2011年10月1期日本近代史近代日本の黒幕・杉山茂丸について
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近代日本の黒幕・杉山茂丸について
- 1 :10/10/26 〜 最終レス :11/11/19
- 最近知った。
- 2 :
- 居酒屋で話すネタ
- 3 :
- 若い頃は凄い美男子だよね。
息子の久作とは大違いだ。
- 4 :
- 偉人
- 5 :
- 息子のキチガイ小説読んでみ ドグラマグラとか
- 6 :
- 狂人
- 7 :
- 変人
- 8 :
- 奇人
- 9 :
- 悪人
- 10 :
- 仙人
- 11 :
- 犯人
- 12 :
- 漢人
- 13 :
- 死人
- 14 :
- 賢人
- 15 :
- 廃人
- 16 :
- 外人
- 17 :
- 才人
- 18 :
- 蛮人
- 19 :
- 非人
- 20 :
- 黒人
- 21 :
- 折角「百魔」を復刻連載してくれてたのに、書肆心水が復刻本出したから途絶しちゃったみたいだね(´・ω・`)
http://www1.kcn.ne.jp/~orio/sonohi-an/hyakuma/hyakuma_idx.html
- 22 :
- 百魔って復刻版だったんか
- 23 :
- 山県元帥がどこにも売ってない 今いくらぐらいするんだろう
- 24 :
- NHKで取り上げられるとはなあ
- 25 :
- tes
- 26 :
- 頭山満よりも凄い人物なのに
圧倒的に頭山より世間では知られていないな。
- 27 :
- 杉山が頭山から贈られた短刀の写真をなんかの本で見たことがあるが。
なかなか立派なもんだった。
- 28 :
- ほ
- 29 :
- 【夢野久作】やらない夫で杉山茂丸小伝【問題の父】
http://yaranaioblog.blog14.fc2.com/blog-category-87.html
- 30 :
- .父杉山茂丸を語る ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card2141.html
近世快人伝 ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card2140.html
- 31 :
- 杉山茂丸略伝(1) 政治的閲歴の原点
http://www1.kcn.ne.jp/~orio/main/shigemaru/shigemaru03.html
- 32 :
- 杉山茂丸かぁ。あいつ駅裏の寿司屋で板前やっててな。ヘタクソなんだな
- 33 :
- 杉山茂丸もそうだが、息子の夢野久作も奇人ですな。
http://www.exblog.jp/blog_logo.asp?slt=1&imgsrc=200806/22/14/d0144814_18151724.jpg
- 34 :
- 杉山茂丸が大いに暴れた時代、日本では「右翼」や「左翼」といった言葉は定着していなかった。
- 35 :
- 1
- 36 :
- @ 明治国家の参謀・杉山茂丸
http://maesaka-toshiyuki.com/blog/detail?id=234
杉山茂丸は明治、大正、昭和戦前に政財界の裏面で活躍した桁外れのスケールの怪物である。
日清・日露戦争は杉山の舌先三寸と指先のさじ加減一つで、自在に操られた、といわれる。明治、大正の政治、外交、戦争の舞台裏には必ず彼の影があった。
常識破りの発想と機略縦横、大胆不敵な行動力、その雄弁と構想の圧倒的なスケールの大きさから、世間では「茂丸」をもじって「法螺丸」「ホラ丸」と呼んだ。
雄弁、座談の巧さは当代随一であった。杉山は「怪人」「怪傑」「魔人」「政界の黒幕」「軍師」「天下の浪人」「国士」「懐刀」「参謀」「策士」「政治家の人形使い」など様々な呼び名がつけられた。
朝日新聞副社長・下村海南は茂丸が亡くなった際の追悼文の中で、次のように書いている。
「その口舌は、座談においてまさしく蘇秦、張儀そこのけで、六尺に近い巨体を擁し、堂々、人を威圧する魁偉な容貌とどこまでも相手を魅力し、
