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【ゆっくり】月に1冊哲学の本を読む【まったり】2


1 :11/02/23 〜 最終レス :11/10/02
【ゆっくり】月に1冊哲学の本を読む【まったり】2
毎月1冊哲学の本を読んで、あれこれ考えるスレです。
僕は、哲学を専門に学んだわけではありませんが、
一緒に考えながら読んでもらえればいいな、と思います。
もちろん、詳しい方が教えてくださるのは大歓迎です。
読む予定の本を書いておきます。
1,000円以下を目安に、読みやすい本で時代ごとのバランスを考えたつもりです。
読む予定の本
2011.02 ニーチェ『道徳の系譜』
 道徳の系譜 (岩波文庫) ¥ 693
 道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫) ¥ 780
2011.03 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
 論理哲学論考 (岩波文庫)¥ 756
 論理哲学論考 (ちくま学芸文庫)¥ 882
Wiki(ログ、図表等資料)
http://www44.atwiki.jp/tetsugaku/
「ERROR:このスレッドは512kを超えているので書けません!」のエラーがでて、
『道徳の系譜』の最後の書き込みができませんでした。
ですので、あと少しですが新スレを立てました。

2 :
前スレ 【ゆっくり】月に1冊哲学の本を読む【まったり】
     http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1285937465/
前スレで読んだ本
2010.10 プラトン『クリトン』
 ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン (新潮文庫) ¥ 460
 ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫) ¥ 504
 ソクラテスの弁明・クリトン (講談社学術文庫) ¥ 924
2010.11 デカルト『方法序説』
 方法序説 (岩波文庫) ¥ 483
 方法序説 (ちくま学芸文庫)¥ 945
2010.12 カント『プロレゴメナ』
 プロレゴメナ (岩波文庫)¥ 882
2011.01 キェルケゴール『死に至る病』
 死に至る病 (岩波文庫) ¥ 819
2011.02 ニーチェ『道徳の系譜』
 道徳の系譜 (岩波文庫) ¥ 693
 道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫) ¥ 780

3 :
ニーチェ『道徳の系譜』No.51
 【今月のまとめ】
前スレの>>487にそってまとめておきます。
・ニーチェの他の著作との関連
 『ツァラトゥストラ』『善悪の彼岸』『道徳の系譜』は前著を解説するものとして著さ
 れました。『道徳の系譜』で用いられていて『善悪の彼岸』で用いられていない語句と
 して「禁欲主義的理想」、「良いと悪い」、「ルサンチマン」があります。これらの言
 葉によって道徳の価値づけの議論が第1論文でより深められ、司牧者、哲学者の生への
 否定的な価値づけへの関与が第3論文で示されたのは、これまで見たとおりです。
 そして、『力への意志』では「力への意志」を述べる予定だった(>>500)とあります。
 なお、レーヴィットは『力への意志』がまとめられなかった理由として、力への意志が
 自己の乗り越える力であることから自己の存在を規定できないことにニーチェは気づい
 ていたのではないか、としています。
・ニーチェについての著作との関連
 レーヴィット、ドゥルーズ、ホルクハイマーは、いずれもそれぞれにとっての現代(の
 哲学)を暗く覆う状況から抜け出すのに際してニーチェを読んでいたようです(ホルク
 ハイマーにとっては、ホロコーストや世界大戦を回避できず、また、アメリカ社会の実
 情をみたことでの理性の自己崩壊への意識があるといいます。)。
 ハイデガーについても触れたいと思っていましたが、時間がなくできませんでした。
・僕が考えていることは、これまで書いていますから省略します。ただ、ニヒリズムは現
 代の日本で消滅も乗り越えもされていないのではないだろうか。力への意志はニヒリズ
 ムを乗り越えるものだったのだろうか。そんなことが気になっています
ニーチェと来月のウィトゲンシュタインは接点がなさそうですが、>>506の(U.25 P182)
の引用箇所を読むと、『論理哲学論考』の有名な「7 語りえぬものについては、沈黙せ
ねばならない」を思い出します。そして「6.41 世界の中には価値は存在しない。」と価
値について、「6.43 そうした意志によって世界は全体として別の世界へと変化するので
なければならない」と意志について語っています。

4 :
>>1

5 :
>>1
おつ

6 :
2011年3月の本 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
【人物】
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(1889年4月26日 - 1951年4月
29日 以下「LW」)
ウィーンで、鉄鋼会社の経営で莫大な富を築いた父カール・ウィトゲンシュタイン、母レ
オポルディーネの8人兄弟の末っ子として生まれた。
1906年からベルリンにある工科大学で機械工学を学び、機械工学と不可分な数学への関心
から数学基礎論に興味を持つようになり、フレーゲの勧めでラッセルを訪ねた。彼の勧め
で1912年にケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学し、ラッセルやムーアのもとで論
理学の研究を始めた。1913年の父の死によりLWは莫大な資産を相続したが、その一部をオー
ストリアの芸術家に寄付した。
第一次世界大戦に志願兵として従軍し、休暇中の1918年8月に『論理哲学論考(以下「論
考」)』を完成するが、同年11月にイタリア軍の捕虜となった。捕虜収容所でカトリック
教徒で教師のヘンゼルと、『純粋理性批判』を読んだりした。
1919年6月にケインズの斡旋で『論考』の原稿がラッセルやフレーゲの元へ送られ、釈放
後相続した全財産を放棄し、教員養成学校に入る。しかし、出版交渉は難航し、ラッセル
の序文を付して、LWが校訂に参加した『論考』は1922年11月に出版された。このとき、序
文の原稿を見たLWは、ラッセルがフレーゲ同様に『論考』を理解できていないことを知り、
失望する。
LWは『論考』を書き終えた時点で哲学の問題は全て解決されたと考え、1922年9月から小
学校教員として働くが、体験を重視する独自の教育方針は保守的な地域で受け入れられず、
また体罰にたいしての抗議もあり、1926年に辞職する。その後、修道僧になろうとするが
断られ、修道院の庭師になったり、家の設計をしたりしていた。
直観主義の数学者ブラウワーの講演を機に『論考』には重大な誤りがあるのではないかと
考え、1929年トリニティー・カレッジの大学院に戻り、哲学を再開する。1929年『論考』
を博士論文として提出し、奨学金を受け、1930年講師としてトリニティ・カレッジのフェ
ローとなり、1939年にはケンブリッジ大学の哲学教授となる。1947年には教授職を辞職し、
諸原稿を作成するが、1951年前立腺がんにより死去。

7 :
 (続き)
著作
前期(1889-1929年) 『論考』
過渡期(1929-1934年)『哲学的文法』、『哲学的考察』
後期(1933-1951年) 『黄色本』、『青色本』、『茶色本』、『哲学探究』、『確実性の問題』
生前に刊行したものは『論考』、1926年に使用頻度の高い語彙を収録した『小学生のため
の語彙集』、1929年『アリストテレス協会会報・増補\』への「論理的形式についての若
干の考察」の3つのみで、著作の多くは、日記、講義の出席者のノートや未整理原稿を基
に編まれている。
時期の区分は『ウィトゲンシュタイン小事典』によります。1987年出版であり、出版後の
研究により変更されたのかもしれませんが、Wikipediaと異なる区分を記して示します。
【内容】
LW自身はフィッカーへの手紙で「「この本の意義は倫理的なものである。」と言っている。」
(『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』P124)しかし、黒崎宏さんは「『論考』そのも
のを素直に読めば、やはり「「この本の意義は倫理的なものである。」と言うには、抵抗
がある。『論考』自体の構成は、必ずしもそうなっていないからである。」(同上)とし
ています。
一方で、野矢茂樹さんは「『論考とは、いったいどういう著作なのか。語りえぬが示され
うるものの語りえなさを明らかにし、それを示そうとしたもの。(略)では「語りえぬが
示されうるもの」とは何なのか。それは論理と倫理である。』」(『ウィトゲンシュタイ
ン『論理哲学論考』を読む』P27)
【感想】
思考されたことの表現に対して限界を引く、つまり思考されたことを表現できることとで
きないことを明確にするために書かれたと、序にあるが、本編を読むと数式や難しい用語
がでてきて、なぜこの内容がその目的を達しているのか、わからない。
何度か読み返すと、どう生きればよいのか分からない、という気持ちを契機として書かれた
本なのかなぁと、と感じています。

