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2011年10月1期中国英雄■■■五代群雄伝■■■
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★中国の武器★
☆☆☆三国志の英雄を語るスレ☆☆☆
■ 中国英雄板できました。
■■■五代群雄伝■■■
- 1 :06/10/24 〜 最終レス :11/12/05
- 中国史上屈指の乱世五代十国時代。
栄華を誇った大唐帝国が崩壊し、秩序が失われた中原で群雄が覇を競い、異民族が侵入した戦乱の時代。
この激動の時代を駆け抜けた英雄たちを語れ。
- 2 :
- 乙です。 でももう寝るです。
- 3 :
- と言うわけで、五代の戦乱の幕開けに位置づけるべきは、
唐朝に致命的な打撃を与えた黄巣の乱だと思う。
であるからして、五代の英雄たちを語るなら、
まずは黄巣の乱に参加した黄巣、王仙芝、後に唐朝を滅ぼすことになる朱温、
黄巣の乱鎮圧に当たった元祖独眼龍こと、李克用らを、
まず語らなければなるまい。
- 4 :
- 起きた。
IDあるから、連投するのはずかしいね。
三戦板では、自演か?ってくらいレスしていたが…
- 5 :
- まあ、どうせ人数は少ないんだし、連投だろうとそんなに気にする必要はないよ。
- 6 :
- 李克用(858〜908年)
突厥沙陀部朱邪氏の出身で、朱邪赤心の子。片目が異様に小さく、独眼竜と呼ばれた。黄巣の乱の討伐に参加して
功績があり、唐朝から雁門節度使に任じられ、続いて河東節度使へ上った。乾寧二年(895年)には晋王に封ぜられる。
黒鴉軍と呼ばれる軍勢を率い、唐朝を簒奪した朱全忠とは河北三鎮をめぐって争い、後唐王朝の基礎を築いた。太原で
病没し、 後に後唐の太祖と追尊された。
- 7 :
- 昼まで暇なんで、李克用について。
この辺はまだ、資料が充実しているから、わりに詳細に語れるけど、後代になると怪しい…
まぁ、生暖かい目をもっていきましょうか。
沙陀磧という砂漠付近で遊牧していたトルコ族(テュルク=突厥)のこの集団は、沙陀(シャーダ)と呼ばれ、首領に沙陀尽忠および、朱邪執儀などがいたそうです。
彼ら沙陀は
(本来、シャーダあるいはサダとするのが正しいのですが、漢字表記の「沙陀」のほうがかっこいいし、のちに漢字圏に入るので漢字で表記しないとかえっておかしい。契丹はキタイ。)
ウイグルと吐蕃との間で揺れ動いていました。
安録山の乱のときにも、唐に与力している、傭兵みたいな集団。のちに吐蕃の追撃を受け、沙陀尽忠は戦死し、生き残った朱邪執儀が部族をまとめ、雁門へとやってきます。
そう、この方が李克用のおじいさんにあたるわけですね。
で、それなりに唐との誼もあるので、??の乱等では一線級の活躍をするわけです。
このとき朱邪赤心とともに、15歳の若き李克用は参陣しており、「飛虎子」とあだ名されました。
李姓をもらったあと、沙陀は朔州に鎮したのですが、王仙之・黄巣の乱を契機に、唐に叛旗を翻します。
理由のほどは、まだそこまでつっこんでないので知りませんが、卑しい傭兵風情とか差別でもされていたのだろうか、近隣の藩鎮に。
2回ほど挙兵して、両方とも鎮圧され、あげく韃靼領にまで逃げ込まないといけない状態になりました。
さらにその韃靼でも、雲州の赫連澤の計略で首領をし独立しようとしていると噂され、あわや韃靼首領の手によってされかけるところでした。
しかしそこで李克用は、その韃靼首領の前で得意の弓術を披露しました。
100歩離れたところに、針とか木の葉とか小さい的を置き、それを百発百中させ、
「今朝廷は黄巣の賊に京師を呑まれようとしている。もし陛下がお許しくださるなら、わたしは陛下の御ために黄巣の賊を討つであろう。このような北の果てにいて、どうして大功がたてられようか!」
と言いました。
韃靼での叛意はないと見た首領は李克用の弓術に度肝を抜かれたこともあり、許すのです。
このあと、朝廷からの招安がきて、李克用は晴れて勤皇軍となり、唐朝廷のために尽力します。
が、行く先々ではDQNな行動で、いろいろ迷惑かけたそうな… しっかりしろよ。
- 8 :
- あ、まだユニコードに対応してないか… 失礼。
??の乱は、ほうくんの乱でした。
- 9 :
- >>7
三戦板のスレでも、指摘していた人がいたけど、その説明を読むと、
李克用の軍団は、三十年戦争のヴァレンシュタインの傭兵軍団を彷彿とさせるね。
李克用の軍団も掠奪しまくっていただろうし。
- 10 :
- 南唐って、経済力の中心地である江南を押さえていたわけだし、
英君が現れて、本気で富国強兵に取り組んでいたら、
天下を望むことはできたのかな?
