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2011年10月1期中国英雄 【中国の】 公主 【お姫様】
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【中国の】 公主 【お姫様】
- 1 :06/12/08 〜 最終レス :11/09/11
- 公主とは、中国で皇帝の娘、内親王を指す。またはその人の称号のこと。古くは化粧領として拝領した土地の地名を
取って「○○公主」と呼んだ(例:太平公主、安楽公主等)が、明代清代の称号は、多くが雅称で、これに嵌めることはで
きない。
古くは皇帝の長女を元公主と呼んだ(例:魯元公主(漢高祖劉邦の長女))。唐代宋代以後、皇帝の姉妹は長公主、
皇帝の伯叔母や数代前の公主は大長公主(例:秦魯国賢穆明懿大長公主)と呼んで皇帝の娘と区別し、受けた待遇
も公主より上だった。清代になって、公主にも階級が分けられ、生母が皇后か妃嬪かで固倫・和碩の別がついた。
また、宋代では徽宗によって、ごく短い一時期、公主の称号を廃し、帝姫の称号を用いた(例:嘉徳帝姫)。周王朝風
の呼び方だという。
臣下が公主を娶る(中国や朝鮮では同姓不婚に則って、公主の結婚相手は臣下に限られて当然)ことを「尚公主」とい
い、その夫は?馬(清朝には額?)と称呼した。
公主という称号は、本来は、天子の女の婚儀を三公が主宰したことに由来する。
- 2 :
- 初出は魯元公主でOK?
- 3 :
- 平陽公主が一番
- 4 :
- とりあえず、中国史上の十大公主を選んでみようか。
まず太平公主は当確。
- 5 :
- 漢代からだと
恵帝の姉で皇后の母である魯元公主
景帝の姉で館陶公主
武帝の姉で大将軍衛青の妻の平陽公主
光武帝の姉で「糟糠の妻」で有名な湖陽公主
が有名だな。
- 6 :
- 平陽公主が有名なのが2人いるよね。
漢朝と唐朝に。
- 7 :
- 空気読まんが。
最後の公主栄安、栄寿公主ははずせまい。
特に栄安公主は同治帝の異母姉で、姉弟仲がよかった為に同治帝の死の際、夢の中に父帝が現れ
黄泉の国への供を命じられた(ほぼ同時に死んだ)とか
- 8 :
- 泣ける話だ(TT)
- 9 :
- 可哀想と言えば、異民族に嫁がされた公主たち。
- 10 :
- そういうのは「公主」とは言っても皇帝の娘であることは少ない。
臣下の娘とか皇族の中でも比較的落ちぶれたあたりの娘を持ってきてたらしい。
清朝ではモンゴルの王侯に皇女が嫁ぐことが多かったけど。
いわゆる「和蛮公主」とは状況が違うし。
- 11 :
- でも、靖康の変で、徽宗の帝姫たちは根こそぎ連れて行かれて、
奴隷にされちゃったねえ。
- 12 :
- やっぱり漢代唐代の公主は存在感があるけど、
宋代明代清代となると、公主はいまいち存在感がないな。
- 13 :
- 唐は女が出しゃばった時代だからね
- 14 :
- 嫁に欲しい公主
楽昌公主
- 15 :
- 公主は、都のおとなしそうな貴族を選んで嫁がせたみたいだけど、
嫁がせられる側は、内心結構嫌がる場合が多かったみたいだね。
何しろ皇帝の娘だから、男遊びとかされても、逆らえないわけだし。
メリットもあるけど、デメリットも大きかった。
- 16 :
- 「馬付」馬って大変なんだね…
- 17 :
- 皇帝陛下が舅なわけだからね。
皇子はまだ謀反の疑いをかけられたりすることもあるし、
公主はある意味一番気楽な身分かもね。
時代にもよるけど。
- 18 :
- 中国人と喋ってた時、黒田氏のことを「天皇的附馬」て言ったら通じたよ。
- 19 :
- 吐蕃に嫁がされた唐朝文成公主
- 20 :
- 公主 → 郡主 → 県主
県主クラスだったら、ちょっとした貴族のお嬢様ぐらいの扱いかな。
- 21 :
- 王朝の後半になったら、県主クラスはごろごろいたと思う。
- 22 :
- >>15
でも、何か罪を犯した時でも、公主の夫ということで、
罪を減じられることがあるからね。
- 23 :
- 歴史上唯一身売りされた公主、西晋の臨海公主
- 24 :
- 亡国の公主ってのは、結構みんな悲惨だね。
- 25 :
- 北宋って中央集権が完成して貴族階層が無い時代だったけど、
この時代の公主って、主にどんな人と結婚してたんですか?