8 :
今の時点で僕が読んだ本やWebで見たサイトを書いておきます。
本文の直接の引用でない場合は特に出典を示しません。なお、『論考』本文は命題番号で
示し、引用のページは岩波文庫版によることとします。
『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン著 野矢茂樹訳 岩波文庫)
『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹著 ちくま学芸文庫 以下『読む』。)
『倫理学講話』(ウィトゲンシュタイン全集 5 大修館書店)
『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均著 ちくま新書 以下『入門』)
『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』(黒崎宏著 勁草書房)
『ウィトゲンシュタイン小事典』(山本信、黒崎宏編 大修館書店)
『ラッセルのパラドクス−世界を読み替える哲学』(三浦俊彦著 岩波新書 以下『パラドクス』)
哲学の「て」第11回  ヴィトゲンシュタイン先生のナンセンス倫理講義
(『論考』のまとめが前半にあり、『倫理学講話』を読みながら見るとわかりやすい。)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7136636
『論理哲学論考』Web上のテキスト
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/jp/index.html
http://orange.zero.jp/kuma.wing/philosophy/tractatus/top.html
Tractatus Logico-Philosophicus(『論理哲学論考』ドイツ語原文)
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_tlp_gm.html
『倫理学講話』Web上のテキスト
A Lecture on Ethics(『倫理学講話』英語原文)
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_lec_et_en.html
倫理学講話(和訳)
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_lec_et_jp.html

9 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.1
今月は最上位の階層の命題を読んでから、命題nと命題n.mの階層に問いをつけてその
下位の内容をまとめます。というのも、最上位の階層を眺めていると、1で使われている
言葉が2に、2で使われている言葉が3に、と6→7を除いて語句が引き継がれているからです。
調べてみたところドイツ語原文でも同様のようです。以下に[ ]は次の最上位の階層に引
き継いでいる語句を示します。
1 Die Welt ist alles, was der [Fall ist].
2 Was der [Fall ist], die [Tatsache], ist das Bestehen von Sachverhalten.
3 Das logische Bild der [Tatsachen] ist der [Gedanke].
4 Der [Gedanke] ist der sinnvolle [Satz].
5 Der [Satz] ist eine [Wahrheitsfunktion] der Elementarsatze.
 (Der Elementarsatz ist eine Wahrheitsfunktion seiner selbst.)
6 Die allgemeine Form der [Wahrheitsfunktion] ist: [p, ξ, N(ξ)].
 Dies ist die allgemeine Form des Satzes.
7 Wovon man nicht sprechen kann, daruber muss man schweigen.
語句の意味(google翻訳http://translate.google.com/?hl=ja#de|ja|
1 Welt 世界、ist 英語でいえばBe動詞、Fall ことがら
2 Tatsache 事実、Bestehen 存在、Sachverhalten 事実
3 logische 論理、Bild 画像、Tatsachen 事実、Gedanke 思想
4 sinnvolle 意味のある、Satz レート、命題(『岩波哲学・思想事典』からの推測)
5 Wahrheitsfunktion 真理関数、Elementarsatze 初級の命題
6 allgemeine 一般的な、Form フォーム、形式
7 man 1、sprechen 話す、kann することができます、daruber について、
 muss する必要があります、schweigen サイレント、無声

10 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.2
最上位の階層で語句を引き継いで書かれていることから、日本語訳に、
『』《》【】〈〉“”()‘’の順に括弧で入れ込んでいくと、下のような構造をしてい
ることがわかります。
『1 世界は[成立していることがら]の総体である。』
     《2 [成立していることがら]、すなわち[事実] とは、諸事態の成立である。》
                          【3 [事実]の論理像が[思考] である】
                                     〈4 [思考]は有意味な[命題] である〉
                                                 “5 [命題]は要素命題の[真理関数]である”
                                                              ‘6 [真理関数]の一般形式はこうである。 [p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)これは命題の一般形式である。’
→『7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。』
1文にまとめたほうが見やすいかもしれないので、上の構造をまとめておきます。
『1 世界は[成立していることがら]《2 [成立していることがら]、すなわち[事実]【3 
[事実]の論理像が[思考]〈4 [思考]は有意味な[命題]“5 [命題]は要素命題の[真理関
数]‘6 [真理関数]の一般形式はこうである。 [p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)これは命
題の一般形式である。’である”である〉である】とは、諸事態の成立である。》の総体
である。』
→『7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。』

11 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.3
>>10の各命題の語句はおってみていきますが、辞書的にはこんな意味です。
世界 「現実に成立していることの総体」(『読む』P29)
事実 「現実に成立していること」(「複合的」のニュアンスもある)(『読む』P326)
事態 「成立可能なこと」(「要素的」のニュアンスもある)(『読む』P326)
論理像 写像形式と論理形式が一致している像(2.181)
思考 「思考内容」(P185訳注13)
命題 「記述として用いられ、それゆえ真偽の問えるような文」(『読む』P61)
要素命題 「否定、論理和といった論理記号をいっさい含まない形で、名(対象を指示す
      るもの)の配列として表しうる命題」(P196訳注46)
真理関数 「真偽を入力して真偽を値として出力する関数」(P190訳注25)
階層をみて気づいた点
1  『論考』は、極論をすれば1と7の2つのことしか語っていないこと。
   他の内容はあくまでも1と7を述べるための説明としてある。
1.1  1〜6では「である」(原文ではist。英語でいうBe動詞)で、
   7のみ「しなければならない」(原文ではmuss。英語でいうmust)だということ。
1.2  1→6へと同一階層で分けて説明を加えていきながら、同時に1→1.1と階層を
   深めて説明を加えていく構成になっていること。一般の文章でいうならば、同一の
   階層が章に、異なる階層が章節段落文などに対応すること。
1.21 下位の階層は上位の階層の内容を補足、展開すること。(以下の原注参照)
岩波文庫には原注の訳がないようなので、『入門』から引用しておきます。
「*原注 命題の番号となっている数は、その命題の論理的な重要性を、つまり論述の中
     で私が強調した程度を表している。命題n・1、n・2、n・3、等は、n番目の命題に
     対する注であり、n・m1、n・m2、等は、n・m番の命題に対する注である、といっ
     たぐあいである。」(『入門』P55)

12 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.4 『論考』の出発点−内容−結論
序文
・出発点
 LWが『論考』を書いた出発点はどこにあるのでしょうか。
 >>7【内容】にあるように、倫理的なことを書こうとして書けていないのか、あるいは
 論理と倫理が書かれているのか。いずれにせよ、倫理をめぐって考えていたことは確か
 なのでしょう。それがなぜ、世界について考え、論理について長々と書いたのか、ある
 いは、書かなければならなかったかと考えると、「この世界でわたしはいったいどうす
 ればいいのか」と世界を前にして絶句していたのではないのかな、と僕は勝手に想像し
 ています。
 わたしはどうすればよいのか、を深めていった結果、世界とはどういうもの・ことなの
 かという問いにいたった、それがこれまでの哲学の世界観とあいいれないものだったか
 ら、長く説明を要した。その世界観から当初の問いに戻ると語りうることがなかったと
 いう【本書の結論】になったのではないか、と思っています。
・行ったこと
 「思考されたことの表現に対して」限界を引く(P9)。
・結論
 「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひ
 とは沈黙せねばならない」(P9)。
 このような内容は、『論考』の4.116、6.53と最後の命題である7でも言われます。

13 :
コミュニケーションの限界に対しての絶望がこの書を書かせた動機の根底にあると思う。

14 :
だから? 笑

15 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.5 世界→事実へ
問い1 世界とはどういうもの・ことか?
・現実に成立していることがら(事実)の総体(1)。
問い1.1 世界は物の総体ではないのか?
・物の総体ではない(1.1)。
問い1.13 事実はどこにあるのか?
・論理空間の中にある。
問い1.2 世界は「一」で、事実はその表れなのか?
・世界は諸事実に分解されうる(1.2)。
(「問い」の後の数字は、対応する命題番号を示します。)

16 :
>>13
命題6.4以降はどうして書かれたと思いますか?

17 :
>>14
ちょうど今、5.5を読み返していたので教えてください。
5.542に、「AはPと考える」はもとをたどると「「p」はpと語る」という形式となる、とあります。
となると、LWによれば、誰が語ろうとも同じ形式になることだと思います。
具体的に言うと、
14は「13の考えを だから? 笑」と考えるという命題敵対度は
Aは「13の考えを だから? 笑」
Bは「13の考えを だから? 笑」
Cは (以下同様)
と同じになるとLWは言っているのだと思いますが、どう考えますか?
『読む』P236に野矢さんの説明があるのですが、どうにも腑に落ちないのですが。

18 :
>>17
× 敵対度
○ 的態度
誰と戦っているんだ。 orz

19 :
>>14>>18さんは、いなされてるんですよ(笑)
全体の構成からみてきょとつにもみえる独我論の項を入れざるをえなかったことについての
野矢さん的解釈だったと思います。
自分もやっぱりそう思うか?他の項もそういうつもりで読むとどうなのか?はまだわからんです。(一回読んだだけでまだ読み方が浅いんで。すみません)
では。

20 :
>>19 13さん
そう、5.542は世界の分析から論理へいき、独我論(5.6以降)、主体否定へ展開するため
の橋渡しの命題だと思うんですよね。さらにその独我論から6で論理学、数学、自然科学へ
と展開し、6.4以降が倫理で、7で結論がでる、と。
なので、5.542は重要な命題だと考えているだけに、どうも体をかわされているようで、
落ち着かないのです。ここがわかると、6で論理学等の検討を
している理由ももっとわかる気がしているのですが。
ところで、古典をゆっくり読んでいくときに
わからないことをいろいろと考えているのは、
飴玉を口の中で転がしているようで、
このまま転がしてもいたいし、やはり味わいたいし、
いろいろと考えているのは楽しいし、やはりわかりたいし、
不思議な時間です。
まぁ、ゆっくり考えていきますかね、仕事のように締切りがあるわけでもないし。

