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2011年10月1期ニュー速VIP+安価踏んだ奴が半生を語り、皆がそれを傾聴するスレ29 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
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安価で小説書いてラノベ賞に投稿する
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物書きとゲームと家族と撫子は俺の命!


安価踏んだ奴が半生を語り、皆がそれを傾聴するスレ29


1 :12/01/03 〜 最終レス :12/01/15
次自分かー。
次スレ立てた方がよい?

2 :
ミスった……orz
思う存分自分語りしたり
他人の半生に耳を傾けたりしてじんわりと元気を貰うスレ。
誰かと話をするって気持ちいいよね。
あと、これから半生を語る人にお願い
『傾聴』とは耳を傾けて熱心に聞くこと
『レスが無くとも』皆しっかりと聞いて(読んで)いますので
思う存分語ってください。下げてくれた方がいいかな//
誰かいるかな?とかウゼーんだよ!傾聴してるんだからね////
語り終わったら次安価を+10程度で出して質問募ってください。傾聴したら感想くらい言いたいもんだよ
安価踏んだ人が一時間以上気づいてなかったら再安価お願いします
kskstは禁止、荒らしはスルーしる
お薬メンヘラがいたら自動的に安価下
容量オーバーにされたらどなたか次スレを頼みます
【前スレ】
安価踏んだ奴が半生を語り、皆がそれを傾聴するスレ25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1322317233/
安価踏んだ奴が半生を語り、皆がそれを傾聴するスレ27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1322934764/
安価踏んだ奴が半生を語り、皆がそれを傾聴するスレ27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1322982006/
安価踏んだ奴が半生を語り、皆がそれを傾聴するスレ28
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1322991039/
安価踏んだ奴が半生を語り、皆がそれを傾聴するスレ28
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1323005047
※前スレ
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1323005047
スレ立て初めてだけどこれでいいのかな。

3 :
スペック
24歳 男
父親は陸上の、母親はテニスの国体選手でスポーツ一家だったため、
第一子である俺には運動選手になってほしかったらしい。
しかし、生まれつき心臓が悪く、4歳で手術するまで殆ど病院で過ごす。
手術は成功し、それからは日常生活が送れるようになり学校へ通うようになる。
父親の仕事の都合で日本各地を転々としたため、小学校高学年まで友達はあまりできなかった。。

4 :

病気のせいもあって体が細く、運動も全然できなかったため、小学校ではよくいじめられた。
筆箱を壊されたり、体操着や内履きを隠されたりしたと思う。
不思議といじめられていた時期の記憶があいまいでよく思い出せないのだが、一つ覚えているのは教師のこと。
いじめられるのは嫌なので教師に助けを求めたのだが、
「いじめられる方が悪い」というポリシーを持っている教師であったため
俺が怒られた。
さらにそれ以来、その教師も俺のことを無視したり、トイレ掃除とか嫌な仕事ばかり押し付けるようになった。
最悪な小学生時代だったのだが、それでも親に心配はかけたくないのと一人になるのが嫌だったので
学校には休まず行った。
人いるのかな?

5 :
>>2を読め

6 :
>>4
>>2

7 :
>>4
クソ教師だな

8 :
>>5
>>6
ごめん。気をつけます。
転機が訪れたのは小学校3年か4年のころだと思う。
家族で夕食を食べている時に、無愛想な父親がぶっきらぼうに言い放った。
「4年後にまた引っ越すことになる。」
「しかしお前ももう中学になるし、次の引っ越しを最後にしようと思う。」
次の引っ越しを最後にするということはつまり、父親は単身赴任するということ。
母親と俺、それと弟の3人は俺の手術をしてくれた主治医がいる病院の近くに家を建てて、そこで生活することに決まった。
それよりも、最悪な小学校での生活が、あと4年も続くのかと思った。
まだ10歳そこそこの子供だった俺にとっては、4年という時間は気が遠くなるほど長い時間に思えた。
このまま辛い小学校生活を送ることはもう無理だと思った。
中学校になったら環境が変わるけれども、それまで耐えられるとは思えなかった。

9 :
父親から次期引っ越しの宣言があった頃、小学校ではウリナリや学校へ行こうが流行っていた。
よく俺はそのモノマネとかをさせれられて、笑われていた。
笑われることは別にどうとも思わない。むしろ、持ち物を壊されたりする方が嫌だった。
この小学校での辛い生活があと4年も続くのなら、せめて笑われるだけにしておきたい。
ものは壊されたくないし、暴力を受けるのも嫌だ。
そう思ってモノマネやコントを考えては休み時間に披露し、
給食の時間は考えておいた小噺を披露しクラスメイトに笑われていた。
気付けば小学6年生、俺はクラスメイトを笑わせるムードメーカーとなっていた。

10 :
中学生に上がる時、一年後に転校することに決まった。
つまり、中学2年生に進級すると同時にこの地を去ることとなる。
いじめられっ子から抜け出した俺は、あと1年は好き放題しようと思った。
どうせあと1年すれば誰も知らない土地に行くんだ。
その頃は携帯電話も普及してなかったし、俺との関係はすべて白紙となるだろう。
好き勝手するにも一人は寂しい。
まずはクラスメイトと仲良くなることにした。
初日からクラスメイトに話しかけ、その中でも特にノリがいい友達とつるむようになった。
仲間ができればもうやりたい放題するだけだった。
学校にAVやエロ本を持って行ってバレて怒られたり、
授業はすべて無視し教科書に落書きして遊んでいた。
その頃一つ没頭しているものがあった。
吹奏楽部に所属していた俺は、楽器に夢中になっていた。
日中は学校で遊び、夕方からは楽器を延々と吹いた
当然、勉強は1ミリもしなかったため、成績は学年最低クラスだった。

11 :
楽しい中学1年が終わった。
中学2年からはまた新しい生活が始まる。
ムードメーカーとしてうまくやってきた自信を持っていた俺は、新生活が始まることを楽しみにしていた。
だが、その自信は一日で崩れ去れることとなる。
転校初日、簡単な挨拶をすませて席に着く。
HRが終わり、一人でいるといきなり後ろから首を絞められた。
「転校生。タイマンしようぜ」
金髪でピアスを開けた男がそこにいた。
すぐにいろんな髪型をした男に囲まれ、かばんの中身をひっくり返された。
ああ、こんなヤンキーまだいるんだ。そう思ったことを覚えている。
抵抗むなしく廊下へ引きずられ、殴られた。
顔を押えていると、追いうちのように踏まれ、蹴られ、最終的にはズボンを脱がされた。
俺が転校した中学は、県内で最も荒れている中学校だった。
転校生が珍しいこの中学では、真っ先に注目の的となり、ヤンキー共のおもちゃとされたのだった。
体育の授業があれば、絞め技や関節技をかけられ、背中を思い切り蹴られ悶絶していた。
授業から戻ると、持ち物はすべて校庭にばらまかれたりゴミ箱に捨てられていた。
授業中も構わず引きずり出され殴られた。
給食はぶちまけられた。ライターで髪の毛を燃やされた。
小学校の頃の比ではないほど、辛い生活が始まった。

