1read 100read
2011年10月1期大河ドラマ【偽?】直江兼続のどこが義なわけ?その2【疑?】
TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼 ▼
・ 次のスレ
大河ドラマ「家康」
天地人でそろそろ皆が忘れてしまったこと
天地人、マンセー専用スレ
【疎遠】大河ドラマ御無沙汰な俳優【絶縁】
【偽?】直江兼続のどこが義なわけ?その2【疑?】
- 1 :09/06/07 〜 最終レス :11/11/11
- 大河で話題の直江兼続
いったい史実のこの人のどこが義なんでしょう?
戦国版の前スレではそれらしいものは何も見つかりませんでした
【義は偽?】直江兼続の義と愛【愛はホモ愛?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1226068008/
- 2 :
- >>1
てめーどこの板から継続してんだよ
- 3 :
- 次は、ふつうに「直江兼続を語るスレ」でよろ
別に直江が好きなわけじゃないけど、こういうスレタイ
もうたくさんなんだよね
- 4 :
- >>1
江戸時代から直江に関する文献、書籍は結構あるけど、人物的に肯定的な
に書かれてものがおおいんだよ。だからドラマでは肯定的な説を採用してるわけ。
君が義をかんじられず、大悪党で大嘘つきだと思うならそれでいいんだよ。
- 5 :
- 別に義でも何でも良いと言うか…
そろそろ普通に進行したいがドラマ終わる11月まで無理なもんかねぇ…。
- 6 :
- なぜ戦国板から移動?
史実の話したいなら向こうでやれば?
- 7 :
- 糞大河でも曲がりなりにも直江の肯定的イメージが一般に浸透していくのが
悔しくて、真性危地アンチが涙と鼻水を流しながらのたうっているんだよ
- 8 :
- こんなスレ立てても伸びんよ
当のドラマが歴史おかまいなしなんだから
- 9 :
- @ 日本で最初の図書館(誰でも書物を見れる寺)禅林文庫を造った (米沢藩校興譲館が出来る実に200年前)。
A 直江版と呼ばれる日本で最初の印刷本(銅活字)を造った (全61巻、国宝)。
B キリシタン禁教令後も景勝とキリシタン(信教の自由)を保護し続けた
(「米沢藩領に切支丹これなく候」、との幕府宛書状あり)。 定勝時代に転換。
C 最上川上流の暴れ川で有名な松川に石堤を作り庶民生活の安寧を図った。
洪水を回避し開墾を奨励。 米沢30万石を約15年で実石高51万石まで引き上げることに成功(米沢は四方を山に囲まれ、開墾には不向きだが)。
その後1630年代から他藩でも新規開墾が盛んになっている。
米による経済だけでなく、紅花、青祖、楮、ウコギ等栽培を奨励し、家臣リストラせず逼迫する藩財政を潤した(兼続死後兼続の政策は無視されていたが、後に上杉鷹山が兼続の政策を自ら実践)。
半米半金税(半分が米半分は紅花等商品作物で納める:日本初の税制)を敷き民衆の商品作物を重視。
D朝鮮出兵で、貴重な論語や漢詩等を持ち帰り禅林文庫に収めた(他の武将から「馬の肥しにもなるまいに」と言われ「頭の肥やしに為り申す」と答えたと言う)。
E直江家の婿になり、いとこのお船と結婚(生まれた子供は早死) 側室も持たず、春日山林泉寺には、戦国武将の墓として珍しく、夫婦全く同じ大きさの墓が並ぶ。
F武田から菊姫を景勝の妻を迎えることに成功、武田家血筋も残すことに尽力(六男信清の子孫が今も米沢に在住)。
G伊達家存続に尽力(伊達政宗に小田原早期参陣を促す書状現存、佐竹対策で上杉領の上野を通らせた)。
H直江状(転封まもなく、内政忙しい。謀反など全くないことを説明(上杉家として一戦も辞せずとの考えはあり、謙信の二十三回忌で諸将に確認)
上方衆は、経済発展のための道路建設事業等まで「戦いの準備」ととらえた。 まあ、兼続ならずとも反論したくなりますわな。
I大将兼続自ら約500の兵で殿を務めた最上領からの電撃撤退作戦。撤退路は狐越街道という難所だが成功。
