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2011年10月1期戦国時代織田信雄を語る
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実績の割に知名度が低い戦国武将
上杉景勝VS伊達政宗
毛利元就って明らかに実力未知数だよね
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織田信雄を語る
- 1 :06/06/11 〜 最終レス :11/12/07
- 不肖の子と言われますが、実際はどうだったのでしょう
- 2 :
- 秀吉から、家康の領地だった駿河、遠江、三河
信濃、甲斐に移るように命じられたのを拒んで改易とか・・・・
全部で100万石以上なのに勿体無い。
- 3 :
- 舞は相当上手かったらしいね
父親譲りなのはここだけか。
- 4 :
- 家康か秀吉だったか忘れたが信雄は舞や詩文には精通しているが
肝心の武将としては全く無能と評したらしい。
- 5 :
- 安土城を燃やしたってのは本当なのかな。
凄く残念だ。
- 6 :
- 安土城があっては困る人物が燃やしたのよ
- 7 :
- 一応近畿で唯一服従していなかった伊賀を攻略した実績があるが、
人口の少ない小国伊賀に4万2千の大軍で攻めれば誰でも勝てるかな
- 8 :
- 何度か負けて、信長に怒られてるし。
- 9 :
-
- 10 :
- ルイス・フロイスが「信長の性格に最も近い」と記していたのは何故だろう
- 11 :
- 安土城は落雷で炎上したという説がある。
- 12 :
- >>10
父親の悪いところばかり似てしまったという解釈はどうだろう
- 13 :
- 関ケ原の織田一族 ◎所領加増 ○所領安堵 △改易 ×戦死
東軍:◎織田長益(信秀11男、有楽斉 子孫は芝村藩・柳本藩両藩主として明治まで存続)
○織田信高(信長7男 戦後、徳川将軍家旗本衆となるが、西軍に所属してた説有り。石田三成の旗本衆にいるのは同姓同名の別人?)
○織田信貞(信長9男 信高と共に東軍につき、徳川将軍家旗本衆となる。)
西軍所属東軍内応派:◎織田信雄(信長次男 家督を継いだ四男・信良の子孫、信浮・信美父子が天童藩の祖。五男・高長の嫡男・信休が柏原藩の祖。いずれも幕末まで存続)
西軍:△織田秀信(信忠嫡男、三法師 戦後、高野山へ追放、まもなく病死。)
×織田長次(信長11男 よく知らんが討ち死にしてたらしい)
○織田信包(信秀4男、老犬斉 大坂の陣直前に病死。暗説有り。)
△織田秀雄(信雄嫡男 大谷吉継に誘われて西軍に加担。戦後まもなく病死
- 14 :
- 信長の子ってみんな短命だよね
みんな戦死したり、若くして病死してる
こいつだけ長生き
- 15 :
- 弟の有楽斎も長生きだね
- 16 :
- >>14
一般的に評価の低い人は長生きだね。
今川氏真とか
- 17 :
- 信忠や信孝と違い子孫を残したんだから偉い
- 18 :
- 右大臣を貰った人?
- 19 :
- >>16
戦に巻き込まれずに済むしね
それに競争社会からドロップアウトするとストレス感じないというのもあるんだろうけど
- 20 :
- 何度か大敗し、信長にされそうになるも
なんとか2年かかって伊賀平定
それも滝川・筒井・丹羽らの活躍で
- 21 :
- 信雄さんって信孝より生まれるのが遅かったのに、
母親の身分が高かったから、次男にされた人ですね
- 22 :
- やっぱみんなの中では総合力
信忠>信孝>信雄??
- 23 :
- >>21
そういう複雑な事情が兄弟間の対立を生み出し秀吉に権力を奪われる事になってしまったんだろうな
- 24 :
- 俺が高校の頃の教科書には「おだ のぶお」ってフリガナふってあってなんだか笑った(=^Дメ)ゲラゲラ
- 25 :
- のぶおは笑わないが奇妙丸は奇妙
- 26 :
- >>22
織田家を存続させた信雄の圧勝
- 27 :
- 織田信成
- 28 :
- 有楽斉や信包の方が評価高い…信雄は嫌いじゃ無いけど。
- 29 :
- 織田信雄は、安土城焼いた事になっとる以外、何一つ俺の記憶に残らん御仁やな。
- 30 :
- >>29
むしろ小牧長久手以後、秀吉から警戒されないため、あえて表に出てこない人生を
選んだように見えなくも無い。
小牧長久手で秀吉と家康の間で翻弄されて、自分の限界を感じちゃったんじゃないかな?
