2011年10月1期哲学【価値・事実】メタ倫理学/分析倫理学【善・正】 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼

【価値・事実】メタ倫理学/分析倫理学【善・正】


1 :10/09/29 〜 最終レス :11/10/18
メタ倫理学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6

2 :
>>1
うんとりあえず二行でまとめて。

3 :
価値判断は事実判断から出てこない
善や正義は他の言葉で定義できない

4 :
ウィキペディアってのがもうだめだってのがなんで分からんかね。
テレビのチャンネルあわせてるだけじゃいかんのよ

5 :
                _,......,,,_
                 ,、:'":::::    ``:...、
             /::-=・=-:::::::::::-=・=-:\
         ,../ `ヽ;_  i | / ヽ──ヽ / 
          / ``'ー 、_\  !  ー=〓=-'`/  これが現代思想の成果なのかね?
      /ー 、_    `\:、_ ::    /
     /     ``ヽ、   ヽ`'7‐--'゛
 __,,::r'7" ::.              ヽ_
 ゙l  |  ::              ゙) 7
  | ヽ`l ::              /ノ )
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6 :
分析倫理学って聞いたことないぞw

7 :
あるよ

8 :
>>3
「定義できない」ことはありえない
なぜなら定義とは規約だからあくまで任意にできる

9 :
wikipedia読まないで二行でまとめてもらおうと思ってたけど、
読んだら二行でまとまってたw

10 :
>>3
サールによると価値判断は事実判断から導出できるらしいよ

11 :
あれは事実に関する発話を指令的な行為として解釈した場合の話

12 :
サール自身も約束などの発話行為は規範的制度を前提にしていることを認めているね

13 :
ピーター・シンガーって児の眼球を取り出して
角膜を移植するようなことは容認するんですか?
彼の主張からすれば容認して然るべきだと思うけど。

14 :
ロールズ正義論新訳予約しました

15 :
倫理学と言うのは、人は如何に行為すべきか、と言う学問だろうな?
その時、人は何が真実で何が虚偽であるか、知っているべきである。
この世界の真実を知っているなら、その真実に合致してる行為をすべきである。
そして相手の、不真実の行為に騙されないようにするのである。
要するに聖人の行為を勉強する学問であろう。
ゴーダマさんは、「人の振る舞い」と言うことを言われた。これが倫理である。

16 :
ヒュームの法則、あれは間違っとる。
「XはAを欲している」(事実判断)
「AはXに価値がある」(価値判断)
はい、論破。

17 :
よくわからんな もう少し敷衍してくれ

18 :
「XはAを欲している」(事実判断) ならば「AはXに価値がある」(価値判断)
と言えるし、逆に
「AはXに価値がある」(価値判断) ならば「XはAを欲している」(事実判断)
とも言える。
ある物が価値があるかないかは、主体の欲望と相互依存的であって、この場合は事実判断も価値判断も違いはないということ。
ちなみに、価値判断と当為判断は別物なので誤解ないように。

19 :
お前がどのヒュームの法則のことを言ってるのかわからんが、このスレの内容である以上はデビッド・ヒュームの提唱した理論だろう
だとしたら勘違いしている可能性がある
というか、そのレスだと勘違いしてるようにしか見えない
ヒュームの法則ってのは、例えば
【子供が転んだ】
という記述があったとする
それに対して、
【「助け起こすべきだ」や「放っておくべきだ」とは言えない】
っていう考えだぞ
>「XはAを欲している」(事実判断)
>「AはXに価値がある」(価値判断)
どう考えてもぶっ飛んでるだろ

20 :
>>12
A「任意の人xが他の任意の人yに対して1万円を支払うことを約束した」から
B「xはyに対して1万円を支払うべきである」が導出されるためには、
「xがyに対してある事柄を約束したならば、xはyに対してその事柄を行うべきである」が真でなければならない。
しかし、これはあくまで規約であって、その真偽は客観的に定まるものではない。
したがって、事実判断<だけ>から価値判断が導ける、とは言えない。

21 :
【訃報】東大教授関根清三さん焼身自
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/bread/1287749738/