- 11 :
- >>9 まぁ、文章は三戦板のときの改変つうことで。 その本質はそれに近いものがあるんでしょうねぇ。
でもだんだんと、そのDQNぶりが愛しくみえてしまうから困ったものです。
李克用は17000の兵とともに雁門あたりから長安目指して南下するわけですが、黄河を西に渡河したとき、黄巣軍と初めて戦端を開き、15万の黄巣軍相手に一方的勝利を収めました。
そのあとも連戦連勝なもんで、すっかり増長するんですよね。
その頃朱温は、河中の重鎮・王重栄に働きかけ、唐への帰順をとりなしてもらい、官軍側へと転身していました。
朱温は黄巣軍にあって目立つ将だったので、唐朝廷は喜び「全忠」の名を賜りました。
一方で、強すぎる李克用の対抗馬のような立ち位置だったようです。
李・朱ふたりの活躍で長安に戻ってこれた僖宗皇帝は、李克用を河東節度使とし太原(=晋陽)に置き、朱全忠を宣武節度使としべん梁に置きました。
このときくらいに、後の前蜀高祖・王建は、田令孜の仮子となっていたと思います。
それ以前は楊復光という名宦官の徴募に応じて黄巣軍と戦い、その功績を認められ仲間5人ともども「随賀五都」と呼ばれ、楊復光の死後(このあとすぐ亡くなる。軍中の兵士はその死を惜しんで皆泣いたそうな)皇帝直属の禁軍である神策軍に編入されました。
その神策軍を田令孜(宦官。悪人w)が統括していた、というわけ。
楊行密はすでに揚州(江都)にあり、これまた前時代の名臣・高駢のもとで淮南道あたりで辣腕を振るっていました。
そういう状況下、まだ黄巣の残存軍があったわけですが、なにせ元祖流賊。 拠点を失ったほうがしぶといという…
長安から脱出した黄巣は、華南あたりを東に荒らしまわりながら移動していきました。
たぶん、故郷へ還ることを考えていたのでしょう。
で、その黄巣の討伐に手を焼いた朱全忠は(なにせ、彼の領域近くに接近してきましたから、大慌て)李克用に助力を要請しました。
李克用は再び南下し、中原にて黄巣を打ち破りました。
朱全忠は李克用の功労を讃え、宴会を開きましたが、李克用の高飛車な態度にマジギレしてしまい、李克用が泥酔したところを夜討ちしました。
この「上源駅の夜襲」は、李・朱を不倶戴天の敵同士にする決定的瞬間でした。
李克用は泥酔のまま、史敬思の尋常ならざる奮戦によって逃げ延びることができ、すぐさま軍をもって朱全忠を討つ! と息巻くものの、奥さんである劉氏になだめられ、太原へと帰っていきました。
- 12 :
- 五代
後梁(907年 - 923年)
建国者は朱全忠(朱温、朱晃)
後唐(923年 - 936年)
建国者は李存勗だが、事実上の建国者は父親の李克用。突厥の沙陀部族出身。
後晋(936年 - 946年)
建国者は石敬?。
後漢(946年 - 950年)
建国者は劉知遠。
後周(951年 - 960年)
建国者郭威。
十国
呉(902年 - 937年)
南唐(937年 - 975年)
呉越(907年 - 978年)
?(909年 - 945年)
荊南(907年 - 963年)
楚(907年 - 951年)
南漢(909年 - 971年)
前蜀(903年 - 925年)
後蜀(934年 - 965年)
北漢(951年 - 979年)
他に河北で燕王を称した劉仁恭、陝西で岐王を称した李茂貞など
- 13 :
- 前蜀(903年 - 925年)
黄巣の乱鎮圧に功績があり、唐から蜀王に封じられていた王建が、唐が滅ぼされると四川で自立して皇帝を称する。925年
に後唐に攻め滅ぼされる。
後蜀(934年 - 965年)
前蜀を滅ぼした後唐より四川に派遣された孟知祥が叛乱を起こして自立し、後唐蜀王に封じられた後、934年に皇帝を称して
後唐から離れる。965年に宋に攻め滅ぼされる。
呉(902年 - 937年)
開祖楊行密は群盗出身だが、唐に帰順して節度使にまで伸し上がり、江南に勢力を築く。902年に唐より呉王に封じられる。
自立はしても唐の臣下の立場を貫き、後梁と争った。楊行密死後は、部下の徐温に実権を握られ、徐温の死後跡を継いだ徐
知誥に禅譲する形で滅亡。
南唐(937年 - 975年)
呉の実権を握った徐温の死後、その養子徐知誥が跡を継ぎ、呉から禅譲される形で建国。当初は国号を斉としたが、唐に変更。
江南に強大な勢力を誇り、文化的・経済的に大いに繁栄したが、北方を統一した後周の圧迫を受け、続いて宋に攻め滅ぼされる。
呉越(907年 - 978年)
無頼出身で、唐から節度使に封じられて浙江に勢力を築いた銭鏐が、後梁より呉越王に封じられる。西隣の南唐と度々抗争
するが、南唐が宋に攻め滅ぼされると、宋に投降する。
- 14 :
- ?(909年 - 945年)
節度使王審知が、後梁に入朝して?王に封じられる。王審知死後は内紛が続き、933年には独立して皇帝を称するも、
内紛は止まず、南唐に攻め滅ぼされる。
荊南(907年 - 963年)
