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2011年10月1期中国英雄周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
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周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6


1 :07/03/03 〜 最終レス :11/07/16
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 呉の軍師を語るスレ
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1158115995/
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜を語るスレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1129711574/
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜の中で一番は?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1129283103/
周瑜VS魯粛VS呂蒙VS陸遜
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1063987940/
周瑜と陸遜どっちが優秀なのか
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1046456958/

2 :
移転してきたのか
良スレ歓迎します

3 :
移転ではないよ

4 :
誘導厨乙
勝手にやれ

5 :
孔明に軍事の才能は無い
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1173010518/

6 :
そもそも軍師とは何か?
軍師と称されながら、本来は政治家と呼ぶべき人物もいるだろう。

7 :
周瑜
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%91%9C
 周瑜(175年 - 210年)は中国、後漢末の武将。字を公瑾と言い、呉の孫策・孫権に仕えた。後漢の尚書令・
周栄の玄孫、周興の曾孫、洛陽県令・周異の子、周循と周胤の父。妻は小橋。諡は忠侯。
青年期
 揚州廬江郡の人。三公の一つである太尉を二名出した名家に生まれ、成長してからは立派な風采を備える
ようになった。若い頃より音楽にも精通し、演奏を聴いていると、たとえ酔っ払っていても僅かな間違いを聞き取
った。これにより「曲に誤りあれば周郎が振り向く」と言われた。
 孫堅が反董卓の義兵を挙げた際、孫策は母を連れて住まいを舒に移した際、同い年の周瑜と篤く親交を深
めた。2人の友情は「断金」、つまり金属を断つほどに堅い絆で結ばれていた。孫堅亡き後、袁術の元にいた
孫策が江東(呉)へ軍を挙げると(194年)、周瑜もこれに付き添って功績を挙げた。
 その後、揚州北部の皖を攻め落とし、この時、橋公の二人の娘(二橋)の姉の大橋を孫策の、妹の小橋を周
瑜の妻にした。『三国志演義』では、二喬は、喬玄の娘で「江東の二喬」と呼ばれており、姉は大喬、妹は小喬
と呼ばれ絶世の美女とされていた。
 その後孫策が急死し、弟の孫権が後継者となった。孫権の母親である呉夫人は、周瑜を孫策同様に兄事す
るよう孫権に説き、周瑜は張昭と新政権の様々な処務を取り仕切る事となった。この頃諸将や賓客の中には
継いだばかりの孫権を軽んずる者もあったが、この時周瑜は自ら率先して敬意を尽くし、臣下の礼を取って規
範を示した。

8 :
孫呉の総司令として
 建安11年(206年)、山越討伐を行う。孫瑜らを用いて麻・保、2つの屯所を攻略すると、捕虜は1万人余り
に上り、引き揚げて官亭を守備した。 この後、江夏太守の黄祖が部将・ケ龍に軍勢数千人を預けて孫権軍の
前線基地・柴桑に侵入させると、周瑜はこれを追討して攻撃し、ケ龍を生け捕りにして呉に送還した。 建安13
年(208年)春、前部大督(前線総司令)に任命された周瑜は江夏の黄祖を攻略し、これを撃破。孫堅以来か
ねてよりの仇敵を討ち滅ぼす事に成功する。
赤壁の役
 同年9月、河北の統一を果たして覇者となった曹操が軍を率いて南下する。荊州を降伏させてその兵士を
吸収すると、水兵歩兵あわせて80万ともいわれる大軍になった。 この事態を受けた当時の孫権陣営では
降伏論者が多数を占めていたが、この時周瑜は魯粛と共に意見を同じくし、徹底抗戦を主張した。周瑜は
曹操軍が冒している数々の不利と、対する自軍の利を理路整然と説き、これによって意を得た孫権は曹操
に対抗する事を決断する。
孫権は精兵3万を周瑜および程普らに与え、この時荊州から逃れてきた劉備と協力して共に曹操を迎撃
させ、赤壁の地で対峙した。果たして周瑜の予測した通り、この時曹操軍はすでに軍中に疫病を抱えてお
り、一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げていった。
そこで次に周瑜らは南岸に布陣すると、部将黄蓋の進言を採用して、曹操軍艦船の焼き討ちを計画する。
降伏を偽装して接近に成功した(演義ではこの時苦肉の計が行われたとする)黄蓋が曹操軍の船団に火を
放つとたちまち燃え広がり、ことごとく岸辺の陣営に延焼した。被害は多数に及んだために曹操軍はついに
敗退し、引き返して南郡に楯籠った。
劉備が周瑜らと再度合流して追走すると、曹操は曹仁を江陵城の守備、楽進を襄陽の守備に残し、自らは
北方へ撤退していった。大軍を擁した遠征で必ずや疫病を抱えるだろう事、船団の扱いに不慣れであろう事、
曹操軍の弱点をすべて見越した周瑜の勝利である。

