2011年10月1期大河ドラマ 山内容堂新資料 郷士差別は嘘、親友木戸孝允の涙
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山内容堂新資料 郷士差別は嘘、親友木戸孝允の涙
- 1 :10/11/17 〜 最終レス :11/02/05
- 【山内容堂公 土佐勤王党志士に下賜した和歌】
近年、龍馬伝による新資料の再整理などにより山内容堂公は郷士を可愛がっていたことが発見された。
山内容堂公は、郷士の門田為之助の才能を実に愛されて、文久3年1月頃から侍目付役に任じ、
「呉竹のうれしきふしも憂きことも過ぐれば同じ夢の世の中」という和歌までも下賜していたのである。
実はこの門田為之助なる人物、香美郡山北村の郷士なだけではなくなんと”土佐勤王党の志士”であった。
しかもこの人物は文久元年に土佐勤王党に加盟しているので容堂公はこの事実を知っていたことになる。
そもそも山内容堂公が郷士に対する差別をしていたのならば不自然な点がある。
・山内容堂公が参政にした吉田東洋は、藩内きっての人権擁護派で差別廃止論者であり、
自らが開いた少林塾では地下浪人の岩崎弥太郎と上士の後藤象二郎らに平等に教育を施しており、
漁師のジョン万次郎を上士に取り立てたり、地下浪人の岩崎弥太郎を藩吏として起用している点。
・山内容堂公も武市半平太、岩崎弥太郎を上士に登用するなど吉田東洋の意志を継ぐ姿勢を見せていること。
むしろ武市半平太の排斥を考えていた藩の重臣達とは、藩政改革の際に藩閥政治を保守しようとして容堂の非
難を受けており、新おこぜ組から吉田東洋を参政にして家老を押しのけて藩政改革をするにいたっていて折り
合いが悪かったと思われる。現に藩の重臣達は山内容堂公が起用した吉田東洋を暗している点。
・山内容堂公が藩外で親交があった勝海舟は借金取りの家系であり、親友であった木戸孝允も藩医の息子であ
ってどちらも上士とは縁遠い家柄であった点。(木戸孝允は藩医の息子で隣家の中士・桂九郎兵衛に乞われて
養子となっている。つまりは郷士である。)
山内容堂公の資料を公開しているのは土佐山内氏関連の組織であり、現宗家は山内豊範公の家系で山内容堂公
の雪冤には興味がなかったからか、その事実を声高に主張することはなく、資料を再整理するにいたって最近
になってこのような事実が浮き彫りになったと言える。また筆者は山内容堂公が郷士差別をしていたとする捏
造に対して疑問を呈したい。実は山内容堂公に関する史実の捏造は、この前にもそれと見られる節があり、京
都大学助教授の高橋秀直氏は御前会議における岩倉具視の山内容堂公への叱責を捏造だときって捨てている。
高橋秀直氏は、著書『幕末維新の政治と天皇』において、同時代の史料『丁卯日記』『大久保利通日記』『嵯
峨実愛手記』など全てに岩倉具視の叱責の部分だけが記載がないこと、およびその後も会議において山内容堂
の発言力が何ら抑制されてはいないなど不審な点に着目し、明治天皇やその取り巻きの者の権威を高めるため
の、後世の文飾であるとしている。岩倉具視は「倒幕の密勅」「錦の御旗」の偽造の前科があり、この部分の
唯一の出典は岩倉具視の手下の城多董であることからもあながち真実かどうかは本人のみぞ知るところである。
- 2 :
- 【親友木戸孝允の涙】
もう一つ面白い資料が再整理によって発見された。それは木戸孝允の山内容堂公への記述である。
木戸孝允日記明治五年八月十七日
于時昨日の到来に容堂公病気再発終に死去のよしを承知せり
当春謬聞を以て実に歎惜し後真聞を得不堪大悦 然して又此訃聞を得る
実に遺恨の至なり
(この時昨日の連絡によって容堂公の病気が再発しついに死去されたのを知る。
今年の春、容堂公が死んだという誤った情報が届いたのでその死を非常に嘆き惜しんだ。
その後、本当の情報を得て、容堂公は回復したのだといたたまれず大いに喜んだ。
しかし、また訃報が届いた。誠に無念だ、無念でならない。)
木戸日記八月十二日:
「早朝鮫洲に至り、山内容堂公の墓へ参詣す、旧時を追想し不レ覚惨然たり、
墓もりの□□□□と暫談話して去」
