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■チャック・ノリスはスレを立てない。


1 :11/12/08 〜 最終レス :11/12/18
スレが彼に興味を持って自ら立ってしまう為だ。
■オフィシャル・ウェブサイト
http://www.chucknorris.com/
■オフィシャル・フェイスブック
http://www.facebook.com/officialchucknorrispage
■オフィシャル・ツイッター
http://mobile.twitter.com/chucknorris
■オフィシャル・ブログ
http://chucknorrisnews.blogspot.com/
■KICKSTART KIDS(キックスタート)公式ウェブサイト
http://www.kick-start.org/
■UFAF United Fighting Arts Federation(ユナイテッド・ファイティング・アーツ)公式ウェブサイト
http://www.ufaf.org/
■World Combat League(ワールド・コンバット・リーグ)公式ウェブサイト
http://wcl.com/
■Chuck Norris Facts(チャック・ノリス・ファクト)公式ウェブサイト
http://www.chucknorrisfacts.com/
■allcinema Movie & DVD Database(オールシネマ 映画&DVDデータベース)
http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=17177
■The Internet Movie Database(ザ・インターネット・ムービー・データベース)
http://www.imdb.com/name/nm0001569/
■LEGEND OF CHUCK NORRIS(レジェンド・オブ・チャック・ノリス)ファンサイト
http://www.geocities.jp/legendofchucknorris/
■Action Star Network(アクション・スター・ネットワーク)ファンサイト
http://asn.client.jp/

2 :
        / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        | チャック・ノリスは2ゲットを取らない、彼のレスが2ゲットになるからだ。
    \  \
          ̄ ̄ ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      \ ∧ ∧
        (゚Д゚∩
       ⊂/  ,ノ
 ̄  ̄   「 _  |〜 ウ  ̄  ̄  ̄
       ∪ ヽ l   オ
       /  ∪  \
  /       :    オ
     /    || .   オ  \
     /     | :   オ  \
    /       .
           | .   オ
           | | : .
           |:  .
           || .
            .
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           | | : .

3 :
チャック・ノリスはレスを読まない。彼は、ただ彼の欲する情報が得られるまでスレッドを睨み続けるのだ。

4 :
ひろゆきがヒゲを生やしたのはチャック・ノリスに憧れているから。

5 :
A「ここだけの話、チャック・ノリスとビョルン・アンドレセンの区別がつかない」 B「ホントだ、似てる(笑)」 C「似すぎててドン引きするわ」
ttp://shindanmaker.com/172998

6 :
チャック・ノリスP アイドル紹介
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16363643
これは世界に通用する動画だ

7 :
■Chuck Norris 初の看板男はやはり男の中の男だ
今月のメディアモンのバナーは看板娘ならぬ初の看板男だ。そして選ばれたのはアクション映画の雄、チャック・ノリス。
チャック・ノリスというと、何だか嘲笑の標的みたいな印象が俺の中にはずっとあった。どんくさいルックス、ワンパターンの演技、主演作は全てジャンルもの。しかもB級作品ばっかり。
去年の夏のことだが、会社の昼休みに食堂でNHKニュースを見ていたら、ブッシュ前大統領が80歳の誕生日記念にスカイダイビングする話題が取り上げられた。
補助役として一緒にパラシュート降下したのが誰あろうチャック・ノリスその人で、彼の場違いなヒゲヅラが画面に大写しになり、おかしくて思わず飯粒が鼻の穴から飛び出そうになったものだ。
また、先頃公開された『ドッジボール』の中では、審判役で実に笑いのツボにはまるカメオ出演をしていた。
ところが先週、面白半分にチャック・ノリスの自伝”Against All Odds”を読んでみたところ、彼に対するイメージが一転した。
そう、“あらゆる逆境に立ち向かい”困難を乗り越えるチャック・ノリスの生き様に、俺は久しぶりに猛烈な感動を覚えてしまったのだ。
アメリカではベストセラーになったこの自伝本。和訳本は果たして発売されるのであろうか。可能性はかなり低い。ならば俺がこのブログで少しでも紹介しておく。メディアモン連続企画『男の中の男』をチェキラー!
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/26885705.html
※hとlのあとに半角スペースが空けてある。ライブドアのブログはリンクの張りつけが出来ないため。

8 :
■CHUCK NORRIS 男の中の男の物語 1
チャック・ノリスの本名はカルロス・ノリス。空軍在籍時についたあだ名”チャック”を、そのまま芸名にしてしまった。
そんなわけで、本来は空軍入隊するまでをカルロスと呼ぶべきだが、カルロス・サンタナと間違える奴が必ずいるので、生まれた時から彼のことをチャックと呼ぶことにする。
ノリス姓はアイルランド系の名前である。父側の祖父がアイルランド移民で、チェロキー・インディアンの女性をめとり13人の子供を産ませた。そのうちの一人がチャックの父、レイ・ノリスだった。レイは18歳の時に、16歳のウィルマと結婚した。
チャックが生まれたのは1940年3月10日、場所はオクラホマ州ライアンだった。その時、母ウィルマは18歳。入院一週間後にようやく産まれたチャックは、呼吸困難に苦しみ、肌はどす黒い紫色をしていた。
父親のレイは、そんなチャックを一目見て気を失い、その場に倒れこんでしまった。
医者も看護婦も気弱なパパのことなんか構っちゃいられない。とにかく赤ちゃんを救うんだ!酸素吸入等の様々な処置を施し、何とかチャックは息を吹き返した。
しかし赤ちゃんチャックは、まともにミルクも飲めないような虚弱体質で、誰もが生き延びることはできないと思った。だが母ウィルマの献身的な努力により、チャックの体調は好転し、すくすくと育ち始める。

9 :
チャックが2歳の時、父の転職のために、ノリス家はオクラホマからカリフォルニアへと引越した。
実にチャックが12歳になるまで、そんな移動生活が続いたのだった。
‘Had there not been mom’s spiritual and practical stability, we would have established no roots at all.
Her love was glue that kept us together. And provided us with a sense of security, no matter where we moved, how often we packed and moved again.’
「母の精神的かつ現実的な支えがなかったら、家族は根無し草になってしまっていただろう。
どこに移動しようとも、そしてまた荷物をまとめて何度移動しようとも、母の愛は家族をつなぎとめ、安心感を与えてくれた。」
さて、ノリス家がカリフォルニアに移って間もなく、チャックの弟が誕生した。母ウィルマはジミーと名づけたかったが、父レイは好物のビールの名前にあやかり、ウィーランドと名づける。
母の抗議もむなしく、ビールの名前は弟の出生届けに記載されてしまうのだった。

10 :
その後、第二次世界大戦が勃発し、父は徴兵されてナチスと戦うためにドイツへと派遣されてしまう。
残された母、チャック、ウィーランドの3人は、祖母の住むオクラホマへと戻る。
それは貧乏極まりない毎日で、4人はほったて小屋のひとつ部屋で寝た。
ある日、父の“M.I.A.”を知らせる電報が家族に入った。つまり「戦地にて行方不明」を示す軍隊用語”MISSING IN ACTION”である。
そう、後のチャック・ノリスの代表作のタイトルにもなる不吉な言葉なのだった。
家族は、父が無事に帰郷することをひたすら神に祈るしかなかった。
それから3ヶ月後、父が戦地で瓦礫に埋まっているのを発見されたとの通報が届いた。脚を撃たれて動けなかったのだ。
治療と回復のために、父レイは更に2ヶ月間帰郷することができなかった。その2ヶ月間というもの、チャックは忠犬ハチ公のようにひたすらバス停で待ちつづけた。
もういい加減待ちくたびれた頃、ついに父が軍服姿で帰ってきた。
だが、家族の喜びはつかの間だった。
父の酒癖が手もつけられないほど悪化していたのだ。

