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2011年10月1期中国英雄赤壁の戦いの真実
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淳于瓊について語ろう
赤壁の戦いの真実
- 1 :06/12/07 〜 最終レス :11/12/03
- 有名な赤壁の戦い
実際はどんなものだったんでしょうか?
- 2 :
- 流石にこれは三戦板でやろうよ
スレもうあるんだしさ
- 3 :
- 三戦に武侠スレと水滸伝スレたててこようかな
- 4 :
- 三戦板に気兼ねする必要はないよ。ここはここでやればいい。
とりあえずWiki
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
赤壁の戦いは、208年の中国三国時代に魏の曹操の軍(15万)と蜀の劉備・呉の孫権連合軍(推定5・6万)の間で長江の赤
壁(現在の湖北省)で起きた戦い。連合軍側の勝利で終わり、曹操の天下統一の野望は頓挫する。現在赤壁と呼ばれている
場所とは位置が異なるようである。北宋の詩人蘇軾は、この間違った地で「赤壁賦」を作ってしまったらしい。
史実における赤壁
208年7月、荊州の牧であった劉表を攻める為、曹操は兵を率いて荊州へ南下を始める。八月、劉表が死ぬと策略により劉表
の跡を継いだ次男・劉jは9月に降伏し荊州を曹操に譲り渡してしまう。孤立した劉備は、長江づたいに南下し、長坂で追いつ
かれるが、何とか難を逃れ夏口へ到達する。そこで劉表の長男・劉gと合流し、孫権の命で荊州の動向を探りに来た魯粛と落
ち合う。その兵百万と聞き孫権は驚愕するが、周瑜は、実際には14〜5万しかおらず、軍隊は疲弊しきっているので勝機はこち
らにあると孫権を説得する。
劉備からは諸葛亮、孫権からは魯粛が使者となり同盟を結び、長江を挟んで対峙する。孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を送
る。12月黄蓋は策を練り、実行される。周瑜は失策失敗を理由に黄蓋を鞭打ちし、恨みを持った事を理由に黄蓋は降伏した。し
かし、これは偽装であり内側より火攻めに成功、多くの軍船が沈んだ。苦肉の策という故事成語はこの時より生まれた。
曹操軍は慣れない江南の地で疫病や兵糧不足に悩まされたこともあり、荊州の大半を放棄し、樊城の守りを曹仁に託し許都
に引き返してしまう。
孫権・劉備側の完全勝利ということもあり、あたかも曹操が致命的な痛手を負ったかのように評される事もある。しかし実際に
名前の知られた曹操配下の武将の戦死・戦傷の例が皆無であり、またその後の曹操が莫大な費用のかかる銅雀台の建設を
進めていることからして、少なくとも致命的な被害とは言えないと考えられる。実際にどの程度の被害であったかは史書にはっ
きりとは記載されておらず、推測するほかは無いが、この戦いの結果により曹操の南下政策が頓挫したのは事実である。
- 5 :
- 演義における赤壁
『三国志演義』における赤壁の戦いは以下の通りである。
『三国志演義』では、朱元璋が陳友諒の水軍を火計で打ち破った鄱陽湖の戦いをベースにしている部分があるので注意が必
要である。
208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと7月に50万の兵を率いて南下を開始した。ちょうどそのころ劉表が亡くなり、劉
jと後見人に付いた蔡瑁は、曹操に降伏してしまう。曹操は荊州の兵を会わせ「百万」と号した。諸葛亮の意見を取り入れず荊
州を奪う事を諦めた劉備は曹操軍に追われ、ひたすら南に逃げるが大量の領民を引き連れたために進軍速度が上がらず長坂
坡で追いつかれてしまう。この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れると、夏口の劉gの下へ落ち延びる。一方、江東に勢力を伸ば
していた孫権は、この報に驚き、文官武官を集めて、降伏するか戦うかの会議を始めた。文官のほとんどは降伏を主張していた
が、そのころ劉備の軍師だった諸葛亮が訪問し、魯粛も主戦論に偏っていたためにこれを利用し、孫権の説得を始める。兄孫策
の義兄弟でもある周瑜も後からやってきて主戦論を主張したために孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決める。当初、周瑜は魏に
降伏する考えであったが、諸葛亮から曹操が作った詩で「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻)を欲しがっていると聞かされ、怒っ
て孫権に対して戦うようにと主戦論を主張した。
両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、周瑜は計略を使い、
荊州水軍の要である蔡瑁を謀する。蔡瑁謀後に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和に対して偽
情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。そして、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。