説服せねばやまぬ長広舌は、硬軟とりまぜて千紫万紅談論風発停止するところを知らず」(昭和十年七月二十七日付)
その奇策縦横ぶりについても「元来、臍から瓢箪を出し、その瓢箪からまた駒を出す仙人的奇術に巧みな男」とも誓えた。
しかし、杉山は自らを「もぐら」と称して、政治の表面に名をだすのを嫌い、もっぱら黒子に徹しての地下工作を専門としていた。
彼が、歴史の正史に登場することは稀であったが、舞台裏で歴史の歯車を大きく回したことは間違いない。
杉山は一八六四年(元治元)に筑前福岡に生まれた。父・三郎兵衛は黒田藩の諸藩応接役で長州征伐以来、高杉晋作と連絡をとり、東奔西走していた。
没落士族の子だった杉山は早くから自由民権思想を信奉し、ルソーの「民約論」に大きな感化を受けた。
藩閥政府の打倒を念願し、一八八〇年(明治十三)に上京して政治運動に身を投じた。
彼によれば、真の国士とは「四たい病」を退治した者であった。
「長生きしたい、金をもうけたい、手柄を立てたい、名誉が得たい」の四つであり、「命はいつでも投げ出し、貧乏も平気で、縁の下の力持ちで、悪名ばかりをとる」。
これが杉山の目指した生き方であった。
- 37 :
- A 暗団の親玉に
二十一歳となった杉山は「福岡藩に人物なし」と見限って、熊本の国士・佐々友房を訪ねた。
佐々は西南戦争では西郷軍について戦い、捕まり懲役刑をくらい、熊本に引っ込んで教育家となっていた。
見ず知らずの杉山は初対面の佐々にいきなり藩閥打倒を呼びかけ議論を吹っかけた。その上、ひどい貧乏暮らしの佐々に二百円の借金まで申し込んだ。
意気に感じた佐々は一銭も持ち合わせていなかったが、駆けずり回って翌日、百ハ十円を都合してきた。
この金をテロ資金に充て、その抵当として杉山は「自分と政府高官の生首二つを差し出す」と約束をして上京した。
杉山はすぐフランス革命のジャコバン党にならって『国を傷つけ民を惑わすものは、最終的には生首を掻き切ってしまう』を綱領とした「首浚(くびさらい)組」を組織した。
その棟梁、暗団の親玉を自認して、薩長藩閥の巨頭たちをターゲットにしてつけ狙った。
このため、杉山は警視庁から危険人物として追われる身となり、「迫害、追及をやめろ」と後藤象二郎からの紹介状を持って、まず総理大臣伊藤博文に不満を持っていた黒田清隆に面会を求めた。
黒田に会った杉山はいきなり「酒を飲んでおられますか」と聞いた。黒田は妻を酔ってしたとの噂があるほどの、大変な酒乱で聞こえおり、飲んでいるのかどうか念を押したのである。
「私は貴下がごく正直で、精神の正しい御方で、私の申し上げることを聞いてくださる方と思って参りましたが、一方で酒を飲んで乱暴される御方とも聞いています。
洒の力を借りねば乱暴できぬような卑怯な方と、真面目な話をするのは無駄でございます。元来、私も乱暴者でございますが、一滴も洒を飲みませぬ。故に、私の乱暴は始まったら止む時がございません。
洒の力で始まる乱暴は酔いがさめると止まりますが、私のとは相撲になりませぬ」
杉山一流の恫喝をまじえながらの理詰めの弁舌で、「藩閥官僚は政権の詐欺師である」ととうとうと論じ立てた。
「後藤も面白い男を紹介したものじゃ。よろしい。今日は酒なしで話をしましょう」と黒田もいっぺんに杉山が気に入り、「迫害をやめるよう」に伊藤に取り継ぐことを約束した。
それから、しばらくした一八八七年(明治二十)一月、杉山は山岡鉄舟の紹介状をもらって、伊藤を「首さらいの第一号」にしょうと出かけた。
紹介状には「この田舎者は半端な政治思想にとらわれて閣下に怨恨をもっていますが、他日、国家のお役に立つと思いますので引見して説諭してください。
ただし、凶器を所持しているのでお気をつけ下さい」とあった。
伊藤はしにきた杉山に、護衛もつけず一人で面会した。杉山は凶器こそ持っていなかったが、荒ヒモを体に縛って、これで首を絞めてすつもりであった。
ところが、初めて見た伊藤は想像以上に貧相で小柄な老人であり、これなら素手で縛りせると思った。
