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2011年10月1期心と宗教【誘導スレ】 創価学会@心と宗教板「その11」
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【誘導スレ】 創価学会@心と宗教板「その11」
- 1 :10/05/01 〜 最終レス :12/01/06
- ☆★当スレの目的は創価板初心者を適切なスレに誘導する事です。☆★
創価学会の話題や議論などは、創価・公明板へどうぞ。コピペ荒らしはだめぽ
http://society6.2ch.net/koumei/
※創価学会について質問があれば、以下のスレがお勧めです。
★創価学会・初心者質問スレ Part41★
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1266973065/l50
※創価学会を脱会したい方は、以下のスレ。
脱会届を作成し、『内容証明郵便』+『配達証明』で送る方法を紹介しています
●○私、創価学会 脱会しました。○●「Part32」
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1266397125/l50
※創価学会に入会したい方は、以下のスレ
創価学会に入会したいのですが・・・
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1233657625/l50
※親や恋人が学会員という方は、以下のスレ。
【恋人】創価学会員だったら?【夫婦】30
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1269205225/l50
前スレは
【誘導スレ】 創価学会@心と宗教板「その10」
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1264766777/l50
- 2 :
- ついでに2ゲットw
- 3 :
- 創価学会の質問などは、創価板でお願いします。
- 4 :
- <わが友に贈る>
「法華経は
師子王の如し」
大確信で祈り 語れ!
心と心を結べ!
信心に勝るものなし。
- 5 :
- <“名字の言”より>
何ごとにおいても、初志を貫徹することは決して容易ではない。
特に、いよいよ事を成就しようという段になると、それを妨げようとする、さまざまな困難が起こるものだ。
その時に“勇気の一歩”を踏み出せるかどうか。これが勝負の分かれ目となるのは、仕事でも広布の活動でも同じ道理だ。
「賢者はよろこび愚者は退く」(御書1091ページ)。
平穏な日々の連続からは、生命の歓喜は、わき起こらない。
今こそ自身の心のカベに挑戦し、堂々と乗り越えていく「人生の賢者」への飛躍を期したい。
- 6 :
- <寸鉄>
・米連邦議会の顕彰がSGI会長夫妻に。
「平和と理解促進への貢献を讃えて」議員
・SGI会長は人間に内在する可能性を目覚めさせる人 --- インド博士。
人間革命の大師匠
・「どんな時も強くいけ!勇気!勇気だ!」恩師。
堂々と正義を師子吼せよ
・五月の空に創価の調べ!
鼓笛隊・音楽隊が各地で熱演。
凱歌の行進に喝采
・民衆同士の交流は友好構築の最大の礎(いしずえ) --- 中国教授
世界が学会の運動に期待
- 7 :
- <“新・人間革命”より>
「その戸田先生の心を、わが心として、先生に代わって戦おうではないですか!
そうすることによって、私たちは、広宣流布の闘将である先生に直結していくことができる。そこに力がわくんです。
先生を思えば、勇気がわきます。自分が鼓舞されます。
どうか、常に戸田先生を心に思い描いて、“先生なら、どうされるか”と、日々、己心の師匠と対話しながら、戦っていこうではありませんか!」
広宣流布の戦いを進めるうえで、仏法の師と心を合わせていくことこそが、団結の根本である。そこに勝利への前進がある。
- 8 :
- 創価学会の質問などは、創価板でお願いします。
テンプレも見てね。
- 9 :
- 法華経方便品全体の流れを見ると、開三顕一が主題になっているが、その前提として「方便」の思想があることが分かる。
実は、迹門の開三顕一だけでなく、本門寿量品の開近顕遠(かいごんけんのん)の説法においても「方便」はキーワードになります。
つまり、始成正覚(しじょうしょうがく)が方便で、久遠実成(くおんじつじょう)が真実であると明かされていく。
- 10 :
- 方便品に「種種因縁。種種譬喩」(法華経153ページ)とあるが、仏は相手に応じ、さまざまな因縁や譬喩を使って、正しい軌道に導こうとする。
この仏の力を「方便力」と言います。これは、その人のために、今、何を教えたらよいのかを知る力です。
言い換えれば、人々の生命状態を洞察する力であり、適切な教えを選ひとる智慧の力です。また、いかなる衆生でも成仏へと育んでいこうという慈悲の力です。
その根源には甚深無量の仏智があるのです。
- 11 :
- 天台は根源の智慧そのものを「実智(じっち)」、そこから生まれる方便力を「権智(ごんち)」と呼んでいます。
その権実の二智を、釈尊自ら賛嘆しているのが、方便品の冒頭の部分です。
- 12 :
- 方便とは何か ---。
天台は『法華文句』で、方便を@法用(ほうゆう)方便A能通方便B秘妙方便の三種類に分け、秘妙方便こそ「方便品」の方便であると言っています。
「法用方便」とは、衆生の機根に合わせて種々の法を説き、その法の働き(用)で、人々に応じた利益(りやく)を与える教えです。
「能通方便」とは、真実に入る門となる教えを言います。通り過ぎる門なので能通(能く通る=通ることができる)といいます。
これからはいずれも「方便品の方便」ではなく、「爾前権経(にぜんごんきょう)の方便」の二つの側面です。
法用方便は当面の利益を与える面、能通方便は真実へ導く面と言えます。
- 13 :
- 自分のオツム使って考えろ、ボケ。
他人に支配さるんじゃねーぞ。
- 14 :
- 方便品で「正直に方便を捨て」と言われている方便が、法用・能通の二つの方便です。
これに対して、「秘妙方便」は、まったく違う。捨てるべき方便ではなく、そのまま「真実」である「方便」なのです。
仏の智慧は甚深無量です。言語に絶し、説くことのできない究極の法である。方便品のは「止みなん止みなん須く説くべからず 我が法は妙にして思い難し」(法華経163ページ)とある。
そうした、言葉にもならず、考えることもできない真実を、言葉で説いたり、何らかのかたちで表現するとすれば、これはもう方便としかいいようがない。
説くことのできない真実を、慈悲ゆえに、あえて説いた。それが秘妙方便であり、仏の智慧と一体の方便なのです。
- 15 :
- 若(も)し爾(しか)らずんば五体を地に投げ徧身(へんしん)に汗を流せ、若し爾らずんば珍宝(う)を以(もっ)て仏前に積め若し爾らずんば奴婢(ぬび)と為(な)って持者(じしゃ)に奉(つか)えよ (顕立正意抄 537ページ)
通解:(未来の苦悩を逃れようと思うなら)五体を地に投げ、全身に汗を流すべきである。そうでなければ、珍宝を仏前に積むべきである。そうでなければ、召し使いとなって持者に仕えるべきである。
信心は観念ではなく、五体を大地にたたきつけるような思いで仏道修行に取り組み、汗を流しての実践に生きるなかに、その真髄がある、と御教示された御文です。
- 16 :
- 天台は、法用・能通を「体外(たいげ)の方便」、秘妙を「同体の方便」と立て分けています。
つまり法用・能通は仏の真実の智慧の外に立てられた方便、秘妙は真実と一体の方便ということです。
- 17 :
- 秘妙こそ方便品の心であり、そこに「方便品」と名づけられたゆえんがある。
また、秘妙方便の「秘」とは、ただ仏だけが知っているということ。すなわち一切衆生が仏だという真実を、仏だけが知っている。
そして、その真実は秘められているにもかかわらず、縁にふれて顕現する。そうした不可思議な生命の実相を「妙」という。
十界論で言えば、仏界は九界の衆生には「秘」されている。
しかし、縁にふれて九界の上に顕われてくる。この不可思議が「妙」です。
- 18 :
- 戸田先生は「秘妙方便」について次のように教えられています。
「私も皆さんも凡夫です。しかし、われわれ自身、理のうえでは仏なのです。
成仏とは、自分が仏であることを知ることで、これは秘密にされ、妙がかくされているのです。これを秘妙というのです。
仏が、凡夫の姿で、苦労させるためにつくりだされたのです。これが秘妙方便の原理です。
皆さん方は、地涌の菩薩なのです。この原理が心の奥底でわかれば、方便品が読めるのです」
「われわれが、ただの凡夫でいるということは秘妙方便であり、真実は仏なのであります。
われわれの胸にも御本尊はかかっているのであります。
すなわち御仏壇にある御本尊即私たちと信ずるところに、この信心の奥底があります」
凡夫がそのまま仏である。これは不思議です。思議し難い。「妙」です。
法華経を信じない人には、とても分からない。「秘」です。
- 19 :
- 所詮言葉遊びじゃんw
くだらねw
- 20 :
- 自分自身が仏なのだと自覚すれば、秘妙方便が分かったことになる。
日蓮大聖人は「妙法蓮華経と唱え持つと云うとも若し己心(こしん)の外(ほか)に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法(そほう)なり」(御書383ページ)と仰せです。
いずれにしても、秘妙方便の「妙」とは、人間生命それ自体の「不可思議」なのです。
すなわち、九界はすべて仏界の当体である。九界即仏界です。
しかし悟ってみれば、仏界といっても凡夫の九界を離れては顕われない。九界に即してのみ顕われる。仏界即九界です。
- 21 :
- 目的である仏界を「真実」、そこに至っていない九界を「方便」とすれば、方便即真実(九界即仏界)であり、真実即方便(仏界即九界)なのです。
これが秘妙方便です。
例えば、御本尊を信受したあとの九界の苦悩は、苦悩のための苦悩ではない。
すべて、信心を奮い起こして仏界を強めるための悩みであるし、それを乗り越えて仏界(真実)を証明するための“秘妙方便としての悩み”となる。
悩みは、もっと成長しなさいと呼びかける“メガホン”なのです。
- 22 :
- 森羅万象 --- 人生でいえば、生も死も、喜びも悩みも、罰も功徳も、生じる一切の現象、ありとあらゆる姿は、信仰者にとって、すべて妙法の表れであるし、妙法を証明する方便なのです。
戸田先生は「罰も功徳も方便です」と言われた。
例えば、一人の未入信の人がいる。何らかの悩みがある。悩んでいる姿は地獄界でしょう。
その悩みがきっかけで信仰した。そうなれば、地獄界即仏界であり、その悩みは仏界に至るための法用・能通方便だったといえる。どちらかといえば能通方便だろう。
しかし、信心してからも悩みはある。行き詰まりもある。ただ今度は、何が起こっても、全部、信心を証明するための悩みである。秘妙方便である。
- 23 :
- 各各随分に法華経を信ぜられつるゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがねをよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし (兄弟抄 1083ページ)
通解:あなたがたは、しっかりと法華経を信じてこられたために、過去の重罪を現世に責め出されているのです。それは、たとえば鉄をよくよく鍛え打てば内部の疵(きず)が表面にあらわれてくるようなものです。
強盛な信心を貫き通すことで、過去世における重罪を責め出し、宿命転換していけることを教えられた一節です。
- 24 :
- 方便品に「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」(法華経176ページ)とあります。
一切衆生を、自分と同じ境涯にまで高めたいという仏の誓願です。
ここにこそ、人材教育の精神、「人間教育」の精神の根本がある。それが「師弟」です。
もちろん、自分も更に成長していく立場ですから、“自分と同じように”というよりも“この人を自分以上の人材に育てよう”という決意が「如我等無異(にょがとうむい)」に通じるのでしょう。
- 25 :
- 人を育てるどころか、“自分以上に偉い者は認めない”というのが日顕宗です。
法華経と正反対です。誤った宗教は、皆そうです。
- 26 :
- <方便品から>
「舎利弗、如来は但(ただ)一仏乗(いちぶつじょう)を以っての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」(法華経167ページ)
通解:舎利弗よ。如来は、ただ一仏乗によって、衆生のために教えを説かれたのである。如来の教えは、この一仏乗のほかに、二乗も、三乗もない。
- 27 :
- 「開三顕一(かいさんけんいち)」とは、方便品(第二章)に始まる法華経迹門(しゃくもん)の中心的な説法の内容を要約したも言葉です。
「三乗を開いて一乗を顕す」という意味です。
- 28 :
- 「三乗」とは、声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょう)・菩薩乗(ぼさつじょう)の三つをいいます。
それぞれ、声聞のための教え、縁覚のための教え、菩薩のための教えという意味です。
「乗」と言われるのは、教えを乗り物に譬(たと)えています。仏の教えは、人を乗せて、より高い境涯へと運ぶものだからです。
※参考
十界(3)四聖
http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/member-support/studying/data_library_04_04.html
- 29 :
- 「一乗」とは“唯一の教え”という意味です。
仏の唯一の教えは“仏に成る”ための教えなので「仏乗(ぶつじょう)」とも「一仏乗」とも言います。
これには、仏自身が乗ってきた乗り物という意味もあると考えられます。
仏自身が歩んできた道を教え、仏自身が乗ってきた乗り物を与えるのが一乗です。
- 30 :
- 末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり (阿仏房御書 1304ページ)
通解:末法に入って法華経を信ずる男女の姿のほかには宝塔はないのです。もしそうであるならば、身分が貴いとか賎しいとか、上下には関係なく、南無妙法蓮華経と唱える者は、そのままわが身が宝塔であり、わが身がまた多宝如来なのです。
末法の世では、どんな立場の人であれ、御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱える人こそが、仏であることを教えられた一節です。
- 31 :
- 抑(そもそも)地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば或は地の下と申す経文もあり或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候 (十字御書 1491ページ)
通解:
いったい、地獄の世界や仏の世界はどんなところにあるのかとたずねてみると、あるいは地の下に地獄があると説く経文もあり、あるいは西方の世界に仏は住んでおられると説く経文もあります。
しかしながら、詳しくたずねていくと、私たちの五尺の体の中にあることがわかります。
地獄も仏も、すべて我が生命の中にあると教えられた一節です。
- 32 :
- いかるを地獄 むさぼるを餓鬼・・・ 仏界ばかり現じ難し
- 33 :
- 仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲がれば影ななめなり (諸経と法華経と難易の事 992ページ)
通解:
仏法が次第に乱れて諸宗の正邪が逆さまになってきたので、世間もまた濁り乱れてきました。仏法は体のようなもので、世間は影のようなものです。
体である仏法が曲がっていれば、その影である世間もななめになる(混乱する)のです。
- 34 :
- <わが友に贈る>
挑戦の人生に
行き詰まりなし!
わが目標に向かって
具体的に祈り
勇敢に挑みゆけ!
- 35 :
- <“名字の言”より>
先日、在東京アフリカ外交団15ヵ国の代表が、SGI会長に友好記念杯を贈った。
アフリカ諸国への文化・教育の貢献を讃えてのもの。
会長は、アフリカ各国が独立した1960年当時から「21世紀はアフリカの世紀」と語り、対話に力を注いだ。
以来、半世紀を迎えた大陸に今、多くの人材が育つ。内戦に苦しんだコートジボワールのSGIは、この20年で2万人に拡大した。
未来を展望し、蒔かれた種が花を咲かせ、平和を願う大光が大陸を照らし始めた。
- 36 :
- <寸鉄>
・「結成の日」7月へ男女青年部が勇躍!
立正安国の大使命。
完勝の青春を
・SGI会長の平和と文化の偉業は未来を開く人類の羅針盤 --- イギリス学長
人間主義の光道
・日本の安定も繁栄も全て学会で決まる時代 --- 識者
さあ上半期の総仕上げへ
・あげきった題目の福運は絶対に消えない --- 恩師。
負けない人が最後の勝者
・「困難が大きければ、それだけ誉(ほま)れも大きい」哲人キケロ。
大成長の時と喜び前進だ
- 37 :
- 我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然(じねん)に仏界にいたるべし (開目抄 234ページ)
通解:私と私の弟子は、多くの難があろうとも、疑う心を起こさなければ、自然に仏界に至るであろう。
どんなことがあろうと、疑うことなく信心を貫き通せば、必ず幸福への道が開かれる、成仏の境涯を得られる、との仰せです。
- 38 :
- いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり (上野殿後家尼御返事 1504ページ)
通解:(故上野殿は)生きておられた時は「生の仏」、亡くなった今は「死の仏」であり、生死ともに仏である。これが即身成仏という大事な法門である。
信心根本に生き抜いた人は、生前も仏であり、死後も常楽の境涯にある仏であり、「生死ともに仏」と輝いていく−−その生死不二の成仏観が示された御文です。
- 39 :
- もし悩乱する者は頭七分(こうべしちぶ)に破れ供養すること有る者は福十号に過ぐ (四信五品抄 342ページ)
通解:もし正法を誹謗する者は頭が七分に破れ、反対に法華経に供養する者は十号(十種の仏の尊称)を備えた仏に勝る功徳福運に恵まれるのである。
- 40 :
- 妙法と唱え蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり (一生成仏抄 383ページ)
通解:妙法と唱え、蓮華と読誦するときは、わが一念をさして妙法蓮華経と名付けるのであると深く信心を起こすべきである。
仏の生命は、わが胸中にあるのであり、唱題により涌現させていくことができる、との仰せです。
- 41 :
- <わが友に贈る>
自分に勝つことが
最高の勝利だ!
迷ったときこそ
一歩 踏み出せ!
強気で壁を破れ!
- 42 :
- <“名字の言”より>
法華経の行者は、難に遭えば遭うほど、ますます成長できるものである。
御書に「猪(いのしし)の金山(きんざん)を摺(す)り」(御書916ページ)とある。
猪は「金の山」が輝いているのが気に入らない。「なんだ、あんなやつ」と、輝きを消そうとして体をこすりつける。
猪の毛は硬く、勢いもすさまじい。しかし、こすればこするほど、金山はますます輝きを増していった。
障害があるほどに自分を高めていく --- 人間関係においても大切な教え、と池田名誉会長は指摘する。
「自分を一番困らせる人間こそが、自分を仏にしてくれる」と。
人を変えるのではなく、自分が変わるのが「人間革命」だ。
その決意に立った時、一切をプラスの方向に転じていける“妙法の力用(りきゆう)”を実感できる。
- 43 :
- <“寸鉄”より>
・中国寧波(ねいは)大学の名誉教授に決定。
「池田先生は中日の青年友好交流に貢献」
・「SGI会長のような指導者が増えれば平和は加速度的に進む」ロシア校長。
弟子よ続け
・「いてほしいと言われる人になれ」牧口先生。
真剣と誠実で社会の勝利者に
- 44 :
- 総じて日蓮が弟子旦那等・自他彼此(ひし)の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処(ところ)を生死一大事の血脈とは云うなり (生死一大事血脈抄 1337ページ)
通解:総じて、日蓮の弟子・旦那らが、「自分と他人」「あちらとこちら」と差別する心がなく、水と魚のような(一体の)思いになって、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えたてまつる、そこにこそ生死一大事の血脈があるのである。
異体同心の信心に、生死一大事の血脈が流れ通うことを御教示された一節です。
- 45 :
- 「異体」とは、それぞれの個性や立場などが異なること。「同心」とは、目的を同じくすることを意味する。
一般的に団結するというと、心も体も一体ということであり、行動や形式も同じことが求められがちである。
ゆえにどうしても個性は抑圧されてしまう。
しかし、異体同心は外からの強制によるものではなく、個人の内発的な意志による団結である。
つまり、広宣流布という同じ目的、同じ決意に立つことから生まれるのだ。
- 46 :
- 名誉会長は『生死一大事血脈抄講義』で、「同心」の意義について次のように述べている。
すなわち、「同心」とは「広宣流布の大願」である。不惜身命で広布に生き抜く心であり、大聖人直結で民衆救済の闘争を貫く三代会長の精神そのものである。
さらに、広布破壊の悪と戦う破折の魂でもある。
また、「同心」とは「同志を尊敬する心」である。
それは、衆生に内在する仏性を信じ抜くところから始まる。同志を“仏の如く敬う”実践の基点といえる。
そして、「同心」は「師弟不二の信心」にほかならない。
妙法流布のため、広布の指導者に心を合わせていく。ここに、一切の核心がある。
- 47 :
- 日蓮大聖人の時代、仏教界では血脈相承といって、仏法の奥義を、ごく一部の限られた人にのみ伝える秘伝主義が横行していた。
そのなかで大聖人は、「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(御書1337ページ)と仰せのように、万人に開かれた血脈観を示された。
ここに真実の民衆仏法の道が開かれたのである。
この大聖人の精神とはかけ離れた、神秘的な血脈観を主張しているのが日顕宗である。
前の法主から相承を受けるだけで、仏の悟りが次の法主に伝えられるという誤った血脈観は、日蓮仏法とは全く関係ない「邪義」にすぎない。
- 48 :
- 方便品では、三乗の教えを仏が説いた“真意”は、一乗にあることを徹底して話している。これが開三顕一です。
仏の教えは一乗だけであり、二乗も三乗もないと強く言っています。
「如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」(法華経167ページ)となる。
これは「顕一」(一乗を顕す)の面です。
また、「諸仏、方便力を以って、一仏乗に於いて分別して三と説きたもう」(法華経170ページ)となるのは、「開三」(三乗を開く)の面を言った経文です。
三乗は、一仏乗を仏の方便力で説き分けたものであると。
- 49 :
- 仏の真意は一仏乗にしかないことを、方便品では繰り返し強調するのです。
このように、「三乗は方便」「一乗こそ真実」と明かして、三乗を一仏乗のもとに統一することを「開会(かいえ)」と言う。
- 50 :
- 「開会」には人(にん)と法の二面があります。
「法開会」とは、三乗を一乗に統一することです。
統一された後は、三乗の教えも一乗のなかに正しく位置づけられ、それぞれに意義があることになります。
部分観として生かされるのです。
これに対して「人開会」とは、一乗によって教化される衆生はすべて菩薩であると明かすことです。
- 51 :
- 方便品には「諸仏如来は但菩薩を教化したもう」(法華経167ページ)とあり、また「但一乗の道(どう)を以って、諸(もろもろ)の菩薩を教化して 声聞の弟子無し」(法華経190ページ)等とあります。
これは一仏乗という乗り物を示して、一切衆生、特に声聞・縁覚という二乗に、これに乗りなさいと呼びかける。それによって二乗も、菩薩へと統一されます。
菩薩とは「成仏を目指す人」であり、より深くは「成仏が確定した人」です。その意味で摩訶薩(偉大な人)とも言われます。
- 52 :
- 仏の教えは「一仏乗しかない」と、はっきり言うことは、一切衆生が菩薩であると示すことになる。
二乗も菩薩であり、仏に成れるのです。
人開会は、一乗の教えがすべての衆生を成仏させることを強調するものです。
その要が法華経の「二乗作仏」です。
- 53 :
- <方便品より>
「舎利弗当に知るべし 我本(もと)誓願立てて 一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき 我が昔の所願の如き 今者(いま)は已(すで)に満足しぬ 一切衆生を化して 皆仏道に入らしむ」(法華経176ページ)
通解:
舎利弗よ、次のことを知りなさい。私は、過去に誓願を立てて、一切の人々を、自分と等しくして異ならないようにしたいと思った。
この私の願いは、今は、すでに満たされた。すべての衆生を導いて、みな仏道に入らせるのである。
- 54 :
- 二乗(声聞・縁覚)の修行の理想は「灰身滅智(けしんめつち)」です。
煩悩のよりどころとなる肉体も、苦しみを感ずる心の働きも、すべて滅した状態を目指します。
「身も心もうせ虚空(こくう)の如く成るべし」(御書393ページ)と。
それでは、仏になるべき自分すら残りません。
- 55 :
- 六道(地獄界から天界まで)の世界を嫌うのが二乗ですから、そこから出て“虚空の如く”になったら、もう現実には戻ってこない。
戻ってこず、六道の衆生を救おうとしない。実は一切衆生に恩があることを忘れてしまう。
「永く六道に還らんと思わず故に化導の心無し」(御書434ページ)。また「解脱の坑(あな)に堕して自ら利し及以(およ)び他を利すること能わず」(御書191ページ)です。
救うべき人々を見捨ててしまっては、もはや仏法ではない。また、それでは自分も救われない。
ゆえに「一念も二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎたり」(御書435ページ)とされたのです。
- 56 :
- 仮に、二乗で成仏できないという理由から、菩薩になったとしましょう。
しかしそれでは、二乗が六道を救わないのと同じく無慈悲なのです。
菩薩は「四弘誓願(しぐぜいがん)」といって、成仏を目指して四つの誓いをしました。
その一つ、「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」とは、すべての衆生を救わんとすることです。
二乗を不作仏(ふさぶつ)のまま見捨てるなら、菩薩は、この誓いを捨てたことになる。
誓いを捨てれば成仏はできない。
- 57 :
- 日蓮大聖人は「所詮(しょせん)は二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許さざるか衆生無辺誓願度の願(ねがい)の闕(か)くるが故(ゆえ)なり」(御書589ページ)と仰せです。
爾前経(にぜんきょう)では“菩薩は仏になれる。二乗(声聞・縁覚)はなれない。このことを菩薩は悦び、声聞(しょうもん)は嘆き、人界・天界の衆生等は思いもかけない”(御書401ページ)等といいますが、ここには大きな錯覚があります。
菩薩も、自分だけは大丈夫だと笑ってはいられないのです。
なぜ、こういう錯覚と矛盾に陥ってしまうのか。結論から言えば、法華経以外は「十界互具(じっかいごぐ)」ではないからです。
- 58 :
- 十界とは、地獄界から仏界までの十種類の生命の境涯ですが、十界互具とは、十界のうち、すべての一界に、そのほかの九界が具(そな)わっていることです。
御書には「十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し…」(御書400ページ)とあります。
十界互具のポイントは「九界即仏界」「仏界即九界」にあります。
そのうち迹門では「九界即仏界」が表になっています。二乗も含む九界に、仏界が具わっていることを明かしています。
- 59 :
- 十界互具になる前は、他の衆生のことは、あくまで“他人ごと”でした。
それが十界互具になって、“人の成仏は自分の成仏”“人の不成仏は自分の不成仏”と受け止めていく生き方に転換している。
これは生命観、世界観の大変革です。
「他人だけが不幸」はありえない。「自分だけが幸福」もありえない。
他者のなかに自分を見、自分のなかに他者との一体性を感じていく --- 「生き方」の根底からの革命です。
すなわち、人を差別することは、自分の生命を差別することになる。
人を傷つければ、自分の生命が傷つく。
人を尊敬することは、自分の生命を高めることになる。
- 60 :
- ただいま
【【【【【完全訂正】】】】】
『創価学会 VS 在日 の戦い』再び だ
創価学会員達が朝鮮企業を乗っ取ろうとしている
断固、阻止せよ!
今後、創価学会員女子は置屋で働くことは許さん!
在日男子は、その全ての女共に種を付けたうで、放逐せよ!
- 61 :
- 「十界互具(じっかいごぐ)」の生命観に立てば、人間は差別を超えられ、平等になれるということです。
「権教(ごんきょう)は不平等の経なり、法華経は平等の経なり」(御書816ページ)と日蓮大聖人は仰せです。
法華経は、単なるスローガンとしての平等ではなく、生命の法理のうえから、そして「生き方」の根源から、自他共の幸福への道を教える経典なのです。
そして大聖人は、末法は「南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり」(御書816ページ)と教えてくださっています。
- 62 :
- ここまで論じたのは「迹門の十界互具」であって、「九界即仏界」「仏界即九界」の両側面のうち、「九界即仏界」の面だけです。
真の十界互具は、本門の寿量品(第十六章)で、仏の常住が明かされて初めて完成します。
(後に詳述)
- 63 :
- 一次元の見方として、一乗が顕される前の三乗の仏弟子たちは、一応、「師弟の道」を歩んでいいました。
しかし、開三顕一は「師弟不二」を歩むことを教えていると考えられます。
「三乗」のなかの菩薩は「二乗不作仏」という差別を残した菩薩です。
「十界格別」であり、ゆえに菩薩が衆生を救うこともできず、菩薩自身が仏になることもできません。
それに対し、仏の願いは一切衆生を仏にすることにあります。
師弟の境涯の違いは致し方ないとしても、師と弟子の「心」が、「願い」が、「哲学」が、根本的に違っているのです。
一方、「開三顕一(かいさんけんいち)」された後の菩薩は“蘇生した声聞(しょうもん)たち”も含め、すべての衆生が平等に成仏できるという「十界互具(じっかいごぐ)」の法理に立っています。
そして、この大哲学の上に、すべての人々を仏にしようという大闘争の軌道に入りました。
そこで初めて、仏が歩んでいるのと同じ道に入ったのです。
根本の一念において、師弟が目的を同じくする同志となり、「不二」の道を歩む先輩と後輩の関係になったのです。
そのように進んでいくのが、真の師弟なのです。
- 64 :
- 「師弟不二」こそ法華経の魂であり、日蓮大聖人の仏法の真髄です。
日顕宗は、その一番大事なものを壊し、切り離そうとする。
それが「魔=奪命者(だつみょうしゃ)」の特徴です。
「不二の道」の否定は、十界互具の否定、人間平等に対する冒涜にほかならない。
この一点に、日顕宗の本質が顕われている。
- 65 :
- 日淳上人は、学会の信仰の基盤は「師弟」であると、厳然と見抜いておられた。
学会の第十九回総会(1958年11月)のために用意された日淳上人の原稿には、こう記されている。
「大聖人は日蓮が法門は第三の法門と仰せられておりますが、誠に此の仰せを身を以て承(う)けとられたのは会長先生(戸田先生)であります。
大御本尊より師弟の道は生じ、その法水(ほっすい)は流れて学会の上に伝わりつつあると信ずるものであります」と。
- 66 :
- 誘導です
☆★当スレの目的は創価板初心者を適切なスレに誘導する事です。☆★
創価学会の話題や議論などは、創価・公明板へどうぞ。コピペ荒らしはだめぽ
http://society6.2ch.net/koumei/
※創価学会について質問があれば、以下のスレがお勧めです。
★創価学会・初心者質問スレ Part41★
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1266973065/l50
※創価学会を脱会したい方は、以下のスレ。
脱会届を作成し、『内容証明郵便』+『配達証明』で送る方法を紹介しています
●○私、創価学会 脱会しました。○●「Part32」
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1266397125/l50
※創価学会に入会したい方は、以下のスレ
創価学会に入会したいのですが・・・
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1233657625/l50
※親や恋人が学会員という方は、以下のスレ。
【恋人】創価学会員だったら?【夫婦】30
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1269205225/l50
- 67 :
- 創価学会を称する人々が
大阪府警の思考を盗んだと言って来て、
かつそれを文言化したものを言って来て、
耳に入れられた当方を犯罪者扱いしてきます。
また、何回もやっている事を、
やる前の状況になった時に、言って来て
「アドバイスした」などと言って来ます。
- 68 :
- <方便品から>
「止みなん 舎利弗(しゃりほつ)、須(すべか)らく説くべからず。所以(ゆえん)は何(いか)ん。
仏の成就したまえる所は、第一希有(けう)難解(なんげ)の法なり。
唯(ただ)、仏と仏とのみ、乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽(くじん)したまえ。
所謂(いわゆる)諸法の如是相(にょぜそう)、如是性(しょう)、如是体、如是力、如是作(さ)、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等(ほんまつくきょうとう)なり」(法華経154ページ)
- 69 :
- >>68の通解
(説くことは)やめよう舎利弗よ。これ以上、説くべきではない。なぜか。
仏が成就されたところのものは、第一の、まれなる、理解し難い法だからである。
ただ仏と仏だけが、よく諸法の実相を究め尽くされたのである。
(諸法の実相とは)いわゆる諸法の、このような姿(如是相)、性質(如是性)、本質(如是体)、力(如是体)、作用(如是作)、
原因(如是因)、間接的原因(如是縁)、結果(如是果)、果報(如是報)、(第一の相から第九の報までの)本末が一貫して等しいこと(本末究竟等)である。
- 70 :
- この文(>>68)の前後には、「仏の智慧が、いかに素晴らしく、いかに理解し難いか」が繰り返し説かれています。
その仏の智慧について、ここでは具体的に、「諸法の実相」を究めた智慧なのだと強調しています。
その実相とは何かが、如是相、如是性………如是本末究竟等と続く「十如是(十如実相)」で表現されています。
- 71 :
- 天台は、この「諸法実相・十如是(じゅうにょぜ)」前後の部分を「略(りゃく)開三顕一」を表すと言っています。
「開三顕一」が“略して”明かされていると。
- 72 :
- 仏が出現したのは、ありとあらゆる人々を仏にするためである。
仏になることこそ人生の根本目的であり、その他の目標は「方便」の低い目標に過ぎないことを教えたのです。
いわんや名聞名利(みょうもんみょうり)など、人生の真の目的ではない。
「開三顕一」は、「仏の真意を明かした」ものであり、同時に「人生の真の目的を明かした」のです。
- 73 :
- ただし“略”開三顕一だから、ここでは“かすかに”しか示されていない。
しかし、仏は確かに「真意」を説いたのです。大聖人は「仏略して一念三千・心中(しんちゅう)の本懐を宣(の)べ給う」(御書208ページ)と仰せです。
それが諸法実相・十如是の文(もん)です。
また「一切衆生皆(かい)成仏道の根元(こんげん)と申すも只(ただ)此の諸法実相の四字より外(ほか)は全くなきなり」(御書1139ページ)と述べられている。
“すべての人を仏に”という法華経の主張の根っこは、諸法実相にこそあると仰せなのです。
- 74 :
- 思考盗聴犯の真髄(既に岸和田市で何度かされました)が復活しそうです。
加害者は語りかけを他者思考という事にして、被害報告封印しようとしています。
(そのような語りかけも他者思考なのでしょうか?いや、いつもの加害者の、屁理屈塗れの声送信であります。)
逆に思考放送(過去に当方はされたことある)を、語りかけということに、加害者扱い(しかし他者の様態など不明であるから加害者ではないが)しようとする屁理屈でもあると思われます。
ここで、「思考を放送されていて被害受けているんだ」と思ったことも放送されるでしょうけど、それを加害者の言い訳扱いという公算でしょう。
こういうことは既に過去に有りました。
無茶苦茶です。
尚、当方は他者思考を書いて良いなどと言っておりません。
- 75 :
- 「諸法」とは、この現実において、さまざまな姿・形をとって現れている“すべての現象”と言えます。
「実相」とは、文字通り“真実の相”、すなわち“真理”と言ってよいでしょう。
そして「十如是」は「十如実相」と言われるように、この“見えないが、実在する実相”を言い換えたものです。
「如是(にょぜ)」とは“このような”という意味で、それぞれの現象、個々の生命(諸法)について、仏は「このような相(如是相)、このような性(如是性)、このような体(如是体)……」と実相を知見したというのです。
- 76 :
- 「諸法の実相」と説かれていることが大事です。真理(実相)と言っても、どこか遠い世界にあるというのではない。
具体的な現象(諸法)から絶対に離れず、あくまで、この具体的な現実(諸法)の真実の姿(実相)に、英知を集中させている。
寿量品(第十六章)にも「如来は如実に、三界の相を知見す」(法華経499ページ)とあります。三界とは現実世界です。
現実世界(諸法)の表面にとらわれず、そこに秘められた偉大なる真実の姿(実相)をとらえ、教え、開いていく --- これが仏法の智慧なのです。
「諸法実相」という言葉の中に、仏法の徹底した「現実主義」と、「現実を超えていく智慧」が込められているのです。
- 77 :
- 十如実相のうち、「相(そう)」は外に現れて見分けられる姿・形など、「性(しょう)」は内にあって見えない性質、性分、可能性などです。
天台は、如是性の究極は仏性だと言っています。
「体(たい)」は相と性をあわせ持った主体です。
この三如是は、諸法 --- 個々の生命の本体を三つの角度から見たものです。
- 78 :
- 十如是のうち、「力(りき)」は、色心(しきしん)の潜在的な能力です。
「作(さ)」は、その力が色心に現れた働きです。
また、「因(いん)」は個々の諸法それ自身にある変化の原因、「縁(えん)」は変化をうながす内外の条件、間接的な原因。
「果(か)」は変化によって得られた直接的な結果で、「報(ほう)」は結果によってもたらされた報いです。
因・縁・果・報の四つで総じて“因果(いんが)”ということができます。
妙楽は「十如を語らざれば因果備わらず」(摩訶止観輔行伝弘決)と、十如是の特性を因果に見ています。
- 79 :
- 最後の「本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」ですが、これはひとつには、如是相を本(ほん)とし如是報を末(まつ)として、首尾一貫して等しいという意味です。
つまり、地獄界なら地獄界として、仏界なら仏界としての統一性を言います。
そういう実相を見るのが仏眼(ぶつげん)なのです。
隠された可能性(性・力)や、変化しうる開放性(因・縁・果・報)をもちながら、しかも統一性をもっている。
相互に依存し、相互に開かれつつ、統一性をもって成り立っている --- それが諸法のありのままの姿(実相)なのです。
- 80 :
- 「本末究竟等」については、より高次元のとらえ方ができます。
すなわち、“仏が悟った実相においては、仏の生命(=本)も、九界の衆生の生命(=末)も、詮ずるところ(究竟して)、妙法の当体として等しい”ということです。
ゆえに、いかなる衆生も、自身が妙法の当体であるという実相を悟れば、仏となる。
自身の生命の実相(妙法の当体であること)を悟るか否か、それだけが仏と衆生との違いなのです。
大聖人はこう仰せです。
「本(ほん)と申すは仏性・末(まつ)と申すは未顕(みけん)の仏・九界の名なり究竟等と申す妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる彼等と差別無きを究竟等とも平等大慧(だいえ)の法華経と申すなり」(御書413ページ)
- 81 :
- 実相とは、無明を克服した仏の悟りから見た生命の真実の姿です。
そこでは、一切が平等であり、主体と客体、自分と他人、心と身体、心と物など一切の差異・差別を超えている。
始めもなければ終わりもない。十界の差別も超えている。広大な広がりをもった「永遠の生命」の世界なのです。
生命であるということは、躍動であり、智慧であり、慈悲であり、不二の生死(しょうじ)であり、法則であります。
大宇宙に広がっても大宇宙が広すぎるということもなく、素粒子に宿っても素粒子が狭くて困る(笑い)ということもない。
言葉も思考も超えて、まさに不可思議であり、「妙法」としか言いようがない。そういう世界です。
仏は、こうした生命の世界こそが、十界の衆生(諸法)の生命の本当の姿(実相)だと悟ったのです。
つまり、“諸法(十界)の実相”です。
- 82 :
- 後藤元組長は、Xの素性を明かしていないが、本書によれば、
池田名誉会長の側近といわれる元公明党最高顧問の藤井富雄・元東京都議であるという。
後藤元組長と藤井元都議との密接な関係や、二人の密会ビデオ≠フ存在も明らかにされている。
創価学会広報室は、「(後藤組元組長に依頼した点や、元組長と藤井元都議との関係について)そのような事実はございません」と回答した。
池田名誉会長は何を思う?
「週刊文春」平成22年5月20日号
ttp://fboybbs.dip.jp/
反対派住民の家にブルドーザーで突っ込んで
日本刀で片腕切り落としちゃうんだもん、
怖すぎるわー。
- 83 :
- 日蓮大聖人は「諸法実相……本末究竟等」の経文の意義を、こう明かされています。
「下(しも)地獄より上(かみ)仏界まで十界の依正(えしょう)の当体・悉(ことごとく)く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云う経文なり」(御書1358ページ)
地獄界から仏界までの衆生(正法:しょうほう)も、その衆生が住む世界(依法:えほう)も、実は、すべて「妙法蓮華経のすがた」なのだと仰せです。
“諸法”は無数ですが、すべて“十界(じっかい)の依法と正法”に含まれます。
それらが、ひとつのこらず「妙法蓮華経のすがた」として等しい(本末究竟等)と見るのが、“実相”を見ることです。
十如是(じゅうにょぜ)も、このことを説こうとしたのです。
- 84 :
- アンチ創価バンド
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7824410
- 85 :
- 日蓮大聖人は「十如是と云(いう)は妙法蓮華経にて有りけり」(御書415ページ)と仰せです。
また「法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし」(御書1358ページ)とも言われている。宇宙全体が「妙法蓮華経のすがた」なのです。
戸田先生は「宇宙生命それ自体が、南無妙法蓮華経なのです」と言われていた。
諸法の実相を見るならば、人間も草木(そうもく)も、太陽も月も「妙法蓮華経」の姿でないものはない。
森羅万象(しんらばんしょう)は「妙法蓮華経」の律動を奏でているのです。
現代人に分かりやすく、まとめて言えば、「諸法」は個々の生命、その諸法の「実相」は、ひとつの大いなる宇宙生命と表現することも可能でしょう。
- 86 :
- 「実相」という永遠の生命世界は、いつ、どこにあるのか。「いま」「ここに」ある。
それを悟れば仏、悟らなければ九界です。
ゆえに、菩薩界が仏界に近いのでもなければ、地獄界が仏界から遠いのでもない。
平等に、自己に即して仏界を開くことができるのです。
- 87 :
- 「個々の生命(諸法)」は即「宇宙生命(実相)」である。
しかも「宇宙生命(実相)」と言っても「個々の生命(諸法)」を離れては存在しない。
こういう「諸法実相の生命の世界」を、大聖人は、こう表現されています。
「心すなわち大地・大地則(すなわち)草木(そうもく)なり」(御書1597ページ、白米一俵御書)と。
「心」は宇宙生命と言ってよいでしょう。
- 88 :
- 法華経以前の経典では、まだ哲学が浅いゆえに、“心(宇宙生命)から万法(個々の生命)が出生する”等と説いた。
心は大地のごとく、万法は草木のごとしと。心と万法が別々です。
しかし法華経は、そうではない。心がすなわち大地であり、大地はすなわち草木である。
諸法と実相は一体である。分けられない。
月も花も、ひとつひとつが、宇宙生命全体の一つである。
- 89 :
- 多くの哲学が「現象の奥に」真理を見ようとしたり、「現実の根底」に根源の一者を立てたりしました。
しかし、法華経は、そうではないのです。
白米一俵御書には「まことの・みちは世間の事法(じほう)にて候」(御書1597ページ)との有名な御言葉があります。
「世間の事法」という現実(諸法)に即してこそ、「まことの道」すなわち実相の智慧は発揮されるわけです。
- 90 :
- 法華経法師功徳品(第十九章)では、法華経を受持する人に六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)が清浄になる功徳があると説きます。
その中の意根(いこん)の功徳をこう説いています(法華経561ページ)。
---法華経を受持する人が説くことは、すべて実相に背かない。世間の書物や、治世の言葉や、経済の営みについて説いても、みな正法(しょうほう)に適(かな)っている。
これを受けて天台は「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」と述べています。
法華経の偉大な功徳です。また、法華経を信ずる人のあるべき姿です。
法華経を信ずる人は、善は善、悪は悪として、正しいことを説かなければなりません。それでこそ「実相と相違背せじ」となる。
- 91 :
-
834 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2010/05/17(月) 13:37:57 ID:/ObcN+490
http://www.amakiblog.com/archives/2010/05/15/
とうとう裏の奴の証言が出てきたんだな
- 92 :
- 「諸法実相」を実現するとは、個人においては「一生成仏」を、社会においては「立正安国」を実現することと言えます。
「一生成仏」とは、この現実の今世(こんぜ)において成仏することです。
成仏といっても、何か固定的な到達点ではない。現実の真っただ中で苦闘する、その姿のままで、仏の境涯を開くことです。
苦悩する境涯から仏の境涯へ、そして仏の境涯から現実の変革へと、常に出発していく“信心の強さ”。戦い続ける“信心の強さ”。そこにしか仏界はない。
観心本尊抄には「末代の凡夫出生(しゅっしょう)して法華経を信ずるは人界に仏界を具足(ぐそく)する故(ゆえ)なり」(御書241ページ)とあります。
日寛上人も「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」と言われています(三重秘伝抄)。
信心によって「諸法実相」が実現できるということです。
- 93 :
- >障害があるほどに自分を高めていく --- 人間関係においても大切な教え、と池田名誉会長は指摘する。
>「自分を一番困らせる人間こそが、自分を仏にしてくれる」と。
すばらしいおしえですね。
信者みずから池だせんせに爆弾を投げたら、どうなるんでしょうか?
1ヶ月に一回はそのくらいのことをしないとだめですね。
成長がとまってませんか? はやく仏になってください。
>人を変えるのではなく、自分が変わるのが「人間革命」だ。
>その決意に立った時、一切をプラスの方向に転じていける“妙法の力用(りきゆう)”を実感できる。
そうですね。せんせを堕落させちょるのは信者ですね。勇気ある信者こそ、爆弾を投げるべきです。
- 94 :
- 「信心」によって「諸法実相」が実現できるという部分が、天台との大きな違いです。
天台の方法は「一心三観(いっしんさんがん)」と言って、諸法実相の深理(じんり)を思索し、明らかに実感する修行です。瞑想が中心的な実践です。
しかし、この方法は難しく、だれもが正しく修得できるとは限らない。
これに対して、日蓮大聖人の仏法の修行は何か。
「一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候(そうらい)けり」(御書414ページ)と仰せです。
また「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅(だいまんだら)なり」(御書1339ページ)と。
一念三千の「一念」は実相、「三千」は諸法です。
御本尊は、諸法実相の御本尊であり、一切衆生の諸法実相を映す“鏡”です。
- 95 :
- 中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」は実相を表し、左右の十界は諸法を代表しています。
この諸法実相の御本尊に向かって唱える妙法の音声(おんじょう)は、我が身の仏性を呼びます。呼ばれた仏性は、外に顕れようとします。
すると、自覚するとしないとにかかわらず、胸中に「仏界の十如是」の太陽が昇る。本有(ほんぬ)の青空が、厳然と我が胸に広がるのです。
御本尊を信じ、「南無妙法蓮華経」と唱えることによって、自身(諸法)が妙法の当体(実相)と輝くのです。まさに万人に開かれた「一生成仏」の修行法です。
- 96 :
- 外にある御本尊も「妙法蓮華経」。内なる我が一心も「妙法蓮華経」。
御本尊を“信ずる”ことが、同時に、我が身の諸法実相を悟る“智慧”になっている。
「以信代慧(いしんだいえ:信を以て智慧に代える)」の法門です。
- 97 :
- 一生成仏抄にも「妙法と唱え蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名(なづ)くるぞと深く信心を発(おこ)すべきなり」(御書383ページ)と仰せです。
自分の生命(諸法)が「妙法蓮華経(実相)」そのものなのだと。
- 98 :
- タタノの仄めかしもウザいけど中が何の挑発もしてないのに題目を
始めてしかもいつも以上にすごい勢いでしゃべり続けてて怖いからとめて
俺はそうかのことしらべたり見たりしないからとにかくこいつらをとめて
- 99 :
- 日蓮大聖人は、こうも仰せです。
「我が身の体性(たいしょう)を妙法蓮華経とは申しける事なれば経の名にてはあらずして
・はや我が身の体(たい)にてありけると知りぬれば我が身頓(やが)て法華経にて法華経は我が身の体をよび顕(あらわ)し給いける
仏の御言葉(みことば)にてありければやがて我が身三身即一(さんじんそくいち)の本覚(ほんがく)の如来にてあるものなり」(御書411ページ)
妙法蓮華経とは経典の名前だろうと思っていたら、そうではなかった。自分自身のことだった。
妙法蓮華経は、本来の自分(自身の実相)を呼び顕す仏の言葉なのだと。
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