11 :
*********
ノリス家を支え根無し草”establishing no roots”になるのを妨げたのが母の愛だったが、アメリカ人にとっての”Roots”「根」とは一体何を示すのだろう。それは生き方の基盤を成す信仰心の拠り所である。その意味で連中にのって宗教の存在は大きい。
日本人が特に宗教を持っていないことを知ると、どこに「根」があるのか欧米人は不思議でならないようだ。
一昔前までは集団主義の帰属意識がそれにあたったのだろうが、エセ個人主義のまかり通る現在では、日本人の「根」を感じるのは難しい。
「根」がしっかりと張った上に形成された個人主義なら、博愛精神に則った利他主義も発達するはずだ。
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/26978893.html

12 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 2
チャックの少年時代に大きな困難をもたらした人物、それは他ならぬ父レイ・ノリスだった。
もちろん父との良い思い出もある。休日に肩車をされてオクラホマからテキサスに流れるレッド川へ行って、1日中二人きりで釣とお喋りに興じたものだ。
しかし釣り上げた魚を持って帰宅しても、父はすぐに近所の飲み屋へと行き、夜遅く泥酔して帰ってくるのが常だった。
ある日、父が飲み代欲しさに、母ウィルマからなけなしの5ドルを取り上げようとした。
「だめよ。このお金は子供達の食費に必要なのよ」
「パンチを食らわされる前に、とっととその5ドルをよこしやがれ」
拳を振るい威嚇する父に対し、小柄な母は決してひるまなかった。
「やってごらんなさい。その代わりあんたが寝入った時にフライパンで殴りしてやるからね」
結局5ドルを取り上げられず、父は憤然と家を出て行くのだった。
父はしらふの時はおとなしかったが、しらふでいる時間もどんどん短くなっていった。
酒が入ると、父はちょっとしたことでも荒れ狂うようになった。二日酔いの時に蛇口から水が流れる音がするだけで、誰かれ構わず当り散らした。
母が父を落ち着かせる間、チャックと弟ウィーランドは寝室に逃げ込むのだった。
母は優しいばかりではなかった。例えば躾は母の役目で、チャックと弟がひどい悪さをした時の体罰は容赦なかった。
父は母の体罰を非難しつつも、最後は折れてしまい、ビールを飲みに出かけるのだった。
結局のところ、母と違って父は問題を直視できず、楽な道を歩くタイプだったのだ。
チャックが6歳の時、再びノリス家はカリフォルニアへ引っ越し、父は海軍の造船所で働き、チャックは地元の小学校へ上がった。
学校でのチャックは、極端に恥ずかしがり屋で内に閉じこもってばかりいた。
クラスで先生が何か質問しても、ただ首を横に振るのが精一杯だった。
チャックにとって、皆の前で恥ずかしい思いをするよりも、悪い点数を取ったほうがましだったのだ。

13 :
2年後、弟ウィーランドの持病の喘息が悪化し、気候の良いアリゾナ州に引っ越すことになった。
地元の学校の3年生に進学したが、そこでは殆どの生徒が原住民、つまりインディアンの子だった。
チャックは新入りで、しかもクラスでたった一人の金髪に青い目の生徒だった。
大柄なインディアンの子ボビーからチャックは目をつけられ、いじめが始まった。
チャックは毎日、学校から家までボビーに追いかけられることになった。
家の隣にあるガソリン・スタンドのオーナー、ジャックが見かねてチャックにこう言った。
"Son, it's time you fought this boy."
"He is too big."
"It doesn't matter. You can't run from fear forever. It's time to stand up for yourself."
「おい、そろそろあの子と闘ったらどうだ」
「大きすぎるよ」
「そんなの関係ない。怖いからって逃げてばかりはいられないんだ。立ち上がって自分のために闘うんだ」
そこでボビーに闘いを挑んだ。砂まみれになって地面でもみ合い、ボビーの指をつかむと思いきり反り返らせた。
「痛い!降参するからやめてくれよ」ボビーは泣き叫んだ。
それからボビーはチャックを追いまわすのを止め、ふたりは良い友達になった。
恐怖とは正面から立ち向かうことで克服できると、チャックはその時に初めて学んだのだ。

14 :
アリゾナの生活はウィーランドの喘息を治すどころか、かえって悪化させた。
そこで一家はオクラホマへ引越し、父はトラックドライバーの職を得、母は間借りしているレストランでウェイトレスとして働いた。
ある晩、父が酔っ払って帰ってきてこう家族に告げた。「荷物をまとめろ。今から引っ越すぞ」
そして母の制止もきかず、父は酔っ払い運転で、オクラホマ州内の次の移動地へと車を走らせるのだった。
父は素面になるとおとなしくなり、二度と飲酒はしないと誓うのだが、その誓いが守られることは一度もなかった。
母はチャックとウィーランドにこう言い聞かせた。いつか神様がきっと助けてくれるから、その時まで辛抱して。
しかし、少年チャックには信じがたい話だった。
*****
"It's time you fought this boy." 「そろそろ闘う時だ」この構文は必ず過去形が使われる。そう、チャックはとっくの昔にいじめっ子と戦っておくべきだったのだ。
恐怖に打ち勝てるかで人間の真価が問われる考え方は、スターウォーズやバットマンの新作のテーマと通じるところがあり興味深い。
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/27007274.html

15 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 3
チャック少年の日課は、学校帰りに道沿いに転がる空ボトルを拾い、酒屋へ売って小銭を稼ぐことだった。時には鉄屑も拾って専門業者に売ることもあった。そして稼いだお金は家計を助けるために全て母に渡した。
そんな少年時代のチャックの最大の楽しみといえば、土曜の午後に2本立映画を観ることだった。
特に好きだったのは、ジョン・ウェイン等が主役の西部劇だった。映画の中のカウボーイ達は、正しい行いとは何かをチャックに教えてくれた。チャックにとって、母と祖母と映画のカウボーイ達だけが人生の手本だった。
そして映画館を出るたびに、カウボーイのような大人になろうと心に決めるのだった。
どんなに危険な目に遭うと分かっていても、正義と友情のために人助けをするカウボーイ。
チャックが後に俳優になってからの、自分のキャラクター作りのヒントになったのは間違いない。
それとは対照的に、父レイは反面教師と言えた。チャックは絶対に父のようにはなりたくなかった。
一方、母ウィルマは、父の欠点を補って余りあるほど素晴らしい人物だった。
どんなに辛い生活でも、母は決して悲観的になることも落ち込むこともなかった。彼女には強い信仰心があった。
洗濯屋の仕事からヘトヘトになって帰宅しても、母は決して愚痴をこぼさず、人生のありがたさをチャックと弟ウィーランドに教えるのだった。
チャックにとって、人生で最も良い影響を与えてくれたのが母だった。