21 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.6 事実→対象へ
問い2 事実はどのように起こるのか。成立する可能性のある事実はあるのか?
・事態である。事実とは成立している事態のこと。
・事態の構成要素は対象であり、その可能的な結合により事態はある(2.01,2.011)。
 例:部屋の机の上に本があることが事実として論理空間にあるとすれば、対象は部屋、
   本、机、事態は部屋の床の上に本を置くこと、本の上に机を置くことなどである。
・対象には、固有名だけとする意見もあるが、LWの草稿から個体、性質、関係を含める
 (『読む』P63〜P68)と考える。
・関係表1
 世界←総体−事実←成立−事態←可能的結合−対象
問い2.01231 対象をどのように捉えるのか?
・対象の内的性質(=ある対象にとってその性質をもたないことが論理的に考えられない
 性質の範囲(P183訳注8、4.123参照)を捉えることによる。
 例:「「数2」を対象とすれば、<3より小さい>というのは、「3より小さくない2」なる
   ものを考えることができない」(P184訳注8)から内的性質といえる。
・「対象は単純であ」(2.02)り、そのような「対象が世界の実体を形づく」(2.021)
 り、その「実体は形式と内容からなる」(2.025)とします。
 例:「このトマト」で指示される対象は、「トマト」で示唆される論理形式(もちうる
   性質の可能性。トマト一般にある性質)と、「この」で特定される内容(具体的な
   位置、色など)からなる。(『読む』P60)

22 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.7 世界→像へ
問い2.1 現実はわれわれにどのように現れるか?
・「事実の像を作る」(2.1)ことによる。
・関係表2
 事態・状況  −現実・一つの事実−対象(もの)
 論理空間(*)−(事実の論理)像−像の要素
・像は、論理空間において、諸事態の成立・不成立である、状況を表す(2.11)。
・「写像関係は像の要素とものとの対応からなる」(2.1514)。
・現実の形式(論理形式)を現実と像は共有している(2.18)。
*論理空間は、「可能性として成立しうることの総体」(『読む』P29)で「可能な状況
 の集合」(同P108)とされ、否定命題を含みえないから可能な事態の集合ではない(
 同P103、P106)とされている。今回は、写像関係の理解の補助としてこの表に「事態」
 を入れてあります。
問い2.2 像が現実を写しとるとはどういうことか?
・「像は写像されるものと写像の論理形式を共有する」(2.2)ことにより、「事態の成
 立・不成立の可能性を描写することによって現実を写しとる」(2.201)。その像の真
 偽は現実と比較することでわかる(2.223)。

23 :
>>10
1と2は、まとめて次のようにできる。
A「世界は<諸事態の成立>の総体である。」
3456は、まとめて次のようにできるが、像関係になっていることから
AとBの間における、<諸事態の成立>は置き換えが効かないように思える。
B「<諸事態の成立>の論理像が、有意味な要素命題の真理関数である。ただし、真理関数の一般形式=[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)」

24 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.8 像→思考→命題へ
問い3 >>22の問い2.1の関係表2をみると、世界の像は事実の論理像の総体であるのか?
・事実の論理像は、思考(内容)である(3)。
・「真なる思考の総体が世界の像である」(3.01)。
・思考(内容)には思考される状況が可能なことを含んでいる(3.02)。
・関係表3
 世界の像−真なる思考の総体−思考=事実の論理像
問い3.1 思考はどのように捉えられるのか?
・思考は、命題という知覚可能な記号(音声記号、文字記号等々)を用いて知覚可能な形
 で表される。このとき用いる記号を命題記号と呼ぶ。
・「命題記号はひとつの事実である」(3.14)。
問い3.2 3.14だとすれば、思考において対象に対応するのはなにか?
・「思考は命題で表現される」(3.2)。
・「対象が名の意味である」(3.203)。
・「名は命題において対象の代わりをする」(3.22)。
問い3.263 名を分解できない(3.26)というが、では名はどう捉えられるのか。
・名=原子記号であり、その意味は解明によるが、命題によって用いられ、その意味にす
 でになじんでいるひとだけが、解明を理解しうる。(3.263)
 これは結局、なじんでいるからわかる、ということで循環構造であり、全体をわかって
 いるからわかるということになる。(『読む』P72要約)
 なお、この「解明」という言葉は6.54でも使われます。
・関係表4
 論理空間−−事実の(論理)像−対象(名の意味)
 思考−表現→命      題−単純記号=名=原子記号

25 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.9 命題における指示対象と意味
問い3.3 3.203でみたように命題における名の意味が対象であれば、命題における意味は思考内容か?
・「命題のみが意味内容をもつ。名は、ただ命題という脈絡の中でのみ、指示対象をもつ。」(3.3)
・形式と内容を区分する(「実体は形式と内容からなる」2.025,>>21問い2.01232つめの例参照)。
・命題の意味を特徴づける命題の各部分である表現(シンボル)は形式と内容を特徴づけ
 (3.31)、表現の形式は命題の一般形式(4.5、6参照)によって表される。
・論理的構文論では記号の指示対象を示すだけで、記号の意味を論じることはない(3.33)。

26 :
>>23
> 3456は、まとめて次のようにできるが、像関係になっていることから
> AとBの間における、<諸事態の成立>は置き換えが効かないように思える。
この置き換えができないとなると、ウィトゲンシュタインの写像理論自体が成り立たないという前提で
3456を読まなければいけなくはなりませんか?

27 :
>>26
そうであるからこそ、後になって写像理論を捨てたと考えることもできる。
「論考の全てが正しい」という前提で読まない方がいいと思う。

28 :
>>27
『論考』の問題点は最後のほうでまとめてみようと思っているのですが、
27さんの考えている『論考』の問題点は、写像理論のほかにどのようなものがありますか。
よろしければ教えてください。
ちなみに僕が今まとめているのは、こんなところです。
・要素命題の相互独立性の要請(『読む』P145、P164、P313)
・意味の他者の拒否(同P313)

29 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.10 ラッセルのパラドクス1−指示対象と意味の観点から
問い3.333 なぜ、形式と内容を区分するのか。あるいは、ラッセルのパラドクスはどう
      解かれるのか
ラッセルのパラドクス
・一言でいえば、「自分自身を元としない集合のすべてからなる集合は自分自身を元とし、
 かつ元としない」(『哲学事典』平凡社 パラドックスの項)。
・詳しくみると、以下のとおり。
 「自分自身の要素でない集合、の集合」を集合Rと定義する。
 このとき集合Rは自分自身の要素か?
 1「自分自身の要素でない集合」と集合Rを仮定する。
  集合Rの定義は「「自分自身の要素でない集合」すべてを要素として含む集合」なの
  だから、仮定により自分自身の要素でないこととした集合Rは、定義により集合Rの
  要素、つまり自分自身の要素でなければならない。つまり、集合Rは「自分自身の要
  素である集合」となる。この結論は仮定と矛盾する。
 2「自分自身の要素である集合」と集合Rを仮定する。
  集合Rは、Rの要素と仮定されたことになる。Rの要素となる集合は、Rの定義(自
  分自身の要素でない集合、の集合)からして「自分自身の要素でない集合」でなけれ
  ばならない。すると仮定により、集合Rは「自分自身の要素でない集合」ということ
  になる。この結論はもともとの仮定に反する。
  こうして、集合Rは1,2のどちらの仮定をしても、仮定とは反対の結果が出てきて
 しまう。これは2つの仮定が共に間違っていることを示している。つまり、集合Rは
 「自分自身の要素でない集合」でもなければ「自分自身の要素である集合」でもない。
・具体例
 ある村にいるただ一人の床屋は、自分でヒゲを剃らない村人全員のヒゲだけを剃る。
 村人の一人であるこの床屋自身は、自分のヒゲを剃るのか、剃らないのかて、
・このパラドクスの前提
 集合は「自分自身の要素でない集合」か「自分自身の要素である集合」のどちらかであ
 る。言語的に意味をなす表現は必ず指示対象を持ち、「自分自身の要素でない集合の集
 合」という句は何かを指し示し、そのような集合は必ずある」とこの時期のラッセルは
 考えた。(以上『パラドクス』P39-42要約)