相懸引きは旧日本陸軍「日本戦史」でも取り上げられ撤退戦の手本となった。
敵将最上義光曰く「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」と。家康も「聞き及びし、よりいや増しの武功の者」と賞賛。
J東北の地で初めて鉄砲製造を行った。約1,000丁と言われる。
K鉄砲の撃ち方指南書(1604年 鉄砲稽古定)を書いた。
今福・鴫野の戦い。上杉軍約五千で大野治長・後藤又兵衛(負傷)軍2万数千を打ち破り、大阪城に撤退させることに成功。
L数々の漢詩を残した(例えば、1599年の「春雁、花に背いて帰る」の詩には豊臣からの誘いを断って会津に帰る決心が読み取れ、また亀岡文殊堂にて1602年初詣詩会で奉納した「元日」の短冊には、つつがなく新年を迎えた人々を見て安堵する兼続の姿が浮かぶ)
M1604年、四季農戒書(養子の本多政重が加賀藩へ行ったため、加賀藩に残っている)
N米沢と庄内を繋ぐ「朝日軍道」を引いた(個人的にはNHK天地人のオープニングに流れる雪山の行軍は「朝日軍道」だと思う。
O神指城建設事業←若松城では城下が手狭。また小田山からの攻撃に弱い面(270年後の戊辰戦争で兼続が懸念した弱さが露呈)。平地に城下を大規模(若松の約2倍)にし道路も整備。経済が発展しやすいよう工夫。完成した神指城、是非見てみたかったです。
P上杉の人質となった真田信繁を侍従として丁重に扱い、「義」の精神を伝授。
Q第一次上田合戦で上田城防衛のため上杉軍の援軍を入れ、また「軒猿」と呼ばれる忍者を使い、徳川軍を翻弄した。
R今話題の世襲制限を自ら実践し、録を返上、直江家を断絶させた。
S会津⇒米沢へ、堀立小屋しかなかった小さな城下町へ三万人の上杉軍を無事生活
出来るように町割。その頃から景勝は「御館様」直江は「大旦那」と呼ばれていた。
農村や神社仏閣を回り、積極的に地元の意見を聞いていたという(宮内の熊野大社
に直江山城守名が刻まれた寄進の短冊現存、亀岡文殊堂等にもあり)。
- 10 :
- 関ヶ原の後、上杉直臣でない慶次は京に入っていた。
慶次の元には噂を聞きつけて様々な大名からオファーがあった。 しかし、慶次はたった一人の「漢」の誘いを待っていた。
待ち人来たる。「長く待たせてすまない。上杉家に戻ってくれないか?」
改易を免れ、大名として上杉家が存続することが確定した所で兼続は慶次に仕官を求めた。
石高は千石から僅か五十石。それでも彼は雪深い米沢を選んだ。
米沢市堂森に彼の自宅跡が残る。兼続と連歌を詠んだり酒を酌み交わしたり、地元の人に能面や槍等をプレゼントしていたという。
米沢での石高は、僅か五十石に減ったが、兼続の誘いが余程嬉しかったのだろう。
「畳は一畳、米は日に一合あれば十分」との名言を残して、彼は米沢行きを受け入れている。
- 11 :
- >>9
乙。粗末先生にも教えてあげたいぐらいだ
- 12 :
- >>10
一合って茶碗一杯なんだけど…。
- 13 :
- 米一合炊けば飯は茶碗二〜三杯分くらいにはなる
- 14 :
- >>9
またデタラメよ〜
前のスレでもデタラメだって言われてんじゃん
いったい何処が「義」なんだ?
- 15 :
- 何故この板なのかな
- 16 :
- 誤爆スレ立てして引っ込みが付かなくなったんじゃね。
戦国板にも直江単独スレや天地人スレはあるから重複スレ乱立されても迷惑だが。
- 17 :
- いい加減青祖じゃなくって青苧って書いてくれ。
- 18 :
- >>1は戦国板の住人相手にはアンチ活動が通じないから、もう少しライトな
大河板で布教活動しようとしてるんじゃないのか。
>>10の米は「一日三合」だし、一夢庵風流記か花の慶次の創作話を書かれても・・・。
- 19 :
- でもさ、秀吉の誘いを断ったって大河でやってたじゃん
あれは「義」と言ってやっていいんじゃないかな
- 20 :
- ドラマでは「義」なんて全く描かれてないから
切り離して考えよう?な?
