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2011年10月1期鉄道懐かし【流電】飯田線の旧国時代【EF10】 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
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国鉄の急行列車・準急列車を語る
【美しき】C55【ライトパシフィック】
D-51


【流電】飯田線の旧国時代【EF10】


1 :08/08/31 〜 最終レス :11/12/02
飯田線の古き良き時代を語り明かそう!
 

2 :
最初 52001-46018-48029-52002
最後 52001-48021-48024-52002
末期数年でも、見て乗れたことは、いまだに忘れられません

3 :
流電に組み込まれたサハ75は乗り得車輌だったなぁ

4 :
新板記念田中真紀子
岬めぐり
ttp://jp.youtube.com/watch?v=bFFWXWJkfZM
ついでになぜか485系ボンネット特急も1分10秒あたりで出てくる。

5 :
ターレットが走りまわる豊橋駅と、地下通路でホームと結ばれていた時代の豊川駅が懐かしい

6 :
>>3
>流電に組み込まれたサハ75は乗り得車輌だったなぁ
それは絶対無い
せっかく旧国乗りにいって、T車に乗るなんぞ
吉牛行って豚丼頼むようなもん

7 :
クモハユニ64
流転の最後、伊那松島で連結面撮影できた。
いい打線のスカ色は沿線にとけこんでたね。

8 :
吊り掛け音目当てに飯田線に集まってきたのは、飯田線の旧国末期世代。
それ以前のオールドファンは車体目当てじゃないかなぁ。
吊り掛け車なんて全国そこらじゅうに走っていたから、吊り掛け音目当てに
わざわざ飯田線まで来る奴はいなかった気がする

9 :
合の子と呼ばれたクモハ53007はなぜかあまり先頭に立つ機会は少なかった。
特に80系化後はトイレ無しのクハ68と組んでしまったため、4連の中間に封じ
込められる限定運用に充てられていたみたいだった。
もう遠い過去の話ではあるが、トヨ30台運用で008と共に流電と編成を組んで
ほしいと子供心に思っていたものだ。

10 :
>>8
俺も元2等車の座席に座った口だな
やはり車輌目当てだと思うよ
東海道線の80系や中央西線の72系、70系なんて見向きもしなかった

11 :
80系や70系や72系にもそれぞれ良さがありましたから、それなりに撮りました。
でも末期の飯田線では、80系300番台と戦前車が両方存在する場合、そうしても戦前車優先で日程を組んでいたのは事実ですね。
優先は、戦前車、80系、165系の順で、こまがねや天竜ではシャッターを切らずPASSしている人も見かけました。
53007はご指摘の通り68042と組んでいた時は、73/71-72-73/71-72-の循環運用で、基本的に4(5)両の下り方2両め限定で伊那松島と飯田以外は先頭に出なかったと思います。
でも68400と組んで先頭に出るようになっても、広域運用でしたので、なかなか出会える機会は少なかったです。
自分も53008の方が先頭になっていた記憶は多かったと思います。

12 :
流電の飯田線は知ってるが、80系時代は知らない。

13 :
急行「伊那」は全金の80系300番台で運用されていましたね。
Tc+Mの2両のみ飯田回転だったのがめずらしかったな。

14 :
日常的に飯田線を使ってたけど、スカ色旧国を駆逐した80系は憎らしかったけど快適だったよ。

15 :
>>10
俺も同じだ。
座席が広く、窓側にも肘掛があり、座り心地が良く、車内の配色が
(薄緑だったか?)明るかった。

16 :
>>15
サハ75101・102はニス塗り、103・106が薄緑の車内だったと思う。
一方で同編成中のクモハ52や42はというと、通路側にさえ肘掛が無く、間違って
も座り心地が良いと言える車両ではなかった。
もちろん私もいつも選んで乗っていたが、豊橋口の短距離運用が多かったのと、
早朝(上り)夜間(下り)の運用が多く、乗車チャンスが限られていた。
日中でしかも長距離の運用といえば、豊橋を14時頃出る辰野行1本だけだったよ。

17 :
>>15
本当に座り心地の良い座席でしたねぇ。懐かしい。

18 :
お召しが走った時は、もう80系が入ってたな。
お召機もED62だったし。

19 :
飯田線の旧国が全盛の頃は165系の急行「伊那」が別格のように見えたもんな
当時飯田線によく行っていた頃
ピカピカの新線だけど70系が走っていた岡多線で撮影している人を見たことが無いな

