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2011年10月1期日本史邪馬台国は四国徳島だった!2
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邪馬台国は四国徳島だった!2
- 1 :11/07/10 〜 最終レス :11/11/17
-
前スレ
http://unkar.org/r/history/1206513695
- 2 :
- 根拠1
2007年3月、徳島県鳴門市に、日本最古の前方後円墳が発見された。
「萩原2号墓」といい、石積式の前方後円墳。年代測定によると西暦200年前後と
なり、時代的には卑弥呼・邪馬台国の時代となる。当時、徳島に力のあった豪族がいた証拠となる。
解説は徳島文理大学教授 石野博信氏で、
「卑弥呼が登場するのに大きな役割を果たした一族の墓である」と語り、邪馬台国四国説を推す。
また、国史研究家・高校教諭 林博章氏の解説によればこのあたり一帯は古墳だらけだということ、
八人塚古墳は全長60mもあり、付近一帯には1000基の古墳がある。
古墳密集地だということ。
根拠2
邪馬台国があったとされる場所については様々な説があるが、有力なのは「近畿説」と「九州説」の2つ。
だが、ともに矛盾点がある。「魏志倭人伝」によれば、近畿説(一般的には畿内説というが、
番組では近畿説となっているので、近畿説で以下統一)は「方向が違う」、
九州説は「距離が合わない」といわれる。
そこで、古代史研究家 大杉博氏の研究によれば、朝鮮から出発した使者は、
上陸地が高知県宿毛町あたりではないかと推測(ここが投馬国)、
そこから距離的に見て、徳島に至ったのではないかということだ
- 3 :
- 根拠3
魏志倭人伝によると、邪馬台国について「その山には丹がある」と書いてある。
丹とは水銀のことで、邪馬台国に中には水銀丹(朱)の出る山があると、
書き残している。邪馬台国時代の水銀鉱山跡というのは、
徳島阿南市の若杉山遺跡でしか見つかっていない。水銀を生産している遺跡は、
他の場所から発見されていないので、ここだけらしい。よって「丹がある」という
一文からすれば、四国説はかなり有力となる。
根拠4
邪馬台国の時代から続く1800年続く一族「阿波忌部一族」がいる。
この一族は、古代から現在まで続く天皇家の宮廷の祭祀をしていたという。
儀式の中で、(大嘗祭のことか)、麻で作る織物(アワタエ)を献上する役割である。
現在の当主は三木信夫氏であり、番組内でインタビューに答えている。
その中身は「阿波には大きな先進文化をもった部族がいたことは確かで、
その後、この部族は阿波から近畿へ移動して日本の礎を築いた」と語っていた。
根拠5
近畿と四国の地名の一致。山城、伊賀、大阪、河内、勝浦など近畿にある地名は、
徳島にもある。
徳島や香川で作くられた壺などが、同じようなものが近畿でも出土している。
徳島と近畿に何らかの関係があるということか。
- 4 :
- これから注目はされるだろう。
- 5 :
- >九州説は「距離が合わない」といわれる。
北九州から南へ水行十日陸行一月行けばいいだろ。何で合わないとなるんだ?
- 6 :
- 徳島県鳴門市萩原1号墳丘墓は3世紀中期の前方後円形積石塚で、この墳墓から一面の画文
帯同向式神獣鏡が出土しており、この鏡の文様と寸分違わない鏡が楽浪郡から発見されてい
ます。これら2面の鏡では文様の細部まで詳細に分析した結果、楽浪出土鏡は萩原墳丘墓鏡
の割れ傷と全く同じ位置で同じ形状に割れていることが判明しました。この事実により楽浪
出土鏡を原鏡とした踏み返しの鋳型より萩原墳丘墓鏡が作製されたことが明白となり、更に
3世紀代に造営された積石塚が楽浪郡と密接に関わっていることをも強く示唆するものとし
て注目に値するといえます。
斜縁二神二獣鏡は三角縁神獣鏡に最も類縁性の近い鏡として知られており、この鏡種にも
「吾作」銘のあるものが多く存在しているのは偶然ではないと考えています。斜縁二神
二獣鏡は神人龍虎画像鏡を母体により成立した鏡種であると言われていますが、神人龍
虎画像鏡は長江下流域の浙江省北部の海岸地域で集中して発見される呉系の鏡とのこと、
すなわち楽浪鏡の成立には呉系の鏡工人が深く関わっていたことが明確に示された訳です。
大和最古の古墳として注目されたホケノ山古墳からは非常に精巧な画文帯神獣鏡が出土しました。
徳島にB級楽浪鏡。
ホケノ山に1級楽浪鏡。
- 7 :
- 今まで注目されなかったのか逆に不思議な気が。
東征説でもここは重要地なのにな。
- 8 :
- 阿波踊りは卑弥呼の踊り。
- 9 :
- 隔離スレらしいですが‥おそらく過疎るでしょうが。
徳島説という訳ではないので念のため。
しかしホケノ山の例でもあるように、巻向周辺との関連性は
もう否定し難いとは思いますよ。
それをつなぐ要因の一つに水銀朱がある事は指摘出来るはずです。
- 10 :
- はいはい
- 11 :
- 金印はここにあるはず
- 12 :
- 水行10日陸行1月は松山辺りに上陸して内陸を歩いたのかな?
