2011年10月1期日本近代史太平洋戦争は共産主義者の陰謀【2】
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太平洋戦争は共産主義者の陰謀【2】
- 1 :11/11/26 〜 最終レス :11/11/28
- 大日本帝国は赤い謀略に踊らされたピエロだったのか?
※前スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1121091165/
http://mimizun.com/log/2ch/history/1121091165/
http://unkar.org/r/history/1121091165
- 2 :
- 東亜連盟戦史研究所
「戦争の天才と謀略の天才の戦い」国民のための大東亜戦争正統抄史1928―56
http://touarenmeilv.blog88.fc2.com/
- 3 :
- 月刊WiLL:2011年2月号
シリーズ 現代史を見直すH
■西尾幹二×福地惇×福井雄三×柏原竜一
北岡伸一「日中歴史共同研究」徹底批判A
http://web-wac.co.jp/magazine/will/201102w
ここで福井氏が米内光政について語っている。
米内は憧憬といっていいほどの親近感をソ連に抱いていた。
米内は、親米派だったから三国同盟に反対したのではなく、親ソ派だったからだった。
ソ連とは友好関係を保たなければならない。これが彼の一貫した姿勢だった。
米内は第一次大戦からロシア革命にかけて駐在武官としてペトログラードに住んでいて、
この国の魅力にすっかり虜になり、大変なロシア贔屓になって帰国した。
帰国後も異常ともいえる情熱でロシア文学やロシア革命にのめりこみ、ソ連研究の論文も
執筆している。
米内光政は親米ではなく親ソ派だったから日独伊三国同盟に反対したのであり、日本海軍はスターリンの意のままに南進策をとった
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/391.html
米内光政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF
日中戦争の直接の引き金になった第二次上海事変を仕掛けた国民党の張治中は中共の秘密党員
だったが、一方で、日本側で派兵を強力に推進し、日中戦争泥沼化の元凶となったのが米内光政。
偶然ではないだろう。
- 4 :
- ----------------------------------------------------------------------------------
数々の著書で「張作霖爆ソ連特務機関犯行説」を主張するドミトリー・プロホロフ氏と、「日本は
侵略国家であったのか」で第一回「真の近現代史観」懸賞論文で最優秀賞を獲得、その後は
講演や著書で真の歴史を人々に伝え続ける田母神俊雄氏が対談。ロシアの苛酷な情報統制や
挑発を続ける中国の傲慢な態度など、今の東アジア情勢に関する赤裸々な情報交換が行われた。
----------------------------------------------------------------------------------
田母神 私は特に、日本海軍にコミンテルンの息がかかっている人がいたのではと感じています。
というのも、A級戦犯として東京にかけられた28人の中には、海軍出身者が一人もいないのです。
真珠湾攻撃を行った海軍が、一人もA級戦犯として罪を問われない理由がわからない。首相や
海軍大臣を務めた米内光政は、駐ソ連武官だった経歴があり、ロシア人との間に子どもがいるという
歴史家もいます。彼も戦犯にはなっておらず、ソ連と通じていたという噂があります。海軍とソ連との
つながりはどうだったのでしょうか?
田母神 ソ連と日本とが戦ったノモンハン事件は、従来は日本がこてんぱんにやられた負け戦だと
されていましたが、最近公表された資料から、五分五分もしくはソ連の方の被害が多かったということ
がわかってきました。しかしロシアのメドヴェージェフ大統領は、歴史解釈の見直しは許さないと主張
しています。これはどういうことなのでしょうか?
プロホロフ ノモンハン事件については、軍事史の専門家ではないので詳しくはないのですが、ロシアで
歴史評価の見直しが禁止されたのは事実です。これはノモンハン事件だけではなく、すべての歴史が
対象。もしこれを犯した場合、歴史歪曲の罪として、刑法犯として裁かれることになります。おかしいのは、
歴史の事実に基づいた歪曲の否定ではなく、単に大統領の政敵をつぶすために行われているということ
です。これが非常に問題です。
http://www.apa.co.jp/appletown/pdf/taidan/1003taidan.html
- 5 :
- 歴史通:2011年3月号
総力特集
「日中戦争」は侵略ではない!
