2011年10月1期日本史後白河法皇を追憶するスレッド
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後白河法皇を追憶するスレッド
- 1 :11/09/07 〜 最終レス :11/11/21
- 特に政治力、政治手腕について語ろう。
- 2 :
- 大天狗=マキャベリスト、という解釈でいいのだろうか?
- 3 :
- 後白河に政治手腕があったかどうか謎である。そもそも登極自体が中継ぎであり、
在位2年で退位させられた後は、二条帝親政派との軋轢に懊悩し、二条夭の
幸運の後は清盛の政治壟断、院政停止の憂き目に二度も遭っている。
むしろ政治面よりも天皇家の荘園を集中し、経済的に生き残ることに成功した
手腕を評価すべきである。お手本は保元の乱後の藤原忠通による摂関家領の防衛行動だろう。
- 4 :
- >>3
> むしろ政治面よりも天皇家の荘園を集中し、経済的に生き残ることに成功した
> 手腕を評価すべきである。お手本は保元の乱後の藤原忠通による摂関家領の防衛行動だろう。
なるほど。
- 5 :
- >>3
> 後白河に政治手腕があったかどうか謎である。
中途半端にあったように思うな。
- 6 :
- 鹿ケ谷、は一発変換できない。
- 7 :
- >>6
ケ は小文字ではなかったか?
- 8 :
- >>1
追憶って
- 9 :
- 故人だから
- 10 :
- 何か最近の日本史リブレットではアスペルガー疑惑まで出てた
- 11 :
- 記憶力は凄かったらしい。
- 12 :
- ナッちゃん
- 13 :
- ヘイシが倒れたので保守
- 14 :
- ヘイシが倒れたので保守
- 15 :
- >>11
だね
- 16 :
- 今様マニア
- 17 :
- 歌が好きなことは良いことです。
- 18 :
- 権力闘争をくぐり抜けたのだから相応の政治力は持ってただろうが
結局は美福門院、平清盛、源頼朝などに翻弄された印象だな
- 19 :
- いいはげっぷりだったな
- 20 :
- >>17 だけど、深夜にどんちゃん騒ぎして崇徳帝に迷惑かけるのイクナイ
- 21 :
- >>19
ネタだろうが
あれは毎日丹念に頭をそってる賜物
- 22 :
- >>20
「梁塵秘抄」で後白河法皇は自分が今様好きになったのは
晩年不遇であった母待賢門院が寂しさを紛らわせるために好んだ影響
だと言ってるんだよね
晩年の待賢門院、帝位につけない四男坊の後白河、
この2人の境遇には共通点があったのかもしれない
- 23 :
- >>22 鳥羽上皇は待賢門院が死んだ時号泣したらしいじゃん。不遇だったの?
- 24 :
- >>18
> 結局は美福門院、平清盛、源頼朝などに翻弄された
それなりにうまく対抗していたと思うが。
- 25 :
- >>23
待賢門院は鳥羽上皇から美福門院と近衛天皇を呪詛した疑いをかけられて
強引に出家に追い込まれているよ
鳥羽上皇は晩年美福門院と一緒に離宮の鳥羽殿に住んでいたが
待賢門院は実兄の三条高倉殿に住み鳥羽上皇と別居していた
待賢門院の死後普段は住んでいない三条高倉殿に駆け付けたんじゃなかったっけ
- 26 :
- 鳥羽天皇の皇子って萎宮とか目宮など障害がある子いるね。
近衛天皇もナントカっていう目の小児がんが原因で死んだと言われてるし、遺伝的欠陥でもあったのかな?
- 27 :
- >>26
近親結婚の弊害じゃないかい?四の宮だけまともだったのが良かったのか悪かったのか。
まあ重仁親王も23歳で死んでいるし、どの道争乱は不可避ったと思う。
- 28 :
- >>27
鳥羽天皇と待賢門院は従姉弟だが、鳥羽天皇と美福門院とは血縁はかなり離れている
しかし鳥羽と美福の間に生まれた4人の子のうち2人が10代で死んでいる
昔は子供が半分しか成人しなかったというからそんなもんじゃないかな
- 29 :
- >>27
待賢門院は後白河の下にも弟を産んでいるよ。
仁和寺に入って出家した五宮覚性法親王で、こちらも壮健。
保元の乱で後白河に敗れた崇徳はあわてて同母弟の覚性法親王のもとへ逃げ
仁和寺にかばってもらおうとしたが、覚性法親王によって後白河に差し出された。
覚性法親王は五宮だから幼少期に出家になったみたいだけど、
もし万が一四宮が壮健じゃなかったらスペアとして俗世にあったんじゃないか。
- 30 :
- Wikiの重仁親王の所に足の病で死んだとありますけど、何の病気でしょうか?