- 21 :
- >>19
実際は秀吉の誘いを断るどころか
誘いに乗って豊臣家の奉行を兼任して利益を共有し
上杉家を親豊臣反徳川にしてる
「義」どころか売国奴だよ
- 22 :
- うむ 徳川が天下を取ることになるのに
予知能力がなかったのは致命的だったな
- 23 :
- 直江−景勝の主従そろって偽善はミエミエ
義なんて後から取って付けた言い訳に過ぎない
- 24 :
- >>23
だが、それがいい
- 25 :
- >>21
大河開始前から売国奴言ってるやつだろ。
豊臣家の奉行を務めてるとかいう何を根拠にしてるんだ?
佐渡のことか?毛利や伊達など領内に金山銀山を持つ大名は
みな奉行を置いて豊臣政権に献上するため山を掘ってるんだが。
上杉家を親豊臣反徳川にしたというのもよくわからないが、豊臣政
権内で反豊臣だったらおかしくないか。徳川と距離を置くのは東国
支配の利権を考えれば当然のこと。「関東管領」ということにこだ
われば関東を支配する徳川との対立も生まれる。
>>23
本人たちは「俺らは義と愛の武将」とは言ってないんだから、
偽善もなにもない。
- 26 :
- >>25
まあまあそうカッカせず
おまいら信者は今が幸せだろう。誘致運動が功を奏して大河になって
皆のNHK視聴料が使われているんだから。説明責任あるだろ
何が義なのか説明してくれよ
- 27 :
- 倉庫に面白いスレが有ったので一部抜粋。歴史ファンなら、まずは過去の記録を訪ねてみましょう
15 :人間七七四年 :2008/07/01(火) 23:11:15 ID:6pf/IxEw
しらべればしらべるほど最上義光はいいやつだな
逆にイメージ先行で実態を知れば知るほど伊達家のカス集団ぷりが際立つ
伊達は2ちゃんでも始末に負えないしなんであんなに人気あるのかわからん
片眼で見た目がかっこいいからか?
どう考えても最上のほうが領主としても主君としてもいいだろうに・・・
58 :人間七七四年 :sage :2008/07/10(木) 01:14:02 (p)ID:ycvK7lGD(2)
伊達はアホだからな
天下を虎視眈々と狙ったといえばカッコイイが、結局いつも途中でバレて
協力者をさしだして首謀者は逃げるヘタレぶり
関ヶ原でもろくに活躍していないし、こんなアフォが大領持っていても脅威じゃないんだよ
116 :人間七七四年 :sage :2008/07/23(水) 20:30:00 (p)ID:vyKXeMze(2)
>>114
そうだね。直江大河の場合、伊達は出演ほぼ無しで空気でも問題ないし不自然でもない。
ただ義光公はちゃんと描かれないとどうしようもない。
>>113の通り山形県が頑張ってんのをそこまで無視するNHKでないと信じたい。
ちゃんとしたイカス好敵手に描かれないと長谷堂近辺、滅茶苦茶つまらん。
ピンチの状況からの華麗な撤退戦を演出するには敵方も魅力ないとただの茶番だもの。
期待していいのかな。最近のNHKほんとわからんから…。昼ドラ大河だけはいやや
526 :人間七七四年 :sage :2008/11/19(水) 23:28:31 (p)ID:yN7ev/xF(2)
義光の発表がまだってのがな。
直江が大軍率いる戦の敵方をスルーは無いとはわかってはいるが、空気すぎ。
538 :人間七七四年 :sage :2008/11/20(木) 20:57:27 (p)ID:lhAliZ52(2)
糞ドラマ確定ならいっそのことスルーでいい
そのほうが苛つかんかもしれん
541 :人間七七四年 :sage :2008/11/20(木) 22:46:50 ID:Lixrx8z8
伝説になるほど酷い大河で、出番なしこそ勝ち組みたいになって欲しい。
義光公? むろんスルーですよ。
751 :人間七七四年 :sage :2009/01/04(日) 19:34:53 ID:N2O0eFkY
どうせお前らも義と愛の武将だかを見るんだろ?
