2011年10月1期日本近代史戦前の学者・学界の歴史 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼

戦前の学者・学界の歴史


1 :11/06/22 〜 最終レス :11/11/11
明治時代から昭和初期にかけて活動した日本人の学者orお雇い外国人について語るスレッドです。
法学者、経済学者、歴史学者、社会学者、心理学者、医学者、生物学者、地球科学者、天文学者、数学者、物理学者など分野は問いません。
戦前とありますが、1950年代くらいまではみ出てもOK。
科学史や教育史のスレッドを別に建てたい人は、そのようにして構いません。

2 :
八木アンテナ

3 :
大学のかずがすくなかったから学者の権威はいまとはくらべものにならないほどたかかった。

4 :
法学部の俺としては京都帝国大学の瀧川事件を想起せずにはいられない。
この時に瀧川の罷免を強行した人物が、文部大臣の鳩山一郎(ぽっぽの祖父)。
ちなみに、瀧川は戦後に京都大学総長として復活するが、
この時にはあろうことか反動化して学生運動の弾圧に乗り出した。

5 :
相川事件
グロ注意!

6 :
戦前じゃなくて、
戦中だけど湯川秀樹って海軍の原爆開発に関わってたらしい。

7 :
市ノ瀬

8 :
水爆

9 :
実験

10 :
講座派vs.労農派
宇野経済学
大塚史学

11 :
戦前の大学はけっこうすごかったみたいね。経済学なんかでも海外の著名な文献なんか
外務省経由でほとんどリアルタイムで入手・翻訳してたみたいだし。現代より、より「国家機関」
的だったんじゃないかとおもう。外務省だとか内務省だとかと

12 :
東北帝国大学日本一!

13 :
>>12
戦前の有名人に誰がいる?

14 :
>>13
阿部次郎。

15 :
八木アンテナ

16 :
日本史の白鳥庫吉と内藤湖南。

17 :
湯川

18 :
秀樹

19 :
御用

20 :
学者

21 :
ラファエル・パンペリー(駐日大使ハリス、蝦夷地)
フランシスコ・コワニエ(薩摩藩、生野銀山)
エラスムス・ガワー(徳川幕府、佐渡鉱山)
ルイ・ラロック(住友家、別子銅山)

22 :
age

23 :
理化学研究所

24 :
東京大学経済学部は1919年に法学部から独立。
高野岩三郎(宇野弘蔵の妻の父)の主導によるものだが、
高野は国家からILOの代表に任命され、
それを名誉に思うどころかILOの代表は労働者でなければならないと主張して東大教授を辞職。
高野の後任として経済学部を指揮すると目された森戸辰夫、大森義太郎も
マルクス主義への傾倒を理由に相次いで東大を追放され、
経済学部の運営は混迷を極める。

25 :
高野岩三郎は東京大学経済学部の創設者の他、
日本統計学会初代会長、NHK五代目会長、大原社会問題研究所初代所長の肩書きを持つ。
また、京都大学の憲法学者、鈴木安蔵(京都学連事件の被告人の一人)とともに憲法研究会を結成し、
この文書がGHQの憲法草案の原案になったといわれる。

26 :
東京大学は設立の当初は文学部、理学部、医学部。
帝国大学令と同時に司法省法学校、工部大学校、東京農林学校(駒場農学校と東京山林学校)が併合され、
帝国大学法科大学、帝国大学文科大学、帝国大学医科大学、帝国大学理科大学、帝国大学工科大学、帝国大学農科大学に再編。

27 :
黎明会は吉野作造と福田徳三が連合して結成した大正デモクラシーの団体。
主な会員は吉野作造、福田徳三、森戸辰男、穂積重遠、新渡戸稲造、朝永三十郎、永井潜、滝田樗陰。
滝田樗陰は学者ではなく『中央公論』の編集者。
同誌は『改造』の擡頭まで教養主義と民本主義の雑誌として左派の知識人に読まれる。
明治文化研究会は関東大震災を期に失われた明治時代の文化を再発見しようとする吉野作造の団体。
主な会員は吉野作造、宮武外骨、尾佐竹猛、小野秀雄。
小野秀雄は日本新聞学会(現:日本マス・コミュニケーション学会)の初代会長。

