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2011年10月1期ハングル【チャングム】李氏朝鮮VS琉球王国2【テンペスト】
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【チャングム】李氏朝鮮VS琉球王国2【テンペスト】
- 1 :11/09/08 〜 最終レス :11/11/30
- 李氏朝鮮 1392年−1910年
琉球王国 1429年−1879年
李氏朝鮮と琉球王国、それぞれ、ほぼ同じ時代にあった国だが
どちらが、当時は先進的な国だったのだろうか?
まぁ、どっちも当時中国大陸にあった国の属国なのだけど
その中でも、よりどちらが、発展していたのだろうか?・・
前スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/korea/1290320513/
- 2 :
- 2ダ
- 3 :
- キモいスレ立てんな
- 4 :
-
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/9008/9/13410100-8.pdf
琉球本島は島津から借銀し島津は七島衆や徳之島や沖永良部島などから借銀していた。Ww
- 5 :
- チャングムは一応名前だけはかろうじて歴史書にあるが、孫寧恩は果して…?
- 6 :
- チャングムの誓い挿入歌〜「オナラ」
オーナーラー♪オーナーラー♪オーナーラヨー♪
朝鮮の叙情歌謡
- 7 :
- >>5
テンペスト考証担当者のブログ
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2011/09/post-ad38.html
そもそも孫寧温は実在するのか?
結論からいうと、実在しません。物語のなかで創作されたフィクションの人物です
(そもそも琉球には宦官も存在しませんでした)。
しかし、モデルになったとみられる人物はいます。
真相は原作者に聞かないとわかりませんが、おそらくベースになった人物は、牧志朝忠
(まきし・ちょうちゅう)でしょう。彼は「テンペスト」の時代と同時期に生きていた
人物(1818〜1862年)で、王府の通訳(異国通事)、外交官として活躍しました。
- 8 :
- チャングムは実在の人物ですが、女医であること以外の詳細は不明です。
当時の女医の主な仕事はウ○コなめとでした。
歴史的にはっきりしていることはこれだけです。
- 9 :
- 朝鮮宮廷の医女が妓生を兼ねていたというのは事実だけど、医術面に関して
嘗糞が中心だったなんて誰から教わったのかなあ?
出所不明でもただ罵倒さえしておけば満足だなんて、そんな朝鮮人的精神は
むなしいよね。煽りにしたって心が寂しすぎる。
- 10 :
- 当時の朝鮮医術の基本は嘗糞だよ。
嘗糞によって患者の健康状態を知ることが朝鮮医術の基本なのだ。
現在の医術で言うと触診みたいなもの。
- 11 :
- wikiから
> 嘗糞(しょうふん)とは、人間の大便を舐めて、その味が苦ければその人物の体調は良くなっており、
> 甘ければ体調が悪化していると判断する、古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたという診断法。
>
> 中国の南北朝時代や唐代の説話集『二十四孝』や『日記説話』によれば、南斉時代に?> 黔婁と言う役人が
> 不安に襲われて急遽帰郷すると父親が病気になっていて、医者に糞を嘗めて見ないと状態が解らないと言われ、
> 実際に糞を嘗めてみた結果、その味が甘かったので憂いたとされ、これが儒教における孝行の一種
> 「嘗糞憂心」の説話となった。この説話は李氏朝鮮の王、世宗が編纂を命じた儒教的な教訓を纏めた書
> 『三綱行実図』にも孝行の一つとして取り挙げられた
中国では古代の話だが、朝鮮半島では李氏朝鮮時代まで行われていた。
つまりチャングムの時代まで行われていた。
女医であるチャングムが嘗糞をするのは当時としては当然のことだろう。
- 12 :
- 1)李氏朝鮮が授印されたのは銅印(泥印と聞いた覚えもある)
琉球王朝が授印されたのは銀印
2)朝貢の際に李氏朝鮮の使者は輿に乗って入場することは許されず、
門前で降りて歩いて入城しなければならなかった。
琉球王朝の使者は城内まで輿に乗って入城することが許されていた。
3)当時の琉球は貿易立国潤っておりである意味先進国。その朝貢品は
中国皇帝に大層喜ばれた。
李氏朝鮮は貧困の極み。大した朝貢品もないので女性を朝貢。
ところが下賜品が大層豪華だったので頻繁に朝貢し、中国からあんまり
来るなと釘をさされる。寄生虫体質はこの頃から全く変わっていない。
4)上記3)に関連して琉球王国は外洋航海の技術を持っており、
東南アジアや遠くマダガスカルまで行ったとか行かなかったとか。
李氏朝鮮は沿岸航海にすら支障を来たしそうな亀甲船で大いばり。
ちなみに近年資料に基づいて亀甲船を再現したらあっさり沈没したとか。
5)ペリー来沖の際に橋や門の石組を見て「我々の技術とは違うが、高度な技術だ。
下手な振る舞いをすると、我々の方が野蛮人と思われる」と思わしめ、
米国人船乗りを行儀よくせしめる。
李氏朝鮮は、まあ言わない方が優しさでしょうな(笑)
6)李氏朝鮮は明国への通路としか考えてなかった秀吉に国土全部を蹂躙され、
併合してインフラ等を整備してくれた日帝に病身舞や出しチョゴリなどの
素晴らしい伝統文化(笑)を収奪され、そのほとんどが絶滅。
今日に至るまで復興することができない文化度。
