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秋山好古って日露戦争で何か功績あるの?


1 :11/12/19 〜 最終レス :11/12/23
坂の上みてても酒飲んでるか怒鳴ってるかだけなんだけど

2 :
酒飲んでるか怒鳴ってるだけなんて
リアル赤井英和だなw

3 :
クソスレ立てるな
2ゲト

4 :
第一話からコサックをばったばったとなぎ倒す好古の活躍はまだかまだかと待ち続けたが結局なかった

5 :
酒飲んでるだけのオッサンが少将ってwww

6 :
富士川の合戦みたいなものだなw
コサックが撤退したのを勝ったと言ってるだけ。

7 :
相手が撤退すれば勝ちだろう?何を言っているのか判らん

8 :
その撤退させるに至る戦闘すら描かなかったのがドラマ坂の上の雲

9 :
機関銃をいち早く取り入れたんだが、コサックを追い散らしたようには見えなかった
騎兵は決戦部隊じゃなくて、陽動・偵察任務なので役目は果たしていると

10 :
>>4
3年間、アバンにだまされ続けた気がする。

11 :
>>1
原作読めばそれなりにかっこよく描かれてるんだがドラマみたらただのアホにしか見えん罠w
奉天じゃ活躍してるところほとんどないしな。

12 :
原作によれば好古は、黒溝台の大激戦で、騎兵でありながら馬から降り
馬をそばにおいて塹壕をほって、わずか数機の機関銃が熱するほど撃ちまくって
防戦した。そこへ日本最強をうたわれた立見尚文一個軍が秋山連隊を救出に向かい
黒溝台を敗戦にしなかった。というのが、秋山好古の最大の、現実的な戦功だと思ってる
そこから奉天会戦へのあしがかりへつなげた
黒溝台のロシア戦力は秋山連隊の何倍だったっけ?
立見は今も青森では軍神として崇められている、銅像もある
そのハイライトをドラマはスルーした、と聞いている。自分は視聴していない

13 :
このサイトで、最後までいろいろあったことがわかった。
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/sikiakiyama04.htm
ー 好古の最後 ー
  「何十年もずーっと馬に乗って、長靴で足を締め付けていますから足が女の子みたいに細く
  あまり歩けませんでした。晩年になって血の循環も悪くなったんでしょう。病気の元はそこから
  来たんじゃないかと思います」と君代さんは語る。
  病気とは、脱疽という筋肉が壊死する病気で、松山から東京に帰ってきた好古はこの病気で
  大腿部から切断するという大手術を受けた。
  「手術はノコギリみたいなもので足を切ってパッと持って行ってしまいました。しかし切ったとこ
  ろが浅かったのか、毒が上のほうへ廻って、それから2〜3日で叔父は危篤になりました。」
  叔父は死ぬとき「馬曳けーっ」といってってしまいました。満州の荒野を駆ける夢でも見てい
  たんじゃないかと思います。その最後の言葉を言うとグッと倒れました。大往生でした」 昭和
  5年11月4日秋山好古は波乱に富んだ71年の生涯を終えた。

14 :
秋山好古の名言を紹介していたサイトがあった。
http://www.earth-words.net/human/akiyama-yosihuru.html
男にとって必要なのは、若いころに何をしようかということであり、
老いては何をしたかということである。
己の意見もない者が、他人の意見を読むと害になるばかりだ。
向いていなければさっさとやめる。人間は、自分の器量がともかく発揮できる場所を選ばねばならない。
いかにすれば勝つかということを考えてゆく。その一点だけを考えるのがおれの人生だ。
それ以外のことは余事であり、余事というものを考えたりやったりすれば、思慮がそのぶんだけ曇り、乱れる。

15 :
秋山好古の名言 ここのサイトでも、名言が紹介されていた。
http://systemincome.com/main/kakugen/tag/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E5%A5%BD%E5%8F%A4
自然の怯えを抑えつけて、悠々と仕事をさせてゆくものは義務感だけであり、
この義務感こそ人間が動物とは異なる高貴な点だ。
精神力を強調するあまり、火力を無視するという傾向は、どうも解せない。
科学や哲学はヨーロッパの中世の僧院の中から起こった。僧侶たちは独身であるため、自分の課題に対し、わき目もふらずに精進することができた。
そのように、凡庸な者でも、一心不乱である限り多少の物事をなし遂げるものである。

