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2011年10月1期日本史聖徳太子って
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聖徳太子って
- 1 :11/01/10 〜 最終レス :11/11/29
- なんで自したの?
- 2 :
- 夫婦一緒にあの世行き
- 3 :
- 自したのは山背大兄王だよ〜ん
聖徳太子は自してないよ。
- 4 :
- 日本書紀では、死因の記述なし
釈迦三尊光背銘では病気っぽい
聖徳太子伝歴では、自っぽい
結論…聖徳太子の死因は不明
- 5 :
- 聖徳太子は飛鳥を離れて
晩年は一族連れて斑鳩宮にいた
最後は政治から干されてたって説があったよね
- 6 :
- ていうか 聖徳太子って実在でないだろ それ定説
- 7 :
- 斑鳩宮と法隆寺はあの当時なら巨大な軍事施設。
下手すりゃ軍事力のつよい二重政権で、あなどれないことになるぜ。
- 8 :
- >7
何を言ってるんだか・・・
法隆寺には土塁もなければ堀も垣もない。
当時も軍事施設には堀を巡らせ土塁を築き、
楼閣を置いて敵を見張ってたもんだ。
しかし法隆寺はただ大規模な金堂や塔が建っているだけ。
あれがどうやったら軍事施設になるんだ。
山背王がこもったら斑鳩宮は多少なりとも軍事設備があったのだろうが
これもあっさりと負けて山背王は自刃してる
- 9 :
- 膳大郎女と一日違いで亡くなってるのは
流行り病ではないかと
間人皇后も二ヶ月前に亡くなったばかりだし
天然痘とかそういう疫病ってこともありうるよ
- 10 :
- 「聖徳太子伝歴」では厩戸と妃は同日に死亡になっているね。
同衾していた厩戸と妃が朝起きてこないので見に行くと
二人とも寝室で一緒に死んでいた。
これを読むと自っぽくもある・・・
- 11 :
- >>6
厩皇子(聖徳太子)の功績が作り話というのと聖徳太子はいなかったじゃえらい違いだぞ
- 12 :
- 実は蘇我蝦夷
- 13 :
- 現存する史実は当時の権力に都合良く書かれて残された物です
聖徳太子は藤原氏による架空人物モデルは藤原〇〇
- 14 :
- 架空の人物説が近年目立って来てるね。
- 15 :
- >8
兵を収容できて
武器や食料を保管してある倉があったら
軍事施設とはいえないかぁ?
- 16 :
- >>13
自分も聖徳太子の業績そのものや皇太子であったことには否定的だが
しかしながら法隆寺、四天王寺という飛鳥時代きっての大寺院を建てた
皇室一の仏教マニア厩戸皇子という人物がいたことは事実だと思っている。
- 17 :
- >>15
斑鳩宮には多少なりとも施設があったかもしれんが、
法隆寺は軍事施設ではない。
堀や塀もなく、法隆寺に武器や食糧が保管してあった形跡も、
兵を収容した話も伝わらない。
とにかく、山背王、あっさり負けすぎ。
蘇我氏の力が強大だったせいかもしれんが、
聖徳太子一族は大したことがなかったんだろう。
- 18 :
- よく銅像とか残ってるけど、実際は誰?
- 19 :
- >>18
後の時代に聖徳太子信仰などができて作られたものだろ。
ちなみに飛鳥時代に作られたものは一つもないよ。
- 20 :
- 10人の話を同時に聞いたって
ようは話を聞いてなかったって事だよね
- 21 :
- >>13
聖徳大使という人物でっちあげることで、藤原氏に何のメリットがあるんだろう?
