
ほら やっぱりムーくんが犯人じゃないか
もう おしりペンペン
ムッヒーミンミンミン ムッヒーミンミンミン
ようし ムー汁にして食べちゃおうかな
ムッヒーミンミンミン ゴメンナサイ ムッヒーミンミンミン

61 :
210航空隊は愛知県碧海郡明治基地において神風特別攻撃隊第三御盾隊とし編成される。
同年3月28日、沖縄島攻撃菊水一号作戦参加のため、鹿児島県出水基地に進出。
同年3月30日、601空指揮下に入るため、
同県国分基地に集結、4月20日迄3回の出撃あり、全機消滅の為解散、
その当時前記4名にて合作せしもの百首のうちより。
●予備士官宿舎にて
 生きるのは 良いものと気付く 三日前
 人形を 抱いて寝ている 奴もあり
●待機中、指揮所にて
 生は 嫌ぢゃとしらみ 助けやり
 アメリカと 戦う奴が ジャズを聞き
 ジャズ恋し 早く平和が 来れば良い
●出撃の命下る
 慌て者 小便したい ままで征き
 乗ってから ポケットの金 思い出し
 父母恋し 彼女恋しと 雲に告げ
 の ままで行ったか 損な奴
(白鳩遺族会編河出書房版「雲ながるる果てに」より抜粋)

62 :
アッツ島で玉砕した守備隊に宛てた電報
太平洋戦争まっ只中のころのお話です。昭和18年、アッツ島の守備に就いていた山崎
保代部隊長から、大本営宛てに、激戦で玉砕を目前にした悲壮な電報が届きます。
電文の内容は、次のようなものでありました。
 「自分は、アッツ島守備の大命を拝し守備にあたってまいりましたが、米国海兵隊三
個師団が上陸し任務をまっとうできなくなってしまいました。まことに申し訳ありません。
明朝を期して全軍で突入しますが、同時に一切の通信機を破壊し、暗号書は焼却します。
皇国の無窮をお祈りしております」
 天皇陛下は、この報告を静かに聞かれ、そしていくつかの質問をされた後、最後に、
「アッツ島の山崎部隊長に電報を打て」と命ぜられました。「アッツ島部隊は最後まで
非常によくやった。そう私が言っていた、と打て」と。
 しかし、その時点ではもうすでに山崎部隊は玉砕した後で、この世にはいないのです。
また、たとえ電報を打ったとしても、通信機も壊されていますから絶対に届くはずがあり
ません。陛下のお言葉をいぶかった報告者が、おそれながらもそのように申し上げると
、陛下は、こうおっしゃったのです。
 「届かなくてもいいから、電報を打ってやれ」。
 陛下の仁慈の御心に触れた報告者は、はっとしたその瞬間に、涙があふれ出て止ま
らず、陛下のお言葉を手帳に書き写すこともできなくなったといいます。

63 :
【島を照らし出したサーチライト】
 昭和天皇が27歳で即位された後の1931(昭和6)年11月、九州の鹿児島から軍艦
に乗って帰京されるときのことです。陛下が夜になって暗くなった海に向かって、
一人挙手の礼をされているのを、お付きの者が見つけました。
 不思議に思い、海のほうを見ると、遠く暗い薩摩半島の海岸に、天皇の軍艦をお
見送りするために住民たちが焚いたとみられるかがり火の列が見えました。何と、
陛下はそれに向けて答礼をされていたのでした。お付きの者は、陛下のそのお姿
に深く感銘し、さっそく、軍艦からサーチライトが点灯され、海岸を照らし出しました。

64 :
小1の秋に母親が男作って家を出ていき、俺は親父の飯で育てられた。
当時は親父の下手くそな料理が嫌でたまらず、また母親が突然いなくなった寂しさもあいまって、
俺は飯のたびに癇癪をおこして大泣きしたり、喚いたり、
ひどい時には焦げた卵焼きを親父に投げつけたりなんて事もあった。
翌年、小2の春にあった遠足の弁当もやっぱり親父の手作り。
俺は嫌でたまらず、一口も食べずにちょっとずつわけてもらったおかずと、
持っていたお菓子のみで腹を満たした。
弁当の中身は道に捨ててしまった。
家に帰って、空の弁当箱を親父に渡すと、親父は俺が全部食べたんだと思い、
涙目になりながら俺の頭をぐりぐりと撫で、
「全部食ったか、えらいな!ありがとなあ!」
と本当に嬉しそうな声と顔で言った。
俺は本当の事なんて勿論言えなかった。
でも、その後の家庭訪問の時に、担任の先生が俺が遠足で弁当を捨てていた事を親父に言ったわけ。
親父は相当なショックを受けてて、でも先生が帰った後も俺に対して、怒鳴ったりはせずにただ項垂れていた。
さすがに罪悪感を覚えた俺は、気まずさもあってその夜、早々と布団にもぐりこんだ。
でも、なかなか眠れず、やっぱり親父に謝ろうと思い親父の所に戻ろうとした。
流しの所の電気がついていたので、皿でも洗ってんのかなと思って覗いたら、 
親父が読みすぎたせいか、ボロボロになった料理の本と遠足の時に持ってった弁当箱を見ながら泣いていた。
で、俺はその時ようやく自分がとんでもない事をしたんだって事を自覚した。
でも初めて見る泣いてる親父の姿にびびってしまい、謝ろうにもなかなか踏み出せない。
結局俺はまた布団に戻って、そんで心の中で親父に何回も謝りながら泣いた。
翌朝、弁当の事や今までの事を謝った俺の頭を親父は、またぐりぐりと撫でてくれて、
俺はそれ以来親父の作った飯を残す事は無くなった。
親父は去年死んだ。
病院で息を引き取る間際、悲しいのと寂しいのとで、頭が混乱しつつ涙と鼻水流しながら、
「色々ありがとな、飯もありがとな、卵焼きありがとな、ほうれん草のアレとかすげえ美味かった」
とか何とか言った俺に対し、親父はもう声も出せない状態だったものの、微かに笑いつつ頷いてくれた。

