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【兵庫県】淡路島【謎の島】


1 :11/07/11 〜 最終レス :11/11/25
淡路島について
関連スレ
淡路島の歴史
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1305831753/l50

2 :
世界の中心が淡路島に? 謎の2012年論
http://www.tanteifile.com/onryo/kaiki/2010/04/25_01/

3 :
「2012年、人類滅亡」は日本人が救う、そして世界の中心は淡路島になる説浮上
http://mimizun.com/log/2ch/news/1272372118/

4 :
淡路島はユダヤの聖地
武智時三郎(塩翁)著
淡路島の神秘 エル・エロヘ・イスラエル

言霊研究家・武智時三郎が著した日ユ堂祖論。
昭和28年刊。
大本信者で出口王仁三郎から戦前「鳴門の仕組」を委嘱されたと主張する武智が、その神業の成果をまとめたもの。

武智によれば「鳴門の仕組」とは、ユダヤと日本の完全な提携により「立替え立直し」が完成することであり、
王仁三郎から託された使命はその雛形を説き示すために淡路島に「元井戸」を掘ることであったという。

武智は井戸を掘りつつ、ユダヤ民族渡米を証明する遺跡を探索、独特の言霊学を駆使して淡路島こそ日ユ両国の「聖地」であると主張した。

5 :
諭鶴羽山も関係あるみたいよ!

6 :
なんで謎の島なん…

7 :

798 :神も仏も名無しさん:2009/08/17(月) 19:39:05 ID:eVjvixma
 だいぶ昔に、「富士と鳴門の仕組み」についてやばいことになってると書いた者だがその時の詳細を書く。
 淡路の昔のこと(大本のことにも)に詳しい人から聞いたのだがのだが、「富士と鳴門の仕組み」に
 関係する重要な淡路島の神代にある井戸の上に何年か前に家か倉庫を建ったみたいな話をしてくれた。
 井戸を埋めて建てたのかそれとも埋めなくて建てたのかは分からない。
 富士と鳴門の仕組みで淡路島の井戸って分からない人は分からないだろうが、
 「淡路の神秘エル、エロヘ.イスラエル」という本にでてくる武智時三郎という人が、
 出口王仁三郎に「富士と鳴門の仕組み」で託されたみたいだ。
 昔下記HPに詳しいこと載ってたのだが今はないみたい。
 http://koko1.no-ip.com/nisikinomiya/member/Yuigon-1.pdf
 http://majinnnn.jugem.jp/?day=20071209 に重要箇所の引用が載ってる。
 ちなみに今現在、井戸の方はどうなってるか分からない。
801 :きんたん:2009/08/17(月) 21:49:20 ID:sSSvd3rg
 >>798さんへ
 >ちなみに今現在、井戸の方はどうなってるか分からない。
 1996年2月号の雑誌ムー183号の総力特集「竜宮神示と天言鏡」に詳細が掲載されてたと思います。
 大本裏神業の錦宮の特集記事ですが、本棚を探しましたが見つかりません。
 古本屋で探して見て下さい。
 『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』岡本三典著作 徳間書店(絶版)
 六、至恩郷の神殿と神業203頁にも少しだけ記載が有ります。
 元井戸は神社が祀られて永久保存される筈でしたが、
 持ち主が焼身自をして取り壊されて埋め立てられました。
 元井戸の跡地には民家が建っているはずです。

8 :

802 :神も仏も名無しさん[age]:2009/08/17(月) 22:34:07 ID:vwWIIGpG
 うげっ、焼身自した跡地に民家?
 それはいくらなんでも怖すぎるな・・・。だが非常に気になる。
 誰か現地に行って見てきてくれ。
804 :798:2009/08/18(火) 01:23:22 ID:VlZu9ZpK
 昔のムーに載ってたとは。
 元井戸の正確な場所は当時詳しく聞いてないので正確な場所は分かりません。
 教えてくれた人とは疎遠になってしまったし。
 一応ググってみたら昔のムーにM高校から南東1.5キロ程度にあるというアバウトな情報がヒットしましたが、、、
 せめてご神体だけはどこかへ移動されてたらいいと思いました。

9 :

805 :きんたん:2009/08/18(火) 06:34:57 ID:UpmCyuPB
 >>798さんへ
 >せめてご神体だけはどこかへ移動されてたらいいと思いました。
 出口聖師の言うとおりに
 御神体は近江を経て北伊勢まで辿り着いたみたいだけど
 現在は至恩郷にあるのかな。それとも錦宮にあるのかな。
 私も解りません。済みませんが昔の事なので忘れました。
810 :きんたん:2009/08/18(火) 19:14:08 ID:n2Oo9J+C
 >>807 :798さんへ
 不確かな情報で済みません。
 元井戸は国常立大神が出る穴であり、
 それを塞いだ為に阪神大震災の様な災害になったとかムーに書いてあった気がします。

10 :

843 :神も仏も名無しさん[sage]:2009/08/20(木) 10:31:19 ID://z7QxXL
 >>813
 予言の面があり、教団はその書とよく似た経路をたどることになりました。
 前の方にあります、
 井戸は今の南あわじ市神代社家という地域に昭和61年まであったようです。
 桃之宮という宮が近くに立てられ井戸を管理していたそうです。
 昭和58年に宮は全焼・管理していた元修験者の女性は焼死。
 ご神体は辻天水氏によって錦之宮へ戻されたはず。
 あぁなった今でも所有しているのではないでしょうか。
845 :神も仏も名無しさん[sage]:2009/08/20(木) 12:56:51 ID:5KTyeoOa
 >>843
 >昭和58年に宮は全焼・管理していた元修験者の女性は焼死。
 きんたん氏がいっていたような焼身自ではなかったのか?
853 :きんたん:2009/08/20(木) 21:06:29 ID:ILZNytsf
 >>845さんへ
 焼身自をして全焼したと聞いてましたが、私の間違いでしたら済みません。

11 :
東京都市部にムー全巻揃ってる図書館がある
調べてくれないかな?誰か
うちの母方阿万なんとかだったかの出身 絶家寸前
五七の桐紋で士分だったみたいたけど 
維新からこっち 神職とはいってもなんの「神様なん?皇室にちゃ〜んとつながってるん?」
そんな神様を祀る禰宜 修験 フケ僧等 そういった連中で相当の由緒のあるもの
みんな士分に組み込まれたんだよ、淡路は特にそうだったみたいあと北陸とか
稲田騒動前後で「卒族」に落ちてしまうかさすがにそれは厭だったみたい
一家で北に向かったんだ。で もうすぐ消えるからいいんだけど
錦の宮の顛末はおととしだったったか 信じられないことがあるんだと知った
暴露話を神あがりなさるまえに、教祖の女性が書いていて
あらららと読んで、んで亡くなった あとはあっという間に乗っ取られrた
日本人ではないのだそうです。もともと差別感情はほとんどないのですが、
日本の神様を外国出身の方にお任せしておまつりいただくことに違和感がぬぐえません
亡くなったケイコ氏もはっちゃけたひとだったようですが...
情報は ある程度 阿修羅にあります
「錦」の字が「綾」になってます
ぜひスレ続けてください

12 :
伊勢も出雲も諏訪も那智も高千穂も伊弉諾神宮を中心に配置されている
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/a/altgolddesu/20110607/20110607160444.jpg

13 :
>>12
(´・∀・`)ヘー

14 :
大本教では出口王仁三郎の裏神業で、淡路島に空井戸を掘っていたことが知られている。
つまり、その空井戸から地球の親神様とされる国常立大神が出現するというのだ。

15 :
昭和19年10月、白山義高(武智時三郎の女婿)が淡路島での活動を報告すると、
王仁三郎は秘蔵の銀色の短冊に御神号をしたため、「これを御神体とせよ」と渡した。
それには「大国常立大神」と主祭神の名が書かれ、その両脇に「金山彦神」と「金山姫神」の名が記されていた。
そして王仁三郎は、「この御神体はやがて近江に移り、さらに北伊勢に移るときが来る。
この御神体がおいでになるところが、ご経綸の中心で無風の状態である」と予言し、昭和23年1月に没する。
この御神体はその言葉どおり、やがて天明のもとに移されることになるが、
王仁三郎は「大本の進癸より神業の艮めは北イセ…」という言葉も残していた。
(ムー1995年3月号48ページ)