- 13 :
- 徳島はなぜもっと発掘しないの?
- 14 :
- 未発掘の古墳も多そうだが。
それに古事記の最初の舞台はここだろうな。
- 15 :
- 高天原 神山町
オノゴロ島 穴吹町
ヒルコ 麻植郡
アワシマ 善入寺島
そして淡路島
古事記は徳島の神山町が軸
- 16 :
- 本当なの?
- 17 :
- 粟島は吉野川にある川中島だよね?
河川改良工事名目で何千もの人が移住させられたが、
それ以前は立派な神社もあった。
- 18 :
- 根拠あんの?
- 19 :
- 関西は下戸が多いから畿内説はムリぽ
- 20 :
- 粟島なら有名だろ。
- 21 :
- 粟島(善入寺島)には大正期まで浮島八幡宮が存在しています。
今は川島神社に移遷されていますが。
本来は忌部神社の伝承をもつ大社ですよ。
- 22 :
- >>15
まあトンデモ論で解釈するとオノゴロ島は自ら回る島なので地球でしょう。
地道説が認識されるはるか以前ですがw
(逆に本当にそう認識していたのならそれは凄い事なのですけど)
- 23 :
- オノゴロ島はオンガ島
- 24 :
- 高天の原は、現在の奈良県御所市高天。
ここの領主は、高天彦といった。
ちなみに、奈良県御所市高天には、高天彦神社ってのがある。
- 25 :
- 自ら転がる嶋だという。谷口正春氏の説だと思ったな?
- 26 :
- >>25 訂正
× 谷口正春氏
○ 谷口雅春氏
自ら転がる嶋っていうのは自転島で、地球のことだという。
- 27 :
- >>26
やっぱり同じような事考えてる人はおられますな。
調べたら宗教家さんですね?
記紀を一度読み直した時、二神が左回りと右回りで
国生みの結果が違うという点から、天体を連想して
妄想したのですが。
- 28 :
- 谷口雅春氏の「古事記と現代の預言」という書に、その解説があったと
記憶してますが・・・?
- 29 :
- その資料は私は未見ですね。また探してみます。
(記1300年関連で資料漬けなんですよ)
- 30 :
- カッコ書きの意味が分かりません?
オヤスミナサイ。また明日・・・。zzzz・・・
- 31 :
- 玄界灘にオロ島、博多湾にノコ島があってあわせてオノコロ島という説もあったな。
- 32 :
- ヤマタノオロチ=吉野川
ヤマタノオロチ退治は吉野川の治水のことだ
暴れ川だからな
- 33 :
- ヤマタノオロチについては河内〜大和の大和川説をとりますね。
枝分かれが多くて暴れる川です。
またどちらの平野にも八尾の地名があって、各地に伝承が
多く残ってる点や鳥髪山の存在も有りますが‥
- 34 :
- 黄泉の国だから死国か。
- 35 :
- さっさと八倉比売神社を掘削しようぜ
- 36 :
- 印があるって場所だね。
- 37 :
- 淡路ワールドパークONOKORO
- 38 :
- でも徳島が邪馬台国そのものか?というと
それは違うはずですよ。
別スレでも指摘しましたが七万戸を持つ国が
このエリアだけ、というのは狭すぎですから。
同様な理由で巻向周辺のみが邪馬台国というのも無理でしょう。
3世紀の時点で大阪湾を中心とした周辺諸国がそうです。
- 39 :
- 七万戸なんて誰がどうやって数えたんだ?って話
伝聞の伝聞ですよ
- 40 :
- 少し本でも読めば、数え方はすぐ分かるよ。
- 41 :
- 九州には収まらないのは確か。
- 42 :
- 魏志倭人伝の数字はすべてデタラメ
- 43 :
- そんな事はないよ、結構正確。
- 44 :
- どの程度まで正確なんだろうか。
今の戸籍制度でも死亡届けが出てなかったりして、微妙な感じだけども。
今よりは適当でざっくりしていたイメージではある。
- 45 :
- そりゃ今とは比較にはならんでしょ。
下男とかを数えてるとも思えないし。
- 46 :
- >九州には収まらないのは確か。
少し本を読んでみたら。収まることはちゃんと説明されているよ。
- 47 :
- >>46
君も本を選んで読もうね。
- 48 :
- 九州東遷説の人って忌部一族をどう考えてる?