琉球王朝(沖縄)は、第二次世界大戦でアメリカ軍より「鉄の暴風」とまで言われた
徹底的な艦砲射撃、砲撃を受け島のほとんどが焦土と化し、県民の3分の1が
死亡したにも関わらず、戦後に伝統芸能・伝統文化を復活させた。
- 13 :
- 薩摩島津の琉球攻略、このとき琉球方として首里城正門(歓会門)で最後まで抵抗したのはある日本人武者でした。
彼は越前出身の医師で琉球に帰化し、剃髪し僧体ていたため法師武者と喜安日記には書かれています。
薩軍が首里城に迫ると琉球軍まず越来親方以下百数十人で迎撃にあたります。しかし薩軍の
雨のような鉄砲の前に死者続出。
やむなく退却し首里城にこもることにします。しかし薩軍の首里の町を焼きながらの進軍に琉球王家は
和平交渉を開始します。
那覇の町(首里は政治の中心・那覇は経済の中心)で和平交渉が始まったころ、交渉の最中にもかかわらず
法元二衛門を大将とする軍勢が首里城への攻撃を開始。
この攻撃を止めるべく薩将の市来織部と村尾笑栖が首里城へ駆けつけたところ、正門に立ち抗戦したのが
この法師武者でした。
この法師武者、正門の櫓の上に仁王立ちし
「薩摩の野郎ども、寄せて来たれども、何ほどのことあらん」
と櫓の上から巧みに矢を射掛け薩軍を近づけない。
この状況で薩軍は市来・村尾から、法師武者へは尚寧王より停戦の使者がとどき法師武者は法元に捕らえられます。
この法師武者、法元から
「汝は日本人なり。なぜ日本を忘れて我らと戦うのか?」
と問われ
「自分が琉球王から受けた恩は厚い。今、不幸にして捕虜となり死につく身だが、後悔することは何もない」
と答えます。これを聞いた尚寧王は金銀財宝を出し法師武者の助命を懇願、また法元も感心するにいたり助命された。
彼の名は喜安日記には載っていないが、その後子孫が琉球王朝の御典医・御典薬となったため
「山崎二休」と言う名が伝えられています。
- 14 :
- >>11
wikiopediaを参考にするのはいいんだけど、そこで引用した部分だけでは孝心の
あらわれの一つとしかとれないでしょ。医術の話ではないんです。
親孝行の鏡と特筆されるのは、それが普段行われないことだったからであって・・
その部分だけでそう判断するのは、日本語文章の読解能力に乏しいと言わざるを
得ません。
リンク先の下に書かれてる「朝鮮医籍考」は確認が取れないので丸呑みするのは
危険ですし、引用文も「朝鮮人特有の遊びであった」としか書かれていません。
嘗糞に関しては、こういう考察もあります。
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20090920/1253462347
相手をあなどって、ありもしない証拠を脳内作成して悦に入るのが朝鮮人です。
同じレベルに陥らないよう、お互い気をつけましょう。
- 15 :
- >>13
戦国板からの転載ですね。「喜安日記」はこちらから読むことができます。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241192/1/vol09/tsb/2113.htm
「球陽」の読み下し文
http://agijima.pluto.ryucom.jp/msearch152/kyuyouzenbun/pckyuyoufukan0005.html
本土と琉球との当時の関係を述べるなら、こちらの逸話の方が興味深いのではないでしょうか。
治金丸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E9%87%91%E4%B8%B8#.E6.B2.BB.E9.87.91.E4.B8.B8
刀剣が日本からの輸入品であって、メンテナンスも自前では難しかったらしい、と思えます。
しかも頻繁に往来していたようですね。
- 16 :
- >>14
李氏朝鮮時代の女医の身分は奴隷身分であった。
李氏朝鮮時代の奴隷は気分次第でしても構わない存在であった。
李氏朝鮮の王、世宗は嘗糞を儒教的な教訓と認識していた。
チャングムは王の女医であった。
親孝行の鏡と特筆されるのは、それが普段行われないことだったからかもしれないが、
気分次第でされるような身分の女医が王の要求を拒むことは不可能だ。
そして世宗時代は嘗糞を儒教的な教訓と認識していたことは間違いない。
> 嘗糞(しょうふん)とは、人間の大便を舐めて、その味が苦ければその人物の体調は良くなっており、
> 甘ければ体調が悪化していると判断する、古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われたという診断法。
人物の体調を診断するのは医師の仕事であり、王の女医であったチャングムは王のウ○コを嘗めていたのだ。
一般人の話ではなく、王と奴隷の話であることを無視するべきではありません。
- 17 :
- 前スレの転載もしとこうか
930 名前: マンセー名無しさん 投稿日: 2011/08/31(水) 19:43:00.93 ID:cSCcJSnT
>>923
朝鮮は金印だよ。格も親王格。冊封使の品位も高め。
足利将軍も上に同じ。
琉球は正確には鍍金銀印。格は郡王。品位もそれ相応。
豊臣秀吉もこの格の予定だった。嫌われてたからね。
ただし、格式と実際の待遇は比例しない場合があって、
特に明代の琉球はその典型例だったわけ。
清代の朝鮮は逆の意味で典型例ということになるかな。
- 18 :
-
942 名前: マンセー名無しさん 投稿日: 2011/09/01(木) 01:04:17.94 ID:Q0V3cb7z
>>937
格式と実際の待遇は必ずしも比例しないと書いたよね?
