2011年10月1期中国英雄魏の名将・良将を語るスレ
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宮崎市定
中国史上最強の軍師は誰だ?
【蜀の悲願】 北伐 【軍師諸葛亮】
両晋の英雄について語る
魏の名将・良将を語るスレ
- 1 :08/01/07 〜 最終レス :11/12/07
- 関連スレ
魏の名将・良将を語るスレ 其の十
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1198138260/
- 2 :
- 蜀や呉や両晋のスレッドがあって
魏が無いのはおかしいと思い、立ててしまいました。
まだ先の話ですが、三国志板のスレッドが沈んだ際の避難所としても使いましょう
- 3 :
- >>1 Good job!
- 4 :
- 三戦板は一定の期間が過ぎたら、スレが落ちちゃう仕様だからな。
こういう系のスレの生存は厳しい。
- 5 :
- 本スレ
魏の名将・良将を語るスレ 其の十
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1198138260/l50
- 6 :
- ではまず張喜について
- 7 :
- 司空になってた人か。
- 8 :
- 張喜
193年に司空に就任、196年に司空を辞任
- 9 :
- 裴茂は名将
のような気がする
- 10 :
- 張遼と臧覇って どちらが格上ですか?
時期によって違う?
- 11 :
- 元々臧覇は武官上がりではないので難しいけど、張遼が上…かなあ?
袁紹との対陣時では臧覇は琅邪相。張遼は裨将軍。同じ五品官ではあるけどここでは相が上かな?
陳蘭討伐の際に退却を決断しようとしたのは張遼で、それを止めたのが臧覇という形になっている。
二人とも陳蘭討伐後に節を与えられている。
曹丕が王位に就いたとき張遼は前将軍(死後加官でなければ)、臧覇は元の職に加えて鎮東将軍。
これは漢の官制だろうから四方将軍が上のはず。
帝位につくと二人とも郷侯から侯へ格上げされた。
張遼は曹丕が帝位に就いたとき2600戸、臧覇は明帝が即位したとき「500戸加えられて合わせて3500戸」。
- 12 :
- >>11
曹丕が王になった頃だと明らかに臧覇が格上
この時の四鎮将軍都督州軍事って曹真とかだよ
張遼たちの四方将軍はおそらく魏の官
- 13 :
- 曹真は見落としていたが、その辺俺も少し混乱してるんだ。
張遼の前将軍は魏王の官でいいだろうけど、その前に征東将軍になってる。
これを漢の官位としても、その後魏の官とはいえ前将軍に「格下げ」ということはあるのだろうか?
後漢の官制表だと驃騎・車騎の下に四方がある。と書いてあって、鎮征のことは書いてない。
後漢の官制を踏襲しただろう蜀漢の趙雲や魏延の例を見ても、
鎮征が四方の上に来たのは魏帝国成立後じゃないかな? …と、思うんだが。
それから、わざわざ夏侯惇が前将軍になった逸話が特筆されるということは、
鎮・征らの諸将が漢の将軍位ってことはあるのだろうか、と思う。
でも自信はない。
- 14 :
- これは思いつきなんだが、
曹丕が魏王になって以降って、完全に禅譲モードという感じじゃないかな
どういうことかと言うと、禅譲して漢の官と魏の官が融合するのを前提にしている感じ
つまり、
漢の四方将軍・・・空位
漢の四鎮将軍・・・曹真や臧覇
魏の四方将軍・・・張遼たち
という感じだったのが禅譲により漢の四方+魏の四方となるのを見越して、漢の四方を空けた上で魏の四方に武人のトップクラスを充てた
漢の四鎮将軍は、漢の四方が空位なので実質この時点の将軍のトップ集団
だから禅譲後は武人より格上になる親族を充てた
- 15 :
- それはつまり、四鎮と四方の地位が逆転するのを見越しての配置だと?