後梁から荊南節度使に封じられた高季興が自立。弱小国であったため、後唐や後周、呉、?、南漢、後蜀のほとんどの周辺国
に対して臣を称して安全を保った。963年に統一を進める宋に投降する。
楚(907年 - 951年)
唐の湖南節度使馬殷が、後梁に入朝して楚王に封じられる。その後、後唐、後晋、後漢、後周と五代の各国に対して臣を称し
続けた。馬殷死後は内紛が続き、951年に南唐に攻め滅ぼされる。
南漢(909年 - 971年)
唐の節度使で広東広西に勢力を持つ劉隠が後梁から南平王、続いて南海王に封じられる。跡を継いだ劉?が913年に皇帝を称
して完全に自立、国号は当初の越から漢に。971年に宋に攻め滅ぼされる。
北漢(951年 - 979年)
後漢の創始者劉知遠が劉崇が、後漢の滅亡と後周の建国の際に太原で自立。北方の遼の援助を受けて、後周、宋に対抗する。
979年に宋に攻め滅ぼされる。
- 15 :
- >>10 南唐が経済的に優れていた事情のひとつに、淮南の領有があった。
ここは湿地で豊潤であるうえに、海岸線もあり古来より官塩の産地だった。
塩は前漢武帝のときに、国家専売となってより貴重な財源で、しかも法外な値段で売りさばいていた。
塩の密売人が出るのも、その辺が理由。
しかしながら、南唐は西暦953年に大飢饉が発生し、そのせいで国家財政が大きく傾き、淮河の防衛「把浅」を撤廃したことから、後周の攻撃を受けることとなってしまった。
後周の征淮南は、足掛け4年にわたり、南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取られてしまったのです。
驚くことに、後周の水軍が長江にまで進出してきており、南唐は風前の灯状態。
この時点で南唐は大国から弱小国へと転落し、「唐」という国号も返上し以後、江南国と呼ばれるようになりましたとさ。
- 16 :
- >>15
訂正
×南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取られてしまったのです。
○南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取ったのです。
このときの趙匡胤の奮戦ぶりと、後周世宗の激烈ぶりは後世の語り草となっています。
また、その後周軍の攻撃を約1年半持ちこたえた、寿州城の将劉仁贍もかなり鮮烈な印象を与えてくれます。
- 17 :
- >>15
淮南の塩って、この当時も重要だったんだね。
元末の戦乱の時も、河南の紅巾の乱への対応は動きが鈍かった元朝が、
張士誠が淮南で反乱を起こすや、即座に丞相率いる討伐軍を送っているあたりを見ても、
官塩ってすごい財源なんだね。
- 18 :
- そもそも五代の乱世を呼び起こした黄巣や王仙芝も山東の塩賊ですぜ
塩賊は時の朝廷を脅かすほどの力を持つ
- 19 :
- 白居易の塩商婦でも塩が儲けれるんだと分かるな。需要が多く供給が少なかったんだろう。
- 20 :
- と言うか、朝廷が専売する塩の値段が、あまりに高かった。
塩という生活必需品にとんでもない消費税がかかっている状態。
だから、闇塩というものが生まれ、塩賊が暗躍した。
塩なんて、原価自体は大したこともないので、例えば朝廷が売る官塩の半額で売ったとしても、
物凄い利益を生み出すことになる。
庶民からすれば、闇塩も決して安くはないけれども、官塩よりはずっと安いのでありがたがる。
塩賊も莫大な利益を得て力をつける。
- 21 :
- この頃の華南の生産力は興味深い。
これまでだったら、華南に群雄が並立するのは、一時的なものを除けばせいぜい2ヶ国か3ヶ国だったのが、7ヶ国の並立というカオスなことになっている。
淮南を得て領土的にも大きい呉〜南唐、領土は狭いながら海上貿易と中国の兵糧庫・浙江を抑えた呉越。
海の玄関口である福州と泉州を地味に抑えたビン、湖南の豊かな土地を開発して茶を輸出した楚。
交通の要衝で貿易黒字を出したと思われるw南平(荊南)、よく知らんけど異国っぽい雰囲気をかもし出すような南漢。
あといわずと知れた、芙蓉の城(成都)にイメージされる豊かさを誇った前後蜀。
領土面積や支配のおよぶ地域でみると、どれも六朝には劣り、矮小なイメージを拭えないが、これら勢力が並立しても長く政権を維持できるほどの底力が、このときの華南にはあった。
対して華北は…
後周太祖、世宗の登場で急速に国力が回復しつつあったとはいえ、強国の南唐を力尽くで首根っこを押さえ込めたのは、ひとえに後周世宗の偉能のなせる業としか思えない。
- 22 :
- 呉越なんか、地図で見る限りじゃ、よくあんな形で独立国を保てたなと思えるね。
あっという間に南唐に飲み込まれそうに見えるし。
にしても、華南の国々はそれぞれ個性が豊かだね。
- 23 :
- 「世家」があるのって新五代史と史記だけ?