30 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.11 ラッセルのパラドクス2−タイプ理論
ラッセルの考察
・タイプ理論
 この世にあるものをすべて階層に分け、存在者の階層が無限に上位に続いていく。
 タイプ0 個物(あなた、私、あの犬、この猫、この机、そのボールペンなど)
 タイプ1 タイプ0の個物に対する集合(日本人(個々の人間の集合)、柴犬、ペンなど)
 タイプ2 タイプ1の集合に対する集合(人間、犬一般、文房具など))
 そして、「ある集合は、自分よりタイプの低い集合のみを集合にもつことができる。」
 という、問題のありそうな「自分自身の要素でない集合、の集合」を禁止するような規
 則を設ける。
 このときタイプを特定すれば、>>29で集合「Rは、自分の要素である「自分自身の要
 素でない集合」のどれよりも一つの上のタイプなので、自分自身の要素か否かをめぐる
 悪循環はな」(『パラドクス』P58)くなる。
・タイプ理論の問題点
 「人間は死ぬ」という命題は、論理学では「どんなものであれ、xが人間ならば、xは死
 ぬ」といえる。しかし、このとき無制限変項の原理(変項にはどんな値が代入されても
 よい)という論理学の基本的な原理に抵触する。タイプ理論では自分よりタイプの低い
 ものでないと代入してはいけないことになっているので、変項は各タイプの範囲内での
 無制限と、無制限変項の原理を制限しなくてはならなくなる。
 さらに、世界が無数のタイプに分離し、別々のタイプのものどうしでは同じ意味で「存
 在する」とは認められず、指示する対象が異なるタイプの数に応じての意味があること
 になってしまう。(以上『パラドクス』P54-69要約)
 また、この考え方は「個体という対象のレベルを把握しなくてはいけない」(『読む』P92)。
 しかし、LWにとっては、>>15問い1.1でみたように世界は物の総体ではなく、個物=物
 を起点に考えることはできず、>>21でみたように、世界から分析されてでてくるもので
 あって、>>25「名は、ただ命題という脈絡の中でのみ、指示対象をもつ。」(3.3)の
 だから、タイプ理論の前提とする名が世界に先行し、独立して機能するといったもので
 はない。

31 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.12 ラッセルのパラドクス3−指示対象と意味の分離
ウィトゲンシュタインの考察
・「ラッセルの誤りは、記号の規則を立てるのに記号の意味を論じなければならなかった
 点にある」(3.331)。
・LWの場合、命題は「名を定義域とし、命題を値域とする言語内的な関数である」(『読む』P93)。
 「ある名の定義域に自分自身が含まれている場合に自己言及が生じるわけだが、定義域
 に含まれているということは、その結果として出力される自己言及文が有意味な命題と
 して値域に含まれていることを意味している。つまり、その自己言及文はパラドクスを
 引き起こすものではない」「その自己言及文がナンセンスであるならば、それは値域に
 含まれていないということであり、それゆえ定義域にも自分自身は含まれていない。」
 「自分自身が定義域に含まれているときには、その結果生じる自己言及文が有意味であ
 ることは保証されている。もしその自己言及文がナンセンスならば、定義域から自己自
 身を排除すればよい。」「定義域に自分自身が含まれていないならば、自己言及文を作
 ることはできない」(同P96)
 >>29のパラドクスの前提の項と対比的に言えば、「言語的に意味をなす表現は、命題の
 文脈においてのみ名が指示対象を持つ」のである。
 >>29の具体例の項で言えば、村人(定義域)の中に床屋を入れればナンセンスであり、
 入れなければ有意味となる。

32 :
>>28
一般的な問題点ではなく、個人的な問題点としては
神の存在が前提とされているところかな。(ざっと見では、例えば、3.031、6.432、6.53)
神の存在を前提としていない者にとっては、すんなりとは受け入れられない主張だと思う。
逆に言うと、論考の全てに納得できる人は、神が存在するという前提も受け入れられる人かと。
論理実証主義者は、そういう部分は切り捨ててしまったと聞く。
それ故、ウィトゲンシュタインは、論理実証主義者と距離を取ったのではないかな。

33 :
あと、集合論を認めない立場で論じているから、論考の見解を受け入れたら
現代数学と折り合いが付けられなくなると思われる。

34 :
>>32,33
なるほど。
神の存在をどう扱うかというのは、やはり大きいのですね。
ちょっと気になったのですが、神は存在しないとウィトゲンシュタインが考えていたら、
やはり『論考』は成立しないのかな?どう成立しないのかな?成立するとすればどう変更する必要があるのかな?
まずウィトゲンシュタインの考えていた神がどういうものか
例えば、キリスト教の神、イエス、キリスト教、超越的存在の1つとしての神、最高善、信仰の対象としての神…
知ってからのことでしょうが、ちょっと自分なりに考えてみます。
現代数学については僕自身がまったくわかっていないのでなんともいえず、
せっかく教えてくださったのに申し訳ない。

35 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.13 命題の論理空間での表れ方
問い3.4 >>24の関係表3で事実の論理像が思考であったり(3)、関係表4で思考が命題で
    表現されるとしている(3.2)が、命題、論理空間、思考の関係はどのようなものか?
・命題は論理空間の中に、命題記号と論理的座標から形づくられる論理的領域を規定する。
 この論理的領域は、その構成要素である、有意味な命題の存在により保証されている。(3.4,3.41) 
 4でこの論理領域の構成要素が「思考」とされる。
 x>0,y>0の2次元のグラフを論理空間として考えてみる。
 ■の領域が論理領域であり、命題。その中に領域を示すもの(微小な黒点)が命題記号
 であり、その命題記号が思考。
 このとき、z軸を加えて、■のちょうど上方に立方体が浮かんでいたとする。その立方
 体が事実で、それを2次元の表という論理形式に像として写した(射影した)のが論理
 像。(なお、言うまでもありませんが、論理空間が2次元で、事実が3次元であるという
 ことではありません。あくまでも説明のためです。)
  y
  |
  | ■
  |
  +−−x
 2次元の表において■の領域は(1,1)(1,2)(2,1)(2,2)で囲われた領域だとする。これは
 (0,0)である点(+の位置)が定まっているから、そのよう座標を示しうる。さらに
 xyの値の刻み方などが決められるから他の点(例えば、(10,5))ひいては全体を示せる。
 これはつまり、論理形式が定まる(+の位置や座標軸の設定、間隔など)から、他の点、
 全体を示すことができる。このとき、論理領域の前に論理(形式)が先に定まっている
 から、全体を示せることになる。だから「その領域を通して論理空間全体がすでに定め
 られているのでなければならない」ことになる(3.42)。
問い3.5 3.4、3.41ならば思考内容は命題記号で表現されるのか?
・”使用された”命題記号が、思考内容である(3.5)。
 使用されていない命題記号は論理空間に論理領域をもたないから、3.5のように言える。

36 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.14 命題→論理へ1 命題の諸相
問い4 どのように思考(内容)は命題と関係しているか?
・「思考とは有意味な命題である」(4)(>>35参照)。
・「命題の総体が言語である」(4.001)。
・「命題は現実の像である」(4.01)。
>>35のグラフで、写す角度により像の投影される座標は変わるが、変換する規則が射影
 法則(4.0141)。
・「命題はその意味[すなわち論理空間における論理領域]を示す」(4.022)。
・「命題とは事態の記述にほかならない」(4.023)。
問い4.03 命題は現実しか表さないのか。
・「命題は状況に対する論理像であ」(4.03)り、「像は、論理空間において(略)諸事
 態の成立・不成立を表す」(2.11)。
・「記号が対象の代わりをするという原理に基づ」(4.0312)き、命題において状況を描
 写できる。
 否定に限らず、「論理定項」(P194 訳注35。「ではない」「または」「かつ」といった
 論理空間での領域を扱う語)は対象の代わりをしない。
・「命題は現実の像であることによってのみ、真か偽でありうる」(4.06)。
・論理空間での論理領域が命題の意味である(4.022)から、「命題の意味は、それが事
 実かどうかには依存していない」(4.061)。
問い4.0641 では、否定された命題はなにを表すのか。
・「否定命題は、自らの論理的領域を、否定される命題の論理的領域の外側にあるものと
 記述する」(4.0641)。
 >>35のグラフを用いて考えると、否定命題はx>0,Y>0の■以外の空間を示すといえる。
 このとき、>>22の*の内容を>>35を用いて考えると、否定的事態は「成立していない」
 +「事態(=成立可能なことがら)」(>>11)というのはおかしなことといえる。成立
 していれば事実であり、成立していなければ単なる事態にすぎない。つまり、事態には
 否定的な事態はありえない。となると、論理空間は事態の集合とは違うことになる。
 (後段は『読む』P105要約)

