2011年10月1期日本史【守護奉行人】守護について語るスレ【守護職】 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼

【守護奉行人】守護について語るスレ【守護職】


1 :11/01/24 〜 最終レス :11/10/01
鎌倉期・南北朝期・室町期の守護について語りましょう
主なトピック
・守護に補任された家や個人
・家宰・守護代を始めとする内衆と家政・国政の体制
・各守護に従属した国人衆や一揆衆
・京都や鎌倉などへの出仕
・鎌倉幕府・建武政権・室町幕府などにおける制度論的位置
・大犯三箇条から守護請などに至る特権の発展
・守護大名(守護領国制)から戦国大名(大名領国制)への移行
・近世に生き残った守護大名家
関連トピック
・鎌倉殿御使としての初期の性格や惣追捕使などの前身
・○○探題・○○管領・○○国大将などの類似の職
・大和国の守護である興福寺
・守護使不入の特権を持つ寺社
・守護に准ずる京都御扶持衆
・奉公衆 ←これは別にスレ立てすべきか?

2 :
2get

3 :
守護請って年貢をちゃんと荘園領主に
送っててのかな。
送っていたとしたらいつごろまで?

4 :
しゅごキャラ本スレ

5 :
それはしゅごい

6 :
日曜かどこかでやってたアニメか

7 :
とがしとがし加賀の主

8 :
駄菓子菓子チラ裏の元主

9 :
守護月天

10 :
とがし とがし 加賀の主

11 :
守護天使について語りたいんですけどいいですか?

12 :
守護天使のブラ

13 :
鎌倉時代の飛騨国の守護は誰?

14 :
不明

15 :
石井進や網野善彦が飛騨の守護は北条氏だろうと言っていた

16 :
守護、英語で言えばガーディアン

17 :
ガーディアンエンジェルについてどうぞ。

18 :
山岡景友(山城半国守護)
義昭に取り立てられて守護に!
山岡氏が最後の守護大名かな?

19 :
守護大名が江戸時代の大名として存続した数少ない例の一つだねw <山岡氏

20 :
江戸時代の六位蔵人細川家って守護細川家と関連有るの?

21 :
六位藏人細川家を知っているなら
それが和泉上守護家の末裔だとわかりそうなものだが…
和泉上守護家の元常の養子には藤孝が入り
その嫡男忠興は奧州家の輝經の養子に入ったので
肥後熊本の細川家は奧州家の家督であり
その弟興元の系統である常陸谷田部の細川家が和泉上守護の家督であると考えられているが
和泉上守護家の実系は朝廷に非藏人として仕え
六位藏人となりうる家として維新まで存続
非藏人は諸大夫であり六位藏人となれば殿上人であるため
伏見宮殿上人若江家や六位藏人藤島家などと同様に華族取立の運動を起こしたものの
これらよりやや格下である大外記押小路家や官務壬生家が男爵になったのにも拘わらず
華族取立ならず京都官家士族となる
ちなみに室町期における細川氏の主な一門は以下の通り
上屋形京兆家(細川嫡流・三職・管領・攝津丹波讚岐土佐等守護)
下屋形讚州家(細川庶流・御相伴衆・阿波守護)
和泉上守護家(細川庶流・國持衆)
和泉下守護家(細川庶流・國持衆)
奧州家(細川庶流・准國持・外樣衆)
淡路守護家(細川庶流・國持衆竝・御供衆・奉公衆一番番頭)
備中守護家(細川庶流・國持衆竝・御供衆)
典廐家(京兆庶流・國持衆竝・御供衆)
野州家(京兆庶流・御供衆)

22 :
足利一門
◆足利尾張(斯波・石橋)一門
上屋形斯波武衞家(三職・管領・尾張遠江越前守護)
下屋形斯波大野家(國持衆・加賀守護)
奧州斯波御所
斯波大崎御所(奧州探題)
斯波最上屋形(羽州探題)
石橋家(御一家衆)
石橋鹽松家
◆足利上總(吉良・今川)一門
吉良西條(上吉良)家(御一家衆)
吉良東條(下吉良)家(御一家衆)
吉良蒔田御所(元奧州管領・關東御一家衆)
今川家(國持衆(在國衆)・遠江駿河守護)
今川堀越家(遠江守護)
◆畠山一門
畠山二本松家(畠山惣領・元奧州管領)
畠山阿波家(元關東執事)
畠山尾張家=金吾家(三職・管領・山城河内越中紀伊等守護)
畠山匠作家(御相伴衆・能登守護)※阿波家の名跡を繼承?
畠山播磨家(御供衆・奉公衆三番番頭)
畠山中務少輔家(御供衆・奉公衆四番番頭)