- 31 :
- やっぱり策に乗せられて、家老を斬っちゃったのがマイナスに響いてるんじゃあないかな?
でも信雄って北畠の人間を謀したりしてるんだよな
前述の信長に似てるって話はこういう、激しい気性のことかもな。
- 32 :
- 織田の御曹司ってプライドが崩れたら、もう後はどうでもよくなっちまったのかねえ。
持ち続けたら持ち続けたで、淀の方の様な末路迎えただろうけど。
- 33 :
- 信長が転封に従ってたら、歴史は確実に変わっていた!
- 34 :
- 信長が転封命じられてる時点で歴史変わってるから。
- 35 :
- 信雄だった。
- 36 :
- ふいた
- 37 :
- かねて庸人、不覚人で名高い織田常真入道は尾張、伊勢107万石から、
徳川家康の旧領5ヶ国130万石への転封を拒否したため、下野烏山に
蟄居となったのである。その後、関ヶ原の戦いで石田方に与したため
捨て扶持2万石も没収され、越前宰相秀雄に寄食し、やがて大坂城に流寓し、
土いじりが好きな落廃した老人になりはてたのである。
大坂城内での密議を家康に売り渡すことによっていくらかの報酬がもらえると踏んだ
信雄はなんと!暴風雨にまぎれて大坂城を退去してしまったのである。
- 38 :
- 信長って何人子供が居たのよ? やることやってんだな
- 39 :
- ざっと20人ほど子供がいたようですが
- 40 :
- 男子は信正、信忠、信雄、信孝、秀勝、勝長、信秀、信吉、信高、信貞、信好、長次ぐらい
- 41 :
- 織田信成って、信雄の子孫なのか?
- 42 :
- 信高の子孫だよ
幕臣の高家織田家
- 43 :
- 信雄が家康の旧領に移転していたら五大老になっていたのでは??
- 44 :
- ええな、先祖が有名人で。
「俺の先祖、織田信長」なんて言ってみてぇわ。
ちなみにウチの御先祖様はお百姓さん。
- 45 :
- 織田無道は、誰とつながるんだ?
- 46 :
- 仮に信雄が秀吉に対し素直な性格であったとしても、難癖つけられていつかは厳封処置か改易はされていただろう。
主筋の子息は邪魔なはずだ。
- 47 :
- >>21
単に信孝の方が報告が遅くなっただけだろ?
>>46
信雄に対して手の出し難い理由があったのかな?
でも、文禄元年に、一応改易はされてるよね。
とはいえ、排除されたって程でもないからなぁ。
商人気質だったっていうし、もみ手でもうまかったのかね?
- 48 :
- 秀頼が大坂退転しても100万の太守でずっといられたか?って話だな。
おいらが天下人なら、やだ。
そんな大軍閥&しかも元主筋なんてきっつい。
- 49 :
- 三法師が十三万三千石だから、百余万石ではバランス悪いなあ
そのままはなさそうかな
だが秀吉は家康みたいに息の根は止めないような気もする
- 50 :
- でも、まぁ、織田信雄、今川氏真っていう戦国2タコ武将は、ちゃんと
江戸時代でも生き残っているからなぁ。
ある意味、これも器量なのかもしれん。
- 51 :
- 氏真がもっとがんばって「蹴鞠は武士のたしなみ」ってレベルまで普及させていれば…
- 52 :
- 劉禅っぽいよな。
- 53 :
- 大坂の陣の時、世間で信雄が豊臣方の総大将になるといううわさも流れていたようである。
信雄すげー
- 54 :
- 織田信雄
ヲタの部活
- 55 :
- 長益と信雄は生き方上手
- 56 :
- バカだったから生き残れたってのもあるだろ。
信忠、信孝みたいに中途半端に優秀だったら消されてただろう。
- 57 :
- 鼻毛抜きの前田利常みたいに馬鹿を装ったのかもよ。
- 58 :
- ここまで無能でヘタレだと爽快ではある
なんか素のままで生きたって感じで俺は好きだよ
- 59 :
- 勝長なんか、秀吉からは存在すら抹されてる。
馬鹿でよかったね、信雄。
信長には認めてもらえなかったけど、長生きできたんだもんね。
もみ手上手どうしで、秀吉とは気があったのかな?