16 :
辻天水は刑務所に出口王仁三郎の面会に行ったり、保釈後も何度も会見している。
淡路島に井戸を掘れと指示したのは王仁三郎であるが、それに付いての細かい指示は三雲隆三の神示に依っていた。
辻天水は井戸掘りの経緯の報告に何度も王仁三郎に会見しているのに恫喝されていないのは、
私は暗に王仁三郎が三雲隆三の事を認めていたからだと考えている。
淡路島の井戸を掘った場所は神代地区という処であるが、ここには、戦前、大本神代支部があった。
又、戦前から戦後にかけて、徳島や淡路島で再燃炭の採掘をしている大本信徒がいた。
これら地元の大本信徒の協力がなければ、戦争後期の頃に大きな井戸が掘れる筈がないのである。
淡路島の井戸掘りの折に、王仁三郎から辻天水に《息吹きは富士より高い》という謎かけが伝えられたが、
辻本人は死ぬまで気がつかなかったが「霊界物語・天祥地瑞」の高照山の事である。

17 :
かつて出口王仁三郎は、大本裏神業の一環として弟子の辻天水に、淡路島に国常立尊を出現させる元井戸を掘らせた。
これは水が出なくても良い井戸で、国常立尊が出現する霊的な穴を意味し、
これによって岩戸開きの第一弾である阪神淡路大震災が起きた。
その元井戸を生涯守り続けたのが白山義高で、ある時、淡路島のユダヤ人遺跡を発掘するよう王仁三郎から命じられた。
そして洲本市の観光ホテル『四州園』の敷地内でユダヤ人遺跡らしきものを発見し、
その遺跡の形は、大きな立方体の石がV字型に置かれ、その上に様々な石が積み重ねられ、
不思議な青玉石が安置されていたという。
この青玉石は後に、御神体として岡本天明が一時預かり、その後、辻天水に返された。
この遺跡を最初に発見したホテルの当主・森重吉氏は、発見の翌日に急死したことから、
青玉石がグラビトナイトと同様に強烈な放射線を発していたのではないかと考えられている。

18 :
『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』三浦一郎に拠ると、戦後、淡路島でユダヤ遺跡を発見した白山義高は、
戦時中は淡路島で岡山の牧進平らと亜炭を採掘していたとのこと。
岡山の牧進平とは、牧慎平のこと。
大本信徒で熊山遺跡の存在を広めて、出口王仁三郎を熊山に導いた一人ですね。
三浦の著書が出た、昭和288年には故人だったようです。

19 :
昭和28年でした。
因みに白山義高氏は、岡本天明氏の師匠に当たる武智時三郎氏の女婿で、
淡路古文化開放協会会長を務めた人物です。

20 :
淡路島裏神業 元井戸の経緯
http://pontosu2011.blog12.fc2.com/blog-entry-162.html
淡路島の元井戸についての経緯について、これから、(少々長くなりますが)お話しさせていただきます。
これまで、この鳴門神業の中でたびたび触れて参りました、例の井戸とは、
淡路島の南端の某所にかつて存在していたものです(現在は、埋め立てられてすでにありません。
今、現在この場所には、一般の民家が数軒建っています)。
この井戸は、大本教の出口王仁三郎が、その晩年に、大本裏神業と呼ばれる秘密神業のなかで、その中核となる辻天水、
白山義高という2人の神業家に命じて作らせた、【淡路島裏神業】の要となる中心舞台となる場所です。
この井戸は、“元井戸”と称されています。
当時の大本教は、2度にわたる国からの官憲当局による大弾圧にあい、教団本部は破壊され、
王仁三郎自身も治安維持法違反などの容疑で逮捕されるに到りました。
逮捕後、冤罪が認められ7年で保釈されるものの、要注意人物として当局の厳しい監視下のもとに、
公的な神業活動は一切禁止され、また老齢による肉体的な衰えもあったために、密かに自分の身代わりをたて、
大本裏神業としてブレーンとなるメンバーに様々な神業を執行させていました。
この2人の人物も、大本裏神業に加わった実行部隊のメンバーでした。
昭和17年保釈出所後の王仁三郎は、『大国常立大神』と書いた御神体となる短冊を辻天水に託し、
この短冊のある場所が神業の中心地になると告げました。
そして、この短冊の奉り方を、『近江で祀り、淡路に入り、あとは伊勢に入らなならん』と告げ、
この言葉に従い、天水はまず近江にて短冊を実際に祀ります。
その旨を報告した後、王仁三郎は、次に淡路島神業について切り出しました。
その指示とは、淡路島に 『元井戸を掘れ』 と言うものだったのです。
この話を聞き、怪訝そうな顔をする天水に、王仁三郎は続けて、
『直径1間半(約2.7メートル)、深さは60間(約108メートル)や』 と伝え、
その時、王仁三郎からは淡路島のどこを掘っていいか全く示されませんでした。

21 :
その後、三雲龍三という霊能者によって、井戸を掘る場所が特定され、白山と天水は私財をなげうち、
井戸堀りを進めることとなります。井戸は該当の大きさに達した時点で、王仁三郎に打診したところ、
『成功』と解する意味の文字が天水のもとに届けられました(ただ、この時、井戸に水はまったく出ませんでした)。
その後、王仁三郎との面会を果たした天水が井戸の意味の教示を請うと、
『あれはなあ、大国常立大神さまがご出現される穴だったんや』 と初めて明かしたのです(なので、
王仁三郎にしてみれば、水が出る出ないは問題ではなかったのです)。
その後、井戸を掘ったことで出現した、大神の御神霊を最終的に鎮め祀る場を求めるための
“北伊勢神業”へと引き継がれていきます(この神業にあって、かの岡本天明や、武智時三郎などの神業家が登場します)。
昭和19年10月、元井戸の完成の後、王仁三郎は短冊に神号をしたためて、大神の御神霊を北伊勢に遷すことを2人に指示。
そこに“最後の宮殿”を建てることによって神業が成就することを告げます(北伊勢神業 → 岡本天明、辻天水へ)。
これまでの流れからみる、出口王仁三郎による淡路島神業の意味とは、
淡路島という“国の源”の地に埋没させられた最大最尊の大神“大国常立大神”の御神霊を、
辻天水と、白山義高の2人に封印開きを執行させたことによる、
イザナギ、イザナミの2神による国産みの真の完成の成就を意味していたものと思われます。

22 :
白山は、『元井戸は完成後、永久保存の方法をとりそこを世界の中心の聖地として奉祭せよ』という王仁三郎の言い付けを守り、
北伊勢神業の後もさらに井戸を掘り続けました。
果たせるかな、その後、井戸水も出て、彼はこの水が鳴門の渦潮に通じているとも考えていたといいます。
昭和30年、白山の前に、浪上千代鶴という一人の女性神道家が現われます。
彼は『あなたが現われることは以前から神のお知らせがあった、運命的な神縁を果たした。』と彼女に告げると、
その後、元井戸に関する一切を彼女に託し、彼は淡路島を去ることとなります。
こうして、北伊勢と淡路島の二箇所で、世の立替、立て直しを押し進める場として彼女は「桃の宮」を創設、
昭和28年に元井戸の傍に社殿を建立することとなります。
そして、運命の昭和58年11月23日早朝、桃の宮が全焼、焼け跡から浪上本人の焼死体が発見されることとなります…。
(この井戸跡のすぐ横に、一体のお地蔵さんが祀られています。建立の日付けは昭和61年となっており、
この火事から2年以内ということで、おそらく火事と井戸を埋めたことへの供養から住民によって建立されたものと思われます)。
火事の後、井戸は埋め立てられ、現在は建売住宅の並ぶ、何の変哲もない住宅地となるに到っています。
1995年に発生した、阪神淡路大震災の原因が、この井戸を不用意に埋め立ててしまったことによる反作用として、
溜まりに溜まった神的エネルギーが閉ざされてしまったことによる飽和状態が一気に噴出したことで起きてしまったとする見方も少なくない…。

