2011年10月1期詩文学ライナー・マリア・リルケ
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ライナー・マリア・リルケ
- 1 :2011/02/23(水)?2BP(0) 〜 最終レス :11/10/08
- 陳腐な言い方ですけど
永遠を共に過ごす人間を選ぶとすれば彼です。
皆さんの心を打った作品はどれですか?
私は特に「スペイン三部作」「オルフォイスへのソネット」
そしてあの何もかもを超越したような墓碑銘にも
少なからず感銘を受けましたし
また形容しようのない共鳴も覚えました。
- 2 :
- 小説を一枚の絵のように構成する。
そんな前衛的な試みを、明治時代に夢想した作家がいた。彼にとっては、
はじめから終わりに向かって読まなければならないという小説のルール自体
が窮屈だったのかもしれない。描き込まれた絵を観賞するように、どこから、どんな風に読み始めても、読者にある種の美しさを与える小説――それが、彼が夢想した理想の小説だ。
慶応3年、江戸牛込の生まれ。長じて東京帝国大学に入学し、英文学を専
攻する。卒業後は中学校の英語教師や英国留学の経験を経て、明治38年に『吾輩は猫である』を発表、小説家として出発
する。文豪、夏目漱石の誕生である。
いまでは千円札の顔となり、日本を代表する作家として名前が通っている漱石だが、デビューした当初は、文壇からはむしろ異端作家とし
て認識されていた。
初期の前衛的、実験的な作風は、当時の文壇の常識では、十全に理解されるも
のではなかったのだ。
とりわけ、小説を一枚の絵ように構成するという構想のもとで書かれた『
草枕』は、漱石自身、それが普通の小説とは受け取られないことを自覚して
いたふしがある。
デビューの翌年に発表されたこの長編の特徴は、話の筋が意図的に排され
ていることだ。主人公、画工の目を通した物語は、なんらかのストーリーを
形作ろうとする寸前で唐突にうち切られてしまう。まるで読者の興味をはぐ
らかすような構成だが、その裏側には、漱石が夢見た理想の小説の姿が秘め
られていることを見逃してはならない。
- 3 :
- よく知らねーけど
SF小説のPKディックの『ユービック』のエピグラフで使われてた
「森へ行こうぜ、あの完全無欠な緑の森に…」云々とか言うやつ
- 4 :
- リルケの一人称は「ぼく」だし、語尾が「〜〜ぜ」ってタイプじゃないわ
- 5 :
- ,! \
,!\ ! \ こういうスレ、マジでもういいから・・・
i \ l \,,..__
,i′ ,\___,,--―l \::゙'冖ーi、、
i :;\::::::::::..l `'‐、、
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- 6 :
- デジタルオーディオプレーヤー出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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第五世代のiPodデジタルオーディオプレーヤー(digital audio player、D
AP)とは、デジタル音楽ファイルを再生可能なオーディオプレイヤーで、特
に携帯が可能なものをさす。
旧来はMP3のみ再生可能、あるいはMP3の再生に対応したプレーヤーとしてMP
3プレーヤーと呼ばれていたが、2011年現在においては一部の低価格帯製品を
除き、複数の音声ファイルフォーマット形式に対応する製品が一般的である(後述)。
なお機能を拡張し動画などマルチメディアに対応した機器はデジタルメディアプレーヤーと呼ばれる。
- 7 :
- 繁華街出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
繁華街(はんかがい)とは、商業地のある地域ないしは商店街の中でも、百貨店や専門店、飲食店などの商業施設が多く立ち並び、人が多く集まる地域のこと。盛り場、都心、ダウンタウン (downtown) とも言う。
