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2011年10月1期戦国時代細川晴元
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戦国の美姫、犯るなら誰?
城址巡りの旅 其の拾貳
細川晴元
- 1 :06/06/11 〜 最終レス :11/12/12
- 戦国中期の畿内の支配者。三好長慶に敗れたけど無能じゃないよ!
多分。
- 2 :
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- 3 :
- この人は評価が分かれる人物ですね
- 4 :
- どっちかっていうとあんまりイメージよくないかも。
自身で兵を率いて戦ったこともあるのに、信長の野望では公家さんの
かっこして口調は「まろ」。がっくり。阿波で14歳までを過ごしたのだから
まろはないだろうと思った。
- 5 :
- 守護以上の武家はそれが正しいんだけど
- 6 :
- ttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150021673/l50
こっちで語ったほうがいいんじゃまいか
- 7 :
- こっちってここだろ。
- 8 :
- おう、こっちだった。ミス。
【日本の】戦国時代の近畿地方【中心】
ttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149985549/l50
- 9 :
- ここで荒らしやってるヤツ話あるからこい!
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/intro/1148342525/
- 10 :
- 武田信玄だって守護大名出身じゃないか。正しいというよりも
ああいうのはイメージで決められるものだろう。
- 11 :
- 武田はただの守護。
細川はそれより上位の管領家。
家で比べるのは不適当。
- 12 :
- いや「守護以上」ってんなら同じだろ。
家じゃなくて個人で比べるのならなおさら。
- 13 :
- 細川晴元か
それより衰退の遠因は勝元にあり
直接の原因は、政元が澄之、高国、澄元と三人も養子をとったことにあるんじゃね?
- 14 :
- 細川政元が生粋のホモだったけ?
- 15 :
- 念力で宙を浮いてたからねえ。後醍醐といい奇特な人が多いな立川真言流
- 16 :
- 女を近づけるなとか。そりゃ跡継ぎで揉めるわ。
- 17 :
- あと、土食ったり、旅行に行ったり
- 18 :
- 細川京超家は江戸時代は何してたの?
明治に入って華族に列せられたりはしたの?
- 19 :
- 京兆家ですか
管領職は高国養子の氏綱で最後、永禄二年(1563)の死去により廃絶
少し後まで生き残ったのは、澄元ー晴元系
晴元の子昭元は信長のもとで蹴鞠の相手
昭元の子頼範は秀頼に属し、大坂の陣で敗戦、竜安寺→大和高島に退去
- 20 :
- 細川澄元、細川高国、細川晴元・・・
どれもぱっとしないなぁ・・・
- 21 :
- つ 細川昭元
- 22 :
- まあぱっとしているほうが人数少ないんだから。
ところで晴元って管領に就任していないって本当?
- 23 :
- そういえば こいつの息子は信長の蹴鞠の相手だった
- 24 :
- >>22
天文五年(1536)〜同十八年(1549)に管領じゃないかな?
- 25 :
- いや、その年に右京大夫にはなってるけど、管領に任命されていない可能性があるらしい。
実際、幕府の官僚だった当時の蜷川氏の日記には晴元を管領と呼ぶ記述が一つもない。
- 26 :
- 管領に相当する地位に就く、ってのもあるけど
よくわからないね
- 27 :
- >25
あと晴元の奉行人の署名が「管領代」じゃなくて「右京兆代」だったりね
右京大夫就任で、実質的に管領並と見なされていたようだけど
ついでに晴元といえば、なかなか偏諱が貰えなかった為に
「晴元」という名前になるのも随分後のことだったりもする
通説が先走っている人物だね
- 28 :
- というか、この人阿波での14年間何してたんだっけ?
あと「晴元」になる前は「聡明丸」で通してたんだろうけど、元服はいつだったの?
- 29 :
- 大永六年(1526)に堺で元服したらしい
しかしあれだね
勝元ー政元ー澄之ー晴元とみんな聡明丸だね
昭元もかな
- 30 :
- >28
「晴元」の前は、書状への署名を見る限りでは
義晴の偏諱を貰えるまで「六郎」で通してたっぽい
>29
昭元も聡明丸だよ
- 31 :
- 嫡流の子供はすべて聡明丸だからな。
しかし澄之は17歳で討死にして子供はいない。阿波出身の澄元は自分の子供に
聡明丸を名乗らせた。1512年当時は高国との抗争が続いていた時期だったから暗に
自分の系統が嫡流だと主張していたんだろうな。
六郎というのも京兆家当主の通り名かい?