28 :
京都帝国大学の設立は1897年。
日清戦争で獲得した賠償金を原資に、第三高等学校を拡充した。
当初は法科大学、医科大学、文科大学、理科大学の編制。
東北帝国大学の設立は1907年。
長岡半太郎(物理学者)、牧野伸顕(文部大臣)、古河財閥の提携によって
仙台に理科大学を作ろうという構想が生み出されたことに始まる。
単科の帝国大学は認可し得ないとの国策により、
北海道の札幌農学校と合併してキャンパスの連携のない名目的な総合大学として設立。
九州帝国大学の設立は1911年。
京都帝国大学福岡医科大学を分離させ、八幡製鉄所に人材を送り込むため工科大学を設置。
東北帝国大学と九州帝国大学はどちらも文系の学部を置かなかった。
地方では官僚や文人の養成よりも国土の開発に携わる技術者を量産する方が効率的なため。
東北帝国大学では間もなく医学部と工学部が設置されるが、法文学部の設置は1922年と遅い。
実は東京帝国大学も草創期には理工学に力を入れていた。
法学部の優位が鮮明になったのは、帝国議会の開設と条約の問題に対応するため
早急に文系の官僚を生み出す必要に迫られた1890年代あたりから。

29 :
地方の帝国大学よりも東京の旧制専門学校の方が歴史は古い。
1880年代の中葉から末葉にかけて示し合わせたように建学が急増する。
その中でも1880年〜1881年に創設された明治法律学校と専修学校は特に早い。(東京専門学校すら1882年)
英吉利法律学校、和仏法律学校、日本法律学校はラッシュの最中。
意外にも獨逸学協会学校は1883年で英吉利法律学校の1885年を越す。
官立専門学校では東京高等師範学校(筑波大学)、女子高等師範学校(お茶の水)、
東京音楽学校、東京美術学校(ともに東京藝術大学)も1880年代の後半に設立。

30 :
少し古いですが、やはり吉田松陰先生を誰か熱く語ってください

31 :
明六社はアメリカ留学から帰ったばかりの森有礼が1873年に結成したネットワーク。
主な会員は森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、西周、津田真道、中村正直、杉亨二、箕作麟祥。
実は主催者の森はこの中では最年少で26歳。他はみな40歳前後。
内部では森有礼・加藤弘之を中心とする国権の派閥と福沢諭吉を中心とする商人の派閥に分かれた。
どちらもイギリス・アメリカの思想に依拠。フランス法学者の箕作麟祥も当時はコモン・ローに傾倒。
機関紙の『明六雑誌』は意外にも讒謗律、新聞紙条例を理由に1885年に廃刊となっている。
明六社は1880年に解散し、その人脈は東京学士会院→帝国学士院に継承。
東京学士会院は1879年に文部卿の西郷従道が福沢や加藤に諮問して結成したもの。
森はまだ存命だが参加していない。東京学士会院は学術団体から官僚と実業家を排除するのが狙い。

32 :
>東京学士会院は学術団体から官僚と実業家を排除するのが狙い。
現代とはえらい違いですね。逆に明治の勢いを感じます。

33 :
東京学士会院の会長は、福沢諭吉が3ヶ月だけ初代を務めたほかは、
ほぼ加藤弘之と西周の交代制。一度だけ法学者の細川潤次郎が就任。
日露戦争の直後(1906年)まで存続。
帝国学士院に移行してからは、加藤弘之、穂積重遠(法学者)、
菊池大麓(数学者)、桜井錠二(化学者)、長岡半太郎(物理学者)の順に就任。
東京学士会院では維新直後の国情から社会科学の研究者が優勢だったが、
帝国学士院の時期には徐々に自然科学の研究者が擡頭して院長の座を独占。
(大正デモクラシーが終わりつつある1926年に最後の文系の穂積重遠が退任)
戦後の日本学士院は、文系の会員は第一部、理系の会員は第二部に所属し、
第一部と第二部から交互に会長を選出することが慣例となっている。
2011年の時点で歴代会長は11人おり、在任期間はおよそ5年。
人文科学の擡頭により、社会科学派の会長は1994年以降1人も誕生していない。
また、東北大学の1人を除き全て東京大学の出身者で占められている。

34 :
理系で帝国学士院の院長に選ばれた三人(菊池大麓、桜井錠二、長岡半太郎)は、
理化学研究所の設立当初の大幹部でもあった。
菊池大麓は理化学研究所初代所長、桜井錠二は初代副所長、長岡半太郎は主任研究員に選ばれている。
理化学研究所は第一次世界大戦の影響でドイツからの薬品の輸入が途絶えたことで、
日本の独力で薬品を開発するために1917年に設立された。
渋沢栄一、高峰譲吉、明治天皇が設立に関与しており、国家機関といえる。
戦前の有名な研究者には、ビタミンの発見者の鈴木梅太郎、文理融合を目指した寺田寅彦がいる。
理化学研究所は戦時中には理研コンツェルンとして軍需産業に加担した。
その事業の一部は市村という商人に買い受けられ、現在のリコー、三愛となっている。