また、火計を効果的にするために、当時在野にいた龐統を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のためにと船同
士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。問題は、当時の季節-10月には東南の風が吹かないと言う事だった。この方
向に風が吹かないと、火計を用いた場合自分達の水軍にも被害が下る恐れがあったのである。諸葛亮は東南の風を吹かせると
言い、祭壇を作り祈祷すると、どこからか東南の風が吹く(民間伝承には、諸葛亮はこの時期に東南の風が吹く日があるのを初
めから知っていたと言う話やドジョウを使って東南の風を吹く日を知ったなどの話がある)。機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積ん
だ船に火をつけさせ火計を実行、「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。更に東南の風で
地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られた。なお周瑜が自分をそうとしている事を察知した諸葛
亮は、東南の風が吹いた直後にその風を利用して劉備の下へ逃げ去った。
一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかけた。しかし
諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、す事は不可能であろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて
関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認した。
こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後劉備と孫権の係争地となる。
- 6 :
- こうめいが風を起こしたから勝ったんだよ
- 7 :
- 演義の方は、基本的に鄱陽湖の戦いのパクリのようだけど、
よくあれだけ盛り上がる話に仕立てたなと、作者の創作力に感心するよ。
- 8 :
- 赤壁の戦い
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1161249798/
こっで語ろうよ
- 9 :
- 三戦では語ろうにも語れない
- 10 :
- 魏、蜀、呉のそれぞれで見方が違うからな。
あんまりよく分からん戦い。
- 11 :
- 結局のところ、歴史上特筆するべき重要な戦いだったと言えるのかな?
三国時代の数ある戦いのうち、わりと大きな戦いの1つ、といったところ?
- 12 :
- でも曹操の南下は頓挫したんでしょ
- 13 :
- 劉備ってさ、この戦いの前後、上手いこと立ち回っているね。
- 14 :
- なんだかんだで狡猾な男だからね。
まだ、曹操の方が大物感があっていいよ。
- 15 :
- 曹操の軍勢で疫病が流行ったのは事実。
それが撤退の最大の理由だろう。
- 16 :
- >>14
荊州で撤退する時なんか、まんまと民衆を盾に使ったしね。
あの男の才能は、逃げる時に最大限に発揮される。
- 17 :
- 「北岸はおびただしい数の焼死者、溺死者により埋め尽くされた・・・」
とのこと。すさまじいね。
ところで三国時代は人口激減期で「演義」の兵力数は歴史と異なる。
赤壁での兵力は曹操軍が22、3万といったところなのに80万と誇張
されている。
小説だから数字は歴史と同じである必要は無いが無理が多い。
例えば弱小国の蜀が背後に魏という大敵を抱えながら呉に75万の兵力
で侵攻したり、南方に50万の兵力を出したり。それでいて主敵の魏に
は最大で30万程度しか出していない。これって矛盾だよね。
正史によると263年の滅亡時に蜀は人口94万、兵力10.4万。
呉は280年の滅亡時に人口230万、兵力23万。
- 18 :
- 正史の人口記録だと、後漢最盛期に比べて三国時代はほぼ10分の1に減っているけど、
実際は王朝の人口把握能力の低下によるところが大きく、そこまで極端な減り方はしていないと思う。
大きく人口が減少したことは事実にしても。
兵力の誇張は、古今東西どこでも同じだね。
三国時代は、実際のところ、最大でどれぐらいの兵力を動員できたんだろう?
- 19 :
- 信憑性があるかは分からないサイトか何かで当時の資料やらから夷稜の戦いで劉備が動員した総数はおおよそ13〜15万ではないかと検証してたな。
捕虜逃走を含め帰国出来たのは半数程で、これが滅亡の遠因になる程の戦力低下に繋がっているとすら書かれてたな。
- 20 :
- ずっと後の時代の、サルフの戦いでの、
明軍も47万と号して、実数は10万ぐらいだったらしいからね。
- 21 :
- 桶狭間の戦いの時の、今川義元の軍勢の兵数は、
実数二万五千、号して四万、だったとか。
- 22 :
- 今川のは総動員可能な数がおおよそ4万ではないかって計算だったような?石高から。
で、今川家は4万つー流れじゃなかったかな?
