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2011年10月1期哲学他人の存在証明
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他人の存在証明
- 1 :11/02/02 〜 最終レス :11/11/28
- 我思う故に我あり、より
この世界があり、我あり
より、
他人の存在があって、自分の存在があるのだということが言えますが
これについて皆さんはどう思いますか?
- 2 :
- トリップ
- 3 :
- 実在する世界≠知覚できる世界
- 4 :
- 知覚するには必ず実在する世界がなければできないことでしょう。
それが我思う故に我ありから導かれる論理です
- 5 :
- え?
「我思う故に我あり」から「この世界があり、我あり」が
導かれるの?
- 6 :
- 我を疑う我がいるこの事実は疑いようがありませんからね。
ええ、つまりその我を疑う我がいるということは、我は存在するということですから、
その我が存在できるには、必ず世界という存在がなければ不可能なことです。
- 7 :
- 無の中で存在するというのは誰が見てもおかしな論理です。
無に意識があるとでも?無であるから意識がないのでしょう。
- 8 :
- いや、その場合の「世界」は日常生活からとってきた概念だろ?
確実なものが「我しかない」という状態から、
どうやったら、突然「世界」が出てくるのか?
「必ず世界という存在がなければ不可能なこと」という命題自体も、
デカルト的にいえば、疑わしいものにはいるのではないかな?
- 9 :
- 我を疑う我がいることは疑ないということは内的に存在する我以前に
我がいるというのがデカルトの結論なんですから、
その我いる世界も必然的にうたがえないでしょう。
この方は人の話をちゃんと聞かれた上で反論なされているのでしょうか。
彼の文章から読み取るに、自分の思っていることをただあからさまにそのまま言っているようにしか思えません。
もう少し相手の話を聞いたうえで反論してもらいたいものです。
- 10 :
- >>4
いや、実在はするけど他人がいるかどうかまではいえねーよ
俺はお前がAIなのかも実在するのかもわからんよ
- 11 :
- ではお聞いたしますが、その我はいったいどこで思っているのでしょうか?
貴方の論法でいくなら、「存在していない我が我自身を疑っている」となってしまいます。
これはデカルトの主張とは正反対のものとなってしまいますがどうでしょう?
それではデカルト的に言っても、「我思う故に我あり」という命題は成り立ちません。
- 12 :
- 実在する世界の中に我がいるということは、その我をうみだす創造者がいなければ
なりません。
我がたとえ壁であろうと機械であろうと、我を創る者がいることによって我は存在できます。
- 13 :
- >>11
そうじゃないよ。
「何かが存在する時、それは必ず『世界』の中に在る」という命題は、
ア・プリオリに真かどうかを疑っているんだよ。
- 14 :
- その創造者が意思のある「他人」である必要性はどっから出てきた
別に11次元とか虚数時間でもいいだろ
- 15 :
- ですからその世界の中で我だけがいるということは不可能なのです。
それはつまり我は無の世界に存在しているといっているようなものであって、
「我思う故に我あり」は成り立ちません。
- 16 :
- あからさまなトーシロが偉そうにコテ名乗って哲学語るなや
- 17 :
- >>11
それにデカルトの理解が僕と、ちょっと違うんだよな。
デカルトはすべてを疑った、知覚できるもの、意識にのぼるものすべてを。
しかし、そのように疑っている我自体は疑い得なかった。
そこから、我あり、といった。
したがって、「我あり」以外の必然性をデカルトは認めていなかったと考えているんだよね。
どうやら、そこから齟齬が始まっているようだよ。
- 18 :
- 我がいる時点で哲学的には無ではないし、無から有が発生することが矛盾である根拠もない。
- 19 :
- 仏教・老荘 >>>>>>>>>>>>>> 主客二元論
- 20 :
- >>14
なぜならば創造は意思によって行われる「我考う、故に我行為す」だからです。
先ほども言ったように、我がたとえ壁だろうと、機械だろうと、
誰かが作らなければそれらの物も存在できません。
また、それらを操作するのも「他人」です。
壁がはたして、意思を持って機械を操作するのでしょうか?では何のために?
