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2011年10月1期鉄道懐かし【市電トロバス】大阪市営交通黄金時代【地下鉄】
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この歌に合う路線をストーリー交えて語りましょう。
101系スレ
■昔の秩父鉄道 東武熊谷線を語ろう■
なつかしのマクラーレン・ホンダ
【市電トロバス】大阪市営交通黄金時代【地下鉄】
- 1 :08/09/23 〜 最終レス :11/12/03
- 万国博を機会に市電・トロリーバスを廃止し地下鉄網を完成させて躍進した大阪市交通局。あの時代の大阪文化や世相も交えて語り合おうでは有りませんか。
- 2 :
- 2get。
50系バンザイ!
- 3 :
- 今年3月の森之宮一般公開で
トロリーバスを見た時は感動したなぁ。
- 4 :
- >>2
天井の蛍光灯の3列配置に萌え〜
- 5 :
- 地下鉄の回数券のバラ売り係がいなくなっても、
しばらく非公認のおばはんが売ってたような?
- 6 :
- 動物園前駅の壁画は懐かしい人も多いのでは
- 7 :
- 古い字体の駅名標が懐かしい。
- 8 :
- 大阪市電の正面に貼られている「しずかに」とは?誰に対してのメッセージ?
- 9 :
- >>8
「町を静かにする運動」というのが昭和30年代前半にあったのよ
当時、自動車はクラクション鳴らしまくりでうるさかったから、
っていうことで市民と共に一体でキャンペーンして、数年で効果を挙げた
でも、つい10年前まで、市バスとかパッカー車に描かれていたね
ナツカシス
- 10 :
- 市電3000号試作車登場時の車内の写真をよく見ると
「都市から騒音を無くする無音電車です
乗り心地をお試し下さい」
と、手書きのポスターが吊されているのが読めました。
ドラマの都会の効果音で、クルマのホーンがよく出てきますが
船の霧笛風の音やタイプライターの音同様、今となっては勘違いですね。
- 11 :
- 市電が残っていたら、pitapaが使えたのかな?
- 12 :
- 30系デビュー時の
あの「硬いシート」には、びっくりした・・・
- 13 :
- >>12
俺が'80年に30系に乗った時には、あの硬い椅子には滑りどめ?の
ビニールレザーが部分的に貼ってあったが、あれって最初から?
- 14 :
- 60系の冷たい座席がいやだった。
阪急の3300が線内折り返しで運用されていてなんで逆にして
くれないのか悩んだのも30年前の話か・・・
- 15 :
- ヒゲ文字まだがんばっているところあるね
- 16 :
- >>15
えっ?!それは朗報ですな。
ASA(今はISOっていうのか)1600のフィルムが出てすぐに撮りにいった。
- 17 :
- 私有ビルの地下出入り口の表示ではヒゲ文字結構残っているよ。
ヒゲ文字より先に絶滅したのは行先表示幕の字体。
- 18 :
- 市電よりもトロリーバスのほうが後まで生き残った数少ない都市だよな。
(市電は1969年、トロバスは万博真っ只中の1970年全廃)
しかし、大阪のトロリーバスを詳細に扱ったサイトって少ないね。
市電の代替バスって29の他にどんなのがあったっけな?
