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日露戦争って本当に自衛戦争だったの???


1 :11/09/26 〜 最終レス :11/11/21
他国の揉め事に日本が介入しただけで、自衛ではないのでは?

2 :
なんか太平洋戦争(虐祭り)は悪だが、日露戦争は大絶賛っていう司馬遼太郎信者が
この板には多いようなので・・・・

3 :
アホー池沼袋いけ。

4 :
それについては司馬遼は余り関係ない。
とりあえずWIkiの地政学の項目でも眺めてこい。

5 :
>>2
自衛か侵略かが問題のではなく
勝利か敗北かが問題

6 :
うんうん、20世紀最初の無駄な戦争だったね
朝鮮半島と南満州権益という糞の役にも立たない地雷を
10万の命と国家予算数年分の戦費つぎ込んで取ったんだからね。
国防上の理由というのであれば、ロシアが日本に開戦前に提示していた朝鮮半島の北緯39度以北中立化と
日露両軍の韓国の軍事使用禁止で充分のはず。

7 :
完璧には叩けなかったね。
追い払った程度。

8 :
>>6はその数年後にロシアに騙された!と泣きながら

9 :
>>6
明らかに不十分だぞ。
日露の戦歴に浮かされて、陸軍どころか海軍ですら戦力的には劣勢だったのを忘れてるんじゃないか?
バルチック艦隊と旅順艦隊が合流したらヤバイと言ってたじゃないか。
史実においては開戦劈頭で制海権を確保できた為、第一軍が平壌付近に
第二軍が遼東半島に上陸して遼陽で合撃することが出来たが、
制海権を確保出来ない場合は当初の想定通り釜山に上陸して半島を北上するしかない。
当時の陸軍の展開範囲は日露、WW1を見ての通り鉄道網に依存してるんだが、
釜山から鴨緑江まで行けるか、平壌までしか行けないかでは、満州の動脈である
東清鉄道に掛けられる圧力が全然違う。
そして戦略的状況が変わって逆にロシアがやる気満々になった場合、互いに鴨緑江と平壌から
ヨーイドンじゃ東清鉄道どころか旅順にも絶望的に手が届かない。
遼東半島に上陸できても主力が朝鮮北部じゃ史実のような連携なんて出来ないから、
孤立して戦力的に優勢なロシアにいずれ磨り潰される。
旅順艦隊が保持されれば、日本海軍だってどうなるか分からない。
中立地帯を39度線以北に設定するか、鴨緑江南北50kmに設定するかは死活問題だよ。
ロシアには、露清満州還付条約の第二次・第三次撤退期限をブッチした上に、日米英の抗議を
ガン無視した経歴もあるしね。条約さえ結んだら安心だねって国じゃなかったよ。

10 :
一応、日露戦争開戦した時、朝鮮政府はロシア大使館の中にあり、実際はロシアの占領状態だからな

11 :
あ?高宗は1897年に王宮に戻っているし、
1898年には独立協会の反発で韓国の要請でロシアから派遣された軍事顧問、財政顧問も追放して
露韓銀行も閉鎖に追いやっていて韓国は日露戦争の頃には親露政策など放棄していますが?
そしてそれらの措置にロシアは韓国に何ら抗議も嫌がらせもしていない。
ロシアが韓国を植民地化しようとしていたというのは、どの様な歴史的な事実を見ても伺い知る事は出来ない

