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2011年10月1期大河ドラマ【ガトリング家老】河井継之助の大河なじらね?
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【ガトリング家老】河井継之助の大河なじらね?
- 1 :08/04/21 〜 最終レス :11/12/08
- 幕末動乱の時代に越後の小藩、長岡藩で武装中立の理想を掲げ
ガトリング砲を独自ルートで2機購入、世界で12機、日本に3機しかなかったという
戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めた北越戦争を指揮する
自ら戦線に立ちガトリング砲を撃ちまくり大被害を与え、新政府軍を大いに動揺させた
河井継之助の大河をつくるべきだと思う、原作は司馬遼太郎「峠」でお願いします
「十七歳の時 国を助けることを天に誓ったのに
二十九歳の今 その心は倒れようとしている
千載一遇の機会を生かすことは難しく 世の辛さを知り ため息をつく」
「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」
「天下になくてはならぬ人になるか あってはならぬ人になれ」
NHK「その時歴史が動いた」
「北越の蒼龍 “明治”に屈せず 〜河井継之助 地方自立への闘い〜」
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_03.html#01
河井継之助 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%BA%95%E7%B6%99%E4%B9%8B%E5%8A%A9
『峠』司馬遼太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%A0_%28%E5%B0%8F%E8%AA%AC%29
- 2 :
- 1年もたん
- 3 :
- 花神の時に高橋英樹が熱演していたぞ。
- 4 :
- 「花神」で高橋英樹でやったよ。
大村益次郎が主人公だけど、脇役で長岡藩の河井継之助も出てきた。
若い時の緒方洪庵塾の勉学の様子や、陽明学が好きな事や、家族の描写や、政府軍と壮絶に戦い
倒れる様子など、いまやってる駄作と違ってかなりしっかり描かれていた。
「花神」じたいが司馬の「花神」と「峠」と「世に棲む日日」と「人斬り以蔵」を
ミックスした大河だから。
- 5 :
- 越後の人間しかみないだろw
- 6 :
- A-10好きだから見るwwww
- 7 :
- 本物のラストサムライともいわれる河井継之助の大河みたいでしょ?
一年もたない?
じゃあ河井の親戚小林虎三郎の米百表物語や戦友三島億二郎のエピソード追加すればいいじゃん!
- 8 :
- この人の写真みたが、ガトリング砲が似合ういい顔してるねェwww
マカロニウェスタンに出ても違和感なさそう。
- 9 :
- 時勢を全く読めず武装中立などというアホな理想をかかげ祖国を火の海にした張本人短慮浅はかな御仁の大河なぞ
誰が見るか
- 10 :
- 俺は田崎草雲の大河がみたいよ
原作「喧嘩草雲」
- 11 :
- >>1
>大河なじらね?
???
- 12 :
- 見たい!1年持つよ。江戸でいろんな人に出会えばいいんだよwwwwwwww
- 13 :
- ぐぐれ
- 14 :
- 松蔵の大河やれよ!!
- 15 :
- 松蔵の大河をずっと待つぞうなんちってw
- 16 :
- 確かに河井継之助というと真っ先に高橋英樹の顔が浮かぶな。
同様に島津久光の方も高橋英樹が真っ先に浮かぶのは困ったものだ。
- 17 :
- 司馬遼太郎「峠」は上中下巻もあり一年持つだろ。山田方谷の所へも
行っただろ。小林虎三郎を準主役にすれば話に厚みもますね。
しかし、長岡メインは直江とかぶるからやらないだろ、それと
変な言葉を使うな
>なじらね?
- 18 :
- 勘三郎主演の失敗作を思い出す。
- 19 :
- >>17
>なじらね?