- 19 :
- 79 大阪駅前−桜島梅ヶ町2丁目
83 阿部野橋−なんば−大阪駅前(43年頃までに廃止)
84 阿部野橋−日本橋筋3丁目−大阪駅前(43年頃までに廃止)
85 なんば−四ツ橋筋−天神橋筋6丁目(43年頃までに廃止)
87 なんば−福島西通−天神橋筋6丁目(54年廃止)
90 野田阪神前−大阪港(54年廃止)
91 野田阪神前−鶴町4丁目
92 野田阪神前−森ノ宮駅前(54年廃止)
臨90 野田阪神前−深江橋(44年廃止)
98 なんば−弁天ふ頭(経路変更して現存)
99 天満橋−阿波座−弁天ふ頭(43年廃止)
47 阿部野橋−本庄川崎町(44年廃止)
108 上本町6丁目−新千歳町
臨108 大正橋−新千歳町
特70 上本町6丁目−鶴町4丁目
107 天満橋−大阪港(平成20年廃止)
臨107 天満橋−港車庫前(53年廃止)
臨107 天満橋−川口町(平成20年廃止)
29 桜川2丁目−芦原橋−出島(平成20年部分廃止)
特29 なんば−三宝
臨29 桜川2丁目−三宝
臨29A 桜川2丁目−住之江公園前
特87 阿倍野橋−福島西通(54年一部・平成13年全廃)
臨87A 桜川2丁目−福島西通(54年廃止)
109 なんば−杭全町(経路変更して現存。現在の9)
110 守口車庫前−天満橋
特110 守口車庫前−阿倍野橋(54年廃止)
99 古市南通2丁目−梅田新道−島屋橋(47年一部・54年全廃)
臨99 古市南通2丁目−梅田新道−春日出車庫前(47年一部・54年全廃)
臨79A 西九条−千鳥橋−春日出車庫前
臨79 大阪駅前−西九条−春日出車庫前
臨79B 大阪駅前−西九条−島屋橋
特34 守口車庫前−赤川町1丁目−阪急東口(52年廃止)
34 守口車庫前−なんば(経路変更して現存)
98 弁天ふ頭−上本町6丁目(経路変更して現存)
臨98 境川−湊町駅前−上本町6丁目(本系統と統合)
こんなんでいいか?
- 20 :
- >>19
すごい! 入力、乙カレー
- 21 :
- >>13
30系と60系は最初から全面ビニールシート。おまけにヒーターなし。冬激寒
- 22 :
- 東京の銀座、丸ノ内線も昔はヒーター無かった希ガス
- 23 :
- 大阪市は系統番号だけでは市電代替かどうか判りにくいな。
- 24 :
- バスの系統番号の付け方は、市内交通を一元化した昭和18年に改正され、
戦前戦中は49号まであった(一部欠番あり)。
上六−堺東駅前の系統(現在の62)を1号系統とし、反時計回り順につけている
10から20番台が生野区とその周辺、30番台が市内北部、40番台は
数は少ないが南西部に多いのはその名残り。
戦後、新設系統は役所届出順に系統番号を付番していったもんだから滅茶苦茶。
代替系統もこれに則って採番してるのでばらばらという感じがするのだろう
でも、系統番号順に路線の廃止が決定されていったのかと思うと結構興味深いね
29(市電三宝線)は市電の番号を引き継いだ唯一の系統。
ちょうど系統整理したために欠番が出ていたからだろう
47(堺筋線)は何故か欠番となっていたものを名乗っている(理由は不明)
- 25 :
- ほーっ。そんな規則性があったんですね。1号は戦後も長らく1号を名乗ってましたねえ。
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~rajomon/sub207.html
↑
ここに昭和初期の系統図が出てますね。これを見ると南海軌道線や新阪堺と露骨に競合した線を設定しているような気がします。
- 26 :
- >>25
(-ω-;)ウーン、よくわからんが必然的にそうなっんじゃない?
家に昭和7年ごろの大阪市の地図があるけど、
市内以外で、大きな集落があるのは鉄道沿線にしかない。
営業的にそこを走らさなきゃ無理のような
あと、大正時代に大阪府が制定した十大放射道路と言う
幹線道路もかなり開通してるけど、まだ完全ではなかったから
バスが走る道も限られていただろうし
なお、上町線はしょうがない気がする。
隣を走るあびこ筋は大阪バスのエリアだから、あえなくこういう
路線設定になったと推測
毎回長文でm(。・ε・。)mスイマソーン
- 27 :
- 来年は市電廃止40周年アゲ
- 28 :
- シルバーカーと書かれた乗車目標があったものの
次に来るのが50系なのか30系なのかわからなかった
昔の谷町線
- 29 :
- 近づいて来た電車の色を見て並び直してくれ、ってことだったのでは?
- 30 :
- 当時の大阪は、乗車位置に律儀に並んで待つ習慣が無いから無問題。
- 31 :
- やはり一番の全盛期は昭和30年代前半くらいかね?
