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2011年10月1期日本史雄略天皇
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雄略天皇
- 1 :10/10/08 〜 最終レス :11/11/20
- 武
- 2 :
- 中国の南朝は頼りにならなかった。
- 3 :
- かといって北朝にはパイプがなかった。
- 4 :
- 南朝の皇族虐の風潮に感化されたアホ
- 5 :
- >>4
> 南朝の皇族虐の風潮に感化された
それは違うと思う。邪魔なやつは消そうとするタイプだろ。
- 6 :
- 同じだろ
- 7 :
- 南朝ではなく北朝と接近したほうが良かったような気がするが。
- 8 :
- 交通上ムリがある
- 9 :
- 雄略ほどの人物なら
北朝パワー >>>>>> 南朝パワー
であることは把握していたと思うのだが、なんとかならなかったのか?
- 10 :
- 意味が分からない。
雄略はおのれの権力に執着するあまり、
人材を枯渇させたマヌケだから君主としては三流だと思う
当時の北魏は漢人の文人を虐しまくった太武帝の孫の時代で
ここから三代続けて幼帝が即位してるけど
パワーあるといえるかな?
- 11 :
- 北魏は仏教国
- 12 :
- 南朝も仏教国
- 13 :
- 半島から渡ってきた漢人系知識人の質がこの時代はまだ悪いから仕方ない
- 14 :
- >>10
> 当時の北魏は漢人の文人を虐しまくった太武帝の孫の時代で
> ここから三代続けて幼帝が即位してるけど
> パワーあるといえるかな?
それでも南朝よりは強かったのではないだろうか?
- 15 :
- 整理しよう
当時の同盟国は百済で敵対する高句麗は北魏に朝貢している
北魏としては宋と高句麗に挟撃されるのを嫌うので
百済王の長ったらしい上表文を貰っても高句麗の南下政策は黙認するわけです
北魏も国内に不安要素が皆無ではないので南朝を併合するほどパワーもない
一方宋は皇族同士のし合いが盛んで、かつ豪族の貴族化が激しく軍事力が低いというよりは
戦略的指導体制に不備があるため、北伐とかは一流の武将にも反対される始末で強行しても失敗します
要は南朝は軍事的には当てにならないが北朝は戦略的に味方にならない
詰んだ状態なわけです
- 16 :
- >>15
> 要は南朝は軍事的には当てにならないが北朝は戦略的に味方にならない
そうなんだが、南朝と組むより北朝と組むほうがマシだったのではないだろうか?
- 17 :
- 北朝と組む事は朝貢国の序列で高句麗の下位になる事を意味する。
当然と高句麗へは自由に遠征できないし戦略的に袋小路、
雄略の拡張路線とは合わない。
北朝から高句麗に有利な条件での講和や
紛争地帯を高句麗に王として封じる事が想定され、
倭は苦しい対応を迫られる。
だったら南朝に賭けてみようじゃないかって事でしょ
- 18 :
- 雄略としては百済に良いようにされてる現状は納得いかないよな
百済の力の源が帯方の漢人であるのは間違いないけど
それに対抗する手段が整わないうちに時間だけが過ぎていった気配がある
倭国は漢人にとってまだまだ魅力的な国ではなかったということが
60年後の仏教伝来に繋がったんじゃないかな
- 19 :
- 雄略って聞いて思いだすのは、万葉集の最初の歌。
女の子をナンパしている和歌。
ほのぼのしているけど、自信溢れているなあ〜って感じ。
これより古い和歌ってありますか?
- 20 :
- 雄略が狩りをしていると、アブが襲ってきてトンボが
助けた話って何を暗示しているのだろうか。
- 21 :
- >>19
記紀見れば、いくらでも載っておろう。
- 22 :
- >>21
おっしゃる通りでした。
すいません。
- 23 :
- 指定されてる古墳がちっこ過ぎて泣ける
- 24 :
- 仁徳天皇稜は実は雄略の墓という説もあるぞ。
故・黒岩重吾さんが唱えていた。
- 25 :
- 真陵は岡ミサンザイ古墳だろな。
大山古墳こそ倭王武=ワカタケル大王=雄略にふさわしいとか、
仲津山以降の290m超級の五大墓が「倭の五王墓」で、最後の土師ニサンザイが武=雄略陵だとか、
作家や学者は「雄略陵は河内丹比にあり」の伝承を無視して好き勝手なことを言っているが、
たぶんハズレだろう。
- 26 :
- 保守
- 27 :
- 保守
- 28 :
- 保守
- 29 :
- 保守
- 30 :
- >>25
岡ミサンザイだと丹比という表現は使わないんじゃなかろうか
- 31 :
- なるほど
- 32 :
- あの辺りは丹比郡じゃなくて、志紀郡だな。
- 33 :
- 餌香長野というと物部目大連が賜った場所ね
- 34 :
- 岡ミサンザイって地名が不気味だな。
- 35 :
- 倭王武こと倭武
姓は倭(わ)、名は武(ぶ)
- 36 :
- ゆうりゃくん☆
- 37 :
- 保守
- 38 :
- >>32
古代の郡境はきちっと確定してないんじゃない?