9 :
36年の短い生涯
それに続いて孫権は呉にとっても重要な拠点となる江陵に目をつける。そこを守るのは魏の誇る歴戦の将、
曹仁と徐晃であった。さすがにこの2将の守りは堅く、また曹仁も徐晃も勇猛なため簡単には落とせなかった
が、周瑜はその機略を以ってうまく曹仁と徐晃の部隊を分けると、自ら曹仁軍を粉砕し(この時、曹仁は万余
人の兵を失った)、そのまま江陵を攻め立てるがこの時周瑜は流れ矢を受けて負傷し、それが病へとつなが
った。だが周瑜は自分が重体であることを用いて有利に持っていき、ついに曹仁・徐晃らを撃破し、江陵より
追い出した。これにより孫権は重要拠点・江陵を制圧することができた。しかしこの戦で周瑜の病は更に悪化
してしまった。それでも周瑜は無理を押して孫権の元へ行き、益州の劉璋が惰弱なことから益州を占領し天下
を曹操と分けるといういわゆる「天下二分の計」を立てる。が、これが周瑜が孫権への遺言となってしまった。
実行に移すべく江陵へ帰還途中に36歳の短き人生を閉じた。

10 :
周瑜の評価
周瑜は度量が寛大で人の心を掴むことが得意だった。宿将程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の
周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈してへりくだり続けたので、その謙譲さに程普もとう
とう感服し、尊重するようになったという。
また、曹操や劉備は周瑜の才能を恐れ、曹操は家臣の蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は
孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようと図ったほどである。史実の周瑜は知略・武略に優れる
名将であり、味方からは慕われ、敵からは恐れられた英雄だった。
『三国志演義』での周瑜は、諸葛亮に翻弄され続ける損な役回りを負わされている。自らの策を全て見透
かしてくる諸葛亮を危険視し暗を企むも果たせず、終始ライバル視しながら対抗するも遂に敵わず病に倒
れる。臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも
生んだのだ!」と血を吐いて憤死するという哀れな最期となっている
なお京劇では周瑜は「美周郎」のあだ名の通り、二枚目が演じる役とされており、眉目秀麗な英雄としての
イメージが定着している。

11 :
魯粛
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%AF%E7%B2%9B
魯粛(172年 - 217年)中国後漢末に袁術・孫策・孫権(後の呉)に仕えた武将・参謀。字は子敬。徐州の
臨淮郡東城県(現在の安徽省定遠県南東部)の出身。曹操との赤壁の戦いでは降伏派が多い中、主戦論
を唱え周瑜と共に開戦に成功した。また劉備陣営との提携に成功させた。周瑜の死後は孫権陣営の舵取
り役として活躍する。魯淑の父、魯睦の祖父。
経歴
生まれてすぐ父親が死去。裕福な家に産まれたが家業は放り出し、財産をなげうって困っている人を助け、
地方の名士と交わりを結んだ。また剣術・馬術・弓などを習い、私兵を集め兵法の習得などに力をいれてい
た。周瑜が孫策の元に行く前に、資金や食料の援助を求めにきた時、彼は持っている2つの倉の内の片方
をそっくり与えた。魯粛と周瑜はこれをきっかけに親交を持つ。

