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震災後落ちつくまでの思いで


1 :11/10/29 〜 最終レス :11/11/21
放射能問題はまだ納まらないが・・・
震災の経験を風化させないために語りましょう。

2 :
立てた本人から
3月11日地震時、夜の仕事のため寝ていたところ、地震に飛び起きる。
なぜか、重い本棚を必死に押さえながら地震がおさまるのを待つ。
TVを付けて(停電はなかった)大地震と知り、昔TVで観た阪神大震災のことを思い出し「水を確保しなくては・・・。」と思い、
同居の両親に協力してもらい、風呂、オケ、ペットボトル、鍋など水の入るものかたっぱしから水道水を汲む。(ご近所さんすいませんでした。)
案の定水道止まるが、500リットル以上確保した。(今思うとご近所さんに本当申し訳ない・・・)
職場に電話しようとするが不通。いつもより一時間早く家を出るも、渋滞、道路通行止めにより普段15分でいく職場に2時間半かけて出勤。
職場には誰もいなかった・・・・。しかたなく職場を一人で軽く整理して家路につく。(帰りは一時間半で帰れた。)
超貴重なガソリンを無駄にした・・・・。
家に帰るとTVにかじりつき、原発の危機を知りgkblしてた。

3 :
再び立てた本人
二日目、同居の両親と話して原発のこともあるから外出は控える、食料は少なめに消費するなど話し合う。
電話、メールともに不通。親戚の安否は不明のまま。TVばかり見て一日過ごす。
避難も考えたが道路事情、ガソリンの残量の問題も有り保留。
三日目、離れて暮らす兄弟とメールで連絡できた。
正直震災前、兄弟仲は悪かったのだが、この時ばかりは互いに心配する内容だった。
四日目、兄弟と電話できた。泣きながらお互いの無事を喜ぶ。
「まだ回線不安定だし、みんな電話使いたいから回線使い続けるのはよくない。」と惜しみながら早々に電話を切る。
続いて職場の上司とも連絡、しばらく休業、再開時期不明と言われる。
何日目かは忘れたが、ストレスがピークになり、周辺の状況を自分の目で確認したいと思い外出を決断。
帽子、マスク二重、手袋二重、普段以上の厚着で自転車で外出。
人通り、車普段よりずっと少なかったが、出歩いてる人はみな軽装、マスクもなしで驚いた。
徒歩の人、手にペットボトル、鍋、ポリタンクなどを持ち、給水に向かう様子。店はコンビニも含みどこも開いてなかった。
途中「救援物資運搬中」と大きく書かれたトラックが信号待ちしてたので帽子を脱ぎ、深く頭を下げた。運転手驚いて苦笑いしながら手を振ってくれた。
異常な行動だったか?

4 :
まだ何も終わっちゃいない
フクシマはまだ終わってない
現在進行形だ

5 :
う〜ん、レスがないな・・・。
「3月10、11日午前なにしてた?」ってスレが、なかなかいいはなし集まってたんで、
当日、前日ではなく、震災後の泣けるいいはなし聞きたいと思い立てたんだが・・・。
放射能問題はもちろん継続中だが、地震直後の混乱時、物資不足時のはなしを聞きたいのだが・・・。

6 :
首都圏の人間にとっては、今はまだ非常事態のフェーズ2くらいだから、思い出になっていないんじゃないかい?
生活空間で0.30マイクロシーベルト/h以上あるような、人間が継続して住むことのできない地区
また、そのようなホットスポットから飛散してくる放射性物質の内部被曝をいかにして防ぐか
といった、生残をかけた戦時状態にあるわけなので…

7 :
いくら継続中と言っても人の記憶は薄れ書き換えられて行くもの。
震災当初の話の集積をするのは良いことだと思うけどな。

8 :
必死な思いで都心から磁石を頼りに南西に30km歩いて、何とか帰宅したな〜
途中は停電して真っ暗なエリアもあったが、にちゃんで情報のやり取りしながら
現状や安全なルートを見も知らぬにちゃんの誰かに教えられ、何とかなった。
あれ以来にちゃんねるは、自分にとってけっこう信頼できるメディアとなった。

9 :
>>8
そういう話が聞きたかった。ありがとう。
ところでなぜ磁石を持ってたの?どこかで買った?

10 :
知り合いの話
地震後仕事が休業状態で、暇だし、非常時だから人の役に立ちたいとボランティアに行こうかと思ったが、
「一人では心細い」と友人を誘うがみんなに断られ、ボランティアを断念。
一人でも行く気概はないのか?と断った私が言う。

11 :
11日、地震の後子供を学校に迎えに行く。
一人暮らしの親戚のおばあちゃんを指定避難所に連れて行ったけど、津波が無い地域だったからかどこも稼働して無かった。
どうにか一ヶ所稼働準備してた所におばあちゃんをお願いして帰宅。
余震を警戒して暫く車内にいたけど日が落ちる頃に家に戻った(新築だったから家でダメならどこにいても同じと思った)。
水道とガスは止まらなかったけど、念のため水を確保しつつ火を使わない物で食事を済ませ早めに就寝。

12 :
12日、原発から60キロ圏内だったから必死に情報収集してた。
でも外出は控えてた。
10年振りに鍋で米を炊いたんだけど、余りの美味しさに感動した。
原発が爆発した後、夕方にラジオで「皆さん、こうなってしまった以上、自分の責任で自分の命を守って下さい」と言っていたのが印象的。
で、とにかく情報が必要と思いワンセグの電波が入る所まで情報収集に出かけた。
丸1日ぶりにみたテレビで事態がより深刻な事を知らされた。
その後は帰宅して家の全ての換気口や窓をガッチリ目張り、以降2週間完全に籠城。
私は何度か情報収集と買い出しに出かけたが、子供達は一歩も外に出さなかった。
電気が復旧してからは一酸化炭素中毒を警戒して、調理は全て電気で済ませた。
籠城は大袈裟だ、って近所の人に笑われたけど、今となっては正しい判断だったと思っている。

13 :
俺夜勤だから朝帰るけど爆発して一週間ぐらいは朝の交通量が少なかったな、日曜日の朝並みだった。夜は街頭や家の電気が消えてて閑散とした雰囲気、みんなどっか行ってしまったのかと思った。@埼玉

14 :
>>9
山登りが趣味なので。その一週間前からなんとなく、ほんとになんとなく理由もなしに
方位磁石とヘッドランプ、携行食と飲料を鞄に入れて、登山靴履いて通勤していた。

15 :
>>14
答えてくれてありがとう。不幸中の幸いでしたね。
>>13
福島市でも、停電はしてなかったが、どこも休業で夜すごく暗かった。
夜空がキレイすぎてびっくりした。

16 :
@仙台
あの日、日が落ちた中、避難所の小学校の体育館へと向かった。
道すがら空を見上げると、仙台に暮らし今までで一番きれいな見事な星空が広がっていた。
この大地震が千年に一度の大地震なら、仙台でこの星空を見ることができるのも千年に一度だね〜
などと友人と話しながら歩いた。
同じこの星空を見ているいろいろな土地のいろいろな人達それぞれに、今日一日のそれぞれの出来事があって、それぞれの嬉しいこと悲しいことがあったんだな…とか考えながら歩いていたら涙が出た。

17 :
@仙台2号
あの時、勤め先の工場にいた俺は突然の揺れに驚いたものの、先輩と
「これは震度4すかねーw」
なんてふざけ合っていた。
直後、震度4の前震から震度6強の本震へ。
工場全体がわななくように揺れ、何かが落ちたり倒れたりする音、誰かが叫ぶ音、そして建物自体の
悲鳴で全ては満ちた。
一瞬で頭が真っ白になった俺は、頑丈な二段式台車の下段に文字通りジャンピングダイブを決め、
呆然としながら激しく揺れる天井を見上げた。
収まらない。揺れが収まらない。工場の限界はどこだ。もう駄目なのか、俺はここで終わりなのか。
本気で死を覚悟した。

18 :
@仙台2号ー2
その時、同じように台車の下に隠れていた先輩が、外に向かってダッシュするのが目に入った。
まだ激しい揺れは収まる気配を見せない。
「外に出るまで無事でいられるかわからないが、このままでは確実に死んでしまう。」
そう思った俺も出口へ走った。
凄まじい揺れの中、這うように腰を低くして、とにかく走った・・と思うが、気がついたら外に出ていた。
外に出ると、何の事は無い、俺が逃げ遅れて一番最後だった。
直後に揺れが収まり、被害を確認しようと工場の中に入りかけたが、激しい余震でそれどころでは
なかった。
工場は倒壊を免れたが、中には入れない。
おまけになぜか突然吹雪いてきた。みるみるうちに、駐車場の車が白く染まり、積もっていく。
工場の軒先で従業員全員が、地震の恐怖と寒さに震えていた。

19 :
@仙台2号ー3
俺は愛車のナビがワンセグ搭載というのに気づいて乗り込んだ。
ワンセグなんて買った時に写りを確認したくらいで、まともに見たのは初めてだ。
工場は電波の都合でNHKは見られず、例の津波空撮は見られなかった。
代わりに見た民放では
「お台場のテレコムタワーが炎上中・・・」
など東京の話題が多く、何が起きてるのかよくわからなかった。まさか東京もやられたのか。
画面が切り替わり、気仙沼や釜石が津波に飲まれていく映像が映し出された。定点カメラが
生きているらしい。
仙台の映像も入り、JR仙台駅屋上の駐車場で、車が激しく動いたのか乱雑になっていたり、
仙台のシンボルタワーの一つ、SS30のアンテナが折れているのがわかった。
ようやく入れるようになった工場の事務所に取って返して報告するが、どうも様子がおかしい。

