2011年10月1期日本史院政について語ろう
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院政について語ろう
- 1 :11/09/29 〜 最終レス :11/11/19
- 摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。
- 2 :
- 「おりゐのみかどの門に車たつ様やはある」と豪語した師通だったが、見事に車が立って自身は40歳前に薨去。
院政も最初期は摂関家、太政官(天皇)と対抗勢力が多く決して順風ではなかった。創始者白河が師通同様短命であれば、
院政なる言葉が現代に伝わることも無かっただろう。やはり上皇として40年以上政柄を握った白河の功績は第一である。
- 3 :
- 天皇で院政期以降、名前に「仁」がつかないのは珍しい。
そして「仁」のつかない4人が悉く戦火を招いたのは偶然だろうか?
尊成(後鳥羽)
守成(順徳)
懐成(半帝)
尊治(後醍醐)
後鳥羽が決起しなくとも、院の力はがれて行ったのだろうか。
後醍醐が欲張らなければ、両統迭立は続いていたのか。
- 4 :
- >>3
仁が天皇家の通字になったのは北朝からじゃなかった?
- 5 :
- >>4
後三条天皇(諱:尊仁)からでしょう。その後は白河(諱:貞仁)、堀河(善仁)と「仁」字が
続いていますし。
白河天皇の第一皇子は敦文と「仁」字でないけれど、この時点では父親の天皇自身が
一代限りの含みだったはずですね。
- 6 :
- 大覚寺当はついてなかったはず
- 7 :
- 御宇多院までは「仁」をつけていたんでは?
後宇多天皇の子は「治」、孫は「良」としているようだけれど。
- 8 :
- >>5
一代限りの天皇って条件で即位させても、大体失敗するよね。白河も後醍醐もそう。
崇徳も形の上でそうなって乱を起こした。
天皇位を自分の直系子孫に継がせることの意義はどこにあるのだろうね。
天皇になれても苦悩は続く。
- 9 :
- 婚姻形態の変遷が根本に有るのかもしれないが
(通い婚から同居婚へ)
・白河の強烈個性
・関白師通の早すぎる死
(後継忠実はまだ10代、皇室の外戚たる有力な叔父あり)
院政の成立はこの二点が大きいと思う
(通説の後三条の荘園整理は過大評価)
- 10 :
- >>9
白河が「一代限りの天子」だからこそ、形振り構わぬ権力維持に邁進したのだろう。
何しろ協調や妥協、譲歩は全て自身の命取りになるから。院政は副産物のようなもので、
摂関が置かれていても天皇家の家督であれば、天皇制度でも充分だったろう。
- 11 :
- 承久の乱で宮方が敗北を喫した時も、幕府は後高倉院を担いで院政を復活させた。
既にこの時期には、院(治天)無くして朝廷は動かない仕組になっていたようだ。
治天の必要性は南北朝期の北朝で顕在化するが、その嚆矢は後高倉院にあると言える。
- 12 :
- 上皇が複数いた時期はいつだろう。
崇徳即位後の鳥羽が最初の例か。
よく「天皇の直系尊属=治天」と言うが、
崇徳嫌いの鳥羽が勝手に作ったルールにも思える。
それ以前にはそういう皇位継承が存在していないから。
崇徳の怒りも分からないでもない。
- 13 :
- 複数の上皇がいた時期というだけであれば、もっと昔から例はいくらでも
あるとおもうが。平城・嵯峨、嵯峨・淳和とか。
それはともかく、両統迭立期だと、例えば円融院は一条天皇の時期に
あれこれと口を出したというけど、冷泉院・花山院にはそういう話がない。
まあ、冷泉は口の出しようがないのかもしれないけど、花山なぞ一条の
命令で院を検非違使に取り囲まれたりといった扱いを受けているね。
- 14 :
- 治天は天皇家の惣領という意味合いが強いから、上皇が複数いても治天は一人。上皇がいても治天が天皇であることもある。
だからイエ制度が確立していない平安後期以前の、譲位後も権力をふるった持統や聖武も治天ではない。
- 15 :
- >>14
>上皇がいても治天が天皇
どの天皇のことだろう?
- 16 :
- 治天という言い方をするかどうかはともかく、天皇に対して親権を行使
できない上皇が政治に関与できなかったという例はいくらでもあるので
は?
