2011年10月1期日本史いいくにつくろう鎌倉幕府
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いいくにつくろう鎌倉幕府
- 1 :11/09/03 〜 最終レス :11/10/30
- いまでは1185年?
幕府とは何ぞや、ってまったりと議論しませんか?
- 2 :
- いい暮れ迎える鎌倉幕府
http://www.youtube.com/watch?v=8V0z8al_w6g
- 3 :
- 「鎌倉幕府」の成立は1192年以外ありえない。この年源頼朝に対して征夷大将軍宣下。これにより頼朝の政権は晴れて「幕府」と呼ばれるようになった。
確かに実質的には1185年に政権が出来ていたかもしれないが、それは高校レベルで注釈として補足しておけばよいこと。
朝廷の果たしていた役割を、ことさら矮小化しようとする悪だくみを認めてはいけない。
現代だって、運転免許試験に合格したという事実だけでは不足。免許証が交付されてはじめて運転が許可される。
- 4 :
- 敵対する軍事派閥が消滅した1185年以後、源氏の天下だから1185年説でもいいんじゃないか?
幕府の本来的意義は戦場に張る本陣を囲む幕のこと。中国風には柳営と言う。つまり天子から
軍事の全権を委任された将軍のいる本陣こそ幕府である。軍事氏族が源氏のみになった
1185年に日本で幕府がようやく1つになったと捉えればいい。それまでは2つあったのだ。
- 5 :
- 別に悪だくみとかそんなんじゃないでしょうw
今では中世史の研究家で守護・地頭を制した段階が政権の成立期であるとする学説が通説だし、
頼朝が求めた地位が征夷大将軍職だったわけではないことも分かっている。朝廷側は頼朝の要求に
右往左往したということも伝わっており、決して好意的に将軍職を宣下したんじゃないから。
- 6 :
- 在京の官でなければ何でも良かったのだろう。
摂関家が分裂し、九条兼実が頼朝の肩を持ったのも大きい。
幕府成立に摂関家の争いが味方したのは皮肉だ。
- 7 :
- 頼朝が征夷大将軍を辞任したのは何故?
- 8 :
- >>7
鎮守府将軍・平泉藤原氏を倒す口実として、同職を上回る肩書きが必要だったのだが、それも一瞬のことだったため。
- 9 :
- 結局、土地を支配する者が天下人ってことだっぺ
- 10 :
- >>8
奥州征伐は1189年でしょ
征夷大将軍になったのは奥州征伐より後だが。
- 11 :
- 確か義仲も征夷大将軍に任じられたりしてるんだろ?
- 12 :
- 征夷大将軍は同時期に1人だけという決まりはないな。
頼朝はそんな苔の生えた官職などどうでもいいと思っていただろう。
頼朝の力の源泉は日本国惣追捕使・惣地頭の両職。征夷大将軍など
任命されても兵馬の動員が出来なければ何もできん。
- 13 :
- じゃあ何故あれほど征夷大将軍に執着したの?
それから頼朝以降の鎌倉将軍は皆征夷大将軍になってるし。
- 14 :
- >>13
>>6参照
京都から来た政治顧問の大江広元あたりの入れ知恵と思われる。
頼朝以降の将軍が就任したのは単に創業者に倣ってだろう。
4代九条頼経は鎌倉下向後7年を経てようやく将軍になっている。
まあ幼少だったのが理由だろうが、将軍不在でも用が足りたわけだ。
- 15 :
- 本郷先生の本だったと記憶してるんだけど、鎌倉武士団の政権を「幕府」と呼称したのは
徳川幕府の頃あたりからだったみたいね。頼朝も北条氏も幕府を開いたという認識は持ってなかったって。
政権についても朝廷に対抗する意識はそんなに強くなくて(せいぜい鎌倉暦作ったくらいで)、
朝廷側の方が鎌倉武士団の政権を強く意識していたみたいだよ。
- 16 :
- >>15
朝廷側が勝手に承久の乱を起こし自滅した観はあるね。
今までの武士は朝廷に擦り寄って来たのに、頼朝がそうしないので
ニュータイプの武士の扱いに戸惑ったのだろう。
- 17 :
- じゃあ後白河が頼朝の征夷大将軍任官を認めなかった理由は?