- 60 :
- 父親の威光であるだけの地位
秀吉には敵わないと見極めた信雄はバカじゃないよ
- 61 :
- 織田秀雄
織田信雄の嫡男。
父が秀吉に逆らって改易されたにも関わらず、
秀吉の偏諱を受けて越前大野城城主に。
しかし、関ケ原の合戦で大谷吉継に加担したせいで戦後所領没収に。
東軍に加担して所領加増された父の跡目は弟達が継いでしまう。
- 62 :
- 信長亡き後の織田家は悲惨だな。低空飛行を続けている感じがする。
小牧・長久手合戦直後に、秀吉の甘い調略にのらずに単独でも断固決戦に持ち込めば良かったのに。
負けて死したとしても、歴史に違う意味で名を残せたと思う。
- 63 :
- 名より生を取った人なんでしょ
- 64 :
- 生き残ったもの勝ち
信雄=長益>>>>>>>信長=信忠=信孝
- 65 :
- 信包は?
- 66 :
- 足利だって喜連川で十万石格とはいえ、五千石だからね
名門で完全に滅んだところも多いし、上等なんじゃない、五万石
- 67 :
- 厳密には五万石じゃなくなるが
宇陀松山藩二万八千石→柏原藩二万石
+
小幡藩→天童藩二万石
- 68 :
- ルイス・フロイスが著書「日本史」で信雄のことをボコボコに言ってるのは有名な話だと思うけど
確か信雄が安土城を焼いたと言う話の出所でもあったはず
- 69 :
- 信雄放火説には興味があったので以前、「日本史」(もちろん訳本)をパラ
見してみたけど、信雄が放火したという記述は無かった様な気がした。
天正10年の「イエズス会報告書」(こちらも訳本)には安土城炎上の記事が
あるけど、「近くにいた信長の子の一人が、愚かなためか火をつけた」との
記述しかな信雄とは断定していないようだ。
馬鹿な息子=信雄と解釈されてしまって、信雄犯人説が広まったのなら哀れ
だ。
ちなみに同書は、「主(デウス)は信長の造った安土城が残ることを許さな
かったのだ」的な記述が散見できて、すごく胡散くさい。
誰か原文で確認した事のある人はいないのかな?
- 70 :
- フロイス日本史文庫版3巻176頁に
付近にいた信長の子、御本所(信雄)が焼き払うよう命じた
ゴホンジョ
とある。この本では、カタカナで振りがなが振ってある単語は、原文の音を
そのままカナに直したもののようなので、宣教師がゴホンジョが焼いたという
認識を持っていたのは間違い無いだろう。
- 71 :
- 名門北畠家の最後は織田信雄……
- 72 :
- >>70
なるほど、「御本所」となると信雄とするのが妥当でしょうね。
そうなると国内資料で安土城の炎上と信雄を関連づけてるのは若干ニュアン
スが違いますが「武功夜話」くらいでしょうかね。
>>71
北畠家は公家中院通勝の3男・親顕が名跡をついで公家として再興しましたよ。
子が無くて、結局一代で断絶してしまいましたが。
ちなみに母親は細川藤孝の娘(養女らしいが)だとか。
- 73 :
- 信雄配流先の秋田で伝えられていること。
・配流先の家の娘と出来てしまったとき、生まれる子供が
女なら薬を作って生計を立てよということで、実際に女の子が
生まれたことによって以後薬の販売を生業にしたという。
・大正天皇御巡幸のとき、奥羽本線八郎潟〜鯉川の間にあった
信雄配流先(天瀬川)近辺を徐行して通過したという。
- 74 :
- 小牧、長久手での信雄の単独講和って悪く言われる事が多いけど
非常に正しい判断だったと思う。
あの時、信雄が講和してなかったら家康も危なかったろうに。
- 75 :
- 『狂気の父を敬え』
鈴木輝一郎(新潮社)信雄主人公の小説ってこれくらいか?