16 :
“She believed in determination and patience. The determination to succeed whatever you choose to do in your life, and the patience to stick with it until the goal is reached.”
「母は決心と忍耐の大切さを知っていた。決心さえあれば、人生でどんな道を選んでも成功することができるし、忍耐さえあれば、目標が達成されるまで粘り強く頑張ることができる。」
チャックが10歳の時、母は彼とウィーランドを連れて、父の出稼ぎ先のカリフォルニアへ移った。
あいも変わらず貧しい生活だったが、近所に住む日本人夫婦、ヨシとトニのハマ夫妻が親身になって色々と協力してくれた。
例えば、ノリス家が食事もままならないのを知ると、ハマ婦人が買い物帰りに家にわざわざ立ち寄り、「間違って食べ物を買い過ぎたの。
余分な食べ物をもらってくれる」と、あたかも自分達がお願いするかのように振る舞ってくれた。
また、母が同じ服を着たきりなのに気付くと、ハマ婦人は「この青い服と茶色の服とどちらにするか迷っているのよ。
あなただったらどちらが欲しい」と母に訊き、「青いのが素敵ね」と母が答えると、「じゃあ、青いのもらってね」と服を置いていくのだった。
母、チャック、ウィーランドの3人は、家の近くのバプティスト教会に通い続けた。
母は週給15ドルのうちの1割を必ず教会へ寄付した。食費もままならないノリス家の窮状を知った牧師が何度も訪問し、丁重に寄付を断った。
「ノリスさん。主はあなたのお気持ちを十分に理解されています。お金は一切要りませんよ。」
母は感謝しながらも、それからも必ず給料の1割を寄付することを怠らなかった。

17 :
チャックが11歳の時、母が三度目の妊娠をし、仕事がすることができなくなってしまった。
父は相変わらず飲んだくれてばかりおり、禁酒する気配はまったくなかった。
いつも真夜中に帰宅しては、家族にワインを買いに行かせるのだった。チャックの目から見た父は、ただ家を出入りするだけの放浪者、いやむしろアル中のジプシーだった。
ノリス家の屋根裏部屋は、何百本もの酒の空ボトルで散らかり放題だった。チャックにとって、ひとつひとつのボトルがノリス家の苦悩を象徴しているように思えた。
父が酔っ払って帰っても、チャック少年はただベッドの中で神に祈るしかできなかった。
ノリス家の収入源がなくなり、ついに福祉施設に行って生活保護を受けることになった。
それでも母は与えられた情況で精一杯がんばってくれた。チャックとウィーランドに服や玩具は買えなくても、ひもじい思いだけはさせなかった。
やがて三男アーロンが誕生し、それから10ヶ月後に母は仕事に復帰した。午後3時から深夜までのシフト労働だった。
ベイビーシッターを雇うゆとりがないので、チャックは学校が終ると真っ直ぐに帰宅し、アーロンの面倒を見た。
アーロンをロッキングチェアで揺らして寝かしつけするのだが、母が夜の12時半に帰宅するまで、そのまま一緒に寝てしまうことが度々あった。

18 :
ある晩、父が酔っ払い運転でお年寄りの女性をはねしてしまった。父は逮捕され6ヶ月間服役する判決を受けた。
週末に母に連れられ刑務所で服役中の父に面会すると、労働している父は健康そうに見えた。出所しても、これに懲りて父はもう二度と酒に手を出さないだろうとチャックは期待した。
だが半年後に出所した父が真っ直ぐに向かったのは、やはり飲み屋だった。
チャックが15歳の時、カリフォルニア州内の少し大きな家に移り住んだ。
父は以前より酒びたりになり、母に対する暴力も激しくなった。
ある晩、両親の寝室で母が殴られ泣き出す声が聞こえ、チャックは思わず寝室へ飛び込んだ。
「それ以上ママに暴力を振るったら、俺が相手してやる」
父は酔いすぎて意識が朦朧としており、喧嘩するには至らなかった。
翌日、チャックは母と問題について語り合った。これ以上父との生活を続けても一向に改善されない。おもいきって離婚しよう。
そして翌年、両親は離婚した。チャック16歳、ウィーランド12歳、アーロン4歳の時だった。

19 :
その後、母は職場でジョージという名の男性に、お互い好きになった。
ジョージは真の意味での紳士で、いつも母を優しく扱ってくれた。
ある晩、チャックは母にこう訊かれた。「チャック、話があるの。ジョージに結婚を申し込まれたんだけど、先ずあなたの気持ちを聞いておきたいの」
チャックは母をひしと抱きしめてこう答えた。「ママ、ジョージとなら再婚に大賛成だよ」
母とジョージはその後すぐに結婚した。義父との新生活は、しばらくは慣れないで居心地の悪い思いをしたが、結果的にはジョージはチャックにとって最高の父親となるのだった。
******
“I Believe in determination and patience ”「決心と忍耐の大切さを知る」
“Believe in”の後によく来る言葉として、”Love”と”God”がある。愛や神が本当に存在すると信じるかどうかを問う。
“I believe you”は、単に言ってることを信じるだけが、”I believe in you”は、その人の価値を認めることになる。
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/27151088.html#comments

20 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 4
思春期という多感な年頃を、ジョージのような信頼できる父親の元で過ごすことができ、チャックは本当に幸せを感じていた。
しかし、ある日チャックが高校から帰宅した時に、思いもしない事件が起きた。
離婚したはずの父レイが居間に腰掛けており、寝室から母の鳴き声が聞こえたのだ。
レイはチャックに言った。「俺がジョージをつまみ出してやる。お前に俺が止められるもんか」
しかしチャックとしては、決してジョージのような紳士を傷つけるわけにはいかなかった。
チャックはレイを玄関から前庭に追い出すと向かい合った。これまでは怖くて立ち向かえなかった父だが、今こそ決着をつける時だった。
父はため息をつくと「お前とは喧嘩しないよ」と言い、車に乗って立ち去った。
チャックはこの日ある教訓を得た。
“True courage is not the absence of fear, but the control of it.”
「真の勇気とは、恐怖を感じないことではない。恐怖に向かい合うことだ」

21 :
その事件の後、チャックはもう一度だけ実父と会う機会があった。彼が空軍を除隊した後、父の行きつけの飲み屋に行き、自分が結婚しており妻が妊娠していることを父に告げたのだ。
しかし父はただ「よかったな」と一言返したきりだった。その日を最後にチャックは父には会っていない。
さて、義父ジョージの勧めで、チャックは何かスポーツに取り組むことにした。そこでフットボールを始めてみた。特にうまくはならなかったが、競技の楽しみというものを覚えることができた。
同様に勉強も得意ではなかったが、何とかがんばってそれなりの成績を得た。
新しい家族の絆のおかげで、チャックは学業に専念することができたし、母もゆっくりできる環境になった。義父ジョージは母と同じ価値観を共有しており、チャックにとっても良き人生の手本となった。
チャックは17歳になると、仲のよい従兄弟と友人と一緒に海軍への入隊を希望したが、未成年のために保護者の同意書が必要だった。
母は頑なにこう言った。「就職するのは、きちんと高校を卒業してからよ。その代わり、卒業した後は何でも自分の好きなことをしていいわよ」
チャックは悔しかったが、海軍入隊を断念し高校生活を続けることにした。
高校卒業前に、海軍に入隊したらどんな人生が彼を待っていたのだろうか。母が入隊同意書にサインしなかった時はがっかりしたが、もちろん後で感謝することになる。