- 18 :
- >>13-14
征夷大将軍は朝廷からはなれた遠征地で、朝廷の許可なく処断を行使できるからじゃないの。
- 19 :
- >>17
それを示す史料はなに? そんなのないでしょ?
- 20 :
- ぎすぎすしないで、まったりといきましょう。
高橋昌明先生が「六波羅幕府」「福原幕府」を主張されてますよね。
今度の大河が「平清盛」で、しかも高橋先生は時代考証だそうですから、
そうした説はますます注目を集めるように思うのですけれども、どんな
ふうに受けとめるべきなんでしょうか?
とくに、関西の方にお聞きしたいです。
- 21 :
- >>20
幕府という名称より、最高権力の所在がどこにあるかが本質だと思う。
清盛は院政停止を行っているし、後白河を鳥羽殿に軟禁しているから、
事実上の最高権力である。故に六波羅幕府と言っても差し支え無いだろう。
そもそも後白河の登極は、息子である守仁親王を即位させるための中継ぎであった。
故に守仁(二条)崩御後の後白河に政権を主催する根拠が無いのである。
- 22 :
- 治天の君は政権の長だろ?
- 23 :
- そうとも言えない。
治天の君は時代によってポジショニングが違ってるから。
単なる上皇から院政で最高権力者なった人までいたから。
- 24 :
- うん?
複数いる上皇のうち、政権をもってる人が
治天の君じゃないの?
そうじゃなきゃ、「治天」って表現使わないんじゃない?
- 25 :
- 会社の会長さんみたいなもんじゃないか
会社の経営を握る力を持っている人も居れば単なるお飾りな人も居るみたいな
- 26 :
- 都に上れば武家は朝廷に取り込まれ、散々頤使され使い捨てにされるのだから、
頼朝が鎌倉から動かないのは理にかなっている。都から離れていても権力を行使することのできる官職は
征夷大将軍くらいしかないな。
- 27 :
- >>26
頼朝は右大将として権力を行使したのでは?
実朝は右大臣にまでなったし。
もし実朝に子孫が続いたとしたら、
清華家としての家格を獲得したかも知れん。
- 28 :
- 幕府って、国軍最高司令官陣幕のことだろ?
いまは「市ヶ谷幕府」でOK?
- 29 :
- >>28
自衛隊の現在の最高司令官は誰だっけ?
- 30 :
- 征夷大将軍が武士の棟梁という慣例、ってとこがおかしいんだろ。
そんな慣例家康から。
え、じゃあ家康は誰に習って取得したの?
どーん、蝦夷征伐隊隊長は中華思想からみた東夷征服隊の延長です。
倭寇も一緒です。
朝廷に従わなかった蝦夷が関東武士です。
京の王家の血筋者を立てて反乱を起こしました。
相模武士団は京の倭国本山に実力を認めさせて全国に赴任していく。
そして京朝廷はそれをコントロールする者として
源氏を蝦夷征伐隊総帥に任命する。
そしてその婿源氏は地元北条氏に安楽死させられ、
以下、形だけの源氏でもない征夷大将軍を京から受け入れながら
全国勢力としての蝦夷、関東武士の北条氏が支配する。これが鎌倉政権。
- 31 :
- >>30
>征夷大将軍が武士の棟梁という慣例、ってとこがおかしいんだろ。
>そんな慣例家康から。
w
- 32 :
- 足利幕府は必然的に出来た。嫡流に近い源氏が足利しかいないから。
他方徳川は血筋なき覇者だから権威で自己を補強した。これしかあるまい。
- 33 :
- 幕府なんて呼ばれてないだろ
幕府というのは江戸時代末期に倒幕派が公儀を指して使った隠語だ
藩というのも明治になってそれまでの大名領をそのまま行政単位にした
ときの名前で一年ほどで廃藩置県
江戸時代に藩というものは無かった
だから長州藩というのはなかったし
拙者は長州藩士何々と申す などと言わなかった
- 34 :
- 鎌倉時代は「鎌倉殿」だね。鎌倉武士政権を幕府と呼び出したのは江戸期の儒学者で、
その呼称が定着したのは明治になってから。
- 35 :
- 幕府が複数出来ると区別の必要が生じる。
そこで「鎌倉」等の地名をつけて呼称する。
他方朝廷一つしか無いので、一々「京都朝廷」とは言わない。
- 36 :
- >>33
じゃなんて言うの?