65 :
492 名前:公共放送名無しさん
投稿日:2009/07/22(水) 11:21:21.23 ID:Mvubkcbt
まぁ、書くか。YS-11Mの機上整備員です。
週1の定期便(硫黄〜南鳥)で行くのですが、偶に山の上で手を振ってる人がいるんですよ。
硫黄の隊員かなと思ってたのですが、
先輩、いつもあの山の上で手を振ってくれる人居ますね!あ、お前も見たのか。。。。。
下に降りたらローマスにその話してみろ。
ロードマスターに上記の話をしたらどうも旧軍の霊らしいと。
日の丸を見て友軍が来たと歓迎してくれてるようだと。
その翌日に鎮魂碑に手を合わせてから見ることが無くなりました。
今も、定期便時(厚木→硫黄)は内地から和菓子、水、酒、弁当を1組積んで飛んでいきます。
こういう話も、有る定期便か硫黄に向かうとき天候悪化で滑走路が見えずもう1度トライして
だめなら帰ると言うときに硫黄の滑走路端に灯りが見え無事にタッチ。
Pが礼を言いに行くと誰もサーチライトとかを付けてないと。

66 :
555 名前:公共放送名無しさん 投稿日:2009/07/22(水) 11:23:00.55 ID:Mvubkcbt
前出のYS-11M機上整備員です。実体験ですが、数年前の夏無事に定期便も
終わり硫黄島から厚木の帰り便大きな荷物もなく便乗者は海保職員1名。 天候晴れ、風微風。
定刻に離陸なのですがいつもより滑走距離が長い、Pも変だナーという顔。
夏の日差しの機内ほど程よい温度で弁当の後、やることもないので機内でお昼寝。
しばらくして人のざわめきというかひそひそ声でふと目がさめ機内を見回しても
海保さんが寝てる姿しか。
改めて寝直すと「これで国に帰れる」「友軍機が来てくれて助かった」とはっきり。
流石に目が覚めて後部貨物室を見回してもなにも。。。。
海保さんもやや青ざめた顔で「聴きましたか?」と2人そろって前に逃げ込んで
Pにその事を報告。
Pが「それで重かったのか、お盆も近いし」と。その後何事もなく厚木に。
機体点検をしてると耳元ではっきりと「連れて帰っていただき有り難う御座いました!」?
硫黄島に眠る英霊の方々もダイアモンドリングを眺めていたのかな。
-----
NHKの日食実況より

67 :
とんでもない良スレやないか・・・・

68 :
父上様 母上様 姉上様、 在世中は色々と有難う御座いました。
この度の醜敵米鬼に断固反攻すべく、沖縄へと選ばれて征く事になりました。
かへりみれば、私在世中は思い出深い事ばかりでした。
在世中十七年の間、父上母上様の御慈愛により、私も空の特攻として、
短い十七年を立派に散る事ができて、誠に本懐に堪へませぬ。
私も台湾沖航空戦に死場所を得たにもかかはらず、おめおめと生き延びて、
先にった先輩に対して、誠に申訳ないと存じて居ましたが、
今度破格にも漸く立派な死場所を得て、これで先輩にも、父上母上様にも
申訳ができて、何の未練も無く敵艦に突っ込んで行く事ができます。
故郷の友達諸君も職場に学窓にまた野良に、元気で一生懸命頑張って居る事と
存じますが、私から宜しく言ったと御言伝下さい。
中村の叔父様にも、その外知人にも宜しく。
今生の御別れに一筆記して、一生の離別の辞と致します。ではお体を大切に。
父上様、母上様、姉上様、御機嫌よう。            義 明
 二〇、四、一五、
 二飛曹 小野 義明 昭和20年4月28日 特別攻撃隊第二正統隊 九九艦爆に搭乗出撃  沖縄周辺にて戦死 満17歳