やはりシダイフ?
- 26 :
- 伝統的な意味での貴族はなくなったとは言っても、やっぱり代々高官を輩出している家とか、
建国の功臣の子孫とかで朝廷から封爵を受けている、貴族的な存在はあったからね。
靖康の変で金軍に連れ去られた徽宗の帝姫の結婚相手の付馬なんか見ると、
やっぱり大臣の子息なんかが多いみたい。
- 27 :
- 五代以降貴族は消えたといっても、南宋に入ったら微妙に復活してるからな。
韓侘冑(韓gの孫)とか趙汝愚(皇族だけど)とか。秦檜や賈似道や史弥遠
みたいな長期独裁型の宰相もウジャウジャいるし、南宋は北宋に比べて、
何だか先祖帰りしてるような気がする。岳飛や張浚の軍閥とかもそうだけど。
- 28 :
- まあ、貴族的な存在は、どこの時代、どこの地域でもあるからね。
完全に絶やすことはできないだろう。
- 29 :
- 中国では、内親王という言い方はするのかな?
- 30 :
- 百度で検索しても、日本の皇室関係の記述ばかり出てくるから、
中国では内親王という表現は使わないようだね。
親王は使うけど。
- 31 :
- >>22
宋の蔡京の何番目の息子なんか、蔡氏一族が流刑に処せられた時も、
徽宗の公主を娶っていたから罪を免ぜられたね。
直後に靖康の変が起こって、妻の公主ともども北方へ連行されて、
奴隷にされちゃったけど。
- 32 :
- 長平公主・・・
- 33 :
- >>20
宋の徽宗が公主を帝姫に改称した時は、
郡主は宗姫、県主は族姫とされた。
- 34 :
- >>15
隋の文帝のある公主が、臣下に降嫁することになった時、
嫁ぎ先の家では、どんなわがまま公主が嫁いでくるかと戦々恐々としていたけど、
意外に慎ましやかでまじめな公主だったから、ほっとしたとか。
- 35 :
- 蘭陵公主(572〜604)
隋文帝楊堅の五女で字は阿五。美しく聡明で読書を好んだため、文帝は五人いた娘たちの中でも彼女を最も可愛
がった。また彼女自身も歴史上の列女や賢婦に憧れるようになり、母の独狐皇后も常々婦道を教えたために彼女は
善良な性格を養うこととなる。彼女が年頃になると、文帝は掌中の珠である彼女に良い夫をと考え、司徒の王諠の息
子である王奉孝に嫁がせた。
しかし王奉孝は、数年も経たないうちに亡くなってしまう。僅か十代で寡婦となり、更に舅が不敬罪で処刑されたた
め、彼女は再び宮中に戻ることになる。
年若く寡婦となった娘のために文帝は再婚相手を探した。候補として当時晋王だった楊広(後の煬帝)の推していた
蕭?(晋王妃蕭氏の弟)と、太子親衛の柳述の二人が挙がったが、結局文帝は柳述に再婚させた。
「公主が降嫁する」ということで戦々恐々としていた(当時文帝の公主は驕慢だという噂があった)柳家の人々は、蘭
陵公主の慎み深い姿を見て、日をおかずに蘭陵公主を尊敬するようになっていった。夫となった柳述も公主の態度や
人柄に好意を抱き、また公主自身も柳述を敬愛するようになり、その仲の良さや柳家の繁栄は都中の羨望の的とな
った。