23 :

http://blog-imgs-43.fc2.com/p/o/n/pontosu2011/20110420042520b47.jpg
http://blog-imgs-43.fc2.com/p/o/n/pontosu2011/2011042004252016c.jpg
淡路島 南あわじ市 『元井戸跡地と地蔵像』(2011年3月8日撮影)
元井戸跡はご覧の通り、現在一般の民家になっているため、
場所の詳細については差し控えさせていただきます。
私が最初にこの井戸跡に訪れたのは、今から5年前の2006年になります。
この時、私が最初に感じたことは、大神の御魂の存在がまだこの井戸の跡地に今もはっきりと残っているということでした。
淡路島を離れる最終日の夜に、(今も忘れもしませんが)暗がりの中で、井戸があったと思われる場所の周囲の空間に、
ユラユラと陽炎のようにゆらめく黒い塊のようなエネルギー体の存在をはっきりと感じたのです。
そしてその周りを、『かんにんな〜、かんにんな〜』 と言いながらトボトボと俯きながら彷徨うように歩き回る、
女性の姿がはっきりと視えたのです。彼女は、まさに焼死した浪上千代鶴、本人の霊でした。

24 :
元井戸跡ってどこにあるの?

25 :
  ┌─────┐
  | 良スレの予感 |
  └∩───∩┘
   ヽ(`・ω・´)ノ

26 :
>>24
上のレスに南あわじ市神代社家と書いてある。

27 :
多分、淡路断熱の辺りだと思う。
上の画像の風景と酷似している。
淡路断熱でググればすぐわかる。

28 :
浪上千代鶴女史は元井戸から成仏できないのか( ー人ー)|||~~~ ナムナム
火事で亡くなったのか、それとも焼身自を図ったのだろうか?

29 :
今年、平成二十三年三月八から十日にかけて、淡路島 鳴門の地にて
ある神の御魂が、壊された“井戸”の奥底から、その咆哮とともに復活を果たした…。
その神の御名は
『大国常立尊』 即ち 真ノ“艮ノ金神”ノ荒御魂
ソシテ其ノ神の真ナル御名ハ…。

30 :
>元井戸の完成の後、王仁三郎は短冊に神号をしたためて、大神の御神霊を北伊勢に遷すことを2人に指示。
>そこに“最後の宮殿”を建てることによって神業が成就することを告げます(北伊勢神業 → 岡本天明、辻天水へ)。
この空井戸の神事
北伊勢=菰野のここの御神水(という)
http://nishikinomiya.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-7558.html
こちらの道場で「しくみ」の「あがり」なんじゃないかな?
今後の地変で 首都機能は地球博の後地に移転される
最終的に日本列島がどうなるかわからないが、北伊勢は最後まで持つみたいだ
ここにたくさん難民化したひとが集まってるのが見える、もちろんそんな難民たちも
「選ばれた人々」だ この時点で他の人はかなり「出直し」、もしくは「カルマの終了=あがり」になってる
このBLOG主はケイコ氏が「カムバーック」と書いていたひとなのか?
いろいろケイコ氏を批判していたが、虚言はあったにせよ、姑とともに血のにじむような
思いで錦の宮を維持してきたことに変わりはない。

31 :
御神体の意味
http://belovedone.exblog.jp/15951531
(『淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル』からの内容として)
昭和10年の第二次大本事件も迫ったある日
王仁三郎は(白山義高に)
「お前は一宗一派に囚われてはならない。
 それだから大本教には入信しないで、皇道大本の行者になれ」と諭した。
「皇道大本は、唯一の救世主(キリスト)を知らせ、宗教の本質を知らせ
 更に直接に、立替立直しの業をする立役者(菩薩)を仕立てるところであるが
 方便の上には、立替立直しの雛型を以て教を示すところである。
 雛型では、出雲系の大本で、ユダヤを世に出し
 日本系の皇道でイスラエルを世に出すところで、いまのところ
 この筋書を本当に知らせて置く適材が見つからぬ」と述べた。
昭和22年12月、王仁三郎との最後の会見になった際
王仁三郎は、白山に次のように告げたという。
「元井戸の御神体を北伊勢に移すことは、皇道大本雛型教の
 最後の宮殿を建てるのであり、この宮殿を中心として
 各宗教が相集り、世界の宗教がこの一堂に会する場面となる」

32 :
(御神体の位相について)
王仁三郎によれば、日本国土は、世界の国土の縮図であるという。
即ち、淡路島は、雛型神業上の日本国土発祥の地であると同時に
世界国土の発祥の地という霊的位相をもっている。
御神体は、まずこの淡路島に祀られた。
王仁三郎は、近江地方の霊的位相について
「江州はユダヤの型で、ここが開けんと世界は開けん」
(『新月の光』)とも述べている。
王仁三郎の命により「大国常立大神 金山姫神 金山彦神」の御神体は
近江に祀られることによって、世界経済の支配者(金銀財の支配者)
ユダヤの黄金神としての霊的位相を獲得した。
ユダヤの黄金神の本質は、優勝劣敗・弱肉強食の
市場原理主義を宗旨とする、拝金教の神である。
王仁三郎が、白山に下した御神体は
大国常立大神が、金銀財の支配者ユダヤを駆使して
世界の立替え立直しを行うことを暗示していた。

33 :
北伊勢菰野の丘は、武智翁の命名により「シオンの丘」とされ
その丘にユダヤの象徴ダビデ章の位相に満ちた神殿が建立された。
御神体は、「至恩郷」の神殿でユダヤ黄金神としての霊的位相を確立した後
白山義高と淡路元井戸掘りに従事した、辻天水の「錦之宮」に祀られた。
辻天水は、1930年頃、信徒ではなく、一般人として大本の研修に参加した際
王仁三郎に「伊勢のカンノシ」となれと命令口調で言い渡されたという。
その後、天水は、亀岡の大本本部に奉仕、第二次大本事件後も信仰生活を続け
終戦後に故郷の北伊勢菰野町に「錦之宮」を開き密かに神業を行っていたという。
王仁三郎が、天水に言い渡した「カンノシ」には
「神主」あるいは「神皇子」の意味があったようである。
雛型経綸上の「伊勢の神主(神皇子)」が
北伊勢菰野の丘(三保山)の「錦之宮」の神殿にユダヤ黄金神を祀り
伊勢の神主として日々、黄金神を拝していたこととなる。

34 :
シオンタウン

35 :
シオンの意義
http://belovedone.exblog.jp/15948272
裏神業を語るには、辻天水(本名:正道)が起点となります。
終戦後、故郷の北伊勢菰野町に「錦之宮」を開き、裏神業を行った人物です。
*詳細の経緯は、こちらも参考になります。
 第一章 一連の物語 5 天言鏡/辻天水氏 - その1
 http://www.asyura2.com/0411/lunchbreak4/msg/380.html
また、白山義高という人物の動きも伴います。
多少なりとも裏神業を調べると、白山義高が神業の経緯を明かした
武智著『淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル』が出てきます。
王仁三郎が第二次事件で収監される前
白山は王仁三郎より、淡路島に元井戸を掘れと指示されます。
まずはここに、(前記事の)銀色紙の御神体がまつられました。
御神体はその後、近江を経て、北伊勢にある辻天水の「錦之宮」へ移ります。
また、淡路島では、ユダヤ遺跡の発見をも成したようです。
この抜き差しならない出来事には、度肝を抜かれそうになりますが
明らかに「ユダヤと日本の和合」を雛型で行っている模様があります。
参考:淡路島の本(当時の写真が掲載されています)
http://www.atc.ne.jp/seikindo/awaji/elelohe.htm