69 :
小野義明二飛曹の兄上の回想より
(前略)翌朝早く出発。歩いて基地に向かう途中、またも空襲警報に会い、ここでもまた足止めさ
せられました。昼ごろ解除になり、やっと山にたどり着き、二十七日の午後一時ごろ面会
することが出来ました。農家の庭先で三時間ぐらいの短い別れの一刻でした。
母が折角作って持って行った「おはぎ」も、暑さと長い時間が経った為に、味が変わって
食べられませんでした。残念でなりませんでした。
母が苦心して手に入れた白絹のマフラーと交換に、自分の首に巻いていたマフラーをはず
して私達に渡しました。これが唯一の形見となりました。
いよいよ別れるという時に「まだ死にたくない」と、唯一言呟やいたことが胸にジーン
ときました。これが最後の言葉となりました。弟から渡されたマフラーには、寄せ書がし
てありました。
散れ彗星の花吹雪    鹿島二飛曹
九州男子大いにあばれよ 原島一飛曹
悠久の大義に死す    本川上飛曹

70 :
455 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/13(月) 00:46:19 ID:/AzWYN/d
山内上杉憲政の家来に、大谷休伯という男がいた。侍と言うよりも、農政を担当する文官であった。
天文二十年(1551)の平井城落城により、山内上杉憲政は越後の長尾景虎の元に逃れるが、
休伯は軍役に関わらなかったため許され、金山城主、由良成繁の元に身を寄せた。
しばらくすると休伯は、成繁の妻輝子の実家である館林城主、赤井氏より相談を受けた。
彼の領地、館林の開拓をやってくれないか?と。
館林を調べたところ、その地は利根川と渡良瀬川という二つの大きな川による水害、
冬の強風(からっ風)で火山灰や赤土が舞う風害、火山灰などの吸水性からくる水不足に
慢性的に悩まされ、農民達も多くが貧窮していた。
特に水不足は深刻で、田植えの時期になるたびに水争いが起こる有様であった。
「これは、大変な事業になります」
この土地の問題を解決するには、長い時間と、莫大な資金と、労力が、どうしても必要であることを
説明し、それに対して覚悟があるのかということを、休伯は赤井氏に確認をした。彼らも、覚悟をした。
休伯は館林へ居を移した。事業が始まった。
永禄元年(1558年)、防風林開発に着手。場所は館林西南多々良沼のすぐ側、館野ヶ原と
呼ばれる土地で、被害の大きさと新田開拓を見越してのものである。
館林に大量の松苗はないので、由良成繁の金山城のある金山から分けてもらうことにした。
初年に植えた松は日照りにより枯れるものが多かった、それを館林の農民達は馬鹿にした。
「ほら、無理なことだ」と。
しかし翌年に、館野ヶ原に祠を造り松の成長を祈ると、今度は無事に成長した。
事業は順調に行くかと思われた。が、暗雲は一気に訪れた。永禄五年(1562)二月、北条氏に
ついていた館林赤井氏は、上杉謙信の軍勢の襲来により滅ぼされてた。
事業主体が、消滅してしまったのだ。
休伯達は呆然とするより他無かった。もはや、この事業は続けることが出来ない。

71 :
その時である
館林の村落の者達が、休伯の下に次々とやってきた。「どうか事業を、止めないでください」
資金に関しても人手に関しても、出来うる限り協力する、と言う。農民達は、休伯らが、
自分達のために働いていることを、いつしか理解していたのだ。
ここに彼らの活動は、地域事業となった。
住民達の協力により、二十年の歳月をかけて、五百十八町、518haの防風林は完成した。
この事業に必要とした松苗は115万本という。現在の多々良沼の松林はこの松の子孫である。
これにより風害が減り、開拓が行いやすくなった。
防風林開発が軌道に乗ると、休伯らは堤防と用水路の開発を同時に進めることにした。
この地方の水利から渡良瀬川と多々良沼が用水に適していると判断。荒山小左衛門の協力の元、
現在の太田市内ヶ島付近から明和町大輪、十七ヶ村、五百九十九町に至る「上休伯堀」という
長大な用水路を開発。
さらに休伯は、独力で館林市多々良沼から明和町江黒、十八ヶ村、四百九十七町に至る
「下休伯堀」を開発。
休伯堀は合わせて三十五ヶ村、約四百町に及んだ。これにより1000haもの土地に水が
供給されるようになった。
堤防の開発も進み、地域一帯の農作物の生産性は大幅に上がった。
休泊はこの大事業を、ついに成功させたのだ。
天正六年(1578)、休泊は病気により自宅で養生するようになる。熊倉善三郎に後を任せ、
天正六年八月二十九日、数年前に娶った妻と、三歳になる息子作太郎に看取られ静かに
息を引き取った。法名「大谷休泊関月居士」。

72 :
領民は誠実な人柄で開発事業を指揮してくれた休伯の死を悼み、松苗の成長を祈った館野ヶ原の
祠を神社とし、篤く弔った。
この神社は「大谷神社」と名付けられ、今も館林の人々により、大切に保存されている。
時が過ぎて昭和二十八年、四百年にわたって領民を支えた大事業に敬意を表し、休泊の墓所は
県指定史跡とされた。
戦国の、戦わなかった英雄のお話。

73 :
今現在頑張っている方のお話です。長いのでURLで勘弁してください。
ヨーロッパ大陸とアジアをつなぐ海底トンネルをトルコと日本の技術者が一緒になって
掘っていらっしゃいます。
■日本人とボスポラス海峡に海底トンネルを掘ってます■
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news5/1250376018/l50

