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2011年10月1期美術鑑賞アートのぎりぎりを探求したいスレ TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼

アートのぎりぎりを探求したいスレ


1 :11/07/19 〜 最終レス :11/11/27
 
このスレは、某荒らしスレの内部で行われた議論とコミュをもとに
新規にスレたてしたものです。
 「これってほんとにアートなん?」
 「そもそもアートってなんなん?」
 「って綺麗なん?」
こんな素朴な疑問を酒の肴にしながら、あーだこーだ話をするというアバウトなスレです。
(あと、ラピスラズリーという荒らしに対する牽制かつ警備員の詰め所でもあります。)
では、皆さま、どうぞよろしうに。
前スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1308382790/
 

2 :
姉さん。世界ランキング第四位のスタンフォード大学が出す情報に、いまだに日本国内は
脆弱さをもっているようです。私の「美の概念」のコピーは25ページまであるのですが、
今のところ翻訳を終えたのは4ページだけです。
専門家の方々は独自の手段で全訳を所持していると思いますが、このスレを利用して
25ページの全訳を行っていいでしょうか。

3 :
「美の概念」スタンフォード哲学百科事典。
http://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-concept/
「美の概念の要約」
とにかく、人間が「美しい」と感じるのは「直接的」である。他人に薦められてとかいうもの
ではない。しかし、「その道」の探求をした者しかわからない「美しさ」もあり、とにかく
「興味がある」という点も重要だ。
「美しいもの」「美しいふるまい」「美しい判断」「美しい経験」
この4つについてまとめた論稿がこれである。
女性の美しさから始まって、三島由紀夫の自の美しさまで、幅広い議論の基礎にある
研究だと言っていい。
序文:人々が「美」の概念と「特別なもの」の概念を明確に区別したのは18世紀末だとされる。
「美しいもの」をどのように評論するのか、どのように賛否が分かれるのか。
あるいは「美しいふるまい」と「合理的なふるまい」はどう異なるのか。
「美しい経験」とは、何かの型にはまったことを意味するのか、それともある現象に直面
したことを意味するのか。
「特別なもの」と「美しいもの」を区別する議論のたたき台になったのは西洋の絵画であった。
しかし、いろんな方面に発展した哲学的議論である。
美術鑑賞を自分の様々な美意識まで発展させるのにふさわしい研究です。
英語のできる方の協力を求めています。
「合理性」と「美しさ」の比較、
「エゴイズム」と「美徳」との比較、
こういったものが「美術鑑賞」の研究と深くかかわっています。

4 :
「合理主義」は「美しさに説明を求める」という特徴がある。これはデカルトが
数学こそがあらゆる言語よりも説得力がある、とした考えに由来するもので、
18世紀には完全に人々はこの考えに支配されたと言っていい。
しかし、これはヨーロッパ大陸系の考えであり、イギリスでは次第に批判が出るようになった。
「美」とは「味わうもの」であり、原理や概念を超えているのではないか、とされたのだ。
つまり、イギリスで「美しさとは直接感じるものである」という発想が生まれたのだ。
イギリスでは、良いものは直接判断できるだろうという主張があり、たとえば、
コックが、肉や野菜をごたまぜにしたシチュー(ラグー)を、独自のレシピで
作っても、それをおいしいというかマズイというかは我々にまかせられているだろう、
とされた。ずいぶんイギリスでは大雑把な議論がなされたが、大陸の方では
カントがこれを引き継いだ。詩人が作った詩に誰も共感しなくて、批判が浴びせられたら、詩人は布団を
頭からかぶって黙っているしかない。どんな芸術も人々がどう感じるかに
委ねられているという意味で、イギリス側の「美の直接性」という説明に同意する、
としたのだ。カントは、そのような場合、その詩人の寄って立つ立場より優れたものが存在する
というものを認めるか、批判こそが間違いであるとして、より良いものを作るしかない
とした。しかし、このような「美の直接性」という議論に対して、さらに「合理主義」の側からの
批判がなされた。ラグーに比べて、詩や絵画は複雑性をもっているとし、先人の業績や法則性に
満ちた世界であり、その評価もすぐには分からないことが多い、としたのだ。
「美は直接味わうものなのか」という論点は、デカルトの合理主義に、イギリスが
提示したものであり、それにカントが同調し、さまざまな論者を呼び込んだのだ。

