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2011年10月1期戦国時代日本の戦国時代 合戦の虚像と真実
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日本の戦国時代 合戦の虚像と真実
- 1 :06/06/20 〜 最終レス :11/11/13
- 日本の戦国時代の合戦の虚像と真実について語るスレ
煽り誹謗中傷抜きで大人の議論をしましょう
- 2 :
- いいねー
でも手元にには関東の資料しかないけど
- 3 :
- センセイ!質問!!
戦国時代の戦場って、街道沿いとか河川敷、田畑みたいなところになるの?
雑草生い茂ったところじゃ戦闘どころじゃないよね。
素人でスマンです・・・教えていただければありがたい。
- 4 :
- 開けているならところ構わずってイメージはあるけど、どうなんでしょうね?
- 5 :
- どう考えても 原野 で合戦しているイメージがあるので
少し考えたが、ちょいと仮説
当時の雑草は今ほど背丈が高くない
何故って、セイタカアワダチソウは戦後に入ってきた植物
ススキくらいでしょ、背が高いのは
仮説ですが
- 6 :
- ありがとうございます。
騎馬隊のスレを見てて、日本の戦場で騎馬が活躍出来たのかなとおもったもので。
- 7 :
- 山城での攻防戦がほとんどだな、残念ながら。
大軍での野戦は数えるほどしかない。
- 8 :
- 合戦しにオーストラリアに行ってたんだよ。
- 9 :
- 有名な長篠も川中島も桶狭間も関ヶ原も説得力のある新説が次々と出されてるし
多くの合戦は相当脚色してあるんだろうなあ。
- 10 :
- 基本的に開けてるところには集落と田んぼがあるはずだから、
とりあえず、ほんとの平原みたいなものは余程の僻地で無い限りありえないと思う。
わからんが。
あとは、今の山は江戸期に植林でできたもんの筈だから、
当時の山は原生林みたいなものだったと予想。
- 11 :
- >>10
そうかも知れないし、違うかもしれない
漠然としたイメージなんだけど、江戸期以前って日本全国に原野広がっていたような
内藤新宿の話なんかを参考にすると、そう思ってしまう
当然関東平野と濃尾平野、それから山がちな地形はまた違うでしょうが
- 12 :
- 日本の戦国時代 合戦の虚像と真実2
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1147453486/
軍板の本スレ
- 13 :
- えらく荒れてんなw
- 14 :
- 関ケ原の合戰は日本全國で東西それぞれ弐拾萬超の大軍勢が競ひ合つた一大決戰。
那古屋の邊りにのみ視點を奪はれると全體を見誤る。
- 15 :
- >>10
当時は都市人口率が非常に低く人口が分散していたため、都市部でも原野があった。
原野は至る所に広がっていたよ。草原というより、ススキ野原といったところ。
今の山や森はそれまで広葉樹林主体だったところに杉を植林したもの。
- 16 :
- 品種改良される前の稲って、ほんと場所選んだからねえ。
今の米の名産地なんて、当時は米は駄目ぽってとこ多いし。
当時でも肥沃だった筈の美濃、尾張、近江ですら原野は多かった。
穀物は寒さだけがクローズアップされがちだけど、何気に水はけが結構問題なんだよね。
- 17 :
- >>15-16
ありがとうございます
>>3が解決したような
- 18 :
- >16
その辺は当時の治水能力というのも無視できない。
雨が降ると直ぐ洪水になるので平野部に田畑を作ることが出来なかったんだよ。
だから戦国以前は水の便のいい丘陵地帯が耕地として利用されたんだな。
うちの田舎はひどい土地で明治に入るまで平野部に田畑なんか作れなかった。
置県後、交通事業を優先するか治水事業を優先するかでもめて、分離しちゃったくらいだし。
- 19 :
- >>18は、いったい、、、おいくつなんだろふ???