その後、高麗王室とモンゴル(元)皇室は互いに姻戚を結び、高麗国王は
元朝宮廷において最高ランクの金印獣紐を授けられる諸王・?馬のひとつ
「?馬高麗国王」の地位を得る。
『元史』巻108・表3「諸王表」。『元史』世祖本紀によると「?馬高麗国王」に
封じられたのは至元11年7月癸巳(1274年8月22日)
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%BA%97%E4%BE%B5%E6%94%BB
高麗王が契丹や金から冊封された際にも印綬・金印を下賜されたことは、
『高麗史』の記事に明らかである (c.g.巻 6・ 靖宗世家・9年 (1043)11月
丁亥、巻17・ 仁宗世家・20年 (■ 42)5月 戊年)。
ttp://sir.u-shimane.ac.jp/user_contents/hokutou/b1/KJ00001000009.pdf
廟號:太宗
李芳遠(1367--1422)字遺コ
登極之後,李芳遠又再次上賀表,請冠冕服 飾,於是再次得到了明朝所賜的金印
ttp://www.med.cgu.edu.tw/~sugiang/people0.htm
朝鮮への冊封使の清における品階は正3品以上であったのに対して、越南と
琉球への冊封使のそれは正5品から従7品に止まっていた。
http://www.jkcf.or.jp/history/first/3/02-0j_harada_j.pdf
- 19 :
-
950 名前: マンセー名無しさん [sage] 投稿日: 2011/09/01(木) 13:01:55.39 ID:W2vSoLOq
このスレ(の他にもほとんどのサイト)で、琉球使臣が宮中まで輿を許されていたと
朝鮮官僚の尹マが「陰渓漫筆」でうらやんでいたという話の出所は、黄文雄の著作が
元ネタとされてますね。
で、やっぱ気になった人がいたようで、一応調べてみたようです。
引用元は黄文雄「韓国は日本人がつくった(2002年)」、ところがそれにも引用元が
あって、古田博司「朝鮮民族を読み解く(1995年)」が元ネタだそうです。
調べた限りでは日本の公立図書館での蔵書は無いので本当に確認したいなら、古田氏
に直接あたるしかないのではないのだろうかとのことでした。
http://ziphilia.net/bbs.cgi/history/1300881504/
955 名前: マンセー名無しさん 投稿日: 2011/09/01(木) 20:14:13.64 ID:AOzdiYaC
>>950
リンク先の書き込みの、「陰渓漫筆」は明代のものであって清代の琉球・朝鮮の扱いの参考にはならない、
というのはその通りですな。
スレでもそこらはどうしてもごっちゃになってますし。
- 20 :
- >>18
>格式と実際の待遇は必ずしも比例しないと書いたよね?
何回読んでも「朝鮮はうるさいから名目だけ身分あげとけ」という
理由にしかよめないのだが?
格式と待遇が一致しないのなら何のための格式?
どこの世界に平社員にハイヤー通勤認めて、経営陣は電車しか
認めないって会社があるんだろう?
いや、あるかも知れないが、絶対に合理的な説明があるよね。
なんで格式と待遇が乖離してたの?
- 21 :
- 朝鮮国王の格が高くても国王擁立する時に中国にお伺いたてなきゃならないなんて格が高い意味ないと思うがな
ところで朝鮮から北京へ行くには陸路で行ったのかな?