「どないでっか?」の長岡弁バージョンだボケェ
- 20 :
- 見たい見たいすごく見たい
「峠」は司馬遼太郎の本の中で一番好き
- 21 :
- >>11,17
なじらね?(長岡弁)→いかがでしょう?(標準語)
そいがー、長岡はマイナーらろっか・・
継サの大河なまらみてえんらども
難しいんらろっか
峠は司馬作品の中でも人気ある方らと思ったんけど・・
- 22 :
- 『河井継之助の妻「すが」の証言』も加えて
- 23 :
- >>21
そんなの、長岡周辺のみで、大多数の人は知らんぞ。
「河井継之助が大河になったらなじらない(詰る=問いつめる)か?」
っていう意味かと思った。それにしても意味不明なんだけどさw
- 24 :
- 水曜なじらね
- 25 :
- 「河井継之助の大河なんでないの?」
っていう意味のスレだと思ってた
- 26 :
- 衆参なじらね現象
- 27 :
- 今の俳優だと、河井に合いそうな人いないなあ
- 28 :
- >>27
斉藤洋介
- 29 :
- >>27
鈴木宗男
- 30 :
- >>27
香川
- 31 :
- やっぱ河井は知名度低いのかな・・
地元で賛否がわかれてる人、っていうか嫌ってる人が多いかも
墓は傷つけられたり倒されたりしてるらしいし
最近まで河井継之助記念館は福島の只見町にしかなかった、冬の間は閉館するような感じらしい
http://www2.ocn.ne.jp/~tadami/kawai.htm
http://www.tadami.gr.jp/kankou/kawaikinenkan-top.htm
http://www.tadami-net.com/kawai/index.html
http://www.ne.jp/asahi/minamiaizu/mori/tadaminomidokoro/kawaituginosuke.htm
---------------
●「河井継之助記念館」がオープン・ガトリング砲など展示
作家の司馬遼太郎氏の小説「峠」の主人公として知られる幕末の長岡藩家老、
河井継之助の記念館が新潟県長岡市に27日オープンした。長岡市が継之助の生家跡の住宅を改装し、
継之助の生涯を通した人間像を紹介している。
近くには継之助の墓や山本五十六記念館、JR長岡駅などがあり、市は一帯が観光周遊ルートになることを期待している。
記念館には継之助が日本で初めて使ったとされる当時の最新兵器「ガトリング砲」(手動の機関銃)の原寸大模型や
司馬氏の「峠」の自筆原稿など32点を展示している。総事業費は2億4000万円。
2階建てで展示スペースは220平方メートル、延べ床面積は440平方メートル。
http://www.nikkei.co.jp/news/retto/20061227c3b2704927.html
河井継之助記念館 新潟県長岡市
http://www.tsuginosuke.net/index.html
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/miru/siryou/tsuginosuke.html
2年前に長岡にも河井の記念館できたけど、長岡では米百表の小林虎三郎ュしてるらしいね
すっと河井は無視されてた感じらしい、地元が盛り上がらないと大河は難しいかも
- 32 :
- 鈴木宗男www
- 33 :
- 「峠」を読む限りだと、若い頃の加藤剛を
もうちょっと悪くしたようなイメージなんだよなー
- 34 :
- そりゃ本土決戦を主張した日本陸軍となんらかわらんもん。
- 35 :
- 山本五十六とセットなら一年もつ
俳優は一人二役でやってくれ
- 36 :
- >>34
たしかに薩長は糞かもしれんが、幕末にも義を問うた侍がいたわけで。
勝てば官軍的な流れで現在まで来てるけど、河井継之助は靖国神社に祀られてもいい人物だと思うよ。
- 37 :
- >>35
山本五十六の山本家は中々すごいよねw
武田信玄の軍師だった山本勘助の家系と言われてる。
北越戦争の責任を問われて河井家と山本家が家名断絶になったんだが、
長岡藩主だった牧野家が家名再興に動いて再興されて継いだのが五十六。
継之助と共に責任を問われた山本帯刀もすごい男なんだよな〜。
- 38 :
- ドラマの出だしは真珠湾攻撃に向かう山本五十六でそのまま河井にフィールドバックされて物語は始まる。
最後は河井が戦場で負傷して亡くなるシーンと五十六が乗った戦闘機が撃墜され墜落していくシーンがオーバーラップされて終わるようにする。
- 39 :
- つまんね
- 40 :
- 市街戦になって長岡藩では市民が苦しみ、死後墓石をあらしにくるものが絶えなかった
と言ってたが、TVでお坊さんが削られた墓をまえにコメントしてたのみたら
評価が分かれる人物なので、「花神」みたいに脇役の一人ならいいけど主役は難しそう。
- 41 :
- 一年間ガトリング砲ぶっ放し続けとか
- 42 :
- でも、ふぐすまでは英雄なんだろ?