※【義光】出羽最上氏総合スレッド【山形藩】(戦国板)より
嫉妬に狂った人々のエネルギーには感服しますね w
こういう連中のことを世の人は蔑みを込めて 『 田 舎 者 』 と呼ぶ。
- 28 :
- >>26
25じゃないが、正論返されて「カッカ」て・・・
あと上杉系のファンは全国区だが、この大河の阿呆クサイ愛と義とやらには辟易してる
この上こんなところで、田舎の誘致合戦の遺恨をまき散らさないで欲しい
- 29 :
- 太閤秀吉は宣教師が奴隷貿易に加担している事を見抜いて
禁教令を出した偉人。
積極的に奴隷貿易をやっていた高山右近や上杉景勝は大罪人。
特に上杉は、小田原攻めで
「お前が何やってるか俺が知らないと思ってるのか?
関東で奴隷集めすんなよ?許さんぞ?(怒)」
と警告される始末。
その奴隷貿易に一番熱心だった直江兼続が、【愛】 で売り出し中w。
- 30 :
- >>29
それ本スレで論破されただろ。
- 31 :
- >>29
大河の内容がアレなのでNHKにクレームメール書くつもりだから
ついでに今度最上義光も主人公にしてもらえないか頼んでみてあげるよ。
だから少しいい子にしてなさい。ね。
- 32 :
- >>10
京都から米沢までの「前田慶次道中日記」持ってる方いる?
- 33 :
- ↑ 公立図書館なら全国どこでも借りれるはず。
ネットでも読めるけど。
- 34 :
- で、兼続本人が「義!義!」と連呼してる人って言う一次資料ってあんの?
国替えの際リストラをしなかったとか、年貢の率を調整したとか、商用作物を推奨したとか、
百姓にユーモア溢れるお触書を発布したとか、秀吉からの引き抜きを断ったとか、
家臣領民と主の景勝や身内だけじゃないの?やさしかったのは。敵や他家に対して温情をかけたことあった?
むしろ、春日山固めて景虎派を締め出そうぜ!とか、追撃して家康を挟み討ちにしようぜ!とか、
地元の人からは絶大的に愛されてるダーティな政治家みたいな印象を受けるよ。
- 35 :
- だいたい謙信が「義将」に祭り上げられたのだって、
天皇神話を無理やり盛り上げようとした大戦直前期の
昭和9年ごろからだもんなあ。
楠木、新田なんかと一緒に「天皇に忠を尽くした人格者」
にいきなり祭り上げられたという。
- 36 :
- 春日山固めて景虎派追い出そうぜとか家康追撃して挟み撃ちにしようぜとかも
一次資料に無い後世の創作な件。
- 37 :
- 最上厨見分け方講座 その@
『 何度でも話を蒸し返す 』
続きはいずれまた。※「 最上厨 」でググッてみてください。
- 38 :
- >「義!義!」と連呼してる
なんとかいう戦国ゲームでそんなカネツグがネタとして笑いをとった。
今度の大河でも普通の知性の持ち主で真に受けてるのはいない。
真に受けてるバカもいるだろうが、悔し涙にくれて一級資料を出せ
なんていってる奴もそうとうやばい頭の持ち主としか思えん。
- 39 :
- >>34
兼続は上杉家に対して義の人だからな。
秀吉が死ぬと関東侵攻を目論んでるし、家康が死んだときも
混乱がなかったから動かなかったけど、江戸から米沢に書状
を送って戦に備えるよう指示してる。
- 40 :
- >>39
>>9
数々の資料や業績、彼自身の書状を総合すると、直江山城守の義・愛・楽の政治はあくまで上杉家(景勝)に対してのもの。
直江に対する秀吉や三成や学者連中(藤原惺窩とか)の評価(言葉)や彼への待遇を総合すると、彼らは上杉家の政治だけでなく「天下国家」の政治を直江に見て貰いたかったんじゃないか?