杉山は九ヵ条の罪状を突きつけて糾したが、伊藤は恐れるどころか一つ一つていねいに答え、「君が私をして国事の汚点が晴れるなら結構だが、これは不可能だ。互いに命を大切にしてお国に尽くしたい」と懇々と諭した。
杉山は自らの不明を恥じて、逆に伊藤の大度量に心服し政治に開眼するきっかけとなった。このあたりは坂本龍馬が勝海舟を暗しようとして、逆に弟子となったのと全く同じケースである。
- 38 :
- B一人一党、無冠の政治家に
生涯の盟友となった玄洋社の頭山満に会ったのもこの年であった。頭山は三十二歳で、杉山より九歳上であったが、血気盛んな杉山に「才は沈才たるべし、勇は沈勇たるべし、孝は至孝たるべし。
お互いに血気にはやって事の過ぎることだけは注意したい」と諭した。杉山は翻然として悟るところがあった。
そして頭山とともに、絶対に刀を使えないように薬指を切り落としてテロをやめることを誓った。以後、国事に奔走することになる。
しかし、頭山とは盟友関係にはあったが、杉山は玄洋社社員とはならなかった。生涯、子分をつくらず、杉山は「一人一党」 の一匹狼で行動した。
杉山は頭山に事業をやるように勧め、自らは海軍の予備炭田や炭鉱の経営を始めた。その石炭の輸出をするため香港に何度も渡り、経済的な知識を吸収し、中国に対する列強の進出を目の当たりに見て国際感覚を養った。
香港で英国商社「シーワン」を知り、イギリスの産業革命や銀行制度、エ業資本などについて学んできた。
当時、玄洋社の壮士や支那ゴロ、大陸浪人のほとんどが国家主義者で経済的な知識や国際的なセンスが皆無なのに対して、杉山は全く逆で国際経済、外交にも精通した珍しい政策通であった。
しかも、一対一で膝詰め談判してくるその雄弁には比類ない迫力があった。
伊藤とは暗の一件以来、親しくなり木戸御免となった。陸軍の巨頭・山県有朋とは川上操六(参謀総長、大将)の紹介で合った。
口下手で人づきあいに慎重な山県は六尺近い巨体で人を威圧する容貌魁偉と、一度口を開けば相手を説得、魅了してやまないその弁舌には電気に撃たれたように、杉山の魔力のコロリとなった。
それから山県の寓居には、週二回とひんぱんに通って情報を運ぶ杉山の姿があった。
明治の政界を牛耳っていた伊藤、山県二大元老に出入り自由となり、杉山はほぼ十年で東京の政財界の巨頭連のキンタマをつかんでしまったのである。
児玉源太郎、桂太郎、後藤新平、金子堅太郎、松方正義、寺内正毅らの間をひんぱんに行き来して、連絡、情報を伝え、ある時は相談役、知恵袋となり、元老たちの間のコミュニケーション役を果たした。
こうした元老、政府高官たちも、自分の耳となり手足、口となる秘書的な人物を必要としていた。
電話はすでにあったが、会って話し合うコミュニケーションがあまり発達していなかった当時、杉山は政治家の影武者として自由な立場で政策遂行に協力したのである。
いわば、彼は無冠の政治家であった。一方、金のほうでも財界でも藤田伝三郎、結城虎五郎らいつでも引き出せるスボンサーを数多く持っていた。
- 39 :
- ・C影の参謀役
杉山は日清戦争では山県から軍資金をもらって壮士を朝鮮に派遣し騒動を起こしたり、右翼の内田良平らを伊藤に紹介して、
日韓併合を背後から推進しているが、日露戦争では児玉、桂と組んで「影の参謀役」として一層、暗躍した。
一八九八年(明治三十一)、伊藤内閣が総辞職した際、杉山は肝胆相照らす仲の当時台湾総督だった児玉源太郎中将と、二人だけで日露戦争を遂行するための秘密結社を結成した。
その密約では、
@日本はロシアと戦争しなければ国家ならない。
A国論を一致するため、今の小党分裂の政党を合同させること。
Bその政党の党首は伊藤とする。
C伊藤の新政党にもし山県公が反対すれば、山県公を引きずり降ろす。
という内容で、これを取り決め、杉山は伊藤に面会してこの話を切り出した。伊藤は烈火のごとく怒った。
「日露戦争などもってのほか。むしろワシは日露同盟を提唱しようと思っておる」
と一喝されてしまった。山県に持ちかけると「国力、兵力の段違いのロシアと戦争など軽々しく言うな」とたしなめられ、井上馨からも「大馬鹿者の暴論じゃ」と罵倒された。