5 :
「美の直接性」という議論は結局、ヒュームが結論をつけたと言ってよい。
芸術作品の評価は、その手法が確立していなければならず、その対象を
いかに適切に評価するかは、理論の発展を待つほかはないだろう。
他の作品との比較や、多くの先人の業績の蓄積、その複雑さの解明が必要だ。
もちろん、大自然の美しさの表現にまで合理性を求めることはできないが、
「ファインアート」の世界では、やはり合理性が必要であり、また、その一環として
我々の感性が用いられるのである、としたのだ。
注)女性の「美しさ」も、自然に由来するものならば「直接感じる」ものであろうが、
「ファッション」「化粧」などの「ファインアート」ならば「合理的な説明が可能」
ということだろうか。しかし、美容整形も「ファインアート」だと言える。
どこまでを「自然」とみなし、どこまでを「ファインアート」とみなすかは性別や・その人
によってさまざまであり、俺は「ファインアート」すら「自然」に分類しているので
女性に付け込まれることが明らかになった。

6 :
(続き)
「美の概念」には、エゴイズムと美徳という観点からのアプローチがある。
たとえば、人々のエゴイズムは周囲に不利益をもたらすが、美徳は人々に安心を
もたらす。そういう美徳にしたがった表現に人々は喜びを感じるのではないか、
という説が唱えられた。美徳の中に喜びを見出すのが「美」であるとするのなら、
それは「自分の利益だけを考えたものではない、私心のなさ」が「美」の根拠に
あることになる。エゴイズムと美徳の観点の導入は「私心のなさ」こそが人々を
喜ばせるという観点を生み出したのだ。
芸術における「私心のなさ、公平中立」という観点も18世紀に一大論争を引き起こしている。

7 :
「私心のなさ」というのは感じるものなのかもしれないし、技術の探求の中に見出せる
ものなのかもしれない。しかし、「私心のなさ」というのはモラルの問題でもあり、
モラルと美がどのように関わるのかが問題になってしまう。
モラルと美の関係が「美の根拠は私心のなさにある」という仮説におけるテーマとなった。

8 :
人々が「美を堪能したい」「喜びを感じたい」というのは自分の利益を求めているし、
アーティストが創作活動というアクションを起こすのも「表現したい」という自分の
利益を求めている。しかし、作品から喜びを見出し、美を見出すことの根拠は
「私心のなさ」にあるという仮説は、人々のふるまいや判断をその方向にもっていく効果が
あるとされる。人々は芸術作品を見て「美しいふるまい」「美しい判断」がしたいと願うのであり、
そこにはやはり「私心のなさ」があるのではないかとカントは主張したのだ。

9 :
カントが「美の概念」の先陣を切る形で「私心のなさ」という仮説を打ち立てたが、
この主張は「概念として狭すぎるのではないか」と批判された。
美には「判断」「感情」「質」などが含まれており、感じたり、言葉で表現したり、
自分の内面や外部のいろいろなものから感じるものであり、ときに人々に「希望」
すら与えるものであることが明らかになり、「私心のなさ」だけで果たして説明可能なのか
が議論された。しかし、今日にいたるまでこの仮説は根強く残る強さをもっていたのだ。

10 :
注)美容整形のCMで「世界平和」という言葉が流れるが、美は「私心」がないのであろうか・・・。

11 :
以下、この論稿は「美しいもの」「美しい判断」「美しい態度」「美しい経験」に関する
考察をして論稿を終える予定です。

12 :
実は、スタンフォードの「美の概念」の総論はこれで終わりなのです。
ブログにまとめておきました。
あとはみなさんそれぞれ専門をお持ちだと思いますので、各自で「美の探求」を
なされてみてはいかがでしょうか。
「糖質〜趣味のブログ」
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2011/07/post-dc72.html

13 :
私も自分の仕事があるもので、続きはかなりスローペースになると思います。
ご容赦ください。

14 :
ラピスの次は糖質かよ・・・
ほんと、学芸員さんがかわいそう。

15 :
>>13
おい、基地外。少しは迷惑考えろ。
誰もお前の公開ーなんか見たかねーんだよ。

16 :
 
>>13
糖質せんせい、たいへん素晴らしいダイジェストですね。
しかし、ここはナイーヴなスレ民が若干おりまして、
こちらの廃墟で討議を行いましょう。
特にアメリカの観念史や美学の展開は、ひじょうにおもしろいのですよ。
お待ちしております。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1311036640/
 

17 :
>>1スレ立ておつです
っていきなり糖質教授に占拠されたと思いきや、素直に誘導に従っている…素晴らしい

18 :
学芸員さん、
新スレたて、お疲れさまです!
もうしばらくお話ができるかと思うとうれしいです。
よろしくおねがいします!