ただ遠征軍は2万5千とかって数字らしいけど。
日本の戦国時代のような石高からの目安すらつかない2000年前の中国なんて実数は計りようもないっちゃないよなぁ・・
- 23 :
- 20 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/25(水) 12:53:13
赤壁というか、曹操の荊州侵攻以降の劉備の動きは神がかってるよな。
曹軍侵攻と劉ソウ降伏を知った劉備は、抵抗と曹操撃退の手を考える。
襄陽を占領したてこもるのは時間がないし危険が大きい。劉ソウがいるのだから、占領自体に手間取るかもしれない。
江陵に急ぎそこに拠るのは魅力的だが、だからこそ曹操もそれを真っ先に潰しに来るだろうと劉備にも読めた。
ではどうするか。
自分に近い立場の江夏太守劉キとの合力しかない。しかしこのままでは兵力差にかなり不安がある。
そこで劉備は敢えて襄陽や江陵が目的地かのような行動を取り、曹軍をひきずりまわすことにした。
曹操はまんまとその手に乗り、強行軍に次ぐ強行軍で劉備を追いかける。
更に極めつけは、曹操の切札虎豹騎である。袁譚を斬るなどここ一番に投入されてきた精鋭を、劉備はわざと使わせる策を使った。
それが民と歩調を合わせた行軍である。
江陵を確保されることを恐れた曹操は一挙に決着をつけるべく劉備に虎豹騎を投入。
しかし劉備の遅い進軍は罠だった。今まで民と一緒に行軍していた劉備は、虎豹騎に追いつかれるといきなり全速力で東に逃走。
虎豹騎は民に阻まれ劉備をとり逃がす。後に残るは疲弊して使いものにならない軍馬と恐怖を味あわされた民の曹操への恨みだけだった。
劉備はかくして真の目的を隠し兵力も関羽に分け温存しつつ、曹操には無駄な消耗を強制しながら江夏に入ることに成功したのであった。
- 24 :
- 演義じゃ、諸葛亮がやったことのようになっていることも、
実際は劉備が考えて実行していたりしていたことが多いからねえ。
その点で、劉備は過小評価かも知れない。
- 25 :
- わりと「謀」の人だよな、劉備は。
- 26 :
- 結局、疫病とか、補給などの問題があって、
ちょっと小競り合いをやっただけで、曹操は兵を退いたんだろう。
- 27 :
- >>26
なんでわざわざ長江を下ってまでこぜりあいするの?
- 28 :
- 示威ともとれる行動。 でも失敗した、ということか?
- 29 :
- だめじゃん
曹操ショボッ
- 30 :
- 三国の史書はどれも自国に都合のいいように書いているからなあ
- 31 :
- どの史書も同じ
- 32 :
- 曹操の軍勢と孫権の軍勢との間で戦いはあった。
近くで劉備がうろうろしていた。
曹操の軍勢では疫病が流行っていた。
曹操の軍勢は北へ引き揚げた。
分かっているのはこんな感じか
- 33 :
- >>32
孫権は江陵を占領した
劉備は荊州南部を占領した
- 34 :
- 呉郡から赤壁の戦いがあった近辺って結構遠いね。
曹操はこの戦役で完全な勝利を収めて荊州を平定した後でも、
江東の平定まではまたかなり時間を要したんじゃないかな。
- 35 :
- 赤壁は戦いの激しさでは官渡や夷陵の方がでかいかもね。
赤壁時曹操が江南を一気に制する気だったのか、
脅して降伏してきたらラッキー程度だったのかわからないが、
水上戦は苦手なうえ陣中は疫病が流行る。
そのうえに呉に鮮やかに負けることになる。
・・・まあ逃亡経路を押さえが間に合わず詰めを欠いたけど。
ただ三国志的には魏と呉の初めての激突であり、天下三分が形作られた。
って漫画に書いてあった
- 36 :
- 意識としてはどうなんだろう?