20 :
@仙台2号ー4
どうやらとてつもない大災害らしいと俺にはわかったのだが、実際テレビもラジオも
停電で使えず、直に情報を確認していない上層部は、状況を飲み込めていなかった。
どうも停電さえ直れば操業を再開するつもりらしく、携帯電話で連絡を試みている。
30分ほど待機した後でようやくあきらめたのか、
「本日は停電だし暗いしこれで解散。明日は休みだから、明後日日曜日に出社して、
後片付けはその時やろう」
という通達が出た。
しかし、そんな呑気な事でいいのだろうか・・・社員の中には沿岸部に住居を構えている
者もいるのだが、上層部は工場の事しか頭に無いようだった。
同じ工業団地内の他の工場はもっと頭の回転が速いらしく、工場の前は帰路を急ぐ車の
渋滞が始まっていた。

21 :
とりあえずここまで。
長くなるから、反響無ければここで終わりにします。

22 :
>>21
いや、興味深く読みました。続きをお願いします。
@仙台市青葉区
※自分は自宅二階にいて、地震の間は猫と一緒に何も倒れてこない壁際で
すごしました。

23 :
>>21
自分は11書いた者なんですが、実は仙台出身の福島県在住です。
あの日津波や火災に飲み込まれる故郷をワンセグで呆然と見ていました。
次第に原発問題でこちらも忙されましたが、仙台の空撮を見た時の衝撃は今も忘れられません。
そして仙台の情報を少しでも知りたい気持ちは変わりません。
よろしければ続きをお願いします。

24 :
仙台2号さん、差し支えなければ続きをお願いします。
自分はオロオロして何もできなかったから後学のために他の人の行動や地域の様子が知りたいです。

25 :
2号さん、是非とも続きをお願いします。
読みたいです。
自分は青葉区の自宅マンションで、東京から遊びに来ていた友人といっしょにいたときに地震がきました。

26 :
>15本当異様な感じできたね、夜空はめちゃくちゃ綺麗だったのにね

27 :
では、今夜も遅いので少しずつですが、続きを書きます。
@仙台2号ー5
工場で解散命令が出た直後に、陸自のヘリが飛来した。
時折吹雪くような悪天候の中、危険を冒しての低空飛行だ。
周辺の被害状況を偵察しているのか、この工業団地を一通り見て回ると何処かへ飛び去った。
愛車の雪を払い(そう、地震直後の短時間でこんもり積もるほどの雪が降った)、渋滞している
道路への合流は比較的スムーズだった。
まだ震災発生から1時間ほどだったが、近くの大和駐屯地からだろうか、早くも出動した陸自の災害トラック
と出合った。
その頃津波で多賀城駐屯地が襲われ、出動不能となったのを知るのは後日の話である。
丘の上にある工業地帯から降りると、交差点で1台の軽自動車が事故で放置されていた。
運転手の姿は見えず、事故からそれなりに時間が経過しているようにも見えるが、警察の気配は無い。
その交差点にあるセブンイレブンでは、事故なぞお構いなしで買出しの行列が既に伸び始めていた。

28 :
@仙台2号ー6
直後に、その地域では大きな県道にぶつかった。
ここで選択を迫られる。
@県道に曲がり、さらに国道に出てひたすら大きな通りを進む。ただし大渋滞間違いなし。
A海には近づくが、裏道を突き進む。
TVで仙台市中心部に近づくにつれ渋滞がひどくなる事はしっていたので、Aを選択した。
津波が来る、あるいは来ている事は百も承知だったが、津波の来そうな地域をかわしながら
進める裏道に自身があったからだ。
しばらく郊外の住宅地(宮城野区新田)へと向かって進む。
途中に古い橋があるので心配だったが、どうにか落橋も無く通行可能だったので、新田に出る。
そこからは一旦海に向かって一直線だ。
この陸橋を超えると国道45号、そして産業道路という地点で、海と並行に走る細い県道へと
進路を取った。
もしそのまま産業道路に向かっていれば、津波に巻き込まれていた可能性があったと知ったのも
後日の話。

29 :
@仙台2号ー7
細い県道をひた走ると(そう、思惑通り渋滞には合っていない)、宮城野区福田町で
国道45号との交差点に達した。
交差点近くでは宮城県沖地震の警告を無視した、鉄筋無しのブロック塀が倒壊している
ところが散見され、古い納屋の中にも全壊しているものが見受けられた。
45号との交差点で、ようやく大きな異変に出会う。
国道が大渋滞なのはわかるが、歩道もまた人の波。
そして皆、毛布やペットを入れたケージなど、大事そうに抱えて海側から仙台市中心部に
向かって歩いている。
どうやら避難民らしい。
ただ、その時の俺には、避難民達が逃げてきた方角での惨劇はまだ知らない。
裏道を抜けるためにワンセグをカーナビに切り替えていたためもあり、代わりにつけたラジオは
マグニチュードが当初の7クラスから8クラスへと拡大した事を知らせていたが、津波被害に
ついては詳しく話されていなかった。

30 :
@仙台2号-8
45号の交差点は、思いの他簡単に通過できた。
あまりの大渋滞で車が進まないため、交差する道路の車にとっては障害にならなかったからだ。
かといって、交差点の真ん中を塞ぐ車もおらず、非常事態下でありながら、避難のマナーは完全に
守られていた。
そして俺は福田町を抜け、あちこちで倒壊したブロック塀を避けながら細い路地を縫うように走った。
途中のコンビニはいずれも長蛇の列で、今更並んだとて何が買えるとも思わない。
途中、梅田川とおぼしき橋の上を通過した。
チラリと川面を見ると、何やら荒れ果てた雰囲気で、ここまで津波が遡上した事を知る。
どうやらこのへんがギリギリの安全地帯なのか。
愛車はやがて、扇町という産業地帯に達した。
産業道路を含む、幅広い道路と、数多くの大中小事業者が立ち並ぶ街だ。
普段なら産業関連のトラックや営業車が数多く行き交い、そこも避難の車で渋滞しているに違いない。
ところが。
扇町には、なんと人っ子一人いなかった。
愛車のエンジン音だけがむなしく響く他、車が全く走っていない。気味が悪い。
既にみんな、逃げた後だったのだ。
そして一旦仙台市中心部方面に進路を取った俺の後方僅か数百mでは、実は津波が荒れ狂っていた。
知らぬが仏と言うやつだ。

31 :
@仙台2号ー9
産業道路を中心部に向けて走ってみたものの、このまま国道4号バイパスにぶつかったのでは
渋滞は免れまい。
そこで俺は途中で南に進路を取り、いよいよ海とのギリギリの線を走る事にした。
最終防衛線として仙台東部道路がある。
高架ではなく土盛り式の高速道路だから、堤防の役割を果たすに違いない。
その陸側を走れば津波は大丈夫だ。
その時の俺は、そう信じていた。
南に進路を取ってすぐ、荒井という場所で俺は渋滞にでくわした。
4号バイパスに逃げる車だ。
俺はその逆方向、海に向かって走った。
ひたすら、仙台東部道路を信じて。
東部道路に達すると、ガード下では消防団が通行止めを命じていた。
そこまでは予想の範囲内だ。さすがにそこから海に向かおうとは思ってない。
通行止めの場所から脇道に入り、東部道路を左に見ながら農道の南下を始めた。

32 :
その辺やばいやんか

33 :
@仙台2号ー10
東部道路沿いに南下する農道はさすがに狭く、すれ違う車でやや混みあっていた。
すれ違うたびに車を止めたり徐行したりするのだが、その頃から余震が激しくなり、
車が凄まじく揺れる。
激しいのになると、ハンドルにしがみついていないと座席から振り落とされそうな勢いだ。
そして路面の亀裂もひどくなり始めた。
ふと見ると、農道の用水路にかかった貧相な橋の中には、叩き割られたように崩壊している
ものや、激しくせり上がり、普通の車では渡れないものも出てきた。
それでも南下していた車列は、あるところで停止を余儀なくされる。
向こうから走ってきた泥だらけで何かゴミのようなものをまとわりつかせたジムニーが、
「引き返せ!」
とジェスチャーで示している。
その頃、ラジオでは福島第1原発が津波による電源喪失とディーゼル発電機の故障により、
原子炉が冷却不能になったと伝えていた。
しかしこっちはそれどころじゃない。
なんだ。一体何が起きているんだ。俺は早く帰りたいのに。
余震と原発の冷徹な事実、そして農道がいつまで通行できるかわからないという焦りで、
俺は判断力を急速に鈍らせていた。

34 :
@仙台2号-11
車列のほぼ最後尾にいた俺は、バックして体制を整えた。
今思うとバカな話。
そこからもっと海側の集落の道が通れそうだと判断したのだ。
とにかくその時の俺は、いかに渋滞にハマらずこの状況から脱するか、しか考えていなかった。
当時1時間くらいウロウロしたと思っていたが、後から言ったらどうも狭いトコで10分ほどウロウロした
だけらしい。
ともかく俺は集落に向かった。
集落に向かう農道にはなぜか車が何台も止められていたが、俺はただ先を急いだ。
そして、俺の前にいた車が、集落の住民に止められているのを見て、俺の苛立ちは頂点に達した。
一体なんなんだ?