(夜出て朝早くに鮫洲にこれることになった。山内容堂公の墓へ参詣しました。容堂公の生前の事を思い出して
しまって、俺無意識のうちに悲しくて悲しくて号泣していた。俺忙しかったんだけどいたたまれなくなって墓守
の◯◯さんとしばらく話をした。残念ながら忙しいからもう帰らないといけないんだ、容堂公さようなら)
妻木忠太(桂太郎から依頼された松菊木戸公伝の編纂主任)の証言、一部資料に一次資料の他に自分の証言を
付け加えている。
「帰朝後公私多忙を極めしが、八月十二日鮫洲に至つて豊信の墓に展した、
忽ち往時を追想し、惨然として涕の落つるを知らなかつた、暫らく墓守に豊信生前のことを談話して去つた」
(木戸公はものすごく忙しかったんだけど、帰朝前から行きたい行きたいといっておられていた山内容堂公の
墓に真っ先に向かわれたんです。墓につかれるやいなや、容堂公生前の時を思い出されてたようで悲愴な面持
ちで泣くは泣くはずっと泣いておられた。木戸公は忙しいんだけどどうしてもいたたまれなくなったようで、
墓守さんと泣きながら容堂公の生前のお話をされて、惜しみながらその場を去った。)
- 3 :
- ぐぬぬ
- 4 :
- 発見も何も前から普通に知られてるし史料も公開されてるし
木戸日記なんて図書館に普通に置いてるし該当部分読んだし
- 5 :
- こんな大発見なんで山内侯爵家は隠してたのと思ってたら今の宗家って山内豊範の末裔なんだね
でも史実の大殿様って和歌下賜したりしてたんだあwww
これ知らない人多いと思うよ
- 6 :
- 明治になってから、前の家来どもと一緒に机を並べて仕事できるか(怒)
と言って酒で緩慢な自を遂げたのは史実?
- 7 :
- 司馬遼太郎が悪い
- 8 :
- >>2の訳がひどい件www
- 9 :
- けど気まぐれな人だったんじゃないっけ?
まあ一豊の小物ぶりのせいで印象悪くしてる部分はあるが
- 10 :
- >>8
訳者のキャラがよく出ている訳だなw
- 11 :
- 捏造したとしたら田中光顕が犯人だろ
- 12 :
- 単純に人の好き嫌いが激しかったんだろ
自分の道具として役に立つやつは好きだし、役に立たないのは完全シカト
信長の真似かもしれんが人物の大きさがフタ桁ぐらいちがってるから、結局容堂は何事も成し得なかった
- 13 :
- でも他藩の家来に罵倒されても不問にしたりおおらかな所もあったと思うけどなぁ
ところで>>2の訳はなんでそこかしこに「忙しい」が挿入されてんだ?
- 14 :
- >>12は単に容堂公のことが嫌いなだけなんじゃないの?
門田って人じゃなくて武市も上士にしたり構ってたわけだから好き嫌いが激しいということもない
ただ郷士は城で会う機会がなかったから交流しようにも誰が有能か知らなかったんじゃないかな
それに信長もカリスマ性や革新的な発想は有能だけど文治的な才能とあたまのよさなら容堂公のほうが上だろうね
よくかんがえると信長のが好き嫌いは激しかったかもしれない。そのせいで荒木と別所の乱も呼応者が多かったし、明智も秀吉も
結局は織田家を裏切ってしまったね
- 15 :
- 容堂公って根が差別主義者で郷士を嫌ったりしてたなら
なぜ明治政府において開明派だった木戸と仲がよかったのか不思議だったけど
(木戸の飲みっぷりが気に入ったのかとも思ったけど)
けっこう気のいい人だったなら納得いく。
考えてみたら東洋も上士だけど先祖は長宗我部旧臣なんだよね。
この人を重用したんだから、能力を重んじるタイプだったのはたしかだろう。
しかし木戸の実家は藩医(藩主のお抱え医師)だから武家じゃないがかなりいい家。
だから上士と軒を連ねていたわけだし、上士と縁遠いってことはないな。>>1
- 16 :
- 容堂といい、東洋といい龍馬、武市贔屓な連中が必要以上に貶めてる印象
- 17 :
- 土佐は郷士差別が特別酷かったんだ〜〜というのはどうなのかな
真実? 司馬の創作という人もいるね
- 18 :
- 土佐の侍の身分による差別がどの程度だったかを知るには、他の諸藩の資料と比べないと
比較できないだろうから、研究者レベルじゃないと無理なんじゃね?
