2011年10月1期日本史歴史上の武芸者 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼

歴史上の武芸者


1 :11/02/02 〜 最終レス :11/10/22
まあ個々の武芸者についての逸話どうこうにとどまらず、
各流派の大系等、ミクロ視点マクロ視点織り交ぜて行きたいところです
特定の武芸者を最強と言い張りたいだけの方は武道板にでもどうぞ
ここでは控えていただきます

2 :
柳生宗矩のように武器振るうのが本職じゃないかもしれない人物も扱っていいですか?

3 :
OKです
紛れもなく剣豪ですよ>宗矩

4 :
水鴎流開祖、三間景延は20年瞑想し続けたのですか?

5 :
さすがに20年間瞑想してたわけじゃなくて、
修行を開始してから流派を開くまでの期間が20年だったということでは?

6 :
迷走してたわけですね

7 :
人吉地方では丸目徹斎を持ち上げるような風潮があるようですが、どうなんですかね
あと他の地域でも、その土地に縁のある武芸者を称えるようなことはありますか

8 :
丸目さんの兄弟子筋にあたる奥山休賀斎が居住した地の近隣の者ですが、
話にも全く上ることはありません
そんな大剣豪がいたことすら知られていない具合です\(^o^)/

9 :
柳生の本家というのは、尾張の柳生家のことかいな?
大名(一時旗本)家の柳生藩藩主を継ぐのは江戸柳生家だし、
家臣郎党を多く抱えるから江戸柳生が大規模だけど、
分家であることには変わりないよね?

10 :
直心影流薙刀術のルーツを直心影流とした意図には、悪意はなさそう

11 :
糞スレ立てんな

12 :
もし分かれば、1615年(元和元年)〜1618(元和4年)くらいの間に生まれた剣豪、武芸者、兵法家を教えてください
本人は剣豪でも兵法家でもないけど父親や師匠が有名(宮本伊織みたいな感じ)でもかまいません

13 :
ぱっと思いつくところでは柳生清巌(新左衛門)が1615年生まれ
尾張徳川家専属の指南役になり得る立場だったけど、病気で辞退
死に場所を求めていたような節があって島原の乱鎮圧戦に従軍、戦死

14 :
生年が正確にはわからないけど、伊藤忠也(小野典膳)から一刀流を学んだ溝口正勝(新五左衛門)が、
事跡からして、その年代頃の生まれだったぽい

15 :
但馬入道の第四男-即ち宗矩の兄-に五郎右衛門と称する勇士があったが、
後伯書の国飯山城に客となっている頃、
上州横田内膳を助けて中村伯書守の多勢を引受けて勇戦し武名を響かしたが、
慶長八年十一月十五日城陥るに及び五郎右衛門は城より打って出て、
新陰流の古勢「逆風の太刀」をもって甲冑武者十八人を斬り伏せ
遂に戦死したが、
伯州の民五郎右衛門の武勇に感じ社に祀ったということである。                (柳生流兵法と道統)

16 :
ずいぶん狭い年代指定ですなー
ぴったり該当というわけにはいかないが、掠める人物だと、
・高橋重治1610年生。師匠がなんと神谷真光
 神谷は防具稽古に否定的だったのに、高橋の弟子になった山田光徳は防具稽古に感銘を受けて入門した
 流派に防具稽古を導入したのは、どうやら高橋だったようだ
・柳生宗冬1613年生。師匠は父・宗矩。剣豪として挙げていいものか微妙…
 兄・十兵衛三巌より見劣りするだろうなぁ
 でも将軍家指南役という重責を負い、勤め上げている兵法家
・柳生利方1620年生。>>13に出た柳生清巌の弟。師匠は主君・徳川義直&父・柳生利巌
 実力十分だったが、弟(巌包、連也斎)の方が自分よりも才能があると見て、弟を後継者に立てた
・幕屋与右衛門1613年頃?生。越前で埋没していた幕屋家伝承の新陰流を、江戸へ移住して広める
 新影幕屋流を立ち上げ、因縁ある柳生家の新陰流に対抗

17 :
過疎?

18 :
剣豪小説好きだがなんか見た事無い名前ばっかだ
こういう知識って何処で得るの?
やっぱ一時資料とか読んだりしてんの?