12 :
孫権政権へ
魯粛の名声が高まると、袁術に請われ配下となり、東城県の長に任命された。しかし魯粛は袁術の支離
滅裂な行状に見切りをつけ、一族郎党を引き連れて周瑜を頼り、袁術から独立し急速に力を増している孫
策の配下になった。
孫策が亡くなると、孫家から離反する人物が多かった。魯粛も友人の劉曄に誘われて孫家から離れ、巣
湖に拠る鄭宝の元に行こうとする。しかし周瑜の説得により思いとどまり、孫権に仕官する。
大胆な戦略
魯粛が孫権に初めて謁見した時、「漢室再興」を望む主君に対して、漢の高祖の例を挙げつつ「漢室再興
も、曹操をすぐ除く事も不可能」と断じ、まずはじっと様子を伺い、北方の騒乱に乗じて黄祖、劉表を攻めて
荊州を制圧し、長江を北岸として割拠してから自ら帝王を名乗るべしとした。 この戦略は後年における諸葛
亮の天下三分の計に先んじるものであり、かつ「自ら帝王になれ」という非常に野心的で大胆すぎる提案で
あった。孫権は「今は地方が手一杯。漢室がお救いできればと願うばかりで、そのような事はおよびもつか
ないな」と答えるのみだった。しかし、重臣の張昭が魯粛の不遜さを中傷しても孫権は意に介さず、ますます
魯粛を重用した。
孫劉同盟を司る
赤壁の戦いの直前に劉表が亡くなると、すぐに荊州の様子を探りに行くように進言。その事情を把握すると
劉備と同盟を結び曹操と対峙する事を進言した。そして、周瑜を召しかえし、曹操の軍にあたらせたり、諸葛
亮と話し合い同盟の手はずを整えるなど赤壁の戦いの時は主に縁の下で働いていた。
周瑜が亡くなるとその遺言で後継者として選ばれ、呉の軍隊をとりまとめた。地方でも彼の威徳は行き渡り、
赤壁の戦いで疲弊していた呉の国力を回復させる。劉備の部下の関羽と魯粛の間では、荊州を巡ってしばし
ば紛争が起こっていたが、魯粛は劉備と同盟し、曹操に当たることが呉の将来のためであることを信じ、劉備
達には常に友好的な態度で接し、事を荒立てないようにした。しかし、要求を行う時は常に毅然とした態度で
臨み、兵を用いずして荊州南部の三郡(長沙・零陵・桂陽)を取り返す事に成功した。
217年に46歳で亡くなった。 

13 :
人物
『正史』では、虚虚実実の渡り合いを見事にこなし、沈着冷静にして剛毅な人柄であることがうかがえる。特
に、赤壁の戦い以降、煩雑な情勢を巧みにあしらい、あわよくば荊州をものせんとする蜀を退けるなど、外交官、
行政官としても卓越した手腕の持ち主であり、柔軟さに優れた戦略家であった。
しかし、『三国志演義』では、知略に優れた人物として扱われつつも、温厚かつお人よしな性格のために諸葛
亮にいいようにやられ、周瑜になじられるという損な役回りを演じている。また、正史では成功した関羽との交渉
も、演義ではけんもほろろに追い返されてしまっている。こうしたキャラクターのためか連環画などではその性格
を表した風貌に描かれることが多い。

14 :
wiki厨乙

15 :
軍師って何だかあやふやな存在だよね。

16 :
だな

17 :
たまには諸葛さん家の息子も思い出して上げてください><

18 :
諸葛セイはなんかもの哀しい

19 :
http://www.youtube.com/watch?v=YDU991GsEk4
他スレからの転載。周瑜と陸遜がすげー美形。
この頃から光栄は狙ってたんだなw

20 :
三国志二十四大英雄
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/

21 :
あげ

22 :
軍師か?政治家か?
難しい問題だな。

23 :
三国志・蜀将討議スレッド17
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1180445040/

24 :
三国志名将二十四選
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1180016273/

25 :
どう見ても呉の軍師たちを好きな人がアップした動画ww
http://www.youtube.com/watch?v=7Szk9TgDnQk

26 :
陳端と秦松を語るスレか

27 :
今制作中の映画「赤壁」は呉側からの視点が中心になるそうだよ。

28 :
でもその時点では周瑜と魯粛だけだろ?

29 :
シュウユって実際に流れ矢が元で病気になって死んだのかね
暗?

30 :
左軍師 :丁奉、全j
右軍師:朱然
軍師 :張悌
副軍師 :諸葛セイ
呉で軍師と名の付く官職にあったメンバーはこれだけ

31 :
>29 刺客を送り込んだのでないなら普通に戦死または戦病死だろ

32 :
>>30
では、周瑜も呂蒙も陸遜も軍師じゃないってことですか!?演義も正史にも名前はあるけど、軍師というのは演義の創作だったとはorz

33 :
呉の軍師の話なら呉範と孫権のやり取りがあるな
裴松之が批判してるのは孫権が陛下と呼ばれてる点だから
官職の名前にかかわらず参謀の仕事をすれば
軍師として扱われることもあり得た・・・かも知れん

34 :
蜀の魏延が軍師だったのより衝撃的だ(´・ω・`)

35 :
>>34
お前の頭の中の軍師のイメージが小学生並みだからじゃね(゚听)

36 :
軍人の師父だから軍師

37 :
>>29
当時の知識だと破傷風とかわからんだろうし
金創が原因の敗血症とかじゃねぇの?