16 :

騎兵による後方かく乱は、相手が大軍の場合は重要な役目だよ。
三国志で言うところの、曹操の官渡の戦いと同じ事をしたと考えればよいんだよ。
http://my3594.net/wiki/%E5%AE%98%E6%B8%A1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1230894682
●以下の書き込みを見つけたよ
秋山の騎兵隊はコザック以上の活躍をします。
彼の配下の騎兵隊から選抜された挺進隊を秋山は敵ロシア深く彼方に放ち(ロシア後方の霍乱目的)、
彼らは期待通りに大活躍。通信網切断や橋爆破などでロシア軍への神経戦を展開し、敵将クロパキンを大いに悩ませます。この挺身隊の遊撃距離は敵中三百里(1178キロ)に及び大いに成果を上げています。
建川&水沼&長谷川など挺身隊は秋山の狙い、本来の騎兵の役目を大いに発揮したものだった。

17 :
●秋山の部下の情報
建川美次 たてかわ-よしつぐ
1880−1945 明治-昭和時代前期の軍人。
明治13年10月3日生まれ。日露戦争で建川挺身隊隊長として活躍,
山中峯太郎の「敵中横断三百里」のモデルとなる。
http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/04-58.html
将校斥候(建川挺身隊隊長)として下士官以下5名の部下を選び、幾度も死線を超えて何重もの敵陣を突破し、
心臓部鉄嶺を迂回するロシア軍の背後を横断1200キロの挺進斥候に成功した。
満州事変の直前,参謀本部第一部長として現地に派遣されたが,関東軍の謀略を黙認。
昭和15年駐ソ連大使となり,日ソ中立条約の交渉にあたった。陸軍中将。昭和20年9月9日死去。66歳。新潟県出身。陸軍大学校卒。

18 :
■あるサイトの説明  奉天会戦、
http://kanayan1208.at.webry.info/200703/article_8.html
いざ攻勢を行うとロシア軍は当初強烈な抵抗で日本軍を圧倒しますが、信じられない事に兵力を別方面に移動させていきます。
その理由は日本軍騎兵が行った後方霍乱作戦(永沼挺身隊・長谷川挺身隊が行った鉄道爆破作戦)の影響で、ロシア軍が日本軍騎兵の戦力を過大評価(実数100人に対して4000人と錯覚)したため、
後方の安全の為に兵力を移動させたわけです。ここで、日本軍の猛攻が再び息を吹き返します。
最初、整然していた後退が、日本軍の繰り返す白兵突撃、ロシア兵からは信じられない敢闘精神がロシア兵の士気を挫いてしまい、敗走に変わってしまいます…。
有色人種が白人に決定的に勝ってしまったわけです。しかし、帝国陸軍はこの会戦から誤った結論を導き出してしまいました。
兵力劣勢な側が優勢な敵軍を包囲殲滅しかけた訳ですから、次の戦争でもこの事を踏み台にしてやれると思うわけです。
しかし、日中戦争の徐州会戦、ノモンハン事件、インパール作戦等でも同じ戦術を試みますが、当然ながら、包囲する前に息切れし、各個撃破されるという運命を辿ります。
つまり、帝国陸軍の誉れとあると同時に負の遺産を作った複雑な日でもあるわけです。

19 :
●あるサイトの説明
世界の天才的戦略家のナポレオンを退け、また天才参謀総長モルトケは敢えて戦闘を回避し続けたという世界最強のコサック騎兵には、
秋山好古も「絶対に勝てない」と確信していた。
そこで、正法では勝てないと判断した好古は、奇法による作戦を見い出す。
それは、騎兵を馬から全員下ろし、機関銃、騎兵銃や騎砲で、正面から向かってくるコサック騎兵を薙ぎ倒す作戦に出る
己の力に慢心していたコサック騎兵は、隊長自ら突進してきたため、
秋山騎兵の砲火の前で次々に打ち倒されていった。
"騎兵には騎兵を"という常識を覆し、最新兵器の機関銃を導入したことにより、日露戦争後は「騎兵」は「戦車」へと様を変えてゆくことになります。
皮肉にも「日本騎兵の生みの親」と称された秋山好古によって騎兵の役割は終焉を向かえたのでした。
http://www.sakanouenokumo.jp/yoshifuru/cavalry.html
秋山好古は、数こそは少ないが、かの織田信長の"長篠の戦い"を再現して見せた。