- 22 :
- これも前スレ
263 名前: マンセー名無しさん 投稿日: 2011/02/24(木) 18:07:09.39 ID:xKwdvEVu
清が勅使を派遣したのは、朝鮮、越南、琉球の3国だけで、その他の南掌(ラオス)、暹羅(シャム)、
蘇禄(スールー)、緬甸(ビルマ)等には勅使は派遣されなかった。朝鮮、越南、琉球の3国は属国の
中でも重要視されていたのである。しかしこの3国の間には、さらに清の位置づけの差があった。
朝鮮への冊封使の清における品階は正3品以上であったのに対して、越南と琉球への冊封使のそれは
正5品から従7品に止まっていた。朝鮮は越南や琉球よりも優遇され、属国の中の首位に置かれていた
のである。
山本達郎編『ベトナム中国関係史』(山川出版社、東京、1975)、496、553-554頁。
(「2. 朝鮮、越南両国と清の関係 1) 朝鮮と清の関係 」 76頁)
ttp://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/e/63b4d6601070453a16a44c65c759bd49
琉球冊封使のランクとして、明代は給事中(正・従七品)、清代は翰林院修撰(従六品)が定番だったようですね。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E5%86%8A%E5%B0%81%E4%BD%BF%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
詳しくは「使朝鮮録」「使琉球録」と言われる物を参照しなくちゃいけないようですが・・・
「実録」は膨大すぎてちょっと勘弁。
- 23 :
- 越南はかつての大国の名称・南越を自称して周辺国から朝貢を受け、
さらには自身の王宮を紫禁城として、各施設を北京のものと同一の名称にして
あたかも清国皇帝と同格であるかのように振舞った。
どう考えても支那に対して従順な犬ではなく、支那を使い倒す狡猾な独立勢力だった。
琉球も薩摩侵攻以来、薩摩が影響力を持ち、清と琉球の接触も薩摩の管理下に置かれ、
琉球も薩摩の武力を頼みにした。
清の冊封使も薩摩の存在に気付きつつも何も出来ない状態だった。
名目上支那との付き合いは続いたが、実質は自然な形で日本への傾斜を高めていた。
そんな中、支那に対して盲目的に服属し、心の底から支那を崇め尻尾を振り続けたのは李氏朝鮮のみ。
実質、本当の意味での属領であった李氏朝鮮が属領No.1の座に収まるのは自然なことではある。
- 24 :
- >>22
エリートコースの翰林院官僚を冊封使にしたということは、
冊封使の格はかなり上がったということか。待遇面では
特段の優遇措置は受けられなくなったけど。
>>23
李朝は元々、親明派のクーデター政権だからね。
明朝が大元帝国の後継者を自認してたのが不運だったな。
おかげで貢女等が続行。といっても清代になると
敗戦国だからきつい条件を課されたわけで、小中華思想も
華夷で強化されてる。心の底から素直な臣属国では
ないわ。少なくとも清代では。
明代で琉球が優遇されたのは役割があったから。清代に
特に冷遇されなかったのは清も元明の後継自認してたのと
華夷時の南明との綱引きが原因。
- 25 :
- 中国に肩入れする訳じゃないけど中国は使節団を派遣して琉球に朝貢貿易を勧めたが
薩摩は琉球を武力侵略して琉球を支配した
奄美諸島を割譲し薩摩の直轄領にして搾取した
薩摩藩の琉球侵略は悪辣な所行であり薩摩人の蛮行のひとつである
- 26 :
- 戦国時代に戦争をしたことを理由にクレームをつけられても・・・
- 27 :
- 薩摩藩の琉球侵略が戦国時代???
本土人は性格だけじゃなく大脳も壊疽してるのか?
- 28 :
- 薩摩に肩入れする訳じゃないが侵攻したのは琉球がヤマトにケンカを売ったからである
明の威を借りてのことだったが、琉球が救援を求めたら明は経済制裁を加えた
要は琉球が情勢を読み違えてバカなことをしでかしただけだ
- 29 :
- > 薩摩藩の琉球侵略が戦国時代???
> 本土人は性格だけじゃなく大脳も壊疽してるのか?
戦国時代は始期についても終期についても複数説がある。
始期については1467年に始まった応仁の乱あるいは1493年の明応の政変とする説がある。
終期については織田信長が将軍足利義昭を追放した1573年(室町幕府の滅亡)、
豊臣秀吉が後北条氏を降伏させ全国統一の軍事活動が終了した1590年(北条征伐)、
徳川幕府が大坂の役で豊臣氏を滅ぼした1615年5月(大坂夏の陣)などがある。
最も長い説をとると戦国時代は応仁の乱の1467年から大坂夏の陣の1615年までとなる。
薩摩藩が3000名の兵を率いて琉球王国へ侵攻したのは1609年である。
大坂夏の陣の6年前に行われた薩摩の琉球侵攻は戦国時代といっても間違いではない。
反論するのは歓迎だけど、思い込みではなく根拠を示して反論してください。
- 30 :
- おおーやはり侵略行為を正当化する癖は本土人に脈々と受け継がれてますな(笑)
結局戦国時代の解釈は曖昧なわけですな
しかし薩摩藩は徳川の許可をもらい琉球侵略を遂行したから日本の琉球侵略と言ったらいいな
- 31 :
- 琉球が日本にケンカを売ったとは?