この再婚に不満をもっていた楊広は、帝位に就くと柳述をわざと辺境へ流し、公主と無理やり別れさせ、別のところ
へ嫁がせようとした。しかし彼女は従わず、公主称号の返上と共に柳述のところへ行くことを願い出たが、逆に楊広
の怒りを買い認められなかった。この結末に打ちのめされた公主は結局失意のまま亡くなった。
彼女の葬儀に関しても楊広は冷淡に扱い、その冷酷さが朝野の者達の同情を誘ったという。
- 36 :
- 太平公主
何だか熟年セレブマダムって感じ
- 37 :
- 太平公主にはテンテンみたいにちびっ子道士の格好をした
幼い日もあったのさ。
- 38 :
- 広平公主
唐の玄宗の娘。程昌裔に降嫁していた。
この夫婦が騎馬で外出したとき、楊氏五宅(楊国忠を除く楊貴妃の一族五人)
の行列と、その従者と諍いを起こした。
このとき楊家の奴隷が鞭を振るい、その鞭が公主の衣に当たって落馬させた。
奴隷はさらに落馬した広平公主に鞭を振るおうとしたため、夫が庇って鞭を受けた。
公主は参内して泣いて玄宗にこれを訴え、玄宗は奴隷を捕え杖した。
しかし、玄宗は楊氏からの抗議を受けて、翌日になって程昌裔を解任し、
朝廷に参内出来ないようにした。
- 39 :
- この時期の玄宗は、本当に情けなくなっているな。
若い頃の切れ者っぷりが嘘みたい。
- 40 :
- 祖母さんの武則天も晩年はひどかったそうだから、
この一族はそういう血筋なのかもね
- 41 :
- 同じく武則天の孫の安楽公主なんかも相当じゃじゃ馬そう
- 42 :
- 安楽公主、化粧をしている最中に首を刎ねられたって本当のこと?
- 43 :
- 本当らしい。母韋后と謀って父帝を毒したが
後の玄宗らによって討たれた。
払暁、鏡に向かって眉を画いていた所だったので、身をかわすことも出来ず
首を落とされたそうな。
- 44 :
- お姫様といえば我侭がチャームポイントといえる
しかし、それはドラマや漫画の世界
リアルお姫様の我侭には人死がセットで付いてくる
- 45 :
- 夫の方は、本気で夫婦喧嘩できないな。
舅が怖い。
- 46 :
- 郭子儀の息子は、公主相手に本気で夫婦喧嘩したけどな。
- 47 :
- その後、公主が訴えに言った時の、皇帝の答えが面白い。
- 48 :
- さらにその後の岳父の反応が面白い
- 49 :
- 皇帝が岳父だろ
- 50 :
- そのおもしろい答えを教えてよ
- 51 :
- これ?
郭曖嘗與昇平公主爭言,〔永泰元年,下嫁郭曖,事見上卷。〕
曖曰:「汝倚乃父為天子邪﹖我父薄天子不為!」公主恚,奔車奏之。
上曰:「此非汝所知。彼誠如是,使彼欲為天子,天下豈汝家所有邪!」
慰諭令歸。子儀聞之,囚曖,入待罪。上曰:「鄙諺有之:
〔史炤曰:鄙諺,俚俗所傳之言也。〕『不癡不聾,不作家翁。』
兒女子閨房之言,何足聽也!」子儀歸,杖曖數十。
- 52 :
- 結局、郭子儀の息子とその妻となった公主は、
仲直りできたんだろうか。
- 53 :
- 旦那→実父に戸板で殴られる
嫁→実父に婿の言うとおりだと怒られる
まぁ仲直りできたんじゃね?