20 :
奉天会戦は1906(明治39)年2月26日から開始された。日本軍の戦略は、左翼に展開した乃木希典大将率いる第3軍が先んじて北進し、
ロシア軍がその対応に追われる間隙をつき、第1、第2、第4軍が正面から戦線を突破しようというものであった。
しかし正面に控えるロシア軍は、世界一の陸軍との評判にふさわしく、コンクリートで固めた陣地と砲兵との見事な連携によって日本軍の進撃を阻む。
会戦の主役は、敵正面を突破する第1軍のはずであったのが、苦戦しながらも北進を続ける第3軍に移っていくことになる。
すなわち「第3軍を先頭に他軍を追尾させ、奉天をぐるりと包囲する」作戦に変更となったのである。
ただ形式を整えるという悪例が登場
第3軍が奉天に向かって翼を広げるように包囲しようとすると、ロシア軍はそれ以上の兵力をもって翼を張り、第3軍をとうせんぼする。
それが繰り返されて、第3軍はいたずらに北へ、北へと流されてしまう。奉天を東に見ながら、それを追い越し、結局のところ奉天に進撃ができない状況がつづいた。
満州に展開する日本軍を統括する総司令部は、そのありさまを厳しく指弾し、奉天の後方にでて、鉄道を遮断するよう督促する。
ロシア軍の激しい攻撃でそれができない第3軍は、ついには形を整えるためだけに第3軍の先頭にいた秋山好古以下騎兵隊(歩兵と砲兵を加えた混成支隊)に、奉天攻撃を命じるのである。
高等司令部の命令に対し、成功の見込みのないまま形を整えるという悪しき例が、日露戦争はおろか帝国陸軍史上はじめて登場したのである。
一方、奉天攻撃の命を受けた秋山支隊は、騎兵中心の部隊でありながら馬を降り、機関砲をもち、歩兵・砲兵と連携して陣地を構築しながら、一歩一歩奉天に肉薄していく。
ついには奉天後方の鉄道基地近くに進出し、砲兵によって鉄道基地を焼き払うことに成功するのだ。
ロシア軍総司令官のクロパトキン大将は、その事態に過敏に反応し、全線にわたって攻勢にでていた自らの軍の進撃を停止させ、さらに内陸の鉄嶺まで退却してしまう。
結果、日本軍は膨大な戦力を失いながらも、奉天占領に成功するのである。
戦略的立場を理解していた秋山好古
秋山好古は、日本騎兵の父といわれ、草創期から騎兵の発展のために尽力してきた。大陸で率いた騎兵士官はすべて好古子飼いの将校であり、
その特性も弱点も知り尽くしていた。だからこそ歩兵・砲兵との混成を決断し、さらには機関砲の配備までも具申していたのだ。
http://j-net21.smrj.go.jp/watch/sanpo/entry/20090615.html