- 32 :
- >>28
>琉球がヤマトにケンカを売ったからである
>明の威を借りてのことだったが
お前は何の話をしてるんだ?
詳しく聞かせてもらおうか。
つーか、前スレで琉球は破綻したとか
ホザいていた奴じゃないかお前。
- 33 :
- またループかい?w
それはともかく、薩摩藩が琉球から吸い上げたという利益は、どれくらいのものだったんだろうか?
- 34 :
- >>33
ループというか大脱走かな(笑)
- 35 :
- 琉球と喜界島(奄美群島)の戦いにその答えがある様な気がするんだけどなあ。
- 36 :
- >>35
琉球と喜界島の戦いとは?
- 37 :
- 六諭衍義ってどんなものだったのかなー
- 38 :
- >>35
何の答えだよ?
- 39 :
- >>36
詳しくは知らないのだけど、沖縄の歴史関係には喜界島への侵攻とか出てくるでしょ。
喜界島とか他の奄美群島の島々からは記録が少ない(全く無い)遺跡とか発掘されてるし、
実際奄美関係の歴史研究者は、奄美の記録が少ないから発掘でなんとか歴史を探っているらしいけど、
研究者が少なくて思う様に研究が進まないとの嘆きも聞こえてくるね。
素人の俺はどんな物が出てくるか期待して待つしか無いけどね。
- 40 :
- おいおい、あんま奄美掘り捲るなよ沖縄にも言える事だが。
- 41 :
- 薩摩と沖縄は、昔から奄美を取り合っていたんだっけか
- 42 :
- 何で奄美を取りあうんだよw奄美舐めすぎ。
- 43 :
- >>40>>42
変な奴だな。
掘るなとか舐めるなとか、理由が分からん。
- 44 :
- >>43
バックに軍事力持てよ。島津系の大和民族さん。こう言えば少し解りやすく成るだろ。
- 45 :
- >>39
喜界島を沖縄勢力が攻めた事と薩摩が琉球から吸い続けた利益の換算と関係があるの?
- 46 :
- もう薩摩絡みはその辺で良いんでないの本題に戻って遊べば。
- 47 :
- 島津系の大和民族なんて言葉、今まで聞いたこともなかったがなぁ
- 48 :
- >>44
議論スレで謎かけですか?文句ばかりでますます変な奴だな。
尚系の琉球民族とも言い出しそうだしw
>>45
今は薩摩による琉球侵攻以前の話で良かったかな?
それで琉球の境界を確定させる意味での喜界島侵攻があったわけだから、
トカラまでを確実に勢力圏として意識していた薩摩との間に折衝があったはずなんだけど、
確実な記録が残っていない事が疑問なんだよな。
だから、奄美群島の遺跡から何かしら掘り出されると分かる事もあるのかなあ、と思った次第です。
実際、奄美大島の城なんて大和型ぽいよね?それに沖縄本島の名護城なども大和型じゃなかったけ?