23 :
◆足利宮内少輔泰氏支裔
澀川家(御一家衆・九州探題・肥前守護)
澀川蕨御所(元關東探題)
石堂家(奧州管領)※早期に斷絶?
一色家(御相伴衆・侍所頭人・三河丹後守護)
一色宮内大輔家(關東奉公衆・幸手一色氏)
一色式部少輔家(御供衆・奉公衆)
上野家(御供衆・奉公衆三番番頭)
◆足利上總介義兼支裔
桃井家(御供衆?・奉公衆二番番頭)
◆足利陸奧守義康支裔
仁木家(御一家衆・伊賀守護)
細川一門(前掲)

24 :
◆上杉一門
二橋上杉家(上杉惣領・御一家衆)
扇谷上杉家(相模守護)
犬懸上杉家(元關東管領・上總守護)
越後上杉家(國持衆(在國衆)・越後信濃等守護)
上條上杉家
宅間上杉家(元關東管領・伊豆守護)
椙谷上杉家(元關東管領・武藏上野越後等守護)
山内上杉家(關東管領・伊豆武藏上野等守護)
小山田上杉家
◆新田一門
新田岩松家(新田惣領・關東御一家衆?)
新田大舘家(御供衆・奉公衆五番番頭)
◆山名一門
山名惣領家(御相伴衆・侍所頭人・但馬守護)
山名伯耆守護家(國持衆)
山名石見守護家(國持衆)
山名因幡守護家(國持衆竝・御供衆)

25 :
外樣
◆赤松一門
赤松惣領家(御相伴衆・侍所頭人・播磨備前美作等守護)
赤松七條家(外樣衆)
赤松有馬家(外樣衆)
◆佐々木一門
佐々木六角家(國持衆・近江南半國守護)
佐々木京極家(御相伴衆・侍所頭人・近江北半國飛騨出雲隱岐等守護)
佐々木京極加賀家(准國持・外樣衆)
佐々木鞍智家(外樣衆)
◆大内氏
大内家(御相伴衆・備後周防長門等守護)
◆土岐一門
土岐世保家※滅亡
土岐西池田家(國持衆・美濃守護)
◆他
冨樫家(國持衆・加賀守護)
河野家(伊豫守護)
攝津守家(外樣衆・評定衆)
■足利郎黨
高氏(元執事・元關東執事)※庶流が奉公衆として存續
伊勢守家(御供衆・政所執事)
伊勢庶流(御供衆・奉公衆等)

26 :
らいらい

27 :
>>21
藤孝が元常の養子というのは根拠がないらしい。
相伴衆細川晴広の養子らしい。

28 :
細川晴広という人もよくわからんな
その父と言われる高久というのが佐々木高島氏から淡路細川に養子に入ったのかな?

29 :
細川晴広って人知らないけど
淡路細川なのに御相伴衆なの?
上に書いてる人いるけど淡路細川は御供衆にして番頭のはず
まあ御相伴衆という格式もインフレしていたからありうるけど
それより藤孝の実家の三淵家は番衆の家柄だから番頭の養子になってもおかしくないな
国持衆である和泉細川の養子になるのは家格的にちょっと不自然だし

30 :
細川高久・晴広親子って淡路細川と関係ない。

31 :
鎌倉時代の守護は領民から殿様とは呼ばれなかった?

32 :
御館様じゃねーの?

33 :
呼ぶのはふつう官職名だろ
「加賀守様」みたいに

34 :
守護はほぼ「屋形」号だっつーの

35 :
御館様=「みたち」はどうよ?

36 :
>>34
ソースは?

37 :
屋形号も知らない馬鹿って何なの?

38 :
>>37
そうじゃなくて鎌倉時代の守護が「御館様」と呼ばれていた史料はあるの?

39 :
何だ鎌倉時代の話か
室町時代の話ばかりだから勘違いした

40 :
今確認したら鎌倉時代の呼び方は「守護所」とか「守護殿」みたいだね。

41 :
六波羅探題は六波羅殿(北殿とか南殿とも)だっけ?
おまえは清盛かっていう

42 :
一般の人は「六波羅殿」と呼んでいたみたい。
ごく少数だけど「六波羅南殿」とか「六波羅北方」と
か「北方」だけとか呼ぶ場合もあるけど探題個人に関わる
場合に限るみたい。公家は「武家」と呼ぶのが普通みたい。

43 :
「六波羅北方」
ハードボイルドなおやじが六波羅で紫煙をくゆらせている姿が目にうかんだ

44 :
公家→鎌倉幕府 「関東」
公家→六波羅探題 「武家」
公家→室町幕府 「武家」
公家→江戸幕府 「関東」

45 :
鎌倉時代の因幡の守護は誰だ?