22 :
その後、家族の引越しと共に、チャックも転校することになった。チャックは新しいクラスでも相変わらず無口の恥ずかしがり屋で、間違った答えを言おうものなら、顔が真っ赤になるほどだった。
チャックは、同じ高校に通うダイアンという可愛らしい女の子のことが好きになってしまった。だが、チャックは恥ずかしくて話しかけることすらできず悶々としていた。
ある日、チャックがバイトしている雑貨屋へダイアンが買い物に来てしまった。チャックは慌てて知らない振りを装ったが、ダイアンの方から彼に近寄ってきて、商品の置き場所を訊いてきた。
それから二人は会話を始め、チャックはダイアンのことが本格的に好きになってしまった。
数週間後、チャックは勇気を振り絞ってダイアンをデートに誘った。それから二人は恋人同士になり、高校卒業までずっと付き合うことになった。
ダイアンと付き合っている間も、チャックは放課後のバイトをずっと続け、自分の車を買うために貯金をした。
そして、ようやく中古のダッジ車を買うことができたが、あまりにもかっこ悪い車なので学校からずっと離れた場所に駐車していた。
ジョージがそのことに気付き、自分のフォードをチャックに譲り、代わりにダッジで通勤してくれた。彼は本当に素晴らしい義父だった。

23 :
チャックの高校卒業後の目標は警察官になることだった。悪い連中と戦うイメージに惹かれたのだ。空軍に入隊して警務隊で勤務すれば、警察官に必要な技能が身につくと知った。
1958年の夏、18歳のチャックはアメリカ空軍に入隊し、テキサスの新隊員教育部隊へと送られた。
本名カルロス・ノリスである彼が、チャックと呼ばれ出したのは実はこの時からだった。
教育隊の上官から彼はこう言われたのだ。「カルロスなんて、スペイン語みたいな名前だな。英語では何にあたるんだ。」
「だいたいチャールズが近いです」「よし、それじゃあお前をチャックと呼ぼう」その後、俳優として大成する今日まで彼はずっとチャックのあだ名で通っている。
空軍兵士になるための教育訓練を受け、チャックは心身ともに鍛えられながら次第に自分に自身を持ち始めていった。
テキサスでの訓練中、チャックはダイアンに手紙で結婚を申し込んだ。彼女から送られてきた手紙の返事は“イエス”だった。

24 :
4ヶ月の教育訓練後、チャックはカリフォルニアへ戻り、ダイアンと教会で簡素な結婚式を挙げた。チャックは空軍の制服を着込み、ダイアンは豪華な花嫁衣裳を身にまとった。
チャックは18歳。ダイアンはやっと17歳になったばかりだった。
二人はチャックの任地であるアリゾナの空軍基地の近くへ引っ越した。住まいはトイレもないトレイラーだった。
空軍に入隊して1年後、チャックに韓国勤務が命じられた。結婚していようと軍隊での移動命令は絶対に逆らうことができない。
チャックはダイアンをアメリカに残し、何も知らないアジアの国へ渡ることになった。彼の心の中で将来への不安が広がった。
その時は知るよしもなかったが、韓国赴任はチャックの後の人生に大きな影響を与えることになる。
チャックが韓国へ赴任された時は、鮮戦争は終っていたが、南北に分裂された朝鮮半島の緊張たるや尋常ではなかった。
韓国はチャックにとって始め見る外国だったが、先ず余りの貧しさに彼は衝撃を受けた。チャックも確かに貧しい少年時代を過ごしたが、食べ物に困ることはなかった。
ところが当時の韓国には、食うや食わずの状態で何とか生存しているような人達が大勢いた。しかも状況が改善される見込みもなかった。
チャックはアメリカ国民である幸せを改めて感じた。そして、国から与えられる色んな恩恵を当たり前に思っていたのは間違いだったの気付くのだった。

25 :
韓国での軍隊生活の余暇の過ごし方として、酒を飲むか、勉強するか、格闘技を習うかの3種類の方法が一般的だった。も勉強も不得意なチャックは、格闘技を習うことにした。
唯一柔道を少し知っていたので、基地の柔道クラブに入会した。除隊して警察官になった時に役に立つのではと思ったのだ。
ところが稽古を始めて2週間後、ぶざまにも受身に失敗して鎖骨を折ってしまった。
仕方ないので、折れた方の腕を吊って近くの村をブラブラしていたところ、キェーと掛け声がし、そちらの方を見やった。
そこには白いパジャマのような服を着て、ぴょんぴょん飛び跳ねる韓国人の一団がいた。
どうやら何らかの格闘技のようだったが、その動きの余りの凄さにチャックは唖然として立ちすくんだ。
1時間以上もぼーっと眺めた後、基地に戻って柔道コーチの韓国人に訊いてみた。「あんなの見たことがありません。
いったい何と言う格闘技なんですか。」
めったに笑わないコーチはニヤリとして言った。「それは韓国式空手で、タンスー道というんだよ。手と足を武器に闘うんだ」
「鎖骨が治ったら、自分も習えますか」チャックは訊いた。
コーチは破顔一笑して言った。「いいよ。師範に紹介してあげよう」酒

26 :
○コーチは破顔一笑して言った。「いいよ。師範に紹介してあげよう」
×コーチは破顔一笑して言った。「いいよ。師範に紹介してあげよう」酒

27 :
翌日、柔道コーチはタンスー道の師範、ミスター・シンのもとへチャックを連れて行った。
ミスター・シンは、どうせアメリカ人なんかタンスー道の過酷な訓練についてこられないと思ったようだが、柔道コーチの顔を立てるためにチャックの入門を許可した。
道場で学ぶ子弟は20人ほどいて、殆どが黒帯を持っていた。韓国式の訓練では、黒帯も素人の白帯も一緒に同じ方法で学ぶ。
チャックは片手を吊りながら、訓練に参加し、一日5時間の訓練を月曜から土曜まで続けた。
訓練が始まる前のストレッチから既に拷問に近かった。訓練は午後5時に始まり、毎時5分間の休憩があるだけだった。
最初の20分はその場で突きを繰り出すウォーミングアップ。次の40分で受けの練習。次の1時間で各種蹴りの練習。そして残り3時間かけてパートナーと組み手を行なった。
チャックが吊り手をしているからといって、容赦する者は誰もいなかった。チャックはもともと運動神経が決して良いほうではなかったものの、どんどん回りの動きについていけるようになっていった。
肩が治った時から、タンスー道の訓練が休みの日曜日も柔道の訓練に参加した。
身体の節々が痛み、眠れない夜が続いた。とても過酷な訓練の毎日だったが、チャックはこう思った。
“If I can stick with this, I can stick with anything.”
「これに耐えられれば、何にでも耐えられる」

28 :
チャックには黒帯を取るなどの目標は特になく、いつか警察官になった時に格闘技が役に立つのではとの思いから毎日の厳しいを耐えた。
そんなチャックを見て、他の韓国人訓練生達も徐々に打ち解けるようになっていった。
まさか自分が8年後に空手の世界チャンピオンになるなんて、チャックは夢想だにしなかった。
******
“True courage is the control of fear.” 真の勇気とは、敢えて恐怖の根源と向かい合い、己の恐怖心を抑え込むことで生まれる。格闘家に必須の哲学である。
“Stick with it.” 続ける。転じて、頑張る。”Stick to it.”と同じ。
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/27247214.html