葛井寺の檀家には丹比郡の人も多かったらしいし、
「三代実録」にも河内国丹比郡の人として葛井氏の人物が複数出てくる。
近世では、北域の太田や小山・津堂あたりは「丹北郡」だったようだし、
だいだい「岡ミサンザイ」の「岡村」じたいが「丹南郡」に配されてる。
だから、岡ミサンザイが在丹比郡ではない、とは言い切れないよ。
- 39 :
- >葛井寺の檀家には丹比郡の人も多かったらしい
→近世以降の話をされてもな…
>「三代実録」にも河内国丹比郡の人として葛井氏の人物が複数出てくる
→隣接地域だから住んでいてもおかしくないしな…
>だいだい「岡ミサンザイ」の「岡村」じたいが「丹南郡」に配されてる
→近代の話をされてもな…
ホント、言い切れないものだな…
- 40 :
- 古代の天皇ではこの人がいっちゃん好きだな
- 41 :
- 年賀あげ
- 42 :
- 大仙古墳は仁徳稜ではなく雄略稜って説があったらしいが。
- 43 :
- 古代の共裁者
- 44 :
- 保守
- 45 :
- 一晩に7回した
- 46 :
- 天皇はもちろんだが
相手をする童女君もすごいね
- 47 :
-
- 48 :
- >>42
歴研(共産党系)の学者の説
- 49 :
- >大仙古墳は仁徳稜ではなく雄略稜って説があったらしいが。
どうだろうな
雄略自身は権力を集めてたみたいだが
大王家内部の後継者争い、連合してる豪族との抗争で権力基盤はかなり脆弱化
死後一気に中央権力は弱体化
後継者とされてる皇統も存在感が希薄(武烈の話などどう見ても作文)
再構築されたのは継体以降
死後あれほどの古墳を造る余力はあったかな?
- 50 :
- >>49
古墳は死後埋葬されるものだけど、死後につくるものとは限らない
- 51 :
- 寿陵ですね
- 52 :
- >>50
始皇帝も生前から墳墓つくっていたからな。
雄略も生前から作っていたと思う。
- 53 :
- 作ったから弱体化したのかな
- 54 :
- >>53
それもあるだろうが、やはり後継者の能力不足だろ。
- 55 :
- お飾りでは済まない程
ヤマトはまだまだ脆弱だったのかな
- 56 :
- >>55
当時は幼帝とか傀儡王は無理でしょ。そこそこの能力がなければ倭王は務まらない時代。
- 57 :
- 確かに当時の倭王は「軍事王」だと言われるな
- 58 :
- 雄略の頃には
後世まで続いてる豪族がでてきてるけど
そのあたりの協力があっても難しかったのだろうか
畿内での豪族間の綱引きか
畿内は問題なく吉備や東海、九州など他の地方との力関係なのか
- 59 :
- 雄略の死の直後に、吉備系王子がクーデターを起こして大蔵を占拠したが失敗している。
これには吉備の水軍も呼応しようとしたが、間に合わなかった。
- 60 :
- >>58
当時は国家を運営する官僚制度もしょぼかったろうし
大王にそこそこの個人的能力がないと国家の運営がキツカッタと推測。
- 61 :
- 雄略天皇の死後、吉備氏と星川皇子が反乱を起こしたがあっさり鎮圧されている。このとき、最も功があったのが大伴室屋。
こうした事からして、清寧天皇は無能でも指導力が無いわけでもない。豪族達の忠誠心もゆるぎないと思うのだが。
もちろん、雄略と比較して指導力が落ちるのは当然としても、雄略時代にすでに吉備氏の勢力はそがれていたし、
地方に対する優位は進んでいた。畿内政権は磐石になっていたのではないか?清寧以降、皇位継承はさらに不安定になったが
それに乗じた反乱は無かったのだから。
ただ、大伴や物部などの発言力が増して大王(天皇)を中心とした集団指導体制に近い形になったかもしれない。
スターリンの死後、トロイカ体制だったり田中角栄が倒れて以降、田中派(竹下派)が「金・竹・小」の集団指導型になったように、
強大な権力者の後は集団指導体制になりやすい。
- 62 :
- >>61
中央の豪族達は忠誠心で雄略死後の体制を支えたというよりも
そのほうが自分たちの利益になるから支えたということもあるのではないだろうか。
- 63 :
- >>62
確かに「忠誠心」は言い過ぎですね。清寧以降の大王をかつぐ理由を限定した表現になってしまいますものね。
「豪族達の支持が揺らぐことは無かった」程度の表現の方が適切でしょうね。
ご指摘ありがとうございました。
- 64 :
- 清寧、顕宗、仁賢、武烈は架空の大王だろうな。
実際にはワカタケル=雄略が死んだあと、実質的に空位状態になってたんだろう。
- 65 :
- >>64
> 実際にはワカタケル=雄略が死んだあと、実質的に空位状態になってたんだろう。
空位ってわけにはいかんから、誰かを大王に担いでいたとは思うんだが。
- 66 :
- 保守
- 67 :
- 雄略と聞いて思い出すのはに対して一晩で7回やったって記事だな。
まあ2回目以降はとは言えないが。
- 68 :
- >>67
ウラヤマシ〜〜ッ!!