12 :
そんな辛い生活の中、俺の癒しは音楽だった。
音楽をしているときは誰にも邪魔されず別の世界に没頭できた。
好きこそものの上手なれの精神で、プロに習うようになった。
それから驚いたことに、中学1年での友達と連絡を取っていた。
手紙が中心だったが、そのうち携帯電話が普及し、携帯のメールでやり取りをするようになった。
彼らと交流していると、少し自分に自信を取り戻すことができた。
中学3年。
気付けば、ヤンキー共も飽きたのか、俺の相手をすることはなくなっていた。
むしろ進路選択の時期に来ていた。
俺は中学から勉強はほとんどしていなかったため、内申点は大した点数じゃない。
そもそも運動部じゃないので、スポーツ推薦は無理だ。
俺には音楽がある。楽器がある。
俺はプロの演奏家として生きていこうと決めていた。
だが、その夢は夢でしかなかった。
中学3年の秋、主治医からの通達があった。
「心肥大の影響で、左肺が圧迫されている」
「楽器を吹くことは可能だが、心肺に強い負荷をかけるようなハードな練習は許可できない」
「つまり、プロの演奏家になることは許可できない」
プロの演奏家になる夢を断たれた俺は、そのまま高校へ入学した。
決して頭がいいとは言えない高校だが、俺のレベルを考えれば当然だった。

13 :
1よ、頑張れ・・

14 :
ハードな練習をしなければよいため、高校になっても吹奏楽部に所属し、楽器を続けた。
高校に入るとさすがにヤンキー共はいないため、落ち着いた環境を手に入れることができた。
また、以前より勉強しなければという意識が芽生えていた。
当然である。
生まれつき心臓が悪いため、将来仕事をするとしても、体力的に負荷がかかる職業を選択することはできない。
そうなると、頭で稼ぐようになるしかないのだ。
そうはいっても、やはり音楽は楽しく、また部員が非常に心地よいメンバーであったため、
部活中心の生活を送った。
引退後に受験勉強を始めた。
記述はあまり得意ではなかったため、マークシートのセンター試験で逃げ切れる大学を志望した。
センター当日。
実力を発揮できれば合格できると思っていた。
しかし。
受験中に頭上の水道管が破裂し、半身ずぶぬれになりながらのセンター試験となった。
当然集中できるわけもなく、悲惨な結果となった。
答案が濡れていないため、再試験は不可となった。
滑り止めの滑り止めで受けた、Fランク大学へ入学し、上京して一人暮らしを始めた。
私立大学なので、授業料は高く、奨学金を借りながらの生活であった。
受験後からの数カ月は、無気力だった。
「どうしてこんな目に遭うんだろう」
「この後どうなってしまうんだろう」
そんなことを考えていた。
大学生はギャルとギャル男が大半で、中学のヤンキーを彷彿とさせる。
友達はできなかった。

15 :
「もう一度受験しようか?」
そう思い浪人も考えたが、できなかった。
理由は3つ。
1つ目は、予備校へ通うほどお金がなかった。
ちなみに、俺は今まで一度も塾というものに通ったことがない。
2つ目は、予備校に行かなかったとしても一年間余分に授業料を払うほどお金がなかった。
3つ目は、社会に出るのが1年遅れるのが嫌だった。
その理由は、病気のせいでおそらく人より寿命が短いからだ。
受験という理由で、立ち止まることは避けたかったのだ。
しかし、この大学では将来どうなるのか全く見えない。
体力で勝負することはできないのだから、卒業後の進路はほぼ無いと考えてよかった。
この大学を卒業することに意味があるのかと思った時、編入試験という制度があることを知る。
大学2年から3年へ進級する際に、編入試験を突破していれば3年次から別の大学へ移ることができる制度だ。
これならば、授業料が余分に発生することもなく、きっちり4年間で大学を卒業できる。
これしかないと思った。
その日から、俺はまず今所属している大学の単位を取ることとした。
一定以上の単位数がなければ編入試験は受けられない。
また、単位も数は最低要件であり、単位を高い評価で獲得すればその分は編入試験においても評価される。
よって、超まじめに大学の授業に出席し、最高評価を獲得し続けた。
そんな熱心な学生はFラン大学では珍しいため、教授と仲良くなった。
教授はとある有名企業の役員をやっていた方で、その話しはとても面白かった。
そして俺は編入先の大学の学部は、ビジネス・エコノミクス系の学部にしようと思い、勉強を始めた。
相変わらず大学では孤独で友達はいなかった。
夏休みなどの長期休暇期間中も図書館に籠り、ずっと勉強をしていたため、
親からの電話に出た時うまく声が出せず驚いたこともあった。

16 :
アルバイトもしなかったため、生活は極力切り詰めた。
一日の食事はメロンパン1つ、風呂は一週間に1回という生活を送っていた。
ギャルとギャル男とのギャップを感じる生活を2年間つづけ、編入試験を迎えることとなった。
志望校は学費の関係もあり、国公立大学を中心に6つにした。
最低でもこの大学を出ないと俺の未来はない。必死だったが、空回りしている気もしていた。
また、過去問や模擬試験もないため、自分の実力が合格ラインに届いているかもわからなかった。
編入試験は時期は比較的固まっているものの、受験日はばらばらであり合格発表もばらばらである。
たまたま、志望度が高い順に受験のち合格発表という日程だった。
つまり、合格した時点で受験勉強をやめていいのだ。
しかし、連戦連敗。
やはり俺のには無理な挑戦だったのか。
最後の試験を終え、合格発表までの一週間は何も考えたくなかった。
一日中ずっとゲームをしていた。
しかし、最後の最後で合格していた。
今回も、大学受験と同じ滑り止めの滑り止め。
受験した中では最低ランクの大学であった。
それでもFラン大学ではない。
俺にとってはそれで充分だった。

17 :
大学3年からの新生活の滑り出しは、上々だった。
さすがに中学の時のように、ヤンキーはいない。
ゼミに所属したため、そこでとりあえず友達はできた。
サークル等ですでにグループができているため、そういった輪に入ることはできなかったが
今さら気になる年齢でもなかった。
友達より、まずは卒業のための単位取得が重要だった。
編入すると今まで取得していた単位は”なかったこと”にされ、
大学1年から2年までの単位を取得しなおさなければならない。
そのため、大学には週6日で一日中通っていた。
また、大学生といえばサークルとバイトと俺は思っていたが、
サークルは3年の俺が今さら入ることはできない。
バイトはしたいと思っていたが、大学の単位取得状況からみてしばらくは難しいと思い断念した。
しかし、それ以外のことはなるべく経験したかった。
ゼミで作った友達を中心に、飲み会へ行ったりした。
また、Fラン大学の教授に感化され、ビジネスに触れたいと思い起業のマネゴトみたいなものもした。
そしてもう一つ。
編入試験を終え、実家に戻った時の、偶々俺の母子手帳が出てきた。
そこに俺が小児用のカプセルに入れられている写真が貼ってあり、
下に母親の文字で一文が書かれていた。
「心臓に異常があるらしい。こんなに元気なのに」
第一子がこんなので、申し訳ないと思う気持ちと、今までありがとうという気持ちがあった。
そして、こんな病気な俺をなんとかここまで持たせてくれた医療に恩返ししなければという気持ちが生まれた。
だが、今さら医者になることもできない。
何かないのかと思い、大学三年の半分が過ぎた。リーマンショックが起き、景気は後退した。
そんな中、俺の代の就職活動が始まった。