46 :
白ウサギ氏

47 :
守護の生活って質素
だったのかな?
食事は玄米に一汁一菜か?

48 :
>>42
なぜ北は「殿」をつけて呼んでもらえないのだろうか?

49 :
>>48

50 :
>>48
御免、「北殿」と呼んだ例もある

51 :
>>23
伊賀仁木(丹波仁木とも。頼章の家系)は御一家じゃないよ。
伊勢仁木(義長の家系)が将軍御対面の式日が御一家(吉良・石橋・渋川)と
同日だけど礼遇は明らかに差異がある。
但し(江戸時代の本だけど)『応仁武鑑』は両仁木や今川まで御一家と一緒に
「御一族」とカテゴライズしていた記憶が。

52 :
>>24
上杉も御一家ではない。
『長禄二年以来申次記』によると二橋じゃなくて四条上杉が伊勢仁木同様
御一家と同じ日に将軍御対面。
但し応仁の乱後は外様と同じ扱いに。

53 :
再度>>23
私が知る限り「御一家」というカテゴリーが明確に登場するのは義政〜義材期。
つまり渋川宗家が九州探題を傍流に譲ったあとの義鏡(のち関東探題)の系統が
在京中の処遇と理解している。
従って御一家衆≠九州探題・肥前守護だと思うんだけど。

54 :
御一家研究者ってのもすごいなw
マニアックだけどおもしろそうだからもっとkwsk
義鏡の家系はどれくらい続いたのかな
同じく石橋も宗家は当主の名前さえ伝わっていないよね
戦国期に斯波と吉良と同盟したという石橋某は何者?
伊賀仁木と丹波仁木というのは同じなの?
伊賀仁木(伊勢仁木)と丹波仁木の2系統だと思っていた
越後の上杉の家名は四条でいいの?
四条と犬懸はどちらが嫡流でどちらが庶流なのか?
二橋は本来の惣領だと思うがどこに行ったのか?
あと在国衆というのがよくわからない
今川や越後上杉だけでなく小笠原とか大内もそういう側面あるよね
義昭の時代だと在国してる大名は三職だろうと外様衆とされている

55 :
nn

56 :
ご無沙汰しました。
御一家研究者っていうか、正確には石橋氏研究者なんだけどね。
(吉良や渋川は私が研究しなくても誰かがやるでしょw)

57 :
>戦国期に斯波と吉良と同盟したという石橋某
『清須合戦記』に「当國戸田庄ノ高家。石橋左馬頭義忠」とあります。
尾張国海東郡富田庄(戦国期には戸田庄)は石橋氏の領地。
で永禄四年この「石橋殿御座所」で密談する際に
吉良義安と斯波義銀が座次を巡って争ったのはご存知の通り。

58 :
海西郡の水軍大将にして本願寺有力門徒であった服部左京助に与して
信長打倒を企てて露見、信長によって国外に追放されているが
最後は畠山氏を通じて詫びを入れ、捨扶持を得たとか。

59 :
>義鏡の家系
曾祖父だか高祖父の直頼伝来の蕨城を養子義堯に譲り、
蕨渋川氏はその後、北条氏傘下に。

60 :
>伊勢仁木と丹波仁木
尊氏・義詮の時代に断続的に丹波守護を務めた頼章の系統が丹波仁木
断続的に伊勢守護・伊賀守護を務めた義長の系統が伊勢仁木

61 :
応仁の乱に於いては頼章の子義尹の玄孫兵部大輔成長が東軍に属し、
伊賀守護となったためこの系統(丹波仁木)を伊賀仁木とも。

62 :
二橋上杉についてはごめん、不勉強でよく分からない。
『蔗軒日録』に上杉一族について「京は惣領、関東は庶子」とあり、
『長禄二年以来申次記』に「四条上杉」が御一家と同日に将軍御対面と記されてるから
四条上杉=在京=嫡流と思ってた。

63 :
在国衆ってのは文字通り国元にいる人ってことで、
御相伴衆>国持衆>准国持>外様衆・御供衆
といった序列とは別の用語と解釈してる。

64 :
>>22は国持衆で在国の者に特に「在国衆」と書いているみたいだね
(大内は御相伴衆)。
室町殿御分国の守護は在京が原則だからか。

65 :
但し室町殿御分国の東端である駿河や越後は
関東牽制のためにも在国してないといけない。
その意味では小笠原も、という>>54の指摘はごもっとも。

66 :
なんか1レス当りの文字数制限も短くなっているみたいで
連投になってしまったけど
尊さま御命日ということでご容赦願わしく。

67 :

震災にでもあったかと思ってたよ

68 :
age

69 :
ところで斯波と吉良はどっちが上なんだ?