理由がなければそもそも操作する意味も、創造する意味すらないでしょう。
家を建てれるのは設計図があって、その設計図を描く建築士がいて、その建築士の家を建てたいという意思があって、
家は建てられるのです。
無から何かを生み出すということはできないでしょう。
>>17
デカルトがこれまで苦しみに考え苦しみ、導き出した結論が「我思う故に我あり」
なのであって、我あり以外の必然性を認めないものではありません。
- 21 :
- 自分の存在を作り出している他人の存在を作り出している他人の存在……と無限に続きそうだけど?
- 22 :
- >>21
結局「他人の存在が自分を創りだしている」に帰結する内容かと思われますが、
それがなぜ無限に続くからといって、他人の存在が否定されることに行き着くのか意味がわかりません。
あからさまに論法を使いまわすのではなく自分の考えで自分の言葉で説明してください。
- 23 :
- >>18
無というのは「有」ないから「無」というのであって、有がそこに現れるという時点で、
その世界は有から生まれたことになります。
- 24 :
- >>22
無限に続くと現在までたどり着かないような気がするんだけど?
- 25 :
- >>24
ですからなぜそれが世界の実在を否定される根拠となりうるのか説明してください。
具体的に自分の考えを述べることなくネットで覚えた論法だけを使って議論の進展を
妨げるようなら書き込まないでください。
そのような人とお話しするつもりで私はスレをたてたのではありません。
- 26 :
- 要するに自分のいわゆる存在性と他人の存在性を客観的に比較して同じであることを証明すれば
少なくとも他人にもいわゆる自我があるし自分が特別ではないことを知るだろう
- 27 :
- >>1は「他人」てどういう意味で使ってるんだろう。そんなに厄介な概念だろうか
- 28 :
- そもそも存在とは?
人間の体にしても外からエネルギーを摂取し、新陳代謝を繰り返し、
老化等を起こし、その瞬間の状態を維持できない。
精神においても五感から外からの影響を受け、喜怒哀楽、思想の変化等、常に性質を変えている。
動植物やその他の物質も栄養やエネルギーを外から摂取し、その形を変えている。
存在とは常に変化するもので、他のものに依存し、
自律して存在できないものではないか
- 29 :
- だから>>1が言うように、
他者の存在があるから自分の存在があるというのはその通りだと思う
- 30 :
- >>27
ここでいう他人とは簡単に「私以外の誰か」という意味です。
>>28
ですがその変化に自律性があるものととらえるとどうでしょうか?
その変化には独自の自律性があるとしたら、その人には自律性が備わっていると言えるのではないでしょうか?
変化とは必ずしも誰もが同じように変化するわけではないですからね。
その変化が自己を表すものだとすれば、自律して存在していると言えるのではないでしょうか?
- 31 :
- >>30
自律性はないよ。
この世の全ての存在は始めがあり終わりがある。
太陽、地球も核融合のエネルギーを使い果たしたら消滅し、
原子の動きもエネルギーがなくなったら崩壊し、別の物質に変わる。
で全ての存在は外からエネルギーを受け、常に変化せざるを得ない。
自らそれを止めることはできない。
この世には自律した存在は一切なく、存在させられている。
それは因果律という真理からも証明されている。
- 32 :
- >>31
それが因果律という真理から証明されたものであるというのであれば、私は「全体は部分の総和ではない」という真理を
あげさせていただきます。
部分それぞれに因果関係があるからといって、それが部分すべてにおいて全く同じであることの根拠にはなりません。
例えばコーヒーに入れる砂糖といっても、少量をスプーン一杯という人もいれば、
スプーンを埋め尽くす量を、スプーン一杯という人もいます。
人によってスプーン一杯の基準が違うように、変化の過程も個体によって違うということです。
因果律の誤りはここにあります。
- 33 :
- >>32
個体によって変化の過程に変化があるのは当たり前でしょ。
過程の違いを言っているのではなくて、
全ての存在は変化し、他の存在に存在させられていると書いたんだけど。
それに因果律とは原因と結果の法則といって、
全ての物事には原因と結果が存在する、
例えば
電灯が点いた(結果)
↓
スイッチを入れたから(原因)
風車が動いた(結果)
↓
風が吹いたから(原因)
さらにスイッチが入ったことや、風が吹いたことにも原因があり、原因と結果の連鎖になる。
この無限(実際は有限だが)に思える原因と結果の連鎖が因果律であり、
この世の事物は全て因果律の鎖に繋がれている。
- 34 :
- >>33
一番最初の原因は、どうやって起こったのさ?