- 54 :
- 喧嘩するほど仲がいいって言うからな。
何だか明るい雰囲気そうな夫婦喧嘩だし。
一歩間違ったら、謀反で死罪だけどw
- 55 :
- 申し訳ないが、漏れみたいなアホのために、どういうことをした人かも
書いていただけませんか
唐の時代の平陽公主や、太平公主、文成公主程度なら知ってますが
- 56 :
- 郭子儀は、中国史上屈指の名将と言われ、安史の乱を平定するなど、唐の国難を何度も救った名臣。
その郭子儀の息子に郭曖という者があり、皇帝である代宗の娘昇平公主を妻としていた。
ある時、二人は夫婦喧嘩をし、その際に郭曖が、
「父親が天子だからと威張るな。俺の父親はいつでも天子になろうと思えばなれたが、天子になど頼まれてもならない」
と言ったことに昇平公主は怒って、皇宮へ行って父親である代宗にそのことを訴えた。
すると、代宗は、
「郭曖の言っている通りなんだぞ」
と逆に叱って、昇平公主を家に帰した。
郭子儀は後でこのことを知り、息子を連れて代宗を処罰するように願い出たが、代宗は、
「『痴ならず聾ならざれば、家翁とならず』と言うではないか。夫婦喧嘩などまともに取り合う必要はない」と言って咎めなかった。
代宗の心中には、唐が復興することができたのも郭子儀のおかげだという意識があったのだろう。
- 57 :
- 唐代の公主は自己主張が強そうだね。
女性が全般的に強かった時代だし。
- 58 :
- 宋徽宗の公主、柔福帝姫
- 59 :
- 湖陽公主
後漢光武帝の姉、名前は劉黄。
彼女は未亡人となり、再婚相手を探していたが、大司空の宋弘に思いを寄せていた。
それを知った光武帝は姉を屏風の後ろに座らせ、宋弘に「諺に言う、富貴になれば友を替え、
貴くなれば妻を替える、と。これは人情か?」と問うた。
宋弘は「貧しい時の友人を忘れてはいけません、糟糠の妻を追い出すことは出来ません」と答えた。
光武帝は屏風に向かって「事、成らず」といって諦めさせた。
またあるとき、湖陽公主の使用人が人を犯したが、公主はこれを屋敷にかくまったので逮捕できなかった。
時の洛陽の令であった董宣は、公主が外出する時その男が馬車に陪乗をするのを知って、それを待ち受けて、
犯人を馬車から引きずりおろしてその場で処刑した。
公主は光武帝に訴え、帝は董宣を杖しようとしたが、董宣が「人を許して、
どうやって天下を治めるのですか。刑を受けるまでも無く自分は自しましょう」と言って、
柱に頭をぶつけ、血を流した。帝は驚いて左右に命じてこれを取り押さえさせ、公主に謝罪するよう命じた。
しかし董宣は叩頭しようとせず、力ずくで頭を下げさせようと押さえつけたが、両手を床に突っ張って耐えた。
光武帝は「頸の強いやつだ、下がれ!!」と命じたが、彼に銭三十万を賜った。
- 60 :
- その逸話だけ見ると、湖陽公主って相当わがままやっていそうな感じだな。
- 61 :
- >>60
董宣が頭を下げないのをみて、湖陽公主は光武帝に
「文淑(光武帝の字)は民間人だったころは逃亡者を匿ったりして役人を恐れなかった、
今や天子なのに小役人に頭を下げさせることも出来ないの?」と皮肉ったが、光武帝は
「天子と民間人では立場が違います」と答えた。
思うに湖陽公主は、弟が皇帝になった事で公主となったが、自分の立場を理解せず地方豪族だった頃の
ままの考え方で行動していたのではないだろうか?
弟とはいえ皇帝を字で呼んでるし。
- 62 :
- 太平公主是最棒的
大明宮詞
- 63 :
- 太平公主は妖艶マダムってイメージだな。
- 64 :
- 宋代以降になると公主の存在感があまりなくなっているような気がする。
逆に唐代の公主が目立ちすぎたのかも知れないけど。
- 65 :
- 短命だが、東郷公主。
成長すれば、麗しいお顔立ちになっていたこと間違いないだろう。なんせ、あの甄氏の娘だからな。
- 66 :
- >>10
安史の乱鎮圧に手を貸してもらう見返りにウイグルの可汗に嫁がされた寧国公主は、
唐の粛宗の実の娘だったと思う。
- 67 :
- 和蛮公主って、文成公主をはじめ、
郡主を養女を公主として嫁がせた例の方が多いぐらいらしいんだけど、
そもそも政略結婚というのは、どこの国であれ能力がないと勤まらない。
一国の王妃としての政治的手腕以外にも
嫁ぎ先と母国との間の交渉を取り持ったり、
母国の文化などを伝えて影響を与えたり、
