2011年10月1期日本近代史【上野介】小栗忠順【幕臣】
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【上野介】小栗忠順【幕臣】
- 1 :10/09/29 〜 最終レス :11/10/17
- 無かったので
- 2 :
- お静かに!
- 3 :
- 小栗 忠順 → 石田 三成
勝 海舟 → 小早川 秀秋
こうですか?わかりません
- 4 :
- ケーキちゃんは?
- 5 :
- この人には榎本武揚のように維新後も活躍してほしかった。
- 6 :
- 勘定兼軍艦奉行
小栗豊後守
- 7 :
- 小栗 忠順 → 石田 三成(無二の忠臣)
勝 海舟 → 小早川 秀秋(身の保身のために平気で人を裏切る奸臣)
徳川 慶喜 → 豊臣 秀頼(マザコンの優柔不断男)
の提供でお送りいたします
- 8 :
- 勝は、明治維新後に徳川慶喜と明治天皇の会談を実現させ、実質的に朝敵の汚名を晴らしました。
慶喜は、自ら権力者を降りる事で、見苦しく権力にしがみつく事をせず、結果的に徳川宗家を現代まで残すに至っています。
小栗は…不必要に戦争を煽って薩摩藩邸を焼き討ちし、大坂城に主戦派と軍隊を送りつけて鳥羽伏見の戦いを起こした元凶。
徳川家に賊軍の汚名を被せて存亡の危機に立たせた不忠者です。勝と慶喜の活躍で汚名を晴らせましたが、
小栗は首にされたというだけで、権田村に引っ込みされました。当然の報いでしょう。
- 9 :
- 違いますよ。薩摩藩屋敷を焼き打ちにしたのは、稲葉美濃、稲葉兵部大輔、松平甲斐ら閣僚と、前橋、西尾、上山、荘内の藩兵だ
- 10 :
- それが、薩摩藩邸焼き討ちに際しては、
江戸の幕府内の事務手続きとは別に、当時の幕府閣僚(町奉行 朝比奈昌弘)の証言が残っていて、
それによると小栗ら幕府内強硬派が焼き討ちを強く求めたことになっているのです。
- 11 :
- まぁ幕権主義者だったしな。
- 12 :
- TVで小栗の3位に驚いたが
逆に小松帯刀がランク外に
ワロタ。
- 13 :
- 仏の飼い犬
- 14 :
- 仏被れ
- 15 :
- 仏
- 16 :
- 陀
- 17 :
- 再
- 18 :
- 誕
- 19 :
- 生
- 20 :
- 日
- 21 :
- q
- 22 :
- 小栗家は三河以来の旗本ですな。
- 23 :
- 別に珍しくもないけどな
- 24 :
- ロシアにビビッて逃げました。
北方領土じゃないよ対馬から。
こんなもん称えてるバカはヤマト至上主義ヴァカ。
天皇を否定する為に幕府をヨイショ。
- 25 :
-
富国強兵のマスタープランの作成者
日本の経済官僚の第一号
官軍がしてしまったのは、惜しい。
- 26 :
- 万博んときのフランスからの借金は失敗したんだよね
そんなに幕府の台所厳しかったんだろうか
- 27 :
- 兵庫開港で関税収入が確保されて、幕府の資金繰りはだいぶ良くなる。
確か年に100万両の収入になっている。
- 28 :
- 兵庫開港は鳥羽伏見の戦いの直前(1ヶ月前)だったから
旧幕府の財政には寄与しなかったと思う。
- 29 :
- お
- 30 :
- 小栗のやろうとしていたことは、幕末の幕政改革“慶応の改革”に凝縮されている。
慶応の改革(けいおうのかいかく)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
1866年以後に江戸幕府15代将軍徳川慶喜によって行われた改革。
結果的には江戸幕府最後の幕政改革となった。
@江戸幕府に欧州行政組織の要素を導入(老中を専任の長官とする「五局体制」事実上の「内閣制度」)
A諸藩や朝廷の権力を削減して、日本を幕府を頂点とする中央集権国家体制する
B新税(関税)導入も含めた財政改革