22 :
>>16>>18
「XはAを欲している」(事実判断) =「AはXに価値がある」(価値判断)
こんなに単純に欲求=価値にしてしまうと
「私は人をしたい。だから人には価値がある」ということになってしまうが
これは永井均解釈によるニーチェの道徳としては正しいが、この場合の「価値」
はいわゆる「道徳」とは相容れなくなる。
或いは
「私は排泄をしたいと欲している。だから排泄には価値がある。」
「私はあくびがしたいと欲している。だからあくびには価値がある。」・・・
とか何とでも言えてしまうということも明らか。

23 :
>>22
横レスですまん
私は人をしたい、だから<私にとって>人には価値がある
ということだろ
価値はこの場合、<私にとって>という具合に限定されている
道徳と相容れないということはないんじゃないか

24 :
排泄がきちんとできることには価値があるぞ?
高齢者になって禁制を保てなくなって初めて意味が分かるようになる。

25 :
>>23
人の例の場合はいくらその人が「<私にとって>価値があるという具合に限定」したところで
他の人、特にされる側は必然的に巻き込まれるので限定などされていないことが明白だろう。
もちろん例えば誰にも迷惑がかからないようなことなら23の言う通りで、それは
「趣味の問題」で通るわけだが。
>>24
排泄は一つの例として挙げただけで、要するにあらゆる人間の欲求が価値ということ
ならごく些細なことまで「価値」になってしまうという意味だったんだが。
「私は頭を掻きたいと欲している。だから頭を掻くことには価値がある。」
「私は右手を上げたいと欲している。だから右手を上げることには価値がある。」 ・・・
そもそもこれだと明白に矛盾したことも言えちゃう。
「私は価値が無いことをしたいと欲している。だから価値が無いことには価値がある。」

26 :
>>16,18です。
基本的な解釈としては、>>23さんの言ってることで大丈夫です。
もう少し言えば、「私にとって」というより、「欲求主体にとって」の方が正しいですかね。
主体の範囲をしっかり限定できれば、それは国家とかでもいいわけですし(仮に日本国民が全員、マグロが好きならマグロは日本国民に価値があるわけです)。
で、>>25(勝手批評)さんの言うように、「個人的な価値と倫理的な価値は違うのではないか」といった問いに関しては、しっかりとそれらの価値の違いを意識した方がよいと思います。
結論から言うと、「ある行為(や性質)Xに倫理的価値があるのは、全体(あるいは他人)の幸福に対して有用だからである。」という原理でかなりの部分を説明できると思います。
また後ほどレスします。

27 :
>>26の続き
価値の区別について
(1)「募金することは善いことだ。」、「嘘をつくことは悪いことだ」、「身を犠牲にしてまで子供を助ける行為には価値がある。」
(2)「このハイブリット車は、なかなか良い。」、「このパスタは味が悪い」、「この古ぼけた写真は、私にとっては価値がある。」
(1)の三つの例文は、どれも倫理的な意味で善悪を判断しています。
他方、(2)の三つの例文は、どれも倫理的な善悪ではなく、個人的な観点から車やパスタ、写真の良し悪しを判断しています。
これらの例から分かることは、「よい−悪い」及び「価値」という語は、
倫理的な意味でも、非倫理的な意味でも使用されるということです。
では、倫理的な価値と非倫理的な価値、または倫理的な善悪と個人的な良し悪しを分ける特徴は何でしょうか?
つまり、倫理的価値にはあって、非倫理的価値にはない「倫理性」という性質はどういうものなのでしょうか?

28 :
>>26の続き
倫理性の根拠について
倫理的価値と非倫理的価値を分ける特徴、つまり倫理性を探すために、次の事例を分析してみましょう。
どちらの事例も明らかに倫理的な行為です。
「自分の身体を犠牲にして他人の生命を救う」
「飢えている他人に自分の食物を恵む」
まず、これらの事例について、行為の実質的な構成要素を調べる必要があります。
それは、行為に関わるのは自己と他人ですから、自己の側と他人の側とに分けることができるでしょう。
自己の側におけるそれらの行為の構成要素は、
(1)身体を傷つけることと食物を失うこと、及び
(2)他人に対して行為するということです。
それに対して他人の側における構成要素は、
(3)生きることと食べること(即ち生存するということ)、及び
(4)自分に対する行為を受けるということです。
これら四種の構成要素は、次のように一般化することができます。
(1)幸福に対する反有用性
(2)対他性
(3)幸福に対する有用性
(4)向自性

