2011年10月1期文学文学掲示板つぶそうぜ! その5
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文学掲示板つぶそうぜ! その5
- 1 :11/11/21 〜 最終レス :11/11/28
- 続きがなかったから立てた
- 2 :
- 前スレどこですか
- 3 :
- 鈴木によって、最早、壊滅状態ですが
- 4 :
- 鈴木とあまなと将臣ね
- 5 :
- 仏教哲学とニーチェとの違い。
徹底的なリベラリズムと徹底的なエゴイズムの共存って点では共通してる。
が、ベクトルが違う。
徹底的な自己肯定から産まれる「無限から無」の関係性は上から下に落ちていく動き。
悲。衝動。性愛。意志から自由への動き。信仰から堕落への動き。デュオニソス。アンナ・カレーニナ
徹底的な自己否定から産まれる「無から無限」の関係性は下から上に登っていく動き。
美。覚悟。理知。自由から意志への動き。堕落から信仰への動き。アポロン。リョーヴィン
俺は前者に関してはビョーキだと思う。
必ずどこかで自己肯定のブーストを掛けて意志の補強をする必要がある。
ついでにルサンチマンを抑圧するそれこそ無限の闘争。
常に他者を排撃する必要がある。それで担保出来なければ妄言を吐き、常に自分の価値を証明し続ける戦いになる。
後者に関しては必ずしもそうとは言えないんじゃないのか。
自己否定のブーストを掛けるために希死念慮を常に補強して意志を回す必要がある。
ルサンチマンが産まれようもない。(まあ他人から見て区別付かねえんだろうが。)
ただ、論理的に間違ってる奴や思い上がってる奴を徹底的に叩かないと気が済まない。
”美しい彫刻の存在”と”偶像崇拝の禁止”なんて本質的に成り立たねえんだよ馬鹿野郎。(←まあ最終的には自立論証で潰せるが。)
常に万人を同じ土俵に引きずり下ろし「父の名」を全ての人間に適用したいと願う。
「この俺ですらいつかは死ぬんだからてめえが不老不死(論と理で説明が付かない何者か。神の絶対性とか。無限。)で居続けるのは許さねえ」というような理屈。
ニーチェは出発点と力への意志を発露させる方法と永劫回帰が間違ってる。
性愛や衝動は一過性。
諦観や覚悟は持続的。
まあまあどっちとも狂ってるよな。
後者はもう一言で言えば「お前ら全員マゾになれ」で済むな。
永劫回帰が何故間違ってるのかは後述。
- 6 :
- 有限って一体どーゆー事なのか
まあまあ弁証法的に解明できること、デジタルに0と1だけで表現できること、当然に複写が出来ること、ととりあえず定義しとけよ
時速50kmで走る車を想像して欲しい。
頭の中で。実際に描くんだ。コンビニから外出たらだいたい50km/hぐらいで走ってる車ってあるだろう。
この車を見て「50km/hぐらいだなあと思う気持ち」というのは先験的でもあり後天的でもある。
そもそも「50km/hの車」というものを万人に普遍的に計測出来るものなのか?という問い。
これは観測地点Aと観測地点Bを設定(始点と終点を定義することで有限を擬制)してその平均速度を計測することは可能だ。
ただこれをやっても、50km/hで走る軽自動車(対象を限定するために”軽自動車”を固有名詞として使う)を見て
「早いなあ」とか「遅いなあ」という「気持ち」の問題はここには含める事が出来ない。
つまり、「50km/hで走る車」は普遍化する事が出来るが「50km/hで走る軽自動車」は普遍化する事が出来ない。
これはクオリアと同じ事を言ってる。
”赤”というシニフィアン(文字・デジタルな情報・有限を擬制された普遍的な言葉)には
赤色を見て感じるシニフィエ(質感・意味性)は必ず共通しているとは言えない。
「”車”や”赤”というシニフィアンは、必ずしも”軽自動車”や”赤色”を扱っているとは言えない。」
”気持ち”や”印象”ってものは普遍化された情報としては定義出来ない無限の世界の言葉。まあ”鬼火”だな。
もう一例出してみようか。
「川の流れの速さ」は計測可能か?