29 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 5
韓国の格闘技、タンスー道の訓練では、板やブロックを素手で砕くことができるように、拳を徹底的に鍛える。硬い物質を砕くぐらいの手なら、敵に相当のダメージを与えることができるという理屈である。
そこでチャックも拳を鍛えるために、どこへ行くにも平らな石を持って回り、歩きながらでもそれを叩き続けた。
チャックがタンスー道の訓練を始めて3ヶ月が経った頃、師範のミスター・シンが、村の人達の前でデモンストレーションを行なうと師弟達に告げた。
組手の展示はうまい具合に終了し、最後にミスター・シンが瓦を8枚重ねた。
彼は師弟達を見渡すと、チャックを指差していった。「お前が叩き壊せ」
チャックの心臓が早まった。彼はまだ拳で何も砕いたことがなかったのだ。しかし、その場で断れば村民の前でミスター・シンの面目が失われる。
彼は重ねた瓦の上で拳を構え、上級者のやり方を思いだしながら、思いきって拳を突き降ろした。
ボキッと手首から嫌な音がした。瓦を全て砕いた代償として、チャックの手首も折れてしまったのだ。
それでもミスター・シンは満足そうな表情だった。そう、これが実践で直に学んでいく韓国式の教育だったのだ。
手首の怪我が治ると、チャックの自信も回復してきた。彼は自分の人生で始めて何かひとつのものに打ち込んで、途中であきらめることなく最後までやり遂げた。

30 :
“I was training both my body and my mind and as a result of my discipline learning, I was developing a much better self-image.
As I became more proficient in martial arts, I carried myself differently, standing more erectly, walking and talking with air of assurance.”
「格闘技で心と身体を鍛錬し、規律を学んだ結果、より良い自己イメージを築くことができた。
そして、より格闘技に精通することにより、以前とは違う振る舞いができるようになった。背筋がきちんと伸び、歩く時も喋る時も自信を醸し出すことができたのだ。」
それからもチャックはタンスー道の訓練に邁進し、自信がどんどん漲っていく自分を感じた。その頃、中隊長から優秀空軍隊員にも選ばれた。

31 :
チャックがタンスー道の訓練を始めて1年が過ぎた頃、ミスター・シンから黒帯昇段試験を受験するように言われた。
寒さの厳しい冬の日に、チャックはソウルの受験会場へと赴いた。
道着に着替えると、他の受験者と一緒に板が剥き出しになった床の上にあぐらをかいて待機した。
最初は他の参加者の受験の様子を観察していたが、だんだん寒さに体も心も痺れ集中力がなくなっていった。
3時間も待った頃、ようやくチャックの名が呼ばれて立ちあがろうとしたが、長時間同じ姿勢でいたために脚がよろめいた。
試験官の場所まで歩いて行くと、一礼して黒帯取得のための受験科目である”型”を始めた。
対戦相手がいるのを想定し、次々に技を繰り出して見せるのだ。
チャックは何度も繰り返し型を練習したはずなのに、頭が突然真っ白になり次の技が思い出せなくなった。寒さと緊張のために集中力が欠けてしまったのだ。
彼は試験官に正直に告白した。「型を思い出せません」
チャックは自分の待機場所に戻ると、他の受験生の試験が終わるまで更に4時間座って待った。失格したとは分かっていても、中座すれば試験官に対し大変失礼に当るのだ。
自分を腹立たしく思いながら、チャックは寒さに震えて待ちつづけた。それは、彼のそれまでの人生で最も長い4時間だった。

32 :
ミスター・シンは、チャックの黒帯受験失格のことについては何も言わずに、更に厳しい訓練計画を立てた。
師範がチャックに黒帯試験を再受験してもよいと言うまで、更に3ヶ月を要した。
その3ヶ月間というもの、チャックは試験官のどんな要望にも応えられるよう型のイメージ・トレーニングを積んだ。
いよいよ黒帯昇段の再受験の日、チャックが名前を呼ばれた時、彼は準備万端だった。型を終え、板割りを実演し、黒帯相手に自由組手をやった。全てが心で思い描いた通りにうまくいった。
数週間後、ミスター・シンが笑顔でこう言った。「チャック、黒帯試験に合格したぞ」
彼はチャックに一礼すると、韓国語で”チャック・ノリス”と書かれた真新しい黒帯を渡してくれた。また、黒帯所有者であることを示す銀色のバッジもチャックにくれた。
このバッジの効果は絶大で、ある晩、村の物騒な若い衆がチャックを囲んだ時も、襟のバッジを見て一目散に逃げ出したくらいだ。まるでスーパーマンの衣装を着たクラーク・ケントのような気分だった。
黒帯取得により、チャックの人生観もまた変わった。大きな困難にチャレンジし、自分の力でそれを乗り越えることができたのだ。
空軍に入隊したおかげで、チャックは格闘技を学ぶ機会に恵まれた。その後、格闘技のおかげで彼は人生を学ぶ機会に恵まれるのだった。

33 :
********
“discipline”  自己を律すること。格闘技を学ぶ最大の理由である。
“disciple”と変化すると、規律を学ぶ「師弟」の意味になるから面白い。
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34 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 6
アメリカの軍隊に入隊した経験がない者は、軍に所属する家族がどれだけの犠牲を強いられているか理解することは難しいだろう。
そもそも軍隊生活とは、最も恵まれた条件下においてでさえ過酷なものだ。若い新婚夫婦であろうと、否応なしに大陸間を隔てた長距離を長い期間に渡って離れ離れにさせられる。
新妻ダイアンと離れたまま、長期の韓国勤務をようやく終えたチャックは、カリフォルニアの空軍基地に再配属されることになった。
新しい任務に就く前に1ヶ月の休暇をもらうと、ようやくダイアンに会えることになった。
ダイアンは一足早くロサンゼルスに小さな家を借り、チャックの帰郷を待っていた。
チャックは、韓国から東京経由の航空機に乗りサンフランシスコ空港へ到着した。
空港からダイアンに電話したかったが、彼のポケットの中には9セントしかなく、通り掛かりの人にコレクトコールに最低必要な10セント硬貨と交換してもらった。
ダイアンに電話するとロサンゼルスへの家路を急いだ。妻との再会の時だった。

35 :
しかし、ダイアンと良好な形で結婚生活を再開するのは、想像したよりも遥かに難儀な仕事だった。
二人とも若くして結婚し、すぐに長いこと離れ離れになってしまったため、お互いが変わってしまっていたのだ。
チャックは韓国勤務の間、定期的に手紙でダイアンと連絡を取っていたが、身体が離れていただけでなく、実は心も遠くなっていたのだ。
それでも何とか結婚生活を続けようと二人で決心し、お互いのことを改めて知る努力をした。
韓国でタンスー道の訓練を受けたおかげで、チャックはそれに必要な忍耐力を養っていた。
アメリカに戻ってからも、タンスー道の訓練は続けた。拳を鍛えるため、家の近く大木を通り過ぎるたびに拳で数発打ちつけた。
たまたま目撃した人は、チャックが木にパンチしているのを見て頭がおかしいと思ったことだろう。

36 :
1960年代初頭、日本の空手の人気がアメリカでも浸透してきたが、空軍基地にはまだ空手クラブがなかった。そこでチャックは柔道クラブに入り、軍の全米トーナメントにも出場した。
チャックはタンスー道の練習を一人で続けた。ある日、彼が蹴りを繰り出すのを見て、兵士が2人、教えて欲しいと言ってきた。
そこでチャックは、軍隊規則に則り正式に申請して空手道場を開いたが良いと判断した。
タンスー道と言っても誰も知らないので、空手教室の名目で教室を開くことにした。
説明会を講堂で開き、実演とスピーチをすることになった。実演の方は心配なかったが、スピーチはとても心配だった。
チャックは21歳になっていたが、大勢の前で喋ることを考えただけでも恐ろしかったのだ。
彼はスピーチの内容をメモすると懸命に暗記した。テープレコーダーに自分のスピーチを録音し、何時間も自分のスピーチを再生しながら、それに合わせて繰り返し喋った。