- 22 :
- >>21
中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我氏という悪い奴をやっつけたというために
蘇我馬子の功績を聖徳太子という人物に置き換える必要があったんだろ。
大使ってなんだよ
- 23 :
- それなら、蘇我と深いかかわりのある聖徳太子なんて捏造せずに、
蘇我と血縁がなくて天智の祖父の押坂彦人大兄皇子の功績にすればいいのに。
- 24 :
- >>23
蘇我の最大の悪事が厩戸の遺児山背王をしたこと
にしたいからだろ。
それに押坂彦人大兄皇子は推古天皇即位時に
おそらく死亡していた。
押坂彦人大兄皇子が生きていたのに推古が即位したとなれば、
それはそれで「なぜ?」ということになる。
- 25 :
- 聖徳太子架空説は、論拠がめちゃくちゃ
ただの目立ちたがり屋が考えた盲説、無視すればいい
- 26 :
- 逆に聖徳太子の功績が正しかったとする方が無理が多い
推古天皇が甥の厩戸に政治を丸投げしたいのならば
なぜ天皇になるのをやめて厩戸を天皇にしなかったのか?という疑問が起こる
そうなぜ聖徳太子は即位できなかったのかということだね
聖徳太子が天皇代行ですべて自分で政治をしていたのならば
聖徳太子の死亡によって政治が混乱すべきだがそれは全くない
また、すぐに聖徳太子の代役を置くべきだがそれも置いていない
これは推古天皇が自分で政治をとっていたためだとしか考えられない
- 27 :
- 蘇我馬子(うまこ) 小野妹子(いもこ)
| |
蘇我蝦夷(えみし) 小野毛人(えみし)
| |
蘇我入鹿(いるか) 小野毛野(けぬ)
http://n.ashitane.net/%E8%98%87%E6%88%91%E9%A6%AC%E5%AD%90/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%A6%B9%E5%AD%90
ふむ。
- 28 :
- 小野妹子
『日本書紀』によると大唐に派遣され、「蘇因高」 と呼ばれた。
『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。
- 29 :
- 小野氏は古代から続く有力豪族、和邇氏の支流
- 30 :
- 小野妹子って近江の出身なんだね
一方蘇我は飛鳥の出身だ
- 31 :
- >>30
蘇我は新興豪族ということになってますね?
- 32 :
- 蘇我氏は帰化人系という説もあるね。
- 33 :
- 蘇我氏が5世紀に滅んだ大豪族葛城氏の旧領をもらっていること、
葛城氏と同様に天皇家最大の姻戚として勢力を伸ばしていくことなどから
蘇我氏は稲目の登場以前に消滅した葛城氏の一派だという説がある
- 34 :
- 歴代天皇陛下が即位の後に、黄櫨染の御袍を太秦の広隆寺の聖徳太子に奉納する事になっています。
今上の御世になって、今回脱税で挙げられた相国寺有馬頼底管長が暗躍して、その風習も途絶えかけました。有馬管長は京都仏教会会長
としてただ意地悪をした。
太秦の後継ぎに娘がなるって時に京都仏教会会長の有馬に挨拶がなかったのを逆恨みして衣の下賜を妨害した。
それを知った東伏見倪下が皇居へ乗り込んで
黄櫨染の御袍を広隆寺の聖徳太子に奉納されるように陛下に申し上げた。
- 35 :
- >>33
「葛城」の地は元々蘇我のものだったから、返してほしい
と馬子が言っていただけでは?
「継体天皇」の登場が6世紀始め。
その頃「葛城氏」が「消滅」したという。(消滅ってなんだろ。没落?)