12 :
ソ連崩壊後に公開された文書も踏まえた研究では、ロシアもあの時点での朝鮮占領までは
考えてなかったという見解が大勢かな?
ロシアの韓国政策について、まず1898年4月に>>11も書いてる露韓銀行閉鎖などの処分と、
強硬派だったスペール公使の更迭などが行われ、西・ローゼン協定が締結される。
これらが全て1ヶ月以内に行われていることから、この1ヶ月前に締結された遼東半島租借成立に絡み、
ロシア内部で大規模な政策転換が行われたことが推測できる。
どの様な政策転換が行われたかは、これら一連の政策の締めとなった西・ローゼン協定に詳しく、
韓国政府に対する日露の政治的影響力の対等化、韓国における日本の経済活動の実存を認め、
これを妨害しないという、日本に対する大きな譲歩を行っている。
これによりロシアが韓国への野心を一時放棄したという見方は正しいと思われるが、この協定は上記の通り
当面の状況を設定するものであり、例えば満韓交換論のような将来的な状況を設定するものではないことも
注意されたい。
こののち、ロシア宮廷では満州重視と言う点では一致するが、その外縁に位置する
韓国政策では党派ごとに細かい点で相違があって、それらを大別すれば
ウィッテの多国間協調も含めた朝鮮半島中立化案
ベゾブラゾフ・アレクセーエフの経済進出も含めた朝鮮半島緩衝地帯案
みたいな感じになるだろうか?クロパトキンは微妙かなー、ウィッテ寄りだと思うが批難してることもあるし。
中立化と緩衝地帯を敢えて分けたのには大した意味はないです。
日露関係にとって特に厄介だったのが後者で、まーご存知の通りウィッテの失脚、
露清満州還付協定における第二次・第三次撤兵の反故、鴨緑江開発などで日本の神経を
刺激し続けることになる。まぁ失脚するけどねベゾブラゾフも。
また、日露交渉における中立地帯39度線以北という設定も、満州におけるロシアの軍事行動を
掣肘することが事実上不可能であった以上、将来における朝鮮半島の安全を保障するには
不足であり、日露交渉の最大の障壁になった。
まぁ要するに、1898年4月の時点でロシアが満州放棄策を採ったことはまず確実だし当時もそういう
認識だった筈だが、将来に渡って極東の安定を保障するものでは有り得ず、またそれを策定する
試みは挫折した。
あの時期を扱った論文とか読んでるとたまに思うんだが、なまじ歴史を知ってるだけに、「この後はこうなる」
という意識・無意識が先行して、あの当時、先の分からぬ将来において如何に安全保障を確立するかという
当時の政府首班の視点が抜け落ちてる気がするんだよなぁ。
現代で例えるなら、あと十年以内に中国は崩壊するので、東・東南アジアに関する安保は現状維持でいいですと
考えてる国がいないのと同じことなのだが。

13 :
そういえば、1898年の政策転換のときは何か政変とか起きたのかな?ロシアで。
結構重大な変わり目だと思うんだが。

14 :
大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、
満洲を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに
南下政策を取りつつあった。
ロシアは高宗を通じ売り払われた鍾城・鏡源の鉱山採掘権や
朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し
朝鮮半島での影響力を増したが、
ロシアの進める南下政策に危機感
(1861年にロシア軍艦対馬占領事件があった為)を
持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。
当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、
ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。
1904年2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした
大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結し、
開戦後8月には第一次日韓協約を締結、
大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に
日本政府との協議をすることとした。
大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では
独自改革が難しいと判断した進歩会は日韓合邦を目指そうと
鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、
日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。
一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力を
あくまでも排除しようと試み、日露戦争中においても
ロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。
戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、
大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。

15 :
1903年8月からの日露交渉において、
日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、
いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。
しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や
関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、
朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に
興味を示さなかった。
さらにニコライ2世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。
常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。
ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、
戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ
戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長
(後の十月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。
ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、
軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。
日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が
事実上ロシアの支配下となり、
日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。
またシベリア鉄道が全線開通すると
ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が
容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。
そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は
当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した

16 :
有名な風刺画で英米が、日本にロシアの火中の栗を拾わすのあるじゃん
英米はロスチャイルドがかなり日本に金貸してるし、
欧米列強からもロシアの南進は脅威だったんだろう
ちなみにアメリカは金かえさんでいいから、中国にアメリカの拠点をくれよって言い
日本が無視したことが大平洋戦争の遠因となっていく

17 :
遠因なんてほとんど言い訳だけどな。
隣の家との10年前の口げんかが人事件の遠因と言ってるのと
一緒だけど、その間も仲がよかった時期もあるし、無用な煽りですね。