37 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.15 命題→論理へ2 命題を構成するもの(要素命題)
問い4.1 現実・事実が論理空間で示され、事態の不成立が否定命題でなければ、どう捉えられるか?
・「命題は事態の成立・不成立を描写する」(4.1)。
・そして、「命題は現実の論理形式を示す」(4.121)のであって、語りはしない(4.1212)。
問い4.2 >>36の4.022を事態からみるとどういえるのか?
・「命題の意味とは、事態の成立・不成立の可能性と命題との一致・不一致である」(4.2)。
・「要素命題は、一つの事態の成立を主張する」(4.21)。
 要素命題の単純さと対象の単純さ
 A「カオルは少年だ」とB「カオルは子どもだ」のどちらが要素命題か?
 「子ども」は「少年または少女」という複合命題(要素命題+論理定項からなる命題。
  『読む』での造語)だから、Aが要素命題。
 「少年」は「男かつ子ども」という複合命題だから、Bが要素命題。
 どちらももっともと思われ、「日常言語で用いられている概念は「子ども」と「少年」
 のように相互に連関しあっており、それを複雑さの順に整列し、もっとも単純な概念を
 決定することなど、とてもできないことのように思われる」。
 こういったことが、LWに4.002のように言わせているのだろう。(以上『読む』P133)
・要素命題が真→事態が成立     −事実(4.25)
 要素命題が偽→事態が成立していない
・「すべての真な要素命題の列挙によって、世界は完全に記述される」(4.26)。
>>35のグラフで事態を考えてみると、以下のようになる。
    Z  _      論理空間 (X>0,Y>0,Z=0)
   | //| Y    事実   (X>0,Y>0,Z>0)
   | □//     事態   (X>0,Y>0,Z<0)
   |  /_
   | ///
   |/  ̄
−−−+−−−−−−X
  /|   _
 / |  //|
/  |  □/

38 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.16 命題→論理へ3 命題の真偽
問い4.3 すべての要素命題の真偽の可能性を列挙すると、それはなにに対応するのか?
・「要素命題の真理可能性は、事態の成立・不成立の可能性を意味している」(4.3)。
問い4.4 4.022を要素命題からみるとどういえるか?
・「命題は、要素命題の真理可能性との一致・不一致を表現したもの」(4.4)である。
問い4.431 命題の真偽はどのように示されるか?
・「要素命題の真理可能性との一致および不一致の表現が、それぞれその命題の真理条件
  を表している」(4.431)。
 「p,q」(pかつq)の真理条件は「pもqも真」(P197訳注49)。
問い4.442 命題記号は具体的にはどう書かれるか?
・下の命題記号を(真真偽真)(p,q)と書く(4.442)。以下は、(p,q)pならばqの例。
  p q 真理可能性
 ――――――――
 真 真 真
 偽 真 真
 真 偽  
 偽 偽 真
・真理条件の極端な例(4.46)
 1 トートロジー 要素命題のすべての真理可能性に対しその命題が真になる場合。
           真理条件をもたない。
           可能な状況をすべて許容する。
 2 矛盾     要素命題のすべての真理可能性に対しその命題が偽になる場合。
           真となる条件をもたない。
           可能な状況をまったく許容しない。
・対応表5(4.464)
 命題 トートロジー−真 −矛盾
 事態 確実に成立−可能−成立不可能
  トートロジーも矛盾も、現実に対する像ではない。

39 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.17 命題→論理へ3 命題の真偽(続き)
問い4.5 「表現は、それが特徴づける諸命題の一般形式によって表される」(3.312)を、
    要素命題からみるとどういえるか?
・「事実はかくかくである」(4.5)という一般的な命題形式が存在している。
・要素命題の総体から命題は導かれる(4.52)。 
問い 5.6で急に世界、独我論が出てくる。命題番号5の話の展開はどのように理解すればよいか?
>>20で5.542を重要と考え、5.6以降の独我論への橋渡しと僕は理解していましたが、少
 し間違っていたように思います。
 『論考』全体の大きな流れを追ってみると、全体として世界→事実→対象、世界→像→
 思考→命題→論理と1〜4まできていて、5.1要素命題(4.21。数字は索引の最初にで
 てくる命題番号)、5.2操作(4.1273)、5.3真理操作(5.234)・真理関数(3.3441)、
 5.4論理定項(4.0312)、5.5命題(2.0122)、5.6世界(1)をそれぞれ論理から考えて
 みたものではないだろうか。つまり、これまでたどってきた分析の方向を遡ってみてい
 ると考えると、論述の方法としても命題番号の立て方もわかる。
 そして、以下は僕の妄想ですが、1〜5で『純粋理性批判』の綜合的方法と『プロレゴ
 メナ』の分析的方法をしていると考えています。>>6【人物】で『純粋理性批判』を読
 んでいて、6.36111で『プロレゴメナ』の例を用いています。さらに命題番号6以下を
 検討する方法である論理(学)、数学、自然科学、形而上学を順に述べているのは『プ
 ロレゴメナ』そのものです。そして『プロレゴメナ』の題名は前スレ240(まとめwiki
 http://www44.atwiki.jp/tetsugaku/pages/16.htmlでも読めます。)で『学として現れ
 るであろうあらゆる将来の形而上学のための序論』であり、それに対して『論考』を書
 いて哲学の問題が解決したと判断しLWが教師になったのであれば、僕にとっては
 『論考』がすべてうまくまとまります。
 まぁ、素人がこういう見方をしてみたということですが。
 閑話休題。
 明日から命題番号5を上述のようにみていこうと思います。

40 :
>>39
私と同じではないが似たような妄想の持ち主ですねw
「論理哲学論考」は、「純粋理性批判」の理性が言語に置き換わっているような印象を持ちました。
それにしても、スレ主の熱意には感服します。

41 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.18 論理→命題へ1 要素命題
問い5 命題と要素命題の対応・関係はどのようになっているか
・「命題は要素命題の真理関数」(5)であり、「要素命題は命題に入力される真偽項で
 ある」(5.01)。
 「真理関数」は3.3441にもあるが、「命題を否定したり、命題と命題を「かつ」「ま
 たは」「ならば」等で接続したりして作られる複合的な命題ないしその形態を意味する」
 (P191 訳注25)。「真理関数は実質的な関数ではない」(5.44)というように、「真
 理操作」(もしくは「複合命題」>>37問い4.2参照)という方がわかりやすい(『読む』P178)。
問い5.1 要素命題の真理関数とはどのようなものか。
・2個の要素命題の真理関数は次のようになる。(5.101より抜粋。>>38問い4.442参照)
1(真真真真)(p,q) (p⊃p.q⊃q)−トートロジー
2(偽真真真)(p,q) (〜(p.q))
3(真偽真真)(p,q) (q⊃p)
4(真真偽真)(p,q) (p⊃q)−pならばq(>>38問い4.442のケース)
5(真真真偽)(p,q) (p∨q)−pまたはq
6(偽偽真真)(p,q) (〜q)
7(偽真偽真)(p,q) (〜p)
8(偽真真偽)(p,q) (p.〜q:∨:q.〜p)−pかqの一方のみ
9(真偽偽真)(p,q) (p≡q)
10(真偽真偽)(p,q) p
11(真真偽偽)(p,q) q
12(偽偽偽真)(p,q) (〜p.〜qあるいはp|q)−pでもqでもない
13(偽偽真偽)(p,q) (p.〜q)
14(偽真偽偽)(p,q) (q.〜p)
15(真偽偽偽)(p,q) (q.p)
16(偽偽偽偽)(p,q) (p.〜p.q.〜q)−矛盾

42 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.19 論理→命題へ1 要素命題(続き)
・真理根拠(入力される真偽項の真理可能性のうち、その命題を真にする真理可能性)は
 >>41問い5.1の8の場合
         pq  (p.〜q:∨:q.〜p)
――――――――――――――――
真理可能性 真真 偽  
真理可能性 偽真 真  真理根拠
真理可能性 真偽 真  真理根拠
真理可能性 偽偽 偽
 >>41問い5.1の15の場合
         pq  q.p
――――――――――――――――
真理可能性 真真 真  真理根拠 
真理可能性 偽真 偽  
真理可能性 真偽 偽  
真理可能性 偽偽 偽
http://plaza.rakuten.co.jp/oniyannma9/diary/200901210000/を参考に作成しました。)
・「命題「q」の真理根拠のすべてが命題「p」の真理根拠である場合、「p」が真である
 ことは「q」が真であることから帰結する」(5.12)
 →pがqから帰結するとき、qからpを推論できる(5.132)
・要素命題の独立性(5.134)、状況への因果律の適用不可能性(5.135)、時間を越えた
 推論の適用不可能性(5.1361)を述べる。

43 :
>>40
似た妄想をしている人がいてよかったです。ヽ(^。^)ノ
その「理性が言語に置き換わっている」ところのカントとウィトゲンシュタインの異同を
うまく書ければいいのですが、ちょっと時間的に厳しくできそうにありません。
過分な言葉をいただきましたが、僕の熱意というよりも、難しい(と僕は思うのだが)の
に読ませてしまうウィトゲンシュタインと訳者の野矢さんのすごさだと思います。読めば
読むほどに人間や世界についていろいろなことを考えさせてくれます。僕はただ導かれて
いるだけです、というと宗教がかっているといわれそうですが。