やっぱ辺境の江南でも、平定しないと、
天下を取った気になれない感じかな。
- 37 :
- 辺境っても荊州も呉も蜀も秦が最初に統一した時から中原王朝の版図だからね
完全に独立されたままでは天下を統一したとは言えないよ
- 38 :
- 赤壁の防衛線さえ突破できれば陸路で敵の拠点を衝ける。
魏の優位は増え、呉の不利は増える。
また銅山が確保できるので208年以後の魏の南からの退勢はなかったかもしれない。
兵力では魏の方が圧倒的なので、そこで魏が進軍を止めても江陵確保はおろか第二第三の赤壁が何度も出現するだろう。
こうなった場合、本拠留守のジュンイクが造反でもしない限り、呉の破滅は確実。
だから三国鼎立は大国の機能不全によって訪れた勢力均衡だと言える。
2mを越える大男も病臥しては小さな蜂や蚊を容易にはせないものだ。
その病める大国を文帝と明帝は社会変革によってなんとか治療し、数字上の優位を実体化出来るようにしたのだと考えられる。
- 39 :
- >>38
見るたび疑問に思ってるんだが、江夏郡の銅山についてのソースをくれないか。
勢力地図を塗り替えるほどの影響力を持つほどの大鉱山なら、当時または前後の時代の記録から伺えると思うんだが、そんな記録をまだ見たことないんだよな。
- 40 :
- 当時は、旧楚地域の荊州の方が、旧呉越地域の江東よりだいぶ開発が進んでたみたいだねえ
- 41 :
- 江南に、漢民族が入植して本格的に開発が始まったのは東漢以降。
西漢時代には、まだ未開の、非漢民族居住地域の色合いが強かった。
- 42 :
- 戦国時代の呉越の頃は、やっぱり自分たちは中原とは別の民族だという意識が強かったのかな?
- 43 :
- 秦、楚もまったくの異民族だからな。
楚なんか特に異民族の扱いは酷い、楚人の典型は項羽だな。
楚人は楚人しか重用しない。
- 44 :
- まだ荊州のあたりは、漢民族化が進んでいたのかな。
呉にいた山越という異民族って、どんな風習の民族だったんだろう。
- 45 :
- 楚なんて自分で王を名乗っちゃうくらいだからな
- 46 :
- 演義の方の戦いについて語る時は、
鄱陽湖の戦いも分析しないとな。
- 47 :
- 連環の計は知恵の輪
- 48 :
- 演義の赤壁の戦いは最高だね。
ドラマチックで、ものすごく盛り上がる。
- 49 :
- 55 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/26(木) 21:12:25
疫病で仕方なく撤退したんだよ
・長江は水流が早く動力を持たない当時の船じゃ水上戦の展開は不可能。
・諸葛亮の出師の表は曹操の生涯の敗戦を挙げているが赤壁の戦いはない。
・周瑜は戦後特に賞されることなく、地位も上がらず加封もない。
・赤壁の戦いの翌年に曹操は周瑜に投降を求めている。
だ、そうだ。
- 50 :
- >>49
それは完全な誤読によるものも含まれてるし、ほぼ全てコピペ元のスレで論破されているはずだが
- 51 :
- 中国版wikiの「赤壁之戦」
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A3%81%E4%B9%8B%E6%88%98
参戦兵力は、曹操側が約16万人、孫権・劉備側が約5万人にされている。
- 52 :
- 周瑜の分析がソースだな、それ
- 53 :
- 呉の側はどれぐらい戦意があったんだろう。
降伏論も強かったらしいし。
- 54 :
- 実際はあまり大した戦いでもなかったようだし、
そんなに意気込んで戦ったわけでもないんじゃないの。
- 55 :
- 呉にしてみたらオールスターな布陣に近くないか?