20 :
岡多線の70系、モノクロで撮ったがネガ紛失...
飯田線は1977年に北部を乗っただけ。電車じゃないけどED19現役。
クハユニ56の郵便室部分の中で
郵政職員が実際に仕分け作業してたのが印象的。
厨房の家族旅行で、カメラなし。

21 :
>>19
>飯田線の旧国が全盛の頃は165系の急行「伊那」が別格のように見えたもんな
おれと同じ事思ってた人がいたw
スカ色のオンボロ旧国の中で見る湘南色165系急行「伊那」は貫禄あったもんなぁ。
今の119系の中を走る373系特急「伊那路」なんか比じゃない存在感だったね

22 :
飯田線旧国を撮りに行くのに、夜行のアルプス乗って、辰野で始発の飯田線に乗り継ぎ。
帰りは、駒ヶ根から、こまがねで新宿まで直通。
3両のこまがねが、辰野でアルプスに併結して、長大編成(何両だか忘れたw、12両?)の急行になったのも急行栄華末期の思い出。

23 :
>>19 >>21
本当に別格だと思った。車両ももちろん、所要時間の差を見ても歴然だったから。
でもその急行「伊那」も、153系改造のクハ164やサハ153、宮原から転属した新快速
色のクハ165が組み込まれるなど、地味ながら結構話題に富んでいた。
「こまがね」もクハ165が同方向に2両連結されるなど、珍しい編成だったみたいだし、
乗ったことは無いけど、「天竜」は気動車の時もあったんだよね。
今にして思えば、上諏訪発美濃赤坂行なんていうのも信じ難い事実だな。

24 :
中央線の急行は、McM'TsTsTMcM'Tc'の8両と、McM’Tc'Tc'の附属の4両ですね
こまがねは、この附属の4両McM'Tc'Tc'で、かわぐちと共通運用、ただしかわぐちはMcM'Tc'の3両で、附属の附属というべきTc'を切り離し
何でTc'Tc'なのか最初は不思議でした
あと、いなは飯田まで7両、そこから4両というのが一往復あり、飯田線7両は最長と思います
天竜とこまがねの連続急行運転がありましたが、これも8両ができないため2本の4両の急行を立て続きに運転
急行も飯田線内で結構走っていました

25 :
「こまがね」は4両だったか。失礼。
信州ワイドを使っていたので、飯田線への往復はいつも急行
自由席で「あずさ」には乗ったことなかったな。
静ママに、入れてもらったときにも信州ワイド見せて国鉄で
来たことを示したような記憶がある。

26 :
>>22
「こまがね」もTc'岡谷で切り落としてませんでした?
静ママなつかしいですねえ。

27 :
>>25-26
記憶にある限り4両で、岡谷切り離しは見たことが無かったです
天竜もいなも4両(Tc'Tc'ではないですが)、3両はいなの附属編成と思います
ただ時期が違えば3両も否定できません(私が見なかっただけ?)
往復は同じで、往時は夜行アルプス、帰りは夕方のアルプスこまがねと決まっていました
一度だけ車両故障で後続のあずさにそのまま乗れたことがあって、でもその時だけでした

28 :
静ママもですが静チウも懐かしいでしょ。今のレールパークの位置でした。
72系のような顔をしたクハ47151や、木造車のサエ9320が配置されていました。

29 :
>>28
全く同感ですね、静ママも静チウも
ノーシールノーヘッダーの切り妻の先頭車の、3つ並んだあの顔って意外と少なく、南武線の73901を連想させます
確か中央の窓が少し小さく思いました
流電サロハの生き残りで好きな車両でしたが、47151は一度しか見ることが出来ず残念だったです
2ドアの合造車でそのまま側面が残ったのは、47151/153/155と48034くらい
47151は一般車も含めて狭窓で残った1両だったので、特に好きでした

30 :
夜行アルプス→こまがね愛用者が居て嬉しいですね。
行きのアルプス先頭のクハに乗っていて猛烈に寒い思いをしたこ
とがありました。隣の車輌に移ったら暖かかった。暖房が故障
していたんだと結論付けましたが、案内は一切なかったw
辰野で乗る、飯田線始発にクモハユニが付いていたことがあり
そのとき乗ったのがクモハユニの唯一の乗車経験でした。
ニス塗り半室ロングシートは不思議な空間。