29 :
>>26の続き
事例の行為は自己(行為者)における反有用性と対他性、
及び他人(対象者)における有用性と向自性という要素から成っていると言えるでしょう。
四つの構成要素のうち、
(1)の幸福に対する反有用性、(3)の幸福に対する有用性は
それ自体倫理的(=倫理に関わる)でも非倫理的(=倫理に関わらない)でもないですし、
或いは逆に言えば、倫理的でも非倫理的でもありえます。
また、倫理的であれ非倫理的であれ、あらゆる行為は誰か(自己一般)に向けられたものですから、
(4)の向自性はあらゆる行為、従ってあらゆる価値において存在することが分かります。
それ故、それら三つは妥当しないのであり、倫理性の根拠は結局(2)の対他性にあると予想されます。
試しに、対他性を除去して先の事例を見ると、
単に「自分の身体を傷つける」及び「自分の食物を失う」、
或いは「自分の生命を守る」及び「自分の飢えを凌ぐ」となり、明らかに倫理性が消滅してしまいます。
従って、倫理性の根拠は究極的には対他性にあると言えます。
このような倫理の対他性は、倫理というものが各人の言わば「中」に自ら生まれるのではなく、
人と人との「間」においてのみ生み出されるものであることを示しています。
倫理性は、自分に対するのではなく他人に対する(他人のため)という形式的な要素によって生み出されるのです。

30 :
>>26の続き
価値の根拠について
倫理性の根拠は、「対他性」であるということが分かりました。
では次に、そもそもの「価値」の根拠についてはどうでしょうか。
つまり、あるものが「価値をもっている」と言えるためには、どのような条件が必要なのでしょう?
先の二つの例「自分の身体を犠牲にして他人の生命を救う」
および「飢えている他人に自分の食物を恵む」から、
倫理性を見いだしたときと同じように四つの構成要素に注目してみましょう。
(1)幸福に対する反有用性
(2)対他性
(3)幸福に対する有用性
(4)向自性

31 :
>>26の続き
まず、(1)の幸福に対する反有用性(「身体を傷つける」「食物を失う」)は明らかに、
害悪や損害であって、価値をもっているとは到底言えません。
次に、(2)の対他性(他人に対して行為をする)、(4)向自性(自分に対する行為を受ける)
に価値があるかどうかは、あくまで行為の内容次第であって、対他性や向自性だけからは価値の有無は確認できません。
そこで、(3)の幸福に対する有用性(生きることと食べること)に関して言えば、
これは明らかに価値を持っていると言えます。
したがって、あるものが価値をもっていると言えるのは、それが幸福に対して有用だからです。
しかし、幸福に対する有用性といっても、これにはもう少し説明が必要が要ります。
まず幸福という観念がどのように形成されるのかを考えます。
人間はあらゆる場面において、様々な欲求を満たそうとすることによって行動します。
「食事をしたい」「身体を休めたい」「社会的名声を得たい」等々。
ところが言うまでもなく、欲求は常に充足されるとは限りません。
充足に成功する場合も失敗する場合もあります。
そしてもちろん、成功する場合は主体の存続・発展や活動にとってプラスの作用を、
失敗した場合はマイナスの作用を及ぼし、またそのように意識されます。
つまり、欲求が満たされるときには幸福を、満たされないときには不幸を感じるのです。
このようにして、欲求充足の成否が幸不幸をもたらすことになるのです。