36 :
第二次世界大戦中のことであった。
一人の日本人が、ユダヤの遺跡を日本で発見したことから
日本とユダヤの関係について、深い研究がはじめられた。
その時一人の日本人は、ある日ユダヤに対して
「合図の旗をたてよ」と促した。
それは西暦1944年8月1日(皇紀2604年)の日付の書面をもって
「聖書に啓示されている合図の旗」と題する20頁の勧告書であった。
それが日本政府(情報局総裁宛)経由、
米英ユダヤ聖徒への宣言として送られたのであった。
あるユダヤ聖教徒は、西暦1945年1月1日「第三の合図の旗」の宣言をもって
日本占領軍総司令官の格式と権限をもつ聖教徒を通じて
敗戦日本に対し、聖書に示された神言
「シオンに指示す、合図の旗を樹てよ」との宣言と同時に
「太陽国旗の常時掲揚の指示を許可」とを、年頭の辞として飾った。

37 :
瀬戸内海の入口にある淡路島にて、古代イスラエル文化遺産を
発見発掘した一人に、西暦1952年10月14日
当時、日本占領軍総司令部に従軍牧師として活動の
ユダヤ教大司教テー・ローゼン牧師は呼応し、西下した。
同遺跡を中心に暗黒状態の世界を照らす太陽と星は
神勅合図の旗と変化して、この日本国旗とイスラエル国旗とが
始めて神国日本にて交叉の上掲載されて
同日午後6時、洲本市洲本第二小学校講堂にて
ローゼン大司教は、ユダヤ聖教徒を代表して次の宣言をされた。
「世界に幸福と平和をもたらすものは、この二つの国旗である。
 太陽と星(日生まれるの意)のこの国旗、太陽は昼の世界を照らし
 月と星は夜の世界を照らす。全人類と全世界とが悩むその時
 この暗黒の世界を導くものは月(衝き出す意)と星(産むの意)であり
 世界の人々の心に、正義と力を与えるものは太陽である。
 この二つの国旗が交叉して、母なる月とともに進む時
 世界と人類社会に平和をもたらす。

38 :
『偉大なる太陽の国シオンよ、眼を醒せ!』と、この大宣言は
 神勅第一と第四の『シオンに指示す、合図の旗を樹てよ」の現代版であって
 この神孫民族として誇りをもつ神国日本、太陽国家の淡路島に
 神選民族を誇りとするイスラエル民族の古代文化を立証するものが
 実体として、地上に顕現された神蹟の地に
 『太陽と星』の国旗の神勅を立証するかのように樹てられたことの
 厳粛な大事業と重大な秘義があることを感じる」
 
淡路島の元井戸と桃の宮の建設の指示をした人、これに答えた人、
その他の人は、昭和37年、淡路の面積13里と7里の里程を基準として
13尺と7尺、その旗の中心である太陽章の経は
長井戸の寸法と同寸法であることをもって
「合図の旗」として、この地に厳然とたてることになった。
これが、北伊勢神業「至恩(シオン)郷」の意義へと繋がるのです。

39 :
ふむふむ

40 :
至恩郷のこと
http://belovedone.exblog.jp/15950754
銀色紙の御神体は、最終的に「至恩郷」に建立された神殿にまつられます。
(ただ、この神事の意味を経て、再び「錦之宮」に戻ったようです)
1956年6月10日とあるので、先の記事に引用した
天明の文章「大祭案内」が、当時の記念の奉祭に当たるようです。
(6月10日は、日月神示が降りた日で、ご鎮座の日)
「至恩郷」の土地を開墾したのは、数霊学者の武智時三郎です。
大本の信徒でしたが、弾圧事件後は世界の聖典などを研究し
神都としての聖地を探した結果、北伊勢に結論づけたようです。
その上で、北伊勢に移り住むのですが、その経緯は
岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』から引用します。

41 :
約千三百年前、天武天皇は、伊勢の国を「神都」として
一つの理想郷を建設されようとしました。
武智先生は、徳による都を創るその場所は、
伊勢それも北伊勢でなければならないと考えられたのです。
岐阜一の宮の南宮様の御祭神は、「金山彦・金山姫命」で
神業に携わる者は、先ず岐阜に住んで南宮様からミタマを頂いてから
その御神体の国(神名金山とはカナ山で言霊の意)
鈴鹿山脈(鈴=音・鹿=声・音声=言霊)である北伊勢に
入ることができると言われています。
当時の武智先生の口をついて自然に出た歌に
「神世より流れつきせぬ長良川 美濃尾張経て伊勢に入るかも」
というものがあります。
先生は、美濃・尾張・伊勢を一本に見ておられたようです。
ふとした縁で、菰野湯の山温泉を開いた寿旅館の先代、葛谷春太郎氏が
武智先生のことを聞き、日本文化の為、世界平和の為であればと
その持ち山であった約千坪近い土地を提供されたのでした。
これは、辻正道(天水)氏のご紹介によるものでした。
こうして、武智時三郎先生御一家は、昭和21年12月8日に
今の至恩郷である北伊勢菰野の丘に住まわれることとなりました。
北伊勢こそ、日本列島中央、東西南北の分岐点
統一の数五十の国であり、真理の皇都を建設すべき聖地なりと
早速にこの土地の開発に着手されたのです。
昭和29年9月、ついに先生は、この土地の開墾という慣れぬ仕事の為に
病いに倒れられることとなりました。

42 :
(注:井戸を掘り、井戸水が出るようになった記述があるのですが)
武智先生は、御弟子さんの一人に指示を与えられ、元伊勢籠神社の
「天の真名井の水」を頂いてこさせました。関係者が少しずつそれを飲み
国常立大神を祀る式典をして、今「至恩郷」の井戸である、この井戸に
その水を入れるという神業がなされたのでした。
武智先生は、井戸水が出たので、後継者として白羽の矢を立てていた
岡本天明を呼ぶ決心をされたようです。
それは当地在住の大本裏神業の辻正道氏とも相談の上のことでした。
この井戸があったればこそ、天明も菰野に入る気になれたのであって
すべての根源は水であるとも言えます。
武智先生の御誘いに応えて、天明が菰野移転を決意したのは
昭和30年(1955年)7月22日の夜のことでした。
こうした経緯の後、同年8月21日、私どもも菰野の住人になりました。
武智先生は、「日月神示」冒頭の
『二二八八れ十二ホン八れ(富士は晴れたり日本晴れ)』を
位相数理で解明され、天明に伝えられました。
之を土台として、天明は北五十(イセ)に入ってから
霊感で数が出てきはじめ、古事記を数で読むようになり
『古事記数霊解序説』を書きました。
また昭和36年に出た自動書記は、『五十黙示』です。
これらの内容は武智先生の学説と似たところがあり、そのことを
武智先生が喜ばれて、「此処(至恩郷)の極意だ」と言われました。

43 :
tsukimisoraさん
「この国のかたち」というエントリーはいいですね
(以下引用↓)
以前、本や資料での紐解き、真っ最中だった頃。
今はというと、現場現場の体当たりにて紐解かれます。
出口王仁三郎について、書かれていた一節でした。
今は手元にもないので、おぼろげで恐縮ですが
『本当のことが知れると、この国は潰れてしまう』
といったことを、(他にも多分いろいろ)言っていたようです。
それは、この国の根幹のことを言っておろうと思われます。
晩年、彼は多くを語らず、静かに過ごしたようですが
1948年に亡くなった後、同じ年にイスラエル建国となりました。
子年でした。
その裏で、パレスチナのナクバ(大破局)が起こっています。

44 :
ユダヤ神業中心地
http://belovedone.exblog.jp/15941529
北伊勢の神秘とそれに対する学的根拠については
霊学の権威武智松翁師所説の如く
この土地こそ、神秘の国日本の中心的位置を占め
法華経に示されたる「経巻所住の地」であり、神約の聖地である。
即ち、北伊勢を中心として南伊勢、近江、美濃、尾張の一部の土地を
「イセ」とよび、其処に神事、古事、経巻の文字、章句が施設されている。
(例 御在所冠峰は鈴鹿山脈中央に在る)
出口(王仁三郎)聖師の説によると
宇宙の経綸は、その因縁地に於いてのみある。
日本で初めて根拠されたのは、イセである。
又最後に王成される地も、イセである。
始めは南で終りは北。北は極である。
乃ち、大本の進発より神業の艮(とど)めは北イセと云うことで
唯一の極意秘言が大本の生命である。