37 :
説明会の当日、200人以上の兵士とその家族が講堂に集まった。チャックは勇気を振り絞り、マイクに向かいスピーチを始めたが、緊張の余りその時に何をしゃべったのか全く記憶していない。
しかし、一旦格闘技の実技を始めると不安な気持ちは吹き飛び、それを見た観衆も拍手喝采した。
チャックが開いた空手クラブは大成功だった。練習生は全て空軍の体力テストで目覚しい成果を見せたほどだった。
チャックはネバダに派遣され、全米選りすぐりの兵士と共に10週間の戦闘訓練を受けたこともある。
4時間は座学で、もう4時間は柔道、空手、ナイフ戦闘、柔術等を訓練した。格闘技に精通したチャックは優秀学生に選ばれた。
チャックは結局4年間の軍隊生活を送ったが、それは貴重な体験だった。彼は未熟な自分を鍛えてくれたアメリカ空軍に今でも感謝している。
除隊後は、そもそも空軍入隊の目的だった警察官への道を模索した。チャックはロサンゼルス警察へ入りたいと思ったが、当時募集している人員数は極端に少なく、彼は採用されなかった。
ダイアンは妊娠8ヶ月で、何とか新しい就職口を見つけなければいけなかった。義父ジョージの口利きで、彼が勤める軍用機製造会社で事務職の仕事口を見付けた。それは給与管理の仕事だった。
そして2ヶ月後、息子マイケルが誕生した。デスクワークは得意ではなかったが、少ないながら家族を支えられる安定した収入があり、とてもありがたいことだった。

38 :
“Sometimes you have to do whatever you can, while searching for something better.”
「より良い結果を得るためには、時には拒まずに何でもしなければいけない」
ロサンゼルス警察への就職を諦めたくはなかったが、次の採用まで6ヶ月かかると聞かされた。チャックにとって、この時期は人生の大きな回り道と思えたが、後で振り返ると必要な準備期間だったのだ。
会社の給料が少なかったので、仕事の後、両親の自宅の裏庭で空手教室を始めることにした。最初の生徒は、19歳のウィーランドと9歳のアーロンの弟二人だけだった。
3人が空手の練習をしているとの噂が徐々に広がり、人前でデモンストレーションを実演することになった。
小さなアーロンが大人相手に丁々発止する姿が観衆に多いに受けたが、5、6回目の実演をやる頃、アーロンはもう嫌だと言ってオイオイ泣き出した。それでもチャックは何とか説得してアーロンに協力してもらった。
観衆の反応から感じたのは、チャックが思った以上に空手に興味を持つ人が多いということだ。それにも係わらず、空手教室はアメリカではまだまだ珍しかった。

39 :
チャックは、ダイアンの理解を得て警察入りを一時延期し、ロサンゼルス郊外で空手道場を開くことにした。義父ジョージが名義人になりスタジオを借りることができた。
床にマットを敷き、壁に鏡をかけ、スタジオの隅に机を置いて事務所とした。家族全員で壁の塗装をし、「チャック・ノリス 空手道場」と手書きした看板を表にかけた。
チャックの空手道場のおかげで、スタジオの前の道は渋滞を引き起こすようになった。車が通過するたびに減速し、中を覗いていくからだ。通行人も興味を持ち、中にはそのまま入会する者もいた。
月謝は10ドルで週3回練習に参加できることにした。最初の生徒数は10名だった。
会社の仕事を午前8時から午後5時まで通常通り勤務し、急いで家に帰って夕食を飲み込むと、空手道場へ急ぎ午後6時から10時まで教えるのだ。
そんな生活がずっと続いたため、チャックは疲労困憊した。ダイアンとチャックは、いつか生徒数が増えて会社を辞められる日を夢見ていた。
空手教室を始めて1年後、生徒数は30人になり、月謝も月15ドルに値上げした。会社の給与以外に月450ドルの収入を得ていたのだ。だが、チャックの目標は生徒数60人だった。
空手を教えれば教えるほど、講師が自分に向いた職であることを実感した。
ダイアンと話し合い、警察官になる計画は中止し、彼はフルタイムの格闘技講師の道を目指すことにした。

40 :
チャックが24歳になる1964年には、数人のアシスタント講師を雇うまでに空手教室は大きくなっていた。チャックは心身ともに疲労困憊し、ついに会社を辞めることにした。
それを機に第2の空手道場を開くことにしたが、より多くの生徒を集めるには何らかの宣伝が必要であると感じた。
彼に広告を載せるほどの資金はなく、いろいろと思案した結果、空手トーナメントで優勝すれば空手専門紙や地元新聞に名前が載り、空手教室の名が知れ渡って生徒数が増えるはずだと踏んだ。
そこでチャックは空手トーナメントに参加することを決意するが、その結果は全くの予想外だった。
***********
“searching for something better” 「より良いものを探す」
この場合の”searching”には自分の心が本当に欲するものを探すニュアンスがある。
“Soul Searching”は、自分探しの心の旅である。
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41 :
Chuck Norris 男の中の男の物語 7
1964年、チャック・ノリスはソルトレイク・シティーで開催される空手トーナメントに出場することを決意する。
空手という激しく肉体を酷使する競技において、24歳で初のトーナメント参加は若干遅いと言えた。
同じくトーナメントに出場する道場の生徒を3人連れ、ロサンゼルスからソルトレイクへと車を走らせた。道中、吹雪で立ち往生することもあり、なんと合計で16時間もかかってしまった。
ようやく会場に到着したのは、トーナメントが始まる僅か2時間前のことだった。
チャックの参加するクラスは、中量級の黒帯クラスだった。初心者、中段者の各クラスに出場する生徒達と一緒に、彼は早速ウォーミングアップを開始した。
当時の空手の公式試合は素手と素足で戦い、胴体へのコンタクトは許されたが、顔へのコンタクトは許されなかった。それでも試合中にアクシデントは起きる。
チャックは生涯で試合中に鼻を3回折り、身体の数カ所を骨折し、数え切れないほどの傷を負った。試合中は大量のアドレナリンが体内を迸るため痛みを感じることはないが、翌朝の苦痛たるや格別なものだった。

42 :
さて、試合会場でチャックの名が呼ばれ、第1試合の相手と戦った。正式競技のルールに慣れていない彼は、戸惑いながらもなんとか対戦相手を破った。
そして、その直後に行なわれた第2戦でも、何とか勝ち進むことができた。
しかし第3戦目では、チャックの2試合をじっくり観察していたハワイの有名な格闘家に、たったの突き一発であっさりと破れてしまった。
トーナメントの結果は、3人の生徒がそれぞれのクラスで優勝し、チャックだけが敗退した。
帰りの車中、生徒達がトロフィーを握りしめ嬉嬉として試合を振り返る中、チャックはやりきれない思いを抱いていた。彼は二度と同じようには負けないと心に誓うのだった。
空手道場に戻ると、自分の敗因を研究しながら猛稽古を実施した。あまりにも負けた自分に腹が立っていたこともあり、戻って最初の練習日には3キロ近く痩せた。
次にチャックが参加した空手トーナメントは、カリフォルニア・ロングビーチで開かれる国際大会で、3000人以上が参加する世界最大のアマチュア空手の大会だった。
チャックは覚悟を決めて中量級で戦ったが、これまたあっさりと途中敗退してしまった。
それでもチャックはあきらめず、自分の欠点を鍛えるべく更に激しく稽古を続けた。技を出すタイミング、相手との間合い、試合中の心理状態。
それに加え、回転後ろ蹴りなどの韓国で覚えた得意技にも更に磨きをかけた。