そういうのはちょっとないんじゃないかなあ。
いや親族や地方を鎮撫した臧覇が武官の張遼らより上というのはもっともらしくて、
ていうかさっきまでそうだと思ってた俺。
そのつもりで臧覇伝読み直したらアレ? となったんだけど。
- 16 :
- >>15
地位の逆転は結果かも
曹氏親族は禅譲後は高位になるが、漢においては諸侯の親族に過ぎない(形式上は)
都督であるので漢の将軍位を与えるが、漢のうちはあまり高い位にはできないため、四鎮将軍になった
張遼ら曹操配下の武人は、魏においては親族を除けばトップクラスの地位
このとき親族は漢の四鎮将軍になっているから、張遼たちが魏のトップ集団である四方将軍になった
しかし禅譲後、四鎮将軍=曹氏親族と四方将軍=武人のどっちが格上かといえば、もちろん曹氏親族
このとき将軍位をまた入れ替えるという煩を避けるため、敢えて四鎮等の将軍の地位を上昇させることで序列を保った
張遼が征東将軍になったころは、まだ四征・四鎮等の地位がさほど高くなかったから、曹丕が王になって以降の四鎮等とは同列に論じられないのかもしれない
- 17 :
- こんな楽しい討論にするのなら互いにトリ付けて欲しい
- 18 :
- そういえば張遼は、満寵と並べられてる事があった気がするけど
こっちもあまりそぐわない気がする。
臧覇って満寵や郭淮と並べられる方が相応しいような
- 19 :
- あ、やっと理解した。漢の高位の将軍職である四方将軍と、魏王の四方将軍を同格に考えたからおかしくなったってことね。
漢の四鎮は群雄の劉表、張魯、劉備、韓遂などに与えられた高位の将軍職(漢の四方はさらに上で車騎驃騎のすぐ下)
魏は一郡規模の国だから、建前上鎮征のような地方軍を持つはずがなく、四方将軍は自然に中軍の将のトップとなる。
漢帝国の四鎮将軍は小さな魏(王)の四方将軍より格上とすれば、
魏王曹丕の時代での四鎮(曹真 臧覇) > 四方(張遼徐晃張コウ朱霊)の序列が成立する。
その後魏王朝の成立に伴い、征・鎮・四方・雑号の序列が定まると、
自然にこれまでの序列が保たれる、か。今出てる問題は解決するね。すっきりした。ありがとう。
でもこのために将軍位の序列を変えたのかなあ? ちょっと聞いたことのない類の話だけど。
この辺、ちゃんと論じてる人が居てもよさそうだ。
とりあえず後漢書の将軍位の序列から当たってみるかなー
- 20 :
- >>18
列伝は活躍の年代で纏められることが多いから、
魏書十八は武を持って活躍した人物の列伝とは言っても、
李典のような豪族、地方を鎮守した李通臧覇呂虔文聘、ずば抜けた武勇を持った典韋許チョ
忠義に殉じたホウ徳、将ではなく忠烈で名を残した閻温ホウイクと色んな人間がいるね。
- 21 :
- >>16
だいたいの主旨は賛同できるけど、四征の地位が低いってのは誤解だよ。
夏侯淵が征西、曹仁が征南になってる。張遼はこの段階で曹氏一門に匹敵してる。
それが曹丕の時代には曹仁が魏の車騎将軍、曹真や曹休が魏の四鎮に上がって張遼を突き放し、
朱霊や徐晃が四方に上がって張遼に肩を並べてる。
漢の四征から魏の四方へが左遷でないとしても、相対的な地位は低下してると言わざるをえない。
曹氏優遇の結果なのか、張遼に失点があったかは分からないけどね。
失点があったとすれば関羽北上のとき荊州救援に出遅れたということなんだろうか。
夏侯惇の動きや温恢伝の記録を見るとそうとは思えないけど。
征東のときは夏侯淵も曹仁も漢朝から見れば外様に過ぎなかったんで、
やっぱり曹丕の代で曹氏一門が優遇された結果だと見た方がよさそう。
- 22 :
- >>21
>夏侯淵が征西、曹仁が征南になってる。張遼はこの段階で曹氏一門に匹敵
この時期の夏侯惇の漢の官位がわからんのだよね。伏波将軍のままではないと思うんだが。
そのちょっと後、曹操の最晩年になって夏侯惇・于禁・楽進が魏の四方将軍だから、
やはりこの辺まで体裁上は親族と外様武官は同格だったことになる(実質は大きな差があっただろうけど)
その後、夏侯惇は魏王曹丕の時期に大将軍だから、やはりこの時点で親族が名実共に重用された
ことになる。魏王位はともかく、漢朝での実権は世襲ではないから、曹操死去の前後から
禅譲の計画は急がれていたんだろうなあ。
- 23 :
- >>22
よくよく考えてみたら、曹仁や夏侯淵が「行」のつかない正規の四征将軍になるのはけっこう遅く、それまでは「行」○○将軍ばかりで正規の将軍になってないんだよな
つまり、張遼や徐晃たちは、官位の面では曹氏一門に後から来たのに追い越されてるんだ
これも曹操が権力を強め、簒奪に近づいていくのを示しているんだな
伏波将軍は馬援が就いた由緒ある位だし、平時であれば河南尹はエリートの地位
夏侯惇は前将軍になるまで伏波将軍だと思うけど、これはかなり高いステータスだと思うよ
- 24 :
- お気に入りいますか?
http://359s.net/trinity/wei/index.html
- 25 :
- 将軍位に「行」が付いてる場合は、○○将軍代行みたいな認識で良いの?