38 :
カワイソス

39 :
演義で張苞が破傷風で死んでると思い出したが、コレって横光版の特徴なのね。
原版演義読み直したら破傷風とは書いてなかったわ。

40 :
正確に言うと破傷風を思わせるような記述ではなかった。だな。
当時の人が経験則的に破傷風(そうだとは知らなくとも)を避けてたかどうかもちょっと分からん。

41 :
あげ

42 :
陸遜の改名の意図なんなん? 遜は譲るって意味だけど陸家の
今後の生き残りとして孫呉へ参入を踏まえて孫家に対してそういう含みを
こめて改名なんかな?

43 :
改名の意図は確かに気になる。
でも孫家に云々だったらタイミングが遅い気もするんだよな…
確か陸議の名前って結構後になっても現れてたって聞いたことがある。
遜の字の中に孫が入ってるのも何か含みがありそうだと思うのは妄想が過ぎるかな。

44 :
遜の字を分解すると「孫に走る」で孫家に馳せ参じるの意味
かどうかはわからん。妄想だからウィキとかに書くのはナシで

45 :
陸遜って孫権の姪を嫁に貰っているけど、かなり年下だよね。
陸遜はどちらかと言えば孫兄弟の世代の年齢だし。

46 :
年の差といっても劉備と孫夫人ほどではない。

47 :
陸遜の遜は今でいう「遜る」の意ではないときいたことがあるが
確証があるわけではない。

48 :
陸遜 = 西暦183年生まれ
陸遜の妻 =西暦197年〜200年生まれ?
(孫策の娘)

49 :
一般的なイメージと違って、
実際の魯粛は結構、豪傑な感じだね。

50 :
>>45
陸抗が生まれたのって、結構年くってからだよなぁ
奥さん若かったんだろうな

51 :
周瑜は息子も早死しているね。

52 :
もう一人の息子は出来が悪かったな
陸抗の爪の垢でも煎じて飲ませたい

53 :
むしろ呉の二代目はみんなボンクラばかり
陸抗が例外

54 :
二代目にボンクラが多いというのは、古今東西、時代を問わずによくあることでは?
蜀や魏も、そんな感じが多いだろうし。

55 :
陳羣→陳泰とか
鍾ヨウ→鍾会
曹操→曹丕
曹丕→曹叡
黄権→黄崇
あたりは例外だね

56 :
親・子世代
 孫堅→孫策、孫権
 孫静→孫瑜、孫皎、孫奐
 孫河→孫桓
 朱治→朱然
 張昭→張承
 凌操→凌統
 陳武→陳表
 虞翻→虞シ
 顧雍→顧邵
 賀斉→賀景
 陸遜→陸抗
 留賛→留略・留平
子・孫世代
 孫権→孫登、孫慮、孫和、孫休、孫亮
 朱然→朱積
 顧邵→顧承
 賀景→賀邵
呉豪族の血族継承はまこと素晴らしい。
他方、凄まじくダメダメな血族継承も多いのも血族継承ゆえだろうか。

57 :
そういや姜維って子や孫はいたのかな
高官であり年齢考えたらいてもおかしくないはずなんだが名前でてこないよな

58 :
>朱治→朱然
叔父甥の関係だろ

59 :
>>50
陸抗は西暦226年生まれ

60 :
>>57
姜子牙(ウソ)

61 :
>>58
養子やん

62 :
顧栄とか周拠とかも東晋で気炎吐いてるな

63 :
東晋は呉の人材の遺産にも助けられてたり

64 :
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1182528365/4
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1182929964/
三戦板復興プラン
3
三国志スレは立てない、立てさせない。
既存の三国志スレもできるだけ追い出し、戦国一色の板を目指す。
三国志には常に無双の影が付きまとい、それが糞スレ発生の温床となっているから一時的に完全除去する必要がある。
三国志を語りたい住民には一時的に中英板へ疎開してもらい、三戦板の情勢安定を待って戻ってもらう。
理解できましたか?
という事で板の糞化の元凶の三国志関連スレッドは中国英雄板に出て行ってください。
これも三戦板のためなんです。お願いします。
中国英雄板
http://hobby9.2ch.net/chinahero/