ダウンタウン [編集]ダウンタウンは、繁華街よりはビジネスの中
心地的な意味合いが濃く、両者は正確には同義語ではない
- 8 :
- バロウズの技法は滅茶苦茶ーそれは素晴らしいという事だ。重なり、密度の濃くなるイメージ、すなわち文章ーここで重要な登場人物がー存在ー
映像、何の為ー糞まみれのキーボードを叩くようにーバロウズのカットアップはイメージー
- 9 :
- 中里見氏の論の基本は、魯迅小説の「時間」への着目という点にある。「
物語行為の時間」と「物語内容の時間」という、物語における「時間の二系列」の指摘から入った氏は、魯迅文学に一連の「回想形式」の語りの系列を見出していく。
そして「回想形式」の「極限」が語り手の「独白」という作品形式であるとされ、その観点、物語論的視点から、氏が魯迅小説の到達点と
- 10 :
- しかしその境界は非常にあいまいで、何をもって「散文詩」というかは不明瞭であり、厳密な定義は難しい。特徴として比較的短い散文で、詩に見られる論理の飛躍・詩的なレトリックを
用いたものなどを散文詩とみなすことが多い。
だが、例えば川端康成の「掌編小説」を散文詩と呼ぶべきかどうか、という
問題もある。
極めて短い小説と散文詩の区別はほとんど不可能と言える。逆にこの問いは「小説とは何か」という問いにも関わってくるだろう。
散文詩は常に散文と詩の境界にある。韻文であればそれがすぐに優れた「詩」であるか、という問いと共に、
なぜ散文が詩となりうるのか(詩が散文となりうるのか)、あるいは詩と散文のアイデンティティ、それらの
境界線を考える上で、非常に重要なジャンルと言える。
特権的なジャンルとして成立した経緯を持つフランスにおける重要な詩人は、ボードレール、マラルメ、ランボーら、そしてロートレアモンから出発して
シュルレアリストたちの系譜へと連なっていくのである。
- 11 :
- といった、読書歴の中「KAGEROU」。
まず、最初に読み始めて比喩の部分はまぁ普通じゃないのと読み進めると、
「ビリージーンのマイケルジャクソンのような」という比喩が登場。あれ?と思うのが遅かったのか、そのまま坂道を転が
るように悪い方向に。
が言
。何故なら神は、
してくれた。・・・」
死に対する考えを拝読したかった。
話はだいぶそれたが、その後もチャプターは続いていく
が、展開が稚拙きわまりなく、変な冗談は出てくるし、何を考
えているのかわからなかった。それぞれに突っ込んでいったらきりが
なくなる。また、著者の読書経験を感じさせるようなものが数カ所で
てくるが、おなじみの村上春樹ぐらいであきらかな読書量の少なさを
感じさせた。もちろん、読書をしているからといって、いい文章が書
ける訳ではないが、文章という表現手段を選んだのだから、何らかの
読書による原体験に感化されたのであろう。それが全く感じられなかった。
- 12 :
- 梢の隙間を洩れて来る日光が、径のそこここや杉の幹へ、蝋燭(ろうそく)で照らしたような弱い日なたを作っていた。歩いてゆく私の頭の影や肩先の影がそんななかへ現われては消えた。なかには「まさかこれまでが」と思うほど淡いのが草の葉などに染まっていた。
- 13 :
- 亞は僕にとつては毎月の清楚な食卓だつた。
その皿の數ほどの頁、そしてリフアインされたお喋り。その椅子につくことは僕の閑雅なたのしみであり矜りであつた。伊豆へ來てもう一年にもなるが、その間に北川から送つてくれた亞は積つて、
いつも机邊にあつた。そのなかの詩や散文は自づと口に出て來る位僕には親しい。
村の本屋へ新刊の雜誌が來てゐても、此頃は買はずに歸るのが常である。流行文學よりも色づいた柿の葉の一片を持つて歸る方が今の僕にはたのしい。しかし亞は、渡り鳥を待つほども、自分は待つのだ。殊に最近北川と三好が加はつてから。
安西君。僕には亞の詩壇的な回顧は出來ません。
僕はただ、表紙に魚が四匹、甲板におかれてある龕燈の燈が消えてしまつた寂寥をあなたに告げるばかりです。
- 14 :
-
みなおして、私は貧乏に苛まれ、孤独に打ちひしがれる林をなぐさめるものがあったことに気がついた。それは夥しい量