- 26 :
- まあ大体そんな感じなんだけど、語の使い方は複数あるみたいだ。
一つは曹仁みたいに、「身分はあんまり高くないけど能力があるから、
正規の将軍には任命しないけど、それと同じくらい権限と責任を持たせるよ」というパターン。
もう一つは、官職を勝手に発行してる人が、あとで朝廷の認識と辻褄を合わせるために、
「あれは臨時措置として将軍の仕事を代行しただけですよ」とアピールするパターン。
孫策が黄祖を追放したときの上表で、部下を行○○校尉と言ってたりするのが一例。
ほかにもパターンはあると思うけど、ぱっと思いつくのはこの二つかな。
- 27 :
- >>26
どうもありがと。戦時階級みたいなもんか
- 28 :
- しんりょう君
- 29 :
- 臧覇の出身
泰山郡華県って、続漢書郡国志に載ってないのな
でも漢書郡国志には泰山郡に華県がある
晋書郡国志には瑯邪国に華県がある
・・・なんぞこれ
- 30 :
- 華県って、長安の近くじゃなかったっけ?
華山の近くの。
- 31 :
- 探した探した。
琅邪王劉京伝の冒頭に、泰山郡等から六県を以って琅邪国とするという記述があった。
後漢書の志には載ってない…かな?
後漢末までにまた配置換えがあったのかもしれない
- 32 :
- あ、ミス。新たに琅邪に属した六県の一つに華県の名がある
- 33 :
- その辺の事情は後漢書集解にも書かれてるな。
郭頒の世語に曹嵩がされたのは泰山の華とあり、
延煕(延熹の間違い)七年に建てられた孔宙碑に華県を載っているので、
漢末に再び設立されたのだろうと王先謙は言ってる。
三国志集解の引用だとちょっと文言が違ってるが出所が分からない。
- 34 :
- 三国志板の方のスレは盛り上がってるな
しかし論議の中心は変わり映えしない面子だが
- 35 :
- しょうがないんじゃね?
今更眼を見張るような新しいネタが出現するわけもないし。
基本的にはループネタばっかりだよ。
- 36 :
- 楽進のことはこのスレでもあんまり語られてないよな。
本伝の記述が寂しいのは否めないが、他の伝と合わせて読むと
分かってくる部分もありそうだが、その辺はどうなんだろ。
- 37 :
- 楽進伝に載ってない活躍って言うと青泥で関羽を破ったことと他になんかあったっけ
- 38 :
- あー、いやそういう意味じゃなくってさ。
本伝だとどこそこの戦いに従軍したとか、そういうことしか書いてなくて、
その戦いのなかで楽進がいかに重要な任務を担ってたのか、みたいなのが見えてこない。
たとえば官渡の戦いの直前で獲嘉を攻めてるが、これは官渡の戦いにどう影響したかとか
そういうのが分かるんじゃないかなと思ってね。
- 39 :
- 俺が感じてるところといえば、楽進って当人の伝どころか他のどの記事をみても
楽進の主張というか言葉がないってとこ
これだけ古参で功績多大にも関わらず、ちょっと異様な感じがする
- 40 :
- やっぱり楽進の出自が関係してるんかなと思う。
張遼や徐晃は他陣営からまとまった部隊をつれてきた中途採用組だが、
楽進と于禁は兵卒上がりで、士大夫層の受けがよくなかったんじゃないか、とか。
あと楽進の出身地って東郡なんだよな。
たぶん曹操が東郡太守だったころに現地採用されたんだろうと思う。
もしかしたら陳宮の離反となにか関係があるかもしれないね。
- 41 :
- 韓浩が屯田以外だと夏侯惇見し発言くらいしか記述が残ってないけれど
曹操の「韓浩居ないと俺が軍を動かせない」発言とかから優秀な部隊指揮官としての側面が垣間見えるように
楽進もまた同様に特に何かを提言したりするようなビジョンやグランドデザイン能力は無いものの
戦場での部隊統率や曹操の指揮下での有能な実務者、実行者だったんではないかと
残る少ない記述を見ると荊州入り以前は常に曹操に従軍したという風に書かれているしな
- 42 :
- 楽進と同じ戦いに参加した武将をリストアップしたらなにか分かるんじゃないか。
とりあえず濮陽の対呂布戦に参戦したやつを検索してみた。
曹操、夏侯惇、曹洪、楽進、于禁、典韋、韓浩、楼異。
うーん、なにか見えるか?見えてこねえな…。
- 43 :