- 31 :
- 足の病で死んだというと、糖尿病で足が壊死したとか?
- 32 :
- 日本史上での後白河の功績ってなに?
頼朝が武家政権で高評価を受け
後白河は保守反動扱いにされがちだが
- 33 :
- >>32
後白河がいなければもっと天皇家の地位低下は早かったと思うけどな
・天皇家に代わり政治を牛耳った摂関家から天皇家家長(上皇)の手に
政治を取り戻し新たなパートナーとして平氏を選んだ
・平氏も台頭しすぎて第二の摂関家になろうとすると
源氏に上洛を命じて平氏を追討した
・源氏にも追随せず頼朝の征夷大将軍就任を阻止した
武士の台頭が顕著だったから朝廷の政治が失速したように見えるけど
逆に朝政の主導権は摂関家や平氏ではなく天皇家家長である自分にあることを結論付け
頼朝を関東にとどめて朝廷の政治には一切口出しさせなかったことから
都における天皇家の地位は摂関全盛期などよりずっと高かった
- 34 :
- >>30ー>>31
当時の史料には「足の病」としかなくてはっきりしたことは分からないが
しかしおそらく「脚気」か何か
平安時代以降、上流階級で白米を食べる習慣ができて玄米に含まれるビタミンB1が欠乏、
足などを中心に下半身麻痺などが起こって死に至る病気
糖尿病だと目を患ったり(藤原道長)飲水病と呼ばれて異常に水を欲しがる(藤原伊周)
症状が一般的で足の壊死はないんじゃないかな
- 35 :
- >>34 でも脚気で死ぬ人って徳川家定・家茂みたいに衝心(心不全)じゃない?
- 36 :
- >>35
徳川家定・家茂も下半身麻痺があったんじゃなかったか。
家茂は手足の痛みを訴えてリウマチだという判断があったくらいだから。
麻痺がやがて心臓に至った場合、衛心が起こる。
重仁親王も長年脚気による足の痛みを患った挙句、
衛心を起こしたことにより死亡した可能性がある。
- 37 :
- >>33
> 後白河がいなければもっと天皇家の地位低下は早かったと思うけどな
それは同感
- 38 :
- 崇徳が白河の実子というのはもはや定説みたいだけど
当時でも知っているのは母のみということだろうな
待賢門院は若手の貴族との密通の前歴もあるし・・・
- 39 :
- ま、鳥羽院と崇徳院は顔そっくりだけどね。
- 40 :
- >>39
崇徳が仮に密通によって生まれた子であったとしても
鳥羽と崇徳は甥と伯父に当たるわけで似ていても不思議ではないが
- 41 :
- >>38
崇徳が白河の子という話が最初に出てくるのは鎌倉時代の「古事談」で
崇徳誕生から100年余りがたってから成立した説話集
同時代の公家の日記には崇徳が密通してできた子であるという話は出てこない
(待賢門院の結婚前の密通事件については同時代の藤原忠実の日記に出ている)
現実に、白河法皇が没した後も鳥羽上皇は崇徳を退位させることなく
その後11年間崇徳を帝位に留め置いたまま鳥羽上皇が院政を行っている
鳥羽が崇徳を退位させたのは寵妃美福門院に男子が誕生したためで
仮に崇徳が実子でない証拠や記憶があるならもっと早くに
別の皇子に天皇を代えることも可能だったはず
- 42 :
- >>41 そうだよなあ。
崇徳天皇が自分の子かどうか疑っているのなら、後白河や本仁親王が生まれたら即、譲位させるだろうしね。
- 43 :
- If話であれだが、八条院が女帝として即位して、
後白河が即位せずに二条天皇へ譲位されていたら、
その後の歴史は大きく変わってただろうな。
- 44 :
- >>43
全く同意
美福門院の意向は(八条院に関しては不明だが・・・)
即二条への継承だった
関白忠通の意見で
さすがに存命中の父をさし措いての即位は(?)という事で
中継ぎとして後白河の即位が実現した
(息子のおかげで皇位を拾った、早晩退位は必然だった)
当時の関係者が死没後思わぬ政治力が前面に出てきた
- 45 :
- もし二条が後白河を飛び越えて即位したら、後白河は院政敷けるの?
- 46 :
- >>45
承久の乱の後、鎌倉幕府によって後堀河天皇(後鳥羽上皇の孫王)が立てられた際、
後堀河天皇の父守貞親王(後鳥羽上皇の皇子)は即位したことがないにもかかわらず
後高倉院の院号を受けて院政を取っている。
- 47 :
- 重仁親王は親王宣下を受けたのに崇徳天皇第五皇子の覚恵は何で出家させられたの?