- 35 :
- >>34
因果律の真理からすると原因は必ずあるので、
33に書いたように、この世の事物は原因であり結果でもあるので真の原因にならない。
よってアリストテレスによれば、原因を伴わない真の原因、第一原因を想定し、
カトリックではそれを神としている
- 36 :
- 他人の存在証明はできない。なぜなら他人とは幻想にすぎないから。
我思う故に我ありというのも幻想にすぎない。ぜんぜん確かな結論などではない。
疑っている自分がいるといっても、それは単なる思い込みであって、客観的な事実ではない。
つまり、すべては主観的な思い込みであり、そしてこの思い込みでさえ確かなものではなくまぼろしにすぎない。
- 37 :
- >ここでいう他人とは簡単に「私以外の誰か」という意味です。
誰か、の性質が聞きたい。意思ないし指向性を持つシステムと捉えられるってこと?
>>36
じゃあ思い込んでいるお前はなんだ?何と表現する?
形態は問題じゃない。
疑っている間は疑うという意識は存在しているということ。
- 38 :
- 因果律というのは恣意的な面がある
ある人がクシャミをしたとき偶然雨が降ったとする
同じことが運良く百回続いたら、人は超能力だとか超常現象というだろう
しかしこれが万一、1万回続いたら、「ある人のクシャミ⇒雨」は誰もが認める自然法則(科学)になる
因果というのは統計的な蓋然性に支えられていて
科学はそれをベースにした思想にすぎない
- 39 :
- >>38
因果律の考えがおかしくない?
雨とくしゃみが全く因果になっていない。
例えば
くしゃみした
↓
空気中に唾が飛び空気の流れが変わる
↓
大気の湿度が変わる
↓
雲が発生する
↓
雨が降る
なら因果律が成立するかもしれないが、
そうでなければ全く雨とくしゃみの因果関係はない。
それじゃ何万回くしゃみと雨が重なろうが、ただの占いやオカルトの類いになってしまう。
- 40 :
- >>39
君が言っている
>ただの占いやオカルトの類いに
小学1年生レベルの科学として学ぶそれだ。
何も知らないものは、呪術の類は100%効果ないものだと習う。
故に園児が科学への興味をもつ知識しかないのは明白だ。
オカルトの本質である呪術、占いの類は本質を問い行った結果の質を
得る物であって明確な結果で判断される事ではない。
現代の呪術の一面で分かりやすいものは”広告”である。
広告に寄る誘導は現実に作用しているではないか。
物事を偽り類似させる、意味を観測不能な対象でも抽象的な流れを写像
してそこで得た論理では説明できないものを意味として扱う手がかりにする
タブーを設定しエサを与え行動を抽象的に縛る等は呪術の本質的技である。
この程度も知らない時点でオカルトが分かったつもりになるなよ。
- 41 :
- >>40
あなたが何をムキになっているのか分からないが、
俺の占いやオカルトの使い方が間違っていたら申し訳ない。
ただ、この世は全て原因と結果で成り立っていて、
よく占いにあるような、あなたの誕生日は6月だから、今日はあなたはいい事がありますだの、
何の因果関係もないのに、その人の主観だけでこじつけるのは間違いだし、
哲学的にありえないと思うがね
- 42 :
- >>39
ヒュームの考えでは、帰納的・経験的に導かれた原理=必然、ではないとしている
つまり、風が吹いて風車が回ることすら、経験からくる確信(信仰)にすぎないとしている
たとえば「常圧下で水は100度で沸騰する」は必然なので原理といえるが、
「この原理は1時間後に崩壊して200度で沸騰する原理に変わります」とトンデモな説が出たとしても
科学はこれを否定できない。実際にそんなことは絶対にありえないのだが、原理の永続性を科学が保証できないので否定できない
その立場からだと、「100度の水⇒沸騰」という現象は必然ではなく、「少なくとも今の原理に変化がなければたぶん起こるんではないでしょうか」
という程度の控えめな所見に終わることになる
- 43 :
- そうなんだよね。
哲学者 デヴィッド・ヒュームは“因果律”というものを徹底的に疑って、
人間が持っている知の基盤がいかに恣意的で脆いものかを示した。
今から300年ほど前の18世紀のイギリスの哲学者がすでにそういうことをやっている。
現在の素朴な因果律信奉者(=科学信奉者)にはおよびもつかないことだと思うが。
- 44 :
- 因果律に従うモノは世界の根元にはなり得ない。何故ならそれには原因が必要になるから。
- 45 :
- 疑う意味のないものを疑っても仕方ない。
因果律を疑うのはそれを信じた結果裏切られてからで充分。
疑いたい人は好きにすればいいけどそういう人はもの好き。
因果律否定は実生活では何の役にも立たない屁理屈。
まあそれを楽しめる人は楽しめない人よりはちょっとは得してるかもね。
素朴な因果律信奉者にはおよびもつきません。
- 46 :
- >>45
だって、疑う意味のないものを疑うのが哲学ですやんw
- 47 :
- 人間は本当に「疑う」ことができてるんだろうか
それは本当にまごうことなき「疑い」なのだろうか?
