2011年10月1期日本近代史【庄内藩】 清河八郎2 【維新回天】
TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼 ▼
【庄内藩】 清河八郎2 【維新回天】
- 1 :11/04/04 〜 最終レス :11/11/25
- 出羽庄内の農民出身でありながら、
学問、武芸ともに秀で、
いち早く討幕の志を立てた清河八郎を語ろう!
虎尾の会のメンバーや浪士組に関わった人達の話も歓迎。
前スレ
【維新】清河八郎【回天】
http://mimizun.com/log/2ch/history/1081085919/
- 2 :
- 16 :回天孤士 ◆5gtXLdp1Yk :04/04/07 18:49
ある意味、清河の功績は、幕末という舞台を、京に設置した事だろう。
虎尾の会結成後、はずみで町人(幕府の密偵?)を斬った事で、お尋ね者となり、諸国潜伏を余儀なくされた。
が、この諸国潜伏旅こそ、幕末の舞台設置活動の第一歩に他ならない。
京で田中河内介に会い、大納言・中山忠能、忠光親子を動かし、幽閉されていた青蓮院宮の内意親書を出させる(偽物説有り)これを手に、諸国を巡り志士達に尊王攘夷はては倒幕まで遊説し、志士達に火をつけて回った。
文久二年には、島津久光上京との報せに、
京都挙兵計画(伏見義挙)を計画する。
賛同者は、久留米の真木和泉、福岡の平野国臣、薩摩の有馬新七、長州の久坂玄瑞、朝廷から田中河上介など錚々たる面子がいた。
しかし、久光が寺田屋で有馬等を上意討ち(寺田屋事件)し、
挙兵計画は、頓挫する。
- 3 :
- 17 :回天孤士 ◆5gtXLdp1Yk :04/04/07 19:26
>>16続き
この寺田屋事件並び挙兵計画が、志士等の目を京に向けさせた。
そして浪士組を献策結成し、京へと上り、新徳寺での爆弾発言後、
孝明天皇から浪士組への攘夷の勅許を得た。
幕府を差し置いて、一介の志士が、帝から勅許を得た事は前代未聞の出来事だった。
この出来事で、
志士等の目は京へと向き舞台は京となっていく。
が志士等以上に、
事件に驚愕したのが幕府で清河に目を光らた。
清河の浪士組挙兵計画
(横浜外国人居留地を焼き討ちし、その騒ぎに乗じて甲府城を奪取し、
尊王攘夷、倒幕運動の魁として活動する。)
を見抜いたかは定かでないが、挙兵決行の数日前、清河暗の幕命により、4月13日佐々木只三郎や速見又四郎等によって、麻布一ノ橋にて清河八郎は凶刃に斃れた。
熱が入りすぎて清河八郎伝になってしまった…。
- 4 :
- 18 :日本@名無史さん:04/04/07 20:53
清河八郎は暗される日、熱があるにもかかわらず、風呂に入り、
友人の高橋泥舟の家で
「さきがけて またさきがけん 死出の山 迷いはせまじ皇の道」
「砕けても また砕けても よる波は 岩かどをしも うち砕くらむ」
という二首の辞世の句ともとれるような歌を読んでいる。
また、普段かならず護衛をつける清河が、
暗される日に限って一人だけで、出かけたというのもおかしく、
最初からされるつもりで出かけたという説もある。
- 5 :
- 19 :回天孤士 ◆5gtXLdp1Yk :04/04/08 14:06
「策士清河評考察」
一般的に清河のイメージは、策士、詐欺師、山師、ペテン、変節漢、悪者、小者等。
何故、彼にこのイメージが付いて回るのかは、やはり、新徳寺での発言だろう。
新徳寺での真意発言は、確かに、幕府寄りの思想を持つ者の反感を買い、そうでない学がある者は信義にもとると思った事だろう。
尊王思想の芹沢鴨や
清河派の池田徳太郎なんかも、席をたっている。
幕府の裏をかいたのだから志士達からは拍手喝采物の筈が、そうはならなかった。
当時、伏見義挙失敗以来、幕府に働きかける清河の真意を知らない、志士や同志達は、佐幕に変節したと憤った。
そして、このまま志士達からは変節漢と罵られ、佐幕派からは、ペテン師と呼ばれるこの事が、
後々彼の評伝となり、