- 48 :
- >>47
重仁親王は美福門院の養子だったから親王宣下を受けたんだろ
崇徳天皇が退位させられ美福門院が産んだ異母弟近衛天皇即位を実現する緩衝材が
卑母の重仁親王を美福門院の養子にすることだった
- 49 :
- 待賢門院のおかげで閑院流(三条・西園寺・徳大寺)の地位が確立したな
二人の天皇の国母になったし・・・
- 50 :
- そもそも閑院流から即位した白河天皇のお陰だろ
待賢門院が摂家出身でないにもかかわらず立后できたのも
白河法皇が従兄弟の娘である待賢門院を養女にしたからだし
お蔭で「摂家でなくても立后・女院になれる」という先例を作り
摂家から「諸大夫の娘」と馬鹿にされていた
美福門院女院号宣下につながったりしたが
- 51 :
- >>41
逆に崇徳を天皇位に押し込めることで自由な活動をさせなかったとも取れる。
崇徳の在位が19年の長きに及んだのは、女の子ではなく別の妃の生んだ
男子を待っていたからだろう。事実そうなった。
- 52 :
- >>51
よく分からんが。
崇徳が帝位についたまま鳥羽上皇がば、崇徳が院政を取る。
崇徳が実子でないなら鳥羽上皇は一刻も早く崇徳を帝位から追いたいはず。
待賢門院の子は白河も本仁も白河法皇の子である可能性があるため
待賢門院以外の女との間の男子を待っていたからだというのならば、
鳥羽上皇は美福門院に近衛天皇を産ませる前に美濃局との間に法親王となった2人を産ませているし、
それ以外にも親王宣下を受けず僧籍に入った皇子が2,3人おり、これに帝位を譲ればよい。
鳥羽上皇は近衛天皇の前にも待賢門院以外の女との間に男子を設けていたということ
- 53 :
- 母親の身分の問題がある。
美濃局は石清水の坊官の娘で、ほかの皇子を産んだ母親も身分が卑しすぎ。天皇の母親にはなれんでしょう。
- 54 :
- >>53
重仁親王の母親も相当な卑母だろう。
崇徳天皇が熱心に近衛天皇の次代の帝位を期待したらしいが
卑母が駄目なら重仁親王も駄目だろう。
美濃局の皇子2人は法親王宣下を受けており、少なくとも
親王と認められるだけの身分はあった。
- 55 :
- 母親の身分が高くなかったが、結果オーライで即位できた帝は誰がいるの?弘文除く。
- 56 :
- 桓武天皇
- 57 :
- >>52
崇徳は4歳かそこらで即位しているので、即位後10年は子供だから何もできない。
だから焦って下ろす必要はなかったと思う。天皇を下ろすにも口実が必要で、
幼帝から幼帝にバトンタッチでしかも正室腹から卑母腹に皇位を伝えるのは
流石の鳥羽でも強行出来なかったのではないか?
重仁親王は譲位させられる崇徳を宥めるための捨て駒で、鳥羽は即位させる気は
全く無かったと思う。美福門院の養子にしたのも目くらまし。
- 58 :
- >>57
「鳥羽上皇は崇徳天皇がわが子でないことを知っていたが、
正室の皇子を退位させて卑母の皇子は即位させられないので、
高貴な正室である美福門院から男子が生まれるのを待っていた」
というのは誤り。
美福門院は摂家から「諸大夫の娘」と呼ばれ本来妃に立てる身分ではなかったし
しかも父親が死んでから鳥羽上皇にこっそり召し出され侍女扱いであったため。
近衛天皇は崇徳天皇中宮藤原聖子の養子になって初めて帝位につけただけ。
(近衛天皇の嫡母は藤原聖子ということになっており、近衛天皇在位中は
藤原聖子が近衛天皇の後見人として宮中に住んでいた)
つまり、高貴な女性を養母として迎えれば、実母が卑母であっても即位できるということ。
- 59 :
- >>51
鳥羽上皇は、崇徳天皇の正妃に摂関家出身の藤原聖子(関白藤原忠通の正室腹の長女)を迎えている。
万が一、聖子に男子が誕生すれば、いくら崇徳を皇統から外したくても
聖子の皇子を即位させないわけにはいかず、不可能だっただろう。
近衛天皇が即位できたのは聖子に子が生まれなかったというただの偶然の産物。
崇徳を皇統から外したいならば聖子との結婚前、幼帝であるうちに外すはず。
- 60 :
- >>55
六条天皇
- 61 :
- >>59
しかし退位させられたのは23の時だ。
要するにそれまでに男子が生まれなかったのが悪いということか。
女性の側も大変だな。崇徳と聖子の年齢がいくつ違うか分からないが。
- 62 :
- 平安末期は幼帝のオンパレードだけど(堀河・鳥羽・崇徳・近衛・二条・
六条・安徳・後鳥羽)宮中行事はどうしていたんだろうか?