上流の観測地点Aと下流の観測地点Bを設定して(有限を擬制)して、
質量ゼロと見做せる程度の舟を浮かべるとか、水との比重をほぼ同じと見做せる色付きの水でも流してやれば数学的には測定が出来る。
ただこれをやっても「気持ち」の問題は測定が出来ない。
ここで最初の問題提起に戻る。
「先験的なのか?後天的なのか?」
1.現象として実際に現れる視覚的な川の流れの速さについての「感じ」はとりあえず先験的といえる。
2.数字・文字・言葉によって有限を擬制された情報についての「感じ」はとりあえず後天的といえる。
- 7 :
-
では次の問いに移る。
「”時間”というのは普遍的なんだろうか?」
たとえば100人の人間にストップウォッチを持たせて「10.00秒」を計測する事は可能だ。
0.01秒刻みの断続(有限)を積み重ねることで、ある程度までは共通の情報として普遍化する事が出来る。
ただ、それをやったところで”10秒という長さ”に対する「気持ち(先験的)」の問題は共有出来ない。普遍化出来ない。
走馬灯が走ってそいつだけ時間が加速することや、周りの者が止まって見えるような精神状態というのはクオリアを普遍化出来ない限り論理的に有り得る。
大体が1日24時間というものが擬制されたもので実際はもう少し短いし、閏年だって来るんだ。そもそもが無理数なんだ。
「長さ」も「重さ」も「言葉」も何もかも。有限を擬制されたものは須らく相対的で社会的でそいつ自身の”存在”証明は誰にも出来ない。
仮に時間というものが断続された有限のものであったとすれば、あー、、、
「過去」という観測地点Aと「未来」という観測地点Bに挟み込まれた終りのある有限なのだとしたら複写は可能だ。永劫回帰は正しいかもしれない。
しかしその観測地点AとBについて一体誰が証明出来るんだ?有限を擬制しないと出てこないんじゃないのか?
仮に有限なのだとしたら、過去と未来を折りたたんで現在に圧縮していっても必ず芯が残る。完全な無音が無いように完全な音も無い。
芯が残ると言うことは弁証法的に言明出来るし模写する事は可能だしデジタルだからパラレルワールドも成り立つ。記録。
仮に無限なのだとしたら、過去と未来を完全に折りたたむ事が出来るのだから
不老不死(無限の精神・徹底的なエゴイズム・自己本位・天上天下唯我独尊)は可能だし
雲散霧消(無の精神・徹底的なリベラリズム・則天去私・アガペー)することも可能だ。というかある意味では同じものだ。記憶。
- 8 :
- 別の視点から考えてみよう。多分これ積さんと同じ事言ってると思うんだけどややこしい話になるよ。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1312311900/
一次元はタテが無いヨコだけの世界。
そこに刻まれた”点”は厳密に言うと定義出来ないクオリアだ。
横軸は定義出来るが縦軸は定義出来ないので「その”点”が存在していることを誰も証明出来ない」
二次元はタテとヨコがあるがタカサが無い世界。
そこに現れた”線”は定義出来るが”面”としての定義は不可能だ。
すなわち、”線”としては普遍化されたデジタルな情報として扱う事が出来るが、”面”としての存在証明は誰にも出来ない。
三次元はタテとヨコとタカサがあるがジカンが無い世界。
そこに現れた”観念としての立体”は定義出来るが”実体を伴った存在”の定義は不可能だ。
四次元はタテとヨコとタカサとジカンがある世界。
そこに現れた”実体を伴った存在”は定義出来るが”クオリア”の定義は不可能だ。
今まで見て来たように
一次元では”ヨコ”しか定義出来ていなかったが二次元では”タテ”が定義出来ていた。
二次元では”ヨコとタテ”しか定義出来ていなかったが三次元では”タカサ”が定義出来ていた。
三次元では”ヨコとタテとタカサ”しか定義出来ていなかったが四次元では”ジカン”は定義出来ていた。
四次元では”ヨコとタテとタカサとジカン”しか定義出来ていなかったが五次元では”実体を伴った存在”は定義出来ていた。
斯様に、
「もしも四次元が時間軸なのだとして、五次元というものの存在を認めるならば、
時間については有限を擬制した普遍的なデジタル情報として扱う事が出来る。」といえる。
- 9 :
-
更に演繹する事も出来る。
変数に”クオリア”を当て嵌めることで以下のような事が言える。