C旗本の軍役の廃止(銭納をもって代替)してフランス軍事顧問団の指導の下での新制陸軍の整備
D甲鉄艦導入による幕府海軍増強策
Dフランスの支援による横須賀製鉄所と造船所の建設と兵器の国産化計画
(計画のみ)
@産物会所・日仏会社(江戸幕府・フランスの共同経営の商社兼運送会社)による国内流通・国際貿易の独占支配
A本格的な蝦夷地開拓
B新橋-横須賀間の鉄道を敷設
- 31 :
- もっと評価されるべき
- 32 :
- あと
築地ホテル建設。
ガス灯の設置。
電信制度や郵便制度の構築。
も小栗の構想。
- 33 :
- 小栗の凄さは、蘭学を学ばずに合理主義思考ができたこと。
- 34 :
- A諸藩や朝廷の権力を削減して、日本を幕府を頂点とする中央集権国家体制する←×
A諸藩や朝廷の権力を削減して、日本を徳川宗家を頂点とする中央集権国家体制(郡県制)とする←○
- 35 :
- 慶応の改革(けいおうのかいかく)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
1866年以後に江戸幕府15代将軍徳川慶喜によって行われた最後の幕政改革。
事実上、徳川宗家主導の“富国強兵”であり近代化政策であった。
@江戸幕府に事実上の内閣制度の要素を導入(老中を専任の長官とする「五局体制」)
A諸藩や朝廷の権力を削減して、日本を徳川宗家を頂点とする中央集権国家体制する(郡県制)
B新税(関税)導入も含めた財政改革
C旗本軍役を廃止(銭納をもって代替)、フランス軍事顧問団の指導の下での新制陸軍の整備(銃兵化)
D甲鉄艦導入による幕府海軍増強策 (買付け手続は幕臣小野友五郎による)
E兵器の国産化を目的としたフランスの支援による横須賀製鉄所と造船所の建設
(計画のみ)
@産物会所・日仏会社(江戸幕府・フランスの共同経営の商社兼運送会社)による国内流通・国際貿易の独占支配
Aアームストロング砲の大量購入
B本格的な蝦夷地開拓
C新橋-横須賀間の鉄道を敷設
D築地ホテル建設
Eガス灯の設置
F電信制度や郵便制度の構築
- 36 :
- これら慶応の改革をやられてしまうと、困る勢力が二つある。
薩長とイギリスだ。
まずは薩長だが、慶応の改革が実現してしまうと、
完全に軍事的にも経済的にも徳川宗家が圧倒し近代化されてしまう。
そうなると薩長らは、とてもじゃないが徳川宗家には手が出せなくなり、討幕が実現不可能になる。
特に長州藩の桂小五郎は
「関東の政令は一新されている(慶応の改革の事)、一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」
と警戒しているぐらいで、
薩長としては幕府の慶応の改革が完成しないうちに討幕を実行したがった。
また、イギリスは対日貿易でジャーディン・マセソンなどの商社が利益をあげており
E兵器の国産化を目的としたフランスの支援による横須賀製鉄所と造船所の建設
@産物会所・日仏会社(江戸幕府・フランスの共同経営の商社兼運送会社)による国内流通・国際貿易の独占支配
などを幕府の政策として実行されてしまうと、英国系の商社の取り扱いが減り利益にならない
特に日本側が商社を作り生糸などの輸出まで日本側が行うとなると英国系の商社の利益が
棄損してしまい、何の為に貿易をしているか判らなくなってしまう。
また武器の国産化も外国系商社の利益にならない、日本が大量に武器を購入してくれているので
外国系商社が儲かっている事実があり、日本が武器を国産化してしまえば、武器を輸入する事も
なくなり外国系商社の利益にならない。
この様に慶応の改革には外国にとって利益にならない政策が含まれており、
この事がイギリスなどが討幕派支援に回った背景となっている。
- 37 :
- 夢のような計画だとは思うが、実際にそれを行い得る体力が幕府にあったのだろうか?