嫁ぎ先の情報を実家へ流したり、夫の国王を裏から上手に操って、
母国に都合のいい政策をとったり、実家にもしものことがあったら援助を
してくれるようにしむける等、かなりの外交能力が要求される。
だから、和蛮公主に養女が多かったのは、
皇帝としては、実娘を異国に行かせるのは不憫というのもあったろうけど
能力の問題があった、と書いてある本を読んだ記憶あり。
政略結婚って、女性には気の毒なことではあったんだろうけど、
同時にやりがいのある仕事でもあった、って気がするなあ。
- 68 :
- ×養女を ○養女にして
- 69 :
- 陳先生なんかはガチガチの儒教社会の更に閉鎖的な宮廷生活より
自由な騎馬民族の生活の方がどれほど自由で幸せだったことかって
王昭君を指して言ってるね
- 70 :
- 原百代の本でちらっと見たが、唐代に
和蛮公主にされてがっくり来てめそめそしてた郡主だか県主が、
その様子を見た相手側から「そんなに嫌なら来なくてよろしい」
と断られた事があったそうだ。
公主に格上げされたものの、役目を果たせずに終わったこの
公主がどうなったか、その後は不明との事。
- 71 :
- 唐代に契丹に嫁がされたある公主は、
嫁いだ直後に契丹から唐に叛旗を翻し、惨されちゃったんだよね。
哀れ……
- 72 :
- 勤めるじゃなくて、務める
だった・・・
- 73 :
- >>66
寧国公主は一年と経たないうちにその可汗が死んじゃって、
危うく殉葬されそうになったけど、何とか唐に帰ることができたね。
- 74 :
- 西晋の臨海公主は西晋崩壊の混乱時に人さらいに捕まって売り飛ばされ、
民家の下女にされて、虐待を受けた。
後に東晋が建てられると、その家から逃亡して朝廷に保護を求め、
公主の身分に復帰した。
臨海公主を虐待した家は朝廷から処罰を受けた。
- 75 :
- 最も美しい公主と、最も醜い公主は誰?
- 76 :
- >>73
嫁いだ直後に死んだその可汗は、結局のところ、
寧国公主と寝たのかな?
- 77 :
- 鉄扇公主しか知らん
- 78 :
- その人は皇帝の娘じゃないじゃん
- 79 :
- 「公主」という言葉は、
「お姫さん」ぐらいの意味で結構乱用されがち。
徽宗が考えた「帝姫」の方が、確かに風雅だな。
- 80 :
- 西晋の恵帝と皇后賈南風の間には四人の娘がいた。長女河東公主、次女臨海公主、三女始平公主
及び四女哀献皇女である。その中で、臨海公主がたどった運命が最も数奇であった。
臨海公主は元々は清河公主に封じられていた。永嘉の乱によって洛陽が陥落、西晋が滅亡すると、多
くの皇族が都から逃げ延び、流亡を余儀なくされた。
そんな中、清河公主は避難している最中に、家族とはぐれてしまう。遭難した彼女を見つけ出したのは、
一人の農夫だった。相手が高貴な公主であることなど知る由もなかった農夫は、あろうことか呉興県の銭
温という者に奴婢として売り飛ばしてしまう。
銭温には一人の娘がいて、幼い頃から甘やかされて育ったために、わがままで、特に下男や侍女たち
に対して横暴に振る舞っていた。銭温は、清河公主を買うと、愛娘に仕える侍女にした。
銭温の娘は、清河公主に対して冷酷で、少しでも気に入らないことがあれば、鞭を持ち出して打ったり、
何日も食事を与えないなどの激しい虐待を加えた。
清河公主は助けを求めることもできず、ただひたすら虐待に耐えるしかなかった。
- 81 :
- その頃、江南へ逃れた元帝が東晋を建て、国を復興させた。
そのことを伝え聞いた清河公主は一縷の希望を見い出し、銭温の娘に命じられて買い物をしに外出した
際、隙を見て逃亡、多くの苦労を重ねて遠く江南の建業までたどり着き、自分が公主の身分であると名乗
り出た。
対応に当たった東晋の役人は、最初、清河公主の身なりがあまりにみすぼらしいので、話を信じなかっ
た。ただ、彼女が必死に食い下がったために、渋々元帝に知らせた。
元帝に面会した清河公主は、涙を流しながら、自分が味わった様々な苦難を話した。元帝は彼女の身に
起きた不幸に感嘆し、公主を虐待した銭温とその娘に激怒した。
元帝の命で銭温とその娘は逮捕連行され、死罪に処された。
ほどなく、元帝は清河公主を改めて臨海公主に封じ、宗正曹統に嫁がせた。
- 82 :
- なんで妹の昭仁公主は斬られて死んだのに、
長平公主はケガだけで済んだんだろ?