五次元では”タテとヨコとタカサとジカンとクオリア”が定義出来るので、六次元では”クオリア”を有限として扱うことが出来る。
もっと分解してみても良い。
六次元では我々がクオリアとして感じられる”速さの質感”を代入出来るし、”色の質感”や”鬼火”や”宇宙の果て”を代入出来るし
それは100次元・200次元と変数を増やして行けばありとあらゆる”感じ・質感・クオリア”が有限の情報としてデジタル化出来ることになる。
そろそろ気付いただろうか。
一次元・二次元・三次元と”次元”に対して実数を当て嵌めて来たが。
「もしも”次元”という概念そのものが”無次元”と”無限次元”に挟まれた頽落的な有限を擬制されたものだったとしたら?」
全てはクオリアで「何一つとして己自身の”存在”を証明出来るものは無い」という結論が導かれる。
この世に認識に先立つ経験など無く、我々はアプリオリ(先験的)な自明性を生涯目にすることが出来ない。
純粋理性批判。諸法無我。不完全性定理。
再帰性を前提としている永劫回帰は空間・時間がデジタルに弁証法的に証明出来るという事を前提にしないと絶対に成り立たない。
- 10 :
-
ここで思考は逃避に移る。
「次元という軸そのものがそもそも間違いで誤謬の元なんだ」
「クオリアを実数のうちに定義することがそもそも間違いなんだ」
この問いは一面的に正しいが、必ず同じ言葉が返って来る。
「その問い自体が”存在”している事を誰に証明出来るんだ?」
確かな事は
1.「クオリアというものは”有限という擬制”から逃避する性質を持っていて、
必ず”無と無限の世界”へと進むベクトルを失わない」ということ。
換言するならば
2.「わからないものはどうやったってわからないのだ」という当たり前の結論が出て来る。
二者の表現について違いがわかるだろうか。
どちらも「存在証明の不可能性」という本質について語っているが
1.はポジティブの動き。衝動。陶酔。
2.はネガティブの動き。諦観。希死念慮。
と同時に新しく言説に対して意味性が付与される。
すなわち、「存在証明の不可能性を解き明かす意志の有無」が定義出来る。
発露について、
1.「”わからないものだ”って認めたくないからどうしたって解明してやる!」
2.「”わからないのだ”から考えたってしょうがねえじゃん・・・」
1.”「根源的未規定性」へと突き進むベクトル”を指して”秩序・アポロン”と呼んでいる。
2.”思考を停止して混沌の中に身を委ねること”を指して”混沌・デュオニソス”と呼んでいる。
言葉によって「気持ち」を普遍化しようとする意志と
”実存の意味性”を捨て去ることで自らを普遍化しようとする(人間より哲学的ゾンビの方が美しい)意志は本質的には同じ。
燃料を衝動・陶酔から補給するのか諦観・希死念慮から補給するのか、ただそれだけの違い。
- 11 :11/11/28
-
言葉の意味性について。
(先験的な・アプリオリな)「将来が不確実であること。」という本質を示す言葉に
(経験的な・アポステリオリな)「不安」という表現と「希望」という表現が例示出来る。
両者は共に同じ本質を表現しているが、意志のベクトルは全くの逆である。
と、大凡万人が普遍的に感じているだろうと経験的に我々は知っている。
(「不安」って言葉と「希望」って言葉から受ける”印象”が同じ奴なんてそうそう居ない筈だ。)
そういう意味性の違いについて期待することが「甘え」であるとするならば
我々は一切の「語り得るもの」を持てないということになる。
「諦観から始まる期待(空即是色)」と「傲慢から始まる失望(色即是空)」は本質的には同じものだけど、その性質を異にするものだ。
「意志の伝達が不確かであるという事実」への徹底的な諦観を希望に変えて
批評家たちは「世の芸術家が悲鳴をあげながら言葉に文法に込めた意味性」が有る事を信じて読み解こうとするのではないのか。
一過性の芸術表現など頽落だ。その意味性を読み解こうとする観客を笑う脚本など無礼千万である。
言葉の意味性を弄ぶだけで芸術が成ったなどという傲慢が透けて見える川端康成など死んでしまえ。もう死んだか。
お百姓さんが作ったお米に感謝する気持ちを持ちなさい。
と俺は思うよ。うん。
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