- 69 :
- なんて面倒くさいだけだが
ウマヤラシー
- 70 :
- なんかこんな風な問答があったような(うろ覚え)。
あの女は一晩で孕んでしまったが本当にだったのか?
陛下、孕みやすい女は男の褌に触れただけでも孕むと申します。
で、陛下はその晩に何回おやりになったので?
7回だ。
それでは無理もございません。
これが「正史」だからね。
- 71 :
- 当時の医学知識からして笑うことはできん。
現代の理系の大学生ならニュートンが解けなかった問題を解くことが出来るが、だからといって
ニュートンより頭が良いわけでも偉大なわけでもない。
- 72 :
- 精力絶倫な割りに子供は少ないのな
- 73 :
- 雄略は明治天皇と同じく、ザ・グレートを冠するに相応しい天皇さんだと思う。
- 74 :
- 日本史上、重要な天皇であることはまちがいない。
日本と中国の史書、考古学資料がぴたりと一致する最初の天皇だからな。
- 75 :
- ワカタケル・ザ・グレート
- 76 :
- 河内バンザイあげ
- 77 :
- 幼武
- 78 :
- ええい脇本遺跡の発掘はまだか
- 79 :
- >>52
んだんだ
- 80 :
- 宮内省には閨中方と言う役職があり、皇族方のの補助をする。
閨中方の一人は妃殿下を抱え揚げ、もう一人は殿下を抱え揚げ、
太鼓の音に合わせて「どーん!」「ひとーつき!」
「どーん!」「ふたーつき!」と叫びながらを出し入れさせる。
さらに「朕はもういくぞよ!」と殿下が叫んだら、
「どんどんどんどん」と太鼓の乱れ打ちが始まり、イッたと同時に花火があがる。
- 81 :
- 色々有ったとしても雄略の時代は日本史の画期だな
・金石文などから漢字、暦が支配階級には使われたことが分かる
・後世の文献だが万葉集の巻頭の一首、日本霊異記の最初の説話など
- 82 :
- ヤマトタケルの話は、雄略の事績を遡らせて英雄譚に仕立てたものという説もある
- 83 :
- >>82
ヤマトタケルは前半と後半ではキャラクターが違いすぎる。
- 84 :
- 中の人が変わったんだよ
- 85 :
- >>82
ありえないと思う。ヤマトタケルは皇位を継げずに死んでしまっているんだし、
雄略は日本全国を駆け回って戦をしていたわけじゃない。せいぜい吉備や伊勢の反乱を潰したくらいだ。
ヤマトタケルは、当人そのものが実在したか、あるいは優秀な武人であったのもかかわらず、皇位を継げずに早死にして惜しまれた人物が
ヤマト王権の全国制覇の時代(4世紀頃)に実在しモデルとなったのだろう。
- 86 :
- 地方毎に派遣された皇子の武勇伝が合成された存在
その中には現在の血筋に繋がる方もいた
- 87 :
- 雄略って武だとしたら、なんたら将軍になった時に中国からなんか貰ったの?
印鑑や鏡なら墓掘ればでてくるの?
貰った奴を家来に配ったりとかして、稲荷山古墳みたいなとこからその一部とか発掘されたりしないの?
- 88 :
- 印鑑とか衣服・ベルト一式かな。
- 89 :
- 盗掘されてんじゃね
- 90 :
- 倭王武、とは何者だったのか・・・
- 91 :
- グレートな征服王
- 92 :
- 初代魔王
- 93 :
- 雄略朝で逢いましょう
- 94 :
- 婿殿か
- 95 :
- >>93
痛いギャクだが、不覚にもわろた
- 96 :
- >>93
座布団13枚^^
祟り? あるかもよ^^
- 97 :
- >>80
「嗚呼、射精寸前」男悶絶。「口内発射可?」
「不可」女曰。「貴殿射精場所即我膣内」
女舌技停止。萎縮物即硬直、聳立。先端、先走汁有。
「騎乗可?」女訊。男頷了解。
女、硬直物添手、潤滑繁茂地帯誘導。
「嗚呼」女悶。「我膣内、巨大硬直物挿入完了」
女下半身躍動開始。一、二、三・・・
「嗚呼」男短声。「謝罪」
女呆然、運動停止。「貴殿既射精!?」
「汝舌技巧妙故。御免」
「最低!! 三擦半男!!」女絶叫。「鍛錬不足!!
貴殿手術経験者!?」
「何故汝知其事実??」
男墓穴。
以後、男、時避妊具二重着用
- 98 :
- 倭王武
- 99 :
- 星川皇子は名前がかっこいい
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