45 :
父母があって子が生れるが、御経綸は母体より始る。
そして後に、父が母体に乗ることにより、経綸が具現する。
その具現は宇宙の中心より生まれることが、惟神のあり方である。
その中心地とは、開祖様が御用意になってあった
銀の色紙の御神体(その当時は何も書いていなかった)の在り場所が
常に御神業の中心地である。
大本が地上に於ける一切の型を仕上げた
昭和十年事件を契機として、聖師は岩戸隠れされたが
一番にお気付きになったことは、銀色紙に主宰神を移して
中心地に早く置かねばということで、昭和十七年に出獄されると
徹夜で神様と問答されてから、御揮毫になり白山氏に下された。
ここで、金(かな)=神名(かな)=言霊のことで
鈴鹿山脈が御神体といわれる。
(岡本天明・記 昭和31年「大祭案内」より)

46 :
よし、この夏は淡路島へ探訪に行くぞ

47 :
淡路在住だが、移動に車は必須だぞ

48 :
裏神業の終息
http://belovedone.exblog.jp/15953780
裏神業でまつられた御神体・ユダヤ黄金神は
「大国常立大神が、金銀財の支配者ユダヤを駆使して
 世界の立替え立直しを行うことを暗示していた」とのことでした。
この御神体、裏神業の行方がどうなったかというと
役割を終えた後は、基本的に「消えていく」定めにありました。
経綸上の役割が成された後は、同じ位相を保った状態のまま
存続してもよい性質のものではありませんでしたし
終了・解散・消滅も、経綸上の神意を伴う事柄として扱われます。
皇道大本の弾圧・消滅。
王仁三郎の意向を離れた「愛善苑(後に大本へ改称)」と、内部分裂。
裏神業で形成された団体なども、裏神業に従事した天水、武智、天明などの
当事者が亡き後は、基本的に役割を終えたものとし
次世代に繋がれるような継続は、神意上、許されなかったと思います。
これらのミタマ役目は一代きり、世襲のような必要は生じていませんし
神との絆によるため、親子とて役目の質を同様に受け継ぐとは限りません。
そのため個人的な感想として、天明氏に子がなかったことは
その後の継承の展開を考えればこそ、無用な葛藤劇がない点は幸いでありました。

49 :
至恩郷は、天明の妻・三典氏が継続の後、2007年6月10日に解散。
三典氏も、2009年6月23日に去されました。
錦之宮は、天水氏が他界してから、方向性がどうも変わっているようです。
2008年、身内の継承者が亡くなった後は、違う運営者に取って代わっています。
「消滅」という形では、以下はいずれも火災によって失われました。
1983年11月23日 淡路島の元井戸
1998年3月23日 至恩郷・御神体をまつった神殿「日の宮」
2010年8月14日 大本・亀岡にある熊野館

50 :
至恩郷では、日月神示発祥50年となった1994年
第二神殿「月の宮」建立の運びとなり、翌年には完成していました。
二つの神殿ともに、麻賀多神社から建築資材が贈られています。
「月の宮」は、「日月地宮(ひつぎのみや)」とも呼ばれ
天明が、「おふで」が出ている最中に描かされた「三尊神像」
=日月地(太陽・月・地球)大神の肖像がまつられました。
火災の時、日の宮は全焼したのですが、月の宮は免れました。
雛型経綸上のシオンの丘の神殿のみが、焼き払われたということです。
また、至恩郷の解散に伴い、月の宮も解体されました。
伊達宗哲 『王仁三郎と日月神示のひな型神劇』で、指摘しているのは
これらの裏神業が、米国主導の金融資本主義崩壊(ユダヤ崩壊)の
雛型を打ち出す、神の雛型経綸遂行としての意味合いです。
雛型→日本→世界へと、三段階に移写拡大するのですが
ユダヤ神殿の位相は失われ、それが現実へと波及していくということです。
ひふみ神示が出た頃は、縁あるミタマにのみ配付する状態でした。
(神業に従事する)役員向けの内容も、実は多々入っているもので
文言においても、神業的な意味に捉えるべきものがあるような気がします。

51 :
神業に関しては、以前の記事も参考にしてください。
 ・神業の核 http://belovedone.exblog.jp/13409482(2010-06-05)
 ・雛型の移写 http://belovedone.exblog.jp/13409601(2010-06-05)
この時点では、文章の引用元(特定の裏神業者)を出すことが
どうもためらわれたのですが、この機会に添えておきたいと思います。
泉田瑞顕『救世主 出口王仁三郎』(数冊ありますが、多分こちらの本)
1986年「日月神示」に関する本を出し、存在を知らせた方です。
また、王仁三郎が第二次大本事件の法廷で、官に
故事「人虎孔裸に墜つ」の意味を尋ね、逆に尋ね返されると
このように説明したという、虎穴問答のエピソードを付け加えておきます。
 「虎の方が強いため、人は逃げようとしてされるのだ。
  刃向かっていっても、結局は同じこと。
  じっとしていても虎は腹がへっていると、しにくる。
  どっちでも死ぬことは一緒だ。しかし、ひとつだけ生きる道はある。
  それは、虎に食われては駄目なのだ。こちらから食わせてやるのだ。
  食われた後には、何も残らない。
  しかし、自分の方から食わせてやれば、後に愛と誇りが残るのだ」
この心性は、神業の底辺にあると言えるのかもしれませんが
個々に動く神業者には、その時点では、やはり知る由もないのです。
大局を知るヒントとして、見ることはできるものと思います。

52 :
どうしても故人の話になってしまうが
天水氏の後嗣が実は..という話は、生前のケイコ氏がしていた、本当なんだろうか
DVで流産したとか錦の宮k子さん、満身創痍だった そしてあの急な亡くなりかた
虚言だとか誇大妄想だとかそういうのの罰で早死にしたとかそういうことは
「絶対にない」のが神様のなさりかた、それはハッキリ知っているのだが
神芝居、これはオニ氏が好んで使っていた言葉だ
その芝居の出番を失ったら、そく退場ですか?と神様やオニさんに問い詰めたい気分だけがのこるな
これがもし神業の筋書きだとしたら、だ
「いのちのとうとさってなんですか」とかそんな言葉を使いたくなってしまう。

53 :
裏の推移
http://belovedone.exblog.jp/15951377
出来事の順序を並べてみると
1935年(昭和10年)
 大本第二次事件で王仁三郎ほかが投獄
  白山義高に元井戸掘り、ユダヤ遺跡調査を命じる
  収監直前、面会した辻天水に裏神業を託したとされる
1936年(昭和11年)
 2月頃 後継者・日出麿が拷問による精神異常をきたす
 3月13日 王仁三郎ほかが起訴される、大本などの団体に解散命令
1938年(昭和13年)
 辻天水と三雲龍三が、籠神社の奥宮・真名井神社を参拝した時に
 真名井龍神による神示が降り、後に「龍宮神示」と呼ばれる
1942年(昭和17年)
 8月7日 王仁三郎が保釈される

54 :
1944年(昭和19年)
 6月10日 岡本天明に日月神示が降りる
 10月 淡路島の元井戸が完成、王仁三郎が銀色紙の御神体に揮毫
1945年(昭和20年)
 辻天水が北伊勢菰野・三保山に「錦之宮」を開く
 終戦後、御神体を元井戸から近江へ移す(その後は北伊勢へ)
 9月8日 上告棄却の判決
 10月17日 王仁三郎ほかが無罪となる
1946年(昭和21年)
 2月7日 新生の大本として「愛善苑」を発足
 12月8日 武智時三郎が北伊勢菰野に移る(注1)
1947年(昭和22年)
 「錦之宮」に王仁三郎の霊姿が現れ、「天言鏡」などが記録される

55 :
1948年(昭和23年)
 1月19日 王仁三郎が他界する
1952年(昭和27年) 
 白山義高が淡路島でユダヤ遺跡を発見
 10月14日 洲本市でユダヤ教大司教とともに式典を行う→合図の旗
1955年(昭和30年) 
 8月21日 岡本天明が北伊勢菰野に移る
1956年(昭和31年)  
 6月10日 菰野の丘に神殿を建立、御神体をまつり、至恩郷と命名