- 43 :
- >>37
勘助の子孫だなんて、よくまあ吹いたよなw
武者震いがするのぅ…
- 44 :
- そもそも長岡藩の大勢は恭順だったんだけど、
幕府とか良好な関係だったけど、港を幕府に奪われたりしたしから。
河井がそいつらを弾圧して、強硬派の河井が実権を握り、
戦争を決断した。
中立とか言いながら、会津が長岡領地内で、陣地作ってもスルーしているんだから、
そんな中立とおるわけないのに。
さらに戦争中は長岡から撤退するときに、城下町を焼き払って焦土作戦。
そりゃ長岡の人から怨まれて当然だと思う。
- 45 :
- つーか、史実がどうであったかよりも「峠」の河井からは人の
生き様を教えてもらった。
交渉の相手が岩村でなく山縣なら河井を拘束して北越戦争は起きなかっただろうが、
「峠」を読めるのは岩村のおかげだ。
- 46 :
- >>44
大義のない戦いだからしょうがない
新政府に金をだして、尚且つ会津討伐に参加する理由はない
長岡藩は新政府と会津の板挟みになってしまった
スイス連邦を手本とし武装中立を狙った河井はすごいじゃないか
- 47 :
- 「峠」はドラマになってないんか…と思って出てきた「花神」
これは未見なんだけど、すげーおもしろそうですね
- 48 :
- >>47
30年も昔のドラマだし長岡藩が出てくるのは最後の方だけだし、
現存してるのは一応総集編だけだから
峠の大河ドラマ化は是非ともやってほしい
前年の平将門みたいに奇跡的に全話発見されればいいのだが
- 49 :
- 長岡城を奪還するやつやってほしい
- 50 :
- >>46
あのね武装中立の場合は、あらゆる国に自国を利用されずに、
常に中立でないといけないの。
会津にも一切協力したら駄目。
河井の場合は、武装中立と歌いつつも、奥羽列藩同盟の軍が駐留するのを認めている。
この時点で中立にはなってないの。
スイスなら、即座にこの奥羽列藩同盟に攻撃を仕掛け、領内から追い出し。
新政府軍がきても、一歩でも入ったら敵だ、といって攻撃を仕掛けるよ。
- 51 :
- >>50
長岡藩は譜代だから簡単ではないよ
封建制から移り変わる狭間の時代だったことも考慮しないといけない
河井自身が異例の取り立てで家老になった人物だからね
- 52 :
- もちろん大政奉還後に勝ち馬(新政府)に乗った藩が多数いて
寝返った藩も多かったわけだけど
小さな長岡藩での生き様というか選択が面白いんだと思う
- 53 :
- >>50
302 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 21:53:47
「河井継之助伝」にはこんな記述がある。
『山県老公に御逢いした当時は、某重大事件(大正十年の宮中某重大事件)の為、老公は快々として楽しまず、
余程機嫌が悪かったところが、彼。の蒼龍窟の絶筆(梛野嘉兵衛に宛てし書簡)をお見せしたに、非常に喜ばれ、
戊辰戦争当時を追懐して、
「之は実に珍しい、貴重の品を拝見した」
といわれ、
「私は河井という人には小千谷では逢わなかった。今から考えて見れば実に残念なことをしたと思う。
あの当時の状況は、譬えてみれば長岡藩の立場は、丁度今の(欧州大戦争〈第一次世界大戦〉の始まりし当時なり)
ベルギー国のような具合で、中立地帯であるというのを、之を突破して進むというのであった。
我々の意見は、兎に角河井をひっくくってしまえば後は大丈夫だろう、河井をひっくくらうというものであった」・・・・・
そうそう、この手紙にある「分捕り品山の如し・・・・・」とあるが、之に就いて思い出した。おもしろい話がある。
分捕られた品は皆薩摩の方の物で、彼等はすっかり分捕られてしまった、実に閉口して居った。
我々は(長州人)は何遍もからかってやったものだ。どうだ大急ぎで薩摩へ帰って、もう一度用意しなおして出て来るんだね。
−といってやったものだよ」
云々。
参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 目黒書店 昭和6年 762ページ
これを読むと山県は河井を留めて置くように指示を出したんじゃない?