74 :
エルトゥールル号の遭難
http://adv55.seesaa.net/article/45661464.html
「今から117年前、明治23年9月16日、和歌山県の串本町を台風が襲いました。
 そのとき一艘の大型船が遭難しました。
 そんな遭難した人たちを救おうと村の人たちは必死で救出作業をしました。
 今日はそのお話をします。」
 灯台の灯り以外は見えない嵐の夜の海。
 灯台守は大きな船が岩に激突して爆発する音を聞きました。
 急いで灯台の下に下りると傷ついた一人の船員が倒れていました。
「あなたのお国はどこですか?」と聞きましたが言葉が通じません。
 やがてこの船員がトルコの人でエルトゥールル号というトルコの船であることがわかりました。
 さらに多くの船員が海に投げ出されたことを知りました。
 さっそく灯台守は救出のために真っ暗な夜の道を走り村の人たちに助けを求めました。
 村の人たちは総出で救出作業をしましたが、500人以上もの人が命を落としていきました。
 それでも1人でも命を救おうと村の人たちは裸になって船員たちの体温を温め、
 必死に励ましの言葉を投げかけました。そんな思いが通じて69人が息を吹き返しました。
 助かった69人は村のお寺と小学校に収容されました。
 しかし、当時村は貧しくておまけに台風で漁ができなかったので、
 食料がどんどんなくなっていったのです。
 そんな状況の中でも村の人たちは69人のトルコの人たちを助けたい思いでいっぱいでした。
 当時それぞれの家では非常食として鶏を飼っていました。
 でも、鶏を食べてしまったらもう完全に食べ物はありません。
 それでも村の人たちは鶏を料理してトルコの人たちに食べさせてあげたんだそうです。
 http://homepage1.nifty.com/nice-wakayama/index/turkey.swf
 http://homepage1.nifty.com/nice-wakayama/index/turkey.htm

75 :
大日本武徳会は明治28年(1895年)、日本の武道の振興、教育、顕彰を目的として設立
された財団法人。
昭和17年(1942年)からは、武道関係組織を統制する政府の外郭団体となる。昭和21年(1946年)、
連合国軍最高司令官総司令部指令により解散した。関係者の公職追放は1,300余名に上った。
終戦後、GHQの武道禁止令に伴い、占領下に没収された大日本武徳会がかつて撮影
した映像がこの度、米公文書館にて新たに発見された。
これは明治28年(1895年)、大日本武徳会が設立するに伴い、「最後の侍」「精義入神」
と讃えられ、最高所長官、陸軍大臣、海軍大臣、警視庁長官、乃木希典大将、東郷平八郎元帥、
大山巌元帥らの連名により、「永世名人」の称号を贈られた達人の神業を後世に伝える
ために撮影された伝説的記録映像である。
僅か40秒のこの映像の中に武士道の神髄。日本精神の全てが現れている。
http://www.youtube.com/watch?v=So31c7mTT5k

76 :
エルトゥールル号の話はYouTubeにも沢山あるね。

77 :
>>75

舐めんな

78 :
家には大日本武徳會設立趣旨とか書かれた紙がベタベタ貼られた箱がある

79 :
自分が柔道の初段を取った時に講道館に送った申請書が今だに旧カナ使いの書類で
「旧武徳会にて・・・したる者は・・・べし」云々とか書いてあったよ。
ちなみに武徳会は一旦GHQに解散させられたが復活して今もある。
出家した旧皇族の門跡が会長だよ。

80 :
日本の流行歌の歴史。それは軍歌の歴史。
官軍マーチ、抜刀隊、雪の進軍・・・軍歌の歴史を辿る。
アムール河の流血→歩兵の本領→メーデーの歌への変遷も紹介。
流行歌の歩みは軍楽隊の歩み。
ネット流行語大賞「アサヒる」の生みの親、桜林美佐がお届けします!!
チャンネル桜
「日本流行歌の黎明」
その1http://www.youtube.com/watch?v=TfdHs5npesk
その2http://www.youtube.com/watch?v=-9EAIkCQ18A
その3http://www.youtube.com/watch?v=mMcxN_3_GoI
その4http://www.youtube.com/watch?v=DIfezs7lpz4
その5http://www.youtube.com/watch?v=egKTEmccMFE
おまけ
「アサヒる」誕生秘話
http://www.youtube.com/watch?v=f-TXkfXyyKg

