2011年10月1期哲学本居宣長 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼

本居宣長


1 :11/09/07 〜 最終レス :11/09/23
日本の江戸期の思想の哲学的評価に興味があって特に本居宣長について調べ始めたから立ててみた。
需要はなさそうだけど興味持ってる人がいたら喜ばしい。いなくて落ちるならそれはそれでかまわんという感じで。
儒教、道教、仏教、朱子学、陽明学、仁斎学、徂徠学など東洋思想世界の中での位置づけとか、日本古来の神道との関連とか、あるいは西洋哲学と比べても面白いと思っています。人が来るようだったら語り始める。

2 :
            .,Å、
         .r-‐i'''''''''''i''''‐-、
        o| o! .o  i o !o
       |\__|`‐´`‐/|__/|
      |_, ─''''''''''''''''''''''─ ,、 /
      / ( -=ニ=-  -=ニ=-ヽ)ヽ
     (      / ー-' ヽ.   ヾ )
      ゞ (. ::.| ト‐=‐ァ' |.:.ノ.ノ 智弁和歌山は東洋思想世界の根源じゃよ?
      ゝ、、ゝ  .\`二´'/ ノソ
       ゝ、、ゝノ  ,,  ノ ノ
    /\ へ  ゙ヽ ___ノ’_/
    へ、   | ̄\ー フ ̄ |\ー
  / / ̄\ |  >| ̄|Σ |  |
  , ┤    |/|_/ ̄\_| \|
 |  \_/  ヽ
 |   __( ̄  |
 |   __) 〜ノ
 人  __) ノ

3 :
ここは今日食べる(食べた)食事をひたすら列挙するスレです
テンプレ以上

4 :
さぞかしこの時代では重用され人徳の域だっとことは推測に値しない
宣長を語るにはそれなりに準備が必要だな
後々の影響は多大だがあまり知られていないのかな?

5 :
>>1 よ語れ!話はそれからだ
くれぐれも言っておく平田はいらねーから

6 :
どうも、1です。落ちるかなとも思っていたけど、一応反応もあったので人は少なそうだけど語ってみる。自分の浅学が恥ずかしくなるけども。
まずは、いきなり具体的な話に入るよりも、宣長の難解さというか複雑さみたいなものを見てみたい。言わずもがなかもしれないけど一応プロフィール的に。
本居宣長といえば、有名なのは歌論とか物語論とか古道論で特に「もののあはれ」と畢生の著作「古事記伝」はもの凄く有名。
その文献学的な緻密さだけでも既に凄まじいものがあって高い評価を受けているけど、思想の評価については定まりきってないところもある。
結局、多くの人を悩ませるのはその個々の研究がどのように関係して思想を形成していくのかということであって多くの研究者も力を尽くしているところである。
「紫文要領」と「馭戎慨言」をそれぞれ見たら同じ人のものとは思えないほどである。
「馭戎慨言」は特に悪書といわれるのでいきなり問題にすべきではないかもしれないが。
ともかく、歌論及び物語論と古道論との間の関係が最も重要であると思われる。
「もののあはれ」において人倫社会を語る宣長が古道論では神について積極的に語り出す。これがややこしい。
源氏物語は人間中心の物語であって人間社会で充足するようなものである。それに対して古事記では神話が語られ神が主題となってくる。つまり、方や形而下に留まろうとする方面であって方や形而上者に重点を置く方面である。
このことが両立しているところが宣長の思想の難しいところであって面白いところでもある。

7 :
滅多に書き込まないからたまにやると体裁が悪いですね。改行とかに気をつけます。
さて、ゆっくりとあれこれ書こうかと思ったのですがいかんせん眠くなって来たので、先に自分の見解とか問題意識を書いておきます。
第一に、宣長の思想は生命哲学的な面を持ちます。これは宣長に限ったことではなくて仁斎徂徠と反朱子学の系譜としてそういう面がある。哲学者でいえば、ベルクソン、ドゥルーズ、ホワイトヘッド、後期西田などに一脈通じるところがあるでしょう。
しかし、個々の比較はさしたる問題ではなく、重要なのはその根本的な点です。
つまり、物事の生成とかいうことに重きをおいていくところです。広く言えば唯物論的ともいえるかもしれません。個々の事物の内になんらかの原理に統一されることのない独自性を認めていく方法です。
宣長は歌論において「うたふ」ということ「ながむる」という行為において考えることは言語を行為として捉えることです。行為者として生活実感の中にあってこと言語が成り立つということです。
第二の点は、宣長は神について雄弁に語ったということです。形而上者について語った。このことは第一点からすれば奇妙なことです。
つまり、形而上者はあるものをそのものたらしめるところのものであって、それを重視するということはあるいは想定することすら個々の事物の独自性を強調する面とは対立するところがある。
そこで、神の性格は慎重に吟味されなければならないと思います。
第三には、「もののあはれ」についてです。それは日常生活において行為者が出会う原初体験としての性質を有しているように思います。なので宣長の思想の最も根本はここにあると思います。第一点と第二点を繋ぐものではないかとも。
なんか、ぐたぐたになったけど、とりあえずこれで寝ます。時間を見つけてもっと細かく思想史ぐらいから書きたい。