44 :
現在も東京では余震が感じられるのですが、2011/3/11午後にあった東北地方太平洋沖地
震をきっかけに、地震などの自然現象を『論考』のLWならばどう考えるか、少し考えてみました。
今読んでいる箇所の先にある、6.36311、6.37、6.371、6.372、6.43のところです。
プレート同士がぶつかった歪みやズレ、軋みなどにより地震が起こるという自然法則が地
震という自然現象の説明として用いられています。
しかし、これをLWは「誤りを犯している」といいます。現代の人々は自然法則によってす
べてが説明ているかのように思う。一方、古代の人々は神と運命によって説明されたと考
え、そこに終端を認めていた。その分、古代の人々のほうが明晰であった。
これを僕なりに読み込んでみると、世界で起こったことがらを命題とし、その真理関数を
すべて示せていることをもって世界のことをわかったとする現代人は、つまるところ世界
の限界まで論理空間を広げたにすぎない。世界の限界は世界ではないのだ。
一方で、古代人は世界で起こることがらを神や運命によるものとしていたが、それは自然
現象の原因の説明としては不十分だが、起こっていることがらを起こしていること(でき
ごとの次のできごとへの論理的必然性として捉えられることでないこと)を神や運命とし
てわかっていた古代人は、世界の輪郭を明晰にわかっていたということではないかな。
ここで、では世界、神、運命は受け入れるだけのもの、逆に言うと人はそれらに決定され
ているだけかというと、意志は言語で表現できるものを変化させられないが、世界を全体
として別の世界へと変化させるものでなければならない(6.43でも7同様"muss"を使って
いる。>>11階層をみて気づいた点1.1参照)としています。
とみてくると、地震を(古代人のように)論理的必然性によってだけではとらえられない
こととして受け止め、受け止めた世界を別の世界へと変化させなければならない、となる
のかな。
どんな別の世界にするか、どうするのかといった、そこから先のことは、
僕自身が考えることなんだろうな、きっと。

45 :
科学も神話も論理空間のひとつ
その論理空間の所有者にとっては、真であり偽である
科学は他者とより精密に論理空間を共有しようとする努力のなかで生み出されてきた方法
これでなにかがわかったとかわからないとかはいえない かなりの精度で共有できる真理関数の設定とその定項(経験的真偽)とその値域(そこからいえる真偽)を提示できた
にすぎない。
ちがいますかね?あらっぽいこと書いちゃいましたが

46 :
>>43
>その「理性が言語に置き換わっている」ところのカントとウィトゲンシュタインの異同を
>うまく書ければいいのですが、ちょっと時間的に厳しくできそうにありません。
私のは、あくまで印象レベルの意見なので
厳密に論じようと思ったら、大変な労力が必要になりますね。

47 :
>>45
連投ですが、「論理空間であることが真」であるかどうかは、検証できないですよね。
「論考」では、それを神に託していると思われる記述があります(3.031)

48 :
>>47
各世界観において、論理操作の前の原理的な原子命題については
その論理空間のなかではアプリオリに真と設定しているのではないの?そのあとの演繹的帰結は論理操作や真理関数の設定の仕方いかんによるということで。
数学だろうが神話だろうが神学だろうが。
そこが科学とのちがい。
またウィトゲンシュタインの論理空間のなかには神に相当するものがあるようだが、私にはない。
その意味でも序文の但し書きの問題が出てくるのではないか?個々人の論理空間がちがい。他者の思想は根本のところでは理解できない。

49 :
25冊ぐらいを同時進行で何年か掛けて読んでいます。

50 :
>>49>>1さんですか?

51 :
>>50
いいえ、49は1ではありません。
これから書きこむ内容をずっと書いていました。
>>45-49へのレスをしたいところですが、本業もあり余裕がなくなってきたので、自分の書
き込みばかりしてしまうことにつきまして御容赦ください。

52 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.20 論理→命題へ2 操作
問い5.2 命題が要素命題の真理関数であるなら、命題はどのように作られるか?
・諸命題の構造は互いに内的関係にあるので、他の諸命題(操作の基底)に操作を施した
 結果、その命題は構成される(5.2,5.21,5.23)。
・系列を順序付ける内的関係(=A→B→Cという系列の論理的必然性)は、その系列に
 ある項を他の項から作り出す操作に等しい(5.231)。
 つまり、必然性はすべて操作に由来するものとして捉えられた(『読む』P280)。
・論理定項は、対象の代わりではなく、操作といえる(5.2341。4.0312参照)。
問い5.25 操作とは関数のことか
・「操作と関数は混同されてはならない」(5.25)。
 関数 その関数自身の入力項にはなりえない。
 操作 操作の結果を再び基底に操作を施せる。(5.251)
 これを>>31の2つめの点、LWの場合の項に沿わせてみると、関数はその関数の定義域に
 関数自身を入れられないということになる。一方で、LWの考える操作は最初の基底を0、
 操作を+1とすると、1回目の操作で結果1がでてくるが、その結果1を2回目の基底
 1とし、2回目の操作で結果2、と以下同様に繰り返すことができる(5.2523)。
・論理のアプリオリ性
 「論理語(=論理定項)は、要素命題を否定したり接続したりして複合命題(=真理関
  数)を作る。つまり、論理語(=論理定項)が表わす操作は要素命題を基底としてい
  る。要素命題はさらに名に分解される。名は対象を指示し、対象は世界の実体を形作
  る。ここで、世界にいかなる対象が存在するのかはア・プリオリに決定されることで
  はない。」(『読む』P179 引用文中()内は引用者による)
 「他方、操作は基底と独立に定まる。(略)どのような要素命題が与えられようとも(略)
  操作の働きは一定のものとして定まっている。すなわち、操作はア・プリオリなので
  ある。この操作のア・プリオリ性が、論理のア・プリオリ性にほかならない」(同P180)。

53 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.21 論理→命題へ3 真理操作・真理関数、論理定項
問い5.3 真理関数(複合命題)は要素命題からどのようにつくられるか。
・「すべての真理関数は、要素命題に対して真理操作を有限回くりかえし適用することに
 よって得られる」(5.32)。
 ここで気になるのは、なぜ「有限回」というかです。僕は、世界の事実は無限にみえる
 ほど多く、人間には数え切れないけれども、成立していることとしては有限であるとい
 う意味で理解しています。
問い5.4 論理定項が要素命題から命題をつくるのではないのか?
・フレーゲとラッセルの言う意味での論理定項は存在しない。
 なぜなら、どのような真理操作を真理関数に施しても、その結果が要素命題の真理関数
 として同じものであれば、それらは同一だからである」(5.41)。
 つまり、4.0312(「「論理定項」はなんらかの対象の代わりをするものではない。」)
 と5.44で述べられていること(「〜〜p」は〜pを否定しているのではない。かりにその
 ように否定しているのであれば、〜pはpとは別の対象・ものとなるから。つまり、「〜」
 は否定されたpという対象を新たに作り出したわけではなく、5.21〜で言う操作である。)
 なのである。

54 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.22 命題→世界へ1 命題
問い5.5 真理関数(=複合命題)はどのように作られるか?
・真理関数は、諸命題の否定(下の括弧内のすべての命題を否定する操作)を要素命題に
 反復適用した結果である。
   (-----真)(ξ,....) (5.5)
 5.32、5.4から論理定項が命題を作り出すのではなく、真理関数は基底となる要素命題
 に操作を反復適用した結果だと言う。
 P204訳注69を読んでから、5.101の(偽偽偽真)(p,q)(>>41の12p|qのケース)を参
 考に考えてみます。
 p,qの組み合わせのうちすべての命題がすべて偽のときにその命題は真となる、つまり
 事態が成立する真理関数である操作する(pq以外にもある多数の要素命題に反復適用す
 る)ことにより諸事態が成立し、諸事実となる。
 つまり、要素命題に操作を繰り返した結果に成立する命題である諸事実は、分解された
 世界である諸事実(1.2)となる。だから、世界は論理によって語りうることになる。
問い5.54 人が思うことは真理関数によって表されるのか?
・5.542の後段(後文)を読み替えると、「命題「p」が表わす事実pと人物という対象の
 対応関係ではなく、命題「p」が表わす事実pと命題「p」という言語に関する事実の対
 応を通して与えられる事実相互の対応関係なのである。」つまり、事実と主体の関係で
 はなく、言語が世界の像になっているという意味論的関係である。このとき、命題pは
 真でしかありえず、Aは世界の中の像ではなく、動作主体であるから、真偽を確定され
 るべき命題ではない。(『読む』P234〜P241)
問い5.55 名、要素命題の具体例にはどのようなものがあるか?
・ア・プリオリに要素命題をあげることはできない(5.5571)。

55 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.23 命題→世界へ2 世界
問い5.6 世界を論理からみるとどう言えるのか?
・「日常言語のすべての命題は(略)論理的に完全に秩序づけられている」(5.5563)
 「事実の論理像は、思考(内容)であ」(3)り、「命題で表され」(3.1)、「命題は論
 理空間の中に」論理領域をもつ(3.4)。以上から、5.6は次のように言える。
 私の論理空間の論理領域の限界が、私の世界の限界を意味する。(5.6改)
・そして描かれる領域は論理空間を満たし論理の限界でもある。描きうる領域を内側から
 見た限界は有限回の論理操作によって描かれるが、限界自体を描くことはできない。
 (論理空間を風船とみると、風船の中にいると風船の内側は見えるが、風船の膜全体を
 みえているのではないのと似ている。)だから、論理空間の外側に立つことはできない。
 (風船の中にいることと同時に外にいることはできない。)>>35に沿って言うならば、
 x=100、y=100があるからといって、世界は1万の点からなると言えない。その領域を
 領域として捉えられるのは、外部(x>0,y>0,z=0以外)の視点からでしかない。
 つまり、思考、論理空間での真なる命題の総体、で世界の限界を語ることは命題によっ
 てできるが、限界を越えたところのことは、命題として語り尽くせないということになる。(5.61)
・誰もが論理空間のうちでしか思考できないのだから、独我論は正しいのだ。(5.62)