18 :
今思えば、Fラン大学だったら就職はもっと難しかっただろう。
俺はやりたい方向は決まっているものの、具体的な職業が見つからなかった。
MRなども考えたが、病院に直接何かを働きかけたいという思いがあり、薬を売るというのは少し遠い気がした。
もっと別の何かはないのかと思い、様々な企業をあたった。
そこで一つこれという職業を見つけた。
俗に言う「コンサルタント」という職業だった。
コンサルタントとして病院の経営をアシストできれば、それは医療に恩返しできるのではないか。
現場に行き、直接病院に働きかけることもできると思った。
しかし、ものすごく競争率が高かった。
そもそも、東大どころではない海外の有名大学からも志望者が到するのである。
俺の大学では、内定がもらえると思う方が不自然だった。
しかし、これしかないと思った。
コンサルタントとして医療にかかわれる可能性がある企業は10社ほど。
その中でまだ先行が閉め切られていないものは4社だった。
その4社に狙いを絞り、就職活動を開始した。
結果、その中の1社から内定を獲得した。
4社のなかでも第一志望の企業からだった。
生まれて初めて、「第一志望に合格する」という経験を得た瞬間だった。

19 :
内定者を見て驚いた。
当然だが、俺が学歴は一番下だ。
上はハーバード大学まである。
一番のボリュームそうは東大じゃないかと思う。
そんな人たちと仕事をするのか、と不安を覚えた。
そして現在社会人二年目である。
外資系なので人切りも激しいが、まだなんとかやっている。
希望していた医療への貢献も、仕事を通じて果たしている。
まだまだペーペーなので、貢献なんて大きな声では言えないが、この調子でやっていければと思う。
それから心臓はたまに痛むが、医者からは経過良好といわれている。
それから、中学1年の時の友達とはまだ交友が続いている。
それどころか、今ルームシェアしている。
以上です。
日付変わったけど、4日から仕事始めです。
頑張ろう。
次安価
>>25

20 :
>>19
すごいね。よく頑張ったね。
これからも頑張って下さい

21 :
前スレ埋めろよ

22 :
頑張ったな
週6で大学行ったってだけで尊敬する
仕事で学歴を意識したことある?

23 :
頑張りに感動した
自分も頑張るよ

24 :
ksk

25 :
踏んでみる

26 :
>>25
よろしく

27 :
ものすごい長文になると思うが勘弁してほしい。
30歳♀。167cm。
北海道のど田舎で3姉妹の長女として誕生。
ちなみに両親は、わたしがデキたから結婚したっぽい。
小学校高学年だったか、両親の結婚写真を祖母に見せてもらったら、日付が「昭和56年2月」で、
ちょww半年後に自分生まれてるんですけどwwと思った記憶がある。
わたしは生まれたとき、というか生まれる前から試練を抱えていた。
顔面の先天異常を持っていたのだ。
生まれてすぐに母親とは離され、(しばらく対面できなかったらしい)
田舎の助産所→この辺で一番大きい総合病院→道内第2の都市の総合病院 と回された。
身バレ覚悟で書くと、わたしについた病名は「唇顎裂」。
口唇裂・口蓋裂と同じようなものだ。詳しくはググってほしい。見る人によってはグロ画像かもしれないが。
とにかくそんなわけで、幼少期は入院と手術を繰り返していた。
この時に修正手術をしてくれた主治医がいたからこそ、今現在、手術部位の神経異常や発音障害など一切無く、
いたって「普通」に暮らせているので、本当に感謝である。名前も覚えていないが。
しかし、病院や家族・親戚としか関わりがなかったおかげで、すっかりコミュ障になってしまっていた。
それに気づくのはもっとずっと先の話。

28 :
ksk

29 :
>>27
女性に比較的多い先天奇形だから大丈夫

30 :
初めて、同じ地域の同年代の子供と接したのは、5歳だった。
まったくもってコミュニケーションがとれなかった。
小学校に上がっても、それは同じだった。
その小学校6年間は、まさに第1暗黒期と言える。
田舎なので1学年1クラスだったのだが、
修正手術を施したといっても、やはりわたしの鼻は異形であると認識されていて、
わたしは案の定からかいの対象になった。
男子どもに追い回されて体育館に逃げ込んだが囲まれ、
追い詰められてテンパったのか、「わたしをいじめないで」と訳のわからないことを言って、
「なんだコイツwwww」と笑いを誘ったこともあった(これは小学校卒業ぐらいまでネタにされることになる)
時を同じくして、三女が生まれた(次女はわたしの1年半後に生まれている。つまり年子)
手のかかる三女と、要領よくくっついていく次女に、母が占領されている気がして、
わたしはいつもその輪に入れずにいた。
いつしか、わたしは母と距離を置くようになっていた。
それが、母と妹たちのためになると思っていた。
わたしは、団らんの場を離れ、一人でこもって、ノートに漫画絵を描いて過ごしていた。
自分の想いをうまく伝えられないということが重なるうちに、だんだん面倒になって、会話もほとんど無くなった。
たまに会話があっても、例えば学校に提出するプリント類を締切直前に母に見せ、
「そんな急に用意できない!」「でも持って行かなきゃいけない!」と朝から大喧嘩するような有様だった。

31 :
>>29
それは知らなかった。>女性に比較的多い
世の中には、口唇裂・口蓋裂の女児に「女の子なのに大変ねえ〜、お嫁に行けるかしら〜」などと
無神経なことを言うBBAがいるらしいが、自分は言われた記憶が無い。
まあ母は言われたかもしれないが。
それを考えると、母はなんて強いんだろうと思う。
わざわざ車で3時間もかかる(しかも峠越えあり)病院に通い、
そういう心無い言葉を受けたとしても態度には微塵も出さず、極めて「普通」に育ててくれた訳だから。
本人に聞いても、「そうだっけ?」と、のほほーんとしているがw
続き。
母はもちろん、クソみたいなクラスメートに認められるためには何をすべきか?と思ったわたしは、
小学生なら誰でも褒められる「テストで100点を取る」という方法を実行した。
特に勉強しなくても、なぜか簡単に100点が取れた。
ただ、思い通りにはいかず、100点を取り続けていくうち、わたしにはいつしか「ガリ勉」の称号が与えられた。
さらに、体育館のトラウマもあり、頼まれごとをノーと言えずにいると、
「誰かがやんなきゃいけないけど、誰もがめんどくさいと思うことを押し付けられる係」にも勝手になっていた。
班長、クラス代表の作文発表などなど。
それで「なんだかんだ言っても頼られてるじゃん、自分」と思っていたわたしをぶん殴ってやりたい。
この小学生時代に、初めて男子を好きになったり、お赤飯だったり(実際には炊いてない)したが、割愛。

32 :
中学生になって、わたしは吹奏楽部に入部した。
田舎なので、同級生は小学校時代とほとんど同じ顔ぶれだった。
運動系部活には、よくわたしをからかってきたリア充女子達がいたし、
体育の成績はずっと芳しくなかったので、消去法で吹奏楽部を選んだ。
ピアノなぞ全く出来ない(「猫ふんじゃった」すら弾けない)わたしだったが、なんとか先輩達についてやっていた。
すると、田舎の小さな中学校のバンドが、全道大会で金賞を獲得してしまった。
少人数編成の部門だったため、全国大会には出場できないので、事実上の最高賞であった。
ただし、その後母校は、地区大会ですら金賞を獲得できていない。
わたしが最高学年になった時もだ。
まあ、自主練習をサボって、怖い話大会を開いたり都市伝説を検証(午後4時44分に黒板に手を触れると吸い込まれる、とかw)したりしていたんだから、
落ち目になるのは当たり前の話だ。
この頃のわたしは、ガリ勉キャラを返上することに、なぜか執心していた。
また、暗黒時代真っ最中の、甲子園球場を本拠とする某球団を応援していた。
もともと父が野球が好きで、高校野球をいつも見ていたので、自然に野球のルールを覚えていった。
どうやら、本拠地が東京ドームの某球団は好きではないようだったので、これもまた自然に、アンチとなっていった。
当時は、まだ、数年後の自分が、プロ野球にのめりこむとは思っていなかった。