32 :
>>26の続き
ここに至って、欲求と価値との関係は明らかでしょう。
つまり、主体は欲求を充足してくれる対象に価値を認めるのです。
例えば、空腹時においては食物には価値があるし、身体を休めたいときには安全な場所は価値を持つことでしょう。
人間は自己の欲求が充足されることによって幸福を感じますが、
その幸福に役立つものに価値を認めるのであり、
逆に不幸をもたらすものに反価値を認めるのです。
つまり、幸福及び不幸がそれぞれ究極的価値および究極的反価値であり、
その手段がそれぞれ価値および反価値なのです。
このようにして、欲求という人間の基本的性質から幸福の意識が生まれ、
そしてそれにもとづいて価値の観念が形成されるわけです。
欲求と幸福と価値、これらが一つの連鎖を成しているということが分かります。
したがって、あらゆる価値の本質ないし根拠は、欲求またはその充足にある、と言えます。
言い換えれば、幸福およびそれに対する有用性にあると言うことができます。

33 :
>>26の続き
以上のことから、価値について次の性質が認められます。
(1)欲求を持つのは、何らかの主体である。
したがって、価値とは何らかの主体にとって存在する。
価値が成立しうるためには、それを評価しうる主体がなければならない。
(2)欲求は満たされる場合も、そうでない場合もある。
したがって、価値または善には本質的にプラスとマイナスという区別がある。
すなわち「善い―価値がない―悪い」という区別である。
(3)各欲求には、それらの間での大小や高低が存在する。
したがって、価値にも高低や大小がある。
我々はあらゆる価値についてその有無及び程度を問題にすることができる。

34 :
>>26の続き
道徳の理由について
倫理性と価値の根拠については以上のとおりです。
しかし、まだ倫理的価値と非倫理的価値の関係は明らかではありません。
というのも、倫理的に悪いものが、直ちに自分にとって価値がないとは言えないかもしれないからです。
たとえば、物を盗む行為や嘘をついて自分だけ得をするといった行為は、倫理的には悪い行為ですが、
しかし、それが自分にとっても悪いとは全面的に同意できないかもしれません。
少なくとも、一時的には、物を盗んだり、嘘をつくことで自分だけが得をできるのであれば、
それらの行為はやはり自分にとっては価値があるとは言えないでしょうか?
そこで、倫理的価値と非倫理的価値がどのように関わっているのか、
そして、なぜ倫理や道徳なるものがあるのかということを考えみましょう。
道徳の存在意義、道徳の役割、そこを確認することで、
倫理的価値と非倫理的価値との関係を明らかにすることができるはずです。
まずは次のことを確認しておきましょう。
人間は社会的存在である。
言うまでもなく、人間が他人と協力せずに一人で生きていくというのは
そう簡単なことではありません。
食物や住居を安定的に確保することから、外敵から身を守ることまでを一人で行わなければならないからです。
そのようなわけで、人間に限らず多くの動物がリスクを分散するために社会的共存を図るわけです。

35 :
>>26の続き
しかし、社会的共存は大変困難な課題です。
一方において、社会の成立・存立とは、多数の人間が一定の安定した秩序の下で平和に暮らすということです。
したがって、そのためには、大多数の人々において利害や意見の基本的な一致、
或いはある程度の共通性がなければなりません。
ところが他方、人間も一個の生物であり、あらゆる生物がそうであるように、自己保存を根本原則とします。
それ故全ての人間は自己中心的たらざるをえません。
そうである以上、自他の要求は物質的なものに関しては全面的かつ絶対的に、
精神的なものについてもかなりの分野で相当程度、対立することになります。
このようにして、人間は根本的な自己矛盾に陥ることになります。
一方で、自己保存に不可欠な社会的共存のために自他の一致を図らなければならず、
しかしまた他方で、同じ自己保存の本性の生み出すエゴイズムからして自他の対立は避けられないのです。
そこで、こうした状況を克服するために、人間が生み出した方法が社会規範です。
ここで言う社会規範とは、風習や法(政治権力)を含んでおり、
その中の一つに倫理や道徳というものがあります。
さて、あらゆる社会規範に共通する根本的存在意義とは何かと言えば、
それによって人々の社会的共存が成り立つということ、
更にはより良好な人間生活が可能になるということです。
そして、そのために社会規範が基本的に要求するのは、エゴイズムの抑制であり、
従ってまた、個人的・恣意的な判断や行動の禁止です。
つまり、相互的自己抑制によって、対立を防止し自他の調和を図ろうとするのです。
換言すれば、倫理や道徳とは、各人に一定の限度内において自己の幸福よりも全体の幸福を優先させ、
そうした自己幸福の抑制にもかかわらず、結局より大きな幸福を各人にもたらし、
社会的共存を可能にすると言えます。