岩村に伝わる前に会談は決裂して戦争に突入したわけだが・・・
- 54 :
- 武装中立で新政府に刃向かった生き方にはロマンを感じる。
長岡藩の人にしたら市街戦でおらが郷土を灰にした道を誤ったとんでもない
指導者だったろうが。
会津藩を領内に入れたり矛盾していたところがあったり、当時の複雑な情勢や、なまじ最新鋭の武器をもっていたことから
戦争になったりいろいろ事情はあるだろうが、高杉晋作が防長2州に割拠すると言って幕府と一戦を交えた事とか、榎本武揚の蝦夷共和国とか
と同じで弱小勢力が中央政府に反抗する姿勢はかっこいいと思う。
- 55 :
- 山本帯刀って有名か?
- 56 :
- >>55
どこかの帯刀よりは有能だろ
- 57 :
- >>1いい目の付け所だと思うけど、この作品が認められると正義のために自衛隊が戦闘行為することが正当化されるからやばいちうか
国家として正しいのは「たとえ正義でも負けるケンカは絶対しちゃ駄目」「友達裏切ってもじぶんちの安全第一」なわけで
河井の生き方がカコイイだけに感化される若い世代の男とかいそうでヤヴァス
あと「いくさはしてはならんでや」という河井のキメ台詞はカコイイが、実際は「いくさはしてはならんれや」といった「ら行方言」が多くて間抜けなので笑い者になる怖れもある鴨
- 58 :
- 幕末マイナー人物
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1047302970/451
山本帯刀・・・・1844〜1868
代々家老職を継ぐ門閥であったが、聡明にして果敢という評
価がされている人物で、河井継之助の人物、思想を理解していたとされ
藩政改革での藩士の俸禄改正では三分の一減俸を積極的に受け入れ、
藩士の範を示した。
長岡で戦端が開かれるや若き指揮者として重きをなし、大隊を率いる将として奮戦
長岡陥落により八十里峠附近で残存の長岡兵を指揮し西軍進入を8月末まで阻止。
その後会津若松へ転戦、会津戦争を配下の長岡兵と共に戦うも明治元年9月8日、
会津の飯寺村において集結の西軍攻撃を濃霧の中行うも長岡兵は敵味方を誤認し
配下の43人と共に捕らわれた。
西軍の将はその人物を惜しみ降伏を勧めたが降伏を拒み、
山本含み43名は翌9日斬首された。享年24歳
山本帯刀亡き後の山本家はその後、養子となった山本五十六が継いだ。
- 59 :
- 466 名前:日本@名無史さん 投稿日:2005/09/23(金) 00:49:45
>>332
山本帯刀は山本五十六のおかげでなかなか有名だろ?
こいつ捕まり方は馬鹿だが、いさぎ良さとか意志の強さは武士らしくて好き。
一緒に捕まった従者の渡辺豹吉の末弟の廉吉は兄の死後、苦学力行し開成学校から文部省にはいり、伊藤博文総理の秘書とし活躍し貴族院に勅選され、従三位法学博士、行政所部長となる。
467 名前:日本@名無史さん 投稿日:2005/09/23(金) 00:58:47
>>466馬鹿な捕まり方とはいかなる事?詳細キボン
468 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/09/23(金) 01:13:53
明治元年、河合継之助が奮闘するも死に、帯刀は雪辱に燃えた。会津入りし水戸藩と協力し日光口の新政府軍をたたき会津鶴が城の兵糧を確保しようとする。
会津藩は鶴が城の籠城戦に入っていた、13日目の九月五日、藩家老の佐川官兵衛が日光口の新政府を破る。
会津に展開してた山本帯刀ら長岡藩士も勢いにのり士気たかまる。
九月八日、帯刀らは会津の阿賀川を渡河した。山峡特有の濃霧が一帯を覆っていた
469 名前:つづき
投稿日:2005/09/23(金) 01:25:40
午前八時ころ雷のごとき銃砲声がとどろいた。そのままこだまとなり、山間の空気を揺るがした。百名の長岡兵は砲声のする方向に動くが、方向を見誤ったのか、見方がいると思われる所から銃弾が飛んできた。