81 :
彼らは自分だけ助かろうとはしなかった
[國民新聞6月25日発行より]
10年前、私たちが尊ぶべきサムライがった。
平成11年11月22日、航空自衛隊のパイロット2名が、埼玉県狭山市の河川敷に墜落、殉職した。エンジントラブルを察知し、あらゆる
手を尽くしたが、もはや脱出しかない、と判断を迫られた瞬間、彼らの眼下には民家が広がっていた。見知った飛行コースである。
自分の生命が助かったとしても、それとひきかえに市街地はどのような惨事となるか。
 「ベールアウト(緊急脱出)!」
管制塔に脱出を宣言してからも、彼らは脱出することなく、コントロールのきかない機体を人のいない河川敷までどうにか運んだ。だ
が、エンジンの止まった飛行機はどんどん地上に近づいていき、彼らは草むらに叩きつけられ、亡くなった。
 その直前、高圧送電線を切断し、近隣都市が停電した。世間は自衛隊を責め、防衛庁長官(当時)を詰り、空自関係者は謝罪に奔走
した。
なぜ、彼らを讃えない? 彼らには助かる選択肢もあったのだ。しかし彼らは自分だけ助かろうとはしなかった。地上の生命・安全を
守りきって、彼らはった。もしこんな時代でなければ彼らは〈神〉であった。
事実、台湾の「飛虎将軍廟」に神として祀られた帝国海軍のパイロットがいる。彼は昭和19年10月、台南上空で米軍機と戦闘中に猛攻
を受け墜落しかけるが、 地上の集落への被害を避けるため脱出せず、必死で機体を上昇させるや無人の場所まで飛び続け、ために敵
弾に散った。その一部始終を見ていた台湾住民たちは、身を捨てて村を守ったパイロットを「飛虎将軍」として崇め、現在も朝は「君
が代」、夕には「海ゆかば」を歌ってお祀りしている。
また昭和5年には、英国留学中の帝国海軍パイロットは、ロンドン上空を操縦中、空中火災事故にあって全身火だるまの重傷を負いな
がらも脱出しなかった。ロンドン市街に被害を出さないよう機体を捨てず郊外まで飛行を続けたのである。このニュースは英国中を感
動させ、英国人子弟の道徳教育にも資された。これが日本人の武士道であり、尊ぶべき歴史なのだ。
歴史を奪われなかった台湾の人々はいまも彼を敬い、一方の日本では、自衛隊機の墜落がいかに民間に迷惑をかけたか、こぞって報道
した。
何かおかしくはないか?
「何かが絶たれてゐる。豊かな音色が溢れないのは、どこかで断弦の時があつたからだ」
 三島由紀夫の『文化防衛論』の冒頭の一節に、強く共感する。我々が讃えるべき英雄、そして彼らが守り伝えてきた我々の歴史が断
絶している。これを我らの手で取り戻し、彼らの列に連なりたいと思う。
《自由主義史観研究会広報 「歴史と教育」編集長 飯嶋七生》

82 :
38 名前:ななしのいるせいかつ[sage] 投稿日:2009/09/05(土) 20:10:53
2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。

少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
 寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
 夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
 私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
 あんたらにわかるか?
 消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
 でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」

最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女が門をくぐった時に守衛さんは彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。

83 :
かつて、武士道を実践した、日本人が誇るべき武人がいた!
第二次大戦中、日本海軍に撃沈され、漂流中に駆逐艦「雷」に救助されたフォール卿の自伝。
『ありがとう武士道―第二次大戦中、日本海軍駆逐艦に命を救われた英国外交官の回想』
サム・フォール著 中山理監訳/先田賢紀智訳 麗澤大学出版会
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4892055816/ref=mem_taf_books_d

84 :
296 名前: 癒されたい名無しさん 投稿日: 2005/09/15(木) 18:04:52 ID:eui4GNxb
俺が中学生の頃、日本史担当の教師が、「日本は戦争責任が〜」と授業で述べた。その女性教師は、普段から授業でそんな事を言うってのは結構知られていた。
中にはそうじゃないヤツも居たんだろうけど、多くの生徒は彼女に感化されていたと思う。
んで、うちのクラスでもそんな話をしてたんだけど、その時1人の男子生徒が彼女の話を中断させた。彼は某国と日本のクォーターだった。
普段からあんまり喋る方じゃなかったんだけど、その時は全然違ってた。
生徒「俺のじいちゃんは、日本の兵隊に優しくしてもらったって言ってました。皆礼儀正しく、差別もしない人達だったって」
教師「でも、酷いことも…」
生徒「後から来た、アメリカの方が酷かったって言ってました」
教師「貴方のような考えの人もいるかも知れないけど、それはごく一部で…」
生徒「ごく一部じゃ駄目なんですか?」
教師「そういうことじゃなくて…」
生徒「俺のじいちゃんの国は凄く小さいです。他の国に比べれば全然重要じゃないかも知れないけど、日本人は、そんな国も大事にしてくれたって言ってました。
戦争の時、仲良くした日本兵はみんな笑って出掛けて行って、誰も帰ってこなかったと言ってました。国旗も日本を真似ました。みんな、日本を尊敬しています」
このとき初めて、パラオという国を知った。それと同時に、遠い南洋の島を守って果てた、多くの日本兵の存在に泣けた。

85 :
日本海海戦で負傷したロシアバルチック艦隊司令長官=ロジェストウィンスキー を見舞う。
東郷元帥  「はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、武運は閣下に利あらず 御奮戦の甲斐なく、非常な重傷を負われました。
今日ここでお会い申すことについて 心からご同情つかまつります。われら武人はもとより祖国のために生命を賭けますが、 私怨などあるべきはずがありません。
ねがわくば十二分にご療養下され、一日もはやく ご全癒くださることをお祈りします。(略)」
ロジェストウィンスキー (涙をにじませながら) 「私は閣下のような人に敗れたことで、わずかに自らを慰めます」