19 :
 
>>18
いえいえ、スレを立てるのにそれほどの労力は必要としませんよw
これからもよろしくお願いします。
その前に前スレの埋め立てをしないといけないんですけどねw

20 :
芸術=美の追求ではないところが難しいですよね。美しいものだけが芸術ならばわかりやすいけれど、一義的ではない。(もちろん、そうでなければつまらないですが)。
ある時期までは、だいたい芸術=美でよかったように思います(宗教画が美しくなかったら信者増えませんしね)が、デュシャンあたで崩壊したみたいに思う。
もともとアートの様式自体は、反旧態の繰り返しだったけれど、デュシャン以降はアートという概念そのものに反旧態の姿勢を取りはじめて、訳がわからなくなったような。
私はやっぱり、新しい思想云々よりも、美しいこと、他人には真似できないことが大切だと思うんですがね。

21 :
おい、俺が法律雑誌を読む時間も犠牲にして英文資料にあたったのに、
スタンフォードの情報を止めようとしたのは学芸員か?
随分ひどい裏切りだな。
お前のコテ生命が終わるぞ?

22 :
世界ランキング四位のスタンフォードがそんなに怖いか?
東大は26位だが、いずれはスタンフォードを抜くだろうと言われている。

23 :
学芸員が言論統制・排除したログがこれだ。
対抗言論ではなく排除の行動をとっている。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1311036640/

24 :
これからは翻訳という形ではなく、理解したものを大雑把に書こうと思いますが、
総論で提示した「美しさとは直接感じるもの」「私心がない」という二つの観点を
我々は「極端までに推し進めたらどうなるだろう」という実験をすでに終えている
ということが大事だ。フォーマリズムがこれを終えている。
我々は、科学の進歩などの時代背景の異なる時代に描かれた作品を
見ているのだから、その時代背景も考慮するのか、あるいはその必要はないとするのか
という視点もある。
フォーマリズムは「過去の作品のデータの蓄積は必要ない」とまで言い切って
この「二つの視点」を究極まで追求するという実験を行い、人類に経験を
もたらしてその役割を終えている。
美術館に行ったら「係員にことばで説明してもらう」のが正解なのか、見ればわかる
というフォーマリズムに立つのかの違いがあった。
20世紀の中ごろまでにはこの実験は終了したと考えられている。
それから芸術の世界は新時代に入ったのだ。

25 :
ケンドール・ウォルトンが「カテゴリー・オブ・アート」という有名な著書で、フォーマリズムを
批判した。彼は、ピカソのゲルニカをどう評価するつもりか、と論じたのだ。
「暴力的で、ダイナミックで、躍動感があり、破壊的だ」というのと、ただ「ゲルニカである」
というほど意味が違うではないかという点を指摘したのだ。
ただ「ゲルニカである」というのではそこいらの壁紙と何も変わらないとした。
フォーマリズムの時代に生きながら、ピカソは時代に全く異なるものを発信していたのではないか、
とウォルトンは論じだのだ。
ウォルトンは「美しいものを美しいと感じるという意味ではフォーマリズムは正しいが、
共通了解をもたなければ意味がない」としたのだ。

26 :
アレン・カールソンは「美術を鑑賞する際には、美術ソサエティの共通了解を知るべきである」とした。
クジラを見て、なぜアメリカ人はあれほど愛着を持つのかというと、ナチュラルサイエンスの
知識があるからであり、そうでなければ魚と哺類の区別はしないだろうとした。

27 :
アイゼンバーグは言った。たしかに、芸術作品がどのような基盤に立脚し、どのような
要素に分解できるかを評論するかは可能であるが、しかし、もしそれらに完全な法則が
あるとするなら、私の仕事はもっと簡単になるのだが、現実の「美」はそんなに単純な
ものではない、と。

28 :
 
>>21
たいへん申し訳ありません。
ラピスラズリーのスレ【美術館5】の削除を申請したのですが、【美術館5】だけでなく
糖質さんとお話をしていた【美術館4】まで運営がスレ立て荒らしだと認定し削除してしまったようです。
約束守れませんでした。
ごめんなさい。
 