だが、秀吉は直江の主君たり得なかったのは、景勝を見限って秀吉の家臣に成る「義」が無かったということ(春雁吾に似たりの一節)。
- 41 :
- >>36
言いたいことはわかるが、
必ずしも「一次資料に無い=後世の創作」
にはならんだろ。歴史学勉強してこい
- 42 :
- いや全く=後世の創作だろ
じゃ無きゃ何なんだ
それら政策が景勝でなく直江によるものだったなんて証拠何処にもない
まあどれも大したことない政策だけど
- 43 :
- 政策の大枠は景勝との相談の上だろうが、一次史料からも細かな采
配は直江がやってるのは動かしがたい事実なんだがな。
追撃策は創作だろうけど。あの時点では秀忠軍も宇都宮に残ってる
し、背後を考えれば追撃は無謀。景勝や直江の書状にある通り伊達
と最上の屈服が前提なんだよ。
- 44 :
- >>42
現存する書状や当時の各種資料からは、その資料を信用する以上、直江の打ち出した政策は独創的で、現代にも通じる優秀な政策だったのは明らかだろうけど。
一例を挙げれば、今話題の「世襲制限」なんて、自ら実践してる所とかね。
- 45 :
- >>42
何をそんなに必死になってるのかがわからないんですが…。
>それら政策が景勝でなく直江によるものだったなんて証拠何処にもない
郷土史資料館なりに足を運んで、崩し字判読したりして、
それでも、「直江の記述が一切ない!」と仰ってるんでしょうか。
でしたら、2ちゃんねるなんかより、学術関係の雑誌に投稿した方がいいですよ。
- 46 :
- じゃあさ
春日山固めて景虎派追い出そうぜ、とか家康追撃して挟み撃ちにしようぜ、とかって
直江が采配してたって資料あんの?
- 47 :
- >>46
一次史料出せ→一次史料がない=創作ってのは違う
政策も直江のものじゃない→書状とか見なよ
って話の流れだから「じゃあさ」というのはちょっと違う。
上杉御年譜では春日山制圧は知らんが、遺言ねつ造に兼続も加担してる。
追撃の話は会津陣物語や名将言行録あたりかな。関ヶ原軍記大成にもある
かはわからん。
- 48 :
- ただ研究書レベルでは、小説やドラマでよく描かれる御館の乱での活躍や、
三成と共謀しての家康挟撃説は否定的かな。
だからといって兼続がたいした人物ではないとか、いうつもりはないがね。
- 49 :
- >>46
ここで聞くより、自力で探した方がいいんじゃないですか。
自分の目で確かめたことなら、人を煩わせずに済みますよ。
- 50 :
- >>48
これらには否定的なのは分かった上で、一次史料がない=創作と言
い出すことに疑問を持ってるんだよ。
- 51 :
- 脚本家の創作、じゃなくて江戸時代の人間が創作した話だと見られてるっつー事な、
兼続の遺言捏造加担とか家康追撃策とかの話は。
上杉家御年譜だって複数の史料と照らし合わせた結果
通説とは違っていたが実際は年譜の記述が正しかったと言う場合もあるし
江戸時代に書かれた軍記などからとって書いた記述と思われる部分もある訳で。
上杉家の公式史料でさえ柿崎景家が謙信に誅されたと記載してるが
他の一次史料から検証すれば実際は誅された可能性は低く、
菩提寺に残された病死の記録の方が辻褄があってるしな。
- 52 :
- なんかもう議論が、
ドラえもんにタイムマシーン出してもらうしかないレベルまできてるな。
とりあえず、「通説」を一つの妥協点として(異説等々も必ず明記して)先進まないか?
- 53 :
- >>9
なんか直江って、越後や会津時代より減封された米沢へ行ってからの方がイキイキ仕事してるよね。
会津時代は景勝も五大老だし東北の太守だったから領民となんか交わることは出来ない立場だっただろう。
やっぱ、領民とか家臣とかと交わるのが好きな人だったんじゃないかな?
- 54 :
- 鋤を前立てにしてるくらいだしな
- 55 :
- >>53
領民や家臣が好きだなどという話がどこにあんの?
庄内は撫で斬り辞さずの圧政をもって臨む、と言ってたらしいし
畑谷城では実際に撫で斬りやらかしてるし
ウコギのような細かい作物まで生産者から取り上げているし
死人を帰せ、とゴネてきた領民をブッしているし
上条、藤田、安田、杉原ら他の家臣には対立したり嫌われたりしてるし
殿様には覚えめでたいが、圧政家なおかつ他の家臣と仲良く出来ない嫌われ者という人物像しか想像できんが
- 56 :
- 明らかに間違った解釈してりゃそりゃね。
- 57 :
- >>55
>>53は米沢に行ってからいきいきしてるように見えるところから想像を
膨らませてるだけだろ。そんなにムキになるなよ。
米沢でも大量の侍層が入り込んだため収奪を強化してる。その点では愛民
という言葉とは程遠いが、その分安全などの面が保障されればいいので、
ただちに圧政だとはいかないだろう。庄内畑谷みたいな一揆や最上の話は
ちょっと違うし、ウコギの話は根拠が不明、死人を返せというのはあくま
で逸話。
上条は直江が嫌いというより、自分を中心から遠ざけた景勝にむかついて
る感じだけどな。直江を奉行によこせと言ったり、命令に従わなかったり。
藤田の出奔も直江嫌いではなく対家康の対応で家中と意見が食い違ったから。
安田は直江を「旦那」と呼ぶ与党。仲が悪いのは軍記物根拠だが、直江に戦
功を握りつぶされたという話も内容に矛盾があり、直江は安田を誉れある先
陣に推している(景勝に却下されたが)。水原の直江嫌いも彼の親戚が書い
た軍記物ソース。「東照大権現に楯ついた直江とうちの親戚は仲悪いです」
というPRにすぎない。
- 58 :
- 愛民とかはさすがに胡散臭いな。
兼続の功績と言われるもののほとんどは米沢時代じゃないのかね?