- 自分の考えになっちゃうが物静かそうなイメージがあるな楽進。
小柄同士惹かれあうものがあったんだろうか。孟徳と。
蒼天の楽進、張遼は色濃く描かれてるな。後者とか夢にでてきそうだ。
- 44 :
- つうか中国英雄板で魏の名将ってwwww
中国の歴史上魏って国はいっぱいあるだろw
曹魏語りたいなら三戦板に帰れよwwwwキモいwwww
- 45 :
- >>42のうち曹操はまあ除外して、夏侯惇、曹洪は身内だし、
楽進、于禁、典韋は小飼だよな。楼異もたぶん小飼。
韓浩は名士豪族層の出身だが、このとき夏侯惇配下。
というわけで、濮陽戦では外様の有力部将の姿が見えないな。
- 46 :
- たぶん史渙も従軍してるだろうけど、この時期は親族以外で主力となる分隊を
率いるのは専ら于禁と楽進だろうな
- 47 :
- >>44
まあ確かにそう言われればそうだね。
どうせ中英に立てるんなら、三戦のスレタイまるパクリじゃなくて
もう少し工夫したスレタイにして欲しかったな。
- 48 :
- >>44
三戦板から移転してきたスレなのに他の時代に同じ王朝名があるって指摘しても意味がない。
>>46
史渙ってそんなに早い時期から従軍してたのかな。
「太祖初起以客従」ってのが根拠だと思うけど、これはちょっとニュアンス違いのような気がする。
- 49 :
- 戦国時代の魏と勘違いした件
- 50 :
- そのネタは>>44で既出。
- 51 :
- >>44
曹魏に限らず、お好きな魏将をどうぞ
- 52 :
- 北魏
- 53 :
- では竜賈についてでも
- 54 :
- 三国中的正宗“五虎将”应是曹魏的张辽,乐进,于禁,张郃,徐晃。陈寿先生在《三国志》中评道:“太祖建兹武功,而时之良将,五子为先”。
三国の中の正統の“5人の勇将”は曹魏の張遼はずで、楽進、禁じますに、張〓、徐晃。陳寿先生は《三国志》中は評論・評定しています:“太祖は今武功を建てて、時の優れた将、5人の子は重要とします”。
- 55 :
- >>54
大陸の方ですかね。
演義のほうだと張遼、張コウ、徐晃は良い役だけど、楽進は于禁は地味だね。
降伏して晩節を汚した于禁の扱いが酷いのは道理としても、
楽進の扱いがあまり良くないのは何故なんだろうね。
- 56 :
- 楽進の場合、伝の記述が淡々とし過ぎていたり、蜀将との絡みが乏しいあたりは
影響してそう
中原平定以降は殆ど対呉戦線で働いてるし、戦う呉将もまたさほど蜀将とあまり
絡まないときて、半ば必然的にそんな扱いにはなるだろうって気もする
羅貫中も実は不等号的な図式を頭で描いてたのかも、なんて思ってしまう
- 57 :
- >>55
裏切り組の方が扱いがいいってのは面白いなあ
- 58 :
- 降伏組3人の演義での扱いを見ると、
張遼:呂布に殉じるつもりだったけど関羽の義気にうたれて降る
普通に呂布が敗れたから降伏した史実と比べると美化
張コウ:官渡で郭図の讒言によって生命の危機を感じて降伏(口火を切ったのは高覧)
ほぼ張コウ伝通りだけど、高覧に促されてって部分もあるからやや美化
徐晃:陣中で満寵より説得を受けて脱走、降伏
楊奉がたいした人物とも描かれていないから不義不忠とは見えないけど、格別美化も醜化もない
この三人は後々にも見せ場あるし、羅貫中もちゃんと優遇しているように思えるな。
徐晃は負け戦を捏造されてるけど。
- 59 :
- 楽進は関羽と戦ってるよね
個人的には張遼が呂布を諫めたのは美談とは感じないな。
高順の方がまだかっこよく見える。 正史じゃ仕方なくだけど
- 60 :
- >>55
楽進はセリフが少ないから活躍してないように見えるだけな気がする
- 61 :
- 征東将軍云々の件ですが、後漢ではたしか征東将軍も雑号将軍の一つじゃ
なかったでしたっけ。元々漢代では征南将軍とかはなくて、四征と言う形
が出来上がったのは魏建国後だったかと思います。
それで昔悩んだのが張コウの件ですが、彼は最初袁氏討伐の折りの功績で
平狄将軍になっているのですが、その後、巴郡で住民移住の後、盪寇将軍
に任命されているのですよね。これ魏の制度で前者は三品、後者は五品と