■渡部昇一×石平
一体どこが「侵略」だというのか
【渡部】 張作霖爆死事件にしても、当時は昭和天皇まで河本大作大佐が事件の首謀者だと
思っていたらしいけれど、リットン調査団は「ミステリアスな事件である」と言っているだけで、
日本軍が起こした事件だとは言っていないんです。イギリス諜報部は、爆発物の分析をし、
火薬がソ連のものであると突き止めている。日本は気づかなかったけれど、リットンは知って
いたんだと思います。だから、あえて日本を責めなかった。
http://web-wac.co.jp/magazine/rekishi/201103r
月刊WiLL 2009年04月号
【特集】田母神論文を忘れるな
■渡部昇一
占領軍「洗脳計画」で「日本は悪い国」に
・・・・簡単なことで河本大作は東京の時点で生きていたのですからなぜ法廷に
出さなかったのか考えたことはあるのでしょうか。彼を出廷させて本当のことを言われ
たら、困ると考えたと見るのがむしろ常識的です。
http://web-will.jp/backnum/index2009.html
http://unkar.org/r/history2/1133178167/316
- 6 :
- 謎解き「張作霖爆事件」 加藤康男 著
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-79669-7
河本大作大佐の“首謀犯説”が揺らぐ張作霖爆事件。
ソ連の諜報機関、息子・張学良の関与の可能性など、新資料から昭和史の闇に迫る!
昭和三年六月四日早朝、満州を支配していた奉天派の大元帥・張作霖は、
北京から奉天への帰路途上、乗車していた列車が爆破炎上して暗された。
満州事変のきっかけとなったこの事件は、戦後、本人の自白をもとに
関東軍の高級参謀河本大作による犯行との説が定着していたが、近年この定説が覆されようとしている。
証拠、証言が多数あった河本犯行説はなぜ破綻したのか?
暗躍するソ連特務機関の影。長男・張学良周辺の不穏な動き。
発掘された新資料の数々――真犯人はいったい誰なのか? 昭和史の大きな謎に迫る。
- 7 :
- 歴史通:2011年3月号
総力特集
「日中戦争」は侵略ではない!
■中西輝政×北村稔
さきに「平和」を破ったのは誰か?
http://web-wac.co.jp/magazine/rekishi/201103r
この対談で語られているが、辻政信はゾルゲと親しかったそうだ。
- 8 :
- 歴史通:2011年3月号
総力特集
「日中戦争」は侵略ではない!
■中西輝政×北村稔
さきに「平和」を破ったのは誰か?