バスの規模から言うと昭和40年前後くらいだけど
- 32 :
- 昭和35年?の市内交通麻痺がよく市電撤去の理由づけに使われたという
伝説があるけど、その後は渋滞をどのように乗り切ってきたのだろう?
- 33 :
- 普通に走っていたと思う
あの渋滞は事故(異線進入?)であり、責任は市電側にもあるが、
それで電車が邪魔だと非難されたのは、スケープゴートに遭った様な物だ。
市電がなくなっても渋滞はなくならなかった
ちなみに市電全廃が決まったのは昭和38年だったように思う
市は、十三と平野に市電の延伸を果たしたかったようだが、
夢幻と消えた年だった
- 34 :
- http://www.oml.city.osaka.jp/imgsrv/large/anc/1b/c0149/c0149002.jpg
西道頓堀天王寺線(桜川二−大国町)が開通していて
西野田福島線(上福島中五以西)や難波木津線(賑橋−大国町)が
開通していないから、大正4年12月から翌年1月にかけての路線図と特定シマスタ
- 35 :
- 大正期の市電路線図はホンマ美しいねぇ。あれは車内貼りも兼ねてたのかな?このタイプの路線図はいつからいつまで作られたんだろうか?数が多すぎてよく判らんが。
- 36 :
- 恐らく第二次大戦中まで使われていたような
バス路線図も同じ様式で描かれていたからね
戦争末期になってくると、粗末な紙になってくるね
- 37 :
- 昭和期のはポケットサイズになり大正期とは雲泥の差なんだが。
戦前のバス路線図で市電の小型の系統図タイプは見た事無いよ。
- 38 :
- >>37
額面用のことね
- 39 :
- >>32>>33
あの渋滞のお陰で四つ橋線が出来たような物だから、何が動転ぶか判らんよね。
- 40 :
- 大阪の地下鉄は路線網が充実していて、今も黄金時代にあると思う
- 41 :
- 路線が充実する事=黄金時代というもんじゃないよ。
黄金時代というのは旭日の勢いがなければ。
いまは老獪な停滞の時代と言った感じ。
- 42 :
- 30系について質問です。
なんでアルミとステンレスを、平行で大量に平行して入れたのですか?
お役人の緩慢?
北大阪急行にも、お買上げ前提だったから強要?
そもそも、改番の手間考慮したら 将来振り向ける 車番で入籍させた方が
合理的だったのでは?素人考えで思うのですが・・・
- 43 :
- >>42
アルミ→軽量化が主目的
捨てん→省塗装と防腐
あと、コストやどちらか一つに絞るとコケたらリスクがデカイ。
将来御買い上げ前提で作っても、発注主や購入者は北急。まず、自社の管理都合の良い番号を採用するのは当然。
売却後、大阪市がどのような番号にするかは知った事ではないし。発注時に大阪市の増備計画数や内容なんか知る由もないし。
オール先頭車の編成があったから、四つ橋線投入くらいは大阪市から聞いていたかも知れんが。
- 44 :
- 何で中央線は、中央が後回しになり開業したの?
確か千日前線も同じく、同じ時期分断された状態で開業したような・・・・
コレって需要を考えたり、車両搬送は勿論 業務一般総べてにおいて極めて
不合理な気がするのですが、市民の財布を無視してネットワーク構築の段取り
が組まれたからですか?