70 :
kira

71 :
斯波に決まってるだろw
吉良のほうが血は足利に近いが
幕府管領職を出した斯波のほうが上

72 :
吉良ってそんなにいい家か?今川の方がまだ上に見える

73 :
赤松のグダグダぷり凄いな

74 :
守護は町に遊女とセックルしに出向たりしたのかな?

75 :
遊び女は館に呼ぶだろ

76 :
>>71
斯波の方が血も足利に近いだろ
ただ管領(≒執事)職に就いたために御一家としての礼遇は受けられなくなった
御一家は三職>御相伴衆>国持衆>以下略という序列の外にあるので単純比較は難しい
権力は当然管領の方が持っているが
義教死後から義勝将軍宣下までの室町殿が空位の期間吉良の当主が代行していたという説もある

77 :
てす

78 :

79 :
飛騨って室町後期まで守護の京極家と国司の姉小路家がいたみたいだけど、姉小路みたいに戦国時代になっても国司が任国にいすわっていた国って他にあるの?

80 :
六波羅探題南方など形骸化して任じられる人間もいなくなった。
北条時輔が鎌倉追放の時に久方ぶりに任じられた。

81 :
>>79
戦乱で都が荒廃し、下級貴族は地方にいるしか手が無かったからだろう。

82 :
>>79
土佐 一條
伊勢 北畠

83 :
<江戸時代にも大名として残った守護>
・島津
・佐竹
・伊達
・小笠原
・京極
・細川
・上杉(ほとんど長尾だけど名は残した)は含めて良い?
・結城(ほとんど松平だけど…)は残ったというには微妙?
・毛利(義昭の頃に副将軍として守護にもなった?)
・少弐(鍋島)は含めて良い?
・赤松(有馬)は含めて良い?
・相馬は守護じゃない?
・諏訪は守護じゃない?

84 :
↑追加
・宗

85 :
逆に守護一門で完全に消滅したのは?
大名は無理でも、高家か一般旗本か陪臣とか客分とかで、
残っている場合は多いよね。

86 :
>・少弐(鍋島)は含めて良い?
これの意味がわからん

87 :
含めていい訳がないw

88 :
鍋島氏は守護の少弐氏に娘を嫁がせ出来た子に鍋島を継がせた。
だから、鍋島氏は少弐氏の実質的な庶流で、江戸時代の鍋島氏は全員少弐氏の血筋は引いている。

89 :
それってよくある名族との系図結びつけじゃね?

90 :
鍋島は鍋島。小2ではない。

91 :
厨2ではあるかもしれん

92 :
>>83
相馬諏訪は守護ではない
少弍(鍋島)は論外
赤松有馬家は赤松惣領ではないが一応摂津国有馬郡の分郡守護
しかし久留米有馬氏は系統を見るとその傍流と考えてよさそうだし
一度は渡瀬家の家老?にまで身を落としてしまっている
渡瀬家の地盤を受け継いだ豊臣大名と考えた方がよさそう
京極は嫡流が続いているがこちらも豊臣大名としての色が濃厚
屋形号も許されていない
結城は松平前橋少将家が祭祀を受け継いでいるが
これも屋形号を許されおらずむしろ松平越前中将家が屋形号を称している
小笠原も守護大名というよりは徳川譜代という感じだが
榊原式部大輔家・酒井左衛門尉家・本多中務大輔家等の所謂徳川四天王と同様に御譜代上座(帝鑑間席の上座)を占め
デフォルトで従四位下侍従という格式を誇っていた
元守護大名だからというわけではなさそうだが
室町期の武家で「大名」と呼ばれたのはどうやら「三職」「御相伴衆」「国持衆」に限られ
後は外様衆や御供衆の中に国持衆に准ずる格式の者がいたくらいだが
室町幕府の儀礼を受け継いだ江戸幕府の儀礼でこれら「大名」に准ずるのは大広間席の国持等だと思われる
そういう意味で格式を落とさずに存続したのは島津・伊達・佐竹くらい
ただしこれら3家はいずれも室町殿御分国の外の大名であり室町殿を中心とする儀礼で明確に国持衆と呼ばれていたわけではない
関東公方・奥州探題・九州探題等の管下の諸国であくまでも国持衆に相当する格式を持っていたという意味
ちなみに熊本の細川は仮に細川奥州家の系統と考えると外様衆から国持衆にランクアップしたということになる

93 :
一番最後に守護に任命されたのは誰?
一番最後まで守護職にあったのは誰?

94 :11/10/01
一番最後に任命された守護はたぶん山岡景友。

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