56 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.24 命題→世界へ2 世界(続き)
・5.6、5.61のとき(私の)生と(私の)世界は、論理空間に像を落とす世界と(私の)
 生が一つの同じ論理領域にあることになる。(5.621)
・(私の)というが、私とは世界と別にあるといえるのか。論理領域が同じだから「私と
 は私の世界である」(5.63)といえる。
・「思考し表象する主体は存在しない」(5.631)。なぜなら>>31でみたように、定義域
 に値域である私を入れることはできないのだから。
 では、世界に私は存在しないのか。
 いや、いる。主体と言いうるものは、世界の限界とちょうど重なる論理領域である。
 いないのは、思考し表象する主体、>>35でいうならば、x>0,y>0,z=0以外の点からみる
 主体がいない、そうした視点から見られたx>0,y>0,z=0内の主体がいないのである。
・だから、主体と世界の関係は、目と視界の関係のような関係ではない。(5.6331)
・そのため、トートロジーがそうであったように、すべてが成立する、真であるのが、生
 であり、人の経験はア・プリオリではなく、みるものが全て別のようにありえるのだ。(5.634)
・このとき、「自我に対応する実在が残される」(5.64)
・それゆえ、自我について論じるとき、世界の限界を知ることを通じて知ることになり、
 哲学・形而上学の入り口に立つのだ。(5.641)
・『学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のための序論』の続きを6からみて
 いくことにする。

57 :
>>45 >>46 >>47 >>48
論理と倫理、論理空間といった『論考』理解にとっての重要な話だと思いますし、
>>49は本を読まれている方のお話ですので、
僕の書き込みは飛ばしてレスしてください。m( _ _ )m

58 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.25 論理(学)
問い6 世界の内側が論理をとおしてわかるとして、これまで見てきた論理とはそもそも
    どういうものか。
・ 真理関数の一般形式はこうである。 [ p, ξ, N(ξ)] (p、ξに上線)
 これは命題の一般形式である。
 ( p(pに上線) 要素命題の集合、ξ なんらかの命題の集合、N(ξ) それらの命題を
 すべて否定し論理積「かつ」で結ぶという真理操作)これまで(4.5、5.5)見てきたこと
 をまとめたものである(4.5参照)。
問い6.1 (論理学の)命題はカントの言うように綜合判断といえるのか。論理学の命題
     は同語反復にすぎず、新しい事実・事態を生み出さない。
・ある命題がトートロジーであることが論理を示す。
 例 ((pではない)ではない)ならばp。これはトートロジーになる。このとき真理操
    作である、「ではない」、「ならば」によって、トートロジーになる。このとき
    の真理操作は、論理を異にする人とは共有できないものであり、言語の論理的性
    質を示す。しかし、そもそも言語の論理的性質を知らない人がトートロジーであ
    るとは把握できないから、真理操作と論理(的性質)には、名の意味と命題の時
    と同様に循環の構造がある。(『読む』p271)(>>24 問い3.263参照)
・論理は語りえない(『読む』p273)
問い6.1233 ラッセルは還元公理は論理学的真理と考えていたが、論理学において真と考
      えてよいか?
・「還元公理(いかなる属性についても、それと同値な(=まったく同じ項たちにあては
 まる)述語的属性がある」。(『パラドクス』P81)は、論理的真理とはいえない。還
 元公理が妥当しない世界は考えられる(6.1233)

59 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.26 数学、自然科学
問い6.2 カントは数学を総合的判断であるとした(>>246,247『プロレゴメナ』第2節1 P36)。
     LWは分析的判断であるというのか。
・数学とはひとつの論理学的方法にほかならない。
 数学の命題は等式であり、それゆえ擬似命題(5.534、4.243)である。(6.2)
 例 「「7+5=12」という命題は、我々の概念[7+5]においてはまったく考え
    られていなかった新しい概念[12]をこれに付け加える」(『プロレゴメナ』P38)。
   「7+5=12は、操作を7回行い、続けて5回行ったならば、その結果は12回
   の操作の反復に等しい、ということを意味している」(『読む』P276)
問い6.3 論理学ができることはなにか。できないことはなにか?
・「[可能な]すべての法則性の探求」ができ、「論理学の外では、いっさいが偶然であ
 る」(6.3)
>>44参照
問い6.373 世界に対して人はかかわることはできないのか?(カントの第3アンチノミー
      はどうか(>>前スレ324、327、>>347-))
・「世界は私の意志から独立である」(6.373)。
 「意志と世界の間にはそれを保証するいかなる論理的連関も存在」しない。だから「た
 とえ欲したことすべてが起こったとしても(略)、たんなる僥倖に過ぎない」(6.374)
 という。ここだけをみると、自由意志はないとLWが考えているようにみえる。しかし、
 「未来の行為をいま知ることはできない。ここに意志の自由がある」(5.1362)。
 とあり、「善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変えうるのはた
 だ世界の限界であ」る。「意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでな
 ければならない」(6.43)という。
 意志が世界の限界を変えるのは、「この言語(略)の限界が私の世界の限界を意味する」
 (5.62)から、意志により経験することで言語、論理空間の定義域を広げる、という理
 解でよいのだろうか。意志−行動−経験−言語の限界の拡充−世界の限界の変化。
 それだけとは思えない。論理的連関はなくても、世界の限界を変化させることができるのだから。
 では、人は世界にどのようにかかわりうるのか?

60 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.27 形而上学・倫理学、その限界を越えたこと
問い6.4 では、論理的必然性からなる命題は価値からなる倫理について語れないのか?
     語れないならば、論理を越えたものはないのか?
・「すべての命題は等価値である」(6.4)。
 命題は論理的必然性を示し、真と偽でしかないものであるから、どうすべきかといった
 判断に命題をもちいることはできない。
 論理は世界の中でしか有効でなく、論理は価値が世界の中にあるとは言わない。
 では、論理しかないのかというと、そうではない。価値は世界の外にある。
 倫理であり、その担い手である意志である。
問い6.44 世界がどのようにあるかは重要なことではないのか?
・いかにあるかは論理によってとらえられるが、世界がなぜ存在するか、世界があること
 自体が神秘と言えることであり、存在している世界全体を感じることに神秘があるので
 ある。
問い6.5 倫理、神秘といった、世界の外にあるのはなにか?
・「答えが言い表わしえないならば、問いを言い表すこともできない。
 謎は存在しない。
 問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる」(6.5)。
・その問いに答えることはできない。世界は論理によって答えられるもの・語られるもの
 だが、世界の外にあるということは論理空間の外にあることであり、論理によって言葉
 (記号)を通じて語ることはできず、ただ外にあることを示しうるだけである。
 であるから、これまでの問いの出発点である「この世界でわたしはいったいどうすれば
 いいのか」(>>12 出発点)への答えを語ることはできない。これまでの問いはすべて
 この答えを出すために語られてきたが、この時点で語る(答える)ことができなくなった。
・6.521を最初、「問題の消滅」を「その死」によって気づくと読み違えていたのですが、
 ここは6.54と同じ意味で限界線上に到達したら、その先は論理では語りえないことに気
 づき、問いがたてられないと気づくのですね。
・自然科学の命題        −語りうること
 自然科学以外の命題 哲学−語らぬこと(6.53)

61 :
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』No.28
7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
 語りえぬものである哲学については、黙って何もしないというのではなく、生きること
 により世界を示し続けていくことである。
【『論考』問題点】
LW自身は「要素命題の相互独立性の要請」(>>42 5.134)を問題点として後に認めます
(『読む』P145)。野矢さんはその点について、それが誤りである影響はそれほどでもな
い、とみていて(同P148)、根本的に間違えていた点は「「世界にア・プリオリな秩序」
があると考えていた点であり、「身体」、「自然」が決定的に欠けていたとみます。
最後に意志についてまとめてみます。
>>421,>>422,>>506の続きを書いて、ここまでのまとめとします。
【1−神についての考え、2−行動の原則、3−行動するときの根源となるもの で比較】
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
1 神はいる。けれども「神は世界のうちには姿を現しはしない」(6.432)。
2 善き意志も悪しき意志によって世界は別の世界へと変化するのでなければならない(6.43)。
3 意志