- 20 :
- ちなみにオレの家は、明治末年は丘沿いの薄暗い湿地だった
って知ってるの、意外と明治の話とか江戸末の話は
- 21 :
- 江戸以前は関東平野もかなり湿地が多かったみたいだな。
今は郊外ならどこいってもたんぼばっかりで、
それを基準に見ると相当な人口養えたんじゃないかなと思うけど、
関東が乾いたのは江戸幕府が利根川を太平洋に注ぐそうにしてからっぽい。
それ以前は常陸の南部、下野の南部、下総から武蔵の江戸付近まで
ちょっと多く雨が降ればすぐに水浸しになったようだ。
香澄浦、香取浦から今の利根川に沿って下妻付近まで沼と湿地で
ちょっと大げさに言えば半島状の地形といってもいいくらいだった。
- 22 :
- >>6
武士ってのは元々騎馬武者のことだよ。
馬上戦闘できてあたりまえの連中のことだ。
騎馬の集団突撃も源平合戦、元寇、戦国期(信長公記等)の史料に残っている。
- 23 :
- 『信長公記』 太田牛一
一番に山県三郎兵衛、推太鼓を打つて懸り来り供鉄炮を以て散々に打立てられ引退。
二番に正用軒、入替、かゝればのき、退ば引付、御下知のごとく鉄炮にて過半人数うたれては其時引入るなり。
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
人数を備へ候身がくしをして、鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され無人になつて引退く。
四番に典厩一党黒武者にて懸り来り候。
かくのごとく、御敵入替へ侯へども、御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、
足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。
五番に馬場美濃守、推太鼓推にてかゝり来り、人数を備へ、右同前に勢衆うたれ引退く。
- 24 :
- きちんとはなしするなら、ちゃんと言葉の定義をある程度決めておいたほうがいいんじゃねえの?
騎馬突撃つーのは、従者は伴わず、純粋に馬に乗った兵だけでたくさん集まって突撃したってことなの?
あと馬上戦闘って言うのは、馬の上で弓を撃つのまで含めるの?
- 25 :
- 日本史板行くが吉
- 26 :
- なんで日本史板に誘導するのかわからない。
- 27 :
- 何の為にこの板出来たんだ?w
- 28 :
- >>24
何言ってんだ全く。鎌倉時代は従者も騎馬だっつーの。
- 29 :
- >騎馬の集団突撃も源平合戦、元寇、戦国期(信長公記等)の史料に残っている。
>>28
自分の発言で鎌倉時代も戦国時代も一緒くたにして扱ってるじゃん。
個人の感覚で言葉の使い方に齟齬が出るから、そうならないように
詳しく書いたほうがいいといっているんだけどね。
あと、所謂騎馬軍団については>>23がよく引き合いに出されるけど、
馬を入れたと書いてあるだけで、どういう状態で馬を入れたのかは書いてないんだよね。
オイラの感覚では、戦場には馬を連れてこないのが通例なのに馬に乗って戦場入り
(無論たくさんの徒歩武者をや足軽も伴って)した奴がいたので
まあまあ珍しくて書いたという風に思うんだけれども。
疑問があるんだが、鎌倉時代の馬上戦闘っていうのはほとんど騎射だよね。
突撃という言葉の使い方としては、おっかない棒とか槍とかを持って
密集して敵陣に突っ込んでいく姿をイメージするんだよね。
例えばこの↓のページのAね。
ttp://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jyuhou_to_rekishi02-03.htm。
鎌倉時代の戦闘について詳しく研究した書籍があったら教えて欲しいのう。
- 30 :
- 勘違いしている奴多そうだけど、騎馬兵だけの部隊ってそれほど強くないぞ。
弱いとは言わないが、数が同じなら騎馬兵と歩兵をミックスした部隊の方が
むしろ強いくらい。騎馬兵だけだと、馬の弱点を補えないんだよな。
現在で言えば、騎馬兵・歩兵をミックスした部隊ってのは、機甲師団にあた
る。戦車を中心に歩兵がサポートして、敵をつぶしてゆく戦い方だな。
騎馬兵だけで構成した場合の最大の利点は、攻撃力よりも移動力の方。今
でいえば、空挺団にあたるが、空挺団がそうであるように基本的に奇襲に
つかう。
- 31 :
- まあ、上の「信長公記」の記述から、長篠で騎馬はほとんど使われてないってことがわかる。
実際問題、武田家の陸運法が騎馬を用いた物なワケだから、
