2011年10月1期日本史【用水奉行】小泉次大夫吉次【旗本】 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼

【用水奉行】小泉次大夫吉次【旗本】


1 :11/05/08 〜 最終レス :11/09/22
 旗本、用水奉行小泉次大夫吉次のスレです。
子孫は、東京都北区西ヶ原在住。
菩提寺: 昌林寺(東京都北区)

2 :
江戸時代の二ヶ領用水
http://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/tama/know/property/13_1.htm
二ヶ領用水の開削
家康に駿河国から随行した小泉次太夫[*3]は、多摩川沿川一帯の開発を
任されました。
そして地域の荒廃した状況をつぶさに目撃し、新田開発に必要な
灌漑用水路の開削が急務であると考えます。
その用水路が、左岸世田谷・六郷領を潤す「六郷用水[*4]」と、
右岸稲毛・川崎領を潤す「二ヶ領用水」です。
次太夫は、慶長2(1597)年2月より両岸の測量を始め、
慶長4(1599)年1月から六郷用水、6月からは二ヶ領用水の開削工事に
着手しました。両用水の工事は、以後ほぼ3ヶ月ごとの交互で進められた為、
別名「四ヶ領用水(よんかりょうようすい)」とも「双子の用水」
とも呼ばれています。
二ヶ領用水の完成と流域の変貌
慶長14(1609)年7月5日、二ヶ領・六郷両用水の幹川工事が完成、
翌年にかけては各村々への分水口や小堀の浚上(さらいあげ)を
行いました。そして、慶長16(1611)年2月28日に六郷用水、
3月1日には二ヶ領用水の全ての工事が終了しました。
の時すでに73歳という高齢に達していた次太夫ですが、完成までは
一年にわずか20日足らずの休みを取るだけで、文字通り寝食を忘れて
この事業に従事したそうです。
家康はその功労を賞して、本領のほか旧田、新田のうち10分の1を
給すると共に、実守の刀を与えました。

3 :
小泉次大夫物語
http://kawasaki-guide.jp/nikaryou/koizumi/kg_koizumi.html
二ヶ領用水・六郷用水・小泉次大夫年譜
http://kawasaki-guide.jp/nikaryou/koizumi/kg_nenpu.html
西暦1539 天文 8 1歳
   駿河国富士郡小泉郷、今川家の樋代官13代目・植松素清の
   長男として生まれる。
西暦1568 永禄11 30歳
   今川氏滅亡、植松父子ともに武田氏に編入される。
西暦1582 天正10 44歳
   次大夫は徳川軍・井伊直政隊の下に加わり、3月駿河富士川から
   甲州への武田攻めで活躍、 軍功をあげ家康に認められ領地750石と
   小泉姓を賜る。 6月2日、本能寺の変
西暦1591 天正19〜文禄 5 53 歳
   次大夫は用水奉行任命以来(1590年〜1596年)7年間、腹心の
   水利土木技師達と共に 多摩川本流と支流、及び六郷領・世田谷領・
   川風フ・稲毛領をつぶさに視察して、用水開削 の構想を練った。
   (天正17・18年の洪水による旧流路の再利用も考慮する)
西暦1596 慶長 1 58歳
   充分な事前調査に基づいた「用水開削計画」を徳川家康に進言して
   計画が公認される。