62 :
最後に−半年間、月に1冊哲学の本を読んで
読んできた本のいずれもが、人が生きることについてさまざまな角度から書いています。
ソクラテスは、刑死とはなるけれども、それは善く生きようとしたためでした。
デカルトは、よく行うためによく判断しようとし、格律や規則を定め、コギトにたどりつきました。
カントは、理性をみていく中でそのアンチノミー、特に自由意志と神について考察しました。
キルケゴールは、絶望から脱し本来の自己として生きる方法を信仰に求めました。
ニーチェは、ニヒリズムを越えるのに生を肯定する力への意志を見いだしました。
ウィトゲンシュタインは、世界を捉えていく中で論理では語りえないもの、倫理を示しました。
いずれも、その先に生きることについての光明を見いだそうとしてきたように僕には読め
るのです。たとえソクラテスやニーチェのように、結果として僕からみてよい人生の終わ
り方とは思えないとしても。
もちろん研究されている方からみると、「学」としてではなく「人生訓」のように読むこ
とへの意見もあるかとは思いますが、読み、考えてきたことは、困難にあったときに僕を
支えてくれるでしょう。
半年という、何かをしないでいるには長く、何かをするには短い間でしたが、レスを下さっ
た方々、ROMってた方々、ありがとうございました。
おそらくしばらくの間は、本業もあり、きちんと書き込むことは難しいでしょうが、
きっと、いつかどこかで名無しでスレ立てたり、レスしていると思います。
そのときはよろしく。
ではでは〜〜(^ ^)/
                                           (おしまい)

63 :
読み終えてからまだ2週間しかたっていませんが、
思ったより本業が早く片付いたので、スレをたててみました。
初心者が読むべき哲学の本 PART3
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1301315091/
それにあわせてWikiの構成を少し変えました。
トップページhttp://www44.atwiki.jp/tetsugaku/pages/1.html
「哲学の本を読んだスレ」から
このスレのログはたどれるようになっています。

64 :
哲学に関する本を読むTwitterを始めてみました。
Wikiに貼ってみたので、もしほかにもどなたかやってみようかなと思ったら、
http://www44.atwiki.jp/tetsugaku/pages/27.htmlでページ編集して、
追加してください。誰でも編集できるようにしてあります。
内容についての詳述、検討をする2ちゃんねると、
一緒に読んでいる感覚を共有するTwitterと、
共存可能というより相乗効果がえられると考えています。

65 :
>>64
この書き込みはこのスレの趣旨からみて
適切ではなかったように思います。
すみませんでした。

66 :


67 :
test

68 :


69 :
初心者が読むべき哲学の本 PART3
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1301315091/
が1000レス超えたので代わりに数ヶ月まともに使われていない、このスレを使わせてもらいます。

70 :
初心者が読むべき哲学の本を紹介しましょう。
■過去スレ
1 初心者が読むべき哲学の本
  ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1060428575/
2 初心者が読むべき哲学の本 PART2
  ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1146137262
3 初心者が読むべき哲学の本 PART3
  ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1301315091/
■まとめサイトにある過去スレ
1 初心者が読むべき哲学の本
  ttp://mimizun.com/log/2ch/philo/1060428575/
2 初心者が読むべき哲学の本 PART2
  ttp://2chnull.info/r/philo/1146137262/1-1001

71 :
10代で読んでいないと恥ずかしい必読書
プラトン『国家』 アリストテレス『ニコマコス倫理学』 ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』 
ヘーゲル『精神現象学』 デカルト『省察』 パスカル『パンセ』 ライプニッツ『単子論』 
カント『純粋理性批判』 キェルケゴール『死に至る病』 バーク『フランス革命の省察』 
ジェイムズ『宗教的経験の諸相』 ニーチェ『道徳の系譜』 ベーコン『ノヴム・オルガヌム』 
フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 メルロ=ポンティ『知覚の現象学』 
ハイデッガー『存在と時間』 アーレント『精神の生活』 ヨナス『責任という原理』 
サルトル『存在と無』 ベルグソン『時間と自由』 マキャヴァリ『君主論』
ミンコフスキー『生きられる時間』 レヴィナス『全体性と無限』 アウグスティヌス『神の国』
フロイト『快感原則の彼岸』 ヤマグチノボル『ゼロの使い魔』 ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』 
フォーダー『精神のモジュール形式』 ヤスパース『精神病理学総論』 エレンベルガー『無意識の発見』 
ラカン『精神分析の四基本概念』 フーコー『言葉と物』 ソシュール『一般言語学講義』  
ヴェイユ『重力と恩寵』 ディルタイ『精神科学序説』 デーデキント『数について』
ブーバー『我と汝・対話』 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』 ホメーロス 『オデュッセイア』
ミンスキー『心の社会』 ライル『心の概念』 バタイユ『エロティシズム』 アガンベン『ホモ・サケル』 
ラッセル『西洋哲学史』

72 :
んなもん読んでも分かりゃしねーよ

73 :
読むことと内容理解は別物
一回読んで分からないことも
100回読めば分かったりする。

74 :
んだから
そんなもん100回読むくらいなら
漱石とか読んだ方が遙かに感性を刺激するわ

75 :
まずは微分方程式や統計などの応用数学、古典物理学、そして量子力学、
生命科学、経済学、政治学、歴史
この辺の基礎のあとにメタ思考としての哲学

76 :
名前挙げたら分かった気になってるだろ

77 :
哲板で微分方程式まともに勉強してる奴はいねーよ

78 :
>>77
自分がここでは一番だと思い込みたいのですね。わかります。それさえ否定されたらこの世に居場所が本当になくなるんでしょ。わかりますよ。あなたの今の気持ち。

79 :
>>77
お前の哲学せまいなあ

80 :
>>74
そうだね 漱石も100回よめば 更に感性を刺激してくれるだろうね

81 :
>>77
そりゃそうだw

82 :
手っ取り早い方法がある。
放送大学に通って全コースを履修する。
それをやりながら様々な分野の読書をする。

83 :
スレ立てたぞ
初心者が読むべき哲学の本 PART4
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1316446389/

84 :
ていうか俺理系出身だから。。
微分方程式や統計などの応用数学、古典物理学、生命科学の基本・・・
ここまではちゃんと勉強してきたやつにとっては常識なわけ。
哲学やるにも科学の基本の把握は重要じゃないか?
場合によってはユダヤ・キリスト教もかもしれんが。
経済学、政治学、歴史 この辺は教養として脇でやった。

85 :
確かに。
哲学も各学問分野のそれがあると思うから
自分は何を考えていきたいのかを捉える必要もあるね。
何を考えたいのか見極めるためにも
大学教養レベルの大方の科学を知っておくのも悪くない。

86 :
ウィトゲンシュタインを読むときは
力学をイメージしている

87 :
467がいうようにまずは大学教養レベルでいいんだよ
適度な良い本はあるし、まずは一二年くらい集中すればオッケー
苦手な人はまず高校からしっかりやってみても損はない
どの分野もね
科学を知らない人の認識論・存在論・論理学、
経済学や歴史を知らない人の社会思想、ってどうなのよ

88 :
>>84
俺が74だからおまいさんは75じゃないのか
あわてるな理系

89 :
大学教養レベルも全学部網羅しようと思ったら
放送大学の5コース各4年授業を取れるだけとったら最低20年かかる。
これ+永続的な読書で良い。

90 :
>>89
哲学はそれぐらい時間をかけてライフワークとしてやるべきものではないのか
趣味でもな
諸科学の専門家なんて一つの狭い分野で40年以上だぞ?一般の職業人も。

91 :
一つか二つくらい、メインを決めておくのもいいかもね。

92 :
放送大学とかよくわからんが、
般教を100単位くらい取ればいいってことだろ?

93 :
卒業に124単位必要。
5コース合わせて620単位
これで短くて20年
教養学部しかない。
その中で理系コースは一つ。
線形代数とか数学基礎論とかいろんな理系の基礎が学べると思う。

94 :
そういう余裕があればいいが
卒業して会社に勤めてるとな・・・
どうすりゃいいんだろう

95 :
お前ら 哲学と哲学史を一緒にしてないか?

96 :
哲学ってのは反省だぜ?
学の歴史の反省・総括も十分哲学
ヘーゲルしかりフーコーしかり

97 :
>>94
放送大学をもしやりたいなら、一コース最長10年かける方法もあります。
それだと全部で50年になりますけど、
実を言えば最短2年でもオッケーだったはずです。
それと放送大学は10月1日から地デジで視聴可能になりますよ。
視聴は無料です。

98 :
>>96
それは、ドイツ観念論が代等してきた18世紀末からであって、それ以前のそれこそ
哲学の語源となっている、古代ギリシアまで遡ると単なる歴史の総括だけでなく、
学問全てが哲学と言える。つまり、広い意味の哲学で言えばわざわざその手の大学に
入る必要は、必ずしもないって事。趣味でやるなら、なんでも構わないけどね。

99 :
学問全てが哲学
逆にいえばそれはルネサンス以前、科学台頭以前の古い哲学
しかし、ここに戻るべきだとは思う
なんか文献解釈学とか文芸評論みたいになってるから 今は

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