- 19 :
- 事実なら容堂公はツンデレだな
- 20 :
- 板垣退介が兵を連れて出征する時に送った
“冬なほ寒し、自愛せよ”
の言葉、これが容堂侯の本質だったんじゃないかな?
開明的な名君。
伊達に幕末の四賢侯なんて呼ばれたわけじゃないっていうね。
「竜馬〜」や「酔って〜」の司馬作品に、影響されてる部分がデカいんじゃないかな?
- 21 :
- >“冬なほ寒し、自愛せよ”
普通にいい人じゃん
司馬が描いたような無駄に頭のいい、鼻につく才子って感じじゃなさそうだな
- 22 :
- 木戸孝允日記の3月14日
其より島津左府公に至る 不快なり
木戸さん容堂公のことは好きだったんだけど島津久光のことは好かなかったんだね
久光は西郷からもジゴロ(田舎者で頭が固い)と馬鹿にされてたし、久光が三条公を天皇に直訴して弾劾した時も
大久保と岩倉らが皆で反対してたよね。やっぱり久光にない魅力が容堂公にはあったんだろうね
- 23 :
- 容堂公がもう一人重用してる人物、家老の福岡孝茂さんと言う人。
吉田東洋の参政への復職を助けた人なんだそうだが、超がつく程の良い人で
鹿持雅澄(武市の叔父)って人は国学を学びたかったんだそうだが家柄が低く
浦奉行下役というこき使われる役だったんだそうだ。
そこで福岡さんは藩校教授館下役兼同写本校正係という藩の本がただで読める上ほどよい仕事の無さの職に
つけてやったんだそうだ。雅澄は金もなくて国学の新刊が買えなかったそうで寂しそうにしてたんだけど、
それに気づいた福岡孝則って人が福岡家の文書の閲覧もさせてあげて、新刊も調達してやったんだって。
地元では有名な美談だそうな。
この話で容堂公は郷士差別の撤廃を唱える者を優遇してたのはほぼ確実だろ
対して福岡さんが復職に尽力した吉田東洋を暗しようとした家老衆との対立も確実だったことになるね
武市は案外保守派の家老の口車に乗せられて先走ってしまったのかもしれんなあ
これが福岡さんに優しくしてもらったという武市のおじさん
鹿持雅澄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E6%8C%81%E9%9B%85%E6%BE%84
これが革新派家老の福岡さん
福岡孝茂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%AD%9D%E8%8C%82
- 24 :
- 久光は魅力も何もw 大名の中で唯一あからさまに廃藩置県に反対、
廃刀令等の開化政策にも従わなかった難物。
物わかりの良さで有名な長州の毛利敬親、定広親子とは正反対。
西郷ともさんざん対立して、大久保も手を焼いてたようなのどうしろと…
木戸は四賢侯のうち、松平春嶽、山内容堂と超仲が良かったわけだけど
それ考えても容堂は春嶽と同じ開明的なところがあったと思う方が自然。
- 25 :
- 実際、勝が脱藩者の竜馬の帰藩頼んだ時も承諾して、証拠の品としてサイン入りの瓢箪の絵を描いた
扇子を上げたりしてるからね。(勝の私的日記にその事と絵の模写が残ってる)
度量は大きかったと思うよ。
小御所会議の件は嘘か真か割れるが、
「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し、権威をほしいままにしようとしている」
ってのは本当の事だしな。それを言っちゃいけないんだけどw。
- 26 :
- >>21
すると普通の馬鹿殿ということに
容堂はね、文学な人だったところに価値があるんじゃないかな
慶喜に少し似たところがあったかも
- 27 :
- >>25
瓢箪の件も度量が大きいというより文人という感じだな
- 28 :
- > すると普通の馬鹿殿ということに
そこは普通の才人に
まあ遊び好きで飲んべえなのもたしかだが
親幕だったのもたしかだが、すぐ新政府が理解できる柔軟性もあったわけだな
- 29 :
- >>28
ただね
家来どもと一緒の仕事なんか出来るか
酒で破産した大名はこれまでおるまい、ワシが先鞭をつけてやろう
こんな発言から悪い意味での身分意識が骨の髄まで染み込んでて、
死ぬまで抜けなかった人だよね
欧米が市民の時代になりつつあることが、体感としては理解できなかったんだろうな
- 30 :
- 容堂公、聡明なんだけどワンマンでキレやすいし…
公武合体を強硬に唱える部下も切腹にしてるし
部下に対しても旗色を明らかにしないから『怪物容堂』とか言われるんじゃないかなw
それが政治と言われればそうなんだけどw
ただ尊攘派の形勢が悪化した時期に問答無用で関係者の処刑を進めた藩もあったけど
土佐藩は影響力の強い武市さん以外は人罪を認めた人しか処刑になってなくって
拷問に耐えて黙秘を貫いた人は生き延びたからね
容堂その辺は意外ときっちりしてる?