35 :
ドキドキしてきた…
まさにリアルだ…

36 :
@仙台2号ー12
ひとしきり苛立つと、なぜだか急に頭がボーッとして、緊張感が無くなった。
ぼんやりとして、全く無警戒に周囲を眺める。
田んぼには水があった。
その頃は晴れていたが、雪が結構降った後だし、溶けた水が溜まっているんだと思った。
では、
「その水が動いているのは、なぜだろう」
妙に緊張感の失せた目で、俺は内陸に向かって流れていく水を見ていた。
ボーッとしていた目には、何かが混ざった黒い水が、ジワジワと田んぼの水かさを上げているようにも・・・
馬鹿野郎!!津波だ!!!!!
一瞬で現実に引き戻された俺は、ギアをバックに叩き込むと、アクセルを床まで踏んだ。
生まれて初めて、バックギアでアクセル全開走行。
後ろで様子を眺めていた車も、淡くってUターン始めるのが見えた。
先にいた車、止めていた住民がどうとかは、頭に無かった。
ただ、逃げる事しか頭に無かった。
冗談じゃない、こんなとこに津波が来るなんて!
後からわかった事だが、沿岸部の東部道路の中で、そこが唯一土盛りではなく高架構造だった。
津波はそこを突破して住宅の床下まで迫り、俺のいた農道はその後全く冠水したらしい。
ともかく、俺の見た津波は単なる波とか水とかそういうんじゃなかった。
水かさは少なくとも、「黒い海の悪意」そのものだった。
海水というより、まるで触手のようだった。
俺が出くわしたのは、その触手の先端だった。

37 :
支援

38 :
@仙台2号ー13
生まれて初めて見た津波は、チョロチョロした先端の流れでした・・・・
なんていうと、人は俺をバカにするかもしれない。
だが、あの津波には、明確な「意志」というか「悪意」が感じられた。
俺はものすごく怖かった。
何もかもあきらめた俺は、辛うじて橋が生きている用水路を越えて、亀裂が入り半壊した
畦道を突破して内陸側に一目散に車を走らせた。
とにかく、海から1cmでも離れたかった。
目指す先には南に向かう市道の渋滞の列が見えたが、たとえ渋滞にハマってもそこまで
行けば大丈夫だと信じ、事実その通りになった。
あとはひたすら渋滞に耐え忍び、若林区沖野まで南下し、県道から国道4号バイパスに向かった。
途中の小学校では既に避難者の受け入れが始まり、不安げな顔の住民が行き交っていた。

39 :
>>32>>35>>37
ありがとう。しかし明日も仕事だからもう一つ二つ、帰宅するとこまでで今日は終える。
@仙台2号-14
沖野で県道にぶつかる交差点では、県道に入るのに少し時間がかかった。
その県道から東部道路の奥六郷は津波に飲まれ、手前の六郷も危ない。
逃げる方が必死で、一応安全地帯の俺達の車列は、勢い六郷方面からの車に譲りがちに。
県道に乗りさえすればあとは比較的スムーズに進んだのだが、ここでようやく電話が通じ、
家のオフクロの無事を確かめる事ができた。
俺の電話はウィルコム。
首都圏じゃウィルコムは災害でも通じて便利な電話と評価を高めたらしいが、俺に言わせりゃ
とんでもない。
ウィルコムの基地局のほとんどは家庭用電源で稼動していて非常用バッテリーも無く、震災の
停電と同時に通信網はほぼ100%ダウンしていた。
俺の電話はドコモの3Gで通信もできるタイプだったので、メールはWEBは途切れ途切れながらも
利用できたが、音声通信は全くダメだったんだ。
沖野で通じたのは、どうやらたまたま家庭用電源ではない基地局があったかららしい。
それではとウィルコムのPHS通信も試してみたが、これはダメだった。
通じないのではなく、メッセージを読む限りサーバーがアウトらしい。
ウィルコムのサーバーは仙台にあり、震災の直撃を食らったというのは後日聞いた話。

40 :
>>38
文章うまくて、引き込まれるね。
どうして海側を目指して運転してたんですか?
帰宅のため、ですかね。
自分は沿岸部には怖くてまだ一度も行ってません。
見ておくべきという話もあるようですが、メンタルが弱いのでショックを受け
て落ち込むことがわかっているので行かない方が自分のためかと思い。

41 :
お疲れ様。リアルな話有難う

42 :
@仙台2号-15
沖野から国道4号バイパスとの交差点に差し掛かったところで拍子抜けした。
信号が動いてるじゃないの!
災害時対応信号では無いはずなので、どうやら宮城県警が頑張って非常用電源で動かしたらしい。
それでも4号バイパスは普段でも渋滞するとこなので、バイパスには入らず旧4号へ、河原町から
長町方面へと向かう道に向かった。
その頃はもう真っ暗なので、事実上車のヘッドライトやテールライトだけが頼りだ。
長町の旧4号に差し掛かったところで、前の車が軒並みスローダウンするポイントがあった。
もう少しで家なのに、なんだよ・・・と思いつつ俺も差し掛かると同時に、愛車がストーンと落ちた。
長町の旧4号は、あちこちで路面の陥没や隆起が起こり、マトモに走れる状況ではなくなっていた。
文字通り山越え谷越えという状況で旧4号を走りきると、ようやく帰宅する事ができた。
家の前に立つと、明かり一つ無い夜空に星がキレイだった・・かどうかは、正直覚えていない。
街の方角を見ると、唯一トラストタワーのみが八木山も越えた向こうで、煌々と明かりを照らしているのが
見えた。
さすが金持ち向けのホテルは違うな・・・などと考えていると、北東の空が赤く染まった。
仙台港のコンビナートが爆発したと、ワンセグTVが伝えていた。
これから一体どうなるのか、何もわからなかった。

43 :
>>40
選択肢として海側の裏道と山側の裏道を考えたんだけど、
山側の裏道は土砂崩れが予想され(後日確認したらその通りだった)、なおかつ
どうしても途中で4号バイパスを通らざるをえないルートだったので、海側を選んだ。
海側なら、津波の予想されるルートさえ回避すれば少なくとも土砂崩れは無いだろうし、
津波が来るかどうかギリギリのルートなら車も少ないと考えたから。
>>41
ありがとう。
当時を思い出しながら書いてるんだが、今思い出しても恐ろしい。
夢にまで出ないのが幸いで、俺よりもっとひどい目にあった人のPTSDは相当なもんだと思う。

44 :
さて、今日はこれで終わりにします。
明日の夜までよほどひどい反響が無ければ、また書きますね。

45 :
最後に一つ。
海側を選んだ重要な理由の一つが、先にも書いた通りウィルコムの電話が完全にダウンして、
家のオフクロとの連絡が全く取れず、安否が気遣われた事。
何より肉親の無事を確かめたくて、俺は家路を急いでいた。
多少リスクを負ってでも、少しでも早く帰れる道を選んだんだ。
だから、なかなか解散命令を出さずズルズルと時間ばかり潰す工場には、猛烈に腹が立った。

46 :
家を流された宮城の被災者だ。今は山形にいる
とりあえず迅速に20mぐらいの高台に逃げたけど来たのは高台よりさらに10m高い津波だった。
そりゃもうおったまげたね。もし高台に残ってたらのんきにここで※してる俺は存在していなかったかもね。
家流されたから合格決まっていた大学やめて就職しようとしたけど、親がなんとか踏ん張ってくれた。
俺の親孝行のハードルを一気にあげやがった…どんなにお礼を言っても足りないよ

47 :
2号さんありがとう。
お疲れ様でした。
震災1ヶ月後、一度だけ東部道路を通ったのだけれど、そのときに見た津波跡の光景に愕然としたのを思い出しました。
あるはずのないところにある船や、田んぼの隅に溜まった大量の瓦礫を見て、なぜか無性に腹が立って仕方がなかった。

48 :
以前南帆海房に住んでいて、浜街道が通勤コースだっから、あの光景は耐えられなかった。
途中にいた馬達…無理だろうな…

49 :
>>45
乙です。自分もウィルコムユーザー。震災のときはほんと腹立たしかった。
他のユーザーがメールだけはできる中で、ウィルコムはメールすら送受信できな
いので、死んだんじゃないかと思われていたらしい…。
お母さん無事で本当によかったですね。

50 :
>>46
親御さんがくれたこのチャンス、大学で思いっきり勉強してください!
大きな困難を乗り越えた経験がきっとこれからのあなたの糧になりますね

51 :
>> 46 立派なご両親だよね。
勉強、大切だもんなぁ… な、親より先に絶対死ぬなよ。それだけで、ご両親は幸せなはず。
お互い、この時を乗り切ろうや。

52 :
>>50
>>51
ありがとうございます!
人一倍努力します。
父ちゃん母ちゃんが汗水流して与えてくれた4年間を無駄にしちまったら…
親も悲しむし、なにより俺のメンタルが耐えきれないよ。

53 :
>>52
行きたい大学に行けることになって、本当に本当によかったね!!!
親孝行なよい息子さんを持って、ご両親は幸せだだよ!!
ほんと頼もしい若者よ、ムリせず、でもガンバレ。

54 :
仙台2号さん、ありがとう。
出て来る地名が全て分かる…。
宮城野区も若林区も太白区も、若い頃過ごした場所が沢山有る。
私の記憶の中の風景は、未だに震災前のままだよ。
あの時、仙台ではそんな事が起こっていたんだね…。
>>52さんみたいな若者がいるなら、日本はまだまだ大丈夫だ!
大学、大変かもしれないけど頑張って。

55 :
ゆうべは急に飲みが入ったもので書けなくてすまぬです。
また今夜書きます。
>>49
ウィルコムは停電回復と同時に使えるようになったので、ほんとわかりやすかった。
震災翌日には仙台市中心部に電源車が入って停電が一部回復したっていうので、
さらに翌日日曜に仙台駅前まで車走らせて、そこから電話した。
あと光ファイバーもアウトで、ひかり電話も軒並みダウンだったね。
これは停電が回復しても光回線がなかなか回復しない事もあり。
俺はNTTの営業もした事あるので、法人の客には絶対1回線はアナログ回線残す
ように言ってたのだが、当時勤めてた工場はオール光回線で電話全滅w
>>54
上げた地名の中で、奥六郷以外はほとんど昔のままだよ。
ただ、長町一丁目とか長町南は地下鉄直上なもんで道路の隆起が激しく、今でも
ウネウネが完全に直ってない。市立病院や五橋のNTT前は今でも夜間車線規制で
復旧工事してるよ。

56 :
@仙台
いまだにADSLの我が家は、地震翌日朝に避難所から戻ってきたときから固定電話が使えました。
災害時の停電を考えて光にしなかったので、それがやはり役立ちました。
普段はサクサクいかなくてイライラするんですけれどね^^;