神話では、葛城は「神武天皇」が居を構えた所ではなかったか・・・
それ以前には「ニギハヤヒ」がいた。
- 36 :
- >>35
いや、もともと蘇我氏の所領だったところを
葛城氏にとられていたので返してくれと言ったのではなく、
葛城氏の旧領が円大臣が滅んだ後天皇家に収納されたために
蘇我馬子が推古天皇に返してくれと言ったんだよ。
ちなみに記紀に葛城氏が消滅したという記述はない。
雄略天皇の時に葛城円大臣が滅ぼされた記事は有るが、
あれほどの大豪族であれば当然支流はいたはずで、
物部氏が物部守屋が滅ぼされた後石上氏と名前を変え、
蘇我氏が蘇我蝦夷&入鹿親子が滅ぼされた後
石川氏と名前を変えて生き延びたように
葛城氏の支流がいてもおかしくない。
- 37 :
- 馬子だの妹子だの、みょーちきりんな名前ですが、
魏志倭人伝にもそんな名前、あります。
伊都国の副官、「泄謨觚(せもこ?)」「柄渠觚(へぎょこ??)」。
稲目、っぽい名前もまた魏志倭人伝に登場します
「難升米(なしめ)」、邪馬台国の使者です。
要は
邪馬台国の時代から外交を担っていた一族が
のちに和邇氏となり、小野氏・蘇我氏となっていった。
そしてまた、聖徳太子を生みだす。
- 38 :
- 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
これを隋に突きつけた政治家・小野妹子の一派を排除し
悪徳政治家蘇我氏と、聖人君子聖徳太子をでっち上げた
藤原氏って、なんだ。
- 39 :
- >>23
厩皇子は蘇我政権の一員だったけど、
押坂彦人大兄皇子は違ったからでしょ。
まるっきり関わってない人の功績にするよりも
ある程度関わった人の比重を大きくする方が、よりやりやすい。
実際そうだったかはよく分からないけど、可能性の一つではある。
一つの画期だったわけだけど、その功績を「聖徳太子」として、
一手に引き受ける構造になってる。
蘇我一族だって、悪政布いていたわけではないのにね。
- 40 :
- >>39
なにこの蘇我さんちのご近所さんみたいな物言い
- 41 :
- 日本書紀が「編集」されたのは、壬申の乱よりも後。
その頃ならば皇族一人でっち上げるくらい余裕でやるでしょう。
- 42 :
- 中臣鎌足(鎌子)って、蘇我稲目と仏教めぐってケンカしてる(552年〜)
なのに、乙巳の変では稲目のひ孫を暗してる(645年)
なんぞいな、これ
- 43 :
- >>41
蘇我氏の本当の意味での没落、赤兄流刑か
- 44 :
- >>39
それだと、厩皇子の功績が多大に描かれただけで
聖徳太子の存在が捏造されたわけではないよね。
- 45 :
- 書紀が「聖徳太子」っていう架空の人物を創造したって大山誠一は主張するが、肝心の書紀は厩戸を皇太子とは記しても「聖徳太子」とは記してない。
こんな基本的なことを無視してやれ虚構だ、不比等による捏造なんていわれてもねぇ
厩戸を「聖徳太子」として崇めはじめたのは、法隆寺をはじめとする仏僧達でしょ
まず、太子信仰が発生し、その一部を書紀編纂時に取り入れただけの話じゃないの?
書紀編纂と共に「聖徳太子」が創造され太子信仰が発生したとするには、時期的に遅すぎるし、
尚且つ国家権力によって、何も無い所から現代にも続く太子信仰が創られたとするのは、信仰する側の人々の気持ちを完全に無視した暴論だよね
不比等など古代の権力者が好き勝手に、なんでも捏造したり抹したり出来ると過大評価する奴多過ぎ
なんか、近代の独裁者のイメージを勝手に投影してんじゃないかと疑いたくなる
- 46 :
- ?????
信仰の対象とかじゃなくて政治家でしょう?