新選組物では策士の悪役となり、そのイメージが広がり今にいたっているのではないかと考える。
- 6 :
- 21 :日本@名無史さん:04/04/08 18:38
「策士策に溺れる」
まさに清河八郎のような男だろう。
22 :回天孤士 ◆5gtXLdp1Yk :04/04/09 10:41
そう。清河には、
後ろ楯がなかった事に、彼の悲劇がある。
坂本のように、幕臣重役の保護者もいなれけば、西郷、桂のような藩の支えもない。
藩の支えどころか、出身藩の庄内藩はガチガチの、佐幕(敬幕)ときてる。
歴史にifはないが、もし上記のような支援者や、後ろ楯があったらば、
もう少し違った活動をし命も長らえたかもしれない。
- 7 :
- 32 :回天孤士 ◆5gtXLdp1Yk :04/04/15 12:32
真偽は定かではないが、浪士組結成前に、近藤と芹沢と面識があったとの説がある。
近藤と清河
ある夜、近藤が帰宅途中、複数の野犬に囲まれた。近藤は、刀を抜き身構え、野犬が飛び掛かってくるのを、次から次へと凪ぎ倒した。
野犬を全て倒し一段落ついたところ、
影から拍手とともに、
現われた人物がいた。
その人物こそ清河八郎だった。
清河は剣の腕を誉め、
それ以来、近藤と交友を結ぶようになった。
芹沢と清河。
清河は江戸で様々な志士を訪ねた。
その中に水戸天狗党の者もいた。
清河が町人の首を刎ねたのは、水戸天狗党との会談の帰りだったという。一説には、首を刎ねたとき、芹沢もその場にいたとの話もある。
近藤とのは、
作り話っぽいが、
天狗党と清河の交遊が、事実とするならば、
芹沢と出会っていた可能性が高い。
- 8 :
- 220 :日本@名無史さん:04/06/12 21:52
討幕を最初に言いだしたのは真木和泉だと言われている。
文久3年6月に将軍家茂が尊攘派の反対を振り切って帰国したのが契機となった。
清河暗の2ヶ月後のことだ。
清河八郎の討幕の陰謀とは、浪士組を率いて横浜を襲撃し、
その余勢を駆って長州藩と呼応して挙兵するというものだが、
清河と親しかった幕臣高橋泥舟によると、
この話は清河の声望を妬んだ佐々木只三郎のでっちあげであるとしている。
- 9 :
- 34 :日本@名無史さん:04/04/15 19:02
>>32
清河が町人の首をはねた時は水戸藩士・吉良弥三郎との書画会の帰りで、
首を斬った時に一緒にいたのは山岡鉄太郎、安積五郎、池田徳太郎、
伊牟田尚平、村上俊五郎、笠井伊蔵で芹沢はいなかった。
清河は水戸天狗党と虎尾の会の同盟を結ぼうと村上俊五郎、石坂宗順らと
水戸に潜入した事があったが、
天狗党がならず者の集団であると知ると、見限って江戸に戻った。
芹沢と清河は水戸の住谷虎之助の紹介で出会ったという説もある。
- 10 :
- 虹子の祖父
- 11 :
- ●ヘンリー・ヒュースケン【Henry Conrad Joannes Heusken】
http://www.navishonai.jp/hachiro/jinbutu/hito1_heusken.html
1832年1月20日、アムステルダム生まれのオランダ人。父は石鹸製造業者のヨハネス・フランシスクス・ヒュースケン、母はヨアンナ・スミット。
ヒュースケンはアメリカに渡り帰化し、安政3年(1856年)に初代総領事・タウンゼント・ハリスに雇われて同行、来日する。
主にハリスの秘書と通訳を務めた。
万延元年(1861年)1月14日、ヒュースケンは、プロシア使節宿舎のあった芝赤羽接遇所(今の港区三田)から善福寺への帰途、
芝薪河岸の中の橋付近に待ち伏せていた「虎尾の会」の一員に襲撃される。実行したのは薩摩藩士・伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助らであった。
攘夷の魁にならんと決起したのであった。ヒュースケンは翌日死亡、享年28歳だった。
幕府はヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払って事件を落着させるのだが、事態を重く見た幕府は、辻番所に外国人保護を訴える標識を立てたり、