■阿羅健一
日独防共協定のかげで中国の背後になぜドイツが
http://web-wac.co.jp/magazine/rekishi/201103r
この二つを併せて読んだら、コミンテルンの陰謀は間違いなく存在したと断言できる。
中国国民党軍を支援したドイツ軍事顧問団とコミンテルンの関係に着目する必要がある。
(参考)
http://unkar.org/r/asia/1297853367/159-160
http://unkar.org/r/history2/1155479839/3
http://unkar.org/r/history2/1155479839/596
- 9 :
- 田中隆吉
田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、陸軍少将。
第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、日本軍の数々の謀略に
直接関与しており、また、早くからコミンテルンにつながる人脈だと疑われ、関東軍にいたころからゾルゲ
と何度も会い、綏遠事件の直前にも、現地でゾルゲや尾崎秀実と会っており[1]、日本軍の闇の部分に
通じた人物であった。
太平洋戦争開戦時の陸軍省兵務局長という要職にありながら、極東国際軍事(東京)において
戦犯としての訴追を免れ、検事側の証人として被告に不利な証言もした。
^ 中西輝政・北村稔『歴史通』2011年3月号『さきに「平和」を破ったのは誰か』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%90%89
- 10 :
- 『悪の論理』 倉前盛通著
昭和39年10月号の文芸春秋に、酒井三郎氏が「昭和研究会の悲劇」
という題で執筆している・・・
「ただ、私には一つの印象に残っていることがある。
支那事変が起こった後、私たち昭和研究会の中心メンバーは、
一貫して、事変不拡大を唱えていたが、
尾崎君は、あるとき突然に積極論者となり
”漢口攻略をやるべし”との意見書を後藤氏のところにもってきたことがあった。
”支那の動脈を叩かなければ支那事変は変わらない。その動脈に当たる漢口を
徹底的にたたくことが先決問題だ”と彼は主張し、
”この意見は近衛公と軍に出すのだ”といきまいていたのがきわめて印象的であった。
・・・
この大山君は、昭和研究会が解散した後、陸軍の石原莞爾に支那問題を聞いた時、
尾崎が突如として”支那の動脈をたたき続け、最後にはビルマ・ルートまで叩くべし”
との意見をのべて、石原が”何の根拠があって、そんなことをいうのか”と烈火の
ごとく怒ったのを目撃している。
昭和研究会の若手は、総じて支那事変不拡大の意向をもっていた中で、
尾崎君は逆に事変拡大の意見をもっていたフシも見られて、
今おもえば実に奇妙な気がするのである」云々。
尾崎秀実が、何故、雲南省まで進撃すべしというような暴論を煽ったか、
今さら、いうまでもないであろう。
石原莞爾は日本の軍人としては卓越した戦略眼を持っていた人物であったので、
尾崎の強硬論の裏に、日本を自滅へ追い込もうとする意図が、
かくされていることに気がつき、激怒したのかもしれない。
- 11 :
- 【書籍】 戦前の朝日新聞社は積極的に軍に加担、大陸制覇の野心を実行に移していた…『朝日新聞の中国侵略』 [02/17]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1297937626/
- 12 :
- 『正論』 2011年10月号
反日アメリカ人の本を貪り読んだ戦前日本人(上)対支21カ条要求をスクープした男
歴史家 田中秀雄
ttp://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/1109/mokji.html
ここで、現代でもなお「日本の大陸侵略の始まり」だと21カ条要求が誤解されている端緒となったクロウの
誤りを指摘しておこう。
確かに日本は5月7日に北京政府に最後通牒を通達している。しかしその前日に、通牒の内容を英米露仏
四カ国に公明正大に通知していたのである。日本では、7日午後4時に最後通牒に至った理由を述べた
「日中交渉?末書」を公表している。
ロシア大使館は極秘に通牒を入手したわけではないのだ。
5月9日の中国の新聞には、既にこの要求に対する悲憤慷慨の記事や論説がたくさん出ている。「長城以北
は日本に併合されたも同然」という記事さえある。
