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2011年10月1期日本史■豊臣秀頼は大野治長と淀殿の子供2■
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■豊臣秀頼は大野治長と淀殿の子供2■
- 1 :10/12/26 〜 最終レス :11/11/29
- 豊臣秀吉は、300数十人の女性と性的関係を持ったと
されている。
それなのに子供ができなかった。
これは医学上、秀吉は若いときの性感染症で生殖能力を失ったと思われる。
淀殿だけに2人も子供が生まれるなど常識的にありえない。
それに淀殿にとって、秀吉に大きな恨みがある。
秀吉に兄の万福丸を処刑され、母親の市の方を攻めした敵でもある。
淀殿は、浅井の血を天下人にする気はあっても仇の秀吉の子などを生み
天下を取らせる気はなかったのではないか?
徳川家康が淀方を攻め立てても、北政所や秀吉子飼いに
支持を失わなかったのも、当時から秀頼の出自が疑われてたから
ではないか?
- 2 :
- 前スレ
■豊臣秀頼は大野治長と淀殿の子供■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1232372244/
- 3 :
- まさに今年の大河にぴったりのスレ
大河ではここらの背景も掘り下げて描いてほしい。
- 4 :
- 子種があるなら
秀吉は1000人くらい子供がいてもおかしくない!!
- 5 :
- >>1は南殿との間に生まれた子の存在は否定するんだなw
- 6 :
- >>5
秀吉は南殿に騙されたんだよ
そして淀にも騙された
- 7 :
- 種無し
- 8 :
- >>3
龍馬伝となんの関係が?
- 9 :
- >>6
そうだね。
騙したんだろうね。
子種がない秀吉の子供をできたことにすれば
その側室は一気に天下が取れるから。
- 10 :
- だいたい、淀だけ短期間に2回も秀吉の子を妊娠したこと自体怪しい。
- 11 :
- てか秀吉に300人の妾がいるって言ってたのフロイス?あの人は色々勘違いが多いし、大阪城に住んでた女性はみんな秀吉の側室だと思ってたのかもよ?
秀吉だって50歳を過ぎれば子作りに情熱注ぐ事も減るだろうし、茶々はお気に入りだったのかもよ
- 12 :
- 秀吉の血液型は
残っていた血判状からO型であることが判明している
秀頼の遺髪や何かがあればDNA鑑定で一発なんだけどな
- 13 :
- そこまでは現代の科学でもむずかしいだろう。
血液型でいくかミトコンドリアでいくかぐらいしか
安定して何回も検査できない。
- 14 :
- 医学的には相性のいい特定の女性だけ
妊娠しやすいってのはありえるらしいけど
- 15 :
- 若い時しまくったのに子供ができず
年とって寝小便もらすようになってから同じ女性に二度子供ができるのは
天文学的確率だと思う。
常識的にはボケた秀吉が淀に騙されてたと考えるのが普通。
- 16 :
- 南殿が秀吉の子を産んだとしたら、その子供入れて20年で4人。記録には流産とかは含まれないから天文学的ってほどでもないし
まあ本当の事は母親にしか解らないさ〜
- 17 :
- 実子というのも可能性としては十分あり得るからなあ
- 18 :
- >>15
まあ秀吉が天下人になったこと自体が
- 19 :
- 淀の子供が秀吉の子供じゃないって落書きしただけで、かなりの人が死んだの知ってる?
- 20 :
- いまも死ぬの?
- 21 :
- 秀頼と家康が会談した後の落書きなら、悪意が有り過ぎて何ともかんとも
- 22 :
- 仮に茶々が大野や石田の子供を産んだり、秀吉血筋の関白秀次を謀したとしても
悪いことだと思わない。
なんせ秀吉は、父の浅井長政・柴田勝家・母の市・兄の万福丸をし
織田家を乗っ取り、茶々を手篭めにした大悪人・死ぬほど憎い相手だろうからね。
茶々からすれば「百姓の豊臣を乗っ取って何が悪い?」くらいの気持ちだろう。
- 23 :
- 父親も継父も戦で惨敗した孤児姉妹の嫁入り先としちゃ悪くない扱いだろ
感謝はしてないかもしれないけど、そこまで恨んでたかね?
- 24 :
- 秀頼が三成の子なら、関ヶ原の戦いで豊臣恩顧の大名達が家康に味方したのも当然と言えば当然。
若君は主君・秀吉の実子ではない、しかも若君の実父は大嫌いな三成
これじゃ、清正や正則たちも東軍に走る罠w
- 25 :
- 朝鮮にいた三成がどうやって大阪の茶々に種付けすんだ?