43 :
1964年5月、ノリス家に次男のエリックが誕生した。チャックは喜びに溢れながらも、病院からまっすぐに道場へ向かい直ぐに練習に専念した。チャックの頭の中は、空手トーナメントで優勝したい執着心でいっぱいだった。
それから数日後、ロサンゼルスで開かれるオールスター空手トーナメントに出場した。
いよいよ最終戦まで勝ち進んだチャックを待っていたのは、日本スタイルの屈強な空手家、ロン・マチーニだった。
試合が始まり、二人は用心深く近づいた。たったひとつの不用意な動きが優勝を逃す結果となる。両者得点できないまま試合中盤まで進んだ。突如、相手がフェイントの蹴りを入れ、予期せぬ突きを繰り出した。
チャックは防御しようとしたが既に遅すぎた。敵の間合いは完璧だった。拳がみぞおちに食い込むのを感じた。
4人いる審判のうちの3人が白旗を横に突き出した。相手が技ありを取ったのだ。
試合が再開し、相手は守りの体勢に入った。そのまま最後までリードを保つつもりだ。時間だけがどんどん進む。チャックが時計を見やると試合終了まで残り15秒しかなかった。
彼は思い切って素早い攻撃技を繰り出した。相手の道着を掴むと、足払いから素早く脇に突きを入れ、続けざまに首に手刀を叩き込んだ。その瞬間にブザーが鳴り、試合終了となった。
審判4人全員が赤旗を頭上高く差し上げた。チャックは一本勝ちしたのだ。
彼はとうとう空手トーナメントでの優勝を実現させた。それはまさに人生で最高に嬉しい瞬間だった。

44 :
“The satisfaction of knowing that I finally won the tournament increased my confidence, and motivated me to continue competing.”
「ようやくトーナメントで優勝できた喜びで自信が増し、選手として競技を続ける原動力となった」
チャックは続いてカリフォルニア州空手トーナメントに参加した。今回は、黒帯から白帯までの様々なクラスの生徒を12人引き連れて行った。
チャックは得意の後ろ回し蹴りで中量級の優勝を決めたが、残念ながら体重無差別の総合優勝は果たせなかった。
この大会でノリス空手道場の生徒は、12人のうち11人までがそれぞれのクラスで優勝するという圧倒的な強さを見せた。
通常、トーナメントの最初の試合は、開会式で並んだ時に隣に立っている者と対戦することになる。
それからというもの、ノリス空手道場の道着を着た生徒から、次第に誰もが遠ざかって並ぶようになっていった。

45 :
年が明けた65年も、チャックはいくつかのトーナメントに参加した。サンノゼでの国際大会では、再びロン・マチーニを破り総合優勝に輝いた。
翌66年の国際大会では中量級で優勝したが、総合決勝戦で重量級の長身の選手に敗れてしまった。
チャックの決め技である後ろ回し蹴りはすっかり有名になってしまい、対戦相手がそれを予測できるようになってきたのだ。
彼は自分の技の種類を増やす必要があると感じた。そこで、空手講師をやっている友人達から技を教えてもらうことにした。
日本人空手家からは、手と足をコンビネーションで繰り出す技を伝授してもらった。空手仲間はトーナメントで対戦相手になるにも係わらず、皆が親切に自分の技の知識を教えてくれた。
おかげでチャックの技も多彩になり、対戦相手が彼の次の技を予測することは殆ど不可能になった。

46 :
新進気鋭の空手家、ジョー・ルイスからチャックの元へ電話が入った。空手道場を訪れて一緒に練習したいと言うのだ。
「いいとも、いつでも道場に来てくれ」とチャックはジョーに答えた。
ジョーは海兵隊所属時に沖縄に駐在していた時、たった7ヶ月で黒帯を取った男だ。しかも、経験が2年も満たない内にある空手トーナメントで優勝している。
ジョーと道場で練習試合を始めた頃はチャックも楽に勝てたが、2ヶ月もするとだんだん難しくなっていった。
チャックは、いつかジョーと対戦するのではないかという嫌な予感を覚えたが、それはまさに的中した。
67年、ニューヨークでの全米トップ・トーナメントでのことだった。
そのトーナメントでは、全米から10人のトップ選手が集まり、総当り戦で一番多く得点した選手が優勝するという方式だった。そして、ジョーもその10人の中に含まれていた。
チャックとジョーは予想通り無敗で勝ち進み、いよいよ対決する場面を迎えた。まさしく、この一戦に優勝がかかっていた。
ジョーの動きはとても素早く、動物的な勘で相手の弱点を見つける能力を持っていた。ジョーを倒すには最初から猛攻撃をかけるしかなかった。チャックの体調は絶好調で、動きも切れ味鋭かったが、この試合は楽ではないことも承知していた。
お互いに礼をすると、すかさずジョーが得意の横蹴りで襲ってきた。ジョーに1点が与えられる。チャックも即座に反撃し、裏拳で1点を返した。
それからどちらも点が取れない状態が続き、3回延長したものの、やはり両者ともそれ以上の点を上げることができなかった。
判定の結果、攻撃的な試合スタイルが評価され、チャックが優勝した。
ジョー・ルイスは、その後何度も優勝をかけて戦う宿命のライバルとなった。
*******
写真はジョー・ルイス(左)と我らがチャック・ノリス(右)
重量級のジョーは見るからに強そうだ。しかもかっこいい。
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47 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 8
1967年、ニューヨーク・マジソンスクエアガーデン(MSG)で全米空手大会が開催され、アメリカ中から何百人と言う格闘家が集結した。
チャックは、大会前日にニューヨークに到着し、早々にベッドに就いて寝ることにした。経験上、たっぷり睡眠を取ると、試合当日にリラックスできることを知っていたのだ。
翌日、爽やかな気分で目覚めると、彼は試合会場へ向かった。
MSGに到着すると他のトーナメント参加選手があちこちで談笑していたが、チャックはひとり黙ってロッカールームに入った。
彼はバッグから洗濯したばかりの道着を取り出して着替えた。チャックの好みの道着は、肩と袖と股の部分がゆるやかで、体の一部みたいにしっくりしている。
突きと蹴りを放つと、道着がムチのようにうなるのを感じる。
チャックは深呼吸をすると心を落ち着かせた。緊張やストレスは無駄にエネルギーを消費する。戦いの前は、完全にリラックスした状態になる必要があった。
トーナメントでは、軽量級と中量級と重量級がそれぞれ別の場所で戦い、最後は各クラスの優勝者が総合優勝をかけて戦うことになっていた。
チャックは他の選手がウォーミングアップするのをじっくり観察した。試合前の緊張時には、誰もが得意の側の手や足を使いがちになる。また、動き方で負傷箇所も分かった。
試合では、誰がどんな技で点を取るかを観察した。勝者だけでなく、敗者もじっくりと観察した。将来の対戦相手になる可能性があるからだ。
観察する相手と自分が戦う様子を想像し、相手の得意技と弱点をイメージするのだ。自分の技をどう相手が防御するかも考える。また、どう相手の体力を消耗させるかも考える。
大事なのは、トーナメントで集中するのは次の試合であり、決して優勝戦ではないということだった。