「拙者は毛利家家臣、何某」とか?
- 37 :
- 0239年 卑弥呼が魏に嬢を遣わす
0672年 妊娠の乱
0710年 正常位京に都を移す
0794年 性感京に都を移す
1192年 源頼朝は六本木に幕府を作る
1205年 放尿義時が失禁になる
1221年 セクハラ探題設置
1232年 御性感色欲の制定
1274年 猛根襲来
1338年 足利尊氏が吉原に風呂町幕府を作る
1467年 ーの乱
1549年 教の伝来
1600年 関ヶ原の合コン
1603年 徳川家康がエロ幕府を作る
1841年 ティムポの改革
1853年 黒首来航
1868年 ボイン戦争
1871年 パイパン痴犬
1877年 性感論、性難の液
1904年 に戦争勃発
1914年 第一次性感体位戦勃発
1922年 関東大陰唇祭
1931年 マン臭事変
1945年 第二次性感体位戦終結
1970年 大阪でマンパク開催
1972年 腰縄変姦
1995年 阪神淡路大陰唇祭
2001年 アメリカ同時多発エロ
2003年 イメクラ戦争
2005年 愛・子宮博
2011年 東日本大陰唇祭
- 38 :
- >>33
「某は松平大膳大夫が家中」とか言う
- 39 :
- >>38
全国の大名の官職を記憶しないといけないから大変だね。国替えも発生するし。
たしかにこれじゃあ分かりにくいので、時代劇の考証でアウトだわ。
- 40 :
- 幕府
少なくとも当事者が自称したことはない(江戸時代に至るまで)
政権を指す学術用語として使われるのは明治以降
征夷大将軍
後白河が認めなかったのは畿外にあって独断専行で検断権を行使できる権能を持つため
頼朝の辞任は大姫入内運動との兼ね合いだろう(権大納言、右大将辞任とは意味が異なる)
- 41 :
- 高橋昌明氏説に倣えば北畠顕家は奥州幕府といえる?
- 42 :
- >>34
じゃあ「室町幕府」は同時代には何と呼ばれていたの?
- 43 :
- >>42
朝廷→関東、東国
御家人→鎌倉殿
統一した呼称はなかったと言われてる。
- 44 :
- >>43
レスどもthx。
でもあの、「室町幕府」のリアルタイムの呼称・・・
- 45 :
- >>44
だからリアルタイムだよ。
- 46 :
- >>45
京都にある室町幕府のことを朝廷が
>関東、東国
と呼び、
京都にある室町幕府のことを御家人は
>鎌倉殿
と呼んでいたの?
- 47 :
- >>44
公方(幕府、将軍の地位とも)じゃないの?
- 48 :
- 清盛の政治顧問であった平時忠の息子の時家が
鎌倉で頼朝の政治顧問やってたんだって?
面白いな
- 49 :11/10/30
- >>48
幕府も出来たころの院と同じで、家柄が低くて出世できない貴族の勤務先だった。
だから院も幕府も朝廷と併存できる。決して単なる暴力装置ではない。
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