余談ですが、大阪市って顕著に業界で注目される事業者でもないのに、
(例えば、名車○○系とか無い癖に・・・)鉄道設備全般にカネ糸目
を、つけないような印象があるのですが・・・
- 45 :
- >>44
繊維街の立ち退きが遅れたから
中央大通・船場センタービル・阪神高速一体で施工したので
工期もかかったしな
千日前線も同じようなもんらしい。国鉄湊町駅の下掘らなきゃ
ならないし、難波の地下街もあるし、近鉄難波線と土地の取り合いしてたし
設備が豪華なのは、創業当時から「地下設備は拡張するのに
金がかかりすぎるから大きめに作っとけ」ってのが言われ続けているからと、
いい物を作らなきゃ都市としての品格が問われるみたいな考えがあったのかも
大正時代に東京を抜いて日本一の都市となったから
ま、基本は新しいもの好きだしね>大阪
- 46 :
- >>44
中央線は一体施工で時間が掛ったというのもあるし、
千日前線の場合は野田阪神駅が阪神電車高架工事との兼ね合いで、
当初2両分の単線ホームしか確保出来なかったということもあるが、
要は、根本的に当時の大阪旧市内の公共交通の需要は南北>東西なので、
後回しにしても大きな問題ではなかったからだと思う。
大阪市の車両は派手さが無いだけで市電地下鉄とも完成度が高いよ。市電を例に取ると、
和製PCCカーを大量かつ主力として使いこなせたのは大阪市だけだよ。
鉄道設備建設に余裕を持たせるのは大阪人の性。だから大阪市だけでなく在阪私鉄はだいたいその傾向がある。
東京では小田急が新宿駅改築に失敗し、丸の内線も銀座線も輸送力増強がままならず、
名古屋も東山線のような大幹線ですら極小の設備投資で大失敗している。
- 47 :
- 予備部品供給源として固定編成化時あふれた 旧6100形6111号車の早死には(半端製造は)確信?
そもそも 6100製造の時点で、2両連結常態化していて、単車運転は殆ど無くなっていた
のでは、?だったら 5000+5500の6000ボデイ版を造ればよかったような、気が
するのだけど・・・・
- 48 :
- 確信も何も、新鮮建設でお金の無い時期に予備車を2両も抱えてどうする。
1両予備で運用が賄えたから1両になっただけ。
1000型も端数増備だし、1100型も端数増備。
つまり予備車を最小限にするのは大阪市の伝統。
30系ですらC編成を作って予備車を1編成ではなく半編成にしている。
早死には結果論。
- 49 :
- >>46
市電の話題が出てきたら、福町車両工場の話が
出てこないのはおかしいぜ
ま、空襲で壊滅>廃止という流れなので私も知らないけど、
東洋一の規模だそうで
あと、電車連動信号(トロリーコンダクター)は大阪市が
特許を持っているらしい。すごいね
- 50 :
- 1000の正式な淘汰除籍は何時なのですか?
工場入れ替え用に510号車が選ばれた理由は何故ですか?
1000B形淘汰時、交換しても良かったような気がするのですが・・・・
- 51 :
- 救援車を少しでも若い車両に、ってことだろうが、その性格上から
もともと稼働率が極端に低い車両を、吊り掛けの旧性能車という意味では
大して変わらない1000B形へ取り替えても費用対効果が小さいんじゃない?
どっちにしろ吊り掛け駆動の営業車は車齢を問わず全廃になる運命だったんだし。
廃車になった半端車は、車体だけ現業組合の事務所として活用されたんだからw
検車場の事務所棟内に組合の執務スペースを確保できないこととなっていたから、
(実際は別名目で提供)ちょうど良かったんだよ。
- 52 :
- 救援車なんて使用実績が殆んど0で済む車両だから、動けば何でもいいんだよ。
昭和50年代半ば、一度510の中に入った事があるが、
あんなカビ臭い車内(放置車両独特の臭い?)では本当に稼動実績無かったんじゃないかな。
- 53 :
- 大体、救援車が活躍できる局面って限られてるんだよw
救援車が出動する大事故って、該当区間は第三軌条を停電させてる可能性が高いから
救援電車は現場直前まで到達できない。直前までに他の編成が本線上で立ち往生してたら?
その編成が移動できたとして、それは事故が発生してから如何ほど時間が経過してるだろうか。
よく考えると510号は訳の解らない代物だった。
今は事故編成を何とかして、推進か牽引で転がせる状態にすることを考えて復旧訓練をしている。
- 54 :
- 510は我孫子車庫の廃止と同時に廃車解体されたの?
- 55 :
- 廃車の日付なんて手続きだけの問題だからそんなもの車庫の廃止と一致しなくても無問題。
ところで、このスレはいつの間に教えて君へのお答えスレになったんだ?