「味方を撃つとは何事」
しばし返答がない
やがて
「お手前は何藩か」
と問う声がする
「越後長岡」
勘違いしたのはこちらであった。
考えるなり、「やっ」と叫び、新政府軍が一斉射撃を始めた。
悲鳴と絶叫を上げる長岡藩士たちに新政府軍の包囲網は狭まり、長岡兵14名は銃口に囲まれた。
この時、濃霧に紛れ逃げようと思えば逃げれたのだが長岡兵は敵に背を向けるを潔しとしなかった。
捕えられた兵のなかに山本帯刀の姿もあった
470 名前:さいご 投稿日:2005/09/23(金) 01:47:15
捕えられた帯刀は小軍監、三宮義胤に尋問された後、官軍に加わる気はないかの問に断固拒否、14人のうち一人も新政府軍の甘言に乗らなかった。
その場の主力は宇都宮兵だったが、長岡藩兵生け取り名簿は、新政府軍軍監の薩摩藩士、中村半次郎に提出された。
半次郎は躊躇なく言い放った。
「大隊長、山本帯刀と従者の渡辺豹吉を残し斬首せよ」
命令を受け12名の長岡藩士はその場で首を斬られることになる。
翌朝、山本は「再度訊ねっが、錦旗を奉じ、官軍に身を投ずっ気はなか」
訊ねたのは薩摩兵だった。
山本は、敵の軍門に降れと主命は受けてない、さっさと首をはねよ。と言い張る、
覚悟を察した薩摩兵は二人の縄を解かし、
山本、渡辺 の順で斬り、山本は長岡藩の主命に殉じた。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1047302970/466-470
- 60 :
- 「山本帯刀」
慶応4年(1868)の戊辰北越戦争で長岡藩随一の勇者といえば、24歳の若き大隊長の山本帯刀(たてわき)である。
開戦の榎峠の戦いから常に先陣にあり、今町の戦い、八丁沖の戦いでも、河井継之助の前にはいつも帯刀がいた。
継之助が負傷してからの会津への転進では、今度は一転して最も危険な八十里越の鞍掛峠で殿軍(しんがり)を務め、
8月6日から約20日間、多くの同盟軍兵士や藩士の家族そして領民を守り抜いた。
帯刀は常在戦場を旗印とする長岡藩の武門の象徴である家老の山本家を継ぎ、幼くして神童と言われ、あらゆる武術に優れていた。
継之助の改革を率先垂範して実行し、もし帯刀がいなかったら継之助の名声は後世には残らなかったと思われる。
山本帯刀の捕縛の知らせは越後口総督府にもたらされた。
北越戦争の実質的な責任者でありながら長岡で足止めを食った山県狂介の本営はまだ越後の新発田城にあり、
やっと先鋒隊が会津に入った段階であった。
慈眼寺の会談にも岩村精一郎とともに会談に参加した薩摩藩の淵辺直右衛門を含む3人の軍監は、
帯刀の人物を惜しみ助命のために降伏せよと迫ったが、「藩主われに戦いを命ぜしも、未だ降伏を命ぜず」とがんとして降伏を拒否した。
帯刀をはじめ長岡藩士の斬首が決まり、藩主そして長岡の方向に別れを告げ、粛々と異郷の地に散っていった。
くしくも慶応から明治に改元された9月8日のできごとである。
帯刀の家僕の渡辺豹吉は越後から主人と行動を共にしてきた。豹吉は主人の死を見届け、
遺骸を埋めてから死を賜りたいと懇願し、新政府軍の責任者も忠孝に免じこれを許したという。
戦争責任を負わされ、ここに三河以来の武門の名門山本家は途絶えることになる。
「山本家の墓」
長岡藩家老職山本家は、武田信玄の軍師山本勘助の血脈。代々藩主牧野氏に仕え、治政、文政に尽した。
特に老迂齋精義は、名家老と賞賛され、歴代の藩主を50年にわたってよく助けた。幕末帯刀義路は、
北越戊辰戦争で大隊長として奮戦。会津飯寺で痛恨の死を遂げた。
山本五十六元帥は、旧長岡藩士高野家から山本家を継いだ。
はやくから航空機の重要性を説き、連合艦隊指令長官として、近代戦を指揮したが、昭和18年4月18日、南冥に散華した。
長岡市教育委員会
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/yamamoto.htm