- 48 :
- >>47
「どんな事実も確実と見なさないものにとっては、自分の用いる言葉の意味もまた確実ではありえない」
(ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』114節)
「すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くこともできないであろう。疑いのゲームはすでに確実性を前提している」
(同115節)
- 49 :
- やっぱり凄いねウィトゲンシュタイン
- 50 :
- まあ、フッサールのが早くからそう言ってたけどな。
- 51 :
- 他人、自分という概念自体、論理的要請に過ぎない。
分離ごっこして遊んでるだけ
世界は世界
- 52 :
- >どんな事実も確実と見なさないものにとっては、自分の用いる言葉の意味もまた確実ではありえない
無意味なことをいってるだけだな。時間のムダ。どんな事実も確実と見なさないということは自分の用いる言葉も確実と見なしていないのは当然。
>すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くこともできないであろう。疑いのゲームはすでに確実性を前提している
これは詭弁だな。まず疑いが確実性を前提しているとはいえない。確実そうに見えるが実は確実ではないものもある。
疑いとはそういう確実そうに見えるが実は確実ではなことを明らかにすることだ。
- 53 :
- >>52
「確実ではなことが明らか」になったと、どうして判断できるんだ?
煽り目的の書き込みではない。念のため。
- 54 :
- >1 その通りだよ。この世はすべて相対だから
自分以外の存在がなければ、自分もない
- 55 :
- 我思う故に我あり、も
他人の存在があって、自分の存在がある、も
この世はすべて相対だから、も
有る、無い、も
世界が自分一人の夢、も
こういう事を考えない奴らにとっては
まるっきり頭に無いわけで、こういうことを考える奴の思い込み、と
言えるのではなかろうかと思います。
だから真理とかよく分からん気がしなく無く無くない?
それに、世界が自分一人の夢じゃ無いといえるのか?
- 56 :
- これ以上考えると戻ってこれなくなりますよ。
気を付けてください。
- 57 :
-
自分が他者を認識している。
それで既に証明。例え幻覚であっても、自分がそこに他者を認識している時点でそこに他者は存在する。
その存在(その他者の印象などの自分にとっての認識)を客観的に他者に証明することは不可能。主観でしか他者は存在しえない。
もし他者というのが、蛋白質の構成体のことを指しているのだとしたら私はその話には興味がない。
- 58 :
- >>54
いや、この世の全ては絶対的だろ。
相対的思考そのものも絶対的主観に基づいて考え出された物。
- 59 :
- お〜れ、その日の思い付きに自分自身を巻き込んだ一日を送ったり、
自分自身を単なる上辺だけの移り変わる形で遊ぶ対象として扱ってる〜
お〜れ、自分自身っていうのは表に出せる所にあると思うから、
形を作ることで自分自身をコントロールできる男なの〜
- 60 :
-
http://j-lyric.net/artist/a04dac3/l02481e.html
- 61 :
- なるほどねー
- 62 :
- 他人なんて皆カボチャだと思えばいいよ
- 63 :
- >>57
情報は存在するということ?
少なくとも「私」という意識を構成する情報であるとは言えるが
情報…情報はある状態に対する意味づけである。それゆえに情報と世界の形との関連は不可逆である。
私が受け取れるものが全て情報である以上、私達の世界に対する認識力には絶対的なボトルネックが存在する。
そもそも「情報」でない認識って言葉が既におかしいけど…。
まあどうでもいいんだけどさ、いいよねこういうの。
- 64 :
- 結局信じるしかないの?