- 32 :
- 京兆家嫡が代々聡明丸なのは、
京兆家始祖頼元の童名が聡明丸だったことに由来するようだね
>31
同じく京兆家当主であった政元の通称は九郎、澄之もこれを継承している
澄之を排して京兆家督を相続した澄元が六郎、晴元はこれを継承している
念のためにざっと尊卑で六郎を探したら、
稙国・満国・持春・教春・政国・勝之・教祐・成之などがいた
京兆家始祖頼元は五郎だし、六郎の面子を見ても京兆家当主が六郎というわけでもない
- 33 :
- それ以前は
頼之 弥九郎ー頼元 三郎ー満元 五郎ー持之 九郎ー勝元 六郎
- 34 :
- なるほど。しかしこの人、生まれてから畿内に来るまで阿波でどんな暮らしをしていたんだろう。
庇護者の三好元長は晴元より13歳くらい上だし、父親代わりとかになってなかったのかな。
まあ畿内上陸後の仲の悪さを考えるとそれはなさそうか。
- 35 :
- 32だけど
頼元は三郎だったね、間違いすまん
- 36 :
- >>34
ちょっと調べてみます、何かわかればいいですが
- 37 :
- 六郎だの聡明丸だの名乗って対外的に京兆家家督をアピったつもりだったんだろ
だがぬるい。ぬる杉。そんな名前を僭称するくらいなら
細川清氏を見習えよくそヴぉけ晴元!!!!!
と言いたい
- 38 :
- 阿波の暮らしは全くわからいけど・・・
元長の祖父之長が高国に敗死したのが永正十七年(1520)五月
翌月には晴元の父澄元が阿波で死去
時に元長二十歳、聡明丸七歳(元長の父 長秀は永正六年に敗死している)
それまで澄元と之長は、対高国戦で行動をともにしており、
ましてや三好も失意のどん底にあるわけだから、
元長から見れば晴元は再起の切り札、掌中の玉
大切にしたんではないでしょうか
翌年には義稙も阿波に流れてきて、切り札は一枚増えましたが
後の晴元と元長対立は、元長側から仕掛けたものではなく
堺入りの力となった、柳本賢治、波多野稙通、木沢長政と元長の対立から来ました
大永七年(1527)八月に元長が阿波に帰国したのは、柳本らの讒言を晴元が信じたためですし、
晴元に懇願され復帰し、高国を滅ぼしたまでは良かったが、
又も木沢らの讒言を晴元は入れ、天文元年(1531)に元長は敗死するわけです
ここから浮かびあがるのは、元長は晴元を軽んじてはいないこと、
逆に晴元は元長が疎ましかった、ということかと
ある意味長慶が父の仇と晴元を思っても、仕方ないですねこれじゃ
- 39 :
- >堺入りの力となった、柳本賢治、波多野稙通、木沢長政と元長の対立から来ました
茨木長隆などの摂津衆もこれに入るかと
柳本などは山城守護代職を元長と争っている経緯もあるね
ましてや高国を追いやる事が出来たのは、香西元盛讒死をきっかけに
波多野・柳本兄弟が高国から離反し、阿波衆と連携したことが大きい
それなのにその後に自分達より重んじられる元長ら阿波衆を、
この兄弟は苦々しく思っていそうだ
- 40 :
- 晴元の前は維元だったりして
- 41 :
- そんな名前が残っている史料はないw
- 42 :
- >>39
ら が抜けてたかな、すいません
両者の間で揺れる晴元、まあそれも当然なのか
元長からすれば、な・ん・でと思いそうだかけどね
>>40
面白いね、堺時代は義維だしね、主君は
天文元年(1532) か義晴を迎えたのは
- 43 :
- 確かに堺時代に晴元はしっくりこないな
でも>>41が正論だな
- 44 :
- 史料に残っている晴元の名称
『厳助往年記』永正8年3月21日条
「(前略)宗明御供三好巳下其勢八千余云々」宗明とは聡明丸もしくは聡明六郎ととれる
『ニ水記』大永元年3月18日条
「風聞和泉堺六郎上洛和談事不事調儀令治定仍為三好合力京勢数多令下向云々落着事候儀也」
享禄3年9月20日付綸旨案は細川六郎宛になっている
「本満寺文書」天文2年(推定)10月20日付の軍勢督促状の発給人名は「六郎」
「広隆寺文書」天文3年10月7日付の奉行人奉書の発給人名は「六郎殿代 諏訪長俊 飯尾堯連」
「玉林院文書」天文4年11月18日付の安堵状の発給人名は発給「右京大夫」
- 45 :
- 諱さえ機能しない時代があったということか?