- 59 :
- 上条はでも、ちょっとは嫉妬みたいなものもあったと思うよ。
信濃だったっかな、派遣された時、「自分は景勝の側にずっといたかったんだが、、自分の居ない間、
北陸ではよけいなことしないように」とかいう書状を景勝の側べったりの兼続宛てにだしてるし。
直江のライバルだったのに、大河ではほとんど活躍なかったな。
本当かどうかしらんが、御年譜では上条が謙信死後、実城に入るよう勧めたことに
なってるし、北条を討ったのも、上条の家臣だろ。武田との同盟の際にも、かわりに上条の娘が
人質として武田に行った説もあるんだけどな。
- 60 :
- 上杉家は謙信の時代から側近をやがて最前線に派遣してるから、
上条の川中島支配も流れはおかしくない。川中島の支配は容易で
なく、村上が更迭、上条も一年ほどで須田に交代させられてる。
須田は真田を服属させたので、上条はうまくやれなかったのかも。
春日山に戻されたあとは活躍がない。
景勝は上条義春に「お前のおやじが直江を奉行によこせとしつこい。
お前からも異見してくれ」と書状送ってあきれてる。
上条は出奔して豊臣政権になにか上杉家の文句を話したらしいが、誰も
取り上げず石田・増田の直江あて書状で「(上条の行いは)してはいけ
ないあきれ果てたことだ」と言われてる。
- 61 :
- >>60
直江が上条を讒言した、説が有力なわけだが
上条が直江を部下にしたがったのも、直江が景勝側近でいると上杉に有害な存在になることを予見してのことだとも
- 62 :
- >>61
どこの有力な説だよ…
- 63 :
- 有力な説かどうかは知らないけど、
兎に角、新発田、上条、藤田と武勇に優れた人物らが次々と上杉家から排斥されていく
その間景勝の側に仕え武功が無いのに驚異的に出世するのが直江兼続
直江の讒言説、ホモ説は自然じゃないかな
- 64 :
- 兼続の出自から見て別に驚異的でもなけりゃ
功臣を当主の傍より前線に出すのは謙信時代からよく行われてきたことじゃん。
馬鹿馬鹿しい。
- 65 :
- 景勝の家督相続後、直江執政への流れは上杉家を近世大名に脱皮
させるためのステップだから、その中で多くの土豪の反発に合う
のは当然。新発田なんかはその典型だし、上条は直江に嫉妬して
る部分はあっただろうけど、一門であることを頼みにわがままを
繰り返したり、命令無視したり。藤田は出奔の時期から言って、
直江の讒言などはあり得ない。
衆道の関係だったのはあり得るけど、ホモではないし、衆道の関係
だから出世したわけでもない。
- 66 :
- 藤田能登守は、家康の元に逃げた時、上杉の戦法や戦略上の要衝を家康や本多正信に聞かれ、上杉軍との正面対決は回避されることが決定された。
よって、会津征伐軍は途中、鷹狩り等でゆっくりゆっくり行軍。小山から進むことも考えていなかった様。
藤田は、家康と本多との会見の終わりに、景勝と直江について聞かれた折、こう答えたと言う。
「山城が主、中納言が従でしたら、天下は山城の手に落ちたかも知れませぬ(上杉との戦いを油断召さるな)」と。
- 67 :
- 鷹狩りしたなんて史実あったっけ?
まあ軍記物のお話なんだろうけど。
でも、なんかその話って複雑だよな。
だって実際働くのは従の方だろ。
従としては兼続はいまいちだったわけ?