19 :


20 :
佐竹鑑柳斎は、柳影流薙刀術と直心影流剣術を修めた。
佐竹の拠り所としては直心影流の比重の方が高かったのかと思われる。
なにしろ直心影流は、幕末までは名門中の名門流派だったのだ。
幕末期、師匠である男谷精一郎は幕府講武所の設立を提案したわけだが、
自流派からは愛弟子の榊原鍵吉を講師として推薦し、榊原の助手の一人として佐竹も付けた。
他流派からは交流のあった心形刀流の伊庭軍兵衛などを講師として招いた。
ちなみに天然理心流の近藤勇が講師を務めたいと自薦していたが、惜しくも不採用に終わっている。
佐竹は、明治初期には兄弟子・榊原に従い、直心影流一座として撃剣興行に加わっている。
撃剣興行とは、武芸を見せることで生計を立て、全国を巡業する、一種のサーカスだ。
園部秀雄(日下たりた)が武芸に出合ったのは、生地にやってきた巡業の観客としてだった。
たりたは押し掛けのような形で佐竹に入門し、彼とその妻・佐竹茂雄から薙刀術を学ぶ。
本来、直心影流には薙刀術の伝承は無い。たりたが学んでいたのは柳影流薙刀術である。
しかし直心影流一座というチームに加わったたりたにとって、周りは直心影流の関係者ばかりである。
武芸者としての心構えや倫理観など、精神的根拠は直心影流の影響に染まっていったのは当然の結果と言える。
後に薙刀術の道統を継いだたりたが、改めて流派の系譜を整理する際、
薙刀術のルーツを直心影流に求めてしまったのも止むを得ないことであったと言える。
薙刀術の技術面はともかく、精神面は確かに直心影流にあったのだから。

21 :
本当かどうか・・・

22 :
test

23 :
歴史上の武GAY者は何と言っても高坂弾正だナッ!

24 :
小笠原長治の、江戸での道場開設以前の動向が、
まあそのなんだ、いろいろと謎だらけ
情報の食い違いが著しい
・小田原の陣に参加
 A.北条側として参戦
 B.豊臣側として参戦
 俺の考え…A.北条側。豊臣につく理由が無いだろう
・大陸に渡った時期
 A.小田原の陣の後
 B.豊臣秀吉没後
 俺の考え…A.かな?よくわからん。奥山休賀斎への師事より後であることは間違いないが、
 その師事した時期が不明瞭
秀吉と絡ませる話が出てくるのも謎。ただし秀吉絡みの逸話は信憑性が乏しい
長治は新陰流の達人を訪ね歩いていたため、秀吉没後の豊臣家に仕えた疋田栖雲斎の許に現れたかもしれない
それで豊臣家に関係したと認知 → 実は秀吉が生きていた当時から… なんて話にされたとか

25 :
以前、この板にあった武芸者スレで念阿弥慈恩について訊かれて「調べておきます」
とお答えしたものの、一次史料が見つからずにいる内にスレが消えてしまい、その
ままになったことがありました。
あの当時の方がいらっしゃいましたら、御詫び申し上げます。

26 :
疑問に思っていたことがある
針ヶ谷夕雲が新陰流(真新陰流)から脱却して無住心剣流を創始した理由に、
左腕に大怪我を負って後遺症が残ったこともあるの?

27 :
>>25
当時の人じゃないが南北朝期の兵法家とか興味深いので史料あったら教えてほしいです

28 :
男谷信友の生年は1798年で確定だと思っていたが、1810年生まれとする異説もあるらしい
出典は不明だが、怪しいことこの上ない
弟分(叔父だが)の勝小吉が、放蕩を理由に父や兄にされそうになるところを庇った逸話が、
小吉よりも信友の方がはるかに年少だったとしたら説得力に欠けてしまう
また、推定1793年生まれの千葉周作との立合いであっさり退けた後、
あの人もここまで到達するには大変な修練を積んだのだろうと感想を漏らした逸話も、
信友が周作よりも少しだけ年下だったからこそ説得力を持つ
一世代分も年少の者に上から目線で評価されたとしたら、周作の立つ瀬がないではないか

29 :
よく義経を祖とする武術流派があるけれど、実際の史料に義経が特定の武術を習得して弟子をとって教えていたなんて記録はあるの?

30 :
大東流合気術の佐川幸義

31 :
柳生兵庫助が存命中のことだったような気がするが(確実じゃないです、すみません)
七郎の再来と呼ばれ、剣才が注目されたという話があったのは誰ですか?
七郎とは、金春氏勝ですね。柳生一門の中でも圧倒的存在感を示しながら、
若くして亡くなったことが、江戸時代初期の柳生家に惜しまれていた感があります

32 :11/10/22
>>31
天野四郎兵衛じゃないかな
兵庫助の甥にあたり、同年代の従兄弟(兵庫助の実子)たちと一緒に鍛えられた
信州駒ケ岳で未確認動物(神馬)を目撃した話の人物と同一だと思うけど、
だとすると、神馬に遭遇したのは四郎兵衛が44歳の時だったことになるな

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