36 :
>>26の続き
ここに至って、倫理的価値と非倫理的価値との関係も明らかでしょう。
社会的共存を図る以上、倫理的価値とは、一般的に各人に幸福をもたらすのです。
つまり、各人が倫理にしたがって物を盗んだり嘘をつくような一時的には得かもしれない行為を
自制することは、長期的に見れば結局は各人により大きな幸福をもたらすことになるのです。

37 :
>>26の続き
以上のことから、次の二つの原理が認められます。
原理1「あるものがある主体にとって価値があるのは、その主体の幸福に対して有用だからである。」
原理2「ある行為(や性質)がある社会にとって倫理的価値があるのは、他人(社会)の幸福に対して有用だからである。」
そして、倫理的価値が各人の価値になりうるのは、以下の論理展開で説明できます。
(1)各人は彼自身の幸福を望んでいる
(2)従って、各人の幸福は彼自身にとって価値がある
(3)ところで、全ての人々は社会的存在であるから、一般的に被行為者として存在している。
(4)そして、社会的生存は、他人の幸福への配慮が一般的に存在している場合のみ可能である。
(5)従って、全ての人々は一般的に他人(被行為者)の幸福を望んでいる。
(6)従って、他人(社会)の幸福は全ての人々にとって一般的に価値がある。
このように、自己の幸福を最大化するには一般的には他人にも配慮した方がよい、
という非常に常識的な結論が導かれます。
終わり。

38 :
連投失礼いたしました。

39 :
>>16>>18の意見とは大分違うなあ・・・
>>26
>主体の範囲をしっかり限定できれば、それは国家とかでもいいわけですし
国家が欲する、というのは文学的過ぎる表現だな。言いたい事は分かるが
精確な定義が出来るかと言えば・・・
要するに功利主義ということなんだが、これは欲求=価値という話とは繋がらないのでは?
功利主義なら全体の効用=価値だろう。

40 :
>>39
>国家が欲する、というのは文学的過ぎる表現だな。言いたい事は分かるが
精確な定義が出来るかと言えば・・・
失礼。国家ではなく、(日本)国民の間違いでした。
>要するに功利主義ということなんだが、これは欲求=価値という話とは繋がらないのでは?
そうです、いわゆる功利主義ですね。
ただ、押さえておいて欲しいのが、
・価値全般と倫理的価値の区別
・欲求の充足=価値(正確には=ではないですが)
・倫理的価値は、人間の対他的な行為(や性質)に関する価値であり、かつ、他人の欲求を充足するものに認められる。
なので、
>功利主義なら全体の効用=価値だろう。
これに関しては、正確には
全体の効用に有用な人間の行為(や性質)=倫理的価値 です。
たとえば、生存に不可欠な酸素は全体の効用になりますが、それが道徳的によいものとは言えないでしょう。

41 :
で、>>18の話が何なのかと言えば、
「人類は皆、他人にされないことを欲している」(事実判断)
ならば、またそのときにかぎり
「人の禁止は、人類に倫理的価値がある」(価値判断)
というように
「Xたちは、Yを欲する」(事実)のXとYを確定できれば、理論的には事実から倫理的価値も出てくるという話。
たしかに、ヒュームの法則は事実判断からは(価値判断ではなく)当為判断は導けないといってるけど、上の式を少しいじれば、当為判断が出てくるバージョンもできる。

42 :
>>40
(日本)国民としたところで同じことだな。様々な考えを持った人々を十羽一絡げにする
わけで。
>・欲求の充足=価値(正確には=ではないですが)
カッコの中身が気になるが。
>>41
>「人類は皆、他人にされないことを欲している」
うーん、他人にされないことを欲しているってだけだと「自分以外をすことを欲する」
ことは禁止できないんじゃない?
それから「XはYを欲する」が倫理的かどうかはまた別の基準で導かれてるような気がするんだが。
だからこのXとYを確定しただけじゃダメだろう。

43 :
哲板で倫理学スレがこのスレくらいしかないのは何故でしょうか?
メタ倫理学は、規範倫理学の存立基盤が崩れてしまった故の、一種の自家中毒のようなものに思えるのですが・・・。
確かR.M.ヘアとかは規則功利主義を分析哲学的に基礎付けしようとしていたような記憶がありますが、
それ以降の状況がわかりません・・・。

44 :
自分で立てればいいでしょ

45 :
徳倫理学や進化倫理学とかが最近は盛んかな。特に後者。

46 :
そうか?