57 :
@仙台2号ー16
帰宅してみると、当然電気はついていなかったが、庭の足元灯だけは太陽電池で生きていた。
そして意外な事に、水道だけは生きていたので、トイレに困らなかったのが救い。
電気とガスが止まっていたので、オフクロが物置から古い反射式ストーブを出していた。
しかし、何年も使う事無く放置されていた反射式ストーブは芯がシケっており、頼りなく
ブスブスと燃えるのみ。
(これは翌日、芯を天日干しする事で解決した)
これでは湯も沸かせないなという事で、カセットコンロも出した。
幸い、物置を漁るとカセットボンベは5本ほどあり、当座には困らないようだ。
夕飯にはオフクロが近所のコンビニで買ってきていた弁当があった。
震災直後、近所のオバサン達と急いで買いに行ったらしい。
非常時のオバサンは強い。
明かりは懐中電灯があったが、単1電池の買い置きがほとんど無いため極力温存し、
ローソクをうどんの丼に刺したものを何個か用意して、持ち歩き便利&倒れても大丈夫仕様とした。

58 :
@仙台2号ー17
余震が相変わらず激しく、そのたびに火を消しながらではあったが、カセットコンロで沸かした
湯でコーヒーを飲むと、どうにか落ち着いた。
ドコモの3G回線が途切れ途切れながら通じるので、mixiやブログでとりあえずの無事を報告する。
twitterもチェックしたが、全く混乱している上にやたらと救助要請が並んでいる。
中には土地勘もあり、車で行こうと思えば行けない場所では無いものもあったが、果たしてそこまで
たどりつけるのかもわからず、まずは自分の足場を確認するしか無いとあきらめた。
情報入手は家にあった携帯ラジオがメインとなったが、東北放送ラジオは妙にノイズが入る。
後日知ったところでは、沿岸にある荒井送信所が津波被害でダウンしていたようだ。
それでも我が家は八木山かどこかの電波で受信できたが、泉区の中山の方などは全く受信できず。
ノイズ交じりの東北放送ラジオは、津波に襲われた南三陸町志津川からの、メールによる悲鳴を流していた。
「志津川は・・・・無くなりました。病院の4階まで津波に襲われ、町役場も全滅、隣の防災庁舎の屋上で、
町長と何人かが孤立しています。」
志津川は昔よく仕事で行った場所だ。
目をつぶれば町並みが頭に浮かぶ。
それが無くなった・・・・・?
信じられないと思いつつ、車に戻って唯一の映像情報であるワンセグをつけた。
そこに写っていたのは、陸上自衛隊機による気仙沼炎上ライブ映像だった。
気仙沼も仕事で何度も行って、友人知人もお客さんも何人も・・・
何か自分の帰り道に見た物以外の全てが滅んだのでは無いかという暗鬱たる想いに襲われ、余震の中
ヤケグソ気味に眠りについた。
思えば震災当日に暖かい布団で眠れるというのは幸せだったのだが。
そしてその頃、福島県浪江町に住む親戚は、ロクな説明も無く、どこに行くかも知らされないまま、バスで
緊急避難の途上にあった。
もう帰れないなどとは夢にも思わず。

59 :
@仙台2号ー18
翌朝は余震で目が覚めた。
何年ぶりかでオフクロと一緒の部屋で寝たもので、自分の部屋の被害状況を確認していなかったが、
以外にも物が多少散乱した程度で済んでおり、手回し充電式のラジオつき懐中電灯という便利な物を
掘り当てた。
これには携帯電話の充電機能もあったので、オフクロのドコモ携帯を手回しで充電しつつ、コンロで湯を
沸かして朝食の準備。
カセットコンロは我が家には2つあったので、同時稼動で湯を沸かしつつフライパンで料理をするという
芸当も可能だった。
(こういう事もあるので、カセットコンロは2台以上あるといい)
我が家の被害状況は全くの軽微で、電球の傘一つに皿が何枚か、それに庭の灯篭が倒壊したくらい。
灯篭については、石を固定しなくてはいけないところ、庭師が手を抜いてたらしい。
ご近所の情報も入り始めたが、震災直後はとにかく周りの家からアパートから、人がワラワラ飛び出した
そうだ。
裏のアパートの若い女性がパニックになっていたので、近所の1人住まいのオバサンが引き取って寝場所と
食事を提供していた。
我が家の周辺では、少なくとも旧来のコミュニティがまだ機能しているらしい。
近所の仙台市水道局は昨夜俺が帰宅した頃には、既に職員や業者も集まり復旧出動準備を整えていたが、
翌日は朝から給水が始まっていた。
我が家は相変わらず水道に支障は無いので給水に行かずに済んだが、周り一体がそういうわけでもなく、中には
水が出ない家もあった。

60 :
@仙台2号ー19
朝食を取り家の状況を確認した後で、オフクロは近所のスーパーに買出しに出かけた。
車で送っていったが、店は中に入れず店頭販売のみ。
それでも数百人が黙々と並んでいた。
首都圏では暴動寸前の様相で止む無く店を開けたスーパーもあったらしいが、少なくとも
仙台のスーパーではそのような話も無く、皆黙々と並んでいた。
俺はその間にシガーソケット式充電器でウィルコムPHSの充電を行いつつ、近所を見て
回った。
仙台市太白区長町近辺は、道路の亀裂や隆起を除き、大きな損害は無いようだ。
JR長町駅近くでは、緊急停止した東北新幹線が放置されていた。
見ると、長町一丁目にある店・・・何の店だか、ジムのようにも見えるが・・・では、元気に便乗商売?が
行われていた。
オニギリ200円とか、洗濯500円とか、その他諸々。
元気な客引きじみた男までいたが、この事態で高い金を取るというのはさすがにどうかと思った。
近所を一回りしたところでガソリンが心配になってきたので、近所にある「震災対応」スタンドに行って
みたが、閉まっていた。
何が震災対応だ。
後から考えれば、要するに在庫切れだったんだろうが。
ちょっと足を伸ばすと、普段は見向きもしないような小さくオンボロのスタンドに行列ができていた。
どうやら自家発電か手動ポンプかわからないが、営業しているらしい・・・が、2時間半ほど並び、
日没と同時に閉店となった。
俺の順番までは、あと5台ほどだった。
これで愛車のガソリンはもう無い。
さて明日からどうするか。

61 :
@仙台2号ー20
ガソリンスタンドの前に、近所の親戚の様子を見に行ったのが先だった。
親戚の家は太白区役所の近くにあるんだが、築数十年でさすがに外壁が崩落していたので、
とりあえずガレキを撤去した後で、我が家から持ち込んだブルーシートとガムテープ、それにビニール
紐で応急処置を施す。
内壁は生きてるので、まず夜の寒さはこれでしのげるだろう。
親戚の家は水道も止まっていたので、俺が持っていた水タンクに我が家で水詰めて置いていく。
オフクロはスーパーでの買出しから戻ってきたが、煎餅とかポテチとか、そんなのだけ。
スーパーもそれほど物が無い状況らしい。
夜になり、ガソリンのほとんど無い愛車は、たまにワンセグ見るためにエンジンをかけた。
停電2夜目も、状況がよくわからないまま過ぎる。
そうそう、この日は近所で生イカの特配が出た。
ご近所に水産トラックの運転手がいるのだが、震災で高速も通れないし燃料も無いので、
首都圏に持っていくはずだったイカの輸送を断念し、近所に配る事にしたらしい。
とりあえず新鮮なうちにお刺身でいただく。甘くて美味。

62 :
@仙台2号ー21
震災3日目(3月13日日曜日)の朝も、元気に余震が鳴っており、そろそろ慣れてくる。
そういえば昨夜のラジオで、仙台市中心部に中部電力だかの応援で電源車が入り、
仙台駅前など一部停電復旧したとの知らせがあった。
行ってみようか。
その前に、日曜に工場に全員出社し、後片付け・・・という話が出ていたのを思い出す。
停電が続いているが、工場はどうなったかなと、行って見ることにした。
通勤に使う愛車のガソリンは尽きていたが、実は俺は車を何台か持っているのだ。
うち1台のガソリンが比較的豊富だったので、例のラジオつき懐中電灯を抱えて車に
乗った(通勤用の車以外のラジオは不調)。
国道4号バイパスは信号も点灯しており、比較的スムーズに走れたと思う。
倒壊しかけた建物も見受けられたが、沿道は目に見える被害もそれほど無い。
ただ、利府街道に入ると、東北新幹線の架線柱があらかた傾いており、容易に復旧できそうに
なさそうな。
そして利府街道はひどい渋滞。
仙台市宮城野区から利府町に差し掛かるあたり、七北田川にかかる橋が隆起したのか、はたまた
道路の方が陥没したのかわからないが、ひどい段差で徐行で無いと通過できないのが原因。
ちなみにこの段差は余震のたびにひどくなり、いくら応急処置してもお手上げで大渋滞というのが
しばらく続く。