なぜ1800年も前に四国の山奥に天皇家の祭祀者がいるわけ?
- 49 :
- 九州東遷説や倭国九州島内説では、
2〜3世紀頃の四国徳島の存在をどうやっても説明出来ませんからね。
- 50 :
- 説明を要するような状態があったかなあ。
- 51 :
- 九州にあったとするなら記録が残ってるはずですよ。
- 52 :
- 古事記の最初の話は徳島周辺だしな
- 53 :
- ウィキに四国説がないぞ
- 54 :
- 畿内へ遷都したとき、なんで忌部氏も移住しなかったんだ?
皇室の最重要出入り業者なのに
- 55 :
- >>53
邪馬台国ブームの後に注目され始めたので
殆ど浸透してないでしょ。
>>54
中臣氏と勢力争いして力失ったのでは?
- 56 :
- やっぱり四国だな。
- 57 :
- 徳島は山と川ばっかりで平野部が少ないからね。
手狭になったから大阪平野に拠点を移したんだろう。
- 58 :
- >>55
こっちには顔を出さないのかい?
邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)である
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1296451185/
- 59 :
- >>58
女王構成国だとは思うのだが、
投馬国かも?という部分もある。
もう少し出土物や遺跡発掘を注視したいのが本音だね。
- 60 :
- 伸びてるなと思ったら
スレ回しがいるのか
- 61 :
- もうわかってる人も多いと思うが、
歴史が(意図的に?)消されている可能性が高いのが四国。
倭国が四国周辺だと考えたら、色々話が繋がる部分が多いからね。
- 62 :
- 結論 四国じゃないからだろw
- 63 :
- 間違いなく倭は四国だね。
- 64 :
- 無いね
- 65 :
- ぱんどらで たかじん委員会 09.07.19
検索すると面白い動画がでてくる
四国説は思いっきりスルーされてる(笑
- 66 :
- 阿波忌部を無視できるの?ふーんw
- 67 :
- 馬がいなかったのに邪馬台国とはこれいかに?
- 68 :
- 徳がないのに徳島と呼ぶが如し
- 69 :
- やっぱり倭国の中心は徳島だよな。
徳川も徳島から名前を付けたんだろう。
- 70 :
- 邪馬台国は土佐ぜよ!
日本の夜明けとは、要するに、邪馬台国再興ぜよ!
- 71 :
- 倭国については倭人伝、倭国伝の記述に一番合ってしまうのが
四国東部としかいいようがないですね。
まぁ記紀の説話も普通に読むと、淡路島周辺を重視しているのは
一目瞭然なのですが。
>>70
土佐なんて元々名前自体波多国ですから。
隋書倭国伝には行程途中に秦王国という記述もありますが、
大分宇佐から瀬戸内を通らず土佐を経由して阿波に抜けた、
とも考えられますね。
十数国を経由して海岸線に出るとなると、四国を回って
阿波に抜けたという事でしょうか。
倭人伝の陸行1月という数字もこれが一番無難な感はありますが‥
- 72 :
- 四国説は少ないから有名になれるチャンス
- 73 :
- お遍路さんのスタートが徳島からなのも
意味が有るって事かもね。
- 74 :
- >>72
別に少ない訳じゃないんですよ。
過去の印象で邪馬台国論争といえば、九州説と畿内説の対決図式が
定着しているだけですから、企画等も組みやすいし。
でも結構以前から大和と阿波の関係が考古学的にも
深い事は言われてましたからね。
最近はTVでも紹介されたりしてますから、
これからは色々注目度は上がると思います。
- 75 :
- 無理だろう。倭人伝の行程に合わない、遺跡もなければ伝説もない、
いいところなしだね。
- 76 :
- >>74
とりあえずwiki書いてちょ。
- 77 :
- >>76
本当は〜説というレッテル貼りはあまり好きじゃないんですが。
隔離スレとして立てて頂いたらしいので、ここで書いてますけどw
正直な話、ネット以外でまとめてくれと別からも話をいただいてまして。
それと倭国伝とセットでの話しだと、どうしても阿毎多利思比孤の話まで
となるので、もう少し資料を含めて整理したい部分があります。
- 78 :
- 奈良以前は阿波が舞台だね。
九州王朝説も終了ですw
- 79 :
- 九州に邪馬台国があり、制圧したのならば
武勇伝として大和史に残してるはずだよ
- 80 :
- 神武天皇のこと?