- 26 :
- 妄想瞬ワロス
- 27 :
- >>23
茶々が心底から秀吉を恨んでたのならば、そもそも側室にならないんジャマイカ?
- 28 :
- 今年の大河でその説を採用するのかどうか見ものだなw
- 29 :
- 当時の結婚に個人の意思なんかまず関係ないあるね。
- 30 :
- 男にとっては正室と側室は別
- 31 :
- 加賀殿とか病気を理由に側室を辞めてるしな
- 32 :
- 秀吉がホモだったら病気にならずに歴史は変わってたかな
つか、小一郎も種ナシみたいなもんだし、遺伝なのかもな
- 33 :
- 家康がして
生まれた子供が秀頼だって説もあるな。
誰がいいだしたのか知らんけれど。
- 34 :
- 何処の何て奴の説?
- 35 :
- >>31
利家が信長の愛人で娘の麻阿(加賀殿)が秀吉の愛人
父娘で時の権力者の愛人って凄いなw
- 36 :
- 尾張の弱小大名のどこが時の権力者?
- 37 :
- >>32
戦国武将は秀吉とキリシタン大名以外はみんなホモ(笑)
- 38 :
- >>36
最初は弱小大名でも天下統一まであと一歩って所までのし上がっただろ
- 39 :
- 利家=尾張の弱小大名の小姓
欄丸=時の権力者の小姓
違いわかりますかーーーー?
- 40 :
- 利家=時の権力者の「元」小姓
- 41 :
- それ言ったら加賀殿も「元」側室だ罠
- 42 :
- 駄目だこりゃw
- 43 :
- 加賀殿は正室・お松の方の子ではないという説もある。
- 44 :
- 言うだけならタダだからな
- 45 :
- 秀吉を種無しだと貶める>>1は朝鮮人
- 46 :
- 現代の医学からみたら100%他人の子。
問題なのは、その当時でさえ多くの人間が状況証拠から
「秀頼は秀吉の子ではない」と本音では思っていたということだ。
(秀吉の不徳になるから絶対に口には出さなかったが)
なぜ豊臣恩顧やねねが、家康を信頼したのかが
読み解けるだろう。
単なる三成憎しで、東軍につくほど豊臣恩顧は馬鹿ではない。
- 47 :
- >>46
100%の根拠をどうぞ
- 48 :
- 確かに、ねねや豊臣恩顧は怪しんでいただろうな。
もし、確実に秀頼が秀吉の実子なら、ねねはいくら淀と
仲が悪くても、秀頼に肩入れするだろうし、ねねが一言
発すると加藤、福島、前田は100%秀頼側につくだろうし、
黒田や伊達も徳川につかなかった可能性が大。
そうなると家康の天下統一はかなり難しくなった。
- 49 :
- 太閤が自分の子と認めて「秀頼を頼むたのむたのむタノムタノムタノムタノ…」と言い遺したにも関わらず簡単に分裂するようじゃ、ねねは自分が何か言っても一時凌ぎにしかならないと思ったんじゃ?
- 50 :
- あげは全部同じ子だから相手すんな
- 51 :
- 高台院は実際には東軍の武断派連中とは関係が薄くて
実際には西軍関係者(石田、大谷、小西、宇喜多、小早川含む木下一族)と親密だったという研究もあるんだが・・・
- 52 :
- >>46
証拠がないのに100%とかry
頭大丈夫?
- 53 :
- 秀頼のパパ?大野治長は関ヶ原では東軍なんだが。
- 54 :
- 淀殿の立場からすれば秀吉の子を生まなければ一介の側室だけど、
もし子供が生まれれば将来の天下人の母という絶大な存在になる。
だから、大野治長説は兎も角、他の男と寝た可能性はあると思う。
秀吉の子かそうじゃないかはどちらともいえない。
しかし、加藤や福島が家康についたのは秀頼の出自がどうこうの理由ではなく、
三成が嫌いだからでもなく、彼らは元々家康寄りだった。
家康が秀吉の遺訓を破って縁談を持ちかけたときホイホイと擦り寄っていった。
そりゃ、秀吉亡き後の一番の実力者は家康だから、良い関係を築きたいのは当然だろう。
- 55 :
- で簡単に天下人の母になれれば他の側室にも可能性はあったわけで
- 56 :
- バレたら確実に獄門だからリスク高すぎ
- 57 :
- そのリスクを買ってでもやる野心家が淀殿だろう。
家康の天下が確定した後も楯突くぐらいだから。
もっとも、大野治長説を肯定するわけじゃないが。
- 58 :
- 茶々は野心家ってほどの欲を持ってたようには思えないけどね。
政情の変化の局面を見抜けるような性格の女性では無かったのと
秀吉の確立した豊臣家の権勢の持続しか考えられず、
天下が徳川に回っていくことに気づかなかったというのは有るだろうけど。
>盾ついた ってほど、家康を上に見ていなかったと思う。
- 59 :
- 淀がどうのってか家康は戦略のプロ、相手が悪かっな
淀とねねは別に対立してなかったって最近じゃ言われてるし、花見で杯を争ったと言われた京極竜子は秀頼の子を預かったり遺体を引き取ったりしてるからそんな仲が悪かったわけでもなさそう
徳川の人質になるのを拒否した説と周りが止めたって説もあるし
ドラマほどキツい人じゃなかったかも
- 60 :
- 京極竜子の母親は浅井長政の妹だから、竜子は淀殿にとって父方の従姉妹に当たる人物だしw
どう見ても仲悪いわけないだろうと思う。
花見で杯を争ったなんて話は後世の創作に違いない。
- 61 :
- >>59
女性に関する逸話の多くは後世の興味本位からの創作が多い。
醍醐の花見の杯争いも、出典からみても自分は創作と思っている。
まるで芝居がかった逸話だしね。
だいたい、その元を書いた人間がその場にの居たのか?とw
桑田忠親先生の名言
「事実は物語より地味だったりする」
- 62 :
- というか、ねねと茶々の不仲説の根拠が分からない。
関が原の時の小早川秀秋に寝返りを促す書状に
「北の政所のために家康に味方しろ」とあるのが根拠とする人がいるが、
家康についくことがなぜ北の政所のためになるのか?
三成が勝ったらなぜ北の政所のためにならないのか??
このあたりの説明が十分でない。
- 63 :
- むしろ三成が勝ったほうが豊臣家の人間にとってはためになる筈
- 64 :
- 北の政所は三成の娘を養女にもらっているし
ふつうに仲良かったと思うんだが
- 65 :
- ここで淀とねねが仲良かったって工作してるいつものお馬鹿さんってなんなの?
仲がいいなら、豊臣が分裂して戦うかってのw
三成と親類関係とか関係ない、親戚ってだけで仲がいいとか
戦国時代でありえるかってのw
- 66 :
- 北政所が小早川秀秋に東軍に行くよう薦めたってのは、江戸時代になってから言われた事で
- 67 :
- >>51
ねねが西軍よりだという史料もない。
というか、関ヶ原合戦時にねねや茶々が政治活動をした記録がない。
大津籠城で死にかけた京極高次&初夫妻に対しては
ねねも茶々も降伏するように使者を送っているが、
彼女らが西軍派だったからというよりもただ単に
秀吉没後無法地帯となって戦ばかりする男たちを止めに入った側面が強い。
家康は関ヶ原後、「女子供は知らないこと」と言って
秀頼も茶々もねねも一切咎めなかった。
もしもねねや茶々がどちらかに入れ込んでいたのならば
処分があってしかるべき。
- 68 :
- >>65
豊臣が分裂して戦ったのは、ねねと茶々の仲違いのせいではない。
>>67
宇喜多秀家が関が原前に戦勝祈願を行ったときに北の政所は代理を送っている。
まぁ、これを持って西軍よりといえるかどうかはまだ弱い気がするが。
しかし、福島正則らと関係が深かったというのもあまり根拠がない話で、
一般に流布している東軍よりだったという説は大いに疑問だとは言える。
- 69 :
- >>68
>宇喜多秀家が関が原前に戦勝祈願
宇喜多秀家の関ヶ原前の豊国社参拝は内心
「関ヶ原戦勝祈願」であったかもしれないが、
北政所がそれを承知していたとは考え難い。
当時京に住んでいた北政所は豊国社へ月参りをかかさず、
もともと本人&代理が頻繁におとずれていたのであり、
北政所がこの時点で、関ヶ原合戦を知っており、
その上で宇喜多秀家に参同して、
西軍のために代理を送ったというのは無理があると思われます。
このとき東軍に味方していた福島正則・加藤清正は関ヶ原後も、
北政所と対面して高台寺建築の際には門を寄進するなどしており、
ねねとは親しくなかったというのも違う気がする。
つまり、ねねは関ヶ原で政治活動をしなかったがゆえに、
関ヶ原後も家康に咎められず(西軍は徹底的にたたいたにもかかわらず)
東軍に味方した大名たちからも寄進をうけるなどしたのだと思われる。
- 70 :
- 秀頼が、大野と淀の子供だと当時から言われてるのは
実際にこの2人に性的関係があったからだろ。
秀吉の生前はともかく、秀吉が死んでからは淀は尼にもならず
大野を囲って情夫にしてたのは事実だからな。
- 71 :
- 別に尼にならんでもいいだろw秀吉の正室側室で出家したのは3人くらいだし
- 72 :
- 秀吉の妻達で出家したのってねねの他には誰?
- 73 :
- 京極竜子は出家してたけど、他にいたっけ?
- 74 :
- >>70
茶々の母市だって夫と死に別れても尼になってないし
千姫も夫が死んでも尼になっていない
江戸時代になると儒教を流行らせたおかげで
二夫にまみえずとかで夫が死んだら尼が将軍家では主流になるが
この時代はそうでもない
ただ、晩年仏門に入るという人はいてねねも龍子もその類
ちなみにねねの出家は秀吉の没後すぐではなく、
秀吉の一周忌が終わり、関ヶ原合戦が終わり、
秀頼と千姫が結婚し、さらに養母が死んだあとのことで、
実に夫の秀吉が死んでから5年以上たってから。
ねねの出家が必ずしも夫秀吉の死=出家ってわけではないってこと。
- 75 :
- 江戸時代は出家というより落飾じゃないか?
ガチの出家は戦国以前に多かった気が
- 76 :
- >>75
戦国以前もガチの出家(頭を剃髪し、尼寺に入る)
ではない人が多いよ。
髪は尼削ぎでこころもち切るぐらい、
俗世にあって、出家後に政治を見ていた女性も多い。
- 77 :
- >>73
足利頼純の娘、嶋子とかは?単に実家に帰りたくなかっただったり?
- 78 :
- >>74
馬鹿ですか?
千姫や市の夫を滅びしたのは「実家」だろw
もし尼になったら実家に弓引く逆臣扱いされるでしょうがw
淀の場合は、天下人の後見人でありながら
尼にならないのは豊臣を愚弄し、大野と情事をするため。
ぜんぜん背景が背景が違う。
- 79 :
- ____
/ \
/ ⌒ ⌒ \ 何言ってんだこいつ
/ (●) (●) \
| 、" ゙)(__人__)" ) ___________
\ 。` ⌒゚:j´ ,/ j゙~~| | | |
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| | / , \n|| | | |
| | / / r. ( こ) | | |
| | | ⌒ ーnnn |\ (⊆ソ .|_|___________|
 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_
- 80 :
- 最初の夫も二度目の夫も二人ともイケメンだった。そんな千姫は勝ち組
個人的に彼女が悲劇のヒロインというイメージはあまりないな
- 81 :
- 千姫最大の悲劇は「吉田通れば二階から招く、しかも 鹿の子の振り袖で♪」とか謡われた事だな。えらい言われようw
- 82 :
- 政略結婚とはいえ、二度もイケメンと結婚したから僻まれたのだろw
- 83 :
- >>78
馬鹿ですか?
秀吉没後、三の丸殿や摩阿姫が出家せず再婚したのは
実家が秀吉と敵対したからですか?
大河ドラマでも取り上げられる江が
夫と離婚&死別しても出家しなかったのは
実家が夫の家と敵対したからですか?
何が何でも淀が大野との情事を公言して
周囲の出家説得に応じなかったことにしたいみたいだが
あまりにも馬鹿すぎる。
- 84 :
- >>78
>馬鹿ですか
2ちゃんであろうと、そういうモノ言いをすると
自分がお馬鹿であることを吹聴してるようなものだよ。
意見というより、単のよっぽど淀殿を嫌ってるんだな・・・
としか思えない叩きのようなレスだし。
まず知らないようだけど、
尼になっても家中に重きをなし施政に携わった女性も散見する。
しかし「尼になる」のは俗世を捨てて仏弟子として生きる事であり
そうなると立場上出てはいけない場面等々も出てくるんだよね。
>天下人の後見 という役目でそういう立場は不自由だろう。
家康側室の神尾一位殿・阿茶局は、家康死後も家康の指示で
出家得度を許されなかった。
尼になっていなかったからこそ、和子の入内に付き添えた。
尼になっていたら墨染の衣で宮中に入れないよ。
少し関係ない引き合いになってしまったけど、
茶々だって尼の身では秀頼の後見など出来ないんだから。
- 85 :
- >>83
おいおい、子供のいない若い側室などが再婚するのは
戦国時代は普通にあるだろ。
淀の場合は、ぜんぜん立場が違うだろw
名目上は唯一跡取りを生んで(まあ大野の子だろうが)唯一の後見人なんだぞ。
(つまり豊臣の女主)
女主のよどは再婚できるはずないし、尼になるのが当然だろw
嫌いなじじいから逃れて、自由に性行為したかったんだろ。
身軽な子のいない側室と豊臣後見人の淀を、同一視するなんてずいぶん必死だな。
- 86 :
- 尼に幻想抱きすぎw
尼になっても恋愛はしたい人はしてるんだけど
- 87 :
- >>85
お前は淀が尼にならない理由を問い詰めてたんだろ?
幼主のために再婚しない女は多くいたが、何も出家をする必要はない。
実際に夫が死んでも出家せず、政治を見ていた女性は多い。
で?
なんで夫が死んだら再婚しない女は出家しないとだめなの?
夫の没後もしたいから尼にならなかった馬鹿。
この時代は有効な避妊法もないのだし、
淀が秀吉死後大阪城でやりまくっていたならば間違いなく妊娠し、
秀頼の異父妹弟が大量にできる。
まあ、豊臣家のためには秀頼の異父弟が大量にいた方が良かっただろうが
残念ながら秀吉死後淀は子を産んでいない。
- 88 :
- お茶々は夫の死後に再婚しなかっただけでもエライ!
- 89 :
- >>85
そこまで淀がしたかったならば、
秀頼のことは高台院にでも任せてとっとと他の男と再婚してるよね。
嫡子の母であっても夫の死後再婚している女性はいる。
秀頼と一緒に大阪城に残った淀がそれほどしたがってたように見えない。
だって、再婚すればいいわけだし、
夫が秀頼を守ってくれるならば一石二鳥。
- 90 :
- 嫡男教育は普通は正室の役目なんだがな
- 91 :
- >>90
ねねも秀頼の教育には携わっていたでしょ
ただし側室が母の場合側室の元に置かれることは多い
前田家も利長が藩主の時はその実母である芳春院(まつ)が
江戸に人質に取られていた
しかし次代、利常のときには芳春院が嫡母に当たるにもかかわらず
加賀へ帰され代わりに
利常の実母で前田利家の側室であった千代保が人質にとられた
側室の子である当主が嫡母である父の正室ではなく
実母である父の側室のほうに大きな影響を受けたことの表れ
室町幕府でも江戸幕府でも将軍生母は側室であっても
その将軍に対して正室以上に大きな影響力を行使した
- 92 :
- 江戸時代の大奥の制度のあり方の断片しか理解していない輩が、
妻妾のあり方は時代によっても異なる部分もあるものだってことを知らず
「側室はすべて使用人」「側室には全く権限が無い」とか、
偉そうに言っちゃうんだよね。
ただやはり江戸幕府の将軍生母という位置で大奥に残った側室でも、
桂昌院や月光院のように派手な存在で表向きと関わった女性もいるけど
幕末になっての本寿院なんてt天璋院や和宮に隠れて影は薄いし、
位ももらってなかった・・・のは激動の時代のせいか?
実成院は将軍側室ではなく紀州大納言側室なのだから仕方もないけど。
- 93 :
- >>80-82
本多忠刻はともかく、秀頼は醜男サル秀吉の子なのに美男子なのは何故?
そこから>>1のような説を言い出す輩が続出するんだろうな。
- 94 :
- >>88
母は父と弟を見捨てて柴田と三昧だがな
- 95 :
- >>94
市だって浅井長政が死んでから10年間は未亡人として
貞操を守っただろうが。
自分を庇護してくれた兄の信長が亡くなって
信長配下の武将の2大勢力であった秀吉か勝家かどちらかに嫁ぐしかなく、
やむにやまれず勝家を選んだだけのことだろうよ。
秀吉には正室がいたが勝家は若いころに正室と死別しており
勝家ならば正室として嫁げるということもあっただろうが。
普通は女は男ほど性欲は強くないよ。
この時代にも生涯を貫かされる坊主なんかが大勢いたのに
なんでそんなに女がやりたがってることにしたいんだ。
- 96 :
- >>93
豊臣秀頼は巨漢で美男子だったが、淀の父浅井長政の血筋だよ。
秀頼とその祖父浅井長政の肖像画は似ている。
京極高次も巨漢で色白だし、
高次の母は浅井長政の姉だから、浅井家の特徴なんだろう。
ちなみに、高次の姉で秀吉から淀に次ぐ寵愛を受けた龍子も、
色白豊満で大変な美女だったらしい。
- 97 :
- 森三中みたいなのが当時の美人
- 98 :
- 黒沢はやせたら、美人になると思うが、
あとの二人は問題外だろ。
- 99 :
- 大柄の秀頼が小柄な秀吉の子としておかしいのなら、
長身お市と大柄長政の間に生まれた小柄で華奢なお江もおかしい
でもお江が不義の子とは誰も言わないよね〜不思議〜
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