また、日本人が北京政府を脅しているという証拠はなどどこにもない。最後通牒を出すことさえ、北京政府の
参政院参政である李盛鐸によるアドバイスであったのだ。当時の中国政府は一枚岩ではなく、北京政府を
批判する南方勢力があった。袁世凱に対抗する孫文らである。北京政府がどのような条約を日本と結んでも
批判される可能性があった。
北京政府と日本政府との事前了解があったわけで、脅しなどあり得ない。最後通牒というのも形式的なもの
で、いわば南方に対する「ガス抜き」的意味合いが強かったのだ。囂々の批判記事も、日置益駐華公使はじめ
出先は覚悟していた。
したがってクロウが21カ条の要求に関する完全な記事は自分がスクープしたというのも、どこまでが本当なの
か測りがたい。
- 13 :
- 歴史街道 2011年10月号
駐日米大使グルーの昭和史 ―天皇を敬慕し、開戦回避に尽くしたアメリカ人
第7回 忍び寄る共産主義
太田尚樹
ttp://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/?unique_issue_id=84282
ソ連の場合はゾルゲ事件によって実態が明らかになったが、デビュー前の日本海軍の新鋭機零戦の
性能表など、無線では送信できない細かい資料はマイクロフィルムに収め、モスクワに届けていた。
運搬役は、外交特権を持つ駐日ソ連大使館員たちである。
(中略)
そんな折、2・26事件勃発前から、関東軍の将校や兵士に近づくソ連諜報員の存在が危惧され、
日本人が彼らと接触した事実も、現地の憲兵隊は掌握していた。そして事件発生直後、新京にあった
関東軍憲兵隊司令官東条英機はブラックリストに載っていた軍人や民間人、合わせて600名以上を
一網打尽に逮捕した。民間人の多くは満鉄職員だったが、中でも調査部には「満鉄マルクス主義」と
いわれるほど左傾した研究員が多かったのである。
(中略)
東条は、2・26事件を背後で操っていたのはソ連だとみていたわけで、あながち的外れではなかった。
事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉が東京でソ連大使館員や大使館に出入りしている者と接触して
いる、という情報も掴んでいた。事件の長期化を覚悟していた反乱軍は、纏まった資金を必要とするはず
であった。しかし事件発生後、赤坂の料亭「幸楽」に陣取る安藤輝三大尉に北一輝が電話をかけ、「マル
が要るだろう?」と資金援助を申し出ると、安藤は「カネだったらありますから結構です」と断っている事実
が、盗聴された記録に残る。では彼らのスポンサーは誰かとなると、コミンテルンの可能性が浮上して
くるのだ。
しかもゾルゲは、2・26事件の発生を予測する記事を一年も前に、ベルリンで発行されている地政学の
雑誌『ツァイトシュリフト・フュル・ゲオポリティーク』に書いていた。上海時代の同志で、恋人でもあった
在満のルト・クシンスキーと連絡を取り合っていたとみられ、関東軍の中の左傾した将校から、「いずれ
起つ」と聞き出していた可能性もある。
- 14 :
- 『正論』 2011年10月号
【読書の時間】
なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか 田原聡一朗 著
この人の少し意外な歴史観
ttp://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/1109/mokji.html
――やはり意外なお話です。
田原 僕はフェアに発言してきたつもりです。正論さんが誤解しているんですよ(笑い)。
そもそも、僕は左翼じゃない。マルクス・レーニン主義なんていいとは思っていません。
確かに、僕もかつてはソ連が理想の国だと思っていたし、言論は自由で豊かだと信じていました。
それが変ったのは、テレビ東京にいた1965年、映像ドキュメンタリーの世界シンポジウムでソ連に行って
からです。モスクワ大学で学生たちと話し合う機会があって、スターリン批判を行ったフルシチョフの失脚
について質問すると、彼らは青ざめて、唇が文字通り震え出した。そこでコーディネーターが慌てて
「政治の話はだめだ」と止めに入った。ソ連に言論の自由があるというのは幻想で、豊かな生活を送って
いるのも共産党の連中だけだと分かった。
けれど、そんなことは日本に帰国しても公表できませんでした。もし発言していたら「失脚」していたと