の読書であった。この作品にはたくさんの作家・詩人たちの名前や作品名がでてくる。外国の作家の名だけでも、トル
ストイ・ドストエフスキー・チェーホフ・プーシキン・ゴーゴリ・ゴールキー・ゴンチャロフ・ゲーテ・ボードレール・ハイネ・イプセン・
- 15 :
- おのれ一個に留まらず「憧憬」というコトバが使われているのも興味深い。もう一つ特徴的なのは、自我の問題が、リルケにはいつも付き纏っている点と思われる。いずれにしても、
コトバによせるリルケの深い思索を感じさせるくだりである。表現者にとって、コトバと鏡、これも面白い対比だ。私は、この一文を読んで梶井基次郎の短編「Kの昇天」を思い浮かべた。
- 16 :
- 著作権との関係 [編集]検索エンジンは、その仕様上インターネット上のコンテンツを複製してキャッシュとして保存するようになっている。このような仕様は、
日本では、著作権法上、問題があるため、検索エンジンの仕様を合
法とする海外(米国など)のサーバに置かれている。
しかし、これでは日本のユーザが検索している内容が米国に筒抜けとな
ってしまい、国益上好ましくないと考えられる。そのため遅ればせなが
ら、経済産業省が日本国内でも検索エンジンサービスが行えるように
著作権法の改正や検索エンジンの開発に取り組むと発表した。[3]
- 17 :
- 検索って害虫駆除的な都市計画みたい
- 18 :
- 生前川端は、谷崎潤一郎の「源氏物語」に誤訳の多いことを指摘し、自ら現代語訳をライフワークにと考えていたようだ。
それは、生前の彼の「源氏」に関するメモや、谷崎の著書への朱筆での書き込みからもうかがえる。
だが、それはついに果たされることはなかった。
- 19 :
- やく‐ちゅう【訳注/訳×註】
1 翻訳と注釈。
2 翻訳文をよりよく理解するために翻訳者がつける注釈。→原注
- 20 :
- 臓に悪いことと聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、お酒などのアルコール。
酒は百薬の長ともいいますが、それにも限度があります。
アルコールの分解はとても肝臓に負担をかけるので、肝臓に悪い飲み方をしていては、肝硬変も時間の問題。
お酒は飲んでも1日、2合まで。
ビールであれば、大瓶2本を目安に、うまく付き合っていきましょう。
次にあげられるのは、口から入ってくる化学物質。
医薬品はその代表です。
病気の治療にとって、薬は、欠かせないことも多いのですが、肝臓で分解し、最終的には排泄しなくてはいけません。
また、薬によっては、分解もできず、どんどん肝臓に蓄積されてしまう場合もあり、さらに負担になります。
他にも、合成着色料や、保存料、添加物などは、化学物質なので、肝臓に悪い食品です。
ウイルスなどに汚染されたものは、肝臓病の原因になります。
特にB型、C型肝炎ウイルスは、一度感染すると、治療するのがなかなか大変です。
長期に及ぶと、肝硬変やがんのリスクも高まるので、注意が必要です。
更に忘れてはいけないのがストレス。
ストレスは肝臓だけに限らず、体全体、あらゆる健康に対して、非常に悪いです。
体のすべてに悪影響を及ぼすものといえば、タバコも然り。
喫煙は、ビタミンCを破壊するので、肺だけではなく、肝臓にも悪いのです。
また、肝臓の疲れは、体の疲れとなって、あらわれてきます。
少し疲れたかな、と感じたら、無理をせず、休息をとることが、とても大切です
- 21 :
- 『マルテ』のこうしたエピソードに見られる悲惨な現実について、リルケはそれを凹型に例えている。
鋳型から彫刻作品を創るように、その中からポジティブな像(たとえば青銅の像)を鋳造できれば、ネガから明るいポジの世界が広がるように、言葉の描写の背後から「幸福」や世界を肯定する兆しを感受できるかもしれない、と。
書物を「流れに逆らうように読む」という
- 22 :
- test
- 23 :
- それにしても、なぜリルケがこれほど自虐的なまでにマルテを敗残者の境遇へと追い詰めていったのか、
