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聖書@質問箱


1 :10/09/14 〜 最終レス :12/01/09
聖書に関する質問をどうぞ。
ボランティア回答者さんは質問を見かけたら、2ちゃんならでは
の物凄い勢いで書きにいきましょう。
旧約聖書から新約聖書までさあどうぞ。
質問と回答が目につくように、常時age進行でお願いします。

2 :
>>1
希美が創ったテンプレ、真似しないでくれるかなぁ〜。
真似っていうか、盗作じゃん。
一言、断りなさいよ、作成者に。

3 :
               普及    現代語     格調
文語訳          △        ×        ◎
口語訳          ○        △        ○
新改訳          △        ○        △
新共同訳        ○        ○        △

4 :
          1600    1800    1900    1930    1950    1970    1980    1990    2000    2010    2020
--------------------------------------------------------------------------------------
欽定訳.    KJV───┬──────────────────NKJV
                    │
英国訳              ├─RV────────────NEB──────REB
                    │
米国訳              ├──ASV──────RSV──────────NRSV───ESV
                    │
日本語              └─文語訳──────口語訳┬───────新共同訳───────標準訳(仮)
                                                └新改訳

5 :
聖母マリアの被昇天が書かれている場所を探しています

6 :
田川健三の聖書は、2ch的に評判いいいの?

7 :
新共同訳絡みの質問です
ノアが行き着いた山がこの本では「アララト山」とはっきり明示されてますけど、
本当は『Mountains of Ararat』=「アララトの山々」で
決してある特定の山をさしているわけではありませんよね
そんな細かい訳に突っ込むなんて傍から見るとただのいちゃもんなのかしれないんですけど
『「アララト山」みたいに勝手にいじくってる部分が何か所もあるのかな』って
どうしても新共同訳が信頼できなくなっちゃって…
新共同訳は聖書を正しく理解するうえでどれだけ信頼できるものでしょうか?

8 :
>>7
新共同
8:4 第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。
新改訳
8:4 箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。
口語訳
8:4 箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった。
岩波訳
8:4 七月十七日、箱舟はアララトの山地に着いた。
  注 字義通りには「山々」。アララトは今日のトルコ・アルメニヤ国境の高原地帯。
     五千メートル級の山(アララト山)が聳える。
フランシスコ会訳
8:4 第七の月の十七日に箱舟はアララトの山に留まった。
 注 アララトは古代ウラルト地方で、アルメニヤおよび少しはみ出た地方も含む
    アララト山の位置は、巻末第三の地図の中に示るされている。
まあ翻訳だから 日本語として 「アララトの山々に留まった」という表現が
不自然だろうと考えたのでしょうね。
いわゆる七十人訳で「トーラー」を律法を意味する「モノス」と訳したことから色々な
誤解が始まった。アラム語訳聖書では「オライタ」と訳され律法と訳されたことは無い。
ゾロアスター教の聖典集「アヴエスタ」では、宗教は律法(ダエナ)と訳されていて
古代ペシャ人は、宗教と律法を区別していなかった。
律法に近いヘブライ語は、「トーラー」ではなく「ミツヴォット」なんだ。
「トーラー」は {教え」とか「道」という意味らいい。

9 :
十戒めのなかの
出エジプト 20章13節
新共同
20:13 してはならない。
新改訳
20:13 してはならない。
口語訳
20:13 あなたはしてはならない。
岩波訳
20:13 あなたはしてはならない。
フランシスコ会訳
おまえは、してはならない。
ヘブライ語には否定命令形がない、「あらたは、・・・・してはならい」と訳されている部分は
「あなたが、・・・・・することがあってはならない」或いは「あなたが、・・・・するはずが無い」
という意味に近い。
 
十戒めは、普遍的な神の戒めというより、法規の提示に本質があるのではなく、神が顕現して
呼びかけるところに、その本質がある。
新共同と新改訳は、明らかに普遍的な戒めとして訳してるようにおもえる。

10 :
>>8-9
ありがとうございます 
う〜ん、やっぱり新共同訳は少しいじくりすぎてるように思えます…
岩波、フランシスコ訳なんかの方が信頼できそうですね

11 :
日本語の山はmountain/mountains両方の意味を持つ

12 :
>>10
訳だけでなく、編集も大切よ。

13 :
ちう国には何冊ぐらいいってんのさ。

14 :
               普及    現代語     格調      教派      出版
文語訳          △        ×        ◎       プロ      1917
口語訳          ○        △        ○       プロ      1955
バルバロ訳.      △        ○        ○       カト.      1964
新改訳          △        ○        △       プロ      1970
新共同訳        ○        ○        △       共同     1987
フランシスコ会訳...    ×        ○        ○       カト..      2002

15 :
聖母マリアに祈れば天国に行けますか?

16 :
三自愛と正教会の聖書おすえてちゅ

17 :
ヨハネ21:22はどういう意味ですか?
同章23で同じ事を言うので結局死なないわけではないということしかわからなかったということですよね
これがわかるのはその者が死んだからという理由以外にありますか?
この書をヨハネが書いたとすると同章20のイエスの愛していた弟子はヨハネ以外の弟子ということでいいですか?