- 65 :
- ん〜、多分ね、君に言いたいことが何にもないんだと思う
- 66 :
- 情報を処理する頭がありその頭の世界を認識する
情報はその頭とは違う世界に存在するものである
情報のある世界と頭の世界は別物で
例え情報のある世界に他人は存在しなくても
頭の世界で他人が存在すればそれは有るのだ
- 67 :
- って考えると頭の世界が必要だから他人が存在する?させようとしている
そもそも情報自体は他人どころか自分の存在すら示す物にはならないんじゃないかな?
自分を疑う自分を認識して自分の存在を確認できるならばだけど。
- 68 :
- なんで自分以外存在しないみたいな感覚に陥るんだろう
よくわからない
- 69 :
- >>68
おそらく壁の中にセメントで埋め込まれてしまった人の叫びなのでしょう
- 70 :
- はい?
- 71 :
- パラドックスみたいなもんだろ
ニュートンが時間や空間や距離についてはみなさん御存じなので
説明しません、と言ったのだが
ニュートン以外の証明というとカントやリーマン幾何学
まあ結論を言うと
観察してる観察者は存在するだろうけど
もしかしたら観察してるものは存在しないのかもしれないってことだな
- 72 :
- んッ! ああ〜!
ここは全裸で歩けるって鵜呑みにして来たんだけどなあ〜
- 73 :
- 人間は物質?
意識って自然現象?
- 74 :
- ヒトの性質をもつ物体Xが2個以上存在し、かつ、そのうちの1個が私という性質を持つならば、他人が存在する。
Xは2個以上存在し、かつそのうちの1個は私という性質をもつ。
ゆえに、他人は存在する。■
- 75 :
- ヒトの性質とは何?私という性質はまぁわからなくはないが
- 76 :
- 我思う ということは有であり、その有を以て我を証してるというなら有とはなんだろう
神が故に我を有となすのか
物質が故に我を有となすのか
人の性質?意識?ってなんだろうね
- 77 :
- >>74
この証明には致命的欠陥がある
「私」は述語ではなく指示子だからその指示対象は性質ではなく個体
- 78 :
- んッ! ああ〜!
ここは全裸で歩ける超クールビズだって鵜呑みにして来たのに
僕は気にしないから
- 79 :
- じゃあ、他人は存在しないで。
他者死者私という本を思い出した。
- 80 :
- 超クールビズの気分
- 81 :
- 短パン半袖の墓場にいる小学生みたいなもんですね
- 82 :
- 短パンほどセンスの無いものはない。
- 83 :
- 超クールビズが気になる
- 84 :
- 結局証明なんて無理
- 85 :
- 鵜呑みにして全裸で歩く超クールビズを気にするのを止めろよ〜
- 86 :
- オレ、涼宮ハルヒしか共感できない。
- 87 :
- 鵜呑みにさせられたから、全裸で歩いたってことにされてる
- 88 :
- 国家権力の玩具になってよかったぐらいでいいじゃないですか
- 89 :
- 慧、鵜呑みにするから
文句があるならこの住所に行けって言われて
全然、知らない人の敷地に入らされた
- 90 :
- それはCIAの工作だ
- 91 :
- CIAなら大学にいた。アラビア人だった。銀行でバイトしていた。
- 92 :
- 自分の発生がよくわからないから他人とかもっとわからない
- 93 :
- 我が有るというのが絶対条件だぬ
- 94 :
- 僕の布はダサいけど、お母さんの買って来たものは鵜呑みにするものでしょ?
- 95 :
- 結局証明なんて無理
- 96 :
- てかまず自分の発生ってどういうこと?
今まで大量の意識が生まれてきた中で何故自分?
- 97 :
- そもそも意識があるか?って所だろ前提が違う
- 98 :
- というと?
- 99 :
- 慧、鵜呑みにして可哀想な所があるだから、
お兄さんは鯛をご馳走してくれたよ
慧、噛まないで飲み込んだら骨が喉に刺さってされる所でした
汚ったない奴いるなあ
みなさん、聞いてください、鯛を食べさせるなんて許されますか!
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