- 56 :
- 朱元璋対陳友諒の水戦以前の時代の講談における赤壁ってどんな扱いなんだろうか。
- 57 :
- 宋代なんかには、説話とかで三国志が語られていて、
それを基に、三国演義が作られていたんだよね。
どんなふうに語られていたのかな。
- 58 :
- 宋代では主に五代だな。
李存孝、周徳威、王彦章とくれば、民衆の大人気。それが昂じて、李存孝などニセモノのキャラが実物だと誤認され・・・
三国志関連は東晋頃から、街路や酒家で語られていた… だったと記憶するが。
「さぁさぁ、本日は劉公が逆臣曹瞞を華容に追い詰める話だよ。聞かないと損するよ」
東晋はどうかしらないけど、南宋のときは蜀漢を正統王朝としたがっていた。十八史略もそう。
- 59 :
- 戦略目標としては、劉表軍閥乗っ取りを企む劉備の行動を阻止すること。
これは成功している。
劉備が逃げたから、追撃を掛けてみただけ。
劉備の身柄確保がならなかったのは惜しいが、
戦いには勝ったことだし、撤収しよう。
↓
後、反曹操陣営は赤壁の戦いに大勝利したと宣伝
- 60 :
- >>59
発想は面白いが、劉備は最終的に荊州の支配者になっているから、曹操はその戦略目標も達成出来てないことになるな
- 61 :
- >>59
江陵で一年間粘った曹仁が浮かばれません……
- 62 :
- でも、演義の赤壁の戦いは素晴らしいと思う。
あの時代に、これだけわくわくする展開の戦いを書けたんだから。
赤壁の戦いがなかったら、演義の魅力も半減だろう。
- 63 :
- 同感
赤壁までの盛り上げ方も凄く良い
どんどん強くなるライバル、自分の国すらない主人公
それが軍師を得て、ついに一矢報いる
- 64 :
- <クイズ>皆さんは知っていますか、日本にもある「小赤壁」其処には孔明が祈る
祭壇まであるらし。
- 65 :
- うちの近所のデートスポット。
つうかカースポット。
- 66 :
- 小赤壁は、兵庫県姫路市木場の瀬戸内海木場港から海岸沿いに燈籠地山・姫御前山を経て東へ連なる高さ50m、長
さ約1kmの絶壁。石英粗面岩からなる景勝地として、小赤壁公園になっている。
1979年(昭和54年)、ノジギクや桜の名所として知られる木庭山を含めた磯周辺と共に、姫路市の緑の十景のひとつに
制定された。「小赤壁」の名は、1825年に頼山陽がこの地に訪れた際、中国の赤壁に似ているとして命名したことによる。
頼山陽は、中国へ行ったことないだろうw
- 67 :
- 頼山陽が、じゃなくて、その知人の中国人が、海からみたとき、「なんか似てる」って言ったとかなんとか。
じゃなかったっけ?
- 68 :
- 66さん正解です。
一度言って見たいです。
他にも有るようですよ。
日本にもある三国志名勝 (秩父赤壁)
埼玉県の長瀬駅(秩父鉄道)から歩いて直ぐの所らしい。
私自身は行った事がないので正確な事は分からないが、荒川になるらしい。
ライン下りもあり、秋の紅葉時分は大変な賑わいだそうだ。
高さ30メートル幅500メートルもある断崖が中国湖北省の赤壁に似てい
ることから名づけられ、長瀬の観光名所の一つになっている。
夏の西日が断崖をうっすらと赤く染める光景からもそう呼ばれるようになっ
たらし。
- 69 :
- 万里の長城もあるらしいぞ
ちっちゃいのw
- 70 :
- ↑どこ、教えて!
- 71 :
- 姫路市西北部の太陽公園という場所にもあるらしいのだが、
俺の記憶の中にあるブツとは違うんだよな
カクエイ田中が日本列島改造と称して地方にバラまいた補助金で
作ったのがあったはずなんだが、ググってもでてこない
どこだっけなあ
- 72 :
- わからん。 兵馬俑なら王子公園にあるけど。
- 73 :
- 鳥取県の中国庭園燕趙園にはないのかな?
- 74 :
- 今、赤壁と呼ばれている場所と、
実際に戦った場所は別なんでしょ。
- 75 :
- さあ?
後世の詩人が訪れ、赤壁の戦いを妄想して詩作してみた場所が有名になったけど、
そこが実は場所違いだったという話を聞いたことがあるけど。
その早とちりした場所が「今、赤壁と呼ばれている場所」のことかな。
- 76 :
- 詩を作った「文赤壁」と古戦場の「武赤壁」
- 77 :
- 生物兵器を投入して疫病を流行らせ、強大な曹操軍を退けた軍事衝突だった。
しかし倫理的に問題があるとして、生物兵器投入の事実は伏せられた。
- 78 :
- 曹操が取り込んだ荊州の水軍ってのはそんなに大きな規模だったのかな。
- 79 :
- 実際は大したものじゃなかったと思うけどね。
二十万人全員が水上に布陣することもなかっただろうし。
- 80 :
- 荊州を占領した軍勢の一部を、呉の方へ差し向けたが、
敗北、荊州に留まっていた本隊にも疫病が流行り、
この戦に利なしと判断した曹操が撤退した、
ってところかな。
- 81 :
- 撤退しただけで何で統一に絶対必要な江陵まで落とされちゃうんすかね
何で囲まれた曹仁への援軍が李通とかチョボチョボと送るだけなんすかね
- 82 :
- 連環の計は実際はなかった。火計の威力が曹操軍の船団を飲み込み、陸地の本陣にまで及んだ。そこに周瑜の軽装の精鋭部隊が斬り込んだのだ。
- 83 :
- 陸軍は劉備が主力だってちゃんと書かれてますけど?