18 :
age

19 :
サンタさんが登場するのは何処ですか?

20 :

>>17
福音記者ヨハネと愛しておられた弟子(夕食のとき胸によりかかった)は同じ人物とされているのでは
24節に“この弟子である”とありますし、確かヨハネはペトロのように殉教もしていませんし、長生きした説があります。
ちなみに死んだかどうかは、わかりません
死んだと判断する人もいれば、死んでないとする人もいます
個人の意見としては、イエスが望むなら叶わないわけないと思うのです。ただ、その愛する弟子が、イエスが再び来る時まで不死であったとしてもペトロたちには関係がないのはほんとうです。
聖書からは脱線しますが、サンジェルマン伯爵ヨハネ説というのがあります。カサノバの伝記によれば、彼がつい昨日のことのようにカナの婚礼の時の話をしたとか、フランス革命を予言したとか
まぁ出所はともかく
信じるか信じないかは、あなた次第です
(´∀`)∩゛

21 :
>>20
24節がどうもすっきりしません
証しをし、それを書いたのはこの弟子
その次の、
わたしたちは彼の証しが真実であることを知っている
とあるので、証しの書と24節を書いたのは別人ということになりますよね
証しの書を書いたのはイエスの愛していた弟子で
その複写をし、24節を追加したのが使徒ヨハネだというのは無理がありますか?
で、証しをするのはヨハネ1:6のヨハネとあるんですが、このヨハネは同章19まで読むとバプテスマのヨハネ
ということになるんですが、バプテスマのヨハネが胸元に反り返ったイエスに愛された弟子ではないので
わけがわからなくなってきました

22 :
age

23 :
エホバの証人はどうして間違いを認めないんですか?疲れました。

24 :
>>21
24節は一人称複数形
わたしたちは
25節は一人称単数形
わたしは
となっていますね。
以下聖書研究所訳注を抜粋
24は福音書の証言を受け入れ、またその正しさを証明することのできた「イエスの愛しておられた弟子」の弟子たちを指しているようである。後者については、その一人、または、後代の人とする二つの説がある。
バプテスマのヨハネの証しはロゴスについて、自分のあとから来られる方についての証しです。24節での証しは、福音書として書き記したことの証明だと考えてみてはいかがでしょう。
24節以降は聖書成立の過程を調べたり、ギリシア語原文のテキストがあれば、より明確になるとは思いますが

25 :
>>24
バプテスマのヨハネと使徒ヨハネの証しの違いがそう考えるしかないと自分も思います。
が、やはり意味がわからないのはここです
ヨハネ21:23
わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか
ここでまず、「わたしが来るときまで」なんですが、イエスが次に来るのは、
使徒1:11でどうやってまた来るのかが書いてあり、
マタイ24:50の「主人は予想しない日、思いがけない時に帰ってくる」のところから
これが終わりの時のことなのかはわかりませんが、まだ来ていないとは思うんです。
そうすると、まだその弟子は生きているということになります。
しかし、その弟子は死なないのではないとはっきり書いてあるわけですから
どういう状態でイエスが再び来るまで生きているのかは聖書の終わりの時または、
イエスが再び来ることに関する聖句が全て理解出来ないとヨハネ21:23の意味はわからないと思うんですがどうなんでしょうか。
で、ひとつ気になることがあるんですが、ヨハネ13:20「わたしの使わす者を受け入れる人はわたしを受け入れ」
ヨハネ14:26、ヨハネ15:26の3聖句から、すべての事を教える弁護者をイエスが使わすことになっていますが、
これは一般にいつ来たとされるんですか?使徒10:9〜28を見るとこれ以前にはまだ来ていないことはわかりますが、
このあとどこで来るのかが聖書にないんですが、すべてのことを教える弁護者はいつくるんでしょうか

26 :

わたしが来るときまで死なないことを望んだとしても
来るときまで死なない
なら、来たらどうなるかわかりませんね。
死なないわけではないのですから。
確かにここは、はっきりしません。
弁護者、パラクレートス、慰め主、聖霊です。
一般には聖霊降臨がそれであるとされています。

27 :
>>26
弁護者が聖霊降臨だという根拠で一番強いのがヨハネ14:26にある「弁護者、すなわち聖霊」と書いて2単語を結んでいるところだと思います。
だから使徒2:4で弁護者が来たということですよね?
でも納得出来ないのが、ヨハネ16:13なんです。
「真理の霊が来るとあなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」
の部分なんですが、
使徒10:9〜28で、「神が清めた者を清くないなどと言ってはならない」が「どんな人をも清くない者といってはならない」
という意味だと神がお示しになったとペトロが言っている部分は、人間のことではなく、
律法で禁じられている食べ物が清いという意味だとしか思えないんです。
また、神が清めたとありますが、モーセの律法からここまでの間に食べ物は清いと示されたのはマルコ7:19だけですよね。
つまり、イエスの言ったことをペトロはここでもまだ理解出来ていなかったということになりませんか?
もし仮に、すべての食べ物が清いのではなく全ての人間が清いとイエスが福音書マルコで言っていたのだとしても、
使徒10:17の後に気づいている以上、五旬祭の聖霊であるとは言い切れないと思うんです。
納得できない理由のもう一つは
ガラテア2:14でパウロがペトロ(ヨハネ 1:42)達が真理にのっとって歩いていないのを見たという部分です。
ここで上げた聖句だけを矛盾無くつなげると、全ての聖霊が、全てのことを悟らせる聖霊ではありえないんですが、
一般に、弁護者が聖霊降臨になるとされる決定的な理由を教えてください。

28 :

使徒2:4に聖霊に満たされとあるのでまず聖霊とみなされます。
考えるべきは、真理をことごとく悟らせる霊が降ったのに、なぜペトロが真理に従って正しく生活していないように見えたのか?かもしれません。
真理はたくさんあるのでしょうか。パウロの単なる中傷でしょうか。
聖霊について著作物を引用しながら整理してみますね。
旧約の時代から神の霊についていわれていたのは、“メシアと(抑圧されていた)イスラエルの民全体にその霊がそそがれ、新しい時代がくる”で、待望通りイエスには聖霊が降り、その力に満ちて活動しました。(マタイ1:18、20他)
そして使徒達はキリストから約束されていた聖霊によって福音を述べ伝えます。(行1:8)
こういったことからも、救済史の新時代、AD(AnnoDomini)つまり主の年が始まったとされるのは、聖霊の働きによります。
聖霊のしるしは、進歩した形であること。そして自由と平等の精神の宿りであること。カリスマがあること。使徒達に起こった事がその予型、働きに添っているといえないでしょうか。
掟を必死に守り、潔癖なくらい清いものしか認めなかった純潔律法主義の聖職者ではなく、当時差別され虐げられていた混血の町ガリラヤ出身の労働者階級に主の霊がそそがれ、その賜物として予言と異言があったのです。

29 :
続けて
ご指摘通り、聖霊は真理の霊であるのに、ペトロは霊の完成を辿ったとは思えません。もしパウロがいなければ、異邦人への福音はおろか現今こうしてキリスト教は存在していなかったでしょう。
ペトロ達とパウロの間には、異邦人への宣教について、割礼について、意見の違いがあったと思われるからです。無割礼にこだわり続けるなら、聖霊の働きはありません。
まずひとつ考えられるのは、悟ったとしても、まだ誘惑があり(ガラ6:2)、霊に従わなければならず(ガラ5:16)、ペトロがそうすることが難しくなったか。
あるいは、聖霊は真理に導いていくのであって、救いの完成まで、それを完全に生きることが求められる。(ガラ5:25)完成してはじめて神のみ旨を悟る。進化はゆっくりなされるべきであって、ペトロの時はまだ完成の時ではなかった。
私の手元にある聖書の訳では、真理の霊であるその方が来られると、真理のあらゆる面であなたたちを導いてくださる(ヨハネ16:13)これだけでも受ける印象がちがいますね。

30 :
カトリックの教会って偶像があるじゃないですか?聖書を全く読んでないんですかねえ?

31 :
>>29
ということはパウロは真理の道を歩めていて、肉の考えに負けていたペトロ達に真理を教えたということになるんですか?
バプテスマのヨハネがヨハネ 1:23で主の道をまっすぐにせよと言う者であることから、
パウロが、使徒 9:11でまっすぐという通りにある家にいる者であることにも意味があるかもしれません。
パウロは真理の道を歩んでいないペトロ達を再びまっすぐにする者であり、真理の霊はヨハネ 16:7で”彼”または”方”と一人称で表現されていることからもパウロの事だとも十分考えられると思います。
しかし、ここでまた納得できない部分があるんですが、ヨハネ16:8で、
「真理の霊は罪と義と裁きに関して世の誤りを明らかにする」
の部分で、使徒 24:25だとパウロは自制と義と裁きについて話すとなっているところです。
パウロが真理を話すなら、罪と義と裁きでなければいけないはずです。
仮にパウロがペテロ達に対しては罪と義と裁きに関して明らかにしたのであればヨハネ15:27により
現在この3つについての真理が明らかになっていて伝えられているのでしょうか?
この3つはどういう意味なんですか?これが真理になるわけですから一番大事な部分ですよね。

32 :
>>31
ペトロが真理にそっていないようにパウロには見えたのであっても、表面的にみると納得いかないですよね。
でも聖書に不必要な部分はないと思うので、どうしたら矛盾がなくなるのか。
そこで、聖書でいわれる真理の霊を全体性としてみたら、と思います。
例えたら、神を全体性とする、です。
さて教義では矛盾を昇華しきれていないように感じるので、なんの後ろ盾もありませんが、このままではすっきりしないので一緒に考えてみてください。
これはある医師が提示しました。
神は善である。これまで神は完全な善として受けとめられてきましたが、では悪とは何なのか?という問いに、教父達は悪とは善の欠如であると説きました。
しかしこれでは悪の存在を説明しきれているとはいえなかったようです。
そこで、神とは善と悪の共存する全体性であるという考えが生まれました。全体性とすることで、旧約時代の激しい神と新約の憐れみの神との統合をはかりました。
ここからは独断です。
真理の霊にもこれを適用してみたらどうなるでしょう。
個々人に真理を悟らせる霊が降ったが完全にではなく、ペトロ、パウロ、そして今生きている私たちを含めた全体性を通して真理を悟らせる。
そうすれば、罪や正しさ裁きについて悟らせてくれる聖霊がペトロ達に降り導かれたにも関わらず、パウロには真理の霊に従っていないように見えたとしても、おかしくはならないと思います。
伝わっているかどうかも、全体でみて、判断しなければなりません。
骨組みがしっかりしていない説なので、すぐ撤回するかもしれませんが、

33 :
>>32
意味はわかりました。しかし、納得できない部分があります。
ヨハネ16:7で
「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ない、わたしが行けば弁護者をあなたがたのところに送る」
という部分です。
上で言うイエスが去る前にルカ1:35で、マリアに聖霊が降りると書いてあり、
ルカ1:41でエリサベトが聖霊に満たされ、
さらに、ルカ1:67で父ザカリアも聖霊で満たされたと書いてあります。
バプテスマのヨハネにいたってはルカ1:15で、母の胎にいる時から聖霊に満たされるとあります。
つまり、全ての聖霊が真理の霊ならイエスが去らなくても、というより、別にイエスがいなくても教師になれる人が既に沢山いたことになります。
イエスが去らなければ弁護者は来ないとまで言っており、ヨハネ15:26で、弁護者はイエスについて証しする存在であるということ、
ヨハネ14:16で、父は別の弁護者を使わす、この方は真理の霊であると書いてあります。
別の、となっているわけですから、仮に全ての聖霊が弁護者であったとしても真理の霊は別の弁護者になると考えた方が解決は早そうです。

34 :
全ての聖霊が真理の聖霊でないと思う理由の一つは、
ローマ15:20でパウロがキリストの名がまだ知られていないところで福音を告げ知らせるとある理由の、
他人の築いた土台の上には建てたりしないためという部分で、
パウロが真理の道を歩んでいるなら他の所にも行って正しい真理に塗り替えていく必要があるんじゃないですか?
逆にパウロの方が真理の道を歩んでいないなら、地域によって真理に違いが出てくることになってしまいます。
実際にコリント第一 1:11〜13でキリストが分裂してしまっていると書いてあります。
それなのにキリストの名が知られてないところだけに福音を告げ知らせて、
しかも他の人の真理の土台は崩さないようにするのは真理がバラバラになっておかしなことになりませんか?
ペトロ二3:16を見てもまだパウロとペトロは真理が一致していませんし、
ヨハネ21:18〜19で、ペトロは自分の望まない所につれていかれ、それによって神の栄光を示すと書いてあります。
聖書中で真理が一致した時期の証拠どころか、死ぬまで真理の道を歩めてないような証拠ばかり出てきます。
しかし、実際イエスはマタイ10:34〜35で分裂を生じさせる為に来たと言っていますし、いっそ12使徒から分裂していても
その通りにイエスの言葉が成就すれば、神の言葉は必ず成るわけですから、神の栄光を示す役目は十分果たしているとも思えます。
その根拠は、まず、少し前にペテロが使徒10:9〜28で、全ての食べ物は清められたのが全ての人が清いと誤解していると指摘した部分ですが、
実はここで一番大事なのは、なぜイエスがマルコ7:19で全ての食べ物を清めたのか、というところだと思ったんです。
マルコの前後を読むと口から出るものが人を汚す、だから食べ物では人は汚れないという部分です。
ペトロ達が真理に到達する前に伝道活動をしているのは事実ですから、
完全な真理でなければ、それは真理を汚していることになるので、マルコでイエスが使徒に言った意味が繋がってしまいます。

35 :
そうするとですよ、ローマ10:15で「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」と書いてあるので、
ヨハネ 13:7でペテロ達は良い知らせを伝えないので足が汚いから洗ってもらう必要があったと意味が繋がってしまいます。
当然イエスは良い便りを伝えて、ただ使徒が完全に理解できてないだけなので、
イエスはヨハネ1:27で足を洗う必要がないどころかサンダルの紐を解く必要もない者である意味が繋がります。
正直言って、伝道を始める前に真理の全体に到達してから伝道を始めないと、
また聞き伝道が各地に拡がってしまって、どうしようもなくなってるはずです。
また、バプテスマを受ければ聖霊が来ると書いてあるわけですから、
コリント一1:16〜17でパウロはバプテスマをしなかった場合があり、
自分はバプテスマを授けるためではないと言っているのでバプテスマは実際はどうでもいいものになってしまい、もうめちゃくちゃです。
これらが事実であるとすると、もう一つ意味が繋がるところがあります。
ヨハネ16:32で
「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや。既に来ている」
の部分です。
完全では無い真理を広めているわけですから、当然神の家の教えではなく自分の家の教えということになります。
自分の家の為に走り回ることに関しては旧約聖書の
ハバクク 2:9〜11、ハガイ 1:8〜11、エレミヤ 22:13、エレミヤ 23:11
で預言されています。これらの聖句からわかる事は、自分の家の教理を教えるから黙示録の食糧不足などの災いが来ているという事実です。
そして現在に至るまでイエスに代わってこの世を支配しているのは12使徒から始まって今なお分裂を続けている宗教家達ということになります。

36 :
もう一つ同時に考えなければ解けない柱になるかもしれない真理があります。
マルコ 8:33でイエスに生きていて欲しいと言うペトロの考えがサタンなら、何が神の考えなのかということです。
マルコ3:35を見てもイエスの兄弟と呼ばれるにふさわしいのは神の御心を行う人とも書かれているように、
イエスに生きていて欲しいと言うよりも死んでくださいと言うことの方が神の御心だと思いませんか?
ヨハネ11:48〜53をしつこいぐらい読んでみてください。
大祭司カイヤファはイエスは国民のためばかりでなく、神の子を集める為に死ななければいけないと説き
その日からイエスをそうと計画しはじめたというところです。
そして、マタイ26:50でイスカリオテのユダに対して”サタンよ”ではなく”友よ”と言っているということです。
もしですよ、ユダ以外の12使徒から、神ではなく、自分達の栄光の道に進んでいたのだとして、ユダの行動の意味
が理解出来ていなかったとすると、福音書にはユダをサタンだと書き残すことになりますよね?
もしこれが逆だとすると創世記が成就することになると思うんです。
黙示録21:12〜14で12部族の門の上には12使徒の名が刻まれているとあることから考えても、
12部族と12使徒は数字だけではなく深いつながりがあってイエスが選んだとも考えられます。
創世記37:31〜33で、12人のヤコブの子供の内の一人が悪い野獣に食べられたとヤコブを騙したが、実はその一人は生きていたという部分です。
12使徒の一人のユダが2000年間サタンだと騙されていたが実はイエスに最も愛されていて友とまで呼ばれていたとしたらかなり強烈だと思うんです
これを証明するたの聖句は、ゼカリヤ 11:12〜14 が、マタイ 27:3〜10 で成就しているところです。
見事な金額である銀30シュケルが鋳物師に渡り、ユダと他のイスラエルの兄弟の契りが無効になることまでは使徒達の中で成就していることは事実です。
そうして、ゼカリヤ 12:7まで読むと主はまずユダの天幕を救われると書かれているところです。
名前はユダが偶然合っていますが、合ってるのはユダだけなので関係ないとも思えます。
問題なのは、12使徒から兄弟の契りが無効になって別れた一人を最初に助けるというところだと思います。

37 :
そして他に大事なことは、宝物庫に投げ込まれた銀30シュケルが”見事な金額”と書かれているという事と、
宝物庫の納めなければいけないはずなのに、鋳物師に渡してしまったということです。
エレミヤ18:2〜4で、鋳物師は元の器を別の器に作り変えていくという部分です。
見事な代価であるなら宝物庫に入れておけばよかったんです。それがわからないから鋳物師に渡してしまう、
わかってないからイエスが教えた神の教えも自分の家の教えに作り替えてしまっていったんだと考えるとここも成就していることになります。
ヨハネ2:10でイエスは上等のぶどう酒を最後に出すという部分と、
ルカ14:7〜11で自分達が真の宗教だと言って上座に座っていたら最後に主立った友(ユダ)がきて恥をことになると考えると話が繋がります。
また、マルコ10:35〜44で、イエスの右または左に座るのは12使徒達に真理を教える者(ヨハネ16:13)で、
ユダに入るはずだった真理の聖霊がまだ降りて来ていない(ヨハネ21:22)可能性も考えられると思います。
そう思う理由は、天の仕組みにあります、創世記で雲の上が天(創世記1:8)だと書いてありますが、
マタイ5:45で父はご自分の太陽を上らせとあり、イエスは暗闇をともす灯火だとすると月ということになります。
そうすると、光に焦点を当ててみると月は自分では光らずにただ太陽の光を反射させているだけだということです。
月の光を見れば神の光を見ることになります。そしてその他の星は、自らの力で光輝いているこれが、人間でありサタンということになります。
しかしたまに月の隣で強く輝いている星があってその星は太陽の光を反射させているらしいです。
もしかしたらこれが、ヨハネ13:20でイエスが使わす者であり、ヨハネ16:14の真理の霊かもしれないと思ったんです。
そしてここまで全体の流れが、ユダの福音書と合致しているんですが、ユダの福音書は本当に偽物なんでしょうか?
こういう理由で全ての聖霊が真理の霊でない可能性をわたしは考えているんです。

38 :

要約できる内容ではありませんが、端的にいうと、真理はペトロやパウロではなく、ユダにあるという考えがあるということですか?
悪かと思いきや、それが善であるかもしれないという可能性なら私も理解できます。
キリスト誕生以前、創成記で、アダムとイヴにとっては自由と自立は悪でありましたが、キリストが復活し聖霊降臨後では祝福されています。
イエスが死なないければ起きなかったことでしょう。
ご存知かもしれませんが、ルシファーは光をもたらす者という意味だそうです。そしてそれは初期の頃キリストもそう呼ばれていたみたいです。
ユダの福音の真偽に関してはわかりかねます。ゆっくりではありますが、時が経てばわかるでしょう。

39 :
>>38
真理を話すのはユダではないです。
ユダの福音書によると、ユダに代わって別の者が起こされることになっています。
これがユダに入るはずの聖霊が別の人に入って真理を語る可能性があると言った理由です。
12使徒もユダも自分のしていることが、解っててやっているかどうかの違いはあれ、
神のご意志(預言を成就させる)通りに行動していることにはなるので、ここに善悪は無いと思います。
神は善なわけですから、神の命令に背くことが悪になり、
例えば、アブラハムが息子イサクをそうとしなければ神に背くので悪になると思います。
人しが悪だとか、子供をすことには愛がないだとか人間の考えにアブラハムがつまずいていたら神の友とは呼ばれなかったはずです。
だから、イエスに生きていて欲しいと言ったペテロの考えは悪だとイエスが言ったことが繋がります。
善悪に関しての認識がもしかしたら私とちょっと違うかもしれません。
預言の成就に重点を置いたイエスと大祭司カイヤファの行動は善で、神のご意志を実行している思います。
「忠実で思慮深い奴隷」の聖句の意味はかなり深いと思います。

40 :
像を作ってはいけないはずなのに十字架のキリスト像は何故良いのですか?

41 :
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42 :
>>40
実際の所は、よくないと思います

43 :
あげ

44 :
提案1 キリスト教限定のローカルルール申請しませんか?
  リンクされるキリスト教質問箱は 回答者を正規のクリスチャンに限りますって
  理由1:キリスト教を名乗るカルト集団が多く 質問箱が目立つため 利用されるおそtれがある
     カルト教義によって見分け排除するためにルールは必要
     板冒頭にもカルト問題重要性が明示されている
    2:現状ではノンクリスチャンや擬似キリスト教によって質問箱が乱立し 乱立スレを
      ノンクリが占拠し 正統派の教義を誹謗し初心者に混乱を招く
      正規のクリスチャンとノンクリや異教徒 擬似キリスト教と区別をつける必要がある
正規クリスチャンでこの問題を討議しましょう 
 
提案2
乱立スレと見分けやすいようにスレタイを下記の様式にしませんか?
【正規スレ】キリスト教質問箱000【*】
               ↑
               スレ番号 
*の第一候補 信仰希望愛
  第二候補 三位一体

45 :
カインにつけられた印とはなんですか?

46 :
>>45
>1:創世記 / 4章 15節
>主はカインに言われた。「いや、それゆえカインをす者は、
>だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主は
>カインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
人の禁止は 神からの命令ではなく 神からの恩恵なんだね。

47 :
つ旦

48 :
マタイ福音書27章でイエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ぶ場面がありますが、
これは詩編22章の言葉だという話を聞きました。
でも詩編の該当箇所を原文で見ると、サバクタニではなくアザブタニになっています。
この違いは一体どういうことなのでしょうか?
サバクタニはヘブライ語でなくて、ひょっとしてアラム語とかだったりするのでしょうか?

49 :
>>48
ヘブライ語聖書対訳シリーズ32 詩篇1
ルミトス 入ってヘブライ文化研究所
によると
詩篇22は 「エりー エりー らマー アザウターニ」に なっています
ちなみに マルコ福音書の 「エロイ エロイ レマ サバクタニ」の 「エロイ」は
アラム語の「エラヒ」(わがかみ)の ギリシア語の 音訳です

50 :
「聖霊」とは、具体的に何ですか。旧約聖書では詩篇の51:13に一度だけ
使用され、(すべての)人間の心の中に、既に与えられ、存在するものと解されます。
創造時に、創造主から人間に吹き込まれた「生命」でしょう。
一方、ルカ3:22には、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って
きた」とあります。
新約では、旧約の聖霊が改竄されたのでしょうか。マルコ3:29には、「しかし、
聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」とあります。

51 :
出エジプト記3:14では、神は、聖書における唯一の自己定義として、
「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言っています。この「ある」
とは、ヘブライ語の「ハーヤー」が原語で、「存在する」の意味だと
言われています。しかし、誰でも、何でも、何時でも「存在する」の
ですから、神の定義としては、「わたしは全存在である」としなければ
意味が通じません。しかし、クリスチャンの方々は、この「全存在」と
いう定義に激しく反対されます。何故でしょうか。

52 :
泥棒の神に教えてもらったら?