- 31 :
- 容堂の藩主意識が抜けなくて、ただの封建時代の遺物として死んだなら
長州の木戸とは友達になってないだろう
いろいろ面白くないこともあってか贅沢して死んだけどね
春嶽や伊達宗城みたいに新政府で働いてもないけど久光よか100倍マシだって
- 32 :
- そもそも普通に風流人のイメージのほうが強いけどなあ。
龍馬伝の「陰性の迫力のある謎めいた男」「頭はいいが差別主義者」
みたいな描かれ方のほうが、どちらかというと変化球なんじゃないの?
- 33 :
- >>29
「昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう」ってのは容堂さんのセリフだけど、
「家来どもと一緒の仕事なんか出来るか」ってのは久光のセリフだったと思うよ。
容堂さんは武市の才能を惜しんで維新後後悔したこともあるぐらいだから家来と一緒に仕事をしたくないとは思ってないよ
ただ長州と薩摩があまりに政府の要職を独占したもんだから、吉田東洋をやっちまったんだから正しいさばきだったと思いつつも、
酒のんだら情が出てきて法律に逆らってでも武市のことを助けてやればよかったと思ってたんだと思うよ
それで木戸さんもそんな容堂さんが好きだったのかもね
- 34 :
- >>32
とにかく司馬の描き方が基準になりがちだけど、
「竜馬がゆく」では無駄に頭が切れるため扱いに困るひねくれ者って感じ。
江戸の剣術試合(フィクション)に立ち会うけど龍馬が郷士と聞いたとたんに
興味をなくすような人、「郷士を異人種のように差別した」とも書いてる。
伝容堂はこの路線を踏まえながら、根は迷いがあったという解釈だな。
- 35 :
- >>33
日本史板に書くべきことなんだろうけど容堂研究も面白そうだな
明治になって武市がこの世にいなかったことを惜しんだのは、政府要職が薩長閥で占められてしまって、
武市がいたらその影響力から土佐閥もそこに加われたのに
というタラレバ的後悔という側面が強くなかったのかなあ
- 36 :
- ご幼帝を擁し奉りて、権威を盗まんとしているのではあるまいな?
- 37 :
- 容堂公vs岩倉やってくれ。
- 38 :
- 容堂は気持ちよくなった。なりすぎた。酔ってもいる
「何事であるか!二、三の公卿が」
容堂は、怒号した
「幼冲の天子を擁し奉りて、政権を恣にせんとは…」「大不敬であるぞ!本日の挙は悉く、御宸断より出でましたることぞ!土州、返答せよ」
- 39 :
- 捏造にしろ史実にしろ小御所の岩倉はカコワルイ
- 40 :
- 岩倉に取りいった尊皇派の故障の遷移
「四奸(両嬪)」→表では「岩倉様」裏では「ヤモリ」
- 41 :
- 岩倉具視の大河が観たい
- 42 :
- 岩倉厨は隔離スレにGO
- 43 :
- 容堂って大名になったのもたまたまってかタナボタだしな。
千五百石の分家の出だし身分意識なんてないだろ。
江戸中期はともかく幕末の頃は大名旗本つっても家計は火の車で貧乏してる家が多かったしさほどの気位は無かったと思う。
将軍になった慶喜からして半分の火消し新門辰五郎と仲良くなって娘まで愛人にしてるしな。
- 44 :11/02/05
- age
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