思いますよ。ソ連が崩壊して初めてこういう話ができるようになったんです。
実際、1977年に韓国に行き、すさまじい経済発展が始まっていることを紹介し、政治的には独裁体制
だけれども日本を追い抜く可能性すらあると書いただけで、さんざんに批判されました。当時は、共産主義
国家の北朝鮮こそ「地上の楽園」で、韓国は「地獄」だという言説がまかり通っていた時代でしたから。
ただ、1年ほど後には僕が言ったことが常識になりましたが。
- 15 :
- 『昭和の動乱』重光葵著
「コミンテルンの政策は、日本のソ連に対する力を減せんがために、日支の衝突を誘起し、
日本の北進を展開して南進せしめ、更に日米の戦争に導くことにあった。この目的にために、
支那における共産分子は勿論のこと、日本を初め欧米における第五列的共産勢力は、
最も有効に働いた」
http://d.hatena.ne.jp/dokushonikki/comment?date=20060928
コミンテルンは、世界的組織をもって日支の紛争を国際的に拡大すべく、全力を挙げていた
のであった。欧米諸国におけるソ連第五列の政治上の力が、十二分に利用されたことは云う
を俟たぬ。かくして、米国の対日態度は、スティムソン主義の下に、益々硬化して、理想的
門戸開放政策の実行を強硬に日本に迫って、些細なことにまで、抗議と反対とを繰り返し、
日本軍部を刺戟し、ついに日本当局の実現せんとした、満洲事変解決の方策を結実し能わ
ざらしめた。
若し、米英が日本の平和主義者の考案を是認し、日本が東亜における安定勢力たることを
承認し、政治的活眼を以て支那を中心とする東亜の政局を、一応安定せしめる方針に出でて
いたならば、世界の情勢は、おそらく今日の如く危険なものとはならなかったであろう。」
(『昭和の動乱』p104〜105)
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/index.html
- 16 :
- 『正論』 2011年12月号
日米開戦70年と歴史問題
大東亜戦争の読み方と民族の記憶(上)
京都大学教授 中西輝政
ttp://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/1111/mokji.html
(P147-P149より抜粋)
尾崎の敗戦革命工作と西園寺公一
http://hanausagi2.iza.ne.jp/blog/entry/2494556/
- 17 :
- 『正論』 2011年12月号
日米開戦70年と歴史問題
大東亜戦争の読み方と民族の記憶(上)
京都大学教授 中西輝政
ttp://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/1111/mokji.html
南進に導いた偽造統計報告
重光はさらに、別の「第五列的共産勢力」の存在を伺わせる次のようなエピソードを『昭和の動乱』で
紹介している。・・・(略)・・・開戦後まもなく、東郷に会った重光は、なぜ開戦に反対しなかったのかと
詰問した。これに対して東郷は「軍部は勿論、企画院の提出した計数判断によっても、日本は必ず勝つ、
ということであったから、自分としてはこれを反駁することが出来ず、また反対の余地がなかった」と言って、
当時の政府部内の状況を重光に説明したという。
つまり、日本はアメリカと戦っても必ず勝つという企画院の報告を東郷は見たということだ。事実なら、
対米開戦決定に重要な役割を果たしたことになる。ところがこの重光の記述は従来の歴史研究において
は、ほとんど顧みられておらず、資料も見つかっていない。これも残念なことだ。
よく言われているように、「南に行けば石油が手に入る」という南進論の有効性を保証するため、企画院
は何度も、南方の石油の見積もりについて偽りの報告を行っている。実際に蘭印を占領して初めて、
企画院が報告した推定埋蔵量は実際の三倍に水増しされており、また同地の石油は重質油で硫黄分が
多く、航空燃料にはまったく適していないということが判明したのである。日本を南進に導くための捏造報告
だったわけである。
企画院とは、首相直属の政府機関で、社会主義・共産主義からの「転向組」の革新官僚らが多数を占め、
統制経済を進めていた。「転向組」といっても、その本音は偽装転向であり、社会主義・共産主義の実現を
諦めていなかったことは、本誌の「別冊15号」(平成23年6月刊)所収の「共産主義者が主導した戦争翼賛