56 :
1958年(昭和33年) 
 5月10日 御神体が「錦之宮」に戻る(至恩郷にまつってから700日目)
1960年(昭和35年)
 12月6日 武智時三郎が去
1961年(昭和36年) 
 5月〜 五十黙示録が降りる
 9月10日 辻天水が去
1963年(昭和38年) 
 4月7日 岡本天明が去
注1:これは岡本三典によりますが、1948年に武智時三郎が辻天水を訪ねてから
   移り住んだという記述も見かけるので、正しくは分かりません。

57 :
錦の宮 恵子について教えてください
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1124296317/

58 :
皇道大本の意義、鳴門の仕組を委嘱される @
http://majinnnn.jugem.jp/?eid=406
『淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル』より転載
http://www.atc.ne.jp/seikindo/awaji/elelohe.htm
http://www.atc.ne.jp/seikindo/awaji/elelohe.htm    
P.8 より
其の当時の私には、出口聖師の曰はれた、
「お前は一宗一派に囚はれてはならない。それだから大本教には入信しないで、皇道大本の行者になれ。」と
教えられたお言を理解することができませんでしたが、聖師は、当時の情勢の変遷に就て、次の如く語られました。
 現代は加速度的に、一途に世界は破局に向って進んで行く。
 如何なる理由を持たせるにせよ、戦争は戦争へと、全世界は戦場化して、神定の世の終末の審判が始まる。
 どうした機会で戦争が収拾されるかは、ユダヤと日本の完全な提携によることは、既定の事実である。 
 さうしない限り、戦争の原因動機となるユダヤとアラブの宗教戦の収拾はつかない。
 眞の宗教は岩戸隠れであるから、これが世に出ない限り、思想戦も肉弾戦も、世に無くすることはできない。
 眞の宗教を世に出す業は、今の宗教家の手では絶対に出来ない相談である。
 今日の宗教はニセ預言者の迷信教であって、まことの宗教を知る者はない。
 これからの世界は益々覚有情の人間味を離れた気違ばかりの世界となる。
 皇道大本は、唯一の救世主(キリスト)を知らせ、宗教の本質(咒)を知らせ、
 更に直接に、立替立直しの業をする立役者(菩薩)を仕立てるところであるが、
 方便の上には、立替立直しの雛形を以て教えを示すところである。
 雛形では、出雲系の大本で、ユダヤを世に出し、日本系の皇道でイスラエルを世に出すところで、
 いまのところ、この筋書きを本当に知らせて置く適材が見つからぬ。
 然しまだ帝国日本が崩壊するには、十年の間があるから、腰を据えて一仕事してみる気は起らないか。

59 :
 と相談をもちかけられました。
 私は一議に及ばず従順に「私の出来る事なら」とお引受けをいたしました。
 すると聖師のいはれるには、
 皇道大本の究極の宗教原理を示す雛形建設の必要がある。
 それでは淡路の神代村といふ地に大井戸を掘上げて貰ひ度い。
 然し実際に、工事に着手するのは、十年先のことであるから、それまでに、
 淡路島の古文化遺跡の史料調査をして欲しいと要所要所の差図を受けました。 P.9

60 :
皇道大本の意義、鳴門の仕組を委嘱される A
http://majinnnn.jugem.jp/?eid=407
 間もなく第二次大本弾圧があって、出口聖師は投獄され、同時に皇道大本の宗教的雛型たる神殿は取拂はわれてしまいました。
 これも何かの雛型の教の部類に入るのでありませう。
 昭和十七年八月、私共の井戸掘の機が熟して、着手の段取になると出口聖師は仮出獄の恩典に浴しました。
 私は井戸掘着手報告のために、京都府亀岡町に向ひました。
 当時はまだ面会禁止でありましたが、秘かにお会ひすることが出来ました。
 同伴者は井上功氏でありました。
 色々とお話のあった後、
 井戸掘が始まる相で目出度い。
 これは私の無上の歓喜とするところだ。
 この井戸は元井戸と命名する。
 最早元井戸さへ出来れば、一安心だ。
 この意義と目的に就ては、これから月に三四日づゝ講義すれば、大体が解るであらう。
 但し時節到来まで、他言は無用。
 元井戸が出来たなら、宗教の目標が出来る訳であるから、そのうち、お前にも解るやうになるであらう。
 解って貰はねば大事のことを頼むことも出来ぬからな。
 元井戸が完成する時分には、この戦争も終るであらう。
 勝つべき戦争がな。
 忘れんようにせんと負けて勝つ秘法も消えてしまふがな。
 本当の神業奉仕は、それからだがな。
 兎に角、元井戸は永久保存の方法をとって貰い度い。
 こゝも世界の聖地になるだらう。
 一隅にお宮を建てて、祭るよう。
 御神体は、その時に下げませう。
 さうしているうちに、時機が到来して、ユダヤ人とのつながりが自然に出来るであらう。
 そのためにはアメリカユダヤに重点を置いて大いに研究するがよい。
 そのうちに、ユダヤ人もユダヤ国を再建するであらう。
 これも世界国の雛型だ。

61 :
 それ以来、私は元井戸の工事を急ぐと共に、毎月のやうに二三日づゝ京都府亀岡へ通ひました。
 終戦近くの十九年十月には、元井戸が完成し、元井戸の敷地内にささやかな神の祠も出来上ったので聖師に報告すると、
 聖師は、大本開教当時から保存されてあった銀紙の短冊に御神号を認められて「これを御神体とせよ」と下されました。
 その時の聖師のお話は、
 この御神体は、やがて近江へ移り、更に北伊勢へ移される時が来るが、その都度差図する。
 この雛型行事の上にも、第一に淡路の神秘が開発されねば、「不二と鳴門の大本の仕組」は完成せぬ。
 不二と鳴門の仕組に就ては、皆の者が知ったか振をして、種々と取沙汰をするが、
 この「大地六変に震動す」の世界文化界の大問題は誰にもわかっていない。
 と語られました。
 それから間もなく、終戦となり、聖師から御神体を近江へ移せと指示されたので、
 滋賀県甲賀郡大原市場へ移し、元井戸は、その儘の姿で保存してゐます。 P.12

62 :
皇道大本の意義、鳴門の仕組を委嘱される B
http://majinnnn.jugem.jp/?eid=408
 私は昭和二十二年十二月聖師にお目に掛ったのが最後でありました。
 その時のお話に
 元井戸の御神体を北伊勢に移すことは、皇道大本雛型教の最後の宮殿を建てるのであり、
 この宮殿を中心として、各宗教が相集り、世界の宗教が子の一同に会する塲面となる。
 この世界的神劇の筋書を押進めて行けば、必ず玉成する。
 淡路の霊山諭鶴羽山の山腹にある子宝温泉を開鑿する前に、ユダヤ遺跡を開発することが大切である。
 其の時には遺跡の聖地に旗を建てて、この所在を広く世界に告げ知らす必要がある。
 かうなると、日本とイスラエルに、エホバの聖地が二つ出来ることから、古代イスラエル文化の宣伝が始る。
 その頃には、自然に之に当るべき人材が用意されてあるから心配はいらぬ。 
 お前はそれまで筋書通りに勇猛に精進して貰ひ度い。
 然しわしはモー来月からお前の世話することが出来ない。
 と申渡されましたが、聖師は翌年一月十九日に昇天されました。 P.12