- 24 :
- 関連スレを貼っておくわ。
五代十国時代を語ろう
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1008691359/
- 25 :
- うはw 史板のソレ、レベル高いんだよね。 中盤からは何しゃべってるのかわからなくなるくらい…
さて、爆弾投下。
河東太原(=晋陽)の李克用、汴梁(陳留の近く)の朱全忠、あと河中に王重栄、易定に王処存、四川には陳敬瑄等々が、実力者として目される状況。
そういう中で、唐皇帝僖宗は長安に帰ってこれたけど、その腹心である田令孜(宦官)が、官塩の利権から王重栄、王処存らと対立するようになりました。
王重栄は李克用に助力を請い、田令孜を威圧します。
一方、李克用もくだんの朱全忠が不意打ちした非を朝廷に奏上したにも関わらず、李克用をなだめるだけに終始していた態度に鬱屈していた事情もあって、王重栄を後押しします。
これに対し田令孜は邠州の朱玫と鳳翔の李昌符をもって対抗しますが、さすがに李克用には敵わなかった。
ビビった田令孜は、またしても僖宗を伴って逃げます。
朱玫はこの期に李克用と手を組み、皇帝を保護し実権を得ようと奸策しますが、田令孜の逃げ足は脱兎のごとく、襄陽王をどうにか保護できただけにとどまりました。
そのとき、王重栄や寝返った朱玫の追撃はすさまじく、皇帝と田令孜は鳳翔から桟道をとおり蜀へ抜けようとしました。
李昌符が桟道を焼き、どうにか追っ手を防いだものの、前回以上の災難だったので、僖宗はすっかり気弱(もともとだけど)になり、ずっと泣いているわけです。
そこで、神策軍に編入されていた王建が先導し、僖宗を馬に乗せ煙や火の粉を払いつつ進み、一夜の宿では膝枕(ごつい男の…)をしてやって、はじめて僖宗は安心したそうな。
そうやってようやく、興元(漢中)に着き、やがて田令孜の兄が治める成都に行くわけです。
朱玫は僖宗を得ることができなかったので、かわりに襄陽王をして帝位につかせ、また李克用とも共闘しようとしましたが、本来李克用は皇帝そのものには忠であるので、拒否りました。
味方のいない朱玫はやがて自滅し、長安近辺には再び平和が戻ってきたのでした。
そのあと僖宗は長安に帰りますが、帰着後ほどなくして亡くなります。 次に立つのが昭宗。
王建はそのまま蜀に残り、西川節度使陳敬瑄と事を構えるようになりました。
また、なりを潜めた朱全忠は、実はウラで蔡州の反乱者・秦宗権と戦い破り(ちなみに、この秦宗権の徴兵に応じて、木工の馬殷兄弟が参じている)、また謀略をもって山東方面を平定し、着実に力を蓄えていました。
- 26 :
- ま、ここはレベルとか気にせず、気軽に語りましょう。
初心者歓迎age
- 27 :
- 十国の方は、創業者が死んだ後内紛ってパターンが多いな。
- 28 :
- 王を名乗るのもおこがましい勢力が多いしね。
- 29 :
- 荊南なんか、あんな場所に小さい国でよく半世紀余りも続いたな。
周りの国全てに臣従したと言うが、巧みな外交がなければ、独立を維持できなかっただろう。
- 30 :
- 五代物語
第一部は、黄巣の乱、黄巣が主人公。
第二部は、残唐から大梁建国で、朱温が悪の主人公。
第三部は、李克用とその子孫を正義の側に立てた、打倒大梁と後唐建国。
第四部は、語り手馮道による五代群雄伝。
第五部は、郭威による後周建国と、柴栄の天下統一推進、趙匡胤の活躍。
第六部は、趙匡胤の宋建国、天下統一、南唐滅亡と後主の悲劇。
- 31 :
- >>28 お、ついにこのスレにもお越しになりましたか。
五代十国時代は一般にマイナーすぎて、一体どういう流れなのか把握できにくいと思う。
一応、人物や武将を語るために、ある程度の流れというかバックボーンがなければ話にならないと思い
なんかオレ解釈でわかる範囲の爆弾を投下し続けていますが…
ま、ウザかったら言ってください。すぐにやめますから。
>>29 高季興(高季昌)は梁の一部だったので、この頃はまだよかった。
問題は後唐が前蜀を伐ったあと。
そもそも「前蜀を伐つのが易しい」とか吹き込んだ(つか、前蜀は頑健で攻めても後唐では勝てないと思っていたから誘導した)のが高季興なわけだけど、思いのほか前蜀はもろく滅んじゃったのです。
あせった高季興はいろいろと画策し、あげく後唐の討伐を受けます。
ま、これは後唐も本気ではなく討伐軍の司令官に高季興の幼馴染をあてるなどしていました。示威行動ととれますかね…
以来、中原王朝とも微妙な関係となり、高季興の息子、高従誨は四方の強国相手に同盟離反を繰り返し、時の人に「やつは表裏常なく、油断がならん!」と言われ、「高無頼」とあだ名されるほど、外交がたくみでした。
日本で言うところの真田昌幸を彷彿とさせますなぁ。
- 32 :
- 流れを読むだけなら陳舜臣「中国の歴史」文庫版の4巻が簡単でおすすめ。
- 33 :
- この時代の代表者を選ぶなら、馮道だな。
- 34 :
- 有能な政治家か
狡猾な佞臣か
上層のクーデターだけで平和っちゃ平和だったり。
- 35 :
- 北朝側で、民衆にそれほど迷惑かけていない政権交代といえば…
後唐末帝のときと後周建国くらいか?
末帝のときは、おもいっきり馮道が絡んでいるなぁ。
混乱を最小限に抑えた功績(になるかはわからんけど)は、ひとえに馮道の見切りのよさだったわけだね。
おかげで後世からはボロカスに言われるようになったけど。当時の人にとってはカミ。
- 36 :
- 「馮道 乱世の宰相」って本もなかなか良かったぜ。
- 37 :
- 乱世の宰相としてよく馮道と諸葛亮は比較されるね
- 38 :
- 今、漫画板のスレにアメリカ人5人以上の書き込みがあって戦争状態だ!
何でも、日本人がアメコミと食文化を罵倒した上に、リンクを貼って挑発したらしい
漫画板の連中の英語力は稚拙で今は完全に押されてる
英語力に自信のある人、頼むから助太刀してくれ!
http://comic6.2ch.net/test/read.cgi/gcomic/1161175064
- 39 :
- >>37 どういう比較?
似たもの比較ってこと?
どう見ても、正反対の宰相だと思うよ。
- 40 :
- >>39
正反対だからこそ比較じゃない?