後宇多院政停止後の後醍醐親政期にも、後伏見、花園といった持明院
統の上皇はいたわけだし。
- 17 :
- ここでも後醍醐か。変則で皇位が回って来るとやたら執念深くなる奴が出るな。
だけどそいつが事を起こすたびに、朝廷の力が衰えていく皮肉。持明院上皇の
出した錦の御旗で尊氏も官軍になった。かつて天皇位にあった事実があれば、
実権云々は下々にはどうでもよかったんだな。
- 18 :
- 後鳥羽も自ら墓穴掘って朝廷の力を弱めたな
- 19 :
- >>15
後嵯峨がいるだろう。
- 20 :
- >>19
?
四条天皇崩御後に数日の空位を経て即位。即位後3年で譲位だったよ。
上皇なんていなかったはず。いたとしたら何て上皇?
- 21 :
- 順徳院はまだ存命だったのでは?
- 22 :
- ああそうだったね。だから九条道家の推す順徳の子、忠成王ではなく、
幕府の推す土御門の子、邦仁が即位したんだった。ありがとう。在京の上皇に気を取られていた。
- 23 :
- 白河院政期のこと。鳥羽帝が即位した際に摂関家の忠実が若年(29歳)であることを侮り、
藤原閑院流の公実が幼帝の外舅(妹の子が鳥羽)の立場を利用して摂政位を望んだことがあった。
これを耳にした院別当源俊明が、「四代もの間、諸大夫として仕えた者が今摂関を望むとは」
と公実の要望を一蹴したため摂政位は忠実のものとなったが、このことがあって初めて、
摂関になる者の出自が摂関家に限定されたのである。貴族社会の前例が形成されていく一コマである。
- 24 :
- 諸大夫と書いている話をよく見るけど、実成以降も代々大中納言に上がっているのに、
>ひとえの凡夫にふるまいて代々をへて
を「諸大夫として仕えて」とするのは誤読じゃないのかな。
- 25 :
- 父師通の急により弱冠22歳で家督を継いだ忠実だったが、
摂政ではなく旧官に内覧を加えられたに留まった。内覧権大納言である。
最初から白河院の下風に立つ出だしであり、院に協調する政治を行うしかなかった。
時が過ぎ、院から忠実の一子忠通の正室として閑院流の公実の子璋子を斡旋されるが、
璋子の素行に難ありとしてこれを拒否。しかしその後璋子が鳥羽帝に入内し、諸々の
噂の元、延いては王朝時代の終焉に繋がる事変に繋がって行く。もしも忠実が院の
申し出を受け入れていれば、その後の歴史はどう変わっただろう?
- 26 :
- 上皇の規定は律令にも存在し、白河上皇以前にも「おりゐのみかど」は数多いが、
せいぜい花山院のように浮名を流す程度で政治力のない存在だった。あくまでも
律令制度の頂点は太政官を率いる天皇であり、天皇が上皇に抵抗することは可能である。
院政期にそれを試みたのが二条天皇で、勅命によって父後白河の人事を何度も覆した。
その結果22歳の若さで急死したが、これは偶然なのだろうか?
- 27 :
- 二十歳過ぎても天皇って、その当時としては異常じゃなかったの?
- 28 :
- >>27
後白河即位の経緯が中継ぎ棚ボタ方式だったから、
他の上皇のように容易に二条を降ろせなかったと思う。
二条は美福門院が推す本命で、保元の乱後に信西と美福門院の
「仏と仏の評定」で後白河を退位させ即位しているから。
当然二条自身にもその自負はあったろう。即位当時16歳で
分別があったからだ。美福門院の寿命が短いことが二条の悲劇と言える。
- 29 :
- 天皇の従兄弟にすぎない花山院はともかくとして、父親である
円融院は人事にも口を出していたという話ですね。
- 30 :
- 人事に口を出して天皇がそれを聞くのは問題ない。院と内裏で意見が相違した時、
院宣と勅命の応酬になり収拾不能になる。白河以前の上皇は藤原摂関家の圧力で
退位しているので、天皇に摂関家が味方している点から天皇優位。
- 31 :
- 西武の堤義明の院政は終了したのかな
- 32 :
- 西武グループ内での堤家の影響力は、もはや昔日の面影はない。
- 33 :
- 人気のないスレだな。律令という正規の法典に無い政治形態だから嫌われるのかもね。
公家社会は極端な前例踏襲社会だから、20年もやっていれば善悪にかかわらずそれが前例になる。
だから、平安末期には治天の存在が不可欠になり、神器無くして即位した尊成親王(後鳥羽)も、
その正統性に疑念を抱かれることは無かった。治天後白河による「伝国の宣命」があったからだ。
- 34 :
- 治天不在で即位した天皇なんて、後白河と後嵯峨くらいなものだろう。
さりとて伝国の宣命の無い即位がイレギュラーと言うことも無く、
この二人はともに短期間の在位で退位し、その後も治天として君臨した。
治天無き即位であっても、その後自らが伝国の宣命を発することは可能であった。
- 35 :
- >>34
後白河のときには、父親の鳥羽院が健在でしょう?