以後、三年間、杉山らはこの件は一切他に口外せず、沈黙を守っていた。
伊藤は下野しており、二大政党の自由党、進歩党が絶えず反目して議会が混乱していたのに対して、自ら政党の組織作りを決意して動き始めた。
杉山も伊藤の所を訪れ、政党作りをたきつけていった。しかし、金に淡白な伊藤には政治資金がなかった。
チャンス到来とばかり、杉山はその資金のスポンサーを買って出たが、伊藤は「君の金は使うわけにいかぬ」と断った。
「閣下のご存命中はどんなことがあっても口外いたしません」と約束して、杉山は早速その足で、大磯から東京に帰り、翌朝、かつて事業に協力して大儲けさせたことのある実業家を訪ね、「
至急、十万円を用立てて欲しい。伊藤の存命中はこの件は秘密にしておく」との条件付きで依頼した。今の金に換算すると、五億円近い大金である。
数日後、その実業家から金を受け取った杉山はその足で大磯の伊藤を訪ねた。
「お約束のものです。これに入れておきますから」
と机の下にあるワニ皮のカバンに現金十万円を入れて、すぐ引っ返した。
翌日、伊藤は秘書官に手紙をもたせてきて「拙宅の忘れ物を引き取ってくれ」と厳重な申し入れがあったが、杉山は「忘れ物などありませぬ」とはねつけ、以後再三の呼び出しにも応じず、行方をくらましてしまった。
杉山は、金にきれいな伊藤がこの大金を使って必ず政党作りに動き出すとにらんでいたが、案の定、半年ほどして、伊藤は立憲政友会を組織することを発表した。
杉山、児玉の秘密同盟に桂が加わったのは一九〇一年(明治三十四)六月の桂内闇が誕生する直前であった。ロシアに対抗するためには当時、
世界で唯一つの超大国・イギリスを味方につける日英同盟が不可欠であり、三人はこの点でも意見が一致しており盟約を結んだのである。
ところが、伊藤がその前に大きく立ち塞がっていた。「俺の目の黒いうちは決して日露戦争なぞ実現させぬぞ」と言明していた。伊藤は「日露協商」を何とか締結したいと考えており、「日英同盟」には真正面から反対していた。
伊藤の腹をいち早くつかんだ杉山は、この難問を解決するために奇策を編み出した。日露戦争の戦死者の第一号にまず伊藤を祭り上げることであった。
日英同盟は日本側の一方的な申し込みの場合には条件が悪くなる。英国側にも同盟のメリットを十分認識させる必要があった。
「天皇の信任の厚い伊藤が直接でかけて行ってロシアというヘソを押せば、必ず日英同盟という屁が出る」と杉山は桂ら二人に断言していたが、その目に狂いはなかった。
杉山は自らの意図を隠して、伊藤にロシア行きを熱心に勧めた。桂、山県、児玉もこれをバックアップした。宮中より十五万円の下賜金があり、伊藤は勇躍、ロシアに出発することになった。
杉山も米国に旅立って膳立てを進めた。
一方、桂は秘密裏に日英同盟の交渉を急いでいた。明治三十四年十一月に伊藤がロシアを訪問して日露協商を協議中に日英同盟の成立が決定された。
当時、大英帝国もシベリア、満州、ビルマ、インド、アフガニスタン、ペルシャなどの世界各地でロシアの脅威にさらされていた。世界にその存在さえもまだ知られていなかった
東洋の一小国・日本と大英帝国が同盟を結んだことは、各国に大きな驚きを持って迎えられた。
日英同盟は伊藤に煮え湯を飲まされ、面子が丸潰れであった。以後、元老であり、政友会を率いた伊藤は、海軍拡張によって日露戦争を着々と準備する桂内閣にことごとく反対の態度をとるようになる。
- 40 :11/11/19
- 「平成維新運動に火をつけかねない」として、公安が警戒する本『維新と興亜に駆けた日本人』。
「明治維新に至る討幕運動、大正維新、昭和維新と脈々と受け継がれ国体回復運動の意義を国民に
知らせていならない」と彼らは躍起になっているらしい。
封印したはずの西郷南洲、副島種臣、大井憲太郎、樽井藤吉、杉浦重剛、頭山満、岩崎行親、植木枝盛、福本日南、陸羯南、荒尾精、松村介石、来島恒喜、岡倉天心、近衛篤麿、今泉定助、杉山茂丸、権藤成卿、宮崎滔天、内田良平の維新思想の本質が蘇る。
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