斜陽の国を軍事行動に駆り立てることによって支えた宰相と
戦乱が無意味に広がるのを避けるため首のすげかえをあっさりしちゃう宰相
- 41 :
- 流れを無視して、五代物語のつづき。
>>30さんは、第二部で朱温を主役に添えるように書いているけど、自分、朱温側はまだ把握しきれていないので、あいかわらず李克用側からの流れで…
黄巣の乱のおり、賊軍に味方した河陽節度使(孟州)の諸葛爽という人の下に、李罕之という男がいました。
李罕之は驍勇人に優れ、膂力もまた人一倍だったけど、無学のため無頼をやっていました。
いろいろあって諸葛爽に副将として扱われたが、諸葛が死ぬとその専権を握った劉経が、李罕之を危険視して討とうとします。
しかし李罕之は張言と協力してこれを返り討ち、李罕之は河陽(孟州)、張言は河南(洛陽)をそれぞれ領有しました。
ふたりは親友といってよい信頼関係を得た… はずでした。
李罕之はそもそも横暴な性格で、実は張言のことを見下していました。
それゆえ張言にはあれこれ無理を押し付け、自分は何もしないので、張言はぶちキレて、李罕之を攻めました。
張言は善政を布いていたので、将兵は彼に付き、李罕之は進退窮まってしまいます。
そこで李罕之は隴西郡王たる李克用を頼り、太原(=晋陽)に奔りました。
李罕之を受け入れた李克用は、李存孝、薛阿檀、安休休らに7千を率いさせ、李罕之とともに河陽奪還に出陣させました。
それに対し張言は汴梁の朱全忠に救援をもとめ、丁會、牛存節、葛従周らが後押ししました。
ここに、李VS朱が、はじめて対立するようになるわけですが、朱全忠軍が李克用軍の退路を断ったので、李軍は大敗します。
また、潞州(上党)で李克用の弟、李克脩が亡くなると兵乱がおこり、叛した将は朱全忠側に降ってしまいました。
それを取り戻すべく、康君立、李存孝を遣わすものの、すでに朱全忠側の驍将・葛従周が潞州に入り、防備を固めていたので、手が出せませんでした。
戦況不利な河東軍を、討伐のチャンスと見て取った、幽州の李匡威、雲州の赫連鐸らは宰相の張濬に働きかけ、一気に太原を攻撃しようとしました。
宰相・張濬は、かつて李克用に「お前は口だけだ」と言われたことがあり、それを根に持っていたので、昭宗の許可を得て、李克用の官位を削除、朝敵に認定しました。
張濬を総大将、孫揆を副将とし、実戦部隊の指揮者として華州の韓建をあて、邠州の王行瑜、鳳翔の李茂貞、李匡威、赫連鐸らを加え、大規模な包囲陣を布きました。
当然、朱全忠もこの機に北上し、李罕之がいる澤州を攻めさせました。
逆賊となった李克用は、幽、雲方面には、李嗣源(後唐明宗)、李存信、周徳威らを派遣し、李罕之の救援には李存孝に5000の兵を与え急行させました。
李存孝は進軍速度を重視し、500の騎兵のみで、澤州を包囲する汴の勇将・鄧季筠に迫りました。
李存孝は鄧季筠を一騎討ちで擒え、李罕之と内外呼応して汴軍を破り都将を数十人虜にしつつ追撃し、馬牢関で斬首万余級の大勝をあげました。
さらに官軍の副将たる孫揆が潞州へと陣を移そうとしていることを察知し、軽騎300にて隘路に伏兵し、孫揆の親軍3000を奇襲。
孫揆を生け捕った李存孝は、そのまま汴将・葛従周の篭る潞州を強襲して、復することに成功しました。
李存孝の悪魔な活躍で南方面が安全となった李克用は、晋州に陣取る張濬を討つべく進軍を開始しました。
張濬もこれに対し野戦で決着をつけようとしたものの、陰地関の戦いで破れ晋州城に後退しました。
さらに頼みの韓建も李存孝に敗れたので、長安へと遁走してしまいました。
そこで李克用は朝廷に無実を説き、楊復恭らの張濬追い落としの思惑もあって、官位が旧に復され朝敵の汚名は返上されました。
この一連の戦いで李存孝の勇名は鳴り響き、『旧五代史』などにはわざわざ
「挺身陷陣、万人辟易、蓋古張遼、甘寧之比也」
と書かれているという。
- 42 :
- >>40
ま、蜀や荊州の民からすれば、こいつらが余計なことしたから戦乱が長引いた
という考えも成り立つしな。
- 43 :
- 仮子の制度はこの時代だけに見られる特殊なものなの?