35 :
明治20年代の帝国大学理科大学には数学科、物理学科、星学科があった。
学生数は今よりもずっと少なく、また講義は英語で行われた。
数学の教授は菊池大麓(日本初の西洋式数学者)と、その教え子の藤澤利喜太郎。
物理学は山川健次郎と長岡半太郎、天文学は寺尾寿(東京天文台初代所長)が教授した。
菊池大麓はイギリス派で幾何学、藤澤利喜太郎はドイツ派で解析学(関数論)を担当。
藤澤のドイツ留学には外科学の佐藤三吉と内科学の青山胤通も同行している。
日本にメートル法を普及させた地球物理学者の田中舘愛橘は藤澤の同期生。

36 :
明治時代の数学教育には菊池大麓→藤澤利喜太郎の本流とは別に
関口開(ひらく)→北條時敬(ときゆき)・河合十太郎の傍流があった。
関口開は金沢の教育者で、和算家の末裔。
本人は独学により西洋式数学を修得し、ベストセラーとなる数学書を上梓した。
北條時敬は後に東北帝国大学総長、学習院院長を歴任する人物。
学生時代の西田幾多郎に、哲学者ではなく数学者になるよう勧めたことで知られる。
河合十太郎は北條時敬の同門で、高木貞治に感銘を与え数学者を志させた人物としてよく言及される。
高木貞治は日本人として初めてフィールズ賞の選考委員に任命された国際派の数学者。
帝国大学理科大学に進学して菊池大麓と藤澤利喜太郎の指導を受け、
ドイツのゲッティンゲン大学に留学してヒルベルトに師事した。
この高木貞治の代に日本の和算と西洋式数学の流れが統合したといわれる。

37 :
明治初期の中等教育では、どの教科書も未刊だったので洋書の翻訳が教本に用いられた。
トドハンターの代数学、ウィルソンの幾何学、
ロスコーの無機化学、スチュアートの物理学、
パーレーの万国史、スウィントンの万国史、ミッチェルの万国地理、
ウェイランドの経済学・倫理学は特に知られている。
いずれも原著者はイギリス人かアメリカ人であり、
後にドイツの影響が濃厚となる数学、化学、歴史学でもこの時点では予兆はない。
しばらくすると帝国大学の学者による入門書の本が書かれるようになり、
これが最初期の日本語の教科書となった。
理系では飯島魁の動物学、三好学の植物学、寺尾寿の算術、菊池大麓の代数学が知られる。

38 :
高木貞治は明治30年7月に帝国大学理科大学を卒業した。
美濃部達吉(法学者)、志賀潔(医学者)、上田敏(文学者)も同年の卒業生。
帝国大学総長は浜尾新(学者ではなく文部省の官僚)、内閣総理大臣は松方正義。
卒業式には浜尾、松方の他に明治天皇も来賓として出席した。
高木貞治のその後のドイツ留学には駒場農学校の時重初熊が同行した。
時重初熊は日本の獣医学の祖と呼ばれる。
帝国大学は英国に倣って9月を始業、7月を終業とする。
修業年限は3年間で、医科大学のみ4年間。
優等生は卒業後に留学という名の海外旅行が約束される。
分科大学の長を学長と呼び、帝国大学の長を総長と呼ぶ。

39 :
菊池大麓は箕作秋坪の実子、緒方洪庵の弟子。
箕作秋坪は明六社の会員で福沢諭吉の同胞。
専修学校初代校長の相馬永胤は福沢とともに友人。
子は菊池大麓(次男)の他に箕作佳吉(三男)が有名。
箕作佳吉は帝国大学理科大学で最初の動物学者。
なお、フランス法学者で和仏法律学校初代校長の箕作麟祥は
妻の連れ子であって実子ではない。
菊池大麓は慶應2年(1866年)に若干11歳の最年少でイギリス留学に出発。
明六社の中村正直に加え、外山正一(後の帝国大学総長)、林董(外交官)が同船。
林董は帝国陸軍初代軍医総監の松本良順の実弟でもある。
松本良順と林董の父は順天堂の創設者である佐藤泰然。
菊池大麓はイギリスではケンブリッジ大学のトドハンターに学び、
これを通じて日本にトドハンターの代数学が紹介された。
帰国後は東京帝国大学総長のほか、京都帝国大学総長、学習院院長を歴任。
桂太郎内閣では文部大臣として入閣。