外国御用出役を新設するなど外国人警護に務めるようになる。八郎の虎尾の会も幕府に監視されるようになる。
しかし、攘夷派による外国人、公使館への襲撃はおさまらず、東禅寺襲撃事件、坂下門外の変など、多くの襲撃が実行された。
- 12 :
- 佐々木只三郎【ささき たださぶろう】
http://www.navishonai.jp/hachiro/jinbutu/hito1_sasaki.html
天保4年(1833年)、会津藩士佐々木源八の三男として会津若松に生れる。27歳の時幕臣佐々木矢太夫の養子となると、
幕府講武所にて剣術方師範役に任ぜらたほどの剣豪であった。
文久3年(1863年)攘夷派の首謀格として危険人物とみなされ、幕府は佐々木に八郎を暗させる。
その後、八郎暗の功を認められ、幕府から京都見廻組の取り締まりに命じられる。見回組が結成されるとその隊長として新選組と共に京都の治安維持に努めた。
のちに薩長同盟の仲介役となった坂本龍馬暗を指揮し近江屋での害に関与したとも言われている。
慶応4年の鳥羽伏見の戦いに参戦し被弾して負傷、和歌山の紀三井寺まで落ち延びたがそこで没した。
明治元年(1868年)のことだった。
墓は紀三井寺にあったが近年会津若松市の武家屋敷に移された。
- 13 :
- 明らかに坂本龍馬よりも優れた人物なのに
世間ではまったく知られていない。
- 14 :
- 一応、山形県の神様です。
- 15 :
- 先日清河八郎記念館にいってきたばかり。奥さんのお蓮さんの特集やってた。
清河八郎って物凄い量の資料残してて凄い見応えあったよ
- 16 :
- 孫子と似ているところがあるね。
- 17 :
- 清河は龍馬みたいな国民的英雄にはなれなかったノー
- 18 :
- おもしろい
- 19 :
- 7 :日本@名無史さん:04/04/04 22:45
時期が早かったな。
まだ討幕論が一般化されていない時期に、
討幕をしようとしたのは失敗だった。
- 20 :
- 16 :回天孤士 ◆5gtXLdp1Yk :04/04/07 18:49
ある意味、清河の功績は、幕末という舞台を、京に設置した事だろう。
虎尾の会結成後、はずみで町人(幕府の密偵?)を斬った事で、お尋ね者となり、諸国潜伏を余儀なくされた。
が、この諸国潜伏旅こそ、幕末の舞台設置活動の第一歩に他ならない。
京で田中河内介に会い、大納言・中山忠能、忠光親子を動かし、幽閉されていた青蓮院宮の内意親書を出させる(偽物説有り)これを手に、諸国を巡り志士達に尊王攘夷はては倒幕まで遊説し、志士達に火をつけて回った。
文久二年には、島津久光上京との報せに、
京都挙兵計画(伏見義挙)を計画する。
賛同者は、久留米の真木和泉、福岡の平野国臣、薩摩の有馬新七、長州の久坂玄瑞、朝廷から田中河上介など錚々たる面子がいた。
しかし、久光が寺田屋で有馬等を上意討ち(寺田屋事件)し、
挙兵計画は、頓挫する。
- 21 :
- 22 :回天孤士 ◆5gtXLdp1Yk :04/04/09 10:41
そう。清河には、
後ろ楯がなかった事に、彼の悲劇がある。
坂本のように、幕臣重役の保護者もいなれけば、西郷、桂のような藩の支えもない。
藩の支えどころか、出身藩の庄内藩はガチガチの、佐幕(敬幕)ときてる。
歴史にifはないが、もし上記のような支援者や、後ろ楯があったらば、
もう少し違った活動をし命も長らえたかもしれない。
- 22 :
- 32 :回天孤士 ◆5gtXLdp1Yk :04/04/15 12:32
真偽は定かではないが、浪士組結成前に、近藤と芹沢と面識があったとの説がある。
近藤と清河
ある夜、近藤が帰宅途中、複数の野犬に囲まれた。近藤は、刀を抜き身構え、野犬が飛び掛かってくるのを、次から次へと凪ぎ倒した。
野犬を全て倒し一段落ついたところ、
影から拍手とともに、
現われた人物がいた。
その人物こそ清河八郎だった。
清河は剣の腕を誉め、