33 :
そんなわたしにも、高校受験の時期が来た。
吹奏楽の大会で演奏を耳にしていた、ある高校に、ずっと憧れていた。
しかし、田舎在住だと言うのに、貧乏な我が家にはマイカーが存在しなかった。
吹奏楽部に入れば、帰りが遅くなる→公共交通機関では帰ってこれない という事実と、憧れとで、わたしは葛藤した。
その結果、公共交通機関で帰ってこれる範囲内の、地元の高校に決めた。
ただ、そこは、吹奏楽の大会にも出ていないようなので、もう吹奏楽はやらないつもりだった。
入学した高校は、地域の底辺に当たる学校だった(名誉のために言うと、わたしの入学当時の話であって、現在は底辺ではない。はず)。
うっかり、わたしが生徒代表挨拶をやる羽目になったため、小学校以来のガリ勉キャラに安定してしまった。
第2暗黒期の到来である。
テスト前は、授業中に惰眠をむさぼっていたDQN達が、ノートやプリントを当然のように借りに来た。
自分は、授業時間以外に勉強したくないから、その時間に集中してやっているだけなのに。
全くもって納得がいかなかったが、チキン野郎なわたしは、DQNに反発もできずに、ただただ貸していた。

34 :
部活は結局、吹奏楽局に入った。
同じ中学だった先輩に熱心に勧誘されたのだ。
しかも、10人ぐらいしかいないのに、オリエンテーションで「大会で金賞を取ります」と言い放った。
大編成でなければ意味がないと偏見を持っていたわたしは、ありえないと思った。
しかし、外部講師による厳しい練習の結果、本当に地区大会で金賞を受賞することができた。
あと一歩で、全道大会に進めるという、惜しくて悔しい金賞だった。
わたしはこれで、少人数でもできるんだ!と、真の楽しさに目覚めた。
クラスでは前述のように、テスト前にしか需要のない空気のような存在であったため、
早く放課後にならないかと思いながら授業を受けていた。
ちなみに、高校2年のときも、たったの8人で大会に出場し、2年連続で悔しい金賞を受賞している。
余談だが、当時はルーズソックスが全盛期で、ほとんどの女子が履いていた。
しかし、生活指導でもあった顧問が、局内の女子にルーソ禁止令を出していたため、一度も履かずに高校生活を終えた。
もうこの年になると、コスプレというのもキツすぎるので、二度と履けないのかと思うと、少し残念である。

35 :
高校3年になり、わたしは局長に就任した。
先輩たちがどれだけ大変だったかということと、自分のクソさを実感した。
当時、SPEEDの絵里子などが出演する、吹奏楽部を舞台としたドラマが放送されていて、それに影響されて部員が増えた中学があると聞き、
自分たちも便乗を狙ったが、DQNだらけの高校では効果が無かった。
局員は6名に減り、さらに局長が至らないせいもあって、大会は欠場した。
そのかわり、大会の日はチケットもぎりのボランティアをやった。なかなかできない体験であった。
部活をしに行っていた高校ではあったが、ついに自分にも進路を決めなくてはいけない時期が来た。
高校2年の三者面談の席で、東京の専門学校のパンフ(自分で取り寄せた)を出したら、母と担任が凍り付いていた。
一生楽器に触れていたいが、演奏者としては腕がクソすぎるので、楽器の修理人(リペアマン)になろうと真剣に考えた結果だったのだが、
そもそも、自分がどうしたいのかを「事前に親や担任と話し合っておくべき場」だとは知らなかったため、壮大なドッキリとなってしまった。
もちろん、この当時も母との会話はあまり無いままである。(母が時間的に不規則な仕事を始め、すれ違い生活になっていたのもある)
結局専門学校の話は、唐突すぎるし資金も無いのでボツになった。
3年になってから、それまで進学希望で進めていた進路を、急きょ就職の方向に変えた。
テストの点と日頃の態度(笑)のおかげで推薦入学は確実だったのに、だ。
当時の自分は大学で何を勉強したいかがピンとこず、将来なにをしたいのかも見えずにいた。
かといってチャラチャラ遊んで4年過ごすのは無駄だと思ったからである。
ただ、やはりすぐには決まらなかった。こんなことなら簿記の授業を選択しておけばよかったと思った。

36 :
秋も深まった頃、藁をもすがる気持ちで参加した合同就職説明会で、わたしはHという会社のブースに立ち寄った。
本格的な面接をする他のブースで失敗し、へこんでいたところ、Hのブースは、会社説明などの話をするだけだと言った。(社長が不在のため)
面接しなくていいんだ、と安心して話を聞いた。
後日、H社の入社試験を受けに、流氷が漂着する市に出向いた。
そこで社長にひどく気に入られたわたしは、H社から内定をいただいた。
しかし、H社で、人生史上最大の第3暗黒期を迎えることとなる。
採用となったのは、流氷市ではなく、メロン産地市にある新工場だった。
どうやら前年から、メロン市工場を拠点にしていくようにシフトチェンジしたらしかった。
初めての一人暮らし、初めての労働(部活ばかりやっていてバイトも未経験だった)、
新しい人間関係、初めて持つ携帯電話…その全てに浮かれていた。
今までは6時間もかかって行っていた大都会・札幌に、2時間ほどで行けてしまうのも魅力的だった。
今思えば、それがすべての間違いであった。
メロン市で免許を取り、新車でマイカーを買い、毎週のように札幌へ出かけた。
ちょうどその頃、系サイトに興味を持ち、メル友を何人も作った。

37 :
落ちぶれていきそうな感じだなぁ

38 :
19歳になった初冬。
メル友のうちの一人と初体験をした。
終始、マグロだった。
快感など無く、どう反応していいのかもわからず、恥ずかしさからその疑問を聞くことも出来ずにいた。
結局、その男とはそれっきりだった。
回数を重ねれば分かってくるのか?と勘違いしたわたしは、それから、何人もの男と一度だけの夜を過ごした。
でも分からないままだった。
そりゃそうだ、「ヤったから好きになる」んじゃなく、「好きな人とするから気持ちが良い」のだから。
それに気づかせてくれたのは、同じくメル友だったT。
ひたすら喪女だったわたしにとって、人生初の「彼氏」であった。
Tは新潟県に住んでいるため、全く会えず、電話も毎日という訳にはいかなかったが、話せるときにはいっぱい話した。
身体もTとの電話で開発されていった。
それからの2年間で3回、新潟に出向いてTと会った。
3回とも生理だったのが、自分の空気の読めなさを表していると思う。
このときに利用した青い飛行機会社を、今でもずっと使っている。
今でも新潟はいい街だと思うし、また行ってみたいと思うし、現在40歳ぐらいであろうTにもいつか会ってみたい。
そして、あの頃のわたしと変わったかどうかを聞いてみたい。
現在自分の生きる支えでもある、野球観戦が趣味となったのは21歳頃。
因島出身バンドが好きで、よくラジオを聞いていたが、彼らは地元球団である広島東洋カープを番組内でも熱烈にュしていた。
前述したように、プロ野球・高校野球が好きで、某水道橋チームが嫌いだったわたしは、軽い気持ちでカープを応援しだした。
すると、選手を知りたくなり、その手段の一つとして2ちゃんのプロ野球板を利用するようになった。
どんどんカープにも2ちゃんにものめりこんでいって、1年後には見事なヲタクが出来上がった。