40 :
明治維新から日露戦争までの帝国大学総長は、
加藤弘之、外山正一、渡辺洪基、浜尾新、菊池大麓、山川健次郎の6人。
加藤弘之、外山正一、浜尾新、山川健次郎は期を跨いで再任されている。
日露戦争後の1905年〜1920年も浜尾新(〜1912年)と山川健次郎(〜1920年)の2人のみ。
加藤弘之は政治思想家、外山正一は社会学者でスペンサーの紹介者、
渡辺洪基は元東京府知事の官僚で工手学校(工学院)の創設者、浜尾新は文部省の官僚、
菊池大麓は数学者、山川健次郎は物理学者。
明治時代には社会科学が優位、大正時代には自然科学が優位という帝国学士院の構図はここにも見られる。
外山正一、浜尾新、菊池大麓は文部大臣にも就任している。

41 :
明治34年(1901)〜大正2年(1913)の桂園時代の文部大臣は、
菊池大麓、久保田譲、牧野伸顕、小松原英太郎、長谷場純孝、柴田家門。
ただし、兼任の者(いずれも3ヶ月未満で辞任)は含まない。
内閣自体が短命だった第三次桂内閣の柴田家門を除き、
全員が満1年以上の任期を務めている。
菊池大麓は第一次桂内閣の文部大臣。
久保田譲(文部省)も同じく第一次桂内閣で入閣。日露戦争後の戸水事件で引責辞任。
牧野伸顕は第一次西園寺内閣。大使の出身であり、後に外務大臣に転じる。
小松原英太郎は第二次桂内閣。皇典講究所(國學院)と拓殖大学の長。
皇典講究所は伝統的に総裁に皇族、所長に国務大臣を戴くことになっている。
拓殖大学は初代学長が桂太郎、二代目が小松原英太郎、三代目が後藤新平であり、こちらも政界との関係が濃厚。
長谷場純孝は第二次西園寺内閣。鹿児島の出身で立憲政友会の領袖の一人。
柴田家門は第三次桂内閣。短命内閣のため実績を残さず辞任。
戦前には学者が文部大臣を務めることが多かったが、
桂園時代については菊池大麓の他は文部省や他省の官僚、あるいは純粋な政治家である。

42 :
戸水事件は日露戦争の主戦論を唱えた帝国大学教授が解任されたもの。
七博士は戸水寛人(民法学者)、富井政章(フランス法学者)、
小野塚喜平次(政治学者)、金井延(社会政策学会の経済学者)、
高橋作衛(国際法学者)、寺尾亨(国際法学者)、学習院の中村進午(国際法学者)。
小野塚喜平次は後に東京帝国大学総長。
金井延はドイツ留学の経験がありシュモラーとワーグナーの直弟子。
寺尾亨は天文学者の寺尾寿の実弟。来日中の孫文の友人。
辛亥革命の際には頭山満、犬養毅とともに顧問官として招聘される。
当時は第一次桂内閣で文部大臣は久保田譲。帝国大学総長は山川健次郎。
山川健次郎の辞任に発展したため戸水は復職が認められ、
帝国大学総長は松井直吉(帝国大学農科大学学長)、浜尾新が後任となる。

43 :
戦前の学習院院長は17人おり、公家、軍人、科学者・数学者のいずれかである。
社会科学・人文科学の研究者は一人も就任していない。
菊池大麓、山口鋭之助、北条時敬、荒木寅三郎の4人が学者の出身となる。
山口鋭之助は教科書を執筆した物理学者。
荒木寅三郎は京都帝国大学総長でもあった医学者で、
関東軍防疫給水部の石井四郎の嫁の父でもある。
菊池大麓も京都帝国大学総長だったことがある。
東京帝国大学、京都帝国大学、学習院の全ての総長となったのは菊池大麓が唯一。
軍人としては大鳥圭介、乃木希典らが学習院院長となっている。
公家の岩倉具視の実子も一年だけ院長となっている。
戦後の学習院は哲学者の安倍能成(1946-1966)をはじめ文系の学者が院長の座を占める。
外交官や経営者も就任しているが、理系の学者が就任したことはない。

44 :