体制」で紹介された昭和研究会事務局員の告白に基づく訊問調書に詳しい。・・・(略)・・・
(中略)
日本を意図的に対米開戦へと導いた経済統計の虚偽報告書は、企画院以外にもあった。たとえば満鉄
調査部から出先機関の満州農業合作会社に出向していた農業経済専門家の佐藤大四郎という人物の
報告書である。佐藤は1941年夏、参謀本部に求められた報告書で、シベリアの農業、畜産は過去3年間に
わたって大変な不作であり(実は大豊作だった)、日本の大軍がシベリアに攻め込んだとしても、食糧は
到底現地調達できない、ということを示すデータを捏造していた。この報告書も、日本陸軍に北進(対ソ攻撃)
をあきらめさせ、南進へと向かわせた決定的材料の一つであったとされる。農業組合組織で共産主義運動
を行ったとして関東憲兵隊が41年11月に摘発した「合作社事件」で逮捕された佐藤は、真珠湾攻撃で日本が
開戦したという報せを受けた直後の取り調べで「日本が長年の北進政策を放棄し、南進に転じたことは誤り
であり、この時すでに日本はコミンテルンの謀略に敗れていたのだ」と供述している(工藤胖『諜報憲兵』)。
工藤によれば、佐藤は調査資料の捏造について、「全て尾崎秀実の指令によるものだった」とも供述したと
いう。
《続く》
- 18 :
- >>17 《続き》
その尾崎は、日本軍が北進か南進かで揺れていたこの時期、たびたび満州へ行っていた。1941年9月
には、尾崎が自身の諜報工作網のメンバーとして組織していた満鉄調査部員に爆弾テロまで指示していた
ことも明らかになっている。もし日ソ戦が勃発したら、満州国内の通信や輸送のインフラ施設を破壊する後方
撹乱に加え、関東軍司令部そのものを爆破し、関東軍を敗北に導こうというのであった。翌10月に尾崎が
逮捕されて計画は未遂に終わったが、翌年に摘発された「満鉄調査部事件」で逮捕された調査部員の供述
調書が近年発見され、この破壊工作計画が判明したのである(小林英夫・福井紳一『満鉄調査部事件の
真相』)。尾崎の「北進阻止」「ソ連防衛」への並々ならぬ決意がうかがえる。
一方、同盟国であったはずのドイツにも、不可思議な思惑があったことが最近、明らかになってきた。1941
年6月にソ連に侵攻し始めたころ、日本に対し、一方では北進を促す工作を行いつつ、他方で「日米交渉」を
止めて一日も早く対米戦争に踏み切らせるための工作も繰り広げていたのである。ドイツ政府の表の対日
ルートでは、しきりに対ソ開戦を促しつつ、水面下では貿易商を装うなどしたドイツ人工作員が大勢来日し、
日本にイギリスのみならずアメリカへの攻撃に踏み切らせるため、要路を説いて回ったりメディアを買収した
りしていた。しかも、こうしたドイツの工作活動をイギリスが把握していて、駐日大使クレーギーがロンドンに
報告していたことが、公開資料で分かってきたのである。
(後略)
- 19 :
-
・札幌開催フジテレビデモ 11月27日(日)14時- 大通公園西六丁目
- 20 :11/11/28
- 戦艦大和沈没の証言 愛媛大で生還者講演ttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20111128/news20111128061.html
ttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20111128/photo/pic18732204.jpg
太平洋戦争末期に東シナ海で沈没した戦艦大和からの生還者、八杉康夫さん(84)=広島県福山市=の講演が27日、
松山市文京町の愛媛大であった。沈没時の生々しい証言や戦友との別れの悲しみに、約200人が聞き入った。
地域史研究グループ「えひめ歴史探検倶楽部」が主催。八杉さんは海軍にあこがれ15歳で入隊。1945年に17歳で
戦艦大和に配属、襲来する戦闘機を主砲で迎撃するため、敵機の位置を測距儀で割り出す役割を担った。八杉さんは
「水兵である前にジェントルマンであれ」「若者が死んだら後の日本は誰が守るんだ。まず生きることを考えろ」という海軍
の教えが人格を形成してくれたと説明。出撃前に面会に来た母に別れを告げた日をしみじみと振り返った。
4月7日、空一面が雲に覆われ、迎撃のしづらい条件下で米軍機が襲来、爆撃と魚雷で大和は沈没した。八杉さんは
大きな渦に巻き込まれながらも必死で脱出、気がつくと重油の海に浮かんでいた。
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