63 :
@仙台2号ー22
利府街道の渋滞をどうにか抜けて工場に着くが、人気が無い。
建物の外は片付けたと思しき跡があったが、それ以外は何か張り紙があるわけでも
なく、全く状況がわからない。
PHSもまだ通じないので、上司の携帯にも電話ができない。
というか、我が家の電話はアナログ回線なのでそこから電話もしていたのだが、全く
通じない。
さて明日からどうするか・・・この分では操業も無理だしなと思っていたのだが、数日後に
驚愕の事実を目にする事になるのだが。
ともかくその時の俺はとりあえず、停電が復旧したという仙台駅前に向かった。
仙台駅東口までは主要交差点以外の信号が止まっているという以外は、日中という事も
あり地震の影響も感じられず。
クリネックススタジアムあたりまで来ると、ウィルコムPHSにも電波が入った。
そこからあちこちに電話をしてみるが、被災地の友人知人には全く繋がらない。
九州や関東には通じるのだが、宮城岩手福島は全くダメ。
沿岸部に住んでいる友人、仙台港で働いていた親友、無事でいてくれるといいのだが。
帰宅すると、今日もオフクロはスーパーに並んでチョコパイとかを買ってきていた。
昼飯は昨日いただいたイカを使った、イカ玉のお好み焼きだった。
ひどく豪勢に思えて、本当にありがたくいただく。
我が家の食材は生ものこそ無くなり掛けているが(冬とはいえ、冷蔵庫ダウンで真っ先に食った)、
乾物や缶詰でまだ余裕があるし、米もある。
ご近所もおおむね同様なようで、備蓄の少ないアパート暮らしには、近所のオバサンが炊き出しを
していた。
昼食を済ませてお茶なぞ飲んでいると、不意に電気がついた。
震災から49時間ぶりの停電回復である。
近所のアパートで「万歳!」の声が響いた。
早速テレビをつけてニュースを見るが、津波の被災状況は相変わらずよくわからず、福島の原発は
必死に復旧作業をしているとしかわからず。1号機が爆発したのはこの頃だったか?
ちなみに我が家は電気と水道が復旧したので、もしかして風呂に入れるかと思ったのだが、制御が
電気というだけで湯を沸かすのはガスだった。
炊き出しをしていた近所のオバサンの家が灯油ボイラー炊きの風呂だったので停電復旧と共に使える
ようになり、翌日以降たまに借りる事になる。
停電直ったのでネットも繋げるかとパソコン立ち上げたが、肝心の光ファイバー回線が復旧していなかった。
収容局が復旧してネット繋がってるのに気づいたのは、3月17日の話。
オフクロは明日、運行を再開したバスで山形に行くと行っている。
近所のコネで、IHコンロが手に入るらしい。
停電復旧したが、仙台港の仙台市ガス局の供給施設が破壊されてガス復旧のメドが立たないので、
IHコンロは重宝するだろう。
仙台駅まで送るかと言ったが、地下鉄が運行再開したからいいと言われた。
そして夜になり、ようやく連絡の取れた仙台市内の友人から、勤務先のガソリンスタンドが営業再開するという
連絡を受け、俺は夜中から並び始めた。
着いてみると既に列は長く伸びており、俺は80台目くらいだった。

64 :
仙台2号ー23
仙台市泉区、震災4日目の朝焼けは眩しかった・・・・
俺は友人の勤務するガソリンスタンドの行列で一夜を明かした。
東北電力の復旧作業は夜を徹して続いているのだが、このスタンドまではなかなか
届かない。
暖を取るために残り少ないガソリンでエンジンをかけてヒーターをつける者、毛布に
くるまる準備のいい者、近所に家があるのか、車を置いて帰った者。
どれにも当てはまらない俺も含めた一団が、スタンド前で身を寄せ合うようにして、
一晩語り明かすように過ごしたのだった。
ラジオは首都圏の様子や、福島原発の危機がメインだった。
というのも泉区の山の方で受信できるAMラジオはNHKくらいで、東北放送ラジオが
受信できなかったのだ(前述したように、送信所の津波被害のため)。
NHKは全国放送のため、どうしても情報が広域に過ぎ、地元の情報は入りにくかった。
ただ、原発が爆発して放射能が飛散したであろう中、
「オレ達はタバコ吸ってるから、きっと放射能も大丈夫だぁ!」
と、元気に喋っていた。
俺達はまだ、笑う余裕があるだけマシだったって事だろう。
その頃福島県浪江町に住んでいる親戚は行方不明になっていた。
強行避難の逃避行という混乱の中、どこの避難所に行ったものやら見当がつかなくなっていたのだ。
二本松まで逃げた後、どうやら福島市の親戚のとこに落ち着いたらしいと消息が判明するまで数日かかった。
そして十数時間待った頃、スタンドの営業がようやく始まった。
停電復旧のメドは結局たたず、どこかから手動ポンプ持ってる業者を呼んで、給油機1台のみ、それも
レギュラーガソリンのみだ。
震災時にハイオク専用車には乗らない方がいいとだけは言えるな。
その手動ポンプも、スタンドの本社に掛け合ってようやく、だったらしい。
内規では本当はダメなんだと。
発電機式のポンプに至っては、法律で使えないらしい。
その十数時間で、メシは一度だけ食えた。
スタンドの前にあるソバ屋が営業再開し、少しずつだがオニギリやソバの提供を始めたからだ。
「お兄ちゃん、もうすぐスタンドも再開するから頑張りなよ!」
と、乏しい在庫からコーラを売ってくれたオバちゃんに、俺は泣いた。
ともかく持っていた携行缶に20Lの補給を受けた俺は、丸一日近くぶりに帰宅できたのだった。
さすがに身も心も限界と感じていた俺に、被災地の惨事まで頭をめぐらす余裕は無かった。
ただ、やっと手に入れたガソリンでどうするか、それだけを考えていた。
原発もヤバイ事になったし、首都圏も買占めで物が無いだろうし、新潟経由で名古屋の父の所に
逃げるか、そんな事を真剣に。

65 :
@仙台2号ー24
震災5日目・・・3月15日(火)
いい加減疲れてきた俺は、いよいよ仙台からの脱出を本気で考え始めた。
IHコンロをゲットしたオフクロはそれで満足したようで、避難には乗り気じゃなかったのだが。
その前に工場の様子でも見てみるか、と軽く考えて作業着に着替え、工場に向かった。
どうせまだ操業再開していないだろう。取引先だってまだ再開の見通し立ってないのだ。
・・・・が、工場に着いた俺は呆然とした。
普通に操業している・・・・・
事務所に行くと、偉い奴にいきなり
「なんでお前は出社しないんだ!」
と責められた。
震災依頼のアレコレがフツフツと俺の中で煮詰まり、沸騰しかけたが、それを辛うじて抑え
「ガソリンが無かったので、買うために並んでいました・・・」
とだけ、ボソボソと答えた。
工場で遠距離通勤は俺だけで、近所の奴はガソリンの余裕ある奴と乗り合いで、または自転車で
出勤していた。
後で聞いた話。
日曜に片付けに集まった従業員一同、月曜朝に出勤と言われたもののまさか操業再開は無理だろうと
誰もが思っていたらしいのだが。
停電復旧したとわかった途端、今後の指示を待つつもりで集合していた従業員全員に、
「お前ら何してるんだ、仕事しろ!」
それだけで操業再開したらしい。
もちろん、俺のように出社してこない社員への安否確認は一切無しだ。
驚いた事に、この工場では従業員の連絡先を全く把握しておらず、震災で初めて連絡網が構築される
有様だった。
さて操業再開してるし出社したんだからお前も仕事しろ、と言われたのだが。
俺は正直、頭がパニクって全く仕事ができなかった。
機械の前に立ち尽くしたまま、呆然として何もできなかった。
上司が怒鳴っていた。
でも、俺はまた地震が来たらどうしようと、怖くて動けなかった。
さっきまで逃げる事しか考えていなかったのに、普通に仕事ができるのか?
俺は明確なPTSDの兆候を示していた。
幸い、1時間もしないうちに集合の指示が出て、ガソリンや食料の供給が落ち着くまで操業停止、解散の
命令が出た。
というより、取引先が操業停止しているから、この工場で物作っても意味が無いし、そもそも配送トラックの
燃料が無かった。
当然の事だと、俺は思った。
「うちにはガスコンロのカセットが無いから、誰か譲ってくれないか?」
という偉い奴の声がむなしく響いた。
従業員一同の沈黙は、「お前のせいで買出しにも行けなかったのに、どこに余裕があるんだ」と返答しているようだ。
工場の外に出ると、雨が降ってきた。
車に落ちた雨粒は黒かった。
放射能の黒い雨じゃないかと言う奴もいたが、たぶん車が汚れているからだろう。
仙台港のコンビナート火災はまだ収まっていなかったし、雨粒が黒い原因なぞいくらでもあった。
そして俺は、帰り道にまたガソリンスタンドに並んだ。
燃料供給のアテが無い今、営業再開したスタンドの備蓄だけが頼りだからだ。
雨に打たれながらも、元気よく誘導しているスタンドの店員が救いだった。

66 :
今日は誰も見てないようなのでボソボソと書き続けましたが、ここで一旦寝ます。
中途半端な復旧途上の仙台で、インフラはともかくだんだん人心が荒んできている
様子などわかればと。
この頃は物資があるところにはある、という状況だったが、、
・津波被災最前線のど田舎は、自衛隊と米軍がたどり着いたかどうかで明暗が分かれた状態
・同じ津波被災地域でも、無事な地域もある都市部は、かえって素通りされている状態
・津波被災を受けていない地域は、民間の物流頼みで物資は探せばどこかにはある、という状態
こんな感じで、妙にアンバランスだった覚えあり。
「落ち着いたな」と言えるようになるには、もう少しかかるのでありました。
おやすみなさい。

67 :
おつかれさまです。

68 :
仙台2号さんとこは、停電したが水道生きてたんだ。
私のとこは、停電は全くしなかったが、水道2週間以上断水続いた。
震災で一番しんどかったのは、私にとっては断水でした。
地震直後大量の水道水を汲んだが、トイレも十分に流せない、風呂にも入れない。
給水は長蛇の列で、十分な量もらってこれない。
何度「明日には水道復旧」のデマに騙され喜び、そして落胆したことか・・・。
震災からずいぶんたった日に、トイレの水が流れる音を聞き、水道復旧を知ったとき、うれしくて泣いた。
最初は鉄錆で真っ赤を通り越して黒ずんだ水がでた。
しばらくして赤みがかった水になったとき、その水で数日ぶりに風呂に入ったが、鉄臭くなってしまい入らない方がよかったと後悔した。
翌日には風呂には十分くらいキレイになったが、飲み水には不適って感じだった。
普通に飲める状態になるまで、復旧後三日を要した。

69 :
>>68
我が家の近所に仙台市水道局があってね。
「水道局の威信にかけても、何があってもこのへんは断水させない」
と日頃から言われてはいたが、まさか本当にそうなるとは思わんかった。
電気ガスは代替が利くけど、水道だけは何ともならないから、本当にありがたかったね。
女友達がシャワー貸してくれって言うから、お湯は出ないと言ったのに、
それでも冬なのに喜んでシャワーしてたのが印象的。