- 47 :
- 聖徳太子は日本仏教の父として崇められてるよ
そもそも「聖徳」の号は、「上宮聖徳法王帝説」や法起寺塔路盤銘等からわかるように、寺院関係由来とみるのが妥当
国家として厩戸に対し正式に聖徳という諡号をおくったのなら、正史たる書紀に聖徳と記されなければおかしい
大山の問題点として、このての寺院関係の資料を法隆寺資料として一括し、全て史料的価値なしと乱暴に切って捨てたこと
聖徳太子の眉唾な超人エピソードは、役小角や空海、安倍晴明なんかにある眉唾エピソードと同種のものでしょ
いまどき、そんなのを全て鵜呑みにするような人は、研究者はもとより一般人でもそうそういないよ
それをまるで鬼の首でも取ったかのように、架空だと主張する大山はどうしようもないね
- 48 :
- 太子てイケメンぶさめん、とめキモおた? いろんな像あるょネ
- 49 :
- >>45
聖徳太子信仰が飛鳥時代からあってそれが記紀にとりいれられたというのは誤り。
聖徳太子信仰は平安時代の終わりごろだから。
「上宮聖徳法王帝説」は法隆寺関係者によって仏教を広める際に
始祖厩戸皇子を美化して創作(一部は史実だよ)されたことは認めるが、
それは空海や連如といった宗教家が超人的な伝説を持つ同じことで、
それを政治権力にまで結び付かせたのは記紀の創作だろう。
ちなみに聖徳太子信仰についてだが。
それまで貴族の子弟の学問書として使われていた日本書紀の内容が、
平安時代末期に口伝で一般庶民にまで広まり、よくわからんが、昔聖徳太子という
偉い人がいたから、これを拝むといいという信仰が始まり、
各地で聖徳太子像が作られて寺に奉納され、庶民に信仰された。
つまり、聖徳生前から聖徳があがめられたという事実はなく、
記紀編纂時には庶民の間に聖徳太子信仰はないよ。
- 50 :
- >肝心の書紀は厩戸を皇太子とは記しても「聖徳太子」とは記してない。
「皇太子」ではなく「太子」ですね。というか、大山は記紀の記載が聖徳太子であるなどとは
言ってないと思いますが。
>このての寺院関係の資料を法隆寺資料として一括し、全て史料的価値なしと乱暴に切って捨てたこと
大山は法隆寺系の史料を読み込んだ上で「「聖徳太子」というのは「厩戸皇子」という実在の人物に対する諡」
「「聖徳太子」という存在が聖人化され、超人化され一人歩きしてしまった」と言ってます。
また、聖徳太子捏造説は津田の学説など以前から存在しており、大山が唐突に言い出したことでは
ありません。
- 51 :
- >>49
太子信仰とは書いたが、この時期に庶民レベルまで浸透した段階を想定して
使ったつもりはない。
ただ、書紀編纂時には既に、太子縁の寺院で聖徳呼ばれ尊崇されていたと主張
したかっただけ。
これだけで、大山説の前提が崩れるから。
>>50
推古紀に「皇太子及び大臣に詔して」等、皇太子と記されている。
書紀本文に記載されてもないのに、何でわざわざ聖徳太子と厩戸とを
分けて片方を架空の人物とかまぎらわし事いうかな?
おかげで、厩戸そのものが架空だと勘違いする奴出てくる。
まあ、俺も最初は厩戸の存在を架空だと論じてるんだと期待
して読んだんだが、書かれてることは先人達の史料批判の焼き直し
で、何を今更とがっかりした。
おまけに、聖徳太子を創造した犯人捜しや動機捜しがメインになってる
から期待はずれもはなはだしい。
大山の法隆寺関係資料の扱いについての批判は、講談社の日本史概説書を
はじめ、いろんな人が批判してるからもういいかな。
なんか面倒になった。
- 52 :
- 小野妹子
『日本書紀』によると大唐に派遣され、「蘇因高」 と呼ばれた。
『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。
蘇我馬子(うまこ) 小野妹子(いもこ)
| |
蘇我蝦夷(えみし) 小野毛人(えみし)
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蘇我入鹿(いるか) 小野毛野(けぬ)