31 :
>>29
私も47151は好きでした。でも、サロハ改造故にシートピッチと窓割が全く合って
いなかったんですよね。
またクハ47153/155の車内なんぞは、片開き2ドアのオールロングシートで、これ
また不思議な空間でした。今の123系に近いかな・・・

32 :
私もそうですが、東京からだとそのパターンになる人は多いと思います
辰野早朝は、始発222M快速(165系4両で、飯田から急行いな)と、次ぎの普通の始発1222M(クモニ83+クハユニ/クモハユニ+クモハ/クハの3両)
1222Mを撮るなら222Mに乗車、そうでない(夏以外など)は1222Mに乗車
1222Mでは、飯田で53007増結が確率50%でありましたね
64000の車内は、半室ロングシートで確かに不思議な空間で、違和感でいっぱいでした
違和感なら、飯田線なら47153や155の超ロングシートも同じく違和感でいっぱいw

33 :
>>31
ロングシートの感覚は、みんな同じですねw
身延線の47051-に同じく超ロングシートがあって、飯田線より身延線のほうがそれにはよく当りました
スレ違いですが、キハ26600やオハ41も同じで、半分ゲテモノかもしれませんが、不思議なものを見る目で見て(撮って)いました

34 :
旧型置き換えのころの119は
ビニールテープがはがされたりと
痛々しかった。
ファンがやったとは思えないけど
地元の悪にはどういう印象だったんだろう。

35 :
>>34
地元の悪の仕業じゃないからね。ごく普通の通学の高校生の仕業。
寛容な時代性もあったかもしれないけど、地元じゃ大した問題にはならなかったです。
中日新聞の東三河版には写真入りで「新車が台無し」みたいな記事も掲載されたけど、
読んでみると国鉄の人が「乗車中は暇なものです。で、窓から手を伸ばすとちょうどいい位置に帯があり、
ちょっと引っ張るとペリペリーと剥がれるから、ついつい剥がしちゃうんでしょうね(笑)。
現在国鉄は剥がれにくいシールを考案中です」と。
「剥がす人が悪いんじゃなくて、剥がれやすいシールに欠陥がある」と。
そんな感じでしたよ。

36 :
旧国を駆逐した悪の(?)80系があっという間に119系に駆逐されたのは
なにか因縁めいた物を感じた

37 :
80系も旧国だけど。

38 :
あ、そういえば80もツリカケか。

39 :
>>23
俺が撮影した急行「伊那」もクハ2両組み込みの4両編成のがあるな
>>37
飯田線のスカ型全盛の頃の80系はほとんどの人が旧国というイメージでは無かったと思うよ
ただ80系自身が東海道を追い出されたからそれほどファンにも目の敵にはされなかったみたい
300番台で統一されていたせいか利用客には大歓迎だったね

40 :
165系のクハ+クハ+モハ+クモハ編成は普通の姿だと思っていた。
珍しいと思う感覚がなかったな、地元だと。

41 :
80系は旧型(戦前型)を置き換えた当時、飯田線史上最高の電車だと地元民にはとても
好評だった。皆「急行みたいな電車」だと言って喜んだ。確かにデッキつきの
2ドアクロスシート車は貫禄十分だったかもしれない。
当時急行=165系(湘南色)普通=旧型(スカ色)だったこともあり、新たに登場した
80系を急行と間違え、乗車を見送ってしまったと言うこぼれ話もあるくらいだよ。
それに、最低でも4両編成(イコール座れる)だったのが良かった。
その後119系化時には軒並み編成両数が削減され、特に豊橋17:15発の列車はいきなり
6両から2両に減車されてしまったのを覚えている。

42 :
165系は多分新性能化直後の身延線と同様の理由で飯田線内での車掌業務の関係からクハ2両連結になっていたのじゃないかと
当初思っていたんだが、よくよく考えれば4連運用をするにも当時の松本車では貫通4連編成組めないんだよな。
同じ4連でも大垣車運用の「伊那」は貫通4連だったわけだし。
最後の80系急行だった天竜1往復なんかはサロ格下げ改造のクハ85なんかも連結してて、まさに孤軍奮闘という感じだった。

43 :
>>40
中間のクハがサハになるときもあったね。そのときの編成は、
←上諏訪 クハ165+サハ153+モハ164+クモハ165 豊橋→
153系の付随車が組み込まれていました。名カキの車両。