- 44 :
- 唐玄宗期あたりから顕著になった。
もとは宦官がシンパをつくるためにやったことだという。
- 45 :
- なるほど宦官が発祥なのね
五代では百人近く仮子がいた人もいるらしいね
- 46 :
- 任侠の、親分子分をもっと縛りいれた状態が仮子。
李克用、王建などがいい例なんだけど、その王建自体も田令孜という僖宗期の悪宦官の仮子だった。
田令孜を特に悪と書いたけど、この頃の唐は牛李の党争に代表される、宦官と官僚との衝突を引きずっていた。
基本的に、皇帝近辺の権力を握っているのが宦官で、禁軍の総大将を兼ね、また皇帝の生死すら操っていた。
そういう宦官全部が憎むべき存在なのだけど、特に僖宗の後見的な立場にいて信頼もされ、再三皇帝を蒙塵させた無策っぷりということで田令孜が悪の代名詞。
権力はあれど、宦官は子を作ることができないので、血縁による派閥が作れない。
そういうときに、擬制的血縁関係を強制できる仮子が流行したってわけ。
- 47 :
- 唐代後期は、宦官は皇帝の生与奪権さえ握っていたようだけど、
明代の場合は、どれだけ権勢を極めた宦官でも、
皇帝の絶対独裁権力を越えることはできなかったようだね。
- 48 :
- もともと唐も、初期の段階では宦官に実権など与えなかった。
その禁をやぶったのが、玄宗。
彼は高力士という宦官を個人的に信任していて、楊貴妃の件など他人には言えないような世話を焼いてもらったので、権力を与えてしまった。
高力士個人ならそれもおkなんだけど、結局権力を利用したい宦官がこれを前例として官位についてしまったことから、おかしくなった。
後漢末期も、清流派官僚と濁流派宦官・外戚との党争が、国家衰亡を招いたけど、唐も同じ轍を踏んでしまったようだ。
- 49 :
- おーい、外戚はむしろ清流派なんだが。
後漢王朝ってのは、豪族士大夫層を母体にした外戚と、それに対抗するために
宦官をつかった皇帝の権力抗争。
- 50 :
- あれ、そうだっけな。 どうも外戚と宦官が手を組んでいたように勘違いしていたようだ。
まぁ、五代専門なんで、その辺の間違いはご容赦を。
- 51 :
- 水滸伝に出てくる銭振鵬や馬万里って、確か五代の地方政権の
末裔だったはず。趙匡胤は投降してきた地方の王族は全くして
いない。後にその子孫が宋王朝の危機に忠臣として働くわけだから
かしこい選択だな。
- 52 :
- 悲惨だったのは、南唐の李Uぐらいか
- 53 :
- >>51 馬氏も銭氏も、後周時代すでに親交があった。
馬氏は南唐李氏に滅ぼされ、金陵に連行されていたけど、後周世宗の南征のおり、大義名分の一つに馬氏の救出があった。
驚いた南唐中主は馬氏を送ったけど、それ以外にも罪を並べられ、結局討伐を受けた。
呉越銭氏は呉や南唐と拮抗するため、中原王朝を頼っていた。
後周世宗の南征のときは進んでこれに協力したし、独自の年号を使うこともなかったくらいのシンパ。
湖南周氏、荊南高氏、南漢劉氏はそれぞれ趙匡胤に保護されたけど、後蜀の孟昶は開封に連れられてすぐに死んだそうだ。
したわけではないとは思うが、疑惑があったりする。
後蜀平定戦では、略奪も激しかったようだけど、江南平定のときは略奪を許さなかったあたり、趙匡胤という人柄が見て取れる。
陣頭の猛将のイメージが強い太祖だけど、柴栄のように常に陣頭指揮をしたわけでもないようなんだな。
禁軍将軍の兵権を取るところや、王彦超ら節度使をお涙頂戴などで謀反させる気を削ぐところなど、太祖にしかできない芸当だけど、統一事業は基本、柴栄の敷いた線に沿っているんだと思う。
- 54 :
- 蜀を平定した時は、かなり掠奪もやっちゃったから、住民の間に反宋感情が生じて、
なかなか安定しなくなったみたいだね。
江南の方は、掠奪を控えたおかげか、後々首都まで持って行っている。
- 55 :
- 曹彬のおかげ
- 56 :
- ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E5%BD%AC
曹彬(931年 - 999年)は後周・北宋の軍人。字は国華。諡は武恵。江南(南唐)攻略など数々の功績を挙げた宋初の名将
で、北宋建国の元勲の一人。
真定郡霊寿県(河北省)の人。後周では太祖の妻・張貴妃の甥として重用され、趙匡胤が恭帝から禅譲を受けて北宋が建
国すると、そのまま北宋へ仕える。 その後は将軍として契丹・北漢・後蜀・江南の諸国と歴戦し、数々の武勲を挙げた。
965年の後蜀攻略戦においては征伐軍による攻略後の暴行を制止しきれず、諸将とともに太祖から譴責を受けたが、975年
の江南攻略戦では被害を最小限に留め、南唐の優れた文化を北宋へ受け継がせることができた。
その後は枢密使・同平章事を歴任して軍事面の責任者として貢献し、一時は北漢討伐戦の敗戦責任を負って左遷されたも
のの、後に枢密使に復帰している。
清廉篤実な人物として知られ、幾つかのエピソードが伝わっている。
曹彬が後周の茶酒を司る役人だった頃、まだ後周の将軍だった太祖・趙匡胤に管理下の酒を要求されたことがあった。曹彬
は公の酒を与えることを断り、自ら酒を購って趙匡胤に与えた。後に太祖は、曹彬の篤実な勤務ぶりを称揚したという。
江南の金陵包囲戦中、曹彬は攻城前に仮病を使って寝込んだ。そして見舞いに訪れた諸将から、病を治す代償として略奪・
暴行を行なわない旨の誓約を受けた後に金陵を攻略したため、被害を最小限に留めることができたという。
- 57 :
- まあ、戦争で掠奪暴行の類を完全になくすのは無理
- 58 :
- 唐末五代であれば、略奪行為はむしろ普通。
このあたり、こちら側の見識をチェンジしておかないと、まともについていけない。
それくらい狂った時代。
秋毫も犯さず? そんないい子ちゃんが生き残れるような、甘っちょろさはないといってもいいくらい。
だけど、絶無ではないところが、懐の深さ。 また面白さ。
- 59 :
- 唐末五代に限らず、昔の戦乱期で掠奪のない時ってないだろう。
- 60 :
- 南漢はアラブ系らしいけど、やっぱり濃い顔立ちしていたのかな
- 61 :
- 閩
- 62 :
- 広州や泉州あたりはアラビア人がたくさんいたらしいからね。
- 63 :
- 呉越は、国号が「呉越」の二字?