それ以来、近藤と交友を結ぶようになった。
芹沢と清河。
清河は江戸で様々な志士を訪ねた。
その中に水戸天狗党の者もいた。
清河が町人の首を刎ねたのは、水戸天狗党との会談の帰りだったという。一説には、首を刎ねたとき、芹沢もその場にいたとの話もある。
近藤とのは、
作り話っぽいが、
天狗党と清河の交遊が、事実とするならば、
芹沢と出会っていた可能性が高い。
- 23 :
- 北辰一刀流
- 24 :
- 119 :司馬霊太郎:04/04/27 11:04
幕末の風雲は清河がたった一人で起こしたと言って良い。
あとの出来事は風雲に巻き込まれた雑魚どものタコ踊りに過ぎないと言える。
- 25 :
- 未 暮 日
ダ ル 残
遠 ル リ
シ ニ テ
- 26 :
- 「残念残念」
- 27 :
- 山岡鉄舟・松岡万
伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助・益満新八郎・美玉三平
清河八郎・池田徳太郎・安積五郎・村上俊五郎・石坂周造
北有馬太郎・西川練造・白井佐一郎・桜山五郎
- 28 :
- 220 :日本@名無史さん:04/06/12 21:52
討幕を最初に言いだしたのは真木和泉だと言われている。
文久3年6月に将軍家茂が尊攘派の反対を振り切って帰国したのが契機となった。
清河暗の2ヶ月後のことだ。
清河八郎の討幕の陰謀とは、浪士組を率いて横浜を襲撃し、
その余勢を駆って長州藩と呼応して挙兵するというものだが、
清河と親しかった幕臣高橋泥舟によると、
この話は清河の声望を妬んだ佐々木只三郎のでっちあげであるとしている。
- 29 :
- 朝廷からいただいた「池田屋事件感状」などを展示しています
大新選組展」 2004年「霊山歴史館」通年特別展
http://www.ryozen-museum.or.jp/020-shinsen.html
池田屋事変で、過激な長州の尊攘派を退治したことにより、
新撰組は、孝明天皇から感謝状をもらっている。
新撰組は幕府からは、恩賞を、朝廷からは感謝状を賜っている
- 30 :
- 新撰組(壬生浪士組)
新徴組(東帰浪士組)
- 31 :
- 真木和泉はオルガナイザーであり、精神的な柱でもあったが文久三年の8月(所謂、クーデター以前)の尊皇攘夷派には権力は見えていても革命は早すぎる。
革命は血を求める。その意味では、やはり天狗党の田中愿蔵と土田衡平のコンビが栄光を(また悲惨な宿命を)背負うべきだろう。
- 32 :
- 恥ずかしい国で恥ずかしい事
自分の痴態は人前では見せられない、他人の痴態は見せまくるのか?
最悪でも犠牲は無駄には出来ない!!!!!
リアルに負ける戦争へ連れて行かれたのですか?←これは芸術作品なんですか?
半分過ぎてすぐ消える人間よりはまし、数字は色々ある
独裁者(知らない国の人々には見せられない、見てもらいたくない)
- 33 :
- 土方歳三の銅像など、新選組ゆかりの地として有名な東京都日野市の高幡不動尊。
その境内や参道で銘菓「高幡まんじゅうを」売っている「松盛堂」は
公明党の日野市議会議員、みねぎし弘行がオーナーの創価企業です。
こいつは自分のHPで創価学会名誉会長の池田大作や戸田城聖二代目会長のことばや、
聖教新聞のコラム欄「寸鉄」を紹介するような、政教一体の学会市議です。
邪教のはずの不動尊で商売をする恥知らずな創価学会員です。
http://www.e-giin.net/minegishi/
http://www.syoseido.co.jp/
- 34 :
- 清河先生age
- 35 :
- 佐々木只三郎だけは許せない。
まあ、どっちにしろ清河は早世しただろうけど、暗は卑怯だ。
- 36 :
- 西の吉田松陰、東の清河八郎
- 37 :
- 策士策に溺れる
- 38 :11/11/25
- 清河八郎は征夷大将軍に任命されたらしいな。
TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼 ▲