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2011年10月1期心と宗教【お経】仏典の言葉をひたすら書き込むスレ【語録】 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
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【お経】仏典の言葉をひたすら書き込むスレ【語録】


1 :09/07/26 〜 最終レス :11/11/05

相争う哲学的見解を越え、
さとりに至る決定に達し、
道を得ている人は、
「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、
犀の角のようにただ独り歩め。
『スッタニパータ』55

2 :
菩薩たちは、「智慧の完成」に依拠しているがゆえに
心にこだわりが無い
こだわりが無いゆえに、恐怖も無い
間違った認識によって世界を見ることから遠く離れている。
三世の仏たちも「智慧の完成」に依拠したがゆえに
完全なる悟りを得たのだ。
般若心経

3 :
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い奉ること難し
我今見聞し、受持することを得たり、願わくは如来の第一義を解せん
至極の大乗、思議すべからず
見聞触知、皆菩提に近づく
能詮は報身、所詮は法身、色相の文字は、即ち是れ応身なり
無量の功徳、皆この経に集まれリ
是故に自在に冥に薫じ密に益す
有智無智罪を滅し善を生ず
若しは信、若しは謗、共に仏道を成ず
三世の諸仏、甚深の妙典なり
生々世々、値遇し頂戴せん
開経偈

4 :

赤肉団上に一無位の真人有り。
常に汝等諸人の面門より出入す。
未だ証拠せざる者は、看よ看よ
時に、僧有り出でて問う。
如何なるか是れ無位の真人。
師、禅床を下って把住して云く、
道え道え。
其の僧擬議す。
師托開して云く、
無位の真人是れなんの乾屎橛ぞ。
便ち方丈に帰る。
臨済録

5 :
光と命きわみなき
阿弥陀仏を仰がなん
法蔵比丘のいにしえに
世自在王のみもとにて
諸仏浄土の因たずね
人天の善し悪しみそなわし
すぐれし願を建てたまい
まれなる誓いおこします
長き思惟の時へてぞ
この願選び取りませり
かさねてさらに誓うらく
わが名よひろく聞えかし
十二の光放ちては
数多の国を照らします
生きとしいくるものすべて
このみ光のうちにあり
本願成就のそのみ名を
信ずるこころひとつにて
仏の悟りひらくこと
願い成りたるしるしなり
正信偈

6 :
我、超世の願を立つ!(法蔵菩薩・阿弥陀経)

7 :
世尊よ、それでは、この無明を破るには、
繰り返しを越えるには、何を求めるのですか。
何を求めれば、苦楽を越えられるのでしょうか。
帝王よ、楽が生まれると、苦が埋まれる。
欲を求めると、苦楽が分かれ、総じて苦しみ、
欲を越えるとき、苦楽が消えて、総じて楽しむ。
大念処経

8 :
また、シャーリプトラよ。
かの佛国土は、天の音楽をかなで、黄金が地をなしている。
昼夜六時(一日を昼夜に二分、それぞれをまた三分して、六時となる)に、曼陀羅華を雨降らす。
その国の民衆は、常に清々しい朝に、おのおの花を盛る器をつかって、もろもろの妙華を盛り、
他方の十万億の仏を供養し、昼の休息をもって、本国に還到し、ご飯をたべ、
座禅の眠気を覚ますためゆきつもどりつする。
シャーリプトラよ。極楽国土には、このようにすぐれた性質の荘厳を成就する。
仏説阿弥陀経

9 :
何がおかしい。何を喜んでいるのだ。世は燃えているのに。
おまえたちは暗闇に覆われているのに、ともしびを求めようとしない。
作りあげられた幻をよく見ろ。寄せ集めでつくられた、傷だらけの身体だ。
病いと妄想に満ちている。その中に永遠に留まるものなど存在しない。
老いてボロボロになった、この体は、病の巣となり、崩れるものとしてここにある。
腐りゆく体は、朽ち果てる。生命の行き着くところは死である。
法句経

10 :
海中に妙音という名の神がいる。彼は海の生物の若干種の言語を理解し、それらの生物を楽しませる。まして大功徳の菩薩が衆生を利益しないわけがない。「華厳経・記憶をたよりに私訳」

11 :
比丘たちよ、このように知るべきである。
”正知”をもって、感覚、想念、思考、識別作用のある所を、ただしく観察せよ。
過去、未来、現在においても、さきの如くに、”正知”をもって観察せよ。
もしも、わが声聞、聖弟子たちよ、 この五つの構成要素(五蘊)を観察すれば
自己が所有するところも、自己をもってするところも無い、ということを知る。
かくのごとく観察しおわれば、世界を知る。 感受作用も、感受する対象も無くなり、変転することもない。
ただ、みずからこのように識知する、 涅槃に達した。
わが生はすでに尽きた。 清浄なる行は、すでに完成した。
造作する働きはすでに見られ、 後の生存を受けることはない、と
五蘊皆空経

12 :
辞めよう、辞めよう、舎利弗よ。もし、この如来にしか理解出来ない法を説いたら、増上慢の比丘は怪しみ驚き、地獄へ墜ちてしまうであろう「法華経・方便品」

13 :
わたしは、世界全体の父であり、衆生の諸の苦しみや悩みを救う者であります。
しかし、凡夫は心が逆さになっているので、それを救う適切な手段として、
実際には生きているのに死んだことにしているわけなのです。
なぜならば、いつでも仏に遇えるとなれば往々にして、わがままな心が生じて、
気持ちがたるんで五官の欲望に執着してしまい、ついに悪業の道に堕ちてしまうからです。
わたしはいつも、衆生がどれぐらい仏の道を行じているのか、あるいは怠けているのかを知り尽くしていますから、
相手に応じた適切な方法によって、さまざまに法を説き分けるのです。
しかし、わたしが常に念じていることは変わりません。それは、どうやって衆生を仏の道に導き入れて、
一刻も早く仏の悟りを成し遂げさせるのか、ということだけなのです。
妙法蓮華経

14 :
< 俺は良スレ  >
< 発見したぞ!! >
< ジョジョー!!!!!>
 ∨∨∨∨∨∨∨∨
 O_O_OO_
〈`∀´/〉
  ̄T`⊂) 
   \"\ ∧_∧
    \ (´∀`)
  ギラン*|ヽ<∨ゝ`ヽ
     ||| o > |
    ⊂ニ⊃  / /
     |(⌒| ̄" J|
     "T ̄ ̄ ̄"|
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
<韓国面を    >
<  持っている! >
<やめれー!!  >
 ∨∨∨∨∨∨∨∨
どどどどど〜〜〜〜!!
≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡
=)二ニ警]_ニ警]_ニ警]_=
=(;・∀・);・∀・);・∀・)
○<y>○<y>○<y>○
=ノ ̄ヽ、ノ ̄ヽ、ノ ̄ヽ、=
し≡(_)≡(_)≡(_)

15 :
もろもろの世間において何ものか最も富み、
何ものか最も貧しき。
悲母堂にあるこれを名づけて富とし、
悲母あらざるを名けて貧しとす。
悲母あるとき名けて日中とし、
悲母死する時を名けて日没とす。
悲母あるときを名けて月明とし、
悲母亡き時を名けて闇夜とす。
このゆえに汝らつとめて父母に孝養せよ。
かくのごときの人は、
仏を供養する福と等しうして異ることなき福を得べし。
心地観経

16 :

怨むことなき教を仏教となし、
争うことなき教を仏教となし、
誹ことなき教えを仏教とする。
宝蔵経

17 :
人は世間愛欲の中にありて、
独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。
まさに行きて苦楽の地にいたりおもむくべし、
身みづからこれに当たり、
代わるものあることなし。
無量寿経

18 :

さらに、一切の有情は、その本質において、妙なる法を内に蔵する。
なぜならば、すべてのものは、この正しき理を覚える時、自己と他者のために、
誰でもが理解できる言語を活用して、その真理を再現して伝達できる。
これは観自在菩薩のごとくである。
理趣経

19 :
仏典を検索できるサイトは、ないのでしょうか?
見つからん。○| ̄|_

20 :
修業するぞ 修業するぞ 修業するぞ 出来るだけハードな修業するぞ
救済するぞ 救済するぞ 救済するぞ 救済するぞ
麻原彰晃

21 :
「フン!無駄!無駄!無駄!無駄!無駄!無駄!無駄!」ディオ語録

22 :
それ故に、
この世で自らを島とし、
自らを頼りとして、
他人を頼りとせず、
法を島とし、
法をよりどころとして、
他のものをよりどころとせずにあれ。
大パリニッバーナ経

23 :
般若心経
しきふいくう
色不異空
  /⌒ヽ ∩  ∧ ∧
 ( ^ω^)ノ ̄7 ( ゚Д゚)ノ
/ 7V7Z′/ / 7V7Z'
Lノト-イヘ ̄ ⊂Lノト-イヘ ̄
 /、_」ツ^i  ∧ノ∧|ノ∩
.<、_[ニニ] ∩*゚ー゚)ノヾ
∠ノ( ´∀)/Y(y ハノ
 / 7└┘フ ノノ)エニ( ̄
⊂L_ノー-{ ̄ / y )
 ノハ__」 ∠_/L_1
`(_ノL_ノ∠ノ (__)
∠ノ L_)
ものがあっても、感じる心がなければ、ないことと同じであり、

24 :
内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、
このようによく気をつけて行なっている人、
の識別作用が止滅するのである。
【経集・彼岸に至る道の章】

25 :
般若心経
くうふいしき
空不異色
魚イルノカ?   /ヽ
 ∧ ∧  /' ヽ
(´・ω・)/'   ヽ
 ( つ@o     ヽ
 ̄ ̄υυ~|    
〜〜 〜 ~~~゚ ~~ ~~~~
  〜  〜  〜
ないということも、感じる心があれば、そのものは
あるのと同じである。

26 :
まるで…沼
………ざわざわ………

27 :
大いなる哉、心や。
天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。
日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。
大千沙界は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。
それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕むものなり。
天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、
四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。
大なる哉、心や。      
『興禅護国論』 

28 :
「一方で、瞑想を妨げる、五つの条件がある。
大王よ、禅定を妨げる、五つの蓋は何のことか。」
「第一に、貪りに囚われる、貪欲蓋である。
喩えるなら、金を返すために、金を借りると、
返しても、返しても、苦しくなるようなものだ。」
「第二に、瞋りに囚われる、瞋恚蓋である。
喩えるなら、嫌いなものでも、食べなければ、
病になり、好きなものも、食べられないようだ。」
「第三に、眠りに囚われる、昏眠蓋である。
喩えるなら、金を盗んで、牢に捕われた者が、
金が有っても、金を使えないようなものである。」
「第四に、焦りに囚われる、掉悔蓋である。
喩えるなら、奴隷が、自由を求めるあまりに、
ますます、不自由を感じてしまうようなものだ。」
「第五に、疑いに囚われる、愚痴蓋である。
喩えるなら、酔って、不安を忘れようとして、
ますます、覚めて、不安を覚えるようなものだ。」
『沙門果経』

29 :
「私の死んだ後、比丘は、このようにせよ。
他を帰依処とせず、自己を帰依処としなさい。
自我を帰依処とせず、法則を帰依処としなさい。」
「周りを灯明とせずに、自らを灯明とせよ。
自我を灯明とせずに、真理の法を灯明とせよ。
アーナンダよ、そのためには、如何にすべきか。」
「このように、正念して、正智すべきである。
身に対して、正しく念じて、渇望を断じなさい。
受に対して、正しく念じて、渇望を断じなさい。
心に対して、正しく念じて、渇望を断じなさい。
法に対して、正しく念じて、渇望を断じなさい。」
「こうすれば、現在にも、わたしの死後にも、
周りを灯明とせず、自らを灯明に出来るだろう。」
『大般涅槃経』

30 :

法(真理)の施しは、一切の施しに勝つ。
法(真理)の味わいは、一切の味わいに勝つ。
法(真理)の喜びは、一切の喜びに勝つ。
渇愛の滅尽は、一切の苦しみに勝つ。
『法句経』

31 :
菩薩 − そのようにここに自己が寂静に住する者 −
彼は、昔の仏により〔正覚へ〕授記されたものである。
「私は等至〔に入定〕した」とか「〔等至から〕立った」という
〔諦執による〕慢心が無い。なぜかというと、
〔蘊など一切〕法の〔、勝義として空たる〕自性を遍知し〔、心一境に専注し〕ているからである。
そのように行ずるなら、諸々の善の〔説かれた〕智恵を行ずる。
彼は〔諦執による〕行無きことが行であるとよく知っているから、
およそ行ずる法 − それをもまた、〔勝義として〕認得することにならない。
これが、最上の般若波羅蜜を行ずることである。
『宝徳蔵般若経』

32 :
比丘よ、
常に意識を傾注している者として、歩くように。
常に意識を傾注している者として、立つように。
常に意識を傾注している者として、坐すように。
常に意識を傾注している者として、臥すように。
常に意識を傾注している者として、この身体を曲げるように。
常に意識を傾注している者として、この身体を伸ばすように。
上に、横に、後に、地上における赴く所のかぎりにおいて、
諸々の法(もの・こと)と心身を構成する五つの集塊(蘊)の生滅の道理を、
まさしく、 あるがままに観察する者――
このように住する熱情ある者を、寂静の生活者を、心が高ぶらない者を、
心の寂止において適正なる者を、常に気づきある者として学んでいる者を、
そのような類の者である比丘を、賢者たちは「常に自己を精励する者」と言う。
『自説経(ウダーナ)』

33 :
阿難よ、知るがよい。如来のさとりは、はかり知れない尊い智慧をそなえ、
人々を限りなく導くのである。その智慧は実は自在であり、何ものにもさまたげられない。
わずか一度の食事によって限りない寿命をおたもちになり、しかも喜びに満ちあふれ、
お姿も清らかで、輝かしいお顔も気高く、少しもお変わりにならない。
なぜなら如来は禅定と智慧をどこまでもきわめ尽し、すべてを思いのままにする力を
得ておいでになるからである。
阿難よ、わたしはこれから
そなたのために詳しく説くから、よく聞くがよい。
『無量寿経』

34 :
口奄訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶
オン カカカ ビサンマエイソワカ
真言

35 :
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならん
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
『夜叉説半偈』

36 :
心が動くと、真我は、心の作用と同化して、
心が止まると、真我は、心の作用と分離する。
分離をした、本来の真我は、純粋観照者である。
『瑜伽経』

37 :
貪れば貪るほど、自らの欲は適わなくなり、
怒れば怒るほどに、自らの心は怯えてしまう。
酔えば酔うほど、自らの頭は悪くなってしまう。
『宝行王正論』

38 :
「入出息を整えられると、四念処を修める。
四念処を修められると、七覚支を修められる。
七覚支を修められるとき、離解脱を修められる。」
「では、入出息を整えるには、如何するか。
長く吸っていれば、長く吸っていると考えて、
短く吐いているなら、短く吐いていると考える。」
「心が動いているなら、心が動いていると、
喜びを感じていれば、喜びを感じると考えて、
憂いを感じているなら、憂いを感じると考える。」
「心を止めているなら、心を止めていると、
無常を観じていれば、無常を観じると考えて、
離欲を観じているなら、離欲を観じると考える。」
「では、四念処を修めるには、如何するか。
身体を認めるときは、不浄を観じると考えて、
感覚を見とめるときは、皆苦を感じると考える。」
「何を行うときも、何を為しているときも、
意識を認めるときは、無常を観じると考えて、
法則を見とめるときは、非我を感じると考える。」
『入出息念経』

39 :
H

40 :
「     」

41 :
汝の第一の軍隊は欲望であり、
第二の軍隊は嫌悪であり、
第三の軍隊は飢餓であり、
第四の軍隊は妄執といわれる。
汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、
第六の軍隊は恐怖といわれる。
汝の第七の軍隊は疑惑であり、
汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、
誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、
また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
ナムチよ、これは汝の軍勢である。
黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。
勇者はうち勝って楽しみを得る。
『スッタニパータ』

42 :

知慧なき者に、瞑想は存在しない。
瞑想なき者に、知慧は存在しない。
彼において、瞑想と知慧とがあるなら、
まさに、彼は、涅槃の現前にある。
「ダンマパダ」

43 :
そこで、
(1)数、(2)追随、(3)接触(4)、据置“すえおき”、(5)省察、(6)還滅、
(7)完全なる清浄、しかして、(8)それら(還滅することと完全なる清浄)を観ること、という、
これが、意を為すことの手順となる。そこで、
(1)「数」とは、まさしく、〔入息と出息を〕数えることである。
(2)「追随」とは、〔入息と出息に気づきが〕随伴することである。
(3)「接触」とは、〔入息と出息が身体と〕接触した場である。
(4)「据置」とは、〔瞑想の境地に〕専注して止まる〔心の統一〕である。
(5)「省察」とは、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)である。
(6)「還滅」とは、〔煩悩を還滅させる、聖者の〕道である。
(7)「完全なる清浄」とは、〔聖者の〕果である。
(8)「しかして、それらを観ること」とは、注視である。
『清浄道論』

44 :

菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い
仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか
心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ
明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか
『六祖壇経』

45 :
「比丘達よ、もし、独り静かな森に赴いて、
心が挫けてしまむならば、私の心を仰ぎ見よ。
仏の心を仰ぎ見るなら、恐怖が消え去るだろう。」
「比丘達よ、もし、仏を仰ぎ見れないなら、
法を仰ぎ見よ、もし、法を仰ぎ見れないなら、
僧伽を仰ぎ見よ、すぐ、恐怖が消え去るだろう。」
「仏と法と僧を念じるなら、恐れは消える。
汝らが抱くべきは、恐れでなく、畏れである。
三宝は、最高の福田であり、至福の源泉である。」
『帝釈相応』

46 :
我々は、存在として、外に見とめるものを、
認識して、概念として、内に認めるのである。
我々は、存在そのものを、見とめる訳ではない。
そう考えると、世界の実在など考えられなくなる。
世界は、分かれたものが、集められている。
現実というものが、実在している訳ではない。
現実とは、過去による、現在の解釈に過ぎない。
それゆえに、現実が実在するとは、考えられない。
この世界は、現実的である具体的なものが、
確かな法則に従い、連続しているだけである。
たとえ、確かな法則と無関係な状況を作っても、
その結果が、現実に連続することは、絶対にない。
現実は、過去による現在の解釈に過ぎない。
ところが、現実を、実在と錯覚した場合には、
確かな法則に従ってないように、見えてしまう。
しかし、それすら、そう解釈しているだけである。
現実とは、明瞭な真理を覆すものではなく、
更に言えば、曖昧な真理を覆すものでもない。
もし、現実というものが、存在すると考えると、
明瞭と曖昧が融け合さった、現実が消えてしまう。
『中論』

47 :
さらに、このように、考えないとならない。これ以下、
汝とは、主体たる心のことであり、私は真我のことであり、彼は自我のことである。
「汝らは、彼の為に、輪廻に苦しめられた。よって、汝らの苦悩を、全て彼に背負わせて、
彼の安楽を奪い取り、地獄に落とすべきである。」
「ああ、汝らが、利己を追求している間に、無数の劫、無量の時が、過ぎ去ってしまった。
その間、汝らは、膨大な苦悩を得ただけである。」
「故に、私の要請に従い、汝は利他を為せ。仏の法が、決して、汝らを裏切らないように、
私の教えは、決して、汝らを裏切ることはない。」
「彼は楽しいばかりで、他は苦しいばかり、彼は尊く他は卑しい、彼は動かない他が働く。
このように見抜いたら、汝らは彼らに嫉妬せよ。」
「彼を楽から離して、彼に苦しみを与えよ。彼が、いつ何をするか、その欺瞞を観察せよ。
彼らは、自らの楽の為に、汝らの苦を厭わない。」
「他の罪は彼に着せ、彼の罪は仏に報せよ。他の者の名声を称えて、彼の名声を曇らせよ。
卑しい奴隷のように、彼を衆生の為に酷使せよ。」
「彼の為に、他を害した、全ての汝の罪を、他の為に、彼を害して、全て償わせるべきだ。
彼を汝の支配に置け、命に背くなら罰を与えよ。」
「ああ、心よ、私が、このように言っても、汝は、彼を許そうとするだろう、覚えておけ。
汝が彼を罰しない時は、私が汝を罰するだろう。」
「入菩提行論」

48 :
更に、ヴェーダを学ぶ者には、このように説く。
「アドワイタ哲学では、一つの実在を説く。それは、アートマンであり、無自性ではない。」
「実体なき空をして、実在と考えても構わない。」
「真我が実在している、無我などではない。」
「自我が消えて、真我が現われると考えるか、我が無くなると考えるか、その違いに過ぎない。」
「サーンキャ哲学では、二つの実在を説く。プルシャとプラクリティ、一元などではない。」
「実体のない空を、主体と客体に分けても良い。」
「完全に客体を離れると、主体は独存する。」
「客体が消えるときに、主体も消えてしまう。その独存を、主体と呼ばず、空と呼ぶのである。」
「入菩提行論」

49 :
「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、
つまり、真我なるものは、存在するのですか。
それとも、真我なるものは、存在しないですか。」
「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。
無我を観じられないと、真我を感じられない。
これは、確めるべきであり、語るべきではない。」
「布藻k樓経」

50 :
この世界は、我が意識による、幻想であり、この世は、我が物ではない、非我に過ぎない。
このように、仏陀は、非情な真実を説き明かす。
我は存在するとか、我が物が存在するとか、これらの見解は、真理から見れば誤りである。
智慧をして見れば、両者は共に存在していない。
五蘊とは、我意識から生まれたものであり、自我の意識とは、真実から見れば幻想である。
種が幻想なら、どうして、芽が真実になろうか。
五蘊というものは、真実のものではないと、このように考えると、我意識が絶たれていく。
自我意識が絶たれると、五蘊は存在しなくなる。
例えば、鏡の中の者が、実在しないように、自我が映した五蘊も、実際は存在していない。
我に捕らわれなければ、蘊も捉えられなくなる。
例えば、鏡を見ないと、己が見えないよう、五蘊に映さなければ、自我を観ることもない。
蘊に捕らわれなければ、我も捉えられなくなる。
仏陀から、このような、教えの極意を聞き、長老アーナンダは、智慧の眼を得たのである。
そして、自らもまた、他の比丘衆に説いている。
五蘊に囚われるから、我意識に捕らわれる。自我に捕らわれるから、カルマが生じてくる。
そのカルマによって、苦しみの生存が生まれる。
あたかも、火の車輪が、次々に巡るように、業の輪には、始りもなければ、終わりもなく、
交互に因果を為して、我と業と生を巡り続ける。
自他に於ても、過去や現在や未来に於ても、自我が生じないため、自我が滅ぼされていく。
それから、業が滅して、それゆえ、苦が滅する。
「宝行王正論」

51 :
修行するぞと100万遍唱えながら
地獄をのたうち廻ったオウム信者達
邪教にとらわれた魂は、まことに哀れ・・・

52 :
「争闘と争論と悲しみと憂いとものおしみと慢心と傲慢と悪口とは、どこから現れ出てきたのですか?
これらはどこから起こったのですか?どうかそれを教えてください。」
「争闘と争論と悲しみと憂いとものおしみと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起こる。
争闘と争論とはものおしみに伴い、争論が生じたときに、悪口が起こる。」
経集(スッタニパータ)

53 :
対話者が尋ねた。
「世の学者達は、互いにめいめいの見解に固執して、互いに異なった自らの見解を固持して争い、
自らが真理の熟達者であると称し、様々に論争している。
『このように知るならば真理を知っているのだ』『これを非難する人はまだ不完全な人なのだ』と。
また、自ら智者だと自称している彼らは、このように異なった執見に固執して論争している。
そして『論敵は愚者である。真理に達していない人だ』と言う。
これらの人々は全員が『自分こそ真理に達した智者である』と語っている。
いったい、これらの人たちのどの説が真理なのでしょうか?」
世尊は答えた。
「もし、他者の見解を承認しない人が愚者で低級な者であり、智慧の劣った者であるなら、
これらの人々全員が各自の見解に固執しているのだから、彼らすべてが智慧の劣った愚者である
ということになる。
なぜなら、彼らの見解は、自分以外をすべて愚者としているからである。
また、もしも、自らの見解によって、清らかとなり、真理に達した人となり、
智者となり、聡明な人となるならば、彼らの中に智慧の劣る愚者は誰もいないことになる。
なぜなら、彼らの見解は、自分自身にとってだけは完全であるということになるからである。
諸々の愚者たちは、互いに他人と敵対して、『これこそ真実である』と言うのだが、
私は、断定的で限定された言い方で『これこそ真実である』とは説かない。
彼らは互いに自分の見解だけを真実であるとみなしているのである。
それ故に、彼らは敵対する他人を愚者だと決めつけるのである。」

54 :
対話者が尋ねた。
「ある人々が、『これは真理である。真実である。』という見解を、
他の人々は『虚妄である。虚偽である』と言っています。
このように、迷える彼らは自分の見解を固持して他人と論争している。
なぜ、彼らは同一の見解を語らないのでしょうか?」
世尊は答えた。
「それについては、知覚する者が知覚しつつ論争するならば、
まさに、真理は一つであり、第二のものは存在しない。真理を知った人は、争うことがない。
しかし、知覚していない、迷える彼らは、諸々の真理を自ら自分勝手に
『これこそ真理である』として騒ぎたてているのである。
それ故に、迷える彼らは同一の見解を語らないのである。」

55 :
対話者が尋ねた。
「『自分こそ真理に達した智者である』と自称している論争者たちは、
いったい何故に種々の異なった真理を説くのでしょうか?
いったいそれらの真理とは、種々に多くあるものなのでしょうか?
あるいは、彼らが自分の考えを自分勝手に『これこそ真理である』と
思い込んでいるだけなのでしょうか?」
世尊は答えた。
「世の中に多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。
ただ、それらが『永久のものである』という虚妄、つまり妄信された想い以外の
何ものでもなく、思い込みの産物でしかない。
そして、彼らは諸々の偏見に基づいて、自己の考えを自分勝手に想い描いて、
『自分の説こそ真理である。他の説は虚偽である』と、二つの見解を説いているのである。
つまり、自説を真理であるとすることで、他説との対立を引き起こし、
他説を虚偽とすることで、自ら真理を分断しているのである。
他者を軽蔑して見る者は、諸々の見たことや、聞いたことや、思ったことなどの
偏見や思想や学問に依存し、あるいは、諸々の戒律や掟などの宗教的行為に依存して、
他者を軽蔑し、自己顕示するための自らの断定的結論に立脚して
『他者は無能で愚者である。智者ではない』と言うのである。
彼は他者を『愚者である』と決めつけることによって、『自己が真理に達した智者である』と言う。
自己によって自らを『真理に達した智者である』と独善的に説いている彼は、一方的に他者を軽蔑する。
彼は誤った見解によって、高慢で驕慢して狂い、自らを『完全である』とみなす。
まさしく、彼は自らの手で、自らを、心の中で王位に就けて賢者と自認している。
なぜなら、彼の見解は、彼にとってだけは完全なものだからである。

56 :
もし、他人の独善的見解による言葉で『愚者だ』だと呼ばれ、劣る者となるならば、
そう呼んだ他人自信も、呼ばれた人の独善的見解によって愚者となり、共に智慧の劣る愚者となる。
また、もし、自分勝手に自らを真理に達した智者とし、賢者を自称しているのであれば、
彼らのすべてが智者となり、彼らのうちには愚者は一人も存在しないことになる。
『自説以外の他の見解を説いている人々は、清浄さに背いており、真理に達した
完全な者ではない』と、このように、異教の人々は、それぞれ個々の自説を説く。
まさに、彼らは、自らの見解に耽溺して、貪りという汚れの思いに染まっている者たちである。
彼らは、『自説だけが清らかである』と説く。他の諸々の見解には清浄がないと言う。
また、このように、それぞれ個々の思いに固着した異教の人々は、
自らの道に執著して、断固として自らの正しさを説くのである。
また、断固として自らの正しさを説いている者が、どうして他者を『愚者である』
と決めつけることができようか。どうせ自分の中だけで正しいのである。
彼は自ら、他者との間に確執をもたらすであろう。
他人や他人の説を『愚者である』『不浄の見解である』と、説きながら。
一方的な断定的結論に立って、自ら独善的に思い量り、さらに彼は、
世の中で無益な論争を為すに至る。しかし、一切の断定的結論を捨てたならば、
人は世の中で、一切に対して確執を起こすことがない。」
スッタニパータ-小篇より編訳

57 :
あるとき、懐奘が道元禅師に問いかけた。
「禅林における修行生活の特色とは何ですか」と。
道元禅師が答えて言うには
「ひたすら座禅を組むことである。どんな場所でもひたすら座禅をする。
人と交わって話もせず、耳の聞こえない者や
ものを言うことのできない者のようにして、
常に独りで座ることを好むのだ」と。
正法眼蔵随聞記

58 :
他人の過失を見るなかれ ただ自分のしたことしなかったことだけを見よ
(ダンマパダ50)

59 :
他人が自分をののしったとうらむのはやめよう。(ダンマパダ3)
私たちはみんな死します(ダンマパダ6)
善を急げ。善を成すのにのろくさしてっと悪事ばかりだ (ダンマパダ118)
賢い人は勤勉努力で怠惰を退けます(ダンマパダ28)
馬鹿は悪事を働いて苦しむ(ダンマパダ66)
後悔しないようなことはすべて善事です(ダンマパダ68)
バカは不幸になるようなことばかり考える(ダンマパダ73)

60 :
誰もいないってサイコーだよね(ダンマパダ99)
慎んでいる人は無敵(ダンマパダ104)
年寄りを敬えば美しく賢く楽しく長生きできる(ダンマパダ109)
楽しく生きたいなら悪いことすんな(ダンマパダ123)
死にたくない(ダンマパダ129)
馬鹿には悪いことが何かわからない(ダンマパダ136)
繰り返し作って壊れるのは面倒だからやめた(ダンマパダ153,154)

61 :
バカは救いようがない (ダンマパダ162)
だいたいやるのが難しいことは善行です だからバカは悪事しかできない(ダンマパダ163)
求道者いがい全員犯罪者だ (ダンマパダ176)
掃除大好き(ダンマパダ187)
浮浪者は楽しいぜ?(ダンマパダ200)
Rを慎め(ダンマパダ231)
恥を知って慎め(ダンマパダ245)
自分のあらを探せ(ダンマパダ252)

62 :
年食ったただの老いぼれになるのは嫌だよねぇ(ダンマパダ260)
よく考えよう(ダンマパダ269)
俺が一番偉い(ダンマパダ273)
結局ただの現象よ200年もたちゃ今あるものも全部ねーよ(ダンマパダ277-279)
でっかく楽しもうぜ?(ダンマパダ290)
やるべきことをやらないのはつまらん(ダンマパダ292)
慎まないということは悪事を働いているということだよ(ダンマパダ307)
若いときむなしかった人はどうしようもないね(ダンマパダ315)

63 :
世のなか バカばっかり (ダンマパダ320)
食べ過ぎる奴はバカ。デブになる(ダンマパダ325)
がんばってる俺ってチョーかっこよくね?(ダンマパダ327)
バカは嫌いだ(ダンマパダ330)
なんでMのやつばっかなんだろ?(ダンマパダ344)
目閉じて耳栓して口にガムテープ張っとけ(ダンマパダ360)
自分で自分をほめたい(ダンマパダ379)
がりがり君じゃなきゃ求道者じゃないね(ダンマパダ395)

64 :
かしこい立派な人はえらくなる (ダンマパダ24)
バカは遊んでばっかり(ダンマパダ26)
賢い人は勤勉だから憂いがなくて馬鹿が下らんことで悩んでるのを見下す(ダンマパダ28)
だらしないのっていけないことなんだyo (ダンマパダ30)
賢い人だけが東大行くよね馬鹿には無理だね(ダンマパダ31)
だらしないのを嫌うようになったら賢者の仲間入りだ(ダンマパダ32)
自分自身こそが敵だよ(ダンマパダ42)
でも自分自身こそが最高の味方でもあるさ(ダンマパダ43)

65 :
うちのおとうちゃん…暗いうちから遅うまで、毎日靴をトントーン叩いてはる。あんな一生懸命、働いてはるのに、なんでうちの家、いつも〜お金がないんやろ…みんな貧乏のせいや!お母ちゃんちっとも悪うない

66 :
チューリップのアップリケ、ついたスカート持ってきて…おとうちゃんもとーきどき、買うてくれはるけど…うち、やーっぱりお母ちゃんに買うて欲しい…うち、やーっぱりお母ちゃんに買うて欲しい「岡林信康・チューリップのアップリケ」

67 :
ダンマパダ 290
少量の安楽を喜捨することで
広大な安楽を見るならば
広大な安楽を求める賢者は
少量の安楽を献上しよう
やはり仏教もおもろい

68 :
八月になるたびに広島の名の下に平和を、唱えるこの国、アジアに何を償ってき〜た!俺たちが組み立てた車がアジアの、どこかの街角で焼かれるニュースを観た〜満されぬ思い〜この空回りの怒り〜八月の明は〜ひどく悲し〜すぎる

69 :
ノーウィナ〜…ノールーザー、ゴール無き戦いに〜疲れて、あきらめて、やがて痛みも麻痺して〜マッドラーブ、デザイアー、狂気が発火する、暑さのせいさ〜あつさの〜せいさ「浜田省吾・八月の歌」

70 :
考えるな感じろ やりとげるってすばらしい (ダンマパダ423)
好きだといってくれる女じゃなきゃ抱かないよ (ダンマパダ409)
ま、なんもいらんけどね(ダンマパダ410)
自分の給料を安月給というな(ダンマパダ365)
欲出していいことなんかない(ダンマパダ359)
できるだけ禁止されて生きたほうがいい (ダンマパダ334)
わがままやめてストイックになりました(ダンマパダ326)
油断良くない (ダンマパダ271)
なんかもうどーでもいいや(ダンマパダ255)

71 :
ぼーくには(ウーウー)もう、よくわからないよ(ふ〜かす・ぎ・て)悲しみ深す〜ぎて…でも、どーして〜、いいのかわからない僕さ〜「浜田・悲しみ深すぎて」

72 :
これは愛なの?と俺に…たずねるのはやめてくれ〜身体と心を〜重ね合うわけは、ただ〜ウォ〜。ロンリー、夜が明けたら〜ふたりは別々の〜ロンリー!独りはひとり、出会った頃も、そしてー今でも〜「浜田・ロンリー愛という名の約束事」

73 :
女なんてろくでなしだバイだ (ダンマパダ242)
この上なく立派な俺様でさえ何かしら文句言われるんだぜ (ダンマパダ228)
バカと一緒にいるとつらい (ダンマパダ207)
説教してると楽しいわ (ダンマパダ194)
生きてるだけで丸儲け (ダンマパダ182)
俺最強 (ダンマパダ179)
世の中理屈どおりにしかならない (ダンマパダ169)
他人なんかどうでもいい (ダンマパダ169)

74 :
思い〜出す、病室で〜痩せてゆく〜父のすがたを〜(チャッチャッチャチャ!)痛みから〜解かれて〜去っていった〜ひとりきり〜車の窓に写ってる〜俺の顔彼に、に・て・る、ファーザズソン、答を探さないで、なにも意味〜など無い〜「浜田・ファーザズ・サン」

75 :
子供の頃、素直で〜すべてのルール守ってきた〜社会にでて真面目に!不平も言わず働いてきた〜みんなこう言ってた〜「いい人」だと〜会社も「君は優秀だ」と〜だけど心も〜身体も〜病んだときには〜切り捨てられた〜

76 :
ひーとり、一人きり、誰だって、死ぬ時はひとり〜ひーとり、一人きり!大丈夫、やってゆけるさ〜イェー、

77 :
いーじーかーむ、いーじーごー、ボントゥヴィmonkeyゴリラでもウータンでも駄目ならpン〜彼女を棄てた〜俺の罪〜お猿なら知らねえ、これこそレット・イット・ビ〜。お猿なら悲しくても涙はいらねえ〜

78 :
おいら〜の自慢のエレキ〜猿山に響け、トレモロ〜アーム「筋少・俺の罪」

79 :
「諸々の法もの・ことは、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、
知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する
これは、清浄への道である。
ダンマパダ279

80 :
180
正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は
世間から離れた静けさを楽しむ。
神々でさえもかれを羨む。

81 :
ダンマパダ 293
常に身体の動きに
気づくことに努力して
為すべからざることは為さず
為すべきことは為し
寂静であり正しく知る人々には
諸々の煩悩がなくなる

82 :
比丘たちよ、わたしはまだ正覚を成じなかった時、かように考えた。まことに、この世は
苦の中にある。生まれ、老い、衰え、死し、また生まれ、しかも、この苦を出離すること
を知らず、この老死を出離することを知らない…。
比丘たちよ、その時、わたしは、かように考えた。何があるがゆえに、老死があるのであ
ろうか、何に縁って老死があるのであろうか。
比丘たちよ、その時、わたしは正しい思惟と知恵とをもって、かような悟りを得た。
生があるが故に、老死がある。
生に縁りて、老死がある。
比丘たちよ、その時、わたしはまた、かように考えた。
何があるが故に、生があるのであろうか。
何に縁って生があるのであろうか。
比丘たちよ、その時わたしは、正しい思惟と知恵をもって、かような解釈をなした。
有があるが故に、生がある。
有に縁って、生がある。
比丘たちよ、かようにして、無明に縁って行があり、行に縁って識があり、識に縁って名
色があり、名色に縁って六処があり、六処に縁って触があり、触に縁って受があり、受に
縁って愛があり、愛に縁って取があり、取に縁って有があり、有に縁って生があり、生に
縁って老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。
これが、すべての苦しい人間存在の縁ってなるところである。
比丘たちよ、これが、縁ってなるところである、と未だ聞いたこともない真理において、
わたしは、眼生じ、さとりを得ることができた。
比丘たちよ、その時、わたしは、またかように考えた。
何がなければ、老死がないであろうか、何を滅すれば老死を滅することができるであろうか。
比丘たちよ、その時、わたしは正しい思惟と知恵とをもって、かような解釈をした。
生がなければ、老死はない。
生を滅することによって、老死を滅することを得る。
サンユッタ・ニカーヤ

83 :
「一切衆生に、ことごとく仏性あり」
(大般涅槃経)

84 :
秋のハスを手で切る取るように
自分の愛着を切り取れ
寂静への道のみを育成せよ
涅槃は仏陀の説かれたものだ(ダンマパダ285)

85 :
仏の衆生を見る眼は、あたかもラーフラのごとし(極愛一子)「大般涅槃経より」

86 :
アジャセ(ダイバダッタにそそのかされ、父王をした五逆の王)を救うまで、わたしは涅槃に入らないであろう…アジャセとは無明の衆生一般を意味する。したがって涅槃しないにもかかわらず、あえて「涅槃する」と仮に言うのだ

87 :
わたしが涅槃した後、わたしは何処にいると思う人々が現われるであろう。しかし、わたしは常住であり、あなたがたのすぐそばにいる。

88 :
森を切り倒せ、木ではない
森(欲)から恐怖が生まれる
森も みも切り倒し
比丘たちよ、欲のない(涅槃)者であれ(ダンマパダ 283)

89 :
我願わくは佛となり 徳この法王にひとしくて
迷える生死の海を渡しては 悟りの岸に著かしめん
施しおきてつつしみや 忍び精進に定と智慧
菩薩の行を三昧に 世にすぐれたる佛たらん
我誓うらく悟り得て ひろくこの願はたしなば
一切の恐れ悩める諸人の 憩いの家とならんかな
『大無量壽經』

90 :
「心とは大乗の教えで、最高の深い意味を持つ語である。
心の動きの特徴は、完全無欠な佛の秘密の中で最高のものであり、
世俗の思考では、とうてい知りえられない。
そのすべてを、余は汝に語って聴かせよう。一心不乱に耳を傾けて聴くがよい。
百六十をこえる世俗的な心を超越するとき、求める心が生ずるであろう。
その心は虚空のように無量であり、汚染されず、永遠に不変であり、
いかなるものによっても動かされず、本来煩悩を離れており、なんの限定も受けない。
限りない智慧によって完成され、完全に「さとり」に到達した師(佛)に供養し、
修行によって完成されるのであるから、「さとり」のために、
まず第一に、その心を起こそうとせよ。
「大日経」

91 :
他人の罪を見て
常に不満の思いある人は
その煩悩は増大し
彼は涅槃から離れて行く(ダンマバダ253)

92 :
南無阿弥陀仏と一度正直に帰命せし一念の後は、
我も我にあらず。
故に心も阿弥陀仏の御心、身の振舞も阿弥陀仏の御振舞、
言葉も阿弥陀仏の御言なれば、
生たる命も阿弥陀仏の御命なり。
『一遍上人語録』

93 :
善男子、我この閻浮提において或いは戒律を犯すを示現し、一闡提となる事を示現し、和合僧破壊を示現し、魔王となる事を示現し、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四趣に生まれる事を示現し、女の舎に入る事を示現し、諸々の酒舎、博奕の処に入るを示現し

94 :
大長者となる事を示現し、諸王、大臣、王子、宰相となる事を示現する。これ皆如来の善巧方便なり。疫病の劫来たれば、まず医薬を施し、饑餓の劫至れば、その用いるところに随うて飲食を施し、そうして後に微妙の正法を説きて衆生をして無上菩提に安住せしむる(大般涅槃経)

95 :
賢い人は次々に
少しずつ刹那刹那に
銀の細工師が錆びを取るように
自分の心の垢を取り除く(ダンマパダ 239)

96 :

三界は虚妄にしてただ一心の作るところ
『華厳経』

97 :
回光返照
外の諸法を照らす自己の光明を、
廻らし返して、内の自己を照らすを云うなり。
蘭渓道隆大覚禅師

98 :
雑念は、心が外に流されている状態である。
専念とは、心が内に止まっている状態である。
三昧転変は、雑念から専念に変わることである。
「ヨーガ・スートラ」

99 :
経行(歩行瞑想)している覚者ブッダの後に付き従って経行した。
法(教え)が示されているとき、わたしに、知恵が生起した。
テーラガーター

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