48 :
In competition, as in attempting any goal in life, it is necessary to keep a big picture mentally. But the focus must be on the next step, the immediate goal at hand.
「人生の目標と同じで、競技に勝つためには心の中で大きな戦略を立てなければいけない。しかし気持ちを集中するべきなのは、すぐ次に段階である目の前の目標だ」
チャックが中量級で最もマークしていたのは、最強格闘家の一人である全日本チャンピオン、ナカムラ・ヒロシだった。
ナカムラが相手を次々に破る様子を観察した。体は小さいががっしりした体型で、動きは滑らかで洗練されており同じパターンだった。得意技は電光石火の早さで繰り出す前蹴りと突きのコンビネーションだ。
ナカムラもチャックの試合を仔細に観察していた。しかし、チャックは自分が有利であることを知っていた。彼は韓国式空手と共に日本式空手も熟知していたが、ナカムラは韓国式を良く知らないはずだった。
チャックとナカムラは、それぞれのグループで順当に勝ち進み、いよいよ二人が中量級の決勝戦で対決することになった。
試合開始は夕食後だったので、チャックは軽く腹ごしらえするためにレストランへ向かった。
食事前にレストランのトイレに入ると、そこにナカムラその人がいた。
チャックは彼に言った。「お互いに頑張りましょう。ミスター・ナカムラ」
「君の方が勝つよ」彼はぶっきらぼうに答えた。チャックは、その悲観的な態度に驚いた。
「いえいえ、あなたこそ勝つチャンス十分ですよ。ずっと試合を見ていましたが、あなたも凄いですよ」そう口では言いながらも、チャックは結局のところ自分が勝つことを知っていた。なぜなら心の中で既にナカムラに勝つ様子が思い描けていたからだ。

49 :
夕食後、MSGに戻ると再び道着に着替えた。トーナメントのルールは1試合2分間で、より多くの点数を取った選手が勝つことになっていた。
チャックとナカムラの名前の呼ばれる場内放送が響き渡り、二人はマットへ足を踏み入れた。何千人もの観衆の叫び声が会場に鳴り響いた。誰もが素晴らしい試合を期待していた。
チャックは深呼吸して自分を落ち着かせた。緊張していては動きが緩慢になる。リラックスするとそれぞれの筋肉が協調して動いてくれるのだ。
試合が始まると、予想した通りナカムラは得意の前蹴りで攻めてきた。ただし思ったよりも遥かに早いスピードだった。チャックは防御しながら左にステップし、ナカムラの腹に突きをきめて1点を獲得した。
次も前蹴りと突きの連続攻撃だと予測したが、まさにその通りだった。チャックは次々に防御すると、突きを返して更に1点を取った。
当時、日本式の空手はあまり変則技やフェイントを多用せず、狙った通りの攻撃をストレートに繰り出していた。ナカムラもフェイントに慣れていないと読み、チャックは腹と見せかけての頭にシフトするフェイントキックで更に1点を獲得した。
結局、12対1の圧倒的な得点差でチャックが中量級の優勝を果たした。
チャックは軽量級優勝者との試合でも順調に勝ち、次はいよいよ重量級との対戦だった。そして、相手は誰あろうジョー・ルイスだった。
ジョーはトーナメント中、ずっとリラックスした状態を保って勝ち進んでいた。
二人は向き合うと一礼をし、審判の「はじめ!」の掛け声で互いに猛攻をかけた。
ジョーが飛びかかってきて得意の横蹴りをチャックの脇にきめ、1点を獲得した。
その後もジョーの激しい攻撃が続く中、チャックはかろうじて1点を返して同点とした。
そして、試合が終了する間際にジョーの顔面に裏拳をきめた。
チャックは1点差で総合優勝を果たしたのだ。彼は全米グランドチャンピオン・トロフィーを授与された。
朝8時から13人の強豪選手を相手に11時間かけて戦ったチャックは、さすがにへとへとに疲れてしまい、勝利を祝うどころの気分ではなかった。ただただ熱いシャワーを浴びて、深い眠りにつきたかった。

50 :
しかし、チャックが会場を去ろうとしたその時、お祝いにやってきたのは世界的に有名な格闘家であるブルース・リーだった。
チャックは、ブルース・リーの64年の国際大会での物凄い試合を見ていたし、テレビシリーズ『グリーン・ホーネット』での俳優としての活躍も知っていたが、実際に本人と会うのは初めてだった。
ブルースは、チャックの格闘技能を最大級に評価してくれた。決勝戦の最後の瞬間に、ジョー・ルイスから勝利をもぎ取るといった偉業も褒めてくれた。
二人はしばらく和気あいあいと語り合い、同じホテルに宿泊していると分かると一緒に歩いてホテルに向かった。その間ずっと、格闘技やその哲学について二人は語りあった。
チャックもすっかり話に夢中になり、エレベーターがブルースの部屋のある階に着いても、つい一緒に出てしまった。
既に真夜中だというのに、二人はホテルの廊下で互いに技を披露しながら、格闘技についてずっと大声で語り合った。
チャックがふと時計を見た時、もう朝の4時だった。なんと廊下で4時間も話し込んでいたのだ。しかし、エネルギーに満ち溢れたブルースといると、それもほんの20分にしか感じなかった。
ホテルの他の宿泊者にしてみれば、頭のおかしい二人組が夜中に廊下でずっと暴れていたようなものだ。誰もフロントに電話しなかったのは奇跡的だとチャックは思った。

51 :
それから間もなく、ブルース・リーがチャックをカリフォルニアの自宅に招待し、裏庭にある練習場に連れて行った。
ブルースはいろんな練習道具を持っていた。自分で作ったと思しい手足のついた木製のダミー人形に、プロテクターやボクシング・グローブもあった。
二人は週に2回、3、4時間一緒に練習することになった。ブルースはチャックにカンフー技を教え、代わりにチャックはハイキックに代表されるテコンドー技をブルースに教えた。
ブルースは実戦的ではないとして、腰の高さ以上の蹴りは使わない主義だったが、チャックが高い位置での回転回し蹴りを披露すると非常に興味深げだった。
6ヶ月もするとブルースはハイキックをマスターし、自分の技に組み込んでしまった。

52 :
ブルース・リーは格闘技に関してはとにかく有能で博識だった。いかなる見地から見ても、世界最強の一人だった。格闘技が現在の活況を呈したのも全てブルースのおかげだ。
彼は日常生活で繰り返す退屈なことも、全て訓練に変えてしまった。一体いつゆっくりした時間を持てたのか、チャックは不思議でならなかった。
二人が良い友人になると、ブルースが自分の夢を語りだした。
「チャック、俺は映画スターになりたいんだよ。今やっていることは、全てその目標の準備なんだ」
ブルースは、既にいろんな有名人に格闘技を教えていた。NBAバスケット選手カリーム・アブドゥル・ジャバール。映画スターのジェームス・コバーン、リー・マーヴィン、スティーヴ・マックイーンなど。それらの弟子達がブルースに映画に出るよう勧めていたのだ。
ブルースはスタント・コーディネーターとしては既に映画に係わっていたが、決して裏方では満足しなかった。彼は映画の主役になりたかったのだ。
ブルースのように原動力溢れる人間なら、間違いなく大スターになるだろうとチャックも確信した。
*********
ついにブルース・リー登場。天井の電灯を破壊するあの超ハイキックも、実はチャックが伝授したのか。もともと腰の高さ以上の蹴りをしなかったという事実も、ブルース・リーの派手なイメージからすれば意外である。
そういえば、昔映画で観た『グリーン・ホーネット』3本立ての格闘シーンは確かに地味だった。
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/27562536.html

53 :
神スレあげ

54 :11/12/18
なう
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