65 :
>>63
一方で、その旧呉の人材の勢力が伸びすぎたりしないように、
巧みに操縦している。

66 :
周瑜 戦略A 戦術AA
魯粛 戦略B 戦術C
呂蒙 戦略C 戦術A
陸遜 戦略AA 戦術A
陸抗 戦略AA 戦術AA

67 :
>>65
ほとんどは琅邪王氏の王導の力によるものだけどね。
>>66
ほう、総合的に見て、陸抗 >>> 陸遜 であると?

68 :
陸抗が羅憲を下していたら、その評価に同意していたかも知れない。

69 :
そもそも対羅憲戦は陸抗が総大将じゃないから、もし陸抗に功績があったとしても、それがどれほどまで戦局をかえることになったか…

70 :
総合的に見て、陸抗 >>> 陸機

71 :
これらの軍師たちの中で、経済にも明るかったのは、
誰になるだろう?

72 :
陸遜だろ、陸遜丞相時が呉の最盛期

73 :
周瑜と陸遜の全盛期が同時期だったら
面白かったね。
陸遜が国内を固めつつ敵を牽制し、
周瑜が戦端を開いていくという構図がね。

74 :
名将百選スレより、中国の古典名将排行榜
不朽名将
1 孫武  世界第一兵書『孫子兵法』の作者にして中国軍事学の父。
2 呉起   亜聖、軍事政治両面における奇才で、戦国第一名将。   
3 李靖   唐初第一名将で騎兵戦の天才、『李衛公兵法』『唐太宗李靖問対』の作者。
半人半神的名将
4 韓信   漢初第一名将にして西漢建国の最大の功労者、また古兵法を整理した。
5 李世民  唐の事実上の開国皇帝で、有史以来最速で天下を統一した中国第一名君
        (但し部下の助力、晩節を汚した部分などあり)。
6 岳飛   常勝の名将で、南宋の救った英雄。
7 劉秀   東漢の開国皇帝で、昆陽の戦いの奇跡を引き起こすなど、数々の勝利を収めた。
8 曹操   魏の事実上の開国皇帝で、『孟徳新書』の作者。勝利と共に敗北も少なくないが、
        輝かしい戦績を収める。
9 陳慶之  南北朝第一名将で、田中芳樹氏強力推薦(中国でも有名なのか?w)
10 柴栄  五代十国最高の英主で、天下統一の事実上の最大の功労者だが、惜しくも短命。

75 :
天才的名将
11 項羽  東方のハンニバル、最強の武将だが戦略頭脳に大きな問題があった。
12 霍去病  中国騎兵戦三大天才の一人。
13 衛青  中国騎兵戦三大天才の一人。
14 班超  世界で最も早期の植民者の一人で、「夷を以て夷を制す」策の先駆者。
15 孫臏 『孫臏兵法』の作者で、二度に渡って魏軍を破って斉を隆盛へ導いた戦略戦術の奇才。
16 韋睿  南北朝第二名将で、鍾離の戦いにおける梁軍の事実上の指揮官。
儒将的典范
17 周瑜  若くして優れた武将で、人望もあったが、惜しいことに短命だった。
18 徐達  明初第一名将、北伐を成功させた。
19 郭子儀  唐再興の功労者で、「不戦而屈人之兵」理論を最も実践した。
20 李牧  戦国四大名将の筆頭。その戦いぶりは後世に多大な影響を与える。  

76 :
超群的名将
21 劉裕  南朝宋の建国者、北伐で大きな戦績を収める。
22 戚継光  岳飛に匹敵する名将だが、歴史への影響力は及ばず。
23 諸葛亮  諸葛亮は第一には政治家であるが、軍事面での功績も多大である。
24 楽毅   戦績は輝かしいが、五国を連合させれば敗北の可能性は少ない。
25 檀道済  南宋の名将で、用兵の達人、北伐後の撤退の手際が鮮やか。
26 拓跋Z  北魏皇帝で、華北を統一した。  
27 王猛   政治軍事両面に優れていたことから諸葛亮に匹敵。
28 王陽明  思想家で陽明学の開祖であると同時に用兵の達人で、寧王の乱を鎮圧。
29 陸遜   その功績において周瑜に近く、夷陵の戦いで劉備を破った。  
30 袁崇煥   明朝最後の名将で、大砲を実戦投入した。