53 :
>>51
聖書は 心身一元論あるいわ霊肉一元論です
イエスーキリストが 肉体を持って復活したのは このためです
心身一元論は 一種の アニミズム なのです
アニミズムは どんな物にも 霊がやどている と考えます
逆に言えば 物無しには 霊は 存在しない と言えます
アニミズムでは 神は宇宙に遍在する と考え 大きな宇宙に 広がる霊こそ
神だと 考えます
しかし 聖書は 宇宙は神が創造したものだから
神は宇宙の外側の 存在でもあるからでは 無いのでないでしょうか

54 :
>>50
ルカ3ー22 イザヤ11以下の事でしょうね
マルコも そうでしょう
この「霊」は ヘブライ語聖書 「ルアッハ」です
また
詩篇51ー12以下の「霊」も「ルアッハ」 です

55 :
スレッドを建てました よろしくです
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1293677679/l50
【†】復活・キリスト教スレの自治を考たい【†】

56 :
たしかに聖書は古い書物だが、
古く、役に立たなくなった箇所は捨てて、
新しき「み言葉」と入れ替えなくてはいけない。

57 :
>>53
神概念は、人間の生命の機能としての観念・空想作用の産物です。そして、
その人間の生命が存在し得るのは、この狭い地球の上だけです。宇宙旅行も、
地球と同じ環境を維持しなければ、生命は死に絶えます。モーセが出合った
神も、この地球上です。
宇宙の外など観測できた人間が、これまでにいるのでしょうか。宇宙外
存在など、人間には無関係な存在です。それは、人間の観念・空想を超えて、
もはや妄想です。
そもそも、作られた存在である人間が、そのちっぽけな作られた脳で、
作った者のことを考えるのは、与えられた人間の能力の範囲外。それ自体が
人間の思い上がり、神の冒涜の行為です。

58 :
>>75
>そもそも、作られた存在である人間が
人間は 神に創造された 存在だから 外に神を探すのでは無く
自分自身の内に深く 入り込む事で 神を感じるです
自分自身を内観することで 神を観るのです

59 :
聖書は、専ら「外なる神」であり、「すべての人間の心の中に住む神性」という
観念はありませんね。後者であってはキリスト教は崩壊するから、困るのでしょう。

60 :
三位一体についてぐぐってこいやカス

61 :
>>60
三位一体は、「人間」が反対派を武力で追い出し、多数決で決めたもの。
そんなものに喜んでいるイエスこそカスだ。

62 :
本を読んでも本に読まれな。―文字を使うとも文字に使われるな。

63 :
聖書に「読まれている」のが、まさにクリスチャン。批判力はゼロ。

64 :
キリスト教信者でもないただ漠然と聖書を読んでみたいと思って新約聖書を読み始めた者です。
今現在、ホテルで貰ったギデオン協会発行の新約聖書を読んでいるのですが
これが私にとって読みづらく、どうしてこういう展開になっているのかわかりづらく難しく感じます。
もっとわかりやすいものはないでしょうか?
またこの聖書であっても理解しやすくなる方法(解釈本のようなもの)はありませんか?

65 :
>>64
カトリック的な解釈でも 良ければ フランシスコ会聖書研究所訳 新約聖書
が 安くて詳しい脚注が 付いている
聖書学からの解釈や 脚注が付いているのが 岩波書店の聖書
日本聖書協会の引照つき 旧約続編つき 新共同訳聖書が
脚注は少ないが経済的
新改訳 チェーン付きも有るらしいが 持っていないの 良く知らない
解説書で 安くて手に入り安いのは 加藤隆 大貫隆 の 新書
当時の歴史を 知る為には 岩波現代文庫 の聖書時代史

66 :
>>65
ご返答ありがとうございます。
その中から解釈や注釈が付いていて読みやすそうなものを選んでみたいと思います。
また質問で申し訳ないのですが、カトリックやプロテスタントで内容に差はあるのですか?
旧約と新約は読む優先順位などはあるのでしょうか?

67 :
今だったら公立の学校に宗教が入り込む事などありえないでしょうが
昔、自分は高校時代「聖書が無料で貰える。希望者は図書室へ取りに行きなさい」
と言われ、それで頂いた聖書を愛読していました。
しかし時が経つにつれ、引越しのどさくさなどに紛れその時の聖書を
なくしてしまいました。
そして今、また聖書が読みたくなり「聖書 無料」などでググると
「無料で進呈します」という教会が多数ヒットするのですが
そういうのは怪しくはないのでしょうか?
後に多額の献金を求められたり、そこの派に入信するように強要されたり
する可能性は無いですか?
自分は単に「聖書」が好きなだけで宗教上は無宗教者なので
キリスト教に入信するつもりはないのです。

68 :
聖書って本屋で売ってないのすか?
近くの紀伊国屋にも置いてないのですが?
教会に行ったらもらえるの?