21 :
というか、騎兵の本質とかけ離れた守備という任務で日本軍左翼を守り通したこと自体が大きな功績

22 :
●日露戦争の コサック
1904年に日露戦争が勃発すると、ロシア帝国の極東に駐屯するアムール、ザバイカル、ウスリ、シベリアのコサック諸軍が動員された。
1904年4月にザバイカル・コサックが戦線に出発し、それに続くシベリア・コサック師団(4連隊)、ウラル・コサック旅団(2連隊)、ウスリ・コサック連隊、クバーニ=テレク・コサック混合連隊も戦地に赴いた。
さらに7月にオレンブルク・コサック師団(4連隊)も加わった。コサックの諸部隊は、南満州での鴨緑江会戦、遼陽会戦、沙河会戦などに参加したが、ロシア軍の司令官に判断力が不足していたため、
コサックの騎兵は力を発揮することができなかった。
一方、ザバイカル・コサックの歩兵と砲兵は旅順防戦に参加し、二百三高地の防衛で活躍した。
旅順防戦で活躍したロシア軍側の司令官ロマン・コンドラチェンコと大砲隊の指揮官ヴァスィーリ・ビールィイも、ウクライナ・コサックの家系である。
1904年9月に第4ドン・コサック師団(4連隊)が戦地に到着し、それに続く1905年4月にカフカス・コサック混合師団(クバーニ・コサックの2つの連隊と、テレク・コサックの2つの連隊)ならびに第2クバーニ歩兵連隊(6大隊)が満州についた。
パウロー・ミーシチェンコ大将が率いるコサックの諸部隊は1904年12月に営口市を襲撃し、1905年1月に黒溝台会戦にも参加した。
さらに、1905年2月にシベリア・コサックは17日にわたる奉天会戦にも戦った。5月から6月にかけて、ミーシチェンコ大将のウラル・ザバイカル・クバーニ・テレクのコサック混合部隊は日本軍の陣地の背後を襲撃して荒らしたが、
戦況を変えることはできなかった。
●コサックの滅亡
ソビエト連邦はコサックを反革命分子と見なし、スターリンも、レーニンのコサック根絶政策を忠実に継承した。
それにより、440万人の70%、308万人が、戦死、処刑、流刑死で抹された。クバーニやドンなどの地域で弾圧とホロドモールによって徹底的に抹した。
弾圧を逃れたコサックの多くは海外に逃れた後に、第二次世界大戦においてドイツ軍に協力した。第二次大戦が終わると一部が欧米諸国へ逃亡するものの、
ソ連軍に強制連行されるなどして過酷な運命を辿った。

23 :
●実は、1903年までは、旅順は巨大要塞などではなかった。
ロマン・コンドラチェンコ
1857年10月12日 - 1904年12月12日)は、帝政ロシアの軍人。ウクライナ人。日露戦争当時のシベリア第7狙撃兵師団長。
旅順攻囲戦における実質的なロシア軍側の司令官。陸軍中将。
ロマン・コンドラチェンコはチフリスに生まれた。父はウクライナ人の退役少佐で、貴族化されたウクライナ・コサックの出身だった。
家は貧しく、幼い頃から働きに出された。兄の援助のおかげで、ポロツク軍事中学校に入校できた。1874年に優秀な成績で卒業し、ペテルブルクのニコラエフ工兵学校(士官学校)に進んだ。
1885年、参謀本部アカデミーに入校し、1886年に首席で卒業した。1886年〜1894年、ヴィレンスク軍管区参謀部で勤務し、大佐にまで昇進した。1895年、ウラル軍管区参謀長に任命されたが、間もなく第20狙撃連隊長となった。
1900年始め、ペテルブルクに設置された建軍委員会の業務に移ったが、日本との関係悪化に伴い極東に赴任する。
日露戦争開戦前の1901年、参謀部管区当直将官として沿アムール軍管区に転任。1903年11月には、少将に昇進し、旅順要塞防衛の任に当たる第7東シベリア狙撃旅団(1904年に師団に昇格)長に就任する。
しかし前要塞築城責任者が予算を私的に流用したりしていたため、旅順要塞の主要部分は未完成であった。
その様子を見て落胆した彼は、同僚に宛てて「何処に要塞があるというのだ。旅順には要塞と呼べる施設は何処にも無い」としたためた手紙を書いている。
着任翌日より来襲が予想される日本軍から旅順を防衛するために自ら要塞築城の陣頭指揮に当たる。
旅順要塞司令官アナトーリイ・ミハイロヴィチ・ステッセリ中将は、官僚的縄張意識が高く近代要塞に対して知識の無い凡庸な人物であったが、
コンドラチェンコの能力を信頼しほとんどの要塞防衛作戦計画を一任したため、要塞築城や防衛計画に関して専門家である彼のセンスを遺憾なく発揮することができ、旅順要塞を短期間で永久防塁に固められた近代要塞に変貌させた。