39 :
>>37
ちょうど、どん底時期のことを書こうとしてたらw
あなたはエスパーですかw
カープヲタになったのと同じ頃、同じ部署の先輩が退職したため、Yさんという人が配置換えで来た。
Yさんは何でも出来てしまうし、社内の人望もとてもある人だった。
それまで、上司が帰ったあと、会社のパソコンでインターネットをやっては、
残業として時間を申請していたクズ社員のわたしは、きっちり定時で帰らざるを得なくなった。
自分がやろうと思っていた、あまり急がない仕事も、気づいたら彼女が既に終わらせていた。
だんだん、毎日のルーティンワーク以外に、わたしがやる仕事が無くなっていった。
また、残業代も無くなり、毎月のお給金が少なくなると、わたしはサラ金に手を出した。
さらに、よく遊んでいた先輩(同じ部署ではない)に誘われ、ネットワークビジネスという名のネズミ講にもはまってしまった。
これでサラ金やローンの返済が楽になる!!と、ガムシロ並の甘い考えでの参加だった。
社内でのわたしの評価はガタ落ちし、今まで仲良くしていた先輩(別の人)が急によそよそしくなった。
完全にぼっちだった。
そして22歳の秋。
会社にサラ金からの督促の電話が頻繁にかかるようになり、とうとう会社側から、「なんとかしろ」と専門家に相談することを勧められた。
まあ事実上の肩たたきである。
このまま会社にしがみつく気も無かったし、その頃にはマイカーも無くした(事故って廃車)ためネズミ講からもフェードアウトしてたので、
わたしはすぐに退職願を書いた。
22歳の年末に、カープ関連で知り合った友人数人以外の連絡先を全て無くして、
わたしは生まれ育った故郷に出戻ってきた。

40 :
うっかりageてしまった…
こっそり語りたかったんだがなあ。
まあいいかww
5か月ほど、のんきにニート生活を送ったわたしは、ようやく、実家近くの職を手にした。
温泉ホテルの接客係である。
人見知りで、心のシャッターを開けるのに時間がかかるわたしに、接客が務まるのか、自分も含めみんな心配した。
しかし、やってみると意外と楽しく仕事ができた。
酔っぱらったオッサンからの呑みの誘いも、いつしか笑顔でかわせるようになっていた。
そういえば、小学校の頃、学芸会での演劇発表が実はすごく楽しみで、
主役にはなれなくても、ちょっとだけ目立てる脇役にいつも立候補していた。
接客とは演技力なのだと、つくづく思う。
あれよあれよという間に、6年半以上もホテルで働いた。
夕食(北海道ツアー)のセッティングだけだったのが、いつの間にか、部屋食を担当したり朝食セッティング→昼食提供を担当したりしていた。
女の集団特有の悪口大会と、土日・大型連休が無いことを除けば、やりがいもあり、続けてもよかった。
しかし、アラサーに突入すると、自分では何とも思っていなくても、勝手に「結婚とかどうなの?」と周りが聞いてきた。
田舎なので仕方がないのだが。(ちなみに、実家に帰ってきてから、ずっと喪女である)
そこで、ふと、「自分はずっとここにいていいんだろうか?」と疑問が湧いた。
借金の件は、23歳の夏に自己破産して(債務整理とかでは手に負えないほどクズな状態だった)、もう5年以上経っていた。
クレジットカードも作れるようになっていた。
カープの試合を見たくて、年1回ペースで広島に行くたびに居心地が良くなり、本気で「広島に住みたいなあ」とも思った。
ただ、広島に移住するにはリスクが高すぎた。生活環境が全く違うしわからないことだらけだった。

41 :
どうやって自分を改革していけばいいかを模索していた、2011年3月。
大震災が起こった。
地震なんてめったに起こらない土地なのだが、ぐるぐる回るように揺れていた。
テレビをつけると、ちょうど津波が田畑や車を飲み込んでいく映像が流れ、わたしは軽くトラウマになった。
翌日、実害がないので通常営業をするホテルでも、一日中震災関連のニュースが流されたり、
宴会の予約がキャンセルになったり(自衛隊の予約が入っていた)と、やはり混乱していた。
そこに、さらに混乱するニュースが入った。
わたしが所属しているA社の廃止である。
もともと、わたしは派遣社員であった。A社に所属し、ホテルに派遣され、A社からお給金をもらっていた。
しかし、A社所属の送迎車が事故を起こし、労基に目をつけられたらしく、
A社を廃止してB社に引き継ぐという形をとった、と、社長から説明された。
正直、もやもやした。
そして、今しかないと思った。
わたしは社長に電話で辞意を伝え、A社が廃止になるのと同時に退職した。
震災の影響と、ずっと朝食セッティングがメインだったのもあり、特に誰にもつつかれずに退職できた。

42 :
面白そうやないか

43 :
4月からは、ずっとハローワークに通ったが、なかなか採用されないまま月日だけが流れ、
結局、失業保険を満額受け取った。延長給付も満額受け取った。
最初は医療事務を希望していたため、その方面ばかりを受けていたが、
経験もなく、通うすべもない(マイカー無し、引っ越しも未定)人間を採用する病院は無かった。
ちなみに、なぜ未経験の医療事務にこだわったのかというと、
26歳の時に、顎裂部に自分の骨(細胞)を移植して、将来的にインプラントを入れよう、という計画を立て、
移植手術を行ったが、その際、病院で働くのもいいと思った。
ただ、今から医師や看護師になるのは無理なので、自分でも出来そうなもの…ということで、医療事務を希望した。
まあ実際は、そんな生半可な気持ちでできる仕事ではないのだが。
これで落ちたら医療事務は諦めよう、と札幌まで行って派遣会社の面接を受け、
帰りに札幌ドームでダルビッシュの快投を見てきたのが、30歳直前の8月だった。
今となっては、メジャーに行く前にダルを見れて、本当にラッキーだったと思う。
もちろん派遣会社には落ちた。
仕事の希望を市内の企業に変え、職種も経験のある接客系にしたが、どうしても夜遅い時間帯の仕事しかないため、
思い切って、人生二度目の一人暮らしを決定した。
ただ、不動産屋に行ったり、家財を揃えたりという作業は初めてだったので(メロン市のときは、家具家電つきの社宅だった)、
思い立ってから実際に生活をスタートさせるまでに、やはりひと月弱かかった。

44 :
そして現在。
一人暮らしはなんとか安定しつつある。
仕事は、11月から居酒屋バイトをしている。
ホテルの接客とは雰囲気も仕事のやり方も違う(唯一生かせるのは演技力)が、そのぶんやりがいもある。
半年のニート生活でついた余分な脂肪も、いつの間にかすっきりしていた。(5kg以上減った)
同僚もいい人&楽しい人ばかりで、この店で働けて本当によかったと思っている。
ちなみに、指導してくれた先輩のことを好きになったが…まあこの話はいいかw
母とは、出戻ってからの実家暮らしの間に、高校までの会話の無い関係を修復できた。
お互いに、本心を言わないから、どうしたらいいかわからず、ただ苛立っていただけだった。
今では、二人で父の愚痴を言い合っているw
妹二人とも、趣味が似ているせいか、連れだってカラオケに行ったり、野球やライブを見に行ったりしている。
昨年は札幌ドームのビジター席で、道民カープファンのスクワット応援を体感させたw
試合結果は聞かないでほしいw
しょうもない30年間の話は、これで終了です。
長文失礼しました。
そして、聞いてくださってありがとうございました。
なにかご質問があればどうぞ。
あと次の安価は>>50で。

45 :
広島なう
なんでよわっちーカープファンに?