69 :
カトリックと プロテスタントで 大きな差は無いと
考えて良いと思う
新共同訳聖書は カトリックとプロテスタントが共同で翻訳した聖書です
新約聖書は 最初から読むと良いと思う
旧約聖書は 創世記を最初に読んで
後は興味が有る所を読むと良い様な気がする。

70 :
>>86
大きな書店か 或は キリスト教書店 または カトリックの書店には有る
手に取ってみなくとも良いなら通販

71 :
いま 個人的に 安くて手に入り易く 面白いのは
NHK 心の時代 宗教*人生
福音書のことば
旧約聖書から読み解く
雨宮 慧
NHK 出版

72 :
聖書をとにかく安く 手に入れたいのならミッション系スクールの
そばにある古書店がオススメ

73 :
聖書を読む場合には、常に徹底的な批判的立場から読む必要がある。
さもなければ、生来の人格が、非可逆的に変容され、破壊されると
いう恐ろしい結果が生じる。

74 :
聖書は 宣教目的に書かれた書物では無いのです
だから 聖書だけで 宗教的な何かを得ようとすると
新しい宗教を創ってしまう事になるかも知れません
宗教的なものを得ようと聖書を読むなら 最寄りのカトリック教会で
聖書入門講座に参加することを 勧めます
プロテスタント教会は 例え日本基督教団の教会であっても
レベル低く 聖書の言葉を平易な言葉へ言い換える事が解説だと
考えている 阿呆牧師がいるので お勧めしません

75 :
宣教目的だよな。
なんでうそつくの。

76 :
>>74
聖書入門講座では、聖書の誤りや矛盾についての質問も受け付けるのですか。
誤りや矛盾をひたすら正当化するだけなら、それは幼稚園や小学校低学年の
「お勉強」と、何ら異なるところはありませんね。批判力(知性)を有する
大人のやることではない。

77 :
>>76
お前は信仰がわかっておらんwww

78 :
>また兄弟は兄弟を、父は子を、すために(所に)引き渡し、"子は親にさからい立って"これをすであろう
この意味がわからないのです。
誰か教えてくださると有り難いのです。

79 :
何でこの糞ジジイ自分で書かなかったのか

80 :
悪人が書き残したものかもしれない

81 :
ところどころすごく偉いこと言ってる気がする
だから読むんだけど
いらいらする

82 :
意味がわからない
なんだこれ
マジでしね

83 :
>>78
終末においてはイエスへの信仰ゆえに肉親にも裏切られるようなやべー状態になるよってことだな。
イエスを信じることによる迫害を覚悟せよ、つーことだな。
>>79
一応キリスト教では、イエスは神っちゅー設定だからな。
神が自分で筆をとって書くんじゃ様にならんだろ。
>>82
言われなくても十字架にかけられてもう死んでるんだが。
まあキリスト教設定では復活してるが。

84 :
新約で、イエスがヨハネに洗礼を受けに行く箇所
あれはどういうことなの?
神の子でも平等に接してほしいとかそういう事なの?
教えて詳しい人

85 :
読み比べろよ
http://www.keitaibible.net/m2/jn/jn01.html
http://www.keitaibible.net/ot/gen/gen01.html

86 :
>>84
まだ自分の出番ではない、という事。

87 :
聖母マリアの像は偶像ではないということがわかるヶ所を教えてください

88 :
新約聖書に、イエスって名前の人はどのくらい出てきましたっけ?
3人?
キリスト・イエスと、バラバ・イエス、あともう一人いたような・・・。
どこで登場するかも教えてください。

89 :
・もものしたで、これがどうして誓いになるのでしょうか?
24:9そこでしもべは手を主人アブラハムのももの下に入れ、
この事について彼に誓った。

90 :
ユダヤ教の聖書とキリスト教の聖書は同じなんですか?

91 :
>>90
旧約に関して言えばほとんど同じ。
特にプロテスタントのは。
カトリックや正教の旧約は、ユダヤ教やプロテスタントよりも少し多い。
新約はイエスの物語だから、当然ユダヤ教では使わない。

92 :
この前聖書を配りにきた家に女二人組みがいましたが
受け取ればやれましたか?胡散臭いの速攻で断ってしまいましたが
何かたまに来るんですよね、そういうの。若い女二人組みが来たのは
初ですけど

93 :
やられないように二人で来るわけだ。

94 :
それ、エホバだがね

95 :
ノアと動物たちは、箱舟の中でなに食べて生きながらえたの?
あと、クジラは箱舟にいれてもらったの?

96 :
>>95
干物や塩漬けなど保存食なんじゃない?
魚類や水生動物は面倒だからほうったおいたんでしょ。

97 :
ノアと言えば、昔の人の寿命が異様に長いのはなぜ?
なんか天罰でノアの子孫の寿命が減るみたいな話あるの?

98 :
(´∀`∩)↑age↑

99 :
あがってにぇ

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