24 :
1904年、日本第3軍による旅順攻撃が開始された際にも常に前線に立ち部下将兵を鼓舞し続けた。
旅順港内のロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)から艦載砲を陸揚げした上で各要塞に配備して砲撃力を高め、堡塁からの機関銃による十字砲火や手榴弾・地雷・高圧電流を流した有刺鉄線を効果的に利用して日本軍歩兵の銃剣突撃を防ぎ、
弾薬不足を補うために海軍から余剰武器を転用し、
機雷を敵兵に向けて投げ落としたり、大砲に魚雷を装填して砲撃するなどの戦法も工夫し、日本軍に大きな損害を与えることに成功する。
またステッセリから叙勲権代行の権利を受けると、功績のあった将兵に自ら勲章を捧げて激励した。部下将兵も彼の姿に勇気付けられ、必死になって戦った。
12月5日に203高地が陥落、日本軍による砲撃によって旅順艦隊が全滅する。それでも彼の闘争心は衰えず、将兵を励まし続けたので兵士の士気も高かった。
12月12日、東鶏冠山(ひがしけいかんざん)北堡塁の将兵を激励する為に視察に訪れる。一人の兵士に勲章を与え激励した後にその場から離れようとしたその時、日本軍から発射された榴弾砲弾が着弾、即死する。
コンドラチェンコの死は将兵たちに衝撃を与え、士気が大きく低下したと言われる。ステッセリが旅順開城・降伏を申し出たのは1905年1月1日のことであった。
日露戦争時のコンドラチェンコの活躍はロシア国内でも大きな話題となり、終戦後、彼の遺体をペテルブルクに埋葬することが決定された。
遺体は、海路でオデッサまで運ばれ、陸路は鉄道で運ばれたが、駅では人だかりの山ができた。彼の遺体はアレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に埋葬された。
ニコラエフ工兵学校、第20連隊(スヴァルキ)、ポロツク幼年団には、彼の記念碑が建てられた。

25 :
長くて読む気しないっす。引用してきたサイトだけ教えてくれればいいんで。
もし司馬本のコピペなら、迷惑だから二度とやんなよ。

26 :
 25よ。 リンクはってやったじゃないか。
 リンク先ぐらい見ろ
しかたないから、一言で書いてやるよ。
秋山好古を、評価できない奴は、よほどの馬鹿だ。
そんな奴が、社長になったら会社は潰れる。
 あとは、しらん  さようなら

27 :
秋山好古なんて名前知らなくても充分やってけるから安心しろ
あの兄弟だけ妙に詳しいと坂の上の雲しか日露戦争もの読んでないなとばれるだけだぞw

28 :
クリッペンベルグも貼らないと、黒構台がわからないぞ

29 :
>27
逆に日露戦争の話題で秋山兄弟知らないやつの方が間違いなく浮くと思うのだが。

30 :
(´・ω・`)あるもんはあるんじゃ

31 :
秋山好古は 日露戦争当時 少将だったのが悔やまれる。大将ならもっと大部隊を指揮してさらに活躍していただろう。

32 :
>>31
むりむり。大将は薩長がなる倣い。初めて賊軍出身で大将になったのが立見。

33 :
いや、待て、奥もそうだったかも。いずれにせよ年が違う

34 :
>>1
つまり全然活躍してないってこった

35 :
34は、偵察を軽視する馬鹿将軍と同じだな。
秋山が日本の騎兵を育てなかったら、
日露戦争で、日本軍は、ロシア軍の後方かく乱出来なかっただろ。
敵の大軍の後方をかく乱できなければ、小国に勝機はない

36 :
>>29
秋山兄弟はワンノブゼムだよ。お前はちゃんと軍事史学でも読めよ。
司馬もはっきり秋山たちは同時代人の精神の象徴と言ってるだろうが
司馬原作の秋山好古像に引きずられてる奴のほうが浮いてるよ
立見のほうが名将

37 :11/12/23
またお前呼ばわりか
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