- 36 :
- 鳥羽帝も待賢門院腹の皇子を皇位に即けるのは反対だったようだ。
八条院内親王を女帝に据える話が出たくらいだから。それでも
後白河の即位に踏み切ったのは、後白河は身に覚えのある皇子
だったからだろう。崇徳の皇子重仁だけは飲めない話だったようだ。
- 37 :
- 三種の神器無き即位をした後鳥羽だったが、後世「半帝」などの情けない名前はつかなかった。
これは神器無き即位であっても、治天後白河の伝国の宣命が下されたからであり、壇の浦に
神剣が沈んだこともあって、即位時の神器の存在は以後不問となっていく。
では、神器も無く治天も存在しない中で天皇は即位できるだろうか?実はこういう事例が現実にあった。
観応の擾乱の際南朝軍が都になだれこみ、北朝の3上皇と前の皇太子を拉致してしまった。
光厳上皇、光明上皇、崇光上皇(正平一統で在位を否定)、萩原前坊直仁親王の4名が都から消えたのである。
更にこの時南朝は北朝の神器をも接収して行ったので、南朝の狙いは明らかであった。
「治天を欠いた状態で朝廷が再興出来ようか」という心算である。神器接収はおまけに過ぎない。
- 38 :
- だからこそ今の「皇室」は偽物。
万世一系の皇室は滅ぼされている。
- 39 :
- さて、南軍に3上皇と前皇太子を拉致された北朝では、当然様々な支障が生ずる。
まず天皇をどうするか、次に治天をどうするか。神器の不在は前例があるので目を瞑ろう。
北朝内で必死に天皇の後継を探したところ、光厳上皇の第2子で出家するために寺にいた
弥仁(15歳)が見つかったのでこれを天皇にすることにした。出家寸前で取りやめ。
さて問題は伝国の宣命を発する治天の存在である。3上皇は拉致されそれ以前の上皇は
墓の下である。北朝はイタコでも呼んで来たのだろうか?
- 40 :
- 元々神器の引き渡し等々は践祚の付属儀式みたいなもので、重きは
置かれていなかったというからね。
- 41 :
- >>40
懐成(仲恭)が「半帝」と呼ばれたのは、承久の乱のごたごたで幕府によって下ろされたから。
当然、治天(後鳥羽)の伝国の宣命を受けており、正統性については何の問題も無い。
因みに後鳥羽は次期治天に順徳を考えていたようだ。こうして見ると皇位継承と言うのもいい加減なもので、
幼児を玉座に座らせ「次期天皇はお前だ」と治天がささやけばそれで終わり。だからこそ治天の存在が
天皇の製造には不可欠である。
- 42 :11/11/19
- さて、南軍に皇位経験者を全て連れ去られた北朝では、
天皇の後継(弥仁)は確保したが治天の不在はどうしようも無かった。
しかし、幕府としても拱手できる話では無い。これより前に為された
正平一統によって北朝が否定された以上、北朝に任じられた幕府もまた
法的な存在根拠を失ったからだ。
そこで幕府は、光厳、光明2代の母である西園寺寧子(後伏見女御、当時落飾して広義門院)を
治天に担ぎあげて強引に朝廷を再興させたのであった。天皇家に出自せず、また女性の身で
治天になったのも空前絶後なら、弥仁の即位式に神器も欠くと言う異例のオンパレードであった。
これにより北朝の天皇の権威は地に堕ち、弥仁(即位して後光厳)の子緒仁(後円融)の時代に
足利義満が皇位簒奪の動きを見せるのである。そして300年に及ぶ院政もまた、後円融の時に
終焉を迎えるのであった。
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