46 :
>>45
自分は実況chのこいせん民でもあるんだが(ただしROM専)、
広島在住ではないカープファンが、なんでカープファンになったか?っていう話がちょくちょく出るのを見てると、
広島のみなさんは、そこが相当気になるのかなあと思ってしまう。
わたしのきっかけは、>>38にも書いた通り、因島バンド。
その後、長谷川イケメンすぎwwとか、うっちーべっちーって同い年じゃん!!とか、
徐々に選手を知っていった。
最初は選手ありきだったんだが、2004年に、初めて広島市民球場で試合を見て、
スクワットとか球場の雰囲気とかに感動して、一生カープファンでいようと決めた。
チームが弱いのも、選手を強奪されるのも、全部ひっくるめてカープだと思うのは、
少々お行儀が良すぎる回答だろうか。

47 :
結構ハードな人生歩んでるんだな・・・

48 :
>>47
そうでもないと思うが…?
他の方々のほうがハードだと思う。
親が離婚とか、虐待受けてたとか、暴力系のいじめ受けてたとか。
そういうのは何にも無かったので、自分は幸せ者だな。
まあ20代前半でブラックリスト入りした点は、ハードだと認めるw

49 :
落ちぶれたりしてたけど、自分で持ち直してる立派な人って感じ。乙。

50 :
乙。次安価は?

51 :
>>50
ふんでる

52 :
語らせてもらう
女 今学生
一番大変だったころのこと
中一の頃顔見知りがまったく居ない学校に引っ越した
私すっごい不細工なんだわ。救いようがないぐらい
おまけに馴染めなくていじめられた
毎日が辛くて、なんで生きてるんだろ?と病んでた
席が近くになるとばい菌扱いで、キモいとか言われるのは当たり前だった
なんだか言われたら相手を見ただけだった気がする
もう全部がめんどくさいみたいな
今だとぼんやりしてこの頃の事が思い出せない
けど一つだけ覚えてるのは美術室の寒い日
背の高い男子に「ホント消えて欲しいんですけどwww」と言われたこと

53 :
そんな感じだったからクラス替えが楽しみでしかたなかった
そして、中二になった
暗い・不細工・コミュ障の三重だから馴染めはしなかったけど
キモいとか避けられなくて、業務連絡?みたいな授業中の教え合いみたいのはできるようになった
超嬉しかった。分かりやすいって言ってもらえたり幸せだった
そんな感じでちょっとボーイッシュな女の子と仲良くなった。
その子はオタクだった、ガンダムの
そして自分もオタクになった。ガンダムじゃないけどねww
病んでいたのは治ってきたけど、怖くて男子とは会話できなかった。
そして病んでたのが治ると自分の家庭環境が悪い事に気がついた
母はアルコール依存症だし、父はDV男だ。
喧嘩するたび自分が父を止めてるのが可笑しい事に気がついた。
で、価値観っていうのか親の考え方は可笑しいと気付き、グラグラしていた時期
祖母が死んだ。大好きだった
母方の祖母だったから母がさらに壊れた。
もう現実見たくなかった、5分前に言った事を忘れる
出した夕食を投げつけてくる、もうずっと前から家事は自分でやってたから困らなかったけど

54 :
そんな家には居たくなかったから学校には行ってた。
男子怖くてしょうがなかったけど転機が訪れた
席替えして、前の席の男子がよく話しかけてくれたから
影でキモい言われてた自分と話してくれて嬉しかった
振り向いて、机のすみの方に猫の落書きしていったり
私がその男の子に問題の解説(?)したり
運動会で男女で組まなきゃいけない競技で一緒にやってくれたり
これ描いてってモンハンに出てくる猫みたいな画像渡してきたり
(私、美術部だった)
ありきたりだけど恋した
けど、それだけ。自分不細工だし。無理だ
2年の時の最後の時プリント配って相手が「ありがと」って言って受け取って
それ以来会話してない

55 :
3年になった
家庭の状況は2年の頃と変わらなかった
けど、クラスには馴染めそうもない。学校にも家にも居たくない
そんなストレスで疲れてた
じゃあ自分がクラスに馴染めればなんとかなるかなと思ってがんばった
クラス替えして、次の日から苦手だけど女の子達に挨拶した
変な意識しないようにして会話をするようにした
あれ・・・?話すって楽しいな
そんな感じに変わった
勉強は少しだけできたから教えてって言われて教えてたら
教えるのがとくいになった
やっと3年生になってクラスに馴染めるようになった。
そして余裕ができて家庭に目を向けられるようになった
母はアルコール依存症を直す病院に連れていくことに成功した
父もDVしなくなった。自分ががんばってるって認めて欲しかっただけらしい
そんな感じで今はかなり幸せです
書いてすっきりした、ありがとう
終わり
次は>>62ぐらいで

56 :
今何歳?

57 :
今は14歳の中三。早生まれなんだ

58 :
>>57
その年でよく頑張ってるね
苦労を知ってる人間はおっきくなれるとおもうよ

59 :
>>58
ありがとう、そうなれるといいな

60 :
ID変わったけど>>25を踏んで語ってた奴です。
>>49
ぜんっぜん立派じゃないっす;;
けど、母との関係が改善できた&前の職場でいろんな人(お客様しかり、従業員しかり)を見てきたおかげで、
地に足をつけた考え方で動けるようにはなったかも。
いまだに、大切なことを言わなきゃいけない時は尋常じゃないくらい緊張するし、
なんでも自分の中で抱え込んでテンパってしまうので、まだまだ修行が足りないと思ってる…
>>52
大変な中学生活だったみたいだが、今が幸せそうでよかった。
つらい時期を乗り越えたことは、これからの人生において、きっとプラスになるよ。
とりあえず、わたしみたいになっちゃダメだぞ!!ww

61 :
色んな人生があるな。

62 :
このスレ見てる事だし、語るか

63 :
今もしもしからなので、10分待ってくれ

64 :
やっとPCの前に来れました
普段ROM専なので、不明点があったら教えてください。
結構田舎の普通の家庭の末っ子として、生まれる。
上の兄弟とは結構年が離れていて、今に至る現在でも家族親類から可愛がられている。
小学校に上がるまでは、1度腸重積?というモノで入院した程度でこれといった事がない。
小学校に上がり、持ち前の明るさでイジメなく過ごす。
中学校では、不良がモノを言う感じだったので、上手く不良に取り入って難なく卒業する。