中野剛志先生がTPP賛成論者の詭弁を全滅させたようです
http://www.youtube.com/watch?v=9amjatPD_l4
http://www.youtube.com/watch?v=8G29qFqId2w
中野先生が敗北宣言、暗される?
日本が米国の植民地に。すでに99%手遅れか?
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15973549
テレビ・新聞にだまされるな。
気づいたら、
「my日本」で検索

45 :
安政の改革で長崎の海軍伝習所とともに生まれた江戸の蕃書調所。
教官は津田真道、加藤弘之、西周、大村益次郎、寺島宗則、箕作麟祥ら。
大村益次郎は長州出身の兵学者。初代兵部大輔として陸軍の近代化を推進(ただし4ヶ月で暗)。
寺島宗則は薩摩出身の外交官。イギリスとの関係が深い。後に外務卿として樺太千島交換条約を締ぶ。
津田真道と西周は見聞を広めるため在職中にライデン大学に留学した。
福沢諭吉は緒方洪庵の適塾の塾頭だった。適塾は大阪にある。
同年代の長与専斎、橋本左内、大村益次郎も適塾の出身。
長与専斎は長崎医学校(長崎大学医学部)の初代校長。松本良順とともにポンペの弟子。
松本良順も長与専斎も東京医学校(東京大学医学部)の校長だった。
東京医学校にはドイツからお雇い外国人のミュラーとホフマンが招聘された。

46 :
市ヶ谷の陸軍士官学校はフランスを模範、
築地の海軍兵学校はイギリスを模範とした。
クラークの札幌農学校はアメリカのマサチューセッツの文化を移植し、
内村鑑三と新渡戸稲造を生み出した。
駒場農学校は内務省農事修学場を改組したもので、
既存の札幌農学校に対抗してドイツの農学を輸入した。
工部大学校ではスコットランドのダイアーが教官となった。
ダイアーはグラスゴー大学のケルヴィンの弟子で、
伊藤博文がケルヴィンに繋がる人脈を持っていたために招聘された。

47 :
工部大学校に設置されたのは土木、機械、造家、電信、化学、冶金、採鉱の七学科。
卒業生は鉱山、鉄道、船舶、電信の整備に携わった。
明治時代には理学はドイツ、工学はイギリスという観念があった。

48 :
それにしても、批判者や他宗の幹部に対し、
一日中見張りや尾行を行なう団体に支配されているjare.jpが、
もし、政権に加わったら、いったいどのようなことが起こるでしょうか。  
もし、jare.jpが天下を盗るようなことになったら、
国民(なかんずくjare.jpに批判的な人々)は、jare.jp秘密警察
によって、四六時中、身辺を監視される社会になるに違いありません。  
自分達の利益や目的のためには、他人の人権を侵すことを屁とも思わぬjare.jpが、
警察や検察を押さえたら、間違いなく暗黒社会がやって来るでしょう。
 私をはじめ、多くのジャーナリスト達は、今、現実に、
その恐怖に日夜さらされています。これは架空の話ではなく、
現実に行なわれていることなのです。  人権≠セとか平和
だとか、けたたましく叫んでいる団体が、秘密に情報工作師団を作り、
こうした非合法活動を行なっている――しかも彼らは、
けっして勝手にやっているのではなく、jare.jpにきわめて近い、
jare.jp中枢の指示で行動していることは明白です。
 二年前、私達が行なったアンケート調査では、四千数百人の人から、
jare.jpによる尾行・いやがらせ・脅迫・暴行・強要≠ネどの行為によって被害を受けた、
との回答が寄せられています。  集団ストーカー≠組織化し、奨励しているjare.jpは、
まさに犯罪集団といって差し支えありません。

49 :
菊池大麓の娘婿は5人のうち3人が有名な法学者。
長女の夫は美濃部達吉、次女の夫は鳩山秀夫、三女の夫は末弘厳太郎。

50 :
藤原銀次郎は三井財閥の実業家。王子製紙の製紙王。慶應義塾出身。
彼が創設した藤原工業大学(1938)は1944年に慶應義塾大学に吸収されて同校の工学部となった。

51 :
富山県尋常中学校を中退
文部省国語調査委員会補助委員
東北帝国大学教授
神宮皇學館大學学長
肇国聖蹟調査委員
学術研究会会議会員
貴族院議員
文部省国史編修官
国史編修院長
文化勲章
富山市名誉市民