29 :
しかし、芸術家にも「ランキング」があるだろう。これを評論家はどのように判断しているのだろうか。
アイゼンバーグは「一定の方向性を示している」とするにとどめている。
細部を分析し、パーツの構成を考え、対象のパターンをグループ分けするなどしている
としているのだ。

30 :
>>28
まあ、いいですよ。おかげで英語文献に触れるいいきっかけになりました。

31 :
 
>>30
ほんとうにごめんなさい。
しかし糖質さんの翻訳はたいへん勉強になります。
>>29などは、現在の美学のやってる様式分析の簡潔で的確な定義ですし。
 

32 :
美の評論と価値の評価の手法を詳細に展開したのは21世紀に入ってからフランク・シブレー
が著書で明らかにしてからである。
かなり詳細な著書があるようだ。

33 :
>>1
スレ立て乙です!
目まぐるしくスレが立ったり落ちたり削除されたりで
ちょっと迷子になってしまいましたw
また楽しいお話よろしくお願いします!

34 :
 
レイハラカミが亡くなりました。
日本を代表する電子音楽家のひとりでした。
残念です。
Rei Harakami - Come Here Go There
http://www.youtube.com/watch?v=98FbCdnO7m0
 

35 :
フランク・シブレーに関しては、「シブレイ」と表記する人もいるようです。
英語表記は"Frank Sibley"となっています。

36 :
 
>>35
Frank Sibleyですね。
そのひとはあんまり日本では知られていなんじゃないかな。
美学やってるひとでも知ってる人は少ないと思う。
分析哲学の流れで「美とは何か」を研究してたひとです。
60年代から70年代くらいでしょうか。もう亡くなってるかな?
分析哲学の流れで美学をやるってのは、日本では少ないですねぇ。
観念史とか解釈学から美学へ、というルートはあるんだけど。
ちょっとボクにもよくわかりません。
たぶん「言語ゲームの対象としての美」とかって感じなんだと思うけど。
 

37 :
こんばんは、お邪魔します。
先ほど、クソバカラピスの乱立スレでやりとりをさせて頂きましたが、
あのスレッドの削除依頼が先ほどどなたかによって提出されました。
ですのでボケナスラピスの乱立スレが、さっくりと消される可能性が出ましたので、
先ほどの学芸員氏とのやりとりを、こちらのスレの方に再度貼らせて頂いても良いでしょうか?
学芸員氏の先ほどの書き込みを惜しむ声が、オカ板でも聞かれました。
自分も同意見です。
ラピスの阿呆の残滓と共に消すには、全く持って惜しいです。
というわけで、学芸員氏さえよければ、先ほどのレスをこちらに転載させて下さいませ。
よろしくお願いします。

38 :
 
69 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 20:06:43.04
 
なんでラピスみたいなやつが死なんのか。
才能のある人間が先に死んでいくのか。
つまらん。
 
70 :道化:2011/07/28(木) 20:18:07.59
>>69
アーティストというのは、大衆あってのアートでしょう?
ラピスのような無能者は、大衆に飲み込まれる、その他大勢の一人です。
こんなクズバカだって、大きな目線で見れば、立派なアートの支えとなっているように思います。
つってもまあ、ラピスのような新興宗教の信奉者は往々にしてアートの迫害者ですけどね。
岡田茂吉なんて黴の生えた骨董品を持ち出して、偉そうにふんぞり返ってますから、
こういう輩が自分に理解の無いアートをそうとするのでしょうね。
まあ、そういう意味ではラピスは死んでも良いかもw
あれ?
擁護できなかったw
71 :道化:2011/07/28(木) 20:18:54.19
×自分に理解の無いアートをそうとするのでしょうね
○自分が理解できないアートをそうとするのでしょうね
 

39 :
 
77 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 20:57:18.53
 
>>70
ボク個人は「大衆」という言葉は好みません(もう大衆は存在しないと思っているので)。
しかし、いまでは良くも悪くもアートは、社会を構成する「個」が綜体として支えるものであり、
それを自明として成り立っていることはまず間違いないです。
しかし、ボクは、ボクの師ともどもに、もう少し自立/自律した表現を夢想してきました。
レイハラカミなどは、その自立/自律を果たしえた芸術家だったと思う。
ボクらがいなくたって、彼は、美しい音楽を生み出せたはずなのです。
(それは彼が学生時代に作っていたというデモテープを聴いたときに確信しました。)
こんなスレだけど、ひっそりリンクを貼っておきませう。
魂だけでも遠くまで行けるでせう。
yanokami - 終りの季節
http://www.youtube.com/watch?v=rMVebkaaZ84
yanokami - 気球にのって
http://www.youtube.com/watch?v=IGtE5hAYeAM
小松左京さんも残念でした。
梅原猛せんせいより、よっぽどリアリスティックな文明批判をされていたんだけど。
『首都消失』も好きだった。
 

40 :
 
78 :道化:2011/07/28(木) 21:01:32.55
>>77
>ボクらがいなくたって、彼は、美しい音楽を生み出せたはずなのです。
んー。。。
聴衆無くして、音楽が成り立つとは思えないですが・・・
経済的な意味では無く、根源的な部分で、全くの他者は必要では無いかなあと。
赤の他人がいなくて、音楽が成り立つんでしょうか?
79 :道化:2011/07/28(木) 21:05:55.68
作家が特にそうなんですが。
職業作家を成り立たせるという経済的意味では無く、
読者がというのは作家にとって無くては成らない存在だと思います。
読者が存在しない物語って、作家にとってどれほどの意味があるのかな、と。
って、此処まで来ると哲学的ですね。
ああ、なるほど。
こうしてスレの中で話題が広がり、他板への派生スレが生じるのもノなのかな。
ラピスの場合、騎士団ひとりという孤独な胸の中で、次々と話題が広がったようだけれどw
 

41 :
 
80 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 21:09:58.29
 
>>78
そうですね、それは「音楽」ではないかもしれません。
金の鉱脈のようなもので、誰かに見出されないとそれは「商品としての音楽」にはなりません。
アートはいつしかロジスティクス(物流)の上にしか成立しなくなった。
むかしはそうじゃなかったんですけどね。
それが誰かの眼に触れようが触れまいが、そんなこととは関係ないアートも存在した。
たとえば、多くの仏像なんかはそうですね。
衆目に浴するのはごく一部の仏さまで、ほかは秘仏とされていた。
ではそれが人目に触れないからアートではなかったのかというと、ボクはそうは思わない。
そこになにがしかの機能が存在すれば、それでいいのです。
アートをロジ(つまり「大衆」への商品化)だけで論じるのは、
ボクはアートの可能性を狭めるように思います。
村上隆てんてーなどは、ボクのような意見は徹底的に反駁するでしょうがw
 

42 :
 
81 :道化:2011/07/28(木) 21:13:06.68
>>80
ああ、なるほど。
誰の目にも触れられる事を目的としたわけでも無く、
自分の中から吹き出したモノを形にしたモノがアートであると。
とすれば、アートってその人の魂の具象化そのものですね。
そうなってくると、他者との比較って微妙な話になりますね。
その人だけが出せるユニークやオリジナリティに評価をつける事と、
アートの価値ってのは違うっていうか。
って、脱線、脱線w。
82 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 21:13:54.64
 
>>79
アートが他者を必要とするというのはたしかなことです。
しかし、それはなにも具体的に生身の他者である必要はない。
1000年前、100年前、100年後、1000年後の、まだ見ぬ誰かにあてたものであってもいい。
ということは、それは仮想上の、決して出現しない他者へ向けたものでもいい。
アウシュビッツのガス室で死んでいった無辜の人々への芸術は存在しうる。
しかもそれはきちんとこの世界で一定の機能を果たす。
他者とは誰のことか。
すぐれたアートはいつでもそれを問いかける。
目の前にいる誰かに向けたものだけがアートとは限らないのです。
アールブリュットなどはそのようなアートですね。
 

43 :
 
83 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 21:17:07.12
 
だからね、レイハラカミの無垢な電子音が、
これからこのしょうもない世界にどう響くのかを知りたかった。
フクシマでのライヴ配信をほんとに楽しみにしていたのに。
 
84 :道化:2011/07/28(木) 21:17:26.69
>>82
無名の仏師達の話じゃありませんが、
彼らが向き合った他者とはその心の内にある「仏」であったり、
その仏に手を合わせようとする、誰ともしれぬ人々であったのかもしれないですね。
85 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 21:25:38.54
 