特に四方拝や新嘗祭は上皇や摂政が代理でやるわけにはいかないだろうに。
- 63 :
- >>62
略式と言うか幼帝用の簡略版があったと思う。
- 64 :
- >>61
仮に聖子が自分で男子を産まなくとも、聖子と崇徳天皇が仲が良く、妾に産ませた重仁親王を
正妃聖子に頼んでその養子にできれば、近衛天皇即位は十分に阻めた。
近衛天皇即位の背景には崇徳天皇と中宮聖子の深刻な不仲があったということだ。
「今鏡」には崇徳は摂関家出身のこの高貴な正妃をないがしろにし
妾ばかりにかまけていたことが書かれてある(ちなみに聖子は崇徳よりも3歳年下)。
聖子が崇徳の異母弟を養子としたのはある意味摂関家による崇徳に対する反乱だ。
関白忠通が娘をないがしろにされたことで崇徳と不和になり、
崇徳の皇統を見捨てて近衛の皇統を打ち立てたわけで、むしろクーデターを起こしたに近い。
鳥羽上皇は崇徳天皇が招いたこの不和に上手に乗っかった。
崇徳天皇と摂関家の仲が上手く行っていれば近衛即位はなかった可能性が高いということだ。
- 65 :
- >>60
ああ、なるほど
- 66 :
- >>64
よくわかったよ。摂関家が最後に崇徳を見限ったんだね。
そう考えると院政期の摂関家にも力はあったということだね。
天皇がいるから当然だけど、ステレオタイプの「院政で権力喪失」
という教え方は良くないね。
崇徳はあまり頭が良くなかったことは分かったよ。いくら16歳の時の
子とはいえ、鳥羽より長生きできるのだから何としてでも治天になるべきなのに
聖子を怒らせるなんて。
- 67 :
- >>66
>院政期の摂関家にも力はあったということだね。
全盛期ほどではないが、それなりの力はあった。
- 68 :
- 保元の乱で半壊、治承三年の政変でとどめを刺された感じだな、摂関家。
- 69 :
- 松殿家なんてすぐに没落したもんね。近衛基通が24で死んだ時点で終わってる。
- 70 :
- ああごめん。近衛基実だった夭したの。
- 71 :
- 関白藤原忠通の息子たちは皆晩年にできた子なので
(男子がない忠通のために異母弟頼長を養子にしていたのに40過ぎてから
実の男子が生まれた忠通が実子相続しようとしたことが保元の乱の一因)
忠通が死んだときに息子たちはまだ皆若かった
その上、長兄系の近衛家は平清盛の娘と2代にわたって政略結婚
完全に平氏政権に取り込まれた形に
木曽義仲は平氏を姻戚とする近衛家を嫌って弟を松殿家として関白にしたが
当の木曽義仲がすぐに没落したために松殿家も没落
源頼朝は近衛も松殿も嫌って更にその弟を九条家として関白にした
九条家は後鳥羽天皇・順徳天皇の中宮を出すなどそれなりに勢力を持ったが
承久の乱後の西園寺家の台頭により天皇の外戚としての地位から転落した
- 72 :
- >>71
>実の男子が生まれた忠通が実子相続しようとしたことが保元の乱の一因
これいつも思うのだけど、頼長が左大臣の高位に上ったのは貴族社会全体の総意であり、
忠通の後継者として早くから貴族社会で育成されて来た結果だと思う。もし忠通に
男子出生の見込みがあるなら、頼長を左大臣にまで出世させず卑位に据え置いて
待てばいいだけ。故に保元の乱で頼長が敗死しなければ、摂関家の世継は頼長だったろう。
どうにも後付けの理屈に聞こえる。
- 73 :11/11/21
- >>72
頼長が近衛天皇に后候補として養女の多子を入内させたが、
わずかその2か月後忠通が養女の呈子を入内させている。
そしてなんと後から入内した呈子が先に立后。
頼長は実父の忠実に泣き付いて強引に多子立后をしている。
貴族社会が摂関家家長は頼長が継ぐことで納得していたのならば、
多子立后で貴族社会は一致団結したはず。
しかしその後、逆に多子は宮中を追い出されてしまい、
保元の乱以前から頼長の今後に暗雲が立ち込めていた。
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