52 :
防衛医科大学校
http://www.ndmc.ac.jp/about/enkaku.html
防衛医科大学校図書館
http://www.ndmc.ac.jp/tosyokan/enkaku.html
防衛医科大学校病院
http://www.ndmc.ac.jp/hospital/annai02.html
防衛医科大学校は埼玉県所沢市にある。
所沢航空記念公園(所沢陸軍飛行学校跡地)に隣接。
第五空軍所沢通信基地と大和田通信所も同地。

53 :
帝国大学に改組される直前の東京大学は法政学部、文学部、医学部、理学部、工芸学部の編成。
帝国大学法科大学の前身・東京大学法政学部は司法省法学校を改組したものだが、
フランス法を教授した司法省法学校に対してイギリス法とドイツ法を重視した。
帝国大学工科大学は東京大学工芸学部に工部大学校を吸収させたものだが、
実学を重視する工部大学校は手技を軽視し理論に偏重する東京大学工芸学部との一体化に反対した。

54 :
清朝の1860年代
1860年の北京条約(アロー戦争の敗北)、1861年の咸豊帝の病死(同治帝の即位)に始まる。
同治帝の即位といっても実質は生母の西太后による垂簾聴政。
1861年に総理各国事務衙門が設置される。
これはイギリスとフランスの代表に帝室から独立した外務省の設立を要求されたことに由来。
外交官の養成が急務となったため、間もなく英語・フランス語・ロシア語を教授する同文館が設立される。
従来の清の官僚に外国語を読解する能力はなかった。
咸豊帝の弟であり北京条約の調印に携わった奕言斤(えききん)が西洋の知の摂取を主導する。
これに対して同治帝の侍講の倭仁は儒教の尊重を説きキリスト教にも理学にも不快感を示す。
同文館には兵学・造船の目的で天文学・数学の学科を設置する計画があったが骨抜きにになった。
奕言斤は清の開化を正当化するため、当世の日本人がイギリスへの留学を盛んにしていることを援用した。
1862年の文久遣欧使節(ロンドン万博の見学)、
1865年の薩摩藩の使節団(森有礼、五代友厚、寺島宗則)、
1866年の勝海舟の留学生(中村正直、外山正一、菊池大麓)が想起されるが、
おそらく勝海舟のものを指すか、さもなくばこのいづれでもないのだろう。

55 :
1865年に同文館から『万国公法』が刊行。
原著者はアメリカの外交官ホイートン。
英語圏のみならずフランスやドイツでも国際派の必読書となっていた。
1864年に天津の近海でプロイセンがデンマークの船舶を拿捕。
ヨーロッパで勃発したシュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争の余波。
これに対して清は原著の『万国公法』を援用して抗議した。
1870年には天津でキリスト教徒に対する暴動(天津教案)が発生。
カトリック教会が漢人・満人の幼児を拉致しているという疑惑が発端。
フランス領事が害される。
清とフランスの関係が急激に悪化するも、普仏戦争の勃発によりフランスが妥協。
天津教案が原因で直隷総督の曽国藩は汚名をかぶる。
暴動の首謀者を冤罪の可能性を無視して処刑したことでも悪評を生む。
曽国藩は左遷され1870年代を通じて新たに李鴻章が権力を得る。

56 :
李鴻章は太平天国の乱を鎮圧してから兵器の製造に関心を抱く。
1865年に上海に江南製造局を設立して軍艦、大砲、銃器の製造に着手する。
江南製造局は外国人を招聘して『幾何原本』(エウクレイデス)、『地学浅釈』(ライエル)の翻訳も手がけるようになる。
他方で経書の勉強は実益がないとして疎んじられた。

57 :
アロー号事件は1856年に広州で発生。
清の官憲が英国旗を掲揚する海賊船を取り調べて苦力を連行した。
イギリスでは主戦派のパーマストン首相と反戦派のコブデンが対立したが派兵が決定。
セポイの乱の鎮圧を優先するため遅延したものの、1857年に開戦。
フランス・アメリカ・ロシアの外圧もあって1858年には天津条約が結ばれる。
しかし、事後の交渉に不手際があったためアロー戦争が再開する。
イギリスでは領事のパークスが捕虜となり、報復のため円明園が焼き討ちされる。
これには若い頃のゴードンも居合わせた。
1860年に北京条約が締結され、白人の外交官の常在とキリスト教の伝道の自由が定められる。

58 :11/11/11
↓オンラインで明治時代の文献が読めるから面白いぞ
近代デジタルライブラリー | 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/

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