http://n.ashitane.net/%E8%98%87%E6%88%91%E9%A6%AC%E5%AD%90/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%A6%B9%E5%AD%90
- 53 :
- >>51
聖徳太子は存在しなかった=厩戸皇子は存在しなかった
と取るのはタイトルを見た人の単なる取り方の違いに過ぎないように思うが。
法隆寺と四天王寺を建てた仏教崇拝皇族厩戸の実在まで疑う人はいないからね。
「厩戸は皇太子ではなかった」
「推古天皇という女帝の治世下で、甥の厩戸という皇族がそこまで政治に関与してなかった」
が主題だろう。
>何も無い所から現代にも続く太子信仰が創られた
現代まで続く太子信仰は平安時代末期から。
飛鳥時代の厩戸信仰はせいぜい法隆寺と四天王寺の僧侶たちによるものぐらいだろう。
空海や最澄が政治家ではなかったように宗教上の崇拝者だからだと言って
厩戸を政治権力にまで結びつけたのは記紀の創作だろう。
- 54 :
- 南無観世音菩薩
- 55 :
- 大山説は720年書記成立=「聖徳太子」捏造としているが、
書記以前に成立した、風土記に美称されており、すでに、破綻済み。
他は津田説ないしは上山春平・梅原猛の不比等論パクってるだけ。
- 56 :
- 「播磨国風土記」に「聖徳王」という記述があるというだけでしょ。
それならばこれに先行する「上宮聖徳法王帝説」に「聖徳皇」の表記はすでにあるし、
日本仏教の父としての「聖徳」という尊号自体は仏教関係者の間で
記紀より以前から使われていたということでしょ。
- 57 :
- まあ、そうだね。
大山は「上宮聖徳法王帝説」の成立を書記以降にしているから
風土記の「聖徳王」の意味は小さくない。
まさか大山、風土記の成立も書記以降にしちゃう?ww
そろそろ、聖徳太子虚構論なる珍説は終わりにしたい。
- 58 :
- >>53
そろそろ聖徳太子は渡来系と認めようze
- 59 :
- >>57
風土記の編纂が命じられたのは和銅6年(713年)。
一方、日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇だと言われ、風土記の編纂命令時期よりも古い。
しかも、日本書記は推古朝成立の「天皇記」「国記」からの引用もあると考えられており、
そう考えればかなり古い時代の記録であることは間違いがない。
養老4年(720年)は日本書記が完成し元正天皇に献上された年号。
この年に編纂開始されたわけではないので。
日本書記編纂開始時期自体は風土記の編纂開始より早くて問題がない。
- 60 :
- 仮に、蘇我氏の功績を奪い去るために、
厩戸皇子を聖徳太子に創り上げたのが事実だとしても、(仮にね)
一番、そうしたかったのは、乙巳の変直後だろうし。
風土記にしても、日本書紀にしても編纂開始はビッグイヤーではないでしょう。
- 61 :
- >>59
となると、風土記の「聖徳王」は日本書紀に依拠したってか?
まあ、大山があくまで太子虚構論を言い張るならそう言うしかないね。
あと、古事記の「上宮の厩戸豊聡耳命」はどうするんだろ?
書記以前に、厩で生まれた?十人同時に聞いた?話が反映され、
「命」と天皇即位していない人物に使用されている件
- 62 :
- >>61
「命」という尊号については天皇になっていないヤマトタケルに関しても
古事記は「倭建命」と言っており、天皇でない皇族の尊号として適当だろう。
厩戸もキリストをイメージさせたのは後世のつけたしで、
当時の名前として素朴であって実名であっておかしくない。
豊聡耳、まあ、法隆寺の仏教関係者は創始者の厩戸をあがめてそう言ったかもしれない。
古事記は編纂年度が序文にしか記されず、
どうしても日本書紀よりも重視されない感は否めない。
平安時代にも日本書紀は貴族の子弟たちの教科書に用いられるほどだったが
古事記はほとんど読まれていなかった。
- 63 :
- >>60
記紀が編纂されたタイミングは乙巳の変ではなく
壬申の乱の後ですね。
天武天皇が天智天皇の弟だと信じる人は、現代ではいないでしょう。
「壬申の乱」とはクーデターです。
ならば、記紀編纂の目的は明らかです。
権威の簒奪、です。
元来の権力者の歴史は、「天武」に都合よく隠されたことでしょう。
- 64 :
- えっ? ぼくは天武は天智の弟だと思ってますよ。
壬申の乱て672年でしょ? 古事記編纂が712年。
来年は2012年ですけど、これに当てはめると壬申の乱は1972年ですよ。
1972年当時の他人同士(しかも国のトップ)が、
2012年には「兄弟になってた」なんてちょっと考えられません。
なにも天智・天武二人だけではなく、その子女たちや親族、貴族や役人、学者や僧侶など、
大勢の人たちが同時代を生きていたのですから。
- 65 :
- マスゴミの捏造によって、「兄弟になった」んですよ、ぼくちん。
- 66 :
- >>63
また2ちゃんねるでときどき見かける奇特な人が現れたな
- 67 :
- 712年。平城京遷都の2年後ですね。
平城京とは何か。ここにもまた、疑問符が付きます。
一般に遷都の理由として考えられるのは、旧来の権力勢力と決別するため。
しかし、古事記・日本書紀で書かれているのは、その旧来の勢力のことのはずです。
- 68 :
- >>66
あら?アンカーは>>65宛てでしょう、ゴミさん。
- 69 :
- >>65
マスゴミの捏造によって、
麻生太郎と鳩山由紀夫が兄弟になったり、
ムバラクとエルバラダイが兄弟になったり、
カダフィとアブドルジャリルが兄弟になったりしたなら、
ぼくちん、君の意見に耳を傾けてやっても良い。
- 70 :
- >>68
天智と天武は兄弟ではないという
大昔の2ちゃんねる専用ネタをぶり返している
君あてだよ、奇特なゴミさん。
- 71 :
- >>69
中川昭一がどうやって自に追い込まれたと思う??
- 72 :
- >>71
マスゴミの捏造によって、親子でもないのに中川一郎と親子にされたから?
- 73 :
- >>72
のうたりんのゴミは黙っててね(^^
- 74 :
- 記紀が編纂されたタイミングは乙巳の変ではなく
壬申の乱の後ですね。
天武天皇が天智天皇の弟だと信じる人は、現代ではいないでしょう。
「壬申の乱」とはクーデターです。
ならば、記紀編纂の目的は明らかです。
権威の簒奪、です。
元来の権力者の歴史は、「天武」に都合よく隠されたことでしょう。
古事記編纂が712年。。平城京遷都の2年後ですね。
平城京とは何か。ここにもまた、疑問符が付きます。
一般に遷都の理由として考えられるのは、旧来の権力勢力と決別するため。
しかし、古事記・日本書紀で書かれているのは、その旧来の勢力のことのはずです。
- 75 :
- 新しい権力(簒奪)者=天武
旧来の権力者(の代表的人物)=天智
古事記完成(712)、国史撰定詔(714)時の天皇=天智の娘(元明)
- 76 :
- そう、結局、皇統まですげかえる事はできなかった。
天皇家はそういう存在だった。
- 77 :
- >>73
黙ってて欲しいなら答書いてよ。
- 78 :
- >>77 スレチのーたりんゴミうざ(^^
- 79 :
- >>78
てめーが訊いてきたんじゃねえのか? どう思う、って。
別人なら御免。
- 80 :
- 天武も天智も悪く書かれてないじゃん…
一体何を簒奪したというの?
- 81 :
- 小野妹子
『日本書紀』によると大唐に派遣され、「蘇因高」 と呼ばれた。
『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。
蘇我馬子(うまこ) 小野妹子(いもこ)
| |
蘇我蝦夷(えみし) 小野毛人(えみし)
| |
蘇我入鹿(いるか) 小野毛野(けぬ)
http://n.ashitane.net/%E8%98%87%E6%88%91%E9%A6%AC%E5%AD%90/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%A6%B9%E5%AD%90
- 82 :
- 聖徳太子が大工さんの神様になったのはいつ頃ですか?
- 83 :
- お金の神さんにも!