4 :
西暦1597 慶長 2 59歳
   2月3日荏原郡安方村(大田区東矢口)の名主・兵庫宅に六郷領の
   名主を招集し、用水開削 を説明して測量の実施を告げた。六郷領より
   測量開始6月20日六郷用水で最大難所、嶺村の 測量で亀甲山
  (かめのこやま・東急東横線、鉄橋の上流)からの取水は不可能と発表。
   6月下旬、富士信仰の浅間神社の祭神であるコノハナノサクヤヒメ
   (木花之咲耶姫命)から 「この地からの取水は悪所なり」とのお告げ
   による、という大芝居を演出して亀甲山取水 案を、11Km上流の
   和泉取水案に変更することを世田谷藩と世間を納得させる。
   この頃、次大夫は小杉に正式な陣屋を設け測量を指揮する。
西暦1598 慶長 3 60 歳
   12月5日をもって左右両岸の測量、杭打ち完了。 豊臣秀吉死亡。
西暦1599 慶長 4 61歳
   1月5日六郷領道塚村(新蒲田)南掘から工事開始。川風フと3ヶ月ごと
   交互に工事は進展。
西暦1600 慶長 5 62歳
   関が原の戦い。 六郷用水最大の難工事と言われた「嶺村の切通し」で
   「女掘」を発案。
   川風フは順調に進む。六郷の鵜の木〜嶺村切通し〜下沼部までの難工事は
   堅い岩盤を7m も掘り下げる。1日6.8m、2.3kmを切通すのに2年間、
   338日を要した。
西暦1601 慶長 6 63歳
   小泉次大夫は稲毛領、川風フ、六郷領、をはじめ神奈川領、子安領、小机領の
   代官に任命 される。これをもって用水工事の差配裁量の権限が広がった。
   (世田谷領を除く)
   9月23日、六郷用水最大の難工事を終え下沼部村境に達する。

5 :
おめでとうございます

6 :
で?

7 :
わからない

8 :
知ってるよ

9 :
小泉

10 :
10

11 :
保守

12 :
保守

13 :
保守

14 :
保守

15 :
てst

16 :
無名の糞旗本のスレなんか立てんな!
どーせ1は縁者か何かだろ!

17 :
同感。小泉次大夫吉次なんて無名の一般人のスレはいらない。

18 :
小泉次大夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E5%A4%AB
ウィキペディアにあった。

19 :
二ヶ領用水
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%B6%E9%A0%98%E7%94%A8%E6%B0%B4
六郷用水
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%B7%E7%94%A8%E6%B0%B4
江戸城下の用水路を建設した人か。

20 :
新田開発と用水路
近世になると稲作技術が進展し、石高の向上を競った諸藩の大名などにより新田開発が盛んに進められるようになるが、
稲作に欠かせない水の確保が課題となり、川などからの引水が難しい内陸部へ農業用水を引くための用水路が各所に造られるようになる。
特に、天正年間に豊臣秀吉の傘下で関東へ転封された徳川家康は、江戸周辺での新田開発に注力する。
小泉次大夫を用水奉行に登用し、多摩川流域の扇状地に灌漑用水路を巡らせたことで新田開発が進み、米の生産量を大幅に伸ばすことに成功した。
これにより、後に幕府が置かれ、当時は世界一の人口密度であったといわれる江戸の台所を支えた。

21 :
関係者必死だな
おおかたウィキもお前が書いたんだろ
官位もない糞旗本のスレ終了!

22 :
と無知が吼え回るスレ

23 :
wikipediaの履歴みたら、マジで縁者が編集してて笑ったw
こんな無名な奴知ってるのなんて縁者かほんとにそのこと研究してる研究者ぐらいだろwww

24 :
q

25 :
国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所
小泉次太夫吉次 こいずみじだゆうよしつぐ (1538〜1623)
http://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/tama/know/predecessor/01.htm
小泉次太夫吉次の生誕から用水開削以前までの足跡は、
色々な説があり真実は明らかではありません。
駿河国富士群小泉郷(静岡県富士宮市小泉付近)の植松右近泰清の
長男という記録は残りますが、これも実子・養子それぞれの説があり、
確かではありません。

26 :
ますます必死な縁者
身元ばれんぞw

27 :
企画展示
二ヶ領用水竣工400年記念 「二ヶ領用水ものがたり」
http://www.kawasaki-museum.jp/display/exhibition/exhibition_de.php?id=178
開催期間 2011年07月23日〜2011年09月11日

28 :
川崎の寺に墓があるんじゃね?

29 :
いいじゃん旗本なら・・・御家人だと痛いが旗本なら立派

30 :11/09/22
파친코

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