正直なところわたしは理解できない。しかしこれは理解の問題ではないのだろう。かれ自身それを理解していたとは思われない。それはやはり暗い情念としか言いようのない内的な衝動によるとしかいいようがない。
しかし重要なことは、リルケがこの衝動に自らを賭けた
いうことだ。最初から結果は見えていよう。しかしリルケは見えている結果を確かめたのではない。やはり
そこには見えない何かがあるはずだ。おそらくそこに「生きる」ことの奥義があるのであって、したり顔でなされる人生の教訓が、
本当に生きようとする者にとって何ほどの価値もないのは、そこに理由がある。
- 24 :
- タブレット‐パソコン
《tablet personal computerから》液晶ディスプレーなどの表示部分にタ
ッチパネルを搭載し、ペンや指で操作するパーソナルコンピューターの総
称。小型・軽量で携帯性に優れた機種が多く、ディスプレー部分単体で使用し、処理装置と記憶装置を内蔵するタイプ、ノートパソコンと同様にキ
ーボードを装備するタイプ、ディスプレ
ーとキーボードを分離・装着して使用できるタイプの3種類に分類される
。タブレットPC。
- 25 :
- 梅田のカッパ横丁で『江分利満氏の優雅な生活』を見つけ、今頃読んだ。エブリマン氏は大正十五年生まれで東西電機の社宅に住むサラリーマン。寿屋(サントリー)が東西電機になっているだけで、どう読んでも江分利満氏は作者自身、だろう。
日記なのか、身辺雑記なのか、エッセイなのか、なんだか解らない軽妙な文章で、社宅住まいの人間関係も、慰安旅行だの、酒の
- 26 :
- ああ、たのしい
ああ、うれしい
ああ、…かなしい
こんなことだけを表現して、夭折した小説家がいる。
体が飛び上がるほどのうれしさ
胸が張り裂けそうな苦しさ
不遇で、やるせない気持ち…
小説でポエジーを表現した、芸術家。
“今まさに、生きている”と感じる、胸がドキドキする瞬間をスケッチした、なまめかしい感性のばけもの。
その名も、かじいもとじろー。さんです。
- 27 :
- http://logsoku.com/thread/book3.2ch.net/books/1146073202/
- 28 :
- 日常小説の目的は「日常を維持する事」です。
何か、日常を破壊しかねない問題が起こるので、その問題を解決する、それだけです。
問題の規模が人類の危機とかではなく、ただ日常のどこでもおこりそうな事柄なだけで基本は変わりません。
身近な問題なので、地味でも割と面白いのが特徴です。
(しかし、派手な場面がないので下手な奴が書くと壊滅的に面白くない)
これは当てずっぽうで言うけど
- 29 :
-
ウェブ
エラソーニの庄野潤三評庄野潤三 ―― 『プールサイド小景・静物』 新潮
文庫 (271P \350) ★★★★☆. ドラマチックなストーリーを期待して本を読
む人には、この作家は大はずれだろう。 なんでもない日常を絵画のよう
に美しく描く名人芸の持ち主。巻頭作『舞踏』のラスト シーンは ...
www2.odn.ne.jp/elasoni/shouno.html - キャッシュEDGE WATER 物語
- 30 :
- 長生きしてほしかった。東北帝大あたりで教えてほしかった。
リルケは「俳諧」に興味を持っていたし、ナチスのユダヤ人追放があったから、
もしユダヤ系のリルケがナチ時代まで生きていたらあながち無理な創造ではないか。
もっとも三国同盟があるので、いずれは出国して老いたマルテはニューヨークをさまよったかもしれない。
- 31 :
- 蕪村なんかに興味を示していたとか
読んだ覚えがある
- 32 :
- そういえばエンプソンは英国なら小林秀雄クラスの文藝批評家だけど
日本で教えたこともあるのに日本ではマイナーだな
- 33 :
- test
- 34 :
- てすと
- 35 :
- て
- 36 :
- リ○ケ
- 37 :11/10/08
- 代表的なので何だが「秋」ってのも好き。
リルケの詩集を見つけたら、まずはこれを探して読む。
翻訳の違いも含めて楽しむ。
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