- 81 :
- そりゃ九州に邪馬台国は無いからね。
- 82 :
- 記紀は、白村江の戦いで敗戦し、傷ついたプライドを回復させるための物語。
中国の属国であった邪馬台国のことなど書くわけない。
国産みで畿内ではなく四国・淡路島を最初に登場させたのは知識人としての最後の良心。
- 83 :
- 普通に解釈しろよw
- 84 :
- 戦争に負けると国はアイデンティティクライシスに陥る。
聖徳太子もこの時期に捏造されたんじゃないか。
自尊心を回復させる為、先祖にスーパースターの存在が必要だったのだ。
- 85 :
- 倭国伝や各風土記を読む限り、聖徳太子らしき人物は存在したと
思いますね、後年の脚色はあるのは間違いないですが。
最近見かけるようになった、阿波国の皇子が聖徳太子でしょう。
播磨灘に太子の逸話が多いのもその為です。
- 86 :
- いまだに、聖徳太子非実在説があるように、情報が極端に少ない。
もっとも重要な、17条憲法や「日出づる国の天子」で、
別人という説が出る始末。
飛鳥朝と大和朝は断絶している別の勢力である可能性は高い。
- 87 :
- 黙ってうどん作ってりゃいいんだよ
- 88 :
- >>86
聖徳太子非実在説は無いと思いますよ。
私は阿波方面に縁のある皇子で、当時の倭国の重要人物という認識です。
情報も他の同年代の人物に比較して少なくはないでしょう。
まあ超人的な逸話まで信じる必要はないですが。
>飛鳥朝と大和朝は断絶
私は完全な断絶は無い説ですね、豪族間の主導権争いは
当然あるでしょうが。
- 89 :
- じゃあ
ヤマトと飛鳥は繋がってる?
- 90 :
- まず飛鳥王朝といっても主な基盤は河内南部でしょう。
曽我も物部も。
- 91 :
- 徳島は銅鐸の出土数も実は多いよね。
候補としては九州なんかより余程可能性がある。
- 92 :
- それは徳島のフォローになってないような...
- 93 :
- なんで?銅剣や貨泉も出土してるし。
畿内は勿論北部九州とも交流があったという事。
- 94 :
- いまのところ、銅鐸文化圏は断絶していて、
銅鏡文化圏に入れ替わったというのが定説
まあ、別の解釈もできなくはないけど。
- 95 :
- そもそも銅鐸は天上界の音をかなでる祭器として中国に発祥したもので、
長江領域の民族が列島にもたらしものだ。
銅鐸に刻まれた「双極文」「わらび手文」といった、
典型的なへび信仰を示すうず巻き文様と、
蛇のウロコの象形である連続三角文(鋸歯文)が、
三角縁神獣鏡にも巫女型埴輪にも装飾古墳にも刻まれている。
へび信仰は縄文の土偶にも土器にもみられるもので、
縄文から弥生時代・古墳時代へと連綿と継続している。
「銅鏡文化圏」だ「銅鐸族」という造語で民族や勢力を区別したがるが、
実はみな同じ「民族的信仰心」をもった倭人なのだ。
縄文から弥生・古墳時代を通じて、倭人を構成したのも倭人文化を築いたのも、
長江流域からの渡来民族ということだ。
- 96 :
- >>95の、ほ・そ・く。
『史記』を読んだはずのない倭人が、
「自分たちは呉の太伯の末裔」と自称したという驚異的な事実。
黥面・文身・お歯黒をし、苗族と同じまげを結うなどの事実。
稲作・横穴墓・船形木棺・環濠集落・高塚式墳墓など、
すべてが長江流域からもたらされた文化である事実。
こうした事実を踏まえた上で3世紀の倭人について考察しないと、
邪馬台国の所在にばかりとらわれて語ってもそれは歴史でも何でもない。
場所探しゲームのための倭人伝解読ゲームに終始するのみだ。
それがエスカレートすると「邪馬台国は四国徳島だった!」などという
バカげたことをぬかす野郎がでてくるわけだ。
こんなクソとぴっくは、放置して消してしまえ。恥ずかしい
- 97 :
- 銅鐸が祭器どうかも判明してないのに思い込みで能書き垂れる爺さんは哀れ
- 98 :
- >>96
伊作さんは若杉山の辰砂についてはどう認識してるの?
- 99 :
- >>97
>銅鐸が祭器どうかも判明してないのに
お前の知識として判明していないだけだ。
バカのアカ恥発言
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