- 84 :
- >82
「大工」さんの呼び名自体は、律令以降でしょうが
渡来系の方々なので、神格化はしなかった
「大工」さんが集団化したのは、平安のころ
鎌倉期は、聖徳崇拝の僧侶が多く出たから
その寺を建築する「大工」さんにも影響があったんじゃないかな。
庶民化するのは、やっぱり室町期でしょうね・・・。
- 85 :
- 聖徳太子は複数人物のペンネームみたいなものじゃないの
実績あれど架空人物
- 86 :
- 俺は、蘇我氏の支配していた時代、天皇制は廃止されていたと考えている。
藤原氏があとで復活し、蘇我氏の功績を無理やり天皇家がやったことにする
ために聖徳太子という架空の人物を立てざるを得なかったと解釈している。
つまり聖徳太子の記述=蘇我王朝の功績の歴史と見る。
- 87 :
- 蘇我氏騎馬民族説ってないのかな?
江上氏の騎馬系の本を読んでると、
どうも蘇我氏のことが浮かんでくるんだが・・・
- 88 :
- 騎馬民族仮説自体が過去のものでしょ。
- 89 :
- 古代半島王朝系首長連合(厩戸への系譜)と
新半島系氏族(蘇我氏)との
権力闘争と思ふ。
@朝鮮半島にて農耕的に変質した騎馬系半島文化が
渡来人と共に当時のヤマト地方を中心に各地の首長を統一した。
A各首長が独自に半島文化との交流を持つことにより
半島側の情勢もからんでヤマトの求心力弱まる。
B蘇我氏による変質した騎馬的戦略
(婚姻による大王家の懐柔・暗など)により
主要種族・大王家など旧ヤマトの主要勢力排除される。
C弱体化した大王家の中、厩戸による仏教的理念表明される。
同時に、旧半島盟主としての大王家の再興をはかる。
D厩戸による仏教的理念は蘇我の戦略に敗れ、蘇我氏専横に向かう。
以上、ヤマト近辺の流れはこんなとこじゃないだろうか・・・。
馬の代わりに船に乗る騎馬系民族達という解釈ソ。
無理があるかな・・・?
- 90 :
- 無理が有りすぎてコメントのしようが無い。
- 91 :
- 蘇因高
「そいんこ」って発音をちょっと崩すと「すいこ」になるよな。
- 92 :
- 小野妹子(オノノイモコ)の読みを中国風であらわそうとして
蘇因高(ソインコ)になった(中国人は姓が一文字なので姓の音が脱落)
という説があるよね
- 93 :
- 夏侯とか諸葛とか司馬とかも同時代なんだが。
- 94 :
- 妹子=蘇因高=馬子
わかみたふり=田村
たりしひこ=太子
で、いいんでしたっけ?
- 95 :
- トンデモ
- 96 :
- トンデモか
- 97 :
- 新右翼「俺はパRが好きだ!!大好きだ!!あれは俺が女の子はもしっこもしないと信じてた頃、好きな女の子に《俺は君の瞳にパRだ!》と告白した。
返事は強烈なビンタだった…未だに理由が分からない。何で俺は殴られたんだ??」
- 98 :
- 騎馬民族というと漠然としてるけど
蘇我氏はおそらく、満州族・女真族に近い系統
「空白の4世紀」に権力を握り、大阪に都を築いたのもその一派
継体天皇即位時に王位を退いたが
聖徳太子の時代には「摂政」の立場で実権を握っていた
- 99 :
- 斉明天皇3年にトカラ国(アフガンあたり?)からソグド人(ペルシャ人一派)と思われる
人達が九州に流れ着いたと日本書紀に出てきます。朝廷は早馬を使わせて
宮廷に送り届けたそうで、いっしょに盂蘭盆(うらぼん)の儀式をして先祖霊をなぐさめたそうです。
この盂蘭盆の儀式は推古朝に初めて行われたと書かれています。
盂蘭盆はソグド人のゾロアスター教の儀式のウラバンが基になっていて日本の迎え盆の
ように火を灯して先祖の霊を迎えたそうです。
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