- 84 :
- 劉備も陸戦に関しては歴戦のプロだしなぁ。
しかも夏口の万単位の戦力のオマケつき
曹操やってきてファビョった孫権に劉gの荊州奪還手伝え位で売り込んだとか
- 85 :
- 曹操は敗戦の直後に「劉備は英雄だがわしより頭の回転が遅い。わしならここで伏兵をおき急襲するが…」と言ったそうだ。劉備は追撃したが すでに曹操は退却していた。被害にあった戦艦は荊州にあったもので 実質的に被害はなかったようだ。
- 86 :
- >>85
大軍を誇る曹操が退却時火攻めに遭えば死んでいた状況って物凄い惨敗じゃん
軍が総崩れにでもなってなければそうはならないよ?
- 87 :
- せっかく手に入れた艦船を失ったと言っても、
撤収するにあたって持ち帰れないから焼却処分したと、
後に孫権へ伝えているが
- 88 :
- >85
曹操も負けず嫌いだよなぁ。
- 89 :
- >>87
撤退しただけならすぐに動けばいいのにそれから1年も何してたんすか?
曹仁さんもほぼ放置っすよね?
- 90 :
- 映画「赤壁」の最新情報はここで地道に更新?してまふ
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1147182086/
- 91 :
- 【中華芸能】ジョン・ウー映画『赤壁』に趙薇、張震も出演決定
構想段階から話題を呼んでいた呉宇森(ジョン・ウー)監督の映画『赤壁(Battle of Red Cliff)』が3月28日、
ついにクランクインする模様だ。主要キャストには既に発表されていた 周潤発(チョウ・ユンファ) 、
梁朝偉(トニー・レオン) 、 林志玲(リン・チーリン) のほか、 張震(チャン・チェン) 、
趙薇(ヴィッキー・チャオ 、=写真)、 胡軍(フー・ジュン) なども名前を連ねている。
中国新聞社が地元メディアの報道を引用して伝えた。
小説『三国志演義』のクライマックスである「赤壁の戦い」を映画化するもので、
周潤発が周瑜、梁朝偉が諸葛亮、張豊毅(チャン・フォンイー)が曹操を演じる。
関羽と魯粛のキャスティングはまだ公表されていない。
壮大な物語に豪華キャストのこの作品は2部作となる予定で、公開時期については2つの案が出ている。
1案目は第1部を08年の北京オリンピック開会前に、第2部を08年末に公開、
2案目は第1部を公開して20日後に第2部を公開するというものだ。(編集担当:恩田有紀)
2月20日18時58分配信 サーチナ・中国情報局
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070220-00000015-scn-ent
- 92 :
- ジョン・ウー監督なら10万本の矢がスローモーションで乱れ飛び
白い鳩の群れも飛び交うんかね
胡軍はいま項羽やってるし
張豊毅はむかし韓信やってたな
ということで楚漢の戦いも映画化希望
- 93 :
- 惨敗したにしては将校の戦死者がゼロだし
ただ撤退したにしては撤退しすぎ
国内でなんか異変があったのか?
- 94 :
- >>92
制作費が膨らんでいるし、派手にやると思われる。
梁朝偉(トニー・レオン)はスケジュールの都合がつかなくて降り、
代わりに金城武が出るらしい。
- 95 :
- >>93
曹操は襄陽までは陥としたが、江陵はその先。
要するに出征した先で敗れたのだから、撤退するのに特に理由を必要としないんじゃないか?
その後、曹仁を置いて1年ほど粘らせたのだから上出来だと思う。
- 96 :
- 江陵も落としてるよ
- 97 :
- 呉郡と赤壁の辺りってかなり遠いよなあ。
- 98 :
- 上出来って馬鹿か。狙いは江陵だけでは無いし。
執拗にストーキングしてる相手がいるだろうが。劉備だよ劉備。
その後の有り得ない雄飛が起きているし、三度目の劉氏マジックを防いだのは流石だが、長年の対立で結果的には共倒れしてる。
長阪の奇策で仕留め損ねた、或いは追い付かれた為に曹操も劉備も天下を失ったのだ。
- 99 :
- 劉備ってよく伸し上がれたものだな
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