後者の方が格が落ちるんですよね。コレは張飛に負けた罰なのかな、とも
思ったのですが、色々調べた結果後漢の制度ではどちらも雑号将軍であり、
どちらが上とか言うものでは無いのでは、と聞いて合点がいきました。
恐らく譜代の臣であった楽進や于禁が218年の段階で、右将軍等になって
いるのは魏国の四方将軍としての将軍号、それ以外の外様の人は漢の雑号
将軍号が与えられていたのではないでしょうか。
そして曹丕の代になっていよいよ漢から魏の時代に移る段階になって、
張遼や張コウ、と言った外様武将も魏の将軍号が与えられるようになった
と言うことではないでしょうか。
- 62 :
- て50スレぐらい前に同じようなことが書いてあったか、途中から見てた
ので見落としてました。失礼。
- 63 :
- 今調べてみたけど、後漢書董卓伝で馬トウが202年に征南将軍に任命されて
幕府を開くことを許可してるってあるね。開府できるぐらいと考えると、
やっぱそれなりに品格が高かったんだろうか・・うーん、わからんくなって
きたの・・・。
- 64 :
- 若き日の曹操の夢は、征西将軍になることだったから、
後漢における四征将軍の格はそれなりに高かったのでは。
光武帝の配下で関中を平定した征西大将軍馮異は、
咸陽王と呼ばれるほどの勢力を誇ったというし。
あと、後漢には征南大将軍がいるよ。
光武帝の配下で荊州や蜀を平定した岑彭。
- 65 :
- >>64
曹操の例は、むしろ「凱旋将軍になりたい」ってことなんじゃないかなあ、地位の上下よりも
前後左右や大将軍は外征しないことも多いから、「実際に外征する将軍になりたい」って意味じゃないのかな
- 66 :
- 色々調べてみましたが、どうやら後漢においては将軍職と言うのは
常設ではない、と言うことだったようです。
で、前漢の頃を参考にすると、末期頃に他の将軍を率いる将軍として
大将軍、車騎将軍、票騎将軍、衛将軍が設置され、その下の通常の将軍
職として、前後左右の四方将軍及びその他の雑号将軍が位置していた、と
言う事のようです。そういう意味では四征将軍もその他の雑号将軍と位置
的には変わらず、特に品位が高いと言う訳ではなさそうですね。
少なくともこの時代では四方将軍以下の扱いだった模様です。
ただし通常の雑号将軍以上ならば、開府の件を一応持っていたことになり、
そういう意味で馬トウや韓遂に開府の権利が与えられたと言うのは理屈は
通ると言うことになりますね。
まあ、権利が得られると言うだけなので一般的な曹操配下の武将に開府を
認めるなんてことはまずなかったでしょうが。
- 67 :
- 三戦板の魏スレッド沈んでるんだな
- 68 :
- >>65
俺もアレはむしろ西域で対外戦争で活躍したかったという話だと思う。
班超らが念頭にあって、後世に芳名を残したいという話かと。
- 69 :
- 辺将というやつだな。
- 70 :
- ゾウハはジョウ州で半独立勢力のときは劉備と似たような感じだったのにね
- 71 :
- http://www.shureitachi.com/indexJP.html
魏将の映画が公開されるみたい
- 72 :
- 10秒くらい真面目に考えたぞw
- 73 :
- 臧覇はもっとメジャーでいいよな
- 74 :
- age
- 75 :
- あげ
- 76 :
- age
- 77 :
- 魏の最強の猛将は楊大眼
- 78 :
- ホウケンって魏だっけ?
- 79 :
- >>78
それ時代が違うだろ・・・
- 80 :
- 魏としかスレタイに書いてないんだから違わないだろ
- 81 :
- 戦国時代なら呉起か信陵君だな
- 82 :
- 魏無忌
- 83 :
- 一応冉閔挙げとくか
- 84 :
- 芒卯
- 85 :
- age
- 86 :
- 戦国時代の魏
曹魏
冉魏
北魏
西魏
東魏
こんだけ?
- 87 :11/12/07
- 翟魏
魏(隋末の李密)
らしい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F
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