- 61 :
- >>60
感動した
稀代の英雄を単なる田舎の門閥馬鹿家老と決めつけた奴と同じ年なのにこれだけ立派な人物だな
- 62 :
- 維新で中央集権したのは間違いだった。
- 63 :
- これ本当に見せ場満載のいい原作なんだけどね
家族愛も郷土愛もエロも戦闘場面もてんこもり
幕末モノは薩長か幕府&会津かどっちかの視点に偏るのがガチなのにまさに「中立」な視点で明治維新考証できるし
戦争美化が嫌なら「米百俵」と合作してラストにあれもってくればいい
- 64 :
- 蒼竜河井継之助_唄_佐藤太一
http://jp.youtube.com/watch?v=3f_3kIpUQXI
- 65 :
- 峠の大河化だと登場人物に有名な人が少ないかもしれん
坂本竜馬がいないのは痛いな
- 66 :
- >>65
大河なら友人設定も不可能ではない
- 67 :
- 福地桜痴は香川照之のイメージなんだけどなぁ
さすがに坂の上と被るか
- 68 :
- >>66
まあ、そうだけど
竜馬とは接点つくりにくそw
- 69 :
- 河井が江戸で遊学しているときに
遊びに来ていた坂本と、意気投合
大河主役特権で、河井はどこでもドアを持っているので
長岡から四国でも江戸でも一瞬で行けます
- 70 :
- 河合と坂本が一緒に黒船を見に行く
- 71 :
- >>69
峠では移動の厳しさも描かれてるぞ、「雪国は損だ」から始まるんだしw
ただ、けっこうあちこち行ってるからいろいろ登場させるのは可能かも
- 72 :
- 山田方谷じゃ知名度低そう、佐久間象山のが数段有名だろ。
- 73 :
- >>72
佐久間象山のとこへも行ってるだろ
- 74 :
- 阪神電気鉄道初代社長の外山脩造(寅太)もでてくるんだろうね。
- 75 :
- 花神には峠の話が盛り込まれ河合つぎのすけも登場した。
演じたのは高橋英樹さん。
- 76 :
- 幕末マイナー人物
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1047302970/452
三島億二郎(1825〜92)
文政8年(1825)長岡藩士伊丹市左衛門の二男として生まれる。 継之助より2歳年上である。
20歳でわずか37石の川島家の養子となる。佐久間象山に学び、吉田松陰とも交流があり、
黒船の来航では調査を命ぜられている。蘭学に秀でており藩校宗徳館の三進といわれた秀才の花輪馨之進、
三間市之進、渡辺進は川島塾の門下生である。また継之助とも親しく、若いころ奥州各地を遊歴している。
継之助と違って性格は温厚かつ沈着であり、華々しく表面にはでることはなかった。
それゆえに継之助に信頼される。 慈眼寺の会談が決裂の後、継之助は億二郎に真っ先に開戦の止むなきを伝えた。
継之助は自らの首と3万両で戦いを避けようとしたが、非戦派だった億二郎が生死を共にすることを誓い、
長く苦しい戦いに突入する。
億二郎が力を発揮したのは、戊辰戦争後の長岡の復興である。下級藩士の出でありながら、
藩主や藩士から人望が高く大参事に抜擢された。そして壊滅的な打撃をこうむった藩士や領民のための産業振興、
教育環境の整備、病院や銀行の設立さらには北海道の開拓と移民など、億二郎の果たした業績は数え切れない。
米百俵で学校が設立されたというが、百俵の代金では学校は建てらず、本や教材費でほとんどなくなる。
億二郎は苦しい財政の中から、三千両の大金を学校建設資金として最優先に割り当てた。
明治25年(1892)68歳の人生を閉じるが、後半生は長岡の基礎造りのために、懸命に捧げた人生である。
継之助や小林虎三郎を凌ぐ逸材であり、長岡藩士で唯一の銅像が、信濃川のほとりで今も長岡を見続けている。
- 77 :
- 三島億二郎
文政8年(1825)長岡藩士伊丹市左衛門の二男として生まれる。 継之助より2歳年上である。
20歳でわずか37石の川島家の養子となる。佐久間象山に学び、吉田松陰とも交流があり、