44 :
飯田線の旧国といえば、やっぱり流電クモハ52001+サハ48021+サハ48024+クモハ52002
の編成が最高の編成美を保っていたよね。狭窓がズラリと並んだ姿はなかなか見事だった。
一時期52003+75+75+52004or005の編成もあったみたいだけど、サハ75は3ドアだったのと、
48034や87001のいずれかが組み込まれたケースが多く、前者と比べてしまうと、やや見劣
りがしていた。
確率的には少なかったけど、43(53)+47が2本くっついたりすると、こちらもなかなかの
編成美を見せてくれた。
そう言えば、末期の急行「天竜」にはモハ164(168-900)を電装解除したサハ165(100番台?)
が組み込まれていたこともあったよね?

45 :
末期、47104の相手が、43015、53000、53001のどれでもなかった
のが惜しかった。電動車は最後まで3両もあったのに残念。
53008の相手が、470009だったから2扉同士を避けていたわけでも
なさそうだし。

46 :
>>44
ワシ、流電の編成なら何でもw でも狭窓編成は魅力的だった。

47 :
>>40
中央急行を乗り慣れると、やっぱり当たり前だったけどな
クハクハ

48 :
>>45
>53008の相手が、470009だった
53008がノーシルノーヘッダだったのに対し、47009は車体中にリベットだらけで
対照的な車両同士のペアだったね。
それとクモハ53といえば、同じ形式なのに、000・001と007・008では似ても似つかぬ
顔かたちをしていたのがおもしろかった。

49 :
佐久間ダム

50 :
>>40
中央東線では、附属はたしかに見慣れてしまっていましたから、まあそういうものと勝手に思い込んでしまいましたね。
ご存知の方も多いでしょうけど
 McM’Tc'Tc’:中央東線急行附属で、かわぐち3両との共通化で附属の附属Tc'あり
 McM’TcTc':身延線普通115系の基本で、無人駅対応で中間に車掌室が必要だったためらしいです
 TcMcM’Tc':御殿場線で一時期発生、短編成化でTcを越後線等に出すためであるが転出前に一時的に使用
 TcMcMc'Tc':越後線の予備編成で、2両と4両(TcMM'Tc')どちらでも使用可能なように運転台付きを4両そろえた
まだあると思いますが、違和感がある編成の例です

51 :
>>39
末期の80系の頃は、やはり優先は戦前車
でも80系は、あまりまとめて撮れる機会が自分には少なかったため、それなりにとってはいました
165系と比べて、みかけあまり劣るようには見えなかったです(冷房だけは別)

52 :
飯田線には西ミツの71系が転属してくる話は無かったのですか?
お隣の身延線ではその話があったみたいですが・・・。

53 :
80系置き換えの際に新前橋、幕張等からトヨに165系が転属し、一時期急行「伊那」
用と混在したことがあったが、車両の整備状態はカキ車の方がはるかに上だったと
思う。さらに「こまがね」のモト車よりも良かったように思うけど、皆さんどう
思われましたか?

54 :
名カキの165系は伊那だけでなく、身延線の急行「富士川」や、
153系と共に急行「東海」にも運用されていたため、特に整備状況が
良かったのでは?

55 :
飯田線、車輌のコンディションもさることながら、駅&ウテシのタブレットの扱い方がとても
丁寧だったのが印象的。

56 :
80系に乗っておきたかった。。。

57 :
>>56
全金300番台は快適でしたよ

58 :
>>57
そ。後進の153系や451系よりはるかに内装が綺麗だったのでびっくりした。
デッキ付車体という遮音性の高さからくるものなのか、モーター音もノイジー
な印象でなく、上品な吊り掛けサウンドだった。

59 :
飯田線にはクハ85300番台の入線の実績(もちろん客扱いで)はありますか?
一度乗ってみたかった私は、中央本線も含めて乗車経験無しありません。
(100番代ならもちろんあるけど・・・)
また、3枚窓のクハ86一次車の「伊那」ってあったかな?臨時(快速?)なら
一度だけ見た記憶があります。

60 :
>>9
最末期は先頭に出ていたみたいですね。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~rajomon/sub1005.html
ところでこのホームページで43015がモーター換装されていると記されていますが、こんな例は飯田線では特殊なケースなの?