皇帝は称していなかったようだから、形の上では常にどっかに従属していたのかな?
- 64 :
- >>63 もともとは黄巣の乱のときに結成された自治組織のようなもの。
董昌という人が編成した杭州八都という軍団があり、その都将として銭鏐がいたと思えばいいわけ。
で、董昌のもとで勢力を広げてゆき、杭州・越州を手中にした。
唐昭宗期では杭州節度使とされたけど、董昌がかなりヘンになったのでこれを倒し、彭城郡王に封じられた。
さらに、西暦902年に「越王」、西暦904年に「呉王」に封じられ、朱全忠が梁を建国したとき(西暦907年)、「呉越王」兼淮南節度使とされた。
王号をもって「呉越」と判別するけど、実際には冊封ということで、より独立性の強い政権であって、厳密に「国」というわけではない。
年号も基本、中原王朝のそれを用い独自のものは作らなかった。
この時期、そういう政権は多いので、ひとつの国とみても差し支えはないはず。十国と言われるゆえんだし。
独立し皇帝を名乗ることもできる国力はあったろうけど、お隣の呉〜南唐が、それ以上のちからを有していたので、生き残るためには中原王朝と親密にするのが上策だったのだろう。
- 65 :
- 姉妹スレ@世界史板
五代十国時代を語ろう
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1008691359/l50
をよろしこ。
- 66 :
- どちらのスレも人が少ないねえ・・・
- 67 :
- 五代の各王朝の官制は、だいたいは唐朝のものを模倣したものだったのかな?
- 68 :
- 踏襲といってくれ…
- 69 :
- 五代十国で、唐制とは大きく違った独特な官制を持った政権ってある?
- 70 :
- そもそも、短命政権ばっかりで政権参加者の個人能力の比重が大きいから
独自色を議論するほど安定政権みたいに官制が機能していたかどうかすら怪しい。
- 71 :
- 官制よりも藩鎮の力を削ぐ仕組の形成だな
- 72 :
- もったのは創業者の代だけで、二代目以降はがたがたの政権多いしね
- 73 :
-
五代はともかく十国になると、
新旧五代史を読んでも大筋しかわからん。
- 74 :
- 十国春秋が一番まとまってていいけど、南唐書というのもあり、十国春秋は孫引きなんで、根拠とするには弱い。
しかし、言ったように十国すべてがまとまっているので、すごい便利。
… まだ南唐や後蜀のこれは、といえる人物のくらいしか見てないから、エラそうにはいえないけど。
- 75 :
- 黄巣って子孫はいたの?
- 76 :
- この時代って、たとえ皇后でも、再婚した女が多いね。
戦乱続きで、貞節なんかにあまり構っていられない感じだったのかな。
- 77 :
- 唐の時代も再婚が多い。
宋の時代になってから、上流階級の女性の再婚が減った。
- 78 :
- 人口=国力という一面があるからね。
一般庶民には再婚を奨励したり、
何歳か以上で未婚の場合は税金をかけたり、という時代もあるぐらい。
- 79 :
- 人口=国力。
唐律における、均田制-租庸調-府兵制のトリニティは、まさに把握できる戸数に拠っているわけで、それが崩壊してしまった唐末では中央の国力はガタガタ。
両税法と官塩と茶税の暴利によって、なんとか持ちこたえた感じ。
そこは五朝もさほど変わらない。
後周にはいってようやく、まともな国づくりに向かったというから、庶民層の生活はとんでもなかったろうね。
>>貞節なんかにあまり構っていられない
それを強く認識し強要(というのもヘンだが)しだしたのは、宋代だから…
馮道も、五朝乱世ならああいう生き方は是とされるが、安定した王朝では単なる無節操とされるゆえん。
唐の頃は、遊牧民的な気質もあり、男女の開放感はあったとされる。 五朝のうち三朝は突厥系沙陀で、その政権下で生きた後周二皇帝もその気風は受け継いでいたようだ。
- 80 :
- この時代は、四川とか江南の方が安全かな。
中原は何だか、戦続きだし。契丹人の侵入もあったし。
- 81 :
- 地方は地方で戦乱が多いし。
南漢とか長期政権だし、治安がいいかも。
- 82 :
- 長安の貴族文化人は、四川に逃れた者が多かったみたいだね。
よそから侵入を受けない限り、四川の情勢は安定していたと思う。
- 83 :
- 情熱の花蕊夫人
- 84 :
- 四川は、考えてみれば黄巣の乱の被害にあってない。
ここは、唐中期に反側の節度使がいたけど鎮圧されてから、あとは皇帝の逃げ場となって割りに安定していたようす。
乱を起こしたのはまさに王建で、異民族を多数引き入れもしたけど、国家作りもしっかりしていたので、中国王朝から離脱することはなかったみたいね。
そこは唐の知識人や中堅クラスの官僚たち(あるいはその方がかなりまともな良識をもった官僚だったかも)が中心となっていたからだろう。
それでも後唐が王師を派遣すると、もろくも滅び去ったけどね…
- 85 :
- でも、最後に、
宋が天下統一の過程で蜀を征服した時は、結構派手に掠奪をやらかして、
その結果、反宋感情を根づかせてしまい、
天下統一後もなかなか情勢が安定しなかったとか。
- 86 :
- ほぉ。 それはなかなか興味深い事柄だね。
蜀での略奪がひどすぎて、江南攻めのときには特に注意したほどという話だし。