>>84
そう。
アートが必要としている他者を、目の前にいる誰かに限定する必要はない。
カフカなどは、自身の創作の動機についておそらく書いた奇妙な短編のなかで、
それを「〈誰でもない者〉とのピクニック」と喩えています。
〈誰でもない者〉という他者をカフカはあの時代にすでに想定していた。
それが大戦後の、つまり「アウシュビッツ後の」文学者たちに衝撃を与えたんです。
もちろん目の前にいる他者も大事です。
でもアートは、いつもそれを超えようとする。
アートである条件はいつでもそこに「拡張」があるかだと思っています。
いろんなものを超えて超えて、その先でどんな他者と出会うか、アートは問いかける術です。
 

44 :
 
86 :道化:2011/07/28(木) 21:34:21.48
>>85
時代を超えてゆく術、ですか。
それがアートなのか。凄いなあ。
てか「見いだされることすら必要としていない」ってのが、凄い。
完成されたモノとしてただ存在し続ける有様は、超越者みたいだわ。
一種の悟り?
 

45 :
 
87 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 21:47:09.48
 
>>86
悟りではないかもしれないなあ・・・(悟りというものをよく知らないんですけどw)
人間はいろんなところにボーダーを引くでしょう?
時間を区切ったり、自然と人工を区別したり、国境線を引いたり、観念を厳密化させたり、
男/女・子ども/大人を区別したり、善いことと悪いことを分別して裁いたり、
野菜やお肉やお魚を陳列して、本は本棚に並べて、CDやレコードをアーティスト順に並べてみたりする。
アートはそういうボーダーを越えてようとする意志を表現する術です。
むかし秘仏で20年に一度しか御開帳されなかったけど、いまは美術展で全国を巡回する。
それは仏さまもアートだからです(その機能が変わったのです)。
資本主義も拡張という点では同じ運動なのですが、その運動原理が違う。
資本主義は本質的に倫理的です。
しかしアートは反倫理すら含む点でアナーキーだし自由な運動です。
資本主義は生身の他者を相手とし、そこに干渉しますが、
アートは生身の他者を超えていく。
こういうことを考えながら、音楽聴いたり映画を観たり本を読んだり美術館に行ったりすると
すごく楽しいかもしれませんw
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1311802390/69-87
 

46 :
移植ありがとうございました!!m(__)m

47 :
 
どういたまして!
あの逆上具合だと、ここもバカに爆撃されるかもしれません。
が、いつでもお越しくだしあ。
お待ちしておりましあ。
 

48 :
絵画も結局は形而上学よりもスポーツに近いと思うね。
道化は難しく考えすぎなんだよ。
ピアノを弾いてみればアルゲリッチの速度についていけないことは分かる。
絵画だってこのレベルにはついていけないというのがあるだろう。
スポーツ以外の何物でもない。
法律学だってスポーツだからな。

49 :
 
>>48
芸術と技巧の問題はいろいろと複雑なんですが、
スポーツと同じ部分はあるにしろ、スポーツとまったく同じものではないと思っています。
社会的機能の根っこが異なりますから。
でもおもしろい観点だと思いますw
 

50 :
専修大学文学部の伊吹克己教授って、松戸に詳しすぎ。

51 :
「ジャック・デリダ」
ワケわからないけどし文句として使われる著名な哲学者だと思うだろう。
実際に、戦後のフランスでは哲学の猛者が8人ぐらいいて、そのモンスターたちの
洗礼を受けているのがデリダなのだ。
彼は、人々が同じ出来事に同じリアクションをするのは「機械とどう違うのだろう」と
考えたり、以前経験したことの蓄積から今後が予測できるのはなぜだろうなどと
探求した。また、秘密を共有するというのは仲間の証であり、宇多田ヒカルの
"Can you keep a secret."もデリダの聞きかじりから作品ができている。
俺は、民主制は広がりをもつことを志向していて、情報の共有から始まり、
決定するのに時間がかかるが、君主制は、秘密裏に事が運び、判断が非常に速い
というデリダの指摘を受けて、俺の行動方針を決定したくらいだ。
君主ファクターがおのずと定まるのだ。
デリダについて日本のわけのわからん議論をスルーしたい人はスタンフォード哲学を読みましょう。
「ジャック・デリダ」スタンフォード哲学百科事典
http://plato.stanford.edu/entries/derrida/