61 :
やはりこのサイトもあげておかないといけないね
こまめによく記録してあるので感心します
ttp://mc53.kokuden.com/sub.htm/sub2.htm/sub2.html

62 :
>>60
43015のモーター換装は全く知りませんでした。
同車の廃車が延期になったのは、同じくMT15を装備した64000の転入に合わせた措置
だと聞いたことがあるが・・・すると同時期まで残っていた51200や51029、それに
64000もやはり換装されていたのだろうか?
ただし、52003〜005がMT15なのに対し、52001・002はMT30に換装されていたのは知っ
ている。

63 :
>>61
いいサイトだなぁ

64 :
53007ですが、末期の南部では基本的に豊橋寄りからクハユニ+クモハ+クモハ+クハのような4両編成を組んでおり、
豊橋寄り先頭車の同車の顔はなかなか拝めませんでした。
ただ、早朝の1本(豊橋6:54?の天竜峡行き?)と、確か土曜日運転の13:27分発の本長篠行きがクモハ+クハのような
2連で、同車が充当されるときを狙って撮影したものです。53007の車内は淡緑色で、53008の車内はニス塗りでしたね。
それから当時は行先がバラエティに富んでいましたね。三河川合や伊那大島、水窪行きなど、今は見られない行先が
沢山ありました。(伊那大島行きはまだあるようですが、豊橋では見られません。)
他にも長山や三河大野行きがあったような気がします。

65 :
>>64
三河川合行・・・ありましたねぇ。三河川合で停泊の後、翌日には始発の上片桐行となって、中部天竜
までは始発列車を務めていましたが、思えば三河川合にも乗務員宿泊施設があったわけですね
また、ごく数ヶ月間ではありますが、この列車が東栄行きとして運転されていた記憶もあります。
三河大野行きは完全な三河大野止まりではなく、6連のうち後より2両が湯谷以北の駅ではホームから
外れるため、以降は回送車両となっていた時のものではないでしょうか?たしか豊橋を18:22の
伊那大島行きが6両だった頃、後よりの2両には「三河大野行」のサボが入っていたように覚えています。
なお、流電編成や80系では車内の通り抜けが可能だったため、5〜6両目のドアが締め切り扱いになっ
ていたものの、引き続き乗車は可能でした。
他には佐久間行き(佐久間始発)もありました。

66 :
三河川合行き、あったあった

67 :
行先であったもの
茅野、上諏訪、辰野、伊那松島、沢渡、駒ヶ根、伊那福岡、上片桐、伊那大島、飯田、天竜峡
平岡、水窪、中部天竜、三河川合、本長篠、新城、豊川、豊橋
始発追加
佐久間、牛久保
それ以外
三河大野
時期によって、もちろんまだ他にもあったと思います
列車の有効長さは飯田豊橋で7両らしい、ただしホームが三河大野−豊橋は6両可、それ以北は限られていました
クハユニ+クモハ+クモハの上り3両に中部天竜で2両増結の列車があり、これも最後部は三河大野までドア締め切り
(客扱いはしていました)
朝夕の流電含む4+2両が、ホームからはみ出す2両分だけ豊橋−三河大野のサボをつけていました
ただし附属の2両ではなかった記憶があります(1両目と6両め)、しかしこれはさすがに記憶の間違いの可能性大
あと夜中にクモニ+クモニ+2+2両の6両の上りがあり、これはどうなっていたのでしょう?

68 :
>>67
そう言われてみると、6両編成の上り列車の扱いを当時は全く気にしていませんでした。
これは記憶としてかなり怪しいですが、先頭車と最後尾がホームから外れて停車していた
ようにも思いますが、タブレット交換をしていたことを考えると、果たして疑問です。
しかし上りの場合、流電でも80系でも付属2両が丸々三河大野までホームに掛からないわ
けですが、客扱い無しの回送車だったという記憶もありません。
最終のクモニ+クモニ+2+2両の列車もよく使った割にはあまり覚えていません。
ただこの列車、2両の荷電は天竜峡から連結されましたが、その時点で後寄り2両が回送
車となり、三河大野以南で再び客扱いしていたような気がします。ちなみにこの列車の
編成は、クモニ83+13(トヨ)+2(チウ)+2(ママ)の時がありました。
余談ですが、クモニ13も滅多に先頭に出ることが無く、顔を拝むことが出来ない形式の
一つでした。しかし末期の末期にはよく先頭に立つようになり、83と順序が入れ替わっ
たり13+13の重連になってみたり、単独(非重連)の運用に入ってみたり、一方で83+83の
重連があったりと、様々な荷電併結編成を見せてくれました。