例の国債募集のとき、ロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」
とか言っている。
まぁ廃藩置県と税制の改革を幕府の手で行えれば良かったのだろうが、小栗が幕権と幕威の強化に拘ったのは
それも要因としてあるのだろうか。
- 38 :
- >>37
今の価値で6千億円ですか……。
- 39 :
- >実際にそれを行い得る体力が幕府にあったのだろうか?
有ったから慶応の改革を開始しているんだが。
>ロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」 とか言っている。
小栗はかなり凹んだらしいね、 特に薩摩藩の妨害工作でダメになった事が動揺の元なのでは?
>まぁ廃藩置県と税制の改革を幕府の手で行えれば良かったのだろうが
諸藩を潰して郡県制を引くのは、徳川宗家では規定路線だ、
それに1867年11月から神戸港からの関税としての現金収入が入ってきている。
これが結構幕府の収入としてかなりデカイ。
それと慶応の改革メニューC旗本軍役を廃止(銭納をもって代替)もかなり幕府の歳入増加に寄与しているらしい。
このCの政策はフランスからの600万ドル借款がダメになったので、無理やり旗本から絞り上げて資金を捻出する為に
考え出された緊急避難的な方法らしい。1867年9月26日に急遽導入されたモノだ。
この旗本軍役を銭納をもって代替だが、松浦玲著「徳川慶喜」を見るとかなり幕府は旗本に対して強引かつ大幅な
銭納を求めている事が記されている。おおよそ旗本領からの年間年貢収入の半分を幕府が徴収する事でフランスからの
600万ドル借款の代わりの資金を作ったらしい。しかしこの政策は旗本達には不評で、皆かなり怒っていたと勝海舟は評している。
この旗本年貢収入の半分を徴収する政策は、旗本領300万石の半分150万石分の収入を幕府のものとしてしまう政策となり、
事実上幕府の天領は、従来の400万石+新規徴収分150万石=550万石となり幕府の財政基盤は強化されている。
- 40 :
- >この旗本年貢収入の半分を徴収する政策は、
>旗本領300万石の半分150万石分の収入を幕府のものとしてしまう政策となり
いずれ幕府は、旗本領300万石全てを収公するつもりだった。
そうなると天領は、700万石になり、徳川宗家は空前の巨大大名になってしまう。
旗本は、幕府から給料をもらうだけのサラリーマンになってしまうが…
- 41 :
- 三河奥殿藩の第8代藩主で、のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の初代藩主である松平乗謨は、
老中兼陸軍総裁だった大政奉還直後の1867年の10月18日付けで、
徳川版廃藩置県を提言している。
松平乗謨(大給 恒)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B5%A6%E6%81%92
- 42 :
- >>37
>夢のような計画だとは思うが、実際にそれを行い得る体力が幕府にあったのだろうか?
>>40
そもそも「慶応の改革」は、徳川宗家を西洋的に軍事化し、薩長に対抗して中央集権的な「郡県制」施行を目的としたのも。
そしてこの為の軍資金を捻出する為に日本を経済的に富ませようとした。
つまり「慶応の改革」は、富国強兵の第一歩、と言えるものだ。
当然、徳川宗家天領の増加も「慶応の改革」の目的の一つになる。
徳川宗家が旗本領を収公して七百万石の巨大大名になるのは、薩長に対する対抗策として当然ありえる事。
徳川家が七百万石になれば、薩長も怖くて手が出せなくなるw
- 43 :
- >>37
>夢のような計画だとは思うが、実際にそれを行い得る体力が幕府にあったのだろうか?