63 :
皇道大本の意義、鳴門の仕組を委嘱される C
 私は不二の仕組も、鳴門の仕組も、何が何やら判らないけれども、只管、忠実に出口聖師の筋書通りに突進して、
 遂に古茂江小磯の古代イスラエル文化遺跡の聖地に日本の国旗とイスラエルの国旗を交叉して、
 これを広く全世界に告げ知らすまでの役目は果しました。
 これから聖師の示された雛型通に進んで行けば、諭鶴羽の山腹の子宝温泉でも開鑿して、
 脉々と涌き出る温湯の出口でも発見すれば、其の血(智)湯津石村に走りつきて、
 成りませる神の名は、石拆神、次に根拆神次に石筒之男神となるのでありませうが、
 徒に稱名ばかりしていても、何の利益もありさうにもありません。
 問題は走りつくべき地(智)の在り方であります。
 さて、これから先はどう行むだらよいでせうか。
 「その心配には及ばない。神業に当るべき人材は用意してある。」と
 聖師は、この預言を遺して昇天されたのであります。
 考へるまでもなく、天のエルサレム(平和神)の、雛型を地上に移す大神業が、一人や二人の少人数で出来るものではない。
 ヨハネ黙示録を見ても、
 視よ羔羊シオンの山に立ちたまふ。
 十四万四千の人、これと偕に居り、その額には羔羊の名及び羔羊の父の名記しあり
 とありますから、そのうちにこれ等因縁の用材が集って、全世界国家建設といふ大神劇を始め呉てれるであらうと、
 高を括って納っていることの出来ないのは、差迫った今日の問題、
 発掘した古代イスラエル文化遺跡の歴史科学的の実證であります。
 この実證的証明によって、この遺跡の久遠の文化価値を高揚するの挙に出なければならぬは申すまでもありません。 P14

64 :
問題の古代イスラエル文化遺跡といふのは @
 昭和二十七年十月十六日正午、場所は淡路洲本市古茂江、小路谷の海岸、
 四州園内の小磯とよばれる景勝地の海岸に突出した盤岩の岬に秘められた問題の古代淡路文化遺跡の実相が、
 遂に多人数立会いの許に確認されました。
 其の遺跡といふのは、意外にも、自然の盤岩の裂目を巧みに利用し、
 其の上に鑿の無い時代の工作を想はせる火と水との作用で製作した女の陰所(ほど)の彫像でありました。
 今から三十年程前に一度発掘したことがあって、この預期せぬ工作物を発見したことがあるが、
 祟をおそれ再び埋没したといふ曰くつきの存在であります。 P.14

65 :
洲本市と五色町が合併するとき
新市名にシオン市と命名しようとする運動があったようだが・・・

66 :
琵琶湖は琵琶で表されるが、淡路島は法螺貝に見える。

67 :
昨年位から近海で謎の気泡とか上がってたよな?

68 :
北淡の石上神社へ行ったことある人いる?

69 :
>>65
そういえば…あったな。
やっぱ宗教は強いな

70 :
「淡路市」をめぐっては、洲本市・五色町の合併協の動きも複雑に絡み合う。
津名郡五町とたもとを分かった五色町は「対等合併」の条件として、
「旧市町名は使わない」と覚書を交わして今年二月、洲本市と合併協を発足させた。
その後、中川市長の「淡路市」温存案を前提に公募した結果は、
(1)洲本五色、(2)すもと、(3)シオン、(4)洲本、(5)淡路中央―の順。
(1)、(2)、(4)は条件に反する。
(3)は「新市はユダヤ教ゆかりの地」とする一部住民の呼びかけに賛同した人たちの“得票”とみられている。
こうした中、同市長の発言は「五色町側がそれ(洲本)でいいと言えばそうなる」と玉虫色。
市民には「城下町・洲本の名を残すべき」との声も根強いが、「ルールを破れば津名郡五町を批判できない」との声もある。
片や、五色町側にも「ここで折れれば実質“吸収合併”になる」との危ぐがある。
名称をめぐるせめぎ合いは、二十七日の協議会会合がヤマ場になりそうだ。

71 :
俺の知り合いにジオン(持音)さんならいたけどな。

72 :
淡路島には古来、ユダヤ人の日本初漂着地伝説があり、
南端部の水仙郷で有名な南あわじ市灘の「油谷」地区がそれであると言われています。
峻険な淡路島最高峰の諭鶴羽山(元熊野の伝承地)を超えた真北には「油谷山」。
更に淡路富士の先山(真東は吉野山〜滝原宮〜伊雑宮)〜伊弉諾神宮と繋がるラインが有ります。

73 :
淡路島にはユダヤ人の漂着、日本初上陸(伊島〜沼島。
さらに、灘油谷/ユダニ…ユダヤ?地区)伝説と、それらに各地には関連性があるとされた遺跡群が数多あると言われます。
淡路島の南端、油谷など灘地域は近年まで北に聳える急峻な諭鶴羽山系(南側は「壁」と言っても過言のないような急斜面。
訳は、沼島との間にある日本最大の大断層帯。日本構造線が走る)や海と交通の便の悪さで外界と隔絶された僻地指定地域。
太古、漂着した人たちはそれこそ産めよ殖やせよで急速に人口を増やして行ったと言われます。
この土地の人たちは昔から淡路島の他の地域とは異なり、
背が高く目鼻立ちがハッキリスッキリした人たちが暮らしていて、美人美男の里と言われて来ました。
時代が下って屋島等の源平の戦いで敗れた落人も時を隔てて奇しくも油谷に漂着。
その時には既に件の人たちのコミュニティーが有ったと言われます。
このやんごとない都人たちとも混血が進んでいったとされます。
この油谷の人たちが山を越え全国各地に進出して行ったと…。
油谷地区から諭鶴羽山系を越えた真北に「油谷山」、その北には「大和国魂神社」(祭神は伊弉諾尊、
伊弉冉尊とされた時期も永くあり)や「自凝島神社」(・・・謡曲、高砂で有名な高砂神社や尾上神社もこの真北)。
更に北には先山や伊弉諾神宮。
地元歴史研究者ほか結構ディープにやっているグループが有り出版物も出しているようです。

74 :
漂着ユダヤ人となると伊弉諾さんや伊弉冉さんはユダヤ人?
天の御柱は先山?
地元の国生み伝説では先山はおのころ島に他に先駆けて出来た原初の霊山。不二の山=富士山。
地質時代に遡れば今の洲本平野にはかなり大きな火山があって、
いつの日か大爆発と山体崩壊して陥没した後に堆積物が堆積して平野となり、
現在の山並みはその火山の外輪山だともいわれます(ぐるっと見渡せばなる程、それらしく見えない事もありません)。
先山には目立ちませんが岩戸神社ほかあり。
頂上がお寺に占拠される以前は御神体山として伊弉諾尊や伊弉冉尊他がお祭りされていたのかも知れません(伊勢の森も同様)。
伊弉諾尊は淡路島神ともされる淡路島の大地主神さまですから。
麓の数多の神社の社殿は一様に先山に背を向けて参拝者は先山を遙拝するような格好です。

75 :
淡路の巨石群
http://www.gd.il24.net/~shamon/kyoseki/hyougo/awazi/awazi.html
国生み神話の淡路島にも全域で磐座、巨石、高山信仰はワンサカあります。
てか、元祖に近いと思われ(日本の縮図、雛型)。
北の端、地名からして『岩屋』。
名勝、絵島と大和島。三対山の海からの鳥居の役目、伊勢の夫婦岩に同じ。
反対側の真東を向けば住吉大社があり、その遙拝鳥居の役目も考えられます。
三対山(山頂は石屋(いわや)神社の元鎮座地)。(岩屋の語源?)
麓には洞窟があり古代祭祀の痕跡と『伊弉諾尊の幽宮の伝承』があり、
岩樟神社(ヒルコ大神/伊弉諾神宮摂社)として祭祀されています。
入口には岩屋恵比須神社(元エビス)が洞窟をあたかも目隠しするようにあります。
エビス大神はここで生まれ、不具のために前の岩屋の浜(松帆浦)に流されました。
舟木の石上神社は磐座を組合せた神社で太陽祭祀が現在も続いています(女人禁足)。
伊弉諾神宮の近くにも巨石を御神体とする神社(伊弉諾神宮の奥宮とも)
中央部の先山(せんざん)は淡路富士とも言われ、小さいながら火山由来の山。
現在は山頂には真言宗別格本山『千光寺』がありますが、
国生み神話に際して日本初発の不二の霊山(富士山)の意味で先山とされました。
勿論、頂上から少し下った所にお約束の洞窟と磐座のセットで岩戸神社があります。
その外多数有りますが、最後に、南の離れ小島の曲玉の形をした沼島(オノコロ島の候補)には
立て神岩(イザナギの逸物)と平場岩(なぎとなみの寝所?)とイザナミの岩(侵蝕風化で上部崩壊)が有ります。

76 :
淡路島の近くにある友ヶ島はエビフライに見えるんだよな。
伊弉冉は沼矛、伊弉諾は剣、ナイフとフォークで島が出来たわけだ。

77 :
友ヶ島は淡島で、淡路島とは言霊でリンクしているようだね。鳴戸と淡路島に琵琶湖を併せて音の仕組み。
友ヶ島(淡島)も日本の雛形の一つだろう。二つを繋ぐのが鳴戸の浜だ。鳴戸は国生みの型ともいう。

78 :
ユダヤ由来?由良湊神社ねりこ祭り
http://plaza.rakuten.co.jp/amateru/diary/201102110000/

79 :
おのごろじま

80 :
このスレは淡路関連の中で一番興味をそそる良質スレだな!