- 49 :
- 平安時代までは喜界島に大宰府の出先機関があったんだっけか。
12世紀に沖縄島が農耕社会化するとともに独自の道を歩み始めたっていうけど、そこら辺と
本土の平安末、源平動乱期の騒動なんかや中国の動向は、どう関係してるんだろう。
- 50 :
- つうかよw朝廷支配者言語の大和言葉の古形が残る地域は何処だよ。
此処で工作員に乗せられてる場合かよ。
- 51 :
- 朝廷支配者言語なんて言葉も、今はじめて知ったなぁ
- 52 :
- >>49
五大性の馬氏一族は奄美大島発祥だそうだし、
護佐丸なども喜界島周辺に勢力圏をもっていたらしいね。
この二つの家系は今も存続してるんだけど、
何かしらの記録集とか研究書とか出版されてるのかな。
- 53 :
- 文部省もメディアもない時代に土人が朝廷内の言葉とソックリ同じ言葉喋る方が可笑しいだろw武家と百姓はソックリ同じ言葉喋ってたのかよ。
- 54 :
- >>24
>心の底から素直な臣属国ではないわ。少なくとも清代では。
同意。
ただ「自分たちこそ明の後継、清など北の蛮人が作ったニセモノじゃないか」て李氏朝鮮の虚しい自負は
清にあずかり知らない所でコソコソ隠れて表明されてたガス抜き程度のもので、
勝手に「華」をやってたベトナムや、王朝存続のために徳川将軍にも清皇帝にも礼を尽くす琉球のような
一歩間違えば華夷秩序を崩壊させかねない、部分的には否定すらしてるスケールの大きな独自性は
李氏朝鮮の実効力の無い自尊からはまったく伺えないなあ。
- 55 :
- >>53
……えーっと……君、まさか文部省もメディアもない時代の人間が共通語喋れたとか思ってるの?w
- 56 :
- なんか、ただの釣り師モドキって気がしてきたなぁこの子
- 57 :
- >>53
ああ駄目だわこの人、方言と言うものを全否定された気分になったよ。
- 58 :
- >>55
だから、喋れんと言ってんだろ。寧ろ奄美以南に大和言葉系の存在に意味が在るんだろうがw
- 59 :
- >>58
うん、ダメだ君。
では、以下放置推奨という事で
- 60 :
- おいおい、チョと待ってくれよ島津様w
- 61 :
- 喜界島は奄美大島のすぐ隣にあるのに言葉は北部沖縄語なんだよね
沖縄でいうヤンバル方言とほぼ同じ
- 62 :
- >>61
徳之島は「きばり」なのに喜界は「ちばり」確かに回り込んでんだよな。徳之島は特殊な部分もあるがな。
- 63 :
- >>27
時代錯誤も甚だしいし
少なくても世界史中世から学べ
- 64 :
- >>24
琉球の使節が徳川に謁見してたのは薩摩藩が強制的にやらせたことだよ
しかも清はすべてお見通し、徳川が満足するなら謁見してやれということを進貢船できた王府関係者に言っていた
- 65 :
- ま、清はその傲慢さが仇となって後年日本を含めた列強に蹂躙される事になってしまったわけなんだが……
あそこには中華主義ってモノがあったし、さすがにどうしようもない事ではあったか
- 66 :
- 清は琉球を助けようとしたことはない。
- 67 :
- >>66
そりゃ清に海軍力はないし、薩摩の後ろには幕府が
控えてますから。明も永楽帝の頃はあったんだろうが、
その後で自ら封印してしまったから滅亡が近づいて
海洋軍閥と結びつくまでは海軍力持ってないし、それに
万暦帝が政務放棄した後だから。
清朝は琉球処分後の分島改約では琉球寄りだったよ。
少なくとも日本よりはずっと。
- 68 :
- 琉球だって八重山を侵略したじゃん・・・と、話をややこしくしてみるw
奄美の方言の話だけど、奄美とその周辺の島にヤンバルと似た方言が定着した後に奄美に薩摩の出先機関が置かれたため薩摩系日本語が奄美で広まった。
周辺諸島には広がりきる前に明治時代を迎えたって事でいいんじゃないかな?
そもそも琉球方言だって古日本語が伝播して定着し、その後から漢語や新たな日本語が入ってきて変化してきたものだろう。
八重山の方言には比較的pの子音が多いと聞くが、畿内においても奈良時代以前はそのような特徴があったと聞く。
ま、それだけ距離があるって事だけどね。
- 69 :
- >>33
薩摩というと時代劇なら密貿易が定番w それはともかく・・・
新井白石が金銀の流出を嫌って、俵物の輸出を推奨したというのもよく知られた話です。
俵物というのは海産物の干物で、経済成長著しい清国で料理も発展して需要が高まったってやつですね。
中国との俵物貿易は表向き長崎で幕府が一括して行うものだったわけですが、薩摩は琉球経由で中国と交易してました。
白石の話ともちょっと関係しますが、元文丁銀(1736年より流通)は品位が低かったので、貿易決済の代金として中国側が
嫌ったのも薩摩が俵物交易をした理由の一つです。
なお、八重山産の煎海鼠(いりこ、干なまこ)は上質だったので、直接薩摩に納入されたとか。
- 70 :
- >>68
琉球文化圏の武力統一です
あなたの論理なら薩摩も隼人族の時代に日本に侵略された
熊本の熊襲族も日本に侵略された
東日本のアイヌ諸族も日本に侵略された
ということになる。
日本古語が伝播した×
日本古語を話す人々が沖縄に移住した〇
そのあと日本本土は言葉が激変した
沖縄は比較的古語が残った。
- 71 :
- >>70
ハヤトの一部勢力は大和に従い畿内移住やらどう言う訳か朝廷警護の仕事までもらってるw朝廷は太っ腹だな態度のでかい土人に待遇良過ぎ。
- 72 :
- ID:GtXfxZBQ
ドジン君
- 73 :
- あんたひつこすぎw
- 74 :
- >>70
蝦夷や隼人の武力征服は日本書紀だって認めているでしょ。
八重山や奄美への武力侵攻を棚に上げて「琉球は平和の海」「琉球は日本に苛められ続けてきた」と言うのが気に食わないだけ。
あなたの論だと琉球処分=日本文化圏の統一事業だよね?