47 :
ヒューム生誕300年で、論文を募集してるね。
賞金20万円くらい。

48 :
出してみるわ

49 :
>>43
倫理道徳、よさとか正しさとか、人によってあるいは時代や国で変わるようなものは
扱う価値が無いとか、哲学の対象ではないとか哲板の雰囲気がそんな感じだから。
ヘア以降はロールズの登場のおかげで規範倫理が盛んになった。
やかましくメタ倫理的な議論をするのはやっぱり不毛だったと気づかれた。

50 :
それが不毛だと思えてしまうのは
君がすでに規範倫理を前提にしてしまってるからだよ

51 :
価値概念の分析だけから説得力ある規範がでてこないのはヘアの失敗から明らかだろ

52 :
>説得力ある規範がでてこない

53 :
規範をつくることと規範について考えることは別ですよ

54 :
首尾一貫した整合的な倫理命題体系なんてありえないのだから
その都度、倫理命題を無根拠に選択するしかない

55 :
原発のリスクは受益者たる都市住民も応分に負担すべきという価値判断はどのように正当化できますか?

56 :
>>55
逆じゃない?
こうこうこういう価値観(倫理規範)に照らすと負担すべきであるっていう結論を導いていくのが
倫理学っぽいと思う。

57 :
ドカタが勝ち組

58 :
>>55
受益者負担の原則によってということだろうが、問題は負担の仕方でしょうね。
原発周辺の電気料金や税を安くしたり補助金を払ったり、都市部の電気料金を高くしたりして、カネで解決すればいいのかという問題。
今回のような放射線被害はけっしてカネで償われうるものではないともいえるわけだし。

59 :
受益者負担の原則は要するに等価交換の原則だから
究極的には互酬性の原理によって正当化される

60 :

「賢者は歴史に学び、凡人は経験に学び、愚者は経験してもなお学ばず」
http://www.youtube.com/watch?v=aSbTZG0KxE4

61 :
善とは人が社会状態に与える価値のことである

62 :
価値とはなんでしょうか

63 :
価値とは選好順序のことです

64 :
ということは対象それ自体には価値はないということですか

65 :
>>16
今更だけどこれってどっちも事実判断だよね?

66 :
「価値」の定義によるんじゃないかな

67 :
>>65
いまさらながら、そのとおり

68 :
>>66
「意味」の定義によるんじゃないかな

69 :
帰納的推論の未決問題ていいよね。

70 :
価値語の内包が語の使用者の主観にのみ対応しているかぎり、それを用いた文は事実判断ではないよ。

71 :
あげ

72 :
>>3
良いだ、悪いだというけど
力自体は大して変わらん

73 :
>>70
>価値語の内包が語の使用者の主観にのみ対応しているかぎり、それを用いた文は事実判断ではないよ。
つまり、ある文が事実判断であるためには、その文を構成する語の内包うち、語の使用者の主観以外のものに対応するものが少なくとも1個存在することが必要ということか。

74 :
というか、分析哲学にはヘーゲルが居ないから理論的な意味で右翼も左翼もない。
メタ倫理学が盛り上がらないように見えるのは、
右左の論壇的トピックに受け皿がないからで、理論的な問題があるからではない。
純粋に倫理として見た場合、20世紀はあきらかにメタ倫理学の時代だった。

75 :
メタ倫理学は言語行為論の一つの応用問題にすぎない。
他の価値判断(例えば美学)にも当てはまることをいくら細々と語っても、
倫理という事象に固有の問題に触れることはない。

76 :
>>73
「私は「」

77 :11/10/18
>>73
「私は痛い」は価値判断?

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