18 :
日露戦争は日本の侵略戦争だろw
和平工作前に交渉を有利にするため、交換条約でロシア領になったサハリンに攻め込んでるんだから

19 :
>>15
wikiからの引用ご苦労さんだけど、ニコライ2世は主戦論者でもなかった。
司馬遼太郎の創作に騙されてるやつが多そうだけど、彼は普通に善人。

20 :
坂の上の雲だけを鵜呑みにするのは良くない
俺も昔は乃木大将が無能だとばかり思い込んでいたし

21 :
ニコライ2世自身に明確な指針はあったんかな。
ウィッテとベゾブラゾフの間でフラフラしてた印象しかないが。
海軍も、極東艦隊だけじゃ不利だから日本と戦争するなら軍拡してよ〜軍拡〜っつってたしね。

22 :
ロシア人もなぜ日露戦争が起きたのかよく理解していないというのが実情w
はっきりしているのは、ニコライ2世は戦争を仕掛ける意図はなかった。

23 :
日清、日露戦争で日本を勝利に導いた大韓帝国(李氏朝鮮)
日本が近代において地位を確立した、日清、日露戦争での勝利の裏には大韓帝国の日本への支援が大きく働いたことは日本の教科書には書かれていませんが有名な話です。
清と日本の領土欲から両国の対立が避けられない自体になることは1870年には明確でした。
そしてとうとう、台湾出兵によりこの対立は現実化します。
江戸末期から日本の開明派を支持し、支援を与えていた朝鮮の政治家達は日本を支えるべく行動を行いました。
この方針は半島内の政権の変化があっても、終始変わりませんでした。
日清戦争での日本への支援は
・多額の戦費の支給
・数多くの情報
・ヨーロッパ諸国、アメリカへの外交工作の担当
・軍艦の供与(イギリスより購入後日本に供与)
  吉野
  浪速
  高千穂
  
・海軍指揮官の観戦武官として派遣
(日清戦争での海戦はこれらの武官による作戦指導)
これらの支援により、日本は清に対して勝利を収めました。
そして、時がたちロシアが南下政策により東アジアへの領土拡大をもくろみました。
大韓帝国はこの危機を日本とともに回避すべく多大な努力を行いました。
外交努力により日露の対立を和らげるべく、大韓帝国は威信をかけて動きましたが両国の緊張は和らがず、開戦となりました。
ここでも大韓帝国は日本を支持し、多くの支援を行いました。
・多額の戦費の支給
・ヨーロッパ商人、政府にたいして日本債権の購入を奨励
・ロシア情報網、補給網の妨害
(大韓帝国がバックにいることを示唆し、ロシア友好国の中立化をはかった)
・日本軍への補給網の整備
・各種作戦の立案
・日本陸軍支援のための医療チームの編成
・軍艦の供与
 三笠(建造費の3/4を大韓帝国が負担)
 日進
 春日
 敷島
 富士
 朝日
これらの支援により日本は賭けと言える日露戦争に勝利し講和が成立し大国としての道が開けるのです。
しかしながら、日露戦争にて多大な負担を行い一時的に弱体化した大韓帝国は(当時は日本を信じる余り、お人よしすぎました。
無能との指摘も間違いではないでしょう。)は日本の圧力を多く受けるようになり、保護国となり屈辱の併合をされてしまい、36年の
過酷な植民地支配を受けるのです。
現在の日本があるのは日清、日露での半島の支援のおかげの部分も多いと思います。またその後の恩を仇で返す行為も含めて現在の
日本人は反省しろとは歴史上のことなので言えませんが、今後の日本の行き先を考えるべきでしょう。

24 :
>>23
おじいちゃん、大韓帝国になれたのは日清戦争終了後でしょ。
>>22
そう考えると、ウィッテが失脚したのは結構致命的だったのかもしれんね。

25 :
しかし、半島の高宗はロシアの傀儡だったんだろ
日本がロシアの権益にストップをかけたかったのは当たり前だろ
あの頃は、ロシアの南進政策はハンパないからな

26 :
>>11-12が非常に的を得たことを言ってるので付け加えることは特にないんだが、
客観的に見てると日本が過剰反応気味だったのは確かだな。
しかし事後の視点と行為時の視点は違うわけで、それを言われると何とも言えないが
とりあえず日露戦争研究で面白い史料なり書籍を随時挙げてほしい
100周年の時に出た本はかなり衝撃的な内容になってたんじゃないかな