この信雄は燭台を相談相手にしたり、結構デムパw
そして本能寺の黒幕。
- 76 :
- 秀吉は信孝を害してるから秀頼がされても文句はいえん
- 77 :
- 信孝は信長の後継者じゃねーもん
- 78 :
- 戦国時代なのにノブオってモダンな名前じゃん
とおもっていました。
- 79 :
- まぁ、何気にしぶといんだよな。
散々失敗しているんだけど、最後まで諦めないでちゃんと小大名にまでは
復活しているわけだし。
- 80 :
- 一度領土ゼロになってしぶとく再興させるのは強烈な外交手腕があったからでは?
- 81 :
- 鈴木輝一郎の「片桐且元」に出てくる信雄は飄々としていてちょっとカッコイイ。
- 82 :
- >>80
つうか、打たれ強いんだと思うが。大名の御曹司ならプライドが邪魔して
できないことでも、信雄はけっこうやってのけるから。
- 83 :
- なまじ有能でないだけに、生き残れたという感じかな。
結構評判の良かったらしい、信孝の死に方を考えると
そんな気がする。
秀吉にとって生かしておくのは危険だった信孝と
生きていてもどうでもよかった信雄の差。
「昔より 主を内海(討つ身)の 野間なれば 恨みをみよや 羽柴筑前」
尾張内海で腹を切った、信孝辞世の句。
昔、平治の乱で敗れた源義朝が、同じ内海の地で
家人、長田忠致に討たれた故事とかけている。
この時、信孝は腹を切った後、自分の臓物を掴みだし
壁に投げつけたとかいう話。
確かいまでも残ってるのかな?その壁は。
- 84 :
- 昔より主を内海の浦なれば 報いを待てや羽柴筑前 川角太閤記
昔より主を内海の浦なれば 尾張を待てや羽柴筑前 氏郷記 勢州軍記
昔より主を内海の野間なれば 報いを待てや羽柴筑前 坂役叢話
はしば が しばし ってのもあるな
- 85 :
- 信雄、信孝両方すのは立場上まずいから、
無能なほうを残したと。
信雄と信孝は中悪かったけど、信忠とはどうだったんだろうね?
信雄と信忠は同母だから、悪くは無いだろうけど。
- 86 :
- 信忠と信孝は意外とうまく行ってたらしい。
信雄はあまり家中ではうまく行ってなかったとか聞いた。
史板にあったけど、
信長>林、平手>武家気質
信忠>斎藤、美濃衆>武家気質
信雄>生駒>商人気質
信孝>丹羽、津田>武家気質
勝長>武田>武家気質
信雄だけ商人気質で、武家気質の織田家の中じゃ気が合わなかったとさ。
- 87 :
- >>85
同母と言っても、信忠は濃姫の養子だから、一緒に育った訳じゃないだろ?
信長と信行の例もある事だし、仲が良かったとは限らないんじゃないかな?
- 88 :
- あまりに資質が悪い場合、同じ環境で育った方が疎みやすいって事もある。
信忠結構気性激しかったらしいし、愚鈍な弟を可愛いと見るか馬鹿と蔑むか。
- 89 :
- 戦国の世で、天下をどうこうしようって家だと、愚鈍ってだけで罪だからなぁ
- 90 :
- 商人気質の信雄だから処世に長けて生き延びれたのかな。
この時代だと同母だからってだけで仲いい要素にはならないんですね。
武将としては駄目だけど、有楽斎と同じく文化人としては優秀な感じ?
- 91 :
- 処世に長けていたら減封されてないよ
むしろ長けていたのは長益のほう
- 92 :
- ずっと「のぶお」だと思っていた
- 93 :
- 100億あった父親の財産が相続税や借金や振込みサギなんかで1億しか残らなかった・・・てなカンジかな?
それでも長生きした信雄は無能だけど、ある意味スゴイ。
- 94 :
- 司馬遼太郎は信雄のことを「庸人」だの「愚人」だのさんざんこき下ろしていた。
- 95 :
- 信雄の孫娘が徳川忠長に嫁いだんだっけ。でも子供は無し。何処までも微妙な家系だ
- 96 :
- うちの先祖信雄に仕えて討死した
- 97 :
- >>81
織田信雄が切れ者にして風流人
真田幸村に赤っ恥をかかせたりと
- 98 :
- >>92
「のぶお」と読むか「のぶかつ」と読むか、いまだに決着
ついてないらしいぞ。
- 99 :
- 滝川雄利は誰からの偏諱だろう。
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