8 :
今うひ山ぶみよんでる。
それによれば、初学者はまず神代正語を読めば良いそうだ。
まさか俺と同じタイミングでのりながってる奴がいるとは

9 :
哲学的観点からの本居宣長ってことか?
この人は形而上では日本特有の見えざるものの価値理想とかの考えかた重視で
五代将軍家からのなんだったか徳川光圀擁護の坊さんを肯定し幕府お守り国学者
大したことはない。
そもそも0を理解していない時点で先見的とはいえない

10 :
>>7
神道についての言及は曖昧だな

11 :
どうも、こんばんわ。まずはレスを返します。
>>8
僕も同じタイミングでのりながっている人がいて嬉しいです。
『うひ山ぶみ』は初学者に向けた著作ですが宣長の学問観が現れたものとして
重要ですね。
 特に、自らの方法を押し付けようとはせず各々が興味関心などにあわせて
好きなようにやればいいと言い切っているところが彼の学問と照らし合わせて印象的です。
『神代正語』については不勉強で全集を持ってないこともあり読んだことがないのですが、
古語への精通を重んじるという姿勢から来たことなのでしょう。

12 :
>>11
お前イライラするなw
7と同じなら なんか違−よw

13 :
なんとか小僧っていう怪奇もののルポをずっと前に読んで面白かったので
また探したんだけどわからなくなってた
あの中の本居宣長はなんか冷静な学者の顔で登場するのでイメージが違ってて新鮮だったのを
覚えている

14 :
前にも言った事だが
随筆みたいな主観的文章を書かれても、意味を理解するのが禿しく面倒だ
きみは、君自身のコミュニケーション障害を改善するために、
まずは文章の書き方を改善しろ
1. 最初に、「概要」を短く簡潔に書き、
2. 「各論」は番号をつけて箇条書きにし、個々の論は、改行2つで段落分けし、
3. 暗黙の前提知識を含む「新しい概念」を導入するときは、直後もしくは注釈で説明を加え
4. 最後に、「結論」を簡潔にまとめる

15 :
>>14
誰のことを言っているのか不明
アンカーぐらいつけろ

16 :
コピペじゃねーの?

17 :
うむうんうむ>>6-7
そう捉えるか おもしろいと思うが

18 :
1です。間をあけてしまいまいたがまた始めようと思います。
とりあえず、長文を打つのにninjaが心配なのでテスト。

19 :
25あれば勝つる。ちなみにiPhoneからなので
改行とか気をつけるけど残念にはなると思う。
ということで、少し明細に宣長論を展開してみようかと思います。
最初はどこから入るかというと『真暦考』から始めます。
理由としては、哲学として読むにあたって西洋哲学と比較したいんだけど
『真暦考』からは時間論を見いだすことが出来るので
時折宣長との類似が指摘されるベルクソン(小林秀雄『本居宣長』など)などの
生命哲学との比較に最適だと思うから。
ベルクソンなどというのはその周辺としてドゥルーズ、ホワイトヘッド、西田幾多郎
とか関連させて述べられるものもざっくりと視野に収めるということです。
一応断っておくとそれらの思想に精通している訳でもないし
大雑把な比較になるから細部の正確さは保証出来ない。
ちなみに、『真暦考』の現代語訳があったのでよかったら。
ttp://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/shinreki.html
僕も本文は手元にないので引用できないのも断っておきます。

20 :
『真暦考』はそもそもは暦についての著作です。
本来の議論の枠組みからいうと、『古事記』『日本書紀』などの年号の問題での批判に答えるものです。
中国流の暦が入ってくる前の古代の人々には「真暦」というものがあって
現代の暦でどうこういうのはおかしいという主張があります。
余計ですが、この背後には宣長の過去の人々の生活や思想をそのまま受け取ろうという姿勢が見えます。
さて、まずは批判されるところの中国流の暦法を検討してみましょう。
その特徴としては、易や陰陽五行説などに基づいてつくられているという点です。
このことも含めて、そもそも暦学ということの背後には
絶対的に正しい暦があるという信念があります。
なるほど、毎年の季節の移り変わりや物事の変化は一定でないように見えるけど
それも気の運動であって陰陽五行に基づく以上法則があるはずだ、となる。
言ってよければ要するに「理」がある。
ならば、困難ではあっても正確な暦というものがつくれるはずである。
こういう信念です。