- 56 :
- ケチケチしないで教えてよ。
情報の継承は、後世の愛好家の為、必要だと思うよ。
俺は、駅員や乗務員やっていたけど、子供でもマニアックな事を聞いて来る子供には、
真面目に分かりやすく、教えてあげていたよ。
俺も、会社の守秘義務に関わらない事(時効の事とか、公になっている以外と知られていない事
事)については、疑問カキコがあれば伝えているよ。
- 57 :
- >>46
大阪市って路面も高速も新技術に意欲的なのに全国的に全く評価されへんなぁ〜。
- 58 :
- OECブレーキとかね。
20系は第三軌条初のVVVFだし。
- 59 :
- 昔の学研の「○年の科学」だったかで,大阪市の電気バスいうのがあった。
万博開催といい,あの頃の大阪は輝いていた。スレチ失礼。
- 60 :
- いんや、スレ違い違うで。
電気バスはあおぞら号だったかな?大都市では初の電気バスで昭和47年4月1日に2両デビュー。
所属は九条営業所だった。
電気バスが大阪市に残した遺産は、
この年秋に導入された路線バス新車体塗装の先駆けとなったことかな。(車体下部の緑のライン処理や黄色帯の有無など多少異なるが。)
- 61 :
- >>60
その後春日出に転出。厄介者だったらしいな
- 62 :
- そりゃバスの購入費だけで当時のディーゼルバスの2倍強の970万だったからな。
バッテリー交換も一日2回やってたし。
- 63 :
- 大阪市の電気バス、知りませんでしたありがとう。
電気バスって、昭和50年代に京都市にもあった(桂駅からどこか?)。
神戸市の初代ハイブリッドバスは、走行距離の9割でエンジンが
回っていたことが判明し、あぼ〜ん、、
- 64 :
- 大都市圏なんとか調査?モデルバス?方々数社点々として試用された。
って覚えている?
- 65 :
- >49
> あと、電車連動信号(トロリーコンダクター)は大阪市が
> 特許を持っているらしい。すごいね
一方、軌道回路式は京都市が特許を取った方式だそうな。
- 66 :
- >63
京都市交の電気バスは、大阪、神戸と同時期にも1台いた。
それも、廃車になったトロリーバス改造という変わり種。
- 67 :
- >>65
京都には連結車計画があったから、トロコンではまずかったのでしょうね。
無人の交差点での市電のポイントの切り替えはどうやっているのか
長いあいだ疑問でしたが、京都市電末期に、漏れた都市ガスが軌道の下で爆発する騒ぎがあり
TVニュースで、黒こげになったポイントマシンの写真を見て納得…
大阪の話ではなくでゴメン…
- 68 :
- 大阪も京都もなんと戦前に電気バスを導入経験あり。
- 69 :
- なんとも何も戦前の電気バスは全国的に代燃化の選択肢の一つだった訳だが・・・。
- 70 :
- うむ。自動車登場の黎明期は電気自動車の方が
シェアが高かったと言う、ウソのような本当の話がある。
しかし、自動車の内燃機関が高性能になるにつれ、
航続距離が短い電気自動車は消え去ってしまった
というわけで、戦中前後に登場した電気バスは
「うわ〜、何あの古いバス。電気バスだって〜!。
電気バスって許されるのは小学生までだよね〜」
とか言う会話がされたとかされないとか
- 71 :
- 代燃化の問題と言うのは機関のメンテナンスの苦労以外にも、燃料の木炭を自家生産或いは如何に安定的な供給先を確保するかに掛ってるんだよね。
- 72 :
- 岡山の山奥まで行って、山を1つ買ったらしい。
でもって、その山の木を木炭にするために職員を
住み込みさせて生産させたと。(交通局40年史より)
すごい時代だ
- 73 :
- 大阪万博の影響か、30系が今だに未来の電車に見えるwww
しかし御堂筋用アルミしか知らなかったところに旧7000+8000を見た時は正直萎えた。
どことなくバランスの悪い前面にRの無い(四角い)側扉窓。
20年ほど前、2年半 だけ 大阪近郊に住んでいた私が来ましたよ。
- 74 :
- >>73
あー、運行番号窓埋めた奴ね。
あれは希少価値があったので、知り合いはアレに当たると
嬉しかったとか言ってたな。
私は1号線に乗る機会がめったにないので知らなかった。
そういや10系の試作車はひっそりと消えて行ったな。
- 75 :
- 天満橋の電車専用橋梁age
- 76 :
- 10系試作車が保存されなかったのは意外だね。
まあ高性能鋼製車も50系が1両保存されているだけなので仕方ないが。
でも保存するなら最末期の姿じゃなく、出来るだけ初期の美しい姿に戻して欲しいなぁ。
- 77 :
- 15年ぐらい前、谷町線の都島―守口間の各駅の駅名票が少し変わったものだったような記憶があるんですが・・・
ヒゲ文字と普通のゴシック体を合わせた感じで、横長のものだったような・・・。
- 78 :
- 都島〜守口の開業(昭和52年)から地下鉄駅のサイン類のデザインや規格が一新(例えばホーム壁面の駅名標が横長方形から横細長に変更)されたのを機会に、ヒゲ文字も止めました。
- 79 :
- しずかに
- 80 :
- 街をきれいに。万国博を成功させよう。
- 81 :
- もう一度、森之宮の保存車を見られるチャンスが!