69 :
>>68
飯田−三河大野間の5両や6両の扱いは、一部を除いて記憶があいまいなところもあり、今ひとつハッキリしません。
1222Mの飯田から例えば53007-68042を増結した時には、68042は三河大野まで一部の駅以外はドア締め切りだったような気もします。
あと飯田−辰野間ですが沢がホームが短かった?
クモニは83が実2運用で3両配置、クモニ13が1運用で2両配置。
83:辰野→豊橋→辰野で、クハユニ(クモハユニ)とともに上り側に連結。
83+13:豊橋→辰野→天竜峡→豊橋で、クモニ83+クモニ13のセット(運用は別別になっていました)。
 豊橋→辰野は下りに2両連結で4両運転(中部天竜まではハ+ハは回送)。
 辰野→天竜峡は、2両で純粋荷電。
 天竜峡→辰野は、67さんの説明にありますが、後ろ2両は回送走らなかったです。
クモニ13は営業運転では先頭には出ず、辰野→天竜峡で最後部になるだけ。
末期では13と83が乱れていましたが、83+83等は見ましたが、ついに13の先頭にはお目にかかれませんでした。
個人的に、この豊橋→辰野間のクモニ83+クモニ13+クハ(クモハ)+クモハ(クハ)の4両編成がとても好きで、最重要撮影列車としていつもマークしていたため、乗車の機会はゼロ。
横浜線のクモニ13+4両とともに、とても印象深かったです。

70 :
>>68
気動車が走っているローカル線で6両しか入らないホームで8両編成の時などでも
はみ出した車両もかまわず扉は開いていたけど電車はどうなのかしらん?

71 :
急行こまがね

72 :
http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=206777
これ聞きながらいくだよ
豊川稲荷

73 :
急行伊那

74 :
>>70
飯田線南端の街、豊橋市を走る豊橋鉄道渥美線は、
3両分しかホーム長の無い駅に4両編成がとまると、
ホームにかかっていない車輌もかまわず開扉してたっけなぁ。
懐かしい。

75 :
>>23
篠ノ井線電化は1973年で、確か1975年3月に山陽方面からカキに転属になるまでは
「天竜」でキハ58が走っていた。が、全く嫌われ者だったのか、写真がない。
「天竜」には「こまがね」併結とか、その後も3層立ての12連とか、
飯田線外だが80系→115系1000の奴なんかがあった。
ちなみに、県内列車なのに松本所属になったのは1982年だった。

76 :
豊川稲荷の帰り
小坂井で焼き肉食った
美味かったなー
りんご狩りで乗ったことも
懐かしい

77 :
>>67
ガキの頃どこかの鉄道部品即売会で買った飯田線のサボが我が家にあるけど、
「辰野⇔天竜峡」の裏側が「辰野⇔温田」になってる。
温田行きなんて列車があったのかね?

78 :
長野県南端の中井侍は始発に乗っても長野駅への日帰り往復が不可能な駅として有名だったな。

79 :
>>77
白紙ダイヤ改正をした1968年10月の時刻表をみると、
天竜峡5:22発→229M→辰野8:26着  9:21発→236M→温田12:46着 
温田14:00発→255M→辰野17:17着 17:23発→244M→天竜峡20:22着
という運用があったようですね。

80 :
豊橋駅でヤマサのちくわと缶ビールとお弁当買って辰野行きに乗ったなあ
長い距離だけど元2等車の車両でほとんどすごしたので快適だった

81 :
モーター音でモハで頑張るか、旧サロでマッタリするか悩んだあげく、途中でサハ75へ
快適杉て後悔した…
やっぱり初めから乗っておけば良かった…
両毛や上越新潟より距離も時間も掛かる旅
やせ我慢は損だった…
クモハ52ゆえに乗りたかったってのもあるけど…
厨房の夏…

82 :
朝の通勤通学時間が終わると流電が2本牛久保で昼寝をしていたね。

83 :
そうですね
31/32/33/34運用は、豊橋近傍の通勤通学輸送主体のようで、日中は全部休み。
そのうち2本が牛久保で休みですから、たしかに並んでいました。
シーズンは1往復昼間に豊橋→中部天竜→豊橋の、臨時快速(奥三河)が走りましたがこれも貴重。
一応1225Mで辰野まで行く運用もありましたが、北部は夜間で駅以外は撮影は困難。
自分は無理でしたが、末期臨時で昼間北部を走ったらしく、それを見た方はラッキー。