86 :
駅の待合室で座っている外国人のお兄さん。大きなリュックを抱えているので
  おそらく旅行に来ている人なのだろうが、少し様子がおかしい。
  見ると、手にはセブソイレブソのオニギリ(シャケ)。そのオニギリをくるくると回して色々な方向から見たり、
  ラベルにじっと顔を近付けて懸命に注意書きを読もうとしている外国人。
  どうやら開け方が分からないらしい。
  開け方を教えようか迷っていたら、突然
  「ん」
  と小さな声が聞こえた。
  声の主は外国人の隣に座っていた、日本人のちっちゃなおじいちゃんだった。
  おじいちゃんは自分を指差し、オニギリを指差し、外国人の目をじっと見て、
  「ん」
  ともう一度言った。「俺が開け方を教えてやる」というジェスチャーらしい。
  外国人はおじいちゃんを見、オニギリを見、少し迷ってからオニギリをおじいちゃんに渡した。
  おじいちゃんはそれをまた
  「ん」
  と呟いて受けとる。
  おじいちゃんはまず、オニギリの真ん中のビニール(@と書いてある)を縦に途中まで裂き、
  「ん?」
  と外国人に確認した。こくこくと頷く外国人。

87 :
 次におじいちゃんはオニギリの両端(AとB)を持って
  横にくいくいと引っ張るジェスチャーをし、また
  「ん?」
  と確認。こくこくこくこくとさらに頷く外国人。真剣な顔が可愛い。
  おじいちゃんは外国人が頷くのを確認すると、そこからはちょっともったいぶって、
  ズッズッとゆっくりビニールをずらしていく。
  「オゥ……オォゥ…オゥ…」
  ビニールの動くのに合わせて小さく歓声をあげる外国人。
  「んふ……んふふ…ふふ」
  そんな外国人のリアクションが嬉しくて、自然と笑みのこぼれるおじいちゃん。
  そしてついに
  バリリッッッ
  「オオオオオオオオッ」
  まっ二つに裂けるオニギリビニール。
  ひときわ大きな歓声をあげる外国人。
  おじいちゃん、そんな外国人に満面の笑顔、ニコーッ。
  「アーッハハァー!ヒョウ!」
  オニギリが裂けたのが嬉しくて仕方の無い外国人。
  何故かおじいちゃんの肩や腕をベタベタベタベタと触りまくる。
  「んっふふ、んふふふふふ」
  クシャクシャの笑顔で、触ってくる外国人を
  肘でつんつんつんつんつっつき返すおじいちゃん。本当に幸せそう。
  その日一日、俺もずっと笑顔だった。

88 :
121 名前:無情男[] 投稿日:2008/12/02(火) 15:33:08 ID:W0s8u+Zq
東京で単身赴任してたとき、連休とかにはいつも嫁が来て、家のことなどしてくれていた。
母にも、たまには東京来いよと言ってたんだけど、人混みが苦手だと決して来なかった。
そんな母が脳梗塞で突然死んじゃって、呆然としたまま遺品を整理していたら、
東京のガイドブックが出てきた。
皇居とか、浅草とかベタなところに一杯赤鉛筆で線引いてあって、何度も読み返したらしくボロボロになってた。
親父に聞いたら、行きたかったんだけど嫁の方ががいいだろうって我慢してたんだそうだ。
自分は肉が嫌いなくせに、俺の好きそうな焼肉屋とかにも一杯線引いてあって、
俺と一緒に回るのを夢見てたみたい。
俺は、お義理で誘っただけなんだけど、誘われた後は何回も何回も息子が来いと言ってくれたと喜んでいたらしい。
一緒に行きたかった場所には、俺の名前が書いてあって、それがたくさんたくさん書いてあって…
死に顔を見たときよりも、葬式の時よりもすっごく泣いた。
田舎に戻った今でも、生きてる間に呼ばなかったこと後悔している。

89 :
ベルギーが示した日本への信義
http://allatanys.jp/B001/UGC020006120100208COK00481.html
大正12年(1923)9月1日、午前11時58分。関東地方南部に未曾有の大地震が発生した。
ベルギー本国から義援金10万フランが、電報為替で送られて来る。12日のことであった。
王室と政府が一丸となって、ときのヤスパール外務大臣による
「日本人罹(り)災者救援ベルギー国内委員会」を結成。
全土で緊急のコンサートやバザーが展開される。
ベルギーの人々は、その9年前の日本人への恩義に、報いようとしたのであった。
日本の大正3年(1914)の夏、ヨーロッパでは第1次世界大戦が勃発。
ベルギー政府がフランスへ亡命する中、国王アルベール1世は、敗残兵を集め、
叱咤激励しつつ、フランスとの国境の町・フェルヌの近郊――エイゼル川
(フランス語ではイーゼル川)の線で、からくも踏みとどまり、頑強な抵抗をつづけた。
この模様が、日本に報じられたのである。国家存亡の危機に際して、国王とベルギー国民が
一致団結して国難に立ち向かう姿が、ときの日本も立憲君主制であったこともあり、
大きな感動を呼んで伝えられた。
日本人はこぞって、ベルギーの人々の姿を自分たちに重ね合わせて祈った。
「あの人たちを、飢死させてはならぬ」。
日本の新聞社はいずれも、ベルギーの人々を励ますための募金活動を開始する。