- 68 :
- 景勝には天下を望む気はないが兼続には上杉に天下を望む気があるってことじゃねーの。
二人の逸話は全体的に実直な景勝といらんことしいな兼続だし。
- 69 :
- つまり直江は不義の輩ってことだよね
- 70 :
- 天下を望む気があるってことじゃねーの?
↓
つまり不義の輩ってことだよね
どこが?
- 71 :
- >>67
直江アンチの方って、批判の材料に必ず「軍記物」「軍記物」って言うけど、「名将言行録」とか「常山紀談」とか信頼できないと批判するなら、あなたが信じる資料って何?
「上杉家御年普」とか例を出して資料を挙げて見てくれ。
- 72 :
- 「水戸黄門」のどかご諸国漫遊なわけ?
全然旅に出てないのに・・・・・
- 73 :
- >>72
もしかして、もしかして「水戸黄門漫遊記」と「名将言行録」を一緒にしてる?
- 74 :
- 天地人においては景勝景虎は兼続と出会ったことが最大の不幸
とりあえず景虎マジ気の毒
- 75 :
- 別にアンチじゃないよ。
むしろ、転封の混乱も収まっていない中、
そんな無謀なことは絶対しない人だと思うんだけどね。
この人の景勝、上杉に対する忠誠は本物だと思うから。
俺は、直江状で家康を怒らせたっつ−のも、家康の芝居じゃねと疑ってる。
景勝が上洛できない理由を述べたに違わないと思うけど、
礼儀を重んじる人だったと思うから。
兼続の書状を読んでごらんよ。きめ細やかな差配の出来る人だったことがわかるから。
景勝は自分の葬儀の際の僧侶の人数とかまで、指示するような人だから、
そんな兼続が寵愛されたのもわかる。
- 76 :
- 謙信の義は世(幕府)の為、兼続の義は上杉の為、
どちらも立派なものだが残念なことに天地人じゃまったく書かれてないんだよね
少なくとも為政者としては兼続はすごいだろ
- 77 :
- 為政者というよりやはりNo.2かな。
あとやはり、兼続の一番はあくまでも上杉家への忠であって、
鷹山のように民への愛とかには至ってないとは思うんだがね。
- 78 :
- >>75
忠誠が本物、って直江の史実の何をもって言ってんの?
義といえるような史実が見つからないわけだが
- 79 :
- 上杉に対して不義だという史実が見つからないわけだが。
- 80 :
- >>75
>義といえるような史実が見つからないわけだが
単にあなたが見つけようとしてないだけ。偉そうな言葉を使って書くならもっと勉強してから書け。
- 81 :
- | 義の史実マダ〜?|
| 前スレから待ってんだけど
.\____ _/
マチクタビレターν
☆チン
☆チン 〃∧_∧
.ヽ___\(\・∀・)
. \_/⊂ ⊂_)_
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
- 82 :
- >義の史実マダ〜
せめて史料といえよ このゆとり頭
- 83 :
- 少なくとも史実の兼続はドラマと違って、景勝を差し置いてってことはなかったんじゃね。
あくまでも景勝の指示や許しに従って行動していたみたいだし、
景勝も兼続には万事すきなく用事を言い付けているって言ってるし。
研究者たちは、豊臣政権が兼続を重視したのも、当時景勝には後継者どころか兄弟もおらず、
兼続は兄弟代わり、後継者代わりと見なされていたのではとも言っている。
大友の家臣から、秀吉にかわいがられて大名に引き上げられた立花や
鍋島(豊臣政権からの仕置きは当主を差し置いて直茂に出されていた)とかとは違うんじゃね。
三成との共謀説も研究者は否定してるし。
まあドラマの兼続は上杉の家老の立場も忘れて、おもいっきり上杉への不義を働きそうだけど。
- 84 :
- もともとは南化玄興の「何ぞ利を捨て義を取るものか」という評価と、
「義の家」のイメージのある上杉家を支えたってとこから昔から義の
武将って感じになったんだろ。明治以降は家康に逆らった武将の評価
が上がるし。上杉主従の場合は、不思議なことに江戸時代から評価は
高かったが。
TBS時代劇の関ヶ原でも「義」「正義」を連呼してたけどそっちでは「義の史実マダ?」
みたいなアホなことが言われないのは、昔のドラマというのもあるけど、ドラマ自体が
面白かったからだろう。
大河も独自の設定で武将のキャラに肉付けされるのは昔から。ドラマの中で
説得力がないからこういうゆとりが沸いてくるんだろうけど、「篤姫と小松
が友達だった史実まだ?」「勘助が姫しゃまを慕い、勝頼を後継ぎにしよう
とした史実まだ?」「一豊の代わりに家臣が一両具足を皆しにした史実ま
だ?」とイチイチ設定に文句言ってるのと同じ。
- 85 :
- そもそも豊臣政権時代から「謙信の上杉家」が人気あったからな。
そこに火を点けたのが「甲州流軍学」に対抗した「越後流軍学」の出現、と。
- 86 :
- 関ケ原で石田三成と組んで、徳川を討とうとしたよね?徳川が伊達と組んで邪魔され、上杉は関ケ原に行けなかった。って本当?義があるなら、行くべきじゃあなかったか?