65 :
高校についてだが、自分は運動が苦手で絵心が全くない為、
体育と美術の比重が軽く且つ、兄貴と比較されるのが嫌で、
地元界隈の中でも就職率が高い商業高校へ進んだ。
高校では苦手な美術がなく、成績等の評価が兄貴と比較されない為、
のんびりと高校生活を送れた。
うちの高校は男女比が3:7で、自分のクラスは特に比率が悪く2:8と男子勢力は教室の隅で固まる他なかった。
しかし、その男女比が功を奏して、色々良い想いが出来た。
例えばだが、夏の登校中、雨が振れば濡れた制服ごしにブラは透けて見えたし、
夏の放課後プールサイド脇にある部室棟からは補習を受けてる女子の水着姿を
ここぞとばかりに鑑賞することが出来た。

66 :
それはいいねww

67 :
今気がついたけど、スペック晒してなかった。
28才 ♂です。
高校の時に打ち込んだモノと言えば、野球部の応援団に所属した事かな。
とは言っても、3:7の男女比。
男子勢の中の3割が野球部であるため、めんどくさい応援団なんか誰も入ろうとしない為、
なぜか、非野球部の男はクラス毎何人か選抜され、強制的に応援団に
加入しなくてはならなかった。
最初は嫌々加入させられたが、これが不思議と楽しい。
3年になる頃には副団長に抜擢され、団長がインターンで不在の時には、
団長の代役をこなした。
その応援団に所属していた為、同じクラスの吹奏楽部の部長と
仲がよくなった。(もともと仲はよかったが)
この部長とは在学中何もなかったのだが、吹奏楽部のとある1年生を
紹介してもらい、夏休みは毎日メールして、ついに恋に落ちてしまった。
夏休みが明けて文化祭に告白しようと計画している時に事件が起きた。

68 :
>>66でしょw後述するが、もう少しいい思いもしてる。
その事件とは、その1年生に彼氏が出来たという噂が流れた。
事実関係を部長に確認したところ、妙に濁った答えが返って来るだけ。
真実は文化祭の最中に発覚した。
所属していた応援団の1つ下の後輩と付き合っていた。
必ず各クラス出し物をしている為、そのカップルも自分のクラスの出し物に
来る事が分かった段階で、例の部長から呼び出された。
カップルが来るため、○○部屋で待機してろっ!と。
周りのみんなには裏方手伝いと通してくれていたため、回避することが出来たが
正直情けなさすぎて泣けて来た。
文化祭も終わり、みんな修学旅行の話題でもちきりになった。

69 :
当時のうちの高校はかなり珍しいが、国内と海外で修学旅行が2箇所になっていた。
自分は海外へ行く方だったのだが、国内のクラスが羨ましくてたまらなかった。
特定を避ける為、国名は伏せるが飛行機で6時間位だった気がする。
修学旅行ではこれといって色恋沙汰はなかったのだが、唯一覚えている事が
男女10人程でツインベッドで雑魚寝。
DTだった自分にはかなり刺激が強すぎてなかなか眠る事が出来ず、
気がついたら、膝を抱えながら寝ていた。
1歩間違えば、乱○出来る状態だったな。
そんな修学旅行が終わり、周りは就職と進学でざわつき始めた。
そんな自分は早く独立したかった為、就職を考えていたが、両親の猛反対にあい
進学方向へシフトし始めた。

70 :
就職率は高いが、決して頭の良くない高校だった為、
普通に過ごしているだけで、ある関東の大学の指定校推薦を獲得出来た。
余談だが、未だに偏差値とかその辺の仕組みがわからない。
大学に進学し、友達も出来始めた頃、サークルに入ってみたい!と思った自分は
今年立ち上げたばかりのサークルに勧誘され、よくわからない内に加入していた。
立ち上げたばかりと言うこともあり、1つ上の先輩達のみの為、遠慮なく冗談や
文句を言えて、なかなか充実した毎日を過ごしていた。
そのサークルの先輩の1人であるT先輩(♂)と急激に仲が良くなった。
T先輩は所謂イケメンでフツメン(だと思いたいw)の自分となぜか話が合い、
よく飯やら酒やらを奢ってもらった。
2年生になり運命のがあった。
身内の不幸で実家に帰省して、1人暮らしのアパートに戻る途中、
T先輩へ連絡し飯でも食べにいこうよと誘おうとした所、
今、とある所で飲んでるから来いよと誘いを受けた。

71 :
T先輩が飲んでいるバーは行ったことの内場所だった為、
途中にあるモスの前まで、人をいかせるから待ってろとT先輩が
迎えを派遣した。この派遣された人は自分と同い年だからという理由で
派遣されたのだが、待ち合わせ場所で待つこと5分一向に現れず、
帰ろうかな〜と思った矢先、声をかけられた。
てっきり男だけで飲んでいる思っていた為、
女の人を派遣してくるとは夢にも思わなかった。
この女の人をY子として、T先輩とY子とY子の友達と3人で飲んでいたのである。
さすが、イケメンT先輩。LISA似のY子、栗山千明似のY友。
身内の不幸で傷心の自分を差し置いて、こんなハーレムで飲んでいたのか。
と少し妬んだ。
その日は全員連絡先を交換して解散となった。

72 :
当時二十歳だった自分と同い年のY子とY友。
Y子は結婚していて子供がいるとのことで、ちょくちょく夜中に
夜泣きした子供を寝かしつけたはいいが、自分が寝付けなくなったと
電話をしたりメールをしたりしていて、よくT先輩を交えて話していた。
初めてあった日から2ケ月位経った頃、飲みに行きたいけど相棒が見つからない
とY子から連絡があった。みんな試験勉強で忙しいと断られ続けたらしい。
自分も漏れなくその試験勉強で忙しい1人であったが、可哀想な気がした為、
渋々飲みに行った。
その日を境に2人で飲みに行く事が多くなり、時にはY子、Y友、自分、自分の友達の
4人で飲み⇒カラオケ⇒飲み直しコースだったり、2人で飯食べに行ったりする機会が増え
日に日にY子に惹かれていった。

73 :
しかし、Y子は既婚者。想いをぶつけようにもぶつけられない。
悶々としたある日、いつものように4人で飲み⇒カラオケ⇒Y友の部屋で飲み直しと
いつものコースで始発で帰ろっかーと自友と話していたら、Y友もバイトの早番で
一緒に駅に向かう事となった。
1人置いてかれるY子は、潰れて今にも吐きそうな感じだったが、心配かけまいと
平気平気と連呼していた。
アパートに戻りY子が心配な為、電話してみた所、全然大丈夫じゃなさそう。
またY友の部屋へ向かった。
向かう途中、お茶とジャンプを買って、Y子の世話をしながらジャンプを読んでいた。
Y子はお茶を飲むために起き上がる事すら出来なかった為、仕方なく前日の罰ゲームで
やった口移しでお茶を飲ませたりしていた。

74 :
あとはご察しの通り、朝チュン☆
それから、ほどなくしてY子と付き合う事となったのだが…
当時でも、Y子はまだ既婚者。
旦那さんの職業が特殊で夕方5時〜翌朝4時まで帰って来ないことを良いことに
Y子宅でばかりしてた。
朝チュンか☆から約2ヶ月後、Y子離婚してた。
それからは、T先輩にだけ付き合っていることを明かして、
Y子とは週に1度、街で遊び⇒自宅でが日常になった。
付き合い初めて1年後、Y子とY友が自分の実家に泊まりで遊びに来た。
Y子は気を使って駅付近のビジホに泊まるようにしていた。
地元で遊び倒し、駅まで送って行った。
帰りの電車内で暇にならないよう、程よくメールしていたのだが、
突然返信がなくなった。