70 :
寝る前に一本だけ。
@仙台2号ー25
震災6日目・・・3月16日(水)
工場は自宅待機を命じていた。
「自宅待機なんだから、買い物とかでウロつくな」
と偉い奴は言っていたが、真性のバカだと思った。
バカには構わずガソリンを求めてさまよう。
オフクロは相変わらず買い物だ。スーパーで何かいい物が手に入るだろうか。
ホームセンター(長町のダイシン)にも行ってみたが、店内に入れない上に目ぼしい物・・乾電池
なんかは売り切れで、ここもお菓子くらい。
ガソリンスタンドはどこも行列で、当初入口が複数あるスタンドで入口ごとに行列ができてしまい、
どえらく揉めたところがあったとかで、どこも整理券方式になっていた。
まずは徹夜で整理券をゲットし、後から改めて並ぶというわけだ。
沿岸部の製油所が被災したため、ガソリンの供給は一般車の通行が禁じられた高速道路を使って
細々とだったので、どこのスタンドも備蓄を使い果たしては閉店するという有様だった。
それでも、太白区生出にある出光は、携行缶を持って並べば、整理券無しで買えた。
吹雪く中凍えそうになりながらだったが、今日もガソリンをゲットできたのは幸い。
3時間以上並んで日没の閉店間際にようやくだったが、それでもすぐ買えたような錯覚に陥る。
スタンドに並ぶ前、太白区郡山にある行きつけのラーメン屋「玄龍」が営業していた。
プロパンガスがある限りで醤油らーめんのみだったが、普段680円のところ500円で、ありがたくいただく。
ガソリン買った後、オフクロを連れてもう一度行った。
暖かいラーメンが身にも心にも深く染みた。
帰りしな、その「玄龍」もガス切れで、明日以降営業の見通しが立たない事を知る。
保存の利かない麺だからと、最後に残った僅かな麺を譲ってもらった。ありがたい。
後に石巻赤十字病院の院長が、食糧供給の直談判のため仙台に来た折り、ラーメン屋がやっているのを
見て、
「ラーメン屋がやっているような状態で、石巻の苦境がわかるわけが無い」
と嘆いていたのをTVのドキュメンタリー番組で見たが。
仙台の店にしても、残りが乏しいプロパンガスでどうにか青息吐息でやってる状態だったんだ。
他には太白区西中田(柳生)の「まるまつ」が出来る限りの食材で営業しており、行列ができていた。
夜にまたスタンドを求めて車を流す。
もうやっているスタンドは無かったが、オフクロの好物がコカコーラなのを思い出し、停電復旧した地域の
自販機を回って、10台目くらいでようやく買えた。
多くは停電復旧と同時に買い占められたようだが、田舎の集落なんかの自販機は意外と残っている。
コーラ以外だとなぜかリボンシトロンが多く手に入った。
帰宅すると、近所のオバサンがボイラー炊きの風呂を炊いてくれていた。
震災後初めて風呂に入って、だいぶ生き返った気分になった。

71 :
番外編で風呂とプロパンガスの話。
@仙台2号ー26
風呂については、家庭の風呂で都市ガス使う所はもちろん使えない。
オール電化の家と、プロパンガス使っている家に関しては、停電さえ復旧すれば風呂に入れた。
それ以外はどうしていたかというと、「風呂に入りに行っていた」。
ご近所に行くか、銭湯や温泉の類だな。
ただし昔ながらの銭湯にしてもスーパー銭湯にしても、重油不足でボイラー炊けずに限定的な営業に留まり、
行列作って整理券もらい、一人10分までとか極端な制限があった。
名取や西多賀のスーパー銭湯「極楽湯」では、夜明け前から行列が絶えなかった。
たかだか10分の風呂入るために、早朝から何時間も並ぶという光景が当たり前だった。
メシを買うのも食うのも、風呂に入るのも、ガソリン買うのも、全部数時間単位で並ぶ世界だった。
一日にできる事は一つか二つしか無い。
では温泉はどうだったか。
意外や温泉も最初は使えなかった。
なぜかって、水道がダウンしてるから熱い源泉を薄められないのだ。
それでも秋保温泉で2軒ほど日帰り入浴をやってたから、何度か通った。
ガソリンをやたらと買ってたのにはそういう事情もある。
だから被災地情報には温泉や銭湯の営業情報も非常に重要だったな。
美容院のシャンプー情報も同様に貴重だった。
そしてプロパンガス。
ガスそのものは震災だからと急に需要が増えたわけでは無いのだが、地震で止まったシステムの
復旧作業で各戸を回る業者は目が回るような忙しさだったようだ。
肝心のガスも供給が途絶えてるから奪い合いのような状態だったらしい。
プロパンガス業者の中には震災で過労死した人の事も聞いた。

72 :
さらに番外で仙台港の話。
@仙台2号ー27
これは我が家から遠いので縁が無く、知人の話なのだが。
震災後津波の水が引いてすぐ、仙台港周辺に現れたのは自衛隊など救助の人たちだけではなかった。
いわゆる火事場泥棒・・・・とはちょっと違うが、キリンビール仙台工場から流出した缶ビールなどを拾い
に来る地元住民で、ちょっとしたゴールドラッシュ状態だったらしい。
知人に言わせると、
「敷地の外で落ちているのを拾ったんだから、泥棒じゃない」
という事らしい。
知人は毎日飲んでも3か月分の缶ビールを拾ったらしいが、中にはトラックで来て根こそぎ持って行くやつも
いた。
その運転手は「にーちゃんたちも早く持っていかないと無くなるぞ!」と陽気に笑っていたらしい。
捜索にあたる自衛隊員の傍らで缶ビールや、カップラーメンを拾う物は絶えず、そうして拾った奴らは、後から
周りに武勇伝のように語っていた。
しかしそんな彼彼女らでも、貨物コンテナやドブだけは手をつけなかった。
中にまだ遺体が入っているかもしれなかったからだ。
死と欲が渦巻く仙台港周辺は、まさに世紀末の様相を呈していた。
後からその話を聞いた俺は、何か生きているのが嫌になったのを覚えている。

73 :
そういえばこの頃だったかな。
首都圏で買占めがひどくて物が無いとかいうニュースを見たのは。
スーパーで売り場の担当者が
「もう品物がありません」
と指差す先には、パンやカップラーメンがまだあった。
コンビニでお爺ちゃんが
「こんなものしか買えなかった」
と言って見せた袋には、お茶やパンやオニギリが入っていた。
どちらも人が並んではいなかった。
何が物が無いだ、スーパーの中に入れるし、種類は少なくても買う物があるだけ・・・
津波の直撃を受けなかった俺でさえそう思ったくらいだから、避難所でTV見てた
人たちがどう思ったかは、想像に難くない。
あるいは放心していたのかも。

74 :
当日仕事で一晩中、一睡もせずに働いていたけど
現地はもっとすごい状況だったんだよね

75 :
福島でとあるスーパーが再開したとき、
ほとんどの人が食品、生活必需品を買う中、
カゴ二つ酒類だけでいっぱいにして、重そうにレジに並んでるお爺さんがいた・・・。
酒類はコンビニでも最後まで残ってたのに、一度に大量に買う意味分からなかった・・・。
そのお爺さんは、普段から大量に酒を買い込んでるんだろうか?
ちなみに、福島市内の飲料自販機、ミネラルウォーターは速攻なくなり、
次に果汁系、次にコーヒー等、そして炭酸の順に無くなったと思うが酒は最後まであったと思う。

76 :
この先からは毎日淡々とガソリン買う日々。
工場も震災翌々週から操業再開したんで、なおさら平日消費したガソリンを買うために、休日は
早朝から並んでた。
仙台でガソリンの供給が安定したのは4月2日。
この日からENEOSなどの24時間スタンドが通常営業を再開し、ほとんど並ばずにガソリン買えるようになった。
ただ、4月7日の最大余震では、停電した地域で再びガソリンスタンド渋滞が発生し、国道4号バイパス下り線も、
若林区遠見塚のENEOSを先頭にすさまじい渋滞。
実は停電して無い長町付近とかのスタンドだと、普通に並ばず買えたんだけどね。
ガソリンと言えば一つ残念な事があった。
工場が再開してすぐ、「携行缶を持っているものは提出するように」というお達しがあった。
営業の奴を法人契約してるため優先的に給油できるスタンドに並ばせて、携行缶に給油するらしい。
俺はまだ自分の携行缶に半分以上残ってたので出さなかったが、他の奴は提出した。
そして給油された携行缶が戻ってくるのをみんな待っていたのだが・・帰ってきたのは空の缶だった。
工場の出荷用車両に給油を優先したってのはまだわかる。
その残りはどうしたかといえば、工場のお偉方の自家用車に入れていた。
中にはこんな奴もいる。
そいつの携行缶は、手元に返された時、まだガソリンが残っていた。
これで自分の車の燃料不足も少しは解消できる・・・と思っていると、お偉方からの罵声が飛んだ。
「何してるんだ、それは俺の車に入れろ!」
なけ無しのガソリンは、お偉方の車に消え、そいつのところには一滴たりとも残らなかった。
震災で助け合う美談が流れる中、俺の勤めていた工場では、地位を悪用したエゴがまかり通っていた。
こんな会社、いっそ震災で潰れた方がマシだったのにと思った。

77 :
生活物資や食料の方は、ガソリンよりは早かった。
印象的だったのはコンビニで、震災後しばらくは数時間のみの限定的な営業。
夜はどこもやってなかったんだ。
我が家の近所でコンビニが通常営業を再開したのは3月24日。
その日の事はよく覚えてる。
工場帰りに、疲れた体に暖かい缶コーヒーでも飲みたいな・・でもコンビニやってないし、
自販機にも物が無いしと思う毎日。
しかし3月も24日になって、一軒のコンビニが、仙台の夜を照らした。
吸い寄せられるように車を寄せた俺は、ドキドキしながら店に入ったものだ。
営業こそ再開したものの、店の中にはほとんど何も無い。
売れ残りの雑誌はいつのだかわからなかったが、それでもそういう「読み物」に飢えていた
何人かが、久しぶりの雑誌を手に取って熱心に読んでいた。
週刊誌とか漫画雑誌が入荷するようになるのは4月に入ってからで、俺なんかは東京の
友人に頼んで送ってもらってたくらい。
生活用品は乾電池など消耗品以外はボチボチ。
食い物は、とにかくオニギリと「ドヤ顔の某シェフ」のニッチン何とかいうインスタントパスタだけが
やたらと売っていた。
それ以外はガムとタブレットなど、腹の足しにならない物が少々で、補給の続かないコンビニの
棚には、他には何も無かった。
飲み物は、お茶と缶コーヒーが少しだけあった。
缶コーヒーを手に取った俺は、しばし戸惑った事をよく覚えている。
「並ばずに物を買うなんて、そんなうまい話が本当にあるものか?」
その時の俺は、本当にそう思っていた。
震災から約二週間の生活は、俺から「日常の買い物」という感覚を完全に奪っていた。
レジで120円払った。
当たり前だが普通に買えた。
久しぶりの、温かい「ジョージア・エメマン微糖」は、復興の味だった。
これから始まるんだな、と思った。。。。。