- 87 :
- >>86
直江は挟撃を主張したが景勝が止めたと言われているな。他の大名と同じように上杉家も絶妙なバランスで東西を天秤にかけた
義を行動原理にしていたのはあくまで謙信まで、その謙信でさえ全てに義が優越するわけでは無い
自家存続より義が優越してしまうような武将はあまり誉められたものでは無い
- 88 :
- 東西挟撃策は作り話と言われてますな。
最上と伊達を滅ぼしたら南下する予定だったから
間違いではないんだが。
- 89 :
- 滅ぼすまでは予定してなかったんじゃない?
会津討伐後、最上は庄内、伊達は長井等の旧領を虎視眈々と狙っていたから、
ある程度圧力をかけるつもりだったんじゃないかね。
- 90 :
- 徳川家から恩謝が貰えず大坂に入って一発逆転に掛けるしか
窮貧をどうにもできなかった真田信繁や
旧家臣を救うためには一発逆転にかけて大名復帰を狙うしかなかった盛親と違って
上杉や直江は数万の家臣領民に責任があるからな。
律儀で義に厚いと思われるのは幕府からの信頼を勝ち取るのに役には立っても
義だけで家を滅ぼすのはただの自己満、
大名の資格無しといっていい。
- 91 :
- >>89
最上、伊達も従えて南下する計画だった
- 92 :
- 三成の阿呆が一日で決着つけられたのが一番悪いがな
上杉も立ち行かん
- 93 :
- >>85
越後流軍学は甲州流に対抗するために捏造満載
謙信の義だとか上杉の義などと言うのもそれで出来た捏造史観なわけだが
- 94 :
- 義というよりは漢なんだよな。
武門の誇りを守った。
- 95 :
- >>94
どこでどうまもったの?
- 96 :
- 関ヶ原で敗者の側になって減封されても、上杉家としての評価を
落としてない。
逆にいえば、勝ち馬に乗った小早川ら内応組は断絶、改易が多く、
前田利長は加賀を守ったとはいえ、力量に関しては残念な評価が下
ってる。利長は加賀藩の史料でも利家の遺言を守らずに帰国して奥
村・村井が「おいおい何帰国してんだよ」と笑止がったとされてる。
上杉は家康追撃も失策なのに(上杉の義云々が理由なら)美談にされ
てるし、降伏の際も家康より先に秀頼にあいさつする相変わらずの態
度。大坂の陣の奮戦ぶり。大谷などともに、西軍についたのに江戸時
代を通じて好意的に扱われてる。
- 97 :
- ヤンマガの「センゴク」では天地人に対するアンチテーゼが感じられるなw
- 98 :
- 江戸期は庶民にいたるまで嘲笑されたみたいだがな
長尾はろくな武勇が無いみたいな
そのコンプレックスで上杉流軍学だの「義」の上杉だの
捏造がなされたみたいだ
- 99 :
- >>98
直江状を出した一諸侯の家老でありながら身分お咎めも無く、徳川の世になっても江戸城下で屋敷(鱗屋敷)を与えられ、大名と同待遇を受けた直江。
嘲笑されたなんて、何を資料に言ってるんだか...。
アンチとして事実を「捏造」してるのは、アンタの方でしょ。妄想逞しいアンチさん。全く笑っちゃうよね。
- 100read 1read
1read 100read
TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼 ▲
・ 次のスレ
大河ドラマ「家康」
天地人でそろそろ皆が忘れてしまったこと
天地人、マンセー専用スレ
【疎遠】大河ドラマ御無沙汰な俳優【絶縁】
-