- 46 :
- >>45
機能はしていた
ただ世情的に将軍一字拝領申請が出来ない状況だっただけ
晴元に限らず、伊達稙宗にも同じ状況が見られる
左京大夫官途申請と将軍一字拝領申請が遅れ、
家督後も永正14年まで伊達次郎で通していた
- 47 :
- >>38
確かにその通りだが、高国という共通の敵がいる以外に、この両勢力が協力
することなどあり得ない。結局晴元は自分の支持基盤としてどちらかを選ぶ
必要に迫られたのだから、長慶の仇の話は個人的感情を出るものではないだろう。
そしてかつて父澄元が、阿波勢力を嫌う畿内勢力に叩き出されたために
二度と京に戻る事がかなわなかったことを知っている以上、いかに年少
とはいえ畿内勢力と組むことをためらうとは思えない。
元長は晴元をないがしろにしてないというが、元長は高国との戦いで戦死した
柳本賢治の遺児を、晴元が家臣に取り立てようとした矢先に兵を出してしている。
これは畿内勢力との協調を拒むものとして晴元を激怒させている。このことが
一向宗を動かす契機になったと思うけど。
- 48 :
- >>47の意見には大筋で同意だ
だが阿波勢力ではなく畿内勢力を支持基盤に「選んだ」のではなく、
晴元が京兆家家督を自称する以上は、晴元にとっては京兆家の分国の
丹波・摂津が一番の支持基盤であるのは至極当然なではないのだろうか。
柳本遺児の登用も、丹波で一定の勢力を誇る波多野・柳本・香西などとの
結びつきを一層強めることで、丹波方面への自らの影響力を強めたかったのだろう。
茨木長隆らの摂津衆を多数新規に登用するのも同様。
…どうでもいいが三好政長って畿内の連中と仲いいよな。そりゃ晴元に可愛がられるわ。
- 49 :
- 確かに。どうして三好一族なのにあんなに仲いいんだろ。桂川の戦いでも
波多野・柳本・香西らと一緒に戦っているし。
- 50 :
- こいつをさっさとしておけば、長慶も無駄な時間を費やす事なく勢力拡大できたのにな。
- 51 :
- >>49
茶飲友達人脈だろw
- 52 :
- 興味があるんだが、勢力関係がわかりにくい…。
政元時代から勉強したほうがいいのかな?
- 53 :
- 確かにややこしい。流れを説明すると・・・。
政元、将軍を追放・首の挿げ替えで権力を握る。
↓
後継者争いで、養子の澄之に政元される。
↓
その澄之も、もう一人の養子澄元にされる。
↓
その澄元も、さらにもう一人の養子の高国に京都から追い出される。
↓
澄元と高国は争うが、最終的には高国勝利。澄元は死亡。
↓
数年後に澄元の遺児晴元が高国に戦いを挑み、高国敗死。晴元が細川家家督に。
こんなもんか?わかりやすく書いてみました。
- 54 :
- >>53
サンクスです。
- 55 :
- このあたりは井沢元彦の「逆説の日本史」でも華麗にスルーされているからなあ・・・。
- 56 :
- 戦国時代の始まりは応仁の乱ではなく、明応の政変だというの認識が学会での主流だというのに・・・
- 57 :
- >>47
>>48
晴元が軸足を畿内勢力に移したと理解します
その判断が良かったのか悪かったのかは、別ですが
- 58 :
- じゃあ三好元長について行く!という判断をしたとして
その先はどうなったのだろう。畿内の諸勢力を阿波の兵だけで
排除できたのだろうか?そもそも元長がいつまでも使われ続ける立場
かどうかも怪しいしな。先の事はわからんね。
- 59 :
- 木沢なんて策士だから
元長とともに晴元も葬られる可能性が大きいかな、確かに
- 60 :
- >>58
晴元が畿内諸勢力を全て敵に回したとしたら、
早い時期なら細川晴国、後なら細川氏綱につく勢力が圧倒的に多数になり、
良くても再び阿波に逼塞の憂き目かと
最悪パターンは>>59の言う通りになりそうだな
- 61 :
- 結局、敗退した父を見ている以上、それが最良の選択肢だったんだろう。
>>57の言うように判断が悪いことがあるとは思えないな。確かに最終的に
三好長慶に負けはしたが、約20年畿内を支配したのは間違いない事だし。
三好も少し畿内を意識しすぎだったんじゃないのか?だから長宗我部に結局は
滅ぼされてしまったんだよ。
- 62 :
- 政元 明応二年(1493)義材追放ーー永正四年(1507)害