>>40
そもそも「慶応の改革」は、徳川宗家を西洋的に軍事化し、薩長に対抗して中央集権的な「郡県制」施行を目的としたのも。
そしてこの為の軍資金を捻出する為に日本を経済的に富ませようとした。
つまり「慶応の改革」は、富国強兵の第一歩、と言えるものだ。
当然、徳川宗家天領の増加も「慶応の改革」の目的の一つになる。
徳川宗家が旗本領を収公して七百万石の巨大大名になるのは、薩長に対する対抗策として当然ありえる事。
徳川家が七百万石になれば、薩長も怖くて手が出せなくなるw
- 44 :
- 小栗の最後は悲惨だったね。
逃亡先で、今まで幕府にさんざんイジメられてきた農民が小栗をかくまわずに
財産を奪い、即刻新政府に首を突き出された。
そんなに、嫌われてたんだろうか?
- 45 :
- 上野の知行地に来たのは初めてだっけ?
- 46 :
- 初めてかどうかは知らんが、まぁ余り行く暇はなかったんじゃね?
政務忙しかったろうし
- 47 :
- 幕府=徳川本家の家政
諸藩政府=諸大名の家政
両者は全く同じ原理の裏表なのだ
幕府とは日本政府ではない
原理が同じな一方を廃止し自分は残るという廃藩置県を幕府ができるはずがないのだが
小栗は分からなかった
勝は誰より早く正確に見抜いていた
今でも2chでもこのスレでもこれが分かって無い人は多い
だから小栗が分からなかったのも無理はない
- 48 :
- >原理が同じな一方を廃止し自分は残るという廃藩置県を幕府ができるはずがないのだが
イヤだから、1867年の10月14日の大政奉還で、幕府(徳川宗家)=中央政府
と言う構図はなくなっているのだが…15日以降は、朝廷から暫定政府として
幕府が日常の行政事務は処理するだけ委任されている体制。
正式な事や重要な事は、朝廷主催下の諸侯会議で決めますから、それまで待っててね、って言う事。
10月24日に慶喜は、大政奉還に続き、正式に征夷大将軍職の退任届けを朝廷に提出したが、
これも26日に却下され、この件も朝廷主催下の諸侯会議で決める、とされた。
だから慶喜は、前政権トップ兼暫定政府のトップの立場と言うだけ。
- 49 :
- 小栗は大政奉還絶対反対かつ大政の幕府への再委任を強く進言していました。
幕府の未来を語るところでは、徳川慶喜の大政奉還を持ち出し、
その他の部分では小栗の幕政強化論を持ち出すのでは、筋が通りません。
- 50 :
- >小栗は大政奉還絶対反対かつ大政の幕府への再委任を強く進言していました。
最初はね。
でも67年11月に小栗が上京して慶喜の説明と説得で大政奉還を認める様になります。
戊辰戦争の最中には小栗は主戦を説いたと言われているが、倒幕を容認する発言もしている。
「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない…」
「私は幕府の臣であるから幕府のためにつくす身分ではあるけれども、
結局日本の為であって、幕府のしたことが長く日本のためとなって
徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。
国の利益ではないか。同じ売り据え(売家:大政奉還の事)にしても土蔵付売据の方がよい。
あとは野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない」と語った。
- 51 :
- 土蔵付売据=横須賀製鉄所の事
- 52 :
- 主戦論を主張した上で知行地に帰らなければなぁ。
他の幕臣みたく適当な処置で済んだ上に仕官も出来ただろうに、勿体無い。
まぁ泥舟のように隠棲した可能性のが高いけど。
- 53 :
- もしかしたら、勘定奉行の経歴を買われて明治政府で蔵相や日銀総裁をやったかも。
はっきり言って、富国強兵は小栗にやらせた方が、もっと早く出来たかも知れない。
もともとのプランニングは彼だし。
- 54 :
- まぁプランニングっつーか、工程表みたいなのは残ってないので、
明治政府は明治政府で独自の富国強兵だと思う。
急進派も居れば、漸進派も居たからね。どっちも正しい部分はある。
しかし見てみたかったな、明治の小栗。
- 55 :
- 明治政府は、富国強兵の工程表なんか作っていたっけ?