27 :
まあ逸話的に一番面白かったのは、マダガスカルまで行ってたからゆきさんが
バルチック艦隊の進路を教えて日本軍が重宝してたと言う所だなw
何が役に立つか分からないもんだ

28 :
>>25
いや大韓帝国はあの段階では全然親露じゃないよ
親日派も多かったよ

29 :
在日に関係ない戦争ってこうも歴史認識に差があるんやな
どんだ朝鮮人が悪さしてるってわかるわww

30 :
・参謀本部や満洲総司令部の立てた作戦は、個々の戦場ではほとんど役に立たなかった。
・それにもかかわらず、日露戦争陸戦で勝てたのは、前線の司令官が臨機応変に作戦を
変更、修正し、場合によっては独断専行し、兵隊たちが勇敢に戦ったからであった。
・児玉源太郎は、政治家ではあっても、作戦家(名参謀)ではなかった。

31 :
>・参謀本部や満洲総司令部の立てた作戦は、個々の戦場ではほとんど役に立たなかった。
間違ってるな。
大戦略が間違っていて、戦術で勝てる例などほとんどありえない。
参謀本部での作戦ってのは人と飯と弾を送る方法を考える場所だからな。
それとも? 人と飯と弾が送れなかったのか?

32 :
>>30
別宮暖朗氏オッスオッス

33 :
ニコライ2世って日記を読む限りむちゃくちゃいい人だよね。
大津事件で重傷を負った後も日本を少しも恨んではいないとか、日本は素晴らしいとか、
特に日本の女の子がかわいいとか、ついていきたいとか、同棲してる知り合いが羨ましいとか素直に書いてるしw
日本のお見舞でも責任者が連座しないようにとか気を配ってるし、日本側にも評判がいい
朕は戦争を欲しないから戦争は起きませんって、素直な本音でしょ?
何でこんないい人を外道みたいに言ってるんだ日本は?

34 :
>>33
日本人を侮蔑してマカーキと呼んで侮蔑していたとか。
あと公文書にもそう書いてたとか。
大津事件を恨みに思ってたとか。
その他にも色々とあるが、まぁそれらのイメージの出所はたぶん司馬遼だろうな。
司馬が何をソースにしたのかは知らん。
古今東西どこでもそうだが、圧倒的に人口に膾炙した方が大衆のイメージを形成するもんだよ。
個人的にはニコライ2世について、良く言えば素直に育った良家の子息、悪く言えば政治的な意思が
聊か薄弱な印象を受けたので、日露開戦後は宮廷の雰囲気に流されてマカーキとか言ってたのかも知れん。
もちろんソースはないがw

35 :
戦後に日本の皇族が訪ロした時に「醜い顔だった」と珍しく悪口書いた部分だけだったというけどね。
愛国心に燃えてる記述はあるが、日本への悪意を持った記述は。まあその時は敗戦で意気消沈してたんだろう。

36 :
当時、半島はシナとの関係はどうだったの

37 :
清は義和団の乱で半植民地化が決定的になり内政改革が始まった所でそれどころではない

38 :
日清戦争後に大韓帝国でございと宣言しても文句も言えないぐらいだから
完全に清は局外だろう。
満州にロシアが居座ってたから半島どころじゃないだろうしw

39 :
公式記録マカーキ説は全く根拠ないらしいね
ウィッテが皇帝がマカーキと呼んでたと書いてるくらいなんだが、
ニコライ2世日記を読むとほんとにお上品で家族思いの陛下と言う感じしかないんだよな
その前のアレクサンドル3世とは大違いって感じ

40 :
ロシアの太平洋艦隊って資金不足で石炭焚きたくなかったから
1年のうち8か月は停泊状態で航海訓練もろくにしてなかったんだな
だから戦場となる海域についての知識が士官になく、人員欠乏も慢性化していた

41 :11/11/21
自衛じゃなかったらなんだよ

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