澄之 永正四年(1507)相続ーーーー同年戦死 その間二ヶ月
澄元 永正四年(1507)相続ーーーー永正五年(1508)近江に落ちる
高国 永正五年(1508)入京ーーーー永正十六年(1519)近江に逃れる
澄元 永正十七年(1520)入京ーーー同年阿波へ逃れる その間二ヶ月
高国 永正十七年(1520)入京ーーー大永六年(1526)近江に逃れる
晴元 大永七年(1527)堺に入るーー天文十八年(1549)近江に逃れる
高国の敗死とか晴国の存在とか、抜けているところもありますが
高国が長いかと思っていたが、>>61の言うとおり晴元が長いんですね
- 63 :
- >>62
晴国は京を制圧できていないし、抜けていても問題は無いw
- 64 :
- 晴国は氏綱の前段階という感じ。
晴元は子供のころから50近くまでひたすら戦い続きという感じか。父澄元、
祖父政元、曽祖父勝元より長生きしたのにねえ。
- 65 :
- 堺公方
- 66 :
- 氏綱か
最後の管領ですね
晴元はバランスとってたからまだ力がありましたが、氏綱は長慶頼みの傀儡管領
晴元の晩年は失意のどん底かor悟りの境地か?
- 67 :
- 管領家の妾腹と、庶流の嫡男どっちが格上なんだろう。
- 68 :
- 普通に考えると
阿波とか和泉とかの守護のほうが高いと思う
適当な言葉が見つからないが、江戸期の部屋住みみたいなもんでしょ、管領家の妾腹って
庶子でも京兆家相続すれば、ガラリとかわるでしょうが
- 69 :
- >>66
う〜ん、最終的には降伏したような感じになったけど、それまで約10年間戦い続けていた
訳だし、力は出し切ったんじゃない?1561年時点では、忠臣だった香西元成もすでに亡く、
一方の将、三好政勝は健在だけど、活動拠点の丹波の大部分は松永長頼に制圧されていた。
抵抗は続けられない訳じゃないけど支持基盤は確実になくなっていたし。
残る方法は六角に援軍出してもらうぐらいだけど、将軍は長慶の手中だから六角が動く
可能性は低いし。まあ潮時な感じもする。しかし長慶は晴元より先に死んでいたら
話は違ったかも。没年は一年ちがいだしな。
- 70 :
- >>69
長慶が先に死ぬ・・・
晴元は有力な家臣も勢力圏も失ってるから、
もう気力がなさそう
相手が久秀だし、下手打てばさらに哀れな末路が・・・
- 71 :
- まあそうかも。やっぱり長慶のほうが若いしね。
- 72 :
- 宗教勢力の対応に苦慮してるよね
法華一揆
一向一揆
比叡山
- 73 :
- 確かに苦慮した。しかし、うまく利用もしたな。三好元長を倒せたのも一向宗
を動かしたおかげだし、法華宗は比叡山の協力で京都からたたき出した。
全てうまくいっていたわけじゃないけど。
- 74 :
- と言うか利用したつもりで、手を出してはいけないものに手を出してしまったのでは
一向一揆は元長を敗死させ図に乗って暴れ出すし
しかたなく法華衆と組み山科から追い出したが、両門の争いは続き
ようやく講和したあとの平穏は、松本問答に端を発した比叡山の進攻で破れ、
京の大部分を焼く始末・・・
こんなことしてるから勢力が自身の弱まるわけよ
- 75 :
- 自身の勢力ね・・・
ごめんなさい
- 76 :
- 連投申し訳ないけど
やはり細川、ひいては畿内の更なる混乱は政元が原因と思う
斯波、畠山の身内同士の争いを散々見ているくせに、
澄之と澄元の両方を養子にしたんだから
- 77 :
- 一向一揆の暴走が有力被官を多数敗死させたことで、晴元の勢力は確かに削がれたように思う。
しかし法華一揆に関しては、当時の武家の不在が続く京都において
法華一揆が武力をもって自治権を行使し、その勢いは武家をも凌ぐほどであったこと考えると、
晴元が京都に入るためには何よりもまず法華一揆の勢力をそぐ必要がある。
その為に法華と対立していた一向一揆にぶつけ、更にとどめに山門と佐々木京極をぶつける。
天文法華の乱以降、法華一揆が立ち上がることがなかったことからも、
自身の手を汚さずして法華の徒をここまで押さえ込んだやり口は老獪ともいえるんじゃないだろうか。
一向一揆にしろ法華一揆にしろ、晴元がまともにぶつかったら更に大事になってたんじゃないか?