>そのあと日本本土は言葉が激変した
>沖縄は比較的古語が残った。
方言周圏論については同意する。
- 75 :
- >>64
長崎新例での信牌交付ですら「徳川による華夷秩序」だと解釈して自国内で大騒ぎするような
頑迷固陋な清がそんなに大きく構えられる訳無いでしょw
大体、体面形式だけを重視する清は
琉球が薩摩の影響下にあるという厳然たる現実を何があっても認めたくは無いだろう。
- 76 :
- 戦国時代や帝国主義の時代に侵略したことが悪いとかバカじゃないのか?
弱いから負けて征服されたんだよ。
領土不拡大の原則が確立された後で他国を侵略したロシアや韓国ならともかく
侵略や戦争が当たり前の時代を現在の価値観で評価する方が間違っている。
- 77 :
- >>74
沖縄県民及び沖縄系の人は奄美や先島への武力統一を否定したことはないよ、このスレも他のスレもね、
日本文化と琉球文化は別です
日本には土着文化が3つある
アイヌ文化、日本文化、琉球文化、
南西諸島の言葉は方言ではありません
- 78 :
- ああ「沖縄はずっと平和の海だったから基地は要らない」って騒いでるのは内地から来た左巻きだけで、県民に罪は無いってことか・・・w
つか、日本文化との同一性を否定したがるのは琉独派の得意技だとばっかり思ってたわ。
- 79 :
- >>78
沖縄独立派が独立したがるのは文化の違いじゃないよ
- 80 :
- >>78
どうだろ。「昔は一緒だったかもしれないけど
今は違うよね」くらいの意識では?
沖縄人は沖縄文化を愛し誇りに思ってますから。
とはいえ、日本文化や他の地方の文化をバカに
したり、見下したりしてるわけではありませんが。
- 81 :
- >>78
「基地はいらないー!!!1!!」って叫ぶ人たちは、山田さんとか田中さんとか「お前どう見ても本土人だろ」って感じの人が多いらしいねw
- 82 :
- >>32
またおまえか・・・
ほんとになんにも知らんのだなあ
琉球は1602年から都合3回か4回徳川に侮辱を加えたのだ
これが薩摩が侵攻した直接の原因で、琉球史を真っ二つにする大事件だ
この程度のことは知っててもらわないと話にならんのだ
それでソースは確認してきたのか?
赤嶺の選書メチエだぞ
- 83 :
- http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/528245/
基地外行動は県民の自発的意思に見えるがw
- 84 :
- >>81
それってプロ市民でしょ!?
- 85 :
- >>82
またお前かじゃねえよ。駄法螺ふく暇があったら
ソースを提示しろって言っているだろうが。
この本に載ってますってのはソースの提示じゃねえんだよ。
とりあえずお前が言っている4回の無礼の部分の病者を引用しろや。
もう一度言うぞ、ソースを提示するってのは本の紹介じゃねえんだよ。
お前論文一つ書いたことないのか。
人様に本買わすよりもお前がもっている元本を引用した方が
早いし、そもそも挙証責任はお前にあるんだよ、
俺が薩摩は琉球人を10万害した証拠はこの10万円の
本に書いてあるから調べろと言ったらお前は買って調べるのか?
- 86 :
- >>83
基地外日本史教科書を採用しているのは、日本の学校ほとんどですから
日本人全員の意思ということですね。わかります。
さあ、朝鮮と中国の方に謝罪と賠償をしましょう。
と言われて納得できるタイプの人ですか?
- 87 :
- >>80
日本人も日本文化を愛し誇りに思ってますよ。
バカにしたり見下したりしてなくても自分たちだけが特別だという意識が言葉の端々から伝わってきますね。
- 88 :
- >>86
はは、すまそ。
もっとも、沖縄2大紙のおとなげなさとなんでもありで許されると思ってる風潮は、沖縄県民には
どう受け止められてんのかな。
まあリンク先文中でも、「あれだけ毎日不採択キャンペーンをやっても反対は6割。それが県民の
総意であるかのように報道する姿勢は問題」とあるわけだけど。
- 89 :
- >>88
いやまあ、別にあやまってくれんでもいいんだが。
あの2紙に関しては無視してくれ。
つーか、新聞の政治欄なんかまともに読んでいる奴は
ほとんどいないんじゃないかなあ。
3面、スポーツ、テレビ欄、そして何より大事な葬儀案内。
普通の県民はこれくらいにしか目を通していないように思います。
極論すれば葬儀案内だけには絶対目を通しますが(笑)
- 90 :
- とりあえず在日韓国猿は
- 91 :
- 沖縄人は左巻きナイチャーに煽られて今や朝鮮人と同じイメージだからな
哀れな沖縄人
- 92 :
- >>28
もしかして薩摩藩に侵略される前の琉球国から徳川幕府に友好使節が訪れて
琉球側から漢詩を読み合いましょうといったが
徳川側はいい漢詩が読めなかったのを逆恨みしたことか?