- 83 :
- 体の大きさの差とか、年齢による体力の差とか、
あと父親のお気に入りだったらしいから、さすがに手元が狂ったとか。
- 84 :
- 愛娘を斬るとなると、さすがに手に力が入らないわな。
- 85 :
- 始皇帝の息子達はみんなされたけど、
娘達はどうなったんだろう?
- 86 :
- 始皇帝の子は男子25人、女子11人
うち一男一女が夭折、残りは二世皇帝以外全員されたか自害。
娘10人も兄弟達と共に杜県で刑死。
何年か前に、始皇帝の子女がされたと言われる土地で
大量の人骨が出土したってニュースがあったと思う。
- 87 :
- 胡亥が即位した後、最初に行ったことは、趙高の勧めによって競争相手となり得る十二人の兄の首を刎ねて
晒すことだった。そして、姉妹である十人の公主を杜県の監獄に入れ、死ぬまで鞭打ってした挙句、服を剥い
で裸にし、磔にして辱めた。
- 88 :
- まあ、すのは仕方ないとしても、やり方があったろうになあ
- 89 :
- ひどいな皆しか。
大量の人骨ってことは嫁ぎ先の一族もされたんだろうな。
- 90 :
- >>35
公主なのに字が阿五って、適当なのか可愛がられたのかわからんなw
逸話からすると後者かな
ところで漢代の竇(?)玄が妻を捨てて再婚した公主の名前って伝わってるの?
- 91 :
- 中国も女性の名前は適当な場合が多いし、
そもそも公主でも大半が名前自体伝わっていないからねえ。
- 92 :
- 日本の「捨」みたいに大事な子にはわざと変な名前で呼ぶって習慣もあった。
男児を女子の名前で読んだり。
阿五って「五ちゃん」みたいな感じでそれほど悪くないでしょ。五女だったのかも。
唐の高宗の幼名は雉奴、その妹は牝の犀って意味の兕児(ジジ)って名前だったらしい。
- 93 :
- 紅楼夢で簡単に侍女の名前を変えたりしているから、
女性の名前はそんなに重要性がなかったのかもね。
- 94 :
- 「大地」でも、子供の名前は、一、二、三じゃなかったか?
塾に行くようになってから、塾の教師に名前をつけてもらう
- 95 :
- >>94
あれは、親(主人公)がそもそも、自分の名前も書けるかどうかという
貧農だからね。
皇帝の娘と同列に論じるのはどうかと。
- 96 :
- 日本と同じように「幼名(名)」がある。
子供の頃は兄弟(父方の従兄弟姉妹まで含めて)順に番号とか、
生まれた干支にちなんだ名前とか、あだ名に近いような感じ。
塾に行くようになって名乗るのが「学名」で大人の名前。
唐代からこうだったかどうかは知らん。
- 97 :
- たしかに阿瞞ちゃんとか阿斗ちゃんとか呼んでたな
- 98 :
- >>97
どっちも知識人階級の跡取り息子だし、そういう連中でも幼名がそういう適当っぷり
なんだからやっぱみんな幼名は適当なんだろうな。
阿瞞とか悪い意味の漢字をわざと使って早死にしないような願いを込めてたのか、
そもそも漢字なんかなくてマンちゃんって呼んでただけなのかわからん(幼名を
阿瞞と書き残してるのは曹操を貶める内容の本なので、「マンちゃんってみんなは
呼んでましたね」とかいう証言を聞いてそれを漢字にあてる時に嫌な意味の漢字を
当てはめた可能性がある)が、後者だったらホントに適当な話なわけだし。
阿斗だって「北斗七星を飲む夢を見たので…」とか言ってるけど、たんに「トちゃん」
ってみんなが適当に呼んでただけなのに皇帝の幼名だからっていい意味の字を後
で当てただけの可能性がある。
- 99 :
- >漢字なんかなくてマンちゃんって
ありえない。そもそもあの国には日本と違って漢字以外の文字ないじゃん。
マンちゃんて呼ぶにもそれなりの意味がなきゃ、マンの音もドゥーの音もどうやって選ぶ?
名前にはある種の魔力があるし、かの国の人は文字にこめられた意味も重んじてる。
単に口からでた音でつけるわけじゃないよ。
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