信長も一向一揆だけであれだけ手を焼いてるんだし。
- 78 :
- ごめんね細かいことだけど、六角だと思いますよ
対畠山義宣で証如に援助を依頼しなければ、どうなっていたか・・・と言いたいだけです
その後の一向一揆がどうなったか予想できないので、なんとも言えないけど
まあここらで・・・
- 79 :
- ごめん、訂正有難う
- 80 :
- >>78
・畠山義宣に木沢長政が討たれる
・勢いに乗って畠山が和泉にも侵攻
・和泉の荘園をかねてより狙っている根来も加勢
・和泉一国奪われる
というパターンもあるかも。
堺が押さえられたら相当痛そう。
- 81 :
- 一向一揆を巻き込んだのは
やむにやまれぬ判断かもな
- 82 :
- 確かにどんな事態が起こるかわからなかったが、畠山義宣ー三好元長を
潰すのに、兵力の乏しい晴元には他に選択肢があったとは思えない。
その後、宗教には宗教をぶつけるというのはある意味ごく自然な成り行きかも知れない。
- 83 :
- この頃の畿内情勢は複雑で本当に面白い
- 84 :
- 三好スレも立ったけど、ここに来るまで
応仁の乱→信長上洛までが空白だった、三好長慶ぐらいは知ってたが
晴元も結構なかなかだね
調べれば調べるほど
- 85 :
- 三好スレとはつかず離れずのほうがいいだろう。
時代も場所もほとんど同じだが敵対勢力だし。
- 86 :
- 毛利と尼子スレみたなもんだな
お互い切磋琢磨できれば
- 87 :
- 複雑で面白いんだけど政元退場後は主役が次々に交代するから小説化しずらいな
かろうじて主役を張れそうなのは六角定頼ぐらいかな
- 88 :
- 個人的には三好之長ー元長ー長慶の三代なんか面白いと思うけど
細川スレだから
1、高国
2、晴元にしとこうか
波乱万丈だから
- 89 :
- >>87
六角定頼は1552年没だし、畿内の情勢に全て関わりがあるわけじゃ
ないしね。それになんだかんだ言っても政元暗後から信長上洛まで
60年ぐらいあるし。一人の人物に絞るのは無理があるんだろうな。
- 90 :
- 細川晴元の子で、昭元の弟の延元ってなにか情報ないですか?
- 91 :
- 晴元に延元って子いるかな?
- 92 :
- あれ。晴元の子って昭元、晴之のほかにいたっけ?
- 93 :
- 木沢長政の評価ってどうなのかな?
- 94 :
- >>93
極悪人以外有り得ないでしょ。
- 95 :
- んなこたーない。
- 96 :
- 木沢は畠山から始まり、コロコロ動く
まあこのころの畿内はそういう人が多いが
- 97 :
- 赤沢朝経とか柳本賢治とかのこと?
- 98 :
- 赤沢はなんか一揆を鎮圧し損ねてされちゃったんだっけ?政元の家臣という
イメージしかないな。
柳本賢治は畿内の利害関係に忠実というか、反三好、反細川高国という路線
を突っ走ってこれまた浦上村宗にされた。
木沢は、上にのし上がりたくて色々やったような感じだな。主筋の畠山を晴元の
力を利用して越えて、宗教戦争のなかでも活躍して、実質的な晴元政権のナンバー2
くらいの位置につけた。もうこれくらいでよかったのになんで晴元に逆らうこと
をしたんだろう?反旗を翻せば必ず三好が潰しにかかるのはわかっていただろうに。
- 99 :
- 柳本賢治をどうしても「やなぎもとけんじ」と読んでしまう。
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本能寺の黒幕は朝廷だった!
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