78 :
そういえば、都市ガスが再開したのも4月2日だった。
仙台市ガス局は津波でLNGの供給設備を破壊されたんだが、新潟からのパイプラインが生きて
たんで、それで3月中の再開のメドがついたんだな。
当時は利府のグランディ21の前の公園駐車場に、関西方面からの東邦ガスなど業者多数応援に
来てて、必死こいて復旧してくれてたよ。
3月末から順次供給再開してたんだが、それで我が家は4月2日だから再開早い方。
真っ先に風呂炊いて入ったね。
それまでは近所で貰い湯するか、秋保温泉まで出かけて温泉入るかの二択だったから。
その代わり、近所は灯油炊きボイラーの風呂だったから、ガソリンに加えて灯油も何回も買った。
幸いにして、太白区生出の出光では、ガソリンはともかく灯油はほとんど並ばず買えた。
とにかく、自分の家の風呂は最高だった事は確かだ。
そんな感じで、仙台は4月に入って急速に震災から落ち着いていった。
津波食らった荒浜とか沿岸部は大変だったが、内陸は地滑りとかに合わない限り、インフラの復旧と
ガソリンや食料の通常販売の再開で、震災から3週間ほどで元の生活ができるようになったんだ。
4月7日の最大余震の時はまた停電やら水道止まったとこも多かったし、揺れそのものも大震災より
ひどかったくらいだけど、津波さえ無ければこんなもんだよなって程度だった。
4月の半ばくらいまでは震度5くらいの余震や停電も時々あったけど、それだけだった。
GW直前、一本の電話が入った。
気仙沼で消息不明になっていた友人からだった。
アパートが流され、旦那がケガをしたものの、家族全員無事で、仙台に移住して落ち着いたからと
連絡をくれた。
正直俺は、その友人はダメだっただろうと思ってハナから連絡してなかったもんで、驚くと同時に力が抜けた。
その友人を最後に、俺の親戚縁者友人知人、全員の無事が確認されたのだった。
震災で1人も欠ける事無かったのは、本当に幸いだった。
俺に関しての「震災と、それから落ち着くまでの話」はここまで。
長くなったけど、最後まで読んでくれた人がいたら礼を言いたいと思います。

79 :
リアルで情景が浮かぶような文章 凄く考えさせられました
仙台2号さんありがとね 続きヨロシクです

80 :
会社の偉いやつら、ぶん殴りてぇ。

81 :
ごめん>>78で終わりでしたね
最後まで読みました!ありがとう

82 :
最後に番外編。俺自身の話では無いので。
震災当時、仙台港にある会社に勤めていた友人の話だ。
友人は震災直後、大津波警報の情報が入ると同時に、会社の全員と共に最上階に上がった。
ラジオかワンセグで情報が入ったのだろう、10m級の超大型津波だとわかり、最上階からさらに
屋上へ。
屋上と言っても正規のものではなく非常階段など無いので、椅子等を積み上げたり、みんなで
力を合わせて上ったそうだ。
そうしてしばらくすると、津波が何もかも流していった。
その時はただ、ただ無力感と、「何もかも終わりだ」と思っていたそうだ。
どうやら最上階までは津波が来なかったが、水が引かないので会社の中で一夜を明かし、翌朝
ガレキや泥をかき分けるようにして、徒歩で家路についた。
友人が10年以上手塩にかけてきた愛車は、どこに行ったものやら見当もつかない。
友人の家は仙台港から近かったので歩いて帰ったが、途中で遺体を見たそうだ。
「あ、これが遺体か。安らかな顔で死んでるな。」
すっかり感覚の麻痺した友人が、遺体を前にして思った感想はそれだけだったらしい。
そして帰り着いた友人の家もまた、津波に巻き込まれていた。
1階の天井にまで津波にあらわれ、中はメチャクチャだったので2階でしばらく過ごさざるをえなくなった。
当然ほとんどが1階にあった食料も流失し、近所のジャスコから流れ着いたカップラーメンなどで飢えを
しのぎ、半壊した無人の商店に食料を求めた事もあったという。
(略奪がどうのという話の中には、こういう話も含まれていると思われる)
プロパンガスのボンベは流されていなかったが、制御用の機器が冠水して使い物にならず、流失を免れた
カセットコンロ頼りだったそうだ。
数日後、ようやく避難所で携帯を充電した友人から連絡をもらった俺は、友人の家に行った。
街道からの道は、誰かの家に刺さっているトラックが塞いでいて行けなかった。
それではと反対側から行くと、逆立ちしたり引っくり返ったりした車がそこら中の家に刺さっており、
片付けに出された家具や電化製品、ガレキで道がほとんど埋まり、軽自動車でようやく通過できるという
有様。
それでも内陸で生き残った清掃業者や建設業者が、ガレキや車の撤去をようやく始めていた。
友人が日常生活を取り戻し、再開した職場に復帰するには数ヶ月かかった。
特に印象的だった友人の体験で、本当に最後にします。ありがとうございました。

83 :
>>79>>81
あら。
反応がボチボチ無くなってたんで、早足で終わりにしちゃいましたが。
エピソード的な話はまだあります。
時系列が前後してもいいなら、もう少しスレを伸ばしてみましょうか。
自分の中で震災に一区切りつけるために、気仙沼に出かけた6月まで
いろいろとあります。
まぁ気が向いたら程度という事で、そのうち書きます。
>>80
あれは本当に信じがたい出来事でしたね。
ただ奪うばかりで、ねぎらいや気遣いの言葉はただの一言もありませんでした。
非常時になると、人間の本性がわかりますよ。

84 :
仙台2号さん乙。当時の状況が良く分かります。

85 :
>復興の味がした
めちゃええ文章やん

86 :
仙台2号さん、2ちゃんでこれほど身近に被災された人の実状が分かる
文章に出会わなかったよ。
本当にありがとう。
まだまだ困っている方もいるだろうから、少しだけれど赤十字に募金するよ。

87 :
仙台2号さんの文章は淡々として無駄がないからとても読みやすいよ。
引き込まれるし、状況が浮かぶようで胸にくる。
貴重な体験談をありがとう。
他にもエピソードがあるなら読みたいと思う。

88 :
みんな、ありがとう。
>>85
コンビニで買い物は、文明的な行為なんだ。
こうして一つ一つ、文明文化を取り戻すのも復興だと思う。
>>86
ありがとう。本当にありがとう。
義援金も集まるばかりで配布が進まないなど実情厳しいものはあれど、
底が尽きない限り、必ず困っている誰かの役に立つはずだ。
>>87
感情をこめようと思えばいくらでも込められる。
だが、それはとても辛い事でもある。
だからこそ淡々と書けるのだと思う。
番外編は少しずつ書くから、たまにこのスレ見に来てくれ。

89 :
>>88
すごくよかったです。また番外編など楽しみにしています。
私のうちも、ADSLで、こんなこともあろうかと取ってあった昔のュホンが
役になって、固定電話のみ使えました。ただし、かけられなくて、かかってくる
だけでしたが。ちょうど光にする手配をして、開通待ちのときに震災が来たので
したが、またこんなことになるかもしれないし、と、光をキャンセルしました。

90 :
>>89
俺もインタネットこそ光だが、ちょっとNTT関連の仕事もした事があり、
光回線機器の弱点は知っていたので、電話はアナログのままにしていた。
営業先で
「ひかり電話(NTT東日本の光回線電話)は停電でダウンするから、アナログ残して
おかないと、どうにもならなくなりますよ。」
と、口を酸っぱくして言ったのだが、返ってくる応えは一様に
「バックアップ電源(2時間しかもたない)があるから大丈夫」
「いざとなったら携帯があるし」
あの大災害の後で、どれだけの人が考えを変えただろう。
俺も震災後にヨドバシで店員に「ひかりTV」を薦められたが、
災害で真っ先にダウンするTVなぞいらんと突っぱね、代わりにBSを入れた。
あの時、地上波も非常電源の燃料に不安があり、東北放送などはいつまで放送を
続けられるかわからないと言っていた。
TVの衛星放送と短波ラジオは最後の情報の砦なので、押さえておくべき。

91 :
これからエピソード編へと移る前に、一つ震災直前の光景を残しておきたいと思う。
そもそもは、震災2日前の地震だった。
マグニチュード7.3。
震度5弱。
その時も工場は結構揺れたが、そろそろ宮城県沖地震が近いのかなという思いは
共通していて、今後地震の時にどうするか、なんて事が話題の中心だった。
工場のお偉方は
「中越地震(新潟)では機械が倒れた。大きな地震が来たら、機械の前の方にいるな」
と言っていたのだが。
俺の先輩の職人は
「地震が来てもよォ、このゴツくて重たい機械の前が一番安全なんだ、こいつはさすがに
倒れないだろうし、天井落ちてきても機械が食い止めるんだって」
と、笑っていた。
課長は俺と図面の話し合いをしてる時、ふと思い立ったように
「あ、地震だ。」
と、軽い余震で揺れる工場をぼんやりと眺めていた。
普段は、そんな事をする人じゃなかった。
ガソリンスタンドに勤める友人は、揺れの間だけタイヤ交換の手を休め、収まると何事も
無かったかのように作業を再開した。
宮城県は数年前から宮城北部地震や岩手宮城内陸地震などで震度5〜6の地震には
何度も見舞われて、地震の巣のようになっていたから、震度5弱ぐらいでは慌てる人は
少なかった。
他の地方の人が
「そんなんじゃ危ないんじゃないの?」
とたしなめると、決まって
「震度5くらいでビビってたら、宮城にゃ住めないよ」
と、笑っていた。
宮城県民は、地震に特別慣れた人種だと、本人たちも思っていた。
そのはずだった。
あの日までは。
その冷静さが仇となった結果が、他県も含む約2万人の旅立ちに繋がった。
2日前の地震が、その傲慢さの総仕上げになった。