反宋感情の背景に、反側の気風がそれに関わっているとすると、北宋の政策も完全とはいかなかったと取れるな。
どうなんだろう。
- 87 :
- だから宋初には蜀だけ特別な経済地域として扱ったんだっけ・・・
鉄銭の使用と、それに続いて初めて紙幣の原型を導入したはず・・・
- 88 :
- 清流を濁流へ
白馬の禍
- 89 :
- 李茂貞が岐王に封じられるのは、旧唐書と旧五代史では違うのな。
旧唐書のとおりだと、景福元年(892)となって、朱全忠が東平郡王に封じられた3年後で、李克用の晋王より3年早いことになる。
そのころの唐は、まず朱玫を筆頭に、李克用・王重栄・新たに鳳翔節度使に抜擢された李茂貞らで、長安付近は嵐の只中だった。
朱全忠は秦宗権討伐で、徐州や淮西・淮南方面に勢力を伸張していた。
中央の荒れっぷりを横目に… という感じだけど、実際には秦宗権という害虫の駆逐に顔を真っ赤にしていたに違いない。
やがて朱玫の天下も終わり、ようやく長安に帰ってきた僖宗は、憐れにも死んでしまい昭宗が跡を継ぐ(がされる)。
で、李克用討伐令発布。→官軍ボロ負け。
西川では王建が平定しつつある。
李茂貞は兵力を温存していた。→興元(漢中)を取る。
この時点で長安に一番近い李茂貞が、二鎮を有し最強の勢力をもっていた。
朱全忠は山東を圧していたけど、遠い。
あるとすれば、この時点で岐王に封じたか。
しかし翌2年(893)、李茂貞は朝廷の討伐を受ける。しかし李克用のときと違って、ほとんど誰も加勢しなかった…
その後も、一応討伐令は継続していたようなので、岐王の号は令とともに削除されただろう。
で次、清流派たち(宰相や官僚)は朱全忠の武力を当てにし、皇帝擁する宦官に対抗しようとした。
そこで朱全忠がこれ幸いにと、長安まで軍を進め(このとき宦官をおもくそしている)たので、宦官らは皇帝を伴って鳳翔に逃げた。
皇帝を保護した李茂貞が、岐王返り咲きを強要したのだろう。
だから、『資治通鑑』ではこの年天復元年(901)に岐王になったとしている。
また『旧五代史』では光化中(898〜900あるいは901)としている。
一旦削除されて戻ったとするほうが自然だろうか? これ以上は今はまだわかんない。
李茂貞の絶頂期はまさにここまでで、虢県の戦いで朱全忠にわやくちゃに負けてしまい、以後は消えゆく残り火となる。
のくせに、後梁建国後、李茂貞は岐王府を開き独立国となった。
本来、五代十国には入らないけど、初期鳳翔を中心にあった国「岐」はここが始まり。
それ以前のほうが勢いあったのに、なんとも英雄になれなかったお人…
- 90 :
- 一つ間違えれば、朱全忠と李茂貞で立場が逆転したかもね。
- 91 :
-
うーん、李茂貞はどうかな。
朱全忠は一流の武将ではないにせよ、度胸や根回しは相当長けているからなあ。
- 92 :
- 李茂貞は李克用に勝てたためしがないから、朱全忠と立場変わったら、西で李克用が暴れまくるだろう。
しかしその李克用とて、新王朝を築くには至らないかもしれない。
両者とも、唐朝の権威よりの立場だし、粗末な扱いはするにしても手にかけるかどうかは怪しいところ。
やはり、朱全忠というハカイダーがいないことには、腐った貴族官僚や宦官どもが、いつまでものさばり続けるだろう。
>>朱全忠は一流の武将ではないにせよ
皇帝就任以前では、十分一流の部類に入ると思うが。
- 93 :
- 朱温って家族いたよね。
皇帝になった後、どんな待遇になったのかな。
- 94 :
- 朱全忠が皇帝になる時、反対したのは兄一人だけじゃなかったっけ。
- 95 :
- >>94 そう。
朱全忠ってやつは、息子の嫁さんにも手を出して、しかも息子はそれを容認していたという異常家庭の持ち主。
息子のほうは嫁が寵愛されれば、もしかして自分が太子になるかもと企んだわけだな。
朱全忠は、政戦両略のある逸材ではあるが、個人としては粗野な盗賊とさして変わらない。
その辺が、梁という国を保てなかった原因ではないかと思う。
次の代になると、朱全忠に従った有能な臣下たちは遠ざけられてしまったし。
翻って李存勗は、李克用以来の部下たちを120%コキ使って、梁を圧倒している。
- 96 :
- そう異常とばかりも言えんぞ。
現代の日本企業でも、出世のために妻に上司の伽をさせてる
サラリーマンなんぞ、ゴマンといるだろう。
梁が短期政権だったから、スキャンダルが暴露されて記録に残っただけかもしれん。
しかし梁が短命だった理由の一つが、朱温のキャラにあったというのは確かだと思うが。
- 97 :
- 上司に妻を使って性賄賂を贈るってのは、
伝統的に中国、特に役人の社会で結構あったことらしいね。
- 98 :
- ソースは?
- 99 :
- >>96 そ、そりゃ… そういうのもいるが… それ自体が異常なんじゃ…
しかし、そういう世界には関わりたくないもんだ。
自分の嫁だぞ。それを上司に… うえ、考えたくねぇ。
朱全忠と朱友文は、その異常さの報いを受けたけど、実際多くの仮子が同じことやっていたようだ。
親が子の嫁を寝取るというのは、伝統的にあるようだけどな。 玄宗とか、玄宗とか、玄宗とか。
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