90 :
オレラグビーしてたんだが、あるチームが試合前に円陣組んで気合い入れに「勝つぞー!」とか言ってた。
で、ヒマだったからソレ見てた。
キャプテン「勝つぞー!!」
チーム「オオー!!!」
キャプ「もういっちょう!!勝つぞー!!!」
チーム「オオオー!!!」
「勝つぞー!!!!!!!!」
「ウオオオオオオオ!!!」
「カツゾーーー!!」
「ウオッシャアアアアアアアアアア!!!!」
「カツゾ・・・・ゴホッーーーーーーーー!!!」
「イアアアアアアアアアアア!!!!」
「カ・・・カジュジョ・・・・・ゴホッゴッホーーー!!」
で、そんなやりとりがずっと続いて・・・・・
10分後
キャプテソ「グギョボロペチョクロソ!!!」
チーム「ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼっぼおbっぼくあsでfhsづ!!!!」
ちなみにそのチームは一回戦で敗退したWWWW

91 :
大型輸送機を見逃す
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E
1942年初頭、オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)
・ジャワ島の敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するため
に味方編隊から離れた坂井は、偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる
軍人・民間人を満載したオランダ軍の大型輸送機に遭遇した。
坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を考えた。
味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、
坂井は輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいた。
その様子を見てさすがに闘志が萎えた坂井は、当該機を見逃す事に決めた。
坂井は敵機に手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。
攻撃せず、あまつさえ逃亡を許した背命行為は重罪であり、
また軍律違反はいかなる理由にせよ恥ずべきことだと感じていた坂井は
戦後の著作にもこの件を記述しなかったが、年を重ねるに従って考え方が変わり、
終戦から50年近く経った頃の講演会で初めてこのことを明かした。
なお、これと同じ頃、当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦が、
「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会したところ、
当該パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いた。
2人は再会し、互いの無事を喜び合った。

92 :
青山繁晴 硫黄島は生きるヒントを語る 070616 Part1
http://www.youtube.com/watch?v=7G269A3NOCo
青山繁晴 硫黄島は生きるヒントを語る 070616 Part2
http://www.youtube.com/watch?v=j6XQNqUtwCE&feature=related
青山繁晴 硫黄島は生きるヒントを語る 070616 Part3
http://www.youtube.com/watch?v=h3OMoIBOuvY&feature=related
戦争の末期だからツリハシなんてないんですよ、小さなトンカチで掘るんですよ。
穴を掘っていくと気温70度になったそうです。
奇跡の壕を作ったから36日間も持ちこたえた。31日間も余分に戦ったので、
最後にみんな死にましたが、31日分の女性と子供が助かったのです。
だれか一人でも自分のために、自分の利益のために掘った人はいたんですか、
みんなが女性と子供のため、みんなの未来のために掘ったではないですか。
遺骨収集は、厚生省や外務省がある程度は協力している、
しかし、本当は生き残った方の自費で行ってきた。
だから、60年間で8千人の遺骨しか回収できなかったです。
死んだアメリカ兵は全部ケンタッキー、ニューヨークとか故郷に帰し、
生き残った人は国費で硫黄島をたずねるんです。慰霊のためひ孫にいたるまで。
日本は、亡くなった人、生き残った人も忘れたまま、この違いはなんなんですか。

93 :
11 :名無シネマ@上映中:2010/02/19(金) 18:44:32 ID:WszMMDuo
Youtubeから削除されてしまった青山繁春さんのライブトークです。
お時間があれば、ぜひ観てみてください。
青山繁春「硫黄島は生きるヒント」を語る Part 1〜3
http://www.dailymotion.com/video/xcab02_%E9%9D%92%E5%B1%B1%E7%B9%81%E6%99%B4-%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B-070616-part1_news
http://www.dailymotion.com/video/xcab16_%E9%9D%92%E5%B1%B1%E7%B9%81%E6%99%B4-%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B-070616-part2_news
http://www.dailymotion.com/video/xcab16_%E9%9D%92%E5%B1%B1%E7%B9%81%E6%99%B4-%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B-070616-part3_news

94 :
そんなことより>>1さん聞いてよ。
昨日は仕事が休みで外出してました。いつもなら暗くなるまで帰らない私が...まだ明るいうちに家vに着いた。
もちろんホ...そこからもう1度外出するつもりで...いつもなら玄関を開けると飛んで出てくるうちのかわいい子が出てこないO...まぁA...B日前から調子悪そうやったから寝てるんやと思って着替えて外出しょうとしました...
玄関まで行ってやっぱり気になるから寝室を覗いてみたら...やっぱり寝てるJけど...不安になって名前を呼んでみた...
「ポーちゃんa」ピクリとも動かないLLL何度も何度も名前呼んで揺すって見た...動かないの...全然...
まだ温かいのに...誰も居ない寒い部屋で1人きりで息を引き取った..うちの愛犬が...いとおしくて...
昨日から涙が出っぱなしS...すぐにペット葬儀社に連絡して...今日荼毘に臥してきました本当は今日仕事だったけど…会社にムリを言って早退させてもらって..
会社の皆さん迷惑かけてごめんなさい...たかが犬(^・ェ・)なのにと怒らないで...
14年間一緒に過ごした大切な家族なんです。m(__)m他人から見たらただの犬だけど...
うちにとっては我が子も同然なんです。最後を見取ってあげる事が出来なかったのが唯一の心残りです。
もう..A度とペットを飼うことはないと思う沢山癒してくれた分..いなくなった時の反動は計り知れないL
ってことです。