92 :
震災では、俺のように幸運な者ばかりでは無い。
先に上げた仙台港勤務の友人以外にも、いろんな話があった。
震災時、たまたま非番だったスタンド勤務の友人は、自宅の七ヶ浜に車を走らせた。
産業道路を仙台方向に渋滞する車列と反対側、海に向かって車を走らせ、陸上自衛隊
多賀城駐屯地の前にある橋を渡った。
その直後に、彼の走ってきた産業道路は津波に襲われる。
しかし、津波の方向は友人の車を僅かにそれ、間一髪で通過する事ができた。
安全な方向に走っていたはずの車列は、渋滞したまま文字通り全滅した。
さらに友人が帰宅後、その地区も津波に襲われた。
友人の家は高台で難を逃れたが、その下の家は沈んだ。
自宅が助かって幸いと思いきや、大津波警報下の避難指示で、さらに高台の祖母宅に逃れた。
直後、仙台港のコンビナートが爆発し、近くにあった祖母宅に、今度はコンビナート火災による避難命令が出た。
海からは津波、陸からは火災に挟まれるという不安な状態で、結局は元の
自宅で数日を過ごす事になる。
危機を脱した友人がスタンドに復帰すると、そこは血走った目をして神経をとがらせ、
ガソリンを求めに到する客との戦場だった。
転戦を重ねた彼が戦場からの帰還を果たすのは、4月に入ってからとなる。

93 :
宮城県石巻市渡波地区の、俺の一族友人の話。
俺の友人の妹は、震災直後に車での帰宅を図っていた。
進まない車列。
ラジオからの危機を告げる放送。
海の目と鼻の先を通っている国道だか県道だかで渋滞に巻かれていた友人の妹は、
突然の津波に車ごと流された。あっという間だった。
気がつけば、波にもまれながら、港から流れてきた木材につかまり、友人の妹は
かろうじて浮いていた。
雪が吹きすさび、冬の冷たい海水は体力を急速に奪う。
友人の妹は叫んだ。何度も叫んだ。叫んでいないと、意識が遠のきそうだった。
「やっと○○くんと結婚できたのに、こんなところで死んでたまるかー!!」
友人の妹は新婚だった。
まだまだこれからだった。
だからこそ生への執着が勝り、暗くなった頃ようやく旧赤十字病院のあたりに上陸し、
生き延びた。
既に家の近くだったので避難所で母親とすぐに再開して毛布にくるまっていると、
やはり生き残った父親が飛び込んできた。
父親は何よりも先に、妹ではなく妻の名前を叫んだそうだ。
極限の状況の中で、夫婦愛が確かめられた瞬間だった。
友達の妹が、新婚の旦那と再会するのは、その数日後となる。
その一族のエピソードはそれで終わらない。
友人の祖母は、津波で壊滅した牡鹿半島の鮎川浜に住んでいた。
友人も含め、絶望と思っていた。
「おばあちゃんが死んじゃった・・・」
呆然としているところに電話が鳴る。
「おぅぃ、今仙台さ来てんだけど、おめ、どこさいんだ?」
(仙台にいるんだけど、おまえはどこにいるんだ?)
全くの偶然。
友人の祖母は、震災当日仙台の甥の所に出かけていて、無事だった。
悪運に恵まれ全員が生き残った友人の一族は、今、台風などが来ると
容易に冠水する地盤沈下と戦いながら、しぶとく生きている。

94 :
確かになあ、ほんとうに色んな話がありますよね。。。
自分は生まれも育ちも内陸部だから、自分も友人も津波がらみの怖い目には
あわなかったけど、親戚が亡くなったり、家を流されるのを背中に感じなが
ら間一髪で崖を駆け上って家族三人難を逃れたり、流されてたけど若い人が
助け上げてくれて、でも、その流れの中を、みんなが「助けてー」と叫びな
がら流されていくのを見ちゃって、参ってるお年寄りとか、話は色々…。
今日はちょうど8ヶ月ですね。。。黙祷しようと思います。

95 :
仙台2号さんお疲れ様です。一気に読ませていただきました。
いろんな恐ろしい思いや、ご苦労が、よく分かりました。
お勤め先の工場のお話は、他人事ながら、腹が立ちました。
レスしたいんだけども、何とレスしていいものか分からなくて、困惑しながら、
食い入るように読んでいる人もたくさんいると思います。
余裕のあるときに、少しずつ、その他の御体験も聞かせていただければと思います。

96 :
自分もも会社に仙台港で被災した人がいて、
面識はあるし、会う機会もあるのだけど、
「あの時どうだったんですか?」と聞けない。
つらいこともあっただろうし思い出したくないかもしれないし…
また聞きではこうだったらしいああだったらしいとは聞くけど、
実際どうだったかは体験した人でなければわからないよな

97 :
私自身のエピソードも踏まえつつ、続けます。
時系列が前後するのはご勘弁を。
@仙台2号ー31
この日何度目だろうか。
ヘリコプターの爆音が響いた。
工場の機械を操作しながら、
また誰か死んだのか・・・・と暗鬱とした気持ちになった。
いや、正確には死んだ、ではない。
見つかった、が正しい。
工場の近くにあるスポーツ施設「グランディ21」は、遺体収容所になっていた。
宮城県内どのへんの範囲までかは知らないが、捜索の上、収容された
遺体の多くが「グランディ21」に運ばれていた。
そこで行方不明者を探しに来た遺族と出会えればラッキー。
冗談じゃない。
工場は震災から10日後、3月21日に本格操業を再開した。
俺も通勤に必要なガソリンを確保し、土日にまたスタンド並べば大丈夫という
体制を整えた。
問題は飯だった。
食料の物流体制はまだ整わず、社員の多くは米だけはあったので、オニギリか
カップラーメン(工場の水道は止まっているから、ポット持参だ)で昼食を取った。
震災前には仕出しの業者から弁当を頼む者もいたが、事もあろうに仙台港の
近くにあった仕出し屋は、津波で壊滅していた。
しばらくして別な仕出し屋と契約したが、壊滅した方はその後誰か助かって集金
とか来たのだろうか。
昼飯後の休憩時間の話題は、自ずと
「親戚が死んだ」
という話と、Youtubeで配信が始まっていた津波の映像だった。
不思議なほど明るい口調で、津波に車を流された奴を馬鹿にした後、死んだ
親戚の葬式がいつになるのか見当もつかない、というような話になるのが常だった。
工場は不思議と仕事があった。
取引先は日本海側にあって操業を続けているところも多く、出荷のトラックは秋田
などで軽油を補給して帰ってきた。
ただ、ある日、福島県のある会社の注文が、材料を切り出したところで急にキャンセルに
なった。
放射能汚染の心配がある地域からの出荷は見通しが立たないからと、部品の注文も
ストップしたのだ。
ウチと同じような下請けが釜石にあり、そこからの部品が来なくて組み立てができないからと、
在庫分以上の注文が来なくなったケースもあった。
ただ、それでも工場はそれなりに忙しかった。
一品物の注文がたまに入るのは、震災で壊れた機械の部品だろうか。
夕闇が迫る中で操業を続ける工場に、またヘリコプターの爆音が聞こえてきた。
断水の続く地域に住む同僚は、震災以来作業着の洗濯ができないと、笑っていた。

98 :
>>94
8ヶ月。
もう8ヶ月と思うか、まだ8ヶ月と思うか。
自分自身、当時撮影した写真やあちこちに残した日記が無ければ、思い出が
どんどん風化していったはずだ。
辛い話だけど、書ける奴はまた聞きでもいから、どんどん書いた方がいいと思う。
>>95
ありがとう。
正直、こういう話を見て戸惑う人間というのは多いと思う。
無理も無い。
俺だって阪神淡路大震災はまったくの他人事だった。
>>96
話してもいいと思う人は、自ら話をすると思う。
あるいは、話してはみたけども、理解されずに変な同情だけされて嫌になったとか。

99 :
@仙台2号ー32
震災から数日後に話はまだ戻るが。
多賀城の友人を風呂に入れてやろうと、名取のスーパー銭湯「極楽湯」に、
朝の6時から並んだ。
2時間並んでようやく10分だけ入湯できる整理券をもらうと、多賀城に急いだ。
友人の家は津波で半壊し、風呂などは考えもつかなかった。
多賀城から仙台市宮城野区中野栄にかけての国道45号には、壁ができていた。
津波に流された車が、撤去を待つ間、とりあえずという事で道端によけられ、
あるいは積み上げられていた。
それでも道路以外に流れ着いた車は、そこかしこで放置されたままだった。
一応自衛隊による捜索が行われたうえでの撤去作業だったはずだが、
「絶対中で見つかってない遺体がある」
と、地元住民は確信しているようだった。
中野栄を抜けて津波被害の地域を脱すると、友人がため息をついた
「なんだろうな、このギャップは・・・」
津波の来なかった地域は、地震なぞ無かったかのようだった。
ガソリンの供給が滞っているわりには、車の量はそれなりに多かった。
ただ、飛ばしてあるくような奴はさすがにおらず、誰もがアクセルを緩めていた。
ガソリンの一滴は血の一滴。
俺はアイドリングストップどころか、前の信号が赤になるとわかった瞬間に
エンジンを切り、惰性で進んだ。
それでも友人宅への往復はきわどいものがあったが、そんな事ばかりも
言っていられなかった。

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