黒船の来航では調査を命ぜられている。蘭学に秀でており藩校宗徳館の三進といわれた秀才の花輪馨之進、
三間市之進、渡辺進は川島塾の門下生である。また継之助とも親しく、若いころ奥州各地を遊歴している。
継之助と違って性格は温厚かつ沈着であり、華々しく表面にはでることはなかった。それゆえに継之助に信頼される。
慈眼寺の会談が決裂の後、継之助は億二郎に真っ先に開戦の止むなきを伝えた。
継之助は自らの首と3万両で戦いを避けようとしたが、非戦派だった億二郎が生死を共にすることを誓い、長く苦しい戦いに突入する。
億二郎が力を発揮したのは、戊辰戦争後の長岡の復興である。
下級藩士の出でありながら、藩主や藩士から人望が高く大参事に抜擢された。
そして壊滅的な打撃をこうむった藩士や領民のための産業振興、教育環境の整備、
病院や銀行の設立さらには北海道の開拓と移民など、億二郎の果たした業績は数え切れない。
米百俵で学校が設立されたというが、百俵の代金では学校は建てらず、本や教材費でほとんどなくなる。
億二郎は苦しい財政の中から、 三千両の大金を学校建設資金として最優先に割り当てた。
明治25年(1892)68歳の人生を閉じるが、後半生は長岡の基礎造りのために、懸命に捧げた人生である。
継之助や小林虎三郎を凌ぐ逸材であり、長岡藩士で唯一の銅像が、信濃川のほとりで今も長岡を見続けている。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/misima.htm
- 78 :
- 三島 億二郎 1825-1893 享年69歳。
名称:鋭太郎(えいたろう)。
身分:長岡藩士。
□長岡藩士・伊丹市左衛門の次男として誕生。
□兄・政由(まさよし)が伊丹家を継いだことから1844年、億二郎は
父・市左衛門の知友・三島徳兵衛に男子がいなかったことから請われて養子となった。
□兄・政由は早くから頭角を現し、藩校・崇徳館(そうとくかん)の教授・山田愛之助がつくった
治国経済説を主軸とした野僕を尚んだ桶宗(おけしゅう)という一党の首領として藩内の若手を指導した。
しかし、政由は29歳の若さで没したため、伊丹家は三男・秀三郎が継ぐことと成った。
桶宗党には、河井継之助、小林虎三郎らとともに億二郎もこれに加わった。
□1853年6月、浦賀にペリーが来航すると江戸在勤中だった億二郎は船を雇って、
ペリー艦隊の間近まで行き、つぶさにその精悍な軍艦を観察した。
それでも物足りない億二郎は、幕府役人が久里浜で米国の国書を受け取る時、
佐賀藩の便宜で槍持ちとしてその場に列して、米兵に近接し、その隊伍の整然さ、規律の厳格さに触れ、
「六月なのに寒さを感ずる」(”六月猶ほ寒さを覚ゆ”)と評した。
当時、最新鋭の軍事力を目の前にした、億二郎の目には、攘夷の思想など夢物語だと思ったに違いない。
□1854年、国書の返事をもらいにペリーが再来航すると、この時次席老中兼海防掛だった長岡藩主・牧野忠雅は、
長岡藩政の富強策について広く藩士に意見を求めた。
河井継之助、小林虎三郎、鵜殿団次郎春風らとともに億二郎も意見書を提出。
最新鋭の西洋兵器配備を主張したが、藩内門閥の抵抗にあい職を免責されてやむなく帰藩した。
□帰藩した億二郎は、同様に帰藩していた継之助とともに諸藩事情を得るため、奥州各地を遊歴した。
新潟から船で出羽温海(あつみ)へ渡り、庄内を経て石巻、金華山、松島、仙台などを巡り歩き、名勝・古跡を探索。
それとともに各藩の政治状況や藩論を見聞した。
□億二郎の性格はいたって温厚沈着にして表に出て陣頭指揮をとる人物ではなかった。
河井継之助ら雄才の補佐的な立場をとって行動した。
ゆえに継之助ら諸藩士から絶大な信任を得ていた。
□小千谷談判(おぢやだんぱん)が決裂すると継之助は、わざわざ億二郎に会いに行き、開戦のやむなきを伝えた。
この時、億二郎は平生の所信と違うではないかと問うと、継之助は自らの首級と3万両を官軍に提出すれば、