- 93 :
- > >>80
> 日本人も日本文化を愛し誇りに思ってますよ。
> バカにしたり見下したりしてなくても自分たちだけが特別だという意識が言葉の端々から伝わってきますね。
あなたがどんなトンデモ読解力を持とうが私の知ったことではありませんが、
他者をバカにしたり見下したりせずに、自分たちは特別という意識を普通は
「自我」とか「アイデンティティ」とか「誇り」というんじゃないですかね?
それを持つなと?どんなカルトにお入りで。
そもそも80は
>つか、日本文化との同一性を否定したがるのは琉独派の得意技だとばっかり思ってたわ。
↑に対するレスだってのは理解した上での発言かね?
- 94 :
- >>89
どっちにしろ本土での沖縄県民のイメージは、2紙の論調がそうなんだからそうなんだろう、だね。
まあ死亡欄が大事なのは全国共通w
そういや、地方紙が思った以上におかしくなるのは共同通信の影響が大きいわけだが、沖縄2紙
ではそこらへんどうなんだろう?
- 95 :
- そういえば沖縄の人は潮の満ち引きを新聞で確認するよね
お祝いや法事に潮が関係してるらしいよ
- 96 :
- 横槍すまん、どこを指してるのか明示して欲しいという意味で
>>85の言うことも分からなくはないが、10万の本云々は例えが違うと思うぞ。
検証の必要があるなら調べるだろ、10万だろうが、100万だろうが。
買うとは限らんが。
ちなみに赤嶺守の「琉球王国」は普通に図書館行けば多分大抵の所には
あると思うし、一応借りて読んだから、次に要約をのせておく。
- 97 :
- >>92
そんなことがあったのかw
- 98 :
- >>82の意味することはこれと思われる内容の要約。
前段として、関白就任時、秀吉は琉球に上洛(服従)を要求した。
秀吉への反旗は琉球の亡国の道として、琉球は使僧・天竜寺桃庵を派遣。
その後秀吉の朝鮮侵攻で戦局をうかがってた琉球は、朝鮮侵攻に対する
宗主国明国の軍事介入を見て、明国の属国保護に期待しするようになる。
朝鮮侵攻への負担を断るなど、明朝への属国意識を鮮明に打ち出していく。
>>82 は多分これ以降。
1602年冬、陸奥国に漂着した琉球船を家康は丁重に送還するよう島津氏に指示。
島津義久は琉球人の送還後、漂流者の送還を謝する聘礼使を送るよう催促。
その際、家康が島津氏に琉球人の送還を命じたのは琉球が島津の従属国だからだと
説明し、聘礼使の派遣は自ら従属を認めることになるからと拒否。
1605年にも琉球船が平戸に漂着
これも幕府は長崎奉行を通じて一行を帰国させ、さらに平戸領主松浦鎮信を通じて
前の件と合わせて幕府に謝意を表すように琉球国王に要求。
1607年、家康は再び薩摩に琉球の来聘交渉を促す、この時点で応じないと
聘礼使を派遣しない不義を大義名分に派兵。
ただ、この最終交渉で薩摩は、かつての明出兵の軍役を完納するか、
奄美大島の割譲かの二者択一も迫ったので、さすがに決裂、開戦。
薩摩の事情はわりと割愛したが、これでも書き込みとしては長いし、要約なので
大事な部分が抜けてるかもしれんが、本の7〜8P全文引用はさすがに無理なので
疑問があったら、図書館に返すまでは書いてくれれば私が確認するが、
最終的にはやはり自分で確認してくれ。
- 99 :
- ご親切いたみいるw
>>85
論文であれ普通の本であれ、出典として示されるのは書誌情報だけである
こんなことも知らんで吠えてんじゃどうしようもない
いちいち本文中に引用なんかしないし、できるわけもないんだから当然で
2ちゃんのレスならなおのこと、本文が長いの10分待てだの、やってられんのだ
おまえが論文どころか普通の本すら読めないということはよく分かった
嘆かわしいことではあるが、学力最低県なのでやむをえまい
だがまあそんなことで威張り散らすのはやめておくがよかろう
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