- 56 :
- いやそうでなく、小栗がプランニングしてたとしても、それは残ってなかったのではってことで。
造船所なんかの物は残ってたけど。
あと明治政府は、何をやらなきゃいけないってのはまー大体共通なんだが、
実施希望時期が人によってバッラバラなんだよなw
- 57 :
- 明治の小栗と大村益次郎が見たかったな
- 58 :
- 小栗はフランス公使・レオンロッシュに裏切られた可愛そうな奴。
- 59 :
- 皆さん小栗のことをボロクソに色々言うけど、明治維新政府は、混乱に混乱を重ねて、
結局最後には小栗ら旗本幕臣が作った最後の幕政改革“慶応の改革”を丸呑みして富国強兵に乗り出したんだよ。
小栗や栗本あたりは、本当にスゴイ人だったと思う。
“慶応の改革”の途中で戊辰戦争が始まっちゃった。
しかしこれも桂小五郎が言うように、“慶応の改革”が成功すると
徳川宗家が強くなりすぎて討幕が 出来なくなるので、慌てて王政復古のクーデターを起した面がある。
慶喜も在京の幕臣も幕藩体制には、それほど固執していない。
実質的に徳川宗家の政治力が残れば、どんな体制でも良いや! っていう割り切りがある。
大政奉還後の小栗もそんな感じ、小栗だったら政府が近代化しても大蔵官僚出来るしね。
- 60 :
- 小栗?
幕府が勝ってもどうせ途中で揉めて引きこもるだろ
- 61 :
- 色々あるだろうが、慶喜が連れ戻すだろう。
小栗を切り捨てるのは、鳥羽伏見の戦いに負けて江戸に帰り、強硬派幕臣を解任し始める時。
徳川方が勝っていたら使い続けるだろう。
この時点で、産業政策と近代的軍隊の創設双方をパッケージして行えるのは
小栗しか居ないだろ。
- 62 :
- 新政府は天皇以外はフリーハンドで改革できたけど
小栗たち幕臣の改革では洋務運動程度で頓挫したと思うけどな
慶応の改革の軍事部門をみると。この期に及んで要職につくのに
まだ家格が必要なんだから。
- 63 :
- 川路聖謨の方が能吏であった。
小栗はちと頭が悪過ぎたね。
- 64 :
- ほしゅ
- 65 :
- 新政府の改革がかなり大胆で抜本的なモノになったのも、旧幕府軍が朝敵になって抵抗して、
東日本全域を舞台にして戦争を行ったからこそってのもある。
あそこであれだけ薩長がその武力を見せつけていなければ、朝廷側に集まった諸藩も
ちゃんとおとなしく改革に従っていたかどうか。
既得権(家格や門閥制)を守ろうという動きは幕府側にも諸藩側にも朝廷側にもあったけど
それを有無を言わさぬ力でもってねじ伏せることが出来たのは、実際に戦火を交えて敵と戦う
という経験をした下級士族達の発言力がこの戦乱を通じて上昇したからって側面が大きい。
小栗がどんなに悪戦苦闘しても、徳川家というご本尊を後生大事に抱えている限りは、
こうした旧来の人事慣行からは抜け出せなかったんじゃないかな。
- 66 :
- 薩長は旧主君を結構ないがしろにしてますよね。小栗は高禄だから無理か。
- 67 :
- 何言ってんの?武家や封建制度讃美ですか?
- 68 :11/10/17
- 小栗の軍制改革だが、
もし、軍制改革が完成していれば、
幕府の陸海軍は、どのくらいの規模になってたんかな?
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