52 :
デリダにとって「最悪」とは、他人が自分の示した方向を見ている、自分の考え以上のことを
言わない、満足いく答えしか返ってこないことである、とする。
つまり、「大勢」であることを抹する「単一性」を「暴力」と呼んだのだ。
デリダの言う「最悪」とは「純粋な現実」であり、神であり、地球であり、とにかく「一つ」であることだった。
デリダは2004年に亡くなっているが、2001年の9・11テロは目撃していた。
彼は「グローバリゼーション」というものが「単一性」を志向していて、これ自体が
暴力であるとし、テロリズムはこの文脈で起こったものだと説明したのだ。
デリダは「グローバリゼーションには人々は、まるで機械のように、遺伝子が自動的に
拒絶するだろう」と言ったのだ。

53 :
彼は「自分自身」に大勢の他人をも含めてしまうことを「単なる自分だけの自にとどまらない
集団自」と呼んだのだ。
現在の国際情勢を最近まで注視していた哲学者だった。
デリダは、「忠誠心や知識」「宗教」といったものを、この「最悪」である単一性から
どのように解決したらいいのかを探求した。人はもっと他人と距離を置いて対話を
すべきであり、神とすら距離を適切に置くべきであるとしたのだ。
そのうえで、彼は他者とのかかわりは「手厚いもてなし」(ホスピタリティー)によって
行うべきではないかとした。
デリダは、プラトンを徹底攻撃することから「脱構築」の議論を始めている。
プラトンは「見えないものや記述されたもの」を「見えるものや感じるもの」よりも
すぐれたものとして「対になっている」としたのだが、同様に「本質と外見」「霊魂と魂」
「生き生きとした記憶とうすれゆく記憶」「声と文字」「究極の善と悪」などと「1対1」で
対置している。
一つのものに対して「一つのもの」しか対置できなかったプラトンを攻撃したのだ。
デリダは、法に正義を求めるうえでも、あくまでも「今」の正義か正義でないかしか
判断できないとした。その判断も批判にさらされて新たな正義を探求しなければならないとしたのだ。
人間は判断できないことを判断しなければならない。そもそも「地平」というものが
夜明けを待つものであり、まだ夜明けの来ない暗い中で限られた知識で判断をせかされている。
それが人間の「判断」であるとするのだ。
法律の世界にデリダはそれを見出している。
それはあらゆる分野に広がりをもつ考えだったのだ。

54 :
ブログにまとめておきました。
「ジャック・デリダ〜フランス哲学のモンスター」
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2011/08/post-5866.html

55 :
 
ラピスくんの狂気がなにげにおそろしいわけですが、
あんなのとはとりあえずえんがちょして
しばらく放置していたこのスレに、ひっそりレスを残しておきます。
Martin Beckaという写真家がカロタイプで撮影した現代ドバイの写真です。
たいへんすばらしい。
レトロフューチャーというのはこういうものをいうのであります。
  Martin Becka photographies
  http://martin.becka.pagesperso-orange.fr/page1/page4/page4.html
カロタイプというのは、いまではほとんど忘れ去られた19世紀半ばの写真技術で、
ダゲレオタイプと湿版写真の過渡期に現れたものです。
よく炎熱のドバイで撮影できたな、とか思います。
薬剤的に問題はなかったんだろうか。
古いテクノロジーを用いることで、この特殊な美が生まれたということは示唆的ではありますね。
 

56 :
>>55
かっこいいな。
ドバイがかっこいいのか、写真がかっこいいのかw

57 :
>>55
ほわー
すごいねえ。
昔の写真みたいだ。
だけど、これ、現代のドバイなんでしょう?
すげえな。

58 :
 
>>56-57
ある意味「昔の写真」です。
18世紀半ばのカロタイプというカメラの一種で撮影したものです。
フィルム(にあたるもの)も印画紙(にあたるもの)も、
Martin Becka氏の手作りだと思います。
(市販されてないし。)
 
まるで地球の光景に見えませんね、異星の街を撮った写真のような・・・
「目」を変えると、普段の光景が変わって見えてくる。
カメラというのはそういう技術でありますね。
 

59 :
a

60 :
uuu

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asd

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s

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df

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73 :
>>36
姉さん。フランク・シブレイの洋書を注文しました。そもそも「美は言葉で説明可能か」
ということは、「言語学は心理学を基盤にしているのか」という議論ともかかわってきます。
フッサールは、人間の心は「言語学の三段論法のように明確ではない」として、
人間の心が抽象的である以上、言語学は心理学を基盤にはしていないとしています。
いろいろ議論のある論争ですが、「美をどこまで言語化できるのか」という評論集
みたいなものでしょうか。
とにかく、シブレイの本が届いたら読んでみようと思います。
あと、ギャラリーの方に「水彩画」に関する資料集を送らせていただきました。