しかも、新型車両30000系の試乗会つき!
- 82 :
- 美しい街は大阪の誇りです
- 83 :
- 35年も前の幹線支線分離開始時期
支線系統用 オレンジ塗装にメトロ窓のB623Eが懐かしい・・
- 84 :
- >83
最後は中津に集中配置されてたヤツね。
幹線41で時々大阪駅に来てたけど、歌島橋バスターミナルにいる方が多かったね。
- 85 :
- バスもリバイバル塗装すればよいのに・
- 86 :
- 確かに!
ゼブラバスリバイバル塗装(あるいはラッピング)を見てみたいですな。
- 87 :
- >>85
空気読まない交通局は、先代の旧塗装を復活!
→誰も気づかなかった。
というオチが頭に浮かんだ。
- 88 :
- おれ最近まで今のバス塗色は1972年式がベースだと思ってたもん。
今のバスは1972年式より色が明るいんだね。
- 89 :
- 市電は残っていたらバスと同じ塗装になったのだろうか?
それとも地下鉄のようにラインカラー導入したのだろうか?
- 90 :
- >>89
市電は複数で操車しているから、ラインカラーなんて無理
で、なんで電車とバスのカラーを同じにするんだ?
- 91 :
- >90
塗料代節約で一緒にするとかはあるんじゃないか?
ラインカラーは市電全体で1カラーという手があるね。
- 92 :
- 末期の市電はワンマンの帯の有無だけで色は皆同じだったんだが。
市電とバスを同じ色にしたら利用者は遠目でどっちが来たか分らんではないか。
- 93 :
- バスが(同じ色に)塗り替えることってあるのですか?
おおかたの自動車と同じく廃車までずっと新車時の塗装のまま
かと思っていました。sage
- 94 :
- 大阪市は知らんが民営では塗り替えは普通に有る。
京都交通(京阪京都交通)のみたいな貧乏ったれでも頻繁に色が変わったし。
- 95 :
- 基本的には数年に1度塗り替える
塗装って経年劣化で色褪せてくるから、
結構みすぼらしくなるからね
- 96 :
- 大阪市交通局の場合2002年くらいまで再塗装をしていたけど
今は新車時から廃車までずっとそのまま。
- 97 :
- 阪神国道線の塗色しかり
南海大阪軌道線の車両デザインしかり
何で大阪市電と同じにしたのか分らん。
- 98 :
- >>95-96
目からウロコですありがとう。
関係ないですが何年か前に広島で元大阪市電の2600に乗りましたが
窓も大きく、内装も当時としては綺麗なのにびつくり。
もう大阪に居た時より永い時間を異郷で過ごしているのですね、、
- 99 :
- >>98
3001型のデザインは秀逸だと思う。
広電では江波の系統で使ってるんだよね
冷房化もしてるし、まだ主力でいけそうだけど、
中型車なのでラッシュ時の運用は辛いかも。
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