84 :
牛久保駅といえば
そのまま北に歩いて
ドン突きが日本車輌
SL撮ったっけ
引込み線もあったな

85 :
高校時代夏休みに昔の347M?で豊橋から旧国を撮りに通った。
当時はガイドなんかなくて……ピクとかファン誌のカットから5万分の1の地形図で当たりを付けるって云う原始的方法
飯田線のガイドらしき物で記憶に在るのは78年4月のRailGuy誌の飯田線特集。
表紙は南正時氏、読者投稿には花井健朗氏の名前も

86 :
80系化直前のダイヤ改正だったと思います。
残留組がママへ、廃車予定車はトヨに集結すると言った車両の入れ換えが行われ、
それまで見られなかった編成や車両運用が多数発生しました。トヨ区の運用は80
系置き換えを前提とした4連の運用となり、北部地区にも日中クモハ52が顔を出
したり、思いがけずサハ75に当たったりもしたものです。
またユニ入り3連の中間車専用として全く先頭に立つことがなかったクモハ50
も編成を解かれ、顔も拝むことが出来ましたね。トヨ区完全80系化までのほん
の過渡的な運用でしたが、この当時はどんな車両が現れるのか全く予想もつかず、
最期にして最も楽しい時期ではありました。
地味なところでは、個人的に625M?(豊橋6:54天竜峡行き)にはいつも
注目していました。浜松工場の出場車がママやチウへ向けて帰区の際に連結され、
検査明けでピカピカながら通常は客扱いもされていました。
また、クハユニ56を単独で回送する際に伴車としてクモニ13が当てられ、ハ
+ハ+クモニ13+クハユニ56のような珍編成が走ったのを覚えています。し
かし滅多に動くことの無い救援車のクモヤ21009が出場した際に、同列車に
連結されて走った姿はまさにサプライズでした。

87 :
80系全金属車は吊り掛けというだけで不遇かつ短命でしたね。70系と80系は旧型と言えモーター音は軽やかで車内も快適だったんですけどね。ブレーキ音はいかにも旧国でしたが。

88 :
80系は飯田線では不遇且つ不人気でしたね
特に北部ではデッキに固まり遅延の種

89 :
遅くなってすみません。>>79さん回答ありがとうございます。

90 :
旧国末期に身延線(だったと思う)からクモハユニ64が転属してきた。
スカ色オンリーの飯田線の中にぶどう色でかなり目立っていた記憶が……
曖昧スマソ

91 :
末期ではないし身延からでもない。

92 :
78−10に岡山から。

93 :
岡山でしたか
ご教授感謝デツ

94 :
岡山にはクモハ32もいたんだよな

95 :
末期の64はスカ色だし。

96 :
確かに岡山だったけど、一旦は静岡に転属していると思う。
静シスで何に使われていたかは知らないけど・・・
そう言えば、飯田線入りして最初の全検でスカ色にならず、ブドー色のまま
出場したけど、工場のミスだったらしいね。

97 :
子供の頃の記憶ですので間違っているかも知れませんが、
ご存じの方いらっしゃいましたら教えて下さい。
初めての旅行が飯田線でしたが、その時乗ったのは不幸にも?流電ではなく
臨時の快速電車「奥三河」の中部天竜行きでした。
車両は80系だったかと思われます。塗り色はあの緑とオレンジの色に間違い有りません。
で、確かグリーン車の様な車両があった記憶があるのです(時刻表上は無いはずでした)
この様な編成の車両が飯田線を走っていたのでしょうか?
それとも私の記憶違いなのか・・・・ご存じの方いらっしゃいましたら教えて下さい。

98 :
>>97
クハ85のことでは?
元がサロ85で、格下げ後も内装はほぼ2等車時代のままだったので、
グリーン車に見えても不思議はないかと。

99 :
>>98
即レスありがとうございます。
何せ子供の頃で、形式までは覚えていないのですが、当時東海道本線沿いに住んでいた私には
東海道本線を走っていた80系と車両の形が同じに見えました。
長年の疑問だったので、解決して嬉しいです。
その臨時快速に乗ってて、子供ながらに単線に感動したり、沿線の景色に見入ったりしてました。
すれ違う電車がみんなスカ色だったのを不思議に思ったのを思い出しました。
今思えばそちらが飯田線の標準色だったんですが・・・・。

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