74 :
シブレイの本が届きました。目次と序文だけ読みましたが、彼が残した論文集を
本にしたもののようです。「色について」「独創性と価値について」「形容詞の研究」
などが議論されていますが、シブレイの「モナリザ論」を簡単に書きたいと思う。
作品というのは、やはり誰が書いたか、いつの時代か、どういう背景があったか、
を論じなければならないという視点が重要だ。モナリザはいろんな意味で時代に
新しいものをもたらしている。
色の配置や奥行、形、ラインだけでなく、背景にはダヴィンチの修練や技術が
詰まっているのだ。たとえば、彼は、ブラシやパレットナイフというものをこの作品で
絵画の世界に持ち込んでいる。
そういう歴史的意義を研究するからこそ、模写とはエックス線を使ってまで
区別しなければならないとするのだ。

75 :
シブレイは「色」についても詳細に論じている。まず、「あれは緑色だ」という証言が
あるとする。多くの哺類は色を認識しないとされているが、人間は「色」という
パラダイムをもっており、これが重要な情報として扱われている。
自然に存在するものとしては「エメラルド」があるが、人間はあくまでも「色」という
パラダイムで「緑」という概念をもっているのだ。
これが彼の議論の出発点だ。

76 :
「色」に関しては、人類をさかのぼれば、最初はグレースケールで世界を認識していたと思われる。
明るい、暗いなどだ。しかし、人間は光が当たると色を認識する。他の人が同じ色を見ているかは
分からないだろう。しかし「赤」はルビー、「緑」はエメラルド、というように、いろんなものを
識別する必要性から「色」というパラダイムが生じたのだろう。
たとえば「グループAの経験」「グループBの経験」というものが「色」によってジャンル分け
されたとされる。こうやってパラダイムは生まれた。若い女性がピンク色を好むというのも、
そういう「グループ分けされた経験」で何らかの位置づけがなされるからだと思われる。

77 :
興味のある方は"Frank Sibley""Approach to Aesthetics"をアマゾンで注文すると
いいですよ。オックスフォードが出している本です。

78 :



79 :
(´・ω・)去年、東京都現代美術館でやったマシュー・バーニーのクレマスターシリーズがええな

80 :
カントは「ファインアートは天才がつくるものだ」としたが、「オリジナリティ(独創性)」に
関しては、シブレイは「今の時代においては価値の一つの判断要素となっているに過ぎない」
としているようだ。

81 :
絵画の評論に関しては、その感受性やたくみな表現力でその深度を深めたのは
モンロー・ビアズリー(Monroe Beardsley)だとされる。
評論の手法に関してはシブレイの本の第八章に書かれている。

82 :
ビアズリーは、評論をするうえで3つの観点の重要性を指摘した。
「作品の統一性」「複雑性」「その業界の価値が凝縮されていること」
この3つを常に頭に入れていたとされる。

83 :
シブレイはこれに対して「ドラマティックさの凝縮」も存在するのではないかとした。
たとえ単純なモチーフを描いたとしても、その業界での「誠実さ」「良心」「幅広い見識」
を示すことは「ドラマティックさの凝縮」であり、なにも歴史的瞬間などを
描くことのみを意味するのではないとしたのだ。

84 :
.

85 :
川田ギャラリーにいってみそ

86 :
1

87 :
p

88 :

89 :

90 :
>>83
はじめてこのスレッドに来ましたが、たいへん参考になります。
今日からあなたの書き込みを楽しみにしています。

91 :
i

92 :

93 :
D

94 :

95 :
test

96 :
ここは廃墟だなw

97 :
ハイキョーハイキョーシノウコウショー

98 :
「写真が著作物とされる要件」
写真によって何を表現しようとするかの意思決定、被写体人物にポーズをとらせるための指示、
被写体風景の中からどういう構図を切り取るかという判断、あるいはシャッターチャンスをいかにうまくとらえるかの勘、
絞り等の工夫
が写真に著作権があるとされるための条件だ。
つまり、写真家にはこれらの要素に卓越した能力を有することを意味する。

99 :
デジタル技術の発達に伴い、従来写真の著作物の創作性を基礎づけた要素のうち、
露出、焦点などの撮影技法の点については、機械への依存が高まり、
個性発揮の余地が少なくなっていることも事実であるが、写真家は「これらの技術も把握している」
という指摘は可能であろう。

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