或いは戦争回避が可能かもしれないと述べた。
それを聞いた億二郎は、継之助を一人死なせては平然と己一人生きることは出来ないとして生死をともすることを誓ったという。
□かくして、長岡藩は官軍と熾烈を極める激戦を越後の地に繰り広げた。
億二郎の活躍は、戦後の継之助や長岡藩なきあとの復興政策であった。
戊辰戦争後の壊滅的な打撃をこうむった長岡領民のために救助米貸下げの実現や長岡藩廃藩に至る実務、
帰農、帰商の促進、産物会所、女紅場の開設など産業復興、小学校・長岡洋学校等の教育促進整備、
病院や銀行の設立、さらには殖民のための北海道開拓と移民の手配など億二郎の功績には枚挙にいとまがない。
官軍に反抗した賊軍の将という汚名を背負いながら、億二郎は戦後の人々に”戦後を生きる人々”のあるべき姿を世に示し、
破壊する武人とは対比する再興に命をかける偉大な一近代市民としての偉業を果たしたのである。
□1893年、69歳で没するまで億二郎は、不休不屈の戦後再興を行った。
http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kakuhan-page1/16/16-7.htm
- 79 :
- ここ長高卒いるだろw
- 80 :
- >>79
そいがー?
そんげことねーろや
- 81 :
- あの肖像画は360万円以上の価値があるんだっけ?
- 82 :
- 小林虎三郎って以外に有名みたいだね。
元総理大臣の小泉純一郎が演説に名前をだしたらしい。
- 83 :
- 何を今さら
米百俵が出たら小林虎三郎も出るだろう
- 84 :
- 昔。教科書に出てたんだよ。
米百俵は。
- 85 :
- 篤姫にちろっと出るらしいと聞いた
- 86 :
- >>84
へー、マジ?
- 87 :
- 小林虎三郎は理性!
河合継乃介は気概!
国を思う気持ちに変わりなし!
http://nscs.jp/cm/cm2.wmv
河井と小林がCMで共演してるw
- 88 :
- 気概だけで理性の無い人ってバッサリですな
- 89 :
- 長岡にとっては大迷惑だったが第三者な立場から見れば英雄
友人の借金の保証人になって破産するお父さんみたいなもんですかね
- 90 :
- 同じ長岡なら、山本五十六的英雄ですよ。
大局的には英雄とは呼べないが、そう呼ぶことを否定する気は起こらない。
- 91 :
- 田中角栄もそうだけど、長岡出身の英雄児って晩年悲惨だね
- 92 :
- 実は、田中角栄は柏崎市出身です。
- 93 :
- 長岡藩の藩是は常在戦場だけど
これは上杉謙信の常在戦場の心得から取られたのかな?
『常在戦場の心得』
運は天にあり 鎧は胸にあり 手柄は足にあり
何時も敵を掌にして合戦すべし 疵つくことなし
死なんと戦へば生き 生きんと戦へば必ず死すものなり
家を出ずるより帰らじとおもえば又帰る 帰ると思えばこれまた帰らぬものなり
不定とのみ思うに違わずといえど、武士たる道は不定と思うべからず 必ず一定と思うべし
- 94 :
- >>90
山本五十六と河井は深い繋がりがあるらしい
- 95 :
- 与板・栃尾も長岡入りで何気に長岡が人材の宝庫と化してる件に関して
謙信を育てた土地でもあり、直江の与板もあるわけで
- 96 :
- >>93
今現在だと、まだガクトのあの調子で思い出してしまうな・・・
- 97 :
- あの紅白画像は面白かったよ
「峠」だったら一番エキサイティングなのは長岡城陥落と八町沖夜襲
特に八町沖は月光の下の泥濘から起き上がる戦士像が実に絵になる
- 98 :
- 長岡城奪還の顛末は、
「一戦後和平」が有り得なかった見本。
後世の軍人は、こういうところを見本にして欲しかった。
- 99 :
- >>86
25話らしいよ
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