21 :
( 承前)
このことは、正に絶対時間があるという考えと一致します。
ニュートン力学に代表されカントに影響するところの時間論です。
即ち、一分前の位置と運動の速さが分かれば一分後の位置が分かる。これと同じです。
これは言うまでもなく、ベルクソンの批判するところですし
上に出した諸人物もこの点では一致します。
一先ず、ベルクソンを見ましょう。
ベルクソンにとって時間とは純粋持続です。
それは空間と全く異なったものとしての時間です。
空間が量であるのに対して時間は質であると言われます。
時間とは本来的に無差別のものであって量として測れないものです。
そうでないとしたら、運動とは一体なんなのかという問いに困惑するでしょう。
それを空間化して量として計測可能な時間にしてしまうのが誤りです。
ちなみに、この純粋持続と西田の純粋経験の類似性が
指摘されることも付記しておきます。
他のドゥルーズ、ホワイトヘッド、後期西田などは細かい点は置いて
一先ず、絶対時間の否定ということで一致しつつ
これに批判を加えるところがあるものであるということだけ
言っておいて後に回します。
宣長と彼らは絶対時間に反対するという点で一脈通じることが確認できたかと思います。

22 :
(承前)
本居宣長の話に戻りましょう。
宣長の言う「真暦」とはどのようなものかを見ます。
宣長は「暦」を「来経見(けよみ)」であると言います。来たり過ぎ去ったりするのを見ることです。
立春ということを例に取れば、気温が暖かくなって花が咲き始めるのをみて春の訪れを感じるということが立春です。
また、命日とはあの木の葉が落ちる頃にあの人が死んだと個人をふと偲ぶような日です。
こういったものが本来の「来経見」であると言います。
また、年とか月とか日とかいうことも四季が巡れば一年、
月が一巡すれば一月、日が昇って沈んで一日でその間の関連を認めません。
それらが一致せずに曖昧でもなんら不都合はない。
こうして宣長は歴に「理」を求めようとはしません。
ただ、感じるままに来たり過ぎたりするのを眺めるだけです。

23 :
(承前)
さて、このような点をみると宣長は絶対時間を否定するという方向で
ベルクソンその他と相通じる所が有るけども
どうも異なっている点も明らかになると思います。
ベルクソンについては先に紹介したので話は早い。
ベルクソンの徹底からすると宣長が「花が咲く」のを見てというのが
許せないのではないかと思います。
その認識の為には空間化が必要であって純粋持続としての時間ではないと。
このことは、西田の純粋経験を通して仏教まで考えてみると
分かりやすいかも知れません。
つまり、心真如は言葉で表せないものであって言葉で表すと
心消滅になってしまう。起信論でいえばこんな感じでしょうか。
続いて、ホワイトヘッドについて考えましょう。
ホワイトヘッドは「エポック的時間」といいます。
時間は最小単位である「エポック」からなっており
それは他の時間から切り離されている。
しかし、その最小時間のものは過去を「抱握」しており
過去の物事との関連によって成立してる。
従って「不連続の連続」とも言えるものが時間である。

24 :
(承前)
ホワイトヘッドとベルクソンの関係にも言及しておきましょう。
ホワイトヘッドはベルクソンを意識していたようですが
気に入らなかったのは持続ということをいう為には断裂が必要だからであるという点です。
ただ純粋に持続しているのでは持続しているとは言えない。
そこで断裂の中に持続を組み込んだ。
それが「エポック」であると言ってよいのではないかと思います。
西田の「絶対矛盾的自己同一」とかドゥルーズの「タナトス的時間」とかも
大勢で見れば類似的な発想であると言えるかと思います。
さてそこで、宣長とこれらの違いを考えて見ましょう。
相違点は簡単です。
宣長はそのように複雑なことは一切言っていません。
大掛かりな理論を必要としていないのです。
その差異は何かといえば事象に対する捉え方の差異にあります。
「花が咲く」ということに対する捉え方が違うから
かたや、大著を必要としかたや、言及する必要がない。
今は示唆的な言い方しか出来ませんがそう言っておきます。

25 :11/09/23
以上、『真暦考』に関する小考でした。
『真暦考』を時間論として考えるということは
小林秀雄が示唆していた所でもあることを付け加えておきます。
大まかな考えで要領を得ない所もあるかと思いますが
大目に見てください。
長々と5レスぐらいかけてすいません。
字数制限に怯えて多レスになりましたが
倍ぐらい入りそうですね。
ちなみに、(承前)はなんかそれっぽくてかっこいいのでつけました。
他意はありません。
次回は、今回の最後に残った問題である宣長とその他との
事象の捉え方の違いについて言語の観点から考えようと思います。
歌論や物語論を論じることになるでしょう。
なので事象の捉え方というより言語の捉え方と
言った方が良いかも知れません。
ともかく、次回「本居宣長の言語論」ということで。
また、間が空くかも知れませんがよろしくお願いします。

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