95 :
「格差が出ることは悪いとは思わない。成功者をねたんだり、能力のある者の足を引っ張ったりする風潮を慎まないと社会は発展しない」
  (小泉純一郎 第89代内閣総理大臣 世襲3世)
「格差なんていつの時代でもある。じゃあ朝日新聞の給料はいくらなんですかと言ったら終わっちゃう話なんだよ」
  (安倍晋三  第90代内閣総理大臣 世襲3世)
「少子化を憂う必要はない、格差社会が広がりコンドームを買えない貧困層が増えれば子どもはすぐ増える」
  (中西輝政  国際政治学者 京都大学大学院人間環境研究科教授 安倍晋三ブレーン)
「競争が進むとみんなが豊かになっていく」
  (竹中平蔵  経済学者 元政治家 パソナ特別顧問)
「格差があるにしても、差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない」
  (奥田 碩  元日本経団連会長 元トヨタ自動車会長)
「パートタイマーと無職のどちらがいいか、ということ」
  (宮内義彦  オリックス会長 元規制改革・民間開放推進会議議長)
「非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」
  (三浦朱門  作家 元文化庁長官 元教育課程審議会会長)
「格差論は甘えです」
  (奥谷禮子  人材派遣会社ザ・アール社長 日本郵政株式会社社外取締役 アムウェイ諮問委員)
「格差は能力の差」
  (篠原欣子  人材派遣会社テンプスタッフ社長)
「フリーターこそ終身雇用」
  (南部靖之  人材派遣会社パソナ社長)
「日本で払う給料は、間違いなく中国で払うより高い。労働者が、もの凄く安いコストで働いているというようには私は思っていません」
  (折口雅博  日雇い派遣グッドウィル・グループ会長 元経団連理事)
「業界ナンバー1になるには違法行為が許される」
  (林 純一  人材派遣会社クリスタル社長)

96 :
今から数年前になりますが、ペナン島(マレーシア)で年老いた
インド系のサムロー運転手と話したことを思い出しました。
年老いて痩せこけたサムロー(三輪自転車タクシー)運転手の彼は
日本からペナン島へ観光に来る女性をベタ褒めしていました。
どうベタ褒めしていたかというと、「私はインド系で貧乏な年寄りのサムロー運転手だ。
ペナン人も欧米人もみんな自分のことを馬鹿にした態度をする。
でも日本の女性だけは決して自分を馬鹿にした態度をしようとない。
「日本人は良い」と言っていました。観光客には欧米人も多いのですが、
「日本人(特に女性)の育ちの良さ、礼儀正しさは世界一」なのだと思いました。

97 :
ただひとつ心を汚すな。それが日本人だ。
724 :本当にあった怖い名無し:2009/09/04(金) 14:31:38 ID:0U0ZTix/0
うちの婆ちゃんから聞いた戦争のときの話。
婆ちゃんのお兄さんはかなり優秀な人だったそうで、
戦闘機に乗って戦ったらしい。
そして、神風特攻にて戦死してしまったそうです。
当時婆ちゃんは、製糸工場を営んでいる親戚の家に疎開していました。
ある日の夜、コツンコツンと雨戸をたたく音がしたそうです。
だれぞと声をかけども返事はなし、
しょうがなく重い雨戸を開けたのですが、それでも誰もいない。
婆ちゃんは、それになにか虫の報せを感じたそうで、
「兄ちゃんか?」と叫んだそうです。返事はありませんでした。
その後戦争が終わり、婆ちゃんは実家に戻りました。
そしてお兄さんの戦死の報せと遺品、遺書が届いたそうです。
婆ちゃんは母親、他の兄弟たちと泣いて泣いて悲しみました。
遺書には、お母さんや他の兄弟について一人一人へのメッセージが書いてありました。
婆ちゃん宛には、次のように書かれていたそうです。
「キミイよ。兄ちゃんが天国いけるように祈ってくれ。弁当を食べてからくから、空腹の心配は無い。
 この国を、日本を頼んだぞ。負けても立ち上がれ、誇りを捨てるな。
 まずしくともよし、泥をかぶってもよし。かねを持っても、うまいものを食ってもよいのだ。
 ただひとつ心を汚すな。それが日本人だ。心を汚されたときこそ、おこれ。
 黄色のりぼんがよく似合っていた。兄はいつも共にある。うつくしくあれ、キミイよ。」
 
婆ちゃんは疎開先の製糸工場にいるとき、当時出来たばかりの新商品である黄色のヒモを
毎日お下げに巻いていたそうです。
お兄さんにその黄色のヒモを見せたことは一度も無かったので、
あの雨の日にワタシに会いに来たんだと、婆ちゃんは生涯信じていました。

98 :
(つд`)

99 :
【小林よしのり涙目】水島社長の正論つめあわせ!!!チャンネル桜
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9978881
http://www.youtube.com/watch?v=HpFF8jd68aw

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