75 :
物のせいにする訳じゃないが、当時使っていたケータイ、折りたたむと
操作がキャンセルされることが多々あった。
おかしいなと思って返信がなくなった2時間後送信履歴を確認したら、
返信されてなかった。やばいと思いすぐに返信したが、Y子は向こうに着いたら
ジンギスカンを友だちと食べに行くとかで、返信は来なかった。
翌日も返信がなく、夜が更け寝ようかなと思った矢先1通のメールが。
「別れたいんだけど」
いやいやいやいや。と思わず呟いて、即電話をした。
自分でも話した内容は覚えてないが、別れる理由が結局分からないまま、
破局を迎えた。
破局後少しでも見直してもらって、復縁したかった自分は
ちょうど就職活動の真っただ中で、東証一部の企業に内定をもらった。
それに自信をつけた自分は改めて告白しにバイト先に向かうが、あえなく撃沈。
これが今のところ最初で最後の彼女の話。

76 :
それから大学時代は何が起こるわけでもなく、無事卒業して、就職。
就職先はちょっと特殊だが、慣れればなんて事はないなーなんて思っていた頃、
仕事中にお客と仲良くなり、いきなり飲み⇒をやらかしてしまった。
事後に分かった事だが、そのお客は、またまた既婚者だった。
指輪してるのに一人暮らしとか珍しいなと思っていたが、まさか旦那のDVから逃げる
為に一人暮らししてるなんて思わなかった。
その後その人とは連絡が取れなくなったが…
北関東・関東の営業所を転々として、現在実家から片道1時間程の営業所に配属されてます。
まぁ、今月で自主退職しますが。
これが自分の半生でした。
>>87

77 :
朝チュン☆って何だ?
アニメとかヲタク御用達の何かのタイトルみたいでモヤモヤする。

78 :
>>77 よく少女漫画で、ベッドインする男女〜ぽわぽわした背景〜朝にチュンチュン鳴く雀
朝チュン=でいいかと。
まぁ、ジャンプ読んでた時点で朝7時は回っていたがw

79 :
>>76
乙 読みやすかったよ
ところで、自主退職の理由はなに?他にやりたいことがあるん?

80 :
もしもしから。
>>79
自主退職は仕事場の人間関係です。
上司と水と油でまったく合わない上に支配政権確立の為のスケープゴートの標的にされているのと、会社の方針にも賛同出来ないので、自主退職します。
まぁ上司の思う壷ですが、人事部と労基には訴えかけておく予定です。
今後のことはあまり考えていませんが・・・

81 :
皆はらんばんじょーな感じだなぁwww
ここ来るとなんもない人生過ごしちまったと思うぜ…

82 :
>>80
レスthx
労基かー。後々のことを考えるとやめといた方がいいかもよ。
「あいつは労基に訴える奴」という情報は、なぜか広まって就職しにくく・・・

83 :
ksk

84 :
ksk

85 :
ksk

86 :
ksk

87 :
初心者ですがいいすか

88 :
問題なし

89 :
初めて2chに書くから変だったらごめん
スペック
16歳 女
文章力無いから短くなると思う
11年片思いしている話をします

90 :
支援

91 :
その彼(以下T)に会ったのは幼稚園
発表会の時だった
五歳だった私はぐりとぐらのウサギを熱演し終え友達のダンスやら劇やらを鑑賞していた
そうしたらそのTがステージに立った
見た瞬間に手汗が出てそれからTの事をガン見してた
北風小僧の寒太郎だったと思う
それからちょくちょくTのクラスに行きチラチラ見たり少し話しかけたりした
これが好きってことかって分かった

92 :
そして小学生になった
まさかの同じクラス
出席番号が誕生日順の学校だったからそれなりに席も近く、幼稚園も同じ事もあってよく喋るようになった
そこで親友(女)も出来た
私は猛アタックした
他の女の子達よりTと喋ったり遊んだりした
それがTにもつたわつ

93 :
ごめんなさい 間違って送ってしまった
そして小学生になった
まさかの同じクラス
出席番号が誕生日順の学校だったからそれなりに席も近く、幼稚園も同じ事もあってよく喋るようになった
そこで親友(女)も出来た
私は猛アタックした
他の女の子達よりTと喋ったり遊んだりした
それがTにも伝わったのか
Tから告白された
これが小2の春

94 :
付き合うって程ではないけど初めて2人で話したり2人で遊んだりした
その現場を見られてクラスでからかわれたりもした
多分クラス公認のカップルだったと思う
ある日放課後校舎裏に呼ばれた
そこで「キスしていい?」と聞かれた
びっくりしたし恥ずかしかったけど「いいよ」って答えた
Tが頬にキスをした
その後顔が見れなくなったのかすぐにランドセルしょって「ささささよなら!」と帰ってしまった
これが小2の秋

95 :
キスをしたのが本当に恥ずかしくてその次の日からあんまり話さなくなった
そのうちキスしたことが噂になったりもして私とTの間に溝が出来た
そして3年生になるとクラス替えになりTと離れてしまった
もう話すこともなくなり自然消滅
それでも私は好きだった
しかし話そうと思っても話せなかった
避けられてたからだ
これが小3から小5の夏まで

96 :
また復縁したかったけど避けられてるのが分かったから嫌われたくない一心で話しかけたりはしなかった
でもここで転機が来た
掃除の場所が隣になった
それだけ?って思うかもしれないけど好きな人と2年間喋れずの私にとってはこれとない嬉しさだった
私は黒板掃除の担当になった
私の学校は黒板のクリーナーが学年に一つしかなかったからそこへの移動中に会えればいいなと思っていた
そうしたらTも黒板掃除らしくクリーナーの前にいた
後ろにいた私に気付いたらしく
「レディーファーストでどうぞ」と言われた
話しかけてくれたことが嬉しくてその夜は帰ってから泣いた
それから掃除の時間だけ話すようになる
これが小5の秋

97 :
宿泊学習になり
磯遊びの時間になった
親友に「掃除の時間喋れるなら普通でも喋れる。行って来い。」と言われもうどうにでもなれと思いTのところへ向かった
行った瞬間波が後ろからすごい勢いで来てTの上に降りかかった
一瞬時間が止まったようになった
そして緊張の糸が切れたように2人で笑った
やっぱり好きだなぁと感じた
それがきっかけになりまた話すようになった
そして冬休み前に今度は私から告白
返事はオッケーだった
これが小5の冬

98 :
長々とすいませんもう少しで終わります
小5でまた付き合えるなんて思ってなかった
Tの家に行ったり電話(もちろん家電)したり違うクラスだったから教科書を貸してもらったり毎日が幸せだった
しかしある日を境にまた避けられるようになる
なんでだろうって思ってたら6年生進級した
春になり運動会になった
仮にも付き合ってるしと応援しに行こうとしたらTと同じクラスで部活が一緒の女子に呼ばれた
「Tね、嫌いらしいよ…」
これが小6の春

99 :
そこから直接言ってくれなかった悲しさ、初めて好きな人に否定されるという苦しさから私から本格的に避けるようになる
本当に好きで好きで仕方ないのにTの事を見るだけで胸を締め付けられて
嫌いになりたかったけどなれなくて
時間が経てば嫌いになれると思った
嫌いになれずに4年が経った
私は中学3年生になっていた

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