81 :
  ┌───────┐
  |. これは 優良スレ |
  └─∩───∩─┘
     ヽ(`・ω・´)ノ

82 :

貴重な情報を転載してくださってありがとうございます。
この本は絶版になってしまい入手できません。
できれば続きが読みたいのですが。
| 王仁三郎ファン | 2011/03/06 7:50 PM |
王仁三郎ファン様
ご訪問ありがとうございます。
私が書き写させていただきました
『淡路の神秘 ヱル.ヱロヘ.イスラエル』は、洲本市の「Books 成錦堂」さんより通販で購入したのですが、
今問い合わせたところ、本は売り切れですが、コピーを2100円で販売していらっしゃるとのことでした。
よかったら、お問い合わせになってみて下さい。
私も久しぶりに読み返すことができました。
ありがとうございました。
| くー | 2011/03/07 9:54 AM |
びっくりしました!
ご親切に問い合わせまでしていただいたのですね。
感激です!
本当にありがとうございます。
さっそく注文いたしました。
読むのが楽しみです。
| 王仁三郎ファン | 2011/03/08 9:19 AM |

83 :

只今コピ−版のみの販売になっていますが
現在解読難解部分を現代語に作業を進めています。
成錦堂 代表 湊 格
| エルエロヘイスラエル | 2011/04/25 9:52 PM |
成錦堂 湊様
その節は、コピー版を販売されていることを教えていただき、有難うございました。
今、作業を進めていらっしゃるとのこと、ぜひまた読ませていただきたいと思います。
岡本安出(アデル)著『合図の旗』P.6〜8に、ローゼン牧師のお名前はじめ、関連記述がありました。
| くー | 2011/04/26 2:45 PM |

84 :

柞木田龍善の著作で淡路島のユダヤ遺跡について紹介していますが、
武智竹雷の婿(白山義高)が発行した当時の関連書籍が昨年復刻(地方出版)されました。
武智翁のそれは『淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル』でしょうか?
純粋・・・2冊だけ原本あったと思います。
先のものは後に題が『日本学とイスラエル』に変わりましたね。
柞木田さんの淡路紹介物は持っていません。
白山義高発行、武智塩翁解説『淡路の神秘 エル・エロヘ・イスラエル』という本で、
淡路古文化開放協会編の復刻で、ラビ・ローゼンを遺跡に案内した
方のお孫さんが社主の書店から復刻(二千円弱)されています。
柞木田氏の著作は、風濤社の『日本超古代史の謎に挑む』です。
貴重な記事が散見されます。古書でも入手しやすいかと思います。
淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル
http://www.atc.ne.jp/seikindo/awaji/elelohe.htm

85 :
成錦堂の店主は関係者の孫だったのか
店には当時の資料とかいっぱい残ってるんだろうなあ

86 :
仮に「ねりこ祭り」がユダヤ由来だとして、なぜ少し離れた由良に伝播したのだろう?
灘からほど近い福良に、それっぽい伝承が無いのはなぜなのか?

87 :
古代、三原平野の阿万と福良、沼島、島の西側などは阿曇氏(海人族)の拠点
一方、洲本平野周辺は物部郷の地名が示すように物部氏(物部冬男)の拠点
いずれも大和王権に帰順した縄文系の豪族一派
僻地の灘や由良にはそれら豪族の支配が及んでいなかったのでは?
中世、油谷には平家の落人である奥野氏が灘一帯の庄屋頭を
約30代にも渡って勤め、阿波藩の蜂須賀氏の時代まで続いた。

88 :
なるほど

89 :
淡路の海人族といえば住吉仲皇子の乱に荷担した野島海人の阿曇浜子が有名ですな
乱に加担した阿曇浜子は履中天皇によって顔面刺青の刑に処されたとか…
履中天皇の弟で住吉仲皇子を誅した反正天皇も確か淡路島の生まれですな

90 :
>>87
阿万の地名の由来自体が海人(あま)からきてるからな。

91 :
淡路、ユダヤと聞いたら樋口季一郎がまず浮かぶ

92 :
>>91
阿万出身だしな。
樋口氏とユダヤとの接点は、「欧州赴任中にユダヤ人に世話になった」という説が一般的だが、
もしかすると灘地区からほど近い、阿万で育った幼少時代に何か関係があるのかも・・・?

93 :
灘は奥野氏以前の歴史がわからない
由良は安宅氏以前の歴史がわからない
それ以前に何があったのかわからない
何か参考になる書物はないの?

94 :
『味地草』 『淡路草』 『堅磐草』 『常磐草』
これら淡路四草と呼ばれる地誌を読めば
淡路史のことなら大抵わかるようだが…

95 :
ユダヤ系海人族

96 :
>95
すごいタイムスタンプ
すごいし、すごく惜しい

97 :
Q1 海人族が沼島に来る前に、沼島に人は住んでいましたか。
A その答えは{ずばり}住んでいました。
○海人族がやって来たのは、古墳時代ですが、それより前に縄文時代の土器が見つかったり、今の銭湯の所付近で貝塚が見つかったそうです。
ですから、沼島にはすでに縄文時代から人が住んでいたことが分かります。
沼島には海人族以外にもいろんな人達が住んでいたのでしょうか。

98 :
淡路島の縄文人
http://www.minamiawaji.ed.jp/nushima_jhs/11sougou/2001/11sizensi/12jyoumon/
淡路島では、縄文後期の土器片が採取される遺跡が数か所あり縄文人が住んでいたことがわかりました。
三原郡では、福良の備前町・沼島の古水浦など、どれも海岸近くに生活をしていたようです。
沼島では、古水浦で縄文後期初等の土器の胴部破片が発見されています。
したがって、沼島では少なくとも縄文後期には人が住んでいたようです。

99 :
淡路(沼島)の海人族
http://www.minamiawaji.ed.jp/nushima_jhs/11sougou/2001/11sizensi/13amazoku/
縄文時代晩期から弥生時代にかけての時期に、大陸の呉(中国)や越(ベトナム)の人たちやその沿岸の海洋民、
すなわち海人族の人たちが北九州を中心に渡来してきました。
また、南方諸島からの海洋民も日本へ来て海人族と呼ばれました。
その間、たびたびの渡来があり、漁労、航海運輸、土器による塩づくり、水田稲作などの技術や文化とともに、
彼らの地方に伝承していた神話を持ってきました。
沼島の歴史をたどってみると、南洋の民族が黒潮をつかまえて北上し、沼島へたどりついたと推測できます。
その何十年かの間に淡路島にも上陸したことが、弥生時代前期の古い土器の出土からわかります。
もちろん沼島には、沼島古墳(竪穴式石室)があり、鹿角製のヤジリ、土錘、石棒、須恵器(すえき)・土師器(はじき)のほか、
多量の製塩土器(弥生時代後期200〜300から古墳時代後期のもの)も出土していることから海人族の住んでいた島であったと言えます。
このことから、沼島も渡来の人たちと先住の縄文の人たちと出会った地点の一つであったと考えられます。

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