77 :
三国志の人物4人中、呉から周瑜と陸遜の2人が選ばれている。

78 :
>>77
周喩が主導していた頃は、すでに巍は君主制国家として完成していたからな。
周喩が巍にいたら名を残すのは難しいだろうな。
裏返せば、曹操の偉大さを顕している。

79 :
>>78
細かいことかもしれんが漢字が違う
周瑜と魏の漢字が違う

80 :
携帯だと変換出来んな

81 :
>>74
兵法書を記した人物が、特に高い評価を受けているね。

82 :
中国古典名将排行榜 で検索したら出てくるけど権威あるランキングか?

83 :
こう並べると周瑜と陸遜がかなり見劣りするなぁ。曹操も・・・
たとえば王朝実質初代で曹操(以上)と思う朱元璋、趙匡胤
項羽がありなら尉遅敬徳、楊大眼、賈復あたりなんか陸遜周瑜より上
と思うけどな。 とりあえず三国志からねじ込みましたみたいな。
周瑜あたり若いつっても岳飛と死んだのたいしてかわらんが赤壁の件
も思えば北→南攻撃で失敗するという典型例の1つとも言えるし岳飛
と比較すると実績がイマイチ。
三国志ならトータルで曹操がランクインがせいぜいじゃないかな。

84 :
>>82
いや、適当に並べてみたもので、権威なんて特にないと思うよ。
でもまあ、中国人の一般的な認識をある程度反映しているんじゃないかな。
>>83
そこまで卑下しなくてもいいと思う。
三国志以外でもやや微妙さを感じる人物がいないわけでもないし。

85 :
岳飛が神扱いなのは分かるとしてあっちで岳飛みたいな扱いされてそうな
髭はランクインしてないんだ。 やっぱそこは客観的に髭は実務はそこ
まででは・・という認識は向こうにもあるのかな。

86 :
関羽は人気者の神様とは言っても、軍事的功績はそんなに認められていないでしょ。
そもそも商売繁盛の神様なんだし。

87 :
何となく軍神だよな。

88 :
日本人の印象ではそうなってるけど
中国じゃ道教の神、商売の神であって軍神としては信仰されてない

89 :
山越との戦いにおいて、一番の功績を挙げた武将って誰になるんだろう?

90 :
>>89
揚州でなら賀斉。荊州でなら潘濬。
…じゃないかな

91 :
止めを刺したのは鍾離牧になるのかのぅ

92 :
呉内部での、武将に対する評価では、
対魏戦争と、対山越戦とでは、どちらが評価される傾向にあったんだろう?

93 :
>>92
根本的に、両者の考え方が違う。
対魏は実質的には戦争で外交の一手段。(建前的には中華世界内での内乱の征討)
対異民族は呉の場合、領土内なので反乱分子鎮圧で内政の一環。
(魏の烏丸や匈奴対策は、中華世界外の夷狄の討伐、教化という儒教的名目。
蜀の西南夷討伐は、実際の所は反乱を口実にした領土拡張政策)
史書に目を通しての自分の判断ですが…戦そのものでは対魏の方が評価されてる。
対異民族は勝敗より人狩りなどの戦果を目的としているためでしょうね。
ただ潘濬の武陵討伐のような三国時代最大級の異民族討伐となると、幾人もの伝に記載があり
太常という立場の人間が責任者となり兵五万ともなる大事業のようです。

94 :
山越からの兵力吸収って結構重要なんだろうなあ。
周瑜と陸遜は若いころ山越討伐で戦果あげてるよね?
他の人はどうだっけ?

95 :
山越討伐って地味だけど
多くの呉将が経験してるな
黄蓋が赤壁戦後あまり見かけないのは
山越討伐に携わっていたからという説もある

96 :
中国史上最強の軍師は誰だ?
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1192760012/

97 :
周瑜ってそんな実績あるのか
赤壁はよく分からないし

98 :
>>97
曹操を長江で食い止め
曹仁から江陵を切り取ったのは
間違いなく周瑜の功績
曹操も周瑜の事を認めてるな

99 :
>>98
具体的にはそれだけになるのかな?

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