その騎馬を戦闘で失うことは、かなり痛手だと思うわけで。
長篠と武田家に限ればね。
- 32 :
- >>29
神戸市文書館(近藤好和)
ttp://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/genpei/bugu/bugu.html
『源義経』
ミネルバ書房(2005年)
『騎兵と歩兵の中世史』
吉川弘文館(2005年)
- 33 :
- >>30
ミックスはしないほうがいいんじゃないか。
最大の利点である機動力を削ぐことになる。
騎兵は騎兵として独立運用し、
なおかつ周囲の歩兵や砲兵の支援を受けるという形が望ましいと思う。
- 34 :
- 24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 09:09:04 ID:bQZ2Z3RZ
グスタフアドルフのスウェーデン軍は騎兵の長剣突撃で有名だが、
そのスウェーデン軍の装備目録によると、騎兵用軍馬の体高は112〜133cmと日本馬より体格が小さいそうだ。
前列が短銃で斉射したあと、長剣を振りかざして突撃するという戦法で活躍した。
(昭和28年に、新田義貞の鎌倉攻めの戦死者と共に出土した128体の馬の平均体高は129.5cm)
これほど体格の小さい馬でも突撃は十分可能である。
また、モンゴル軍の軍用馬の平均体高は120〜130cm程度で、
モンゴル人はこの小型馬に乗り戦闘を行なったわけだ。
25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 09:16:22 ID:bQZ2Z3RZ
>>10
スウェーデン馬ほど小さくないとはいえ、
中世ヨーロッパの馬もせいぜい130cm台で、max142cmといったところ。
>>24で言った鎌倉攻めの戦没者遺跡からは140cmの馬も出土している。
出土した中でもっとも分布数が多かったのは126〜136cmだった。
34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 21:24:54 ID:bQZ2Z3RZ
西洋みたいに突撃で中央突破して指揮系統を分断したり、
側背を包囲して包囲を完成させる、なんて用兵はしてなかったかもね。
日本でも集団で乗り入れて敵の陣形を崩すことはしていたようだ。
長槍には「槍衾(やりぶすま)」という騎馬への防御戦法もある。
文字通り密集した数列の横隊で槍を隙間なく並べるわけだ。
騎馬が近づいてきたら、槍の柄で地面をバンバン叩いて脅す。これは動物に非常に効果的なのだそうだ。
そして膝をついた姿勢で槍の尾部に付いている、石突という尖った金具を地面に突き刺し、槍先を敵に向ける。
突き刺さる馬の衝撃は人間で受け止められるものではないので、こうするわけだ。
敵の騎馬が突っ込んできたら串刺しになる。
- 35 :
- >>33
それは、封建制領主の軍隊では無理なんじゃない?
封建制の軍隊は粒の大きさがまちまちの葡萄の房に例えられるように、質・量のいずれも均一ではない。
当時の騎兵は兵科として存在するのではなく身分として存在している。
領主だけ騎兵として再編しちゃったら、あとの足軽(大名からすれば陪臣)は誰が指揮するの?
- 36 :
- 某HPからのコピペっす
でも単一兵科はあんま聞いたことないなあ
しかし時代が下り中世も後期になると、武将・大名が軍団の装具や資材を一括して集めたり、
動員された兵士全員の装備の内容に注文が入ったりする様になる。
組織としても動員した兵士を中央に一度集めてから再編成したり、
武将・侍を指揮官として各部隊に配属するという、中央集権的組織に変わっていく。
(これは各武将の独立・在地性が、著しく低下して行く社会的・政治的傾向と連動していると思われる。例えば寄子寄親制。)また武将・大名直属の兵士の数も増える。
つまり寄せ集めの度合いが減っていくという事である。
- 37 :
- 戦国時代の戦術とかはどうだったんだろか
ヨーロッパはギリシャ・ローマの時代から単一兵科で
高度な戦術をもっていたけど
戦国時代はとりあえずごっちゃで殴り合いって感じ?
ハンニバルみたいな采配の芸術は無いの?
鉄砲取ったらアレクサンダー大王や古代ローマ軍にも負けそうなんだけど>戦国軍団
- 38 :
- 近世日本の城郭は世界でも有数のレベルって言われてるぐらいだから
それを攻め寄せる技術(そこまで行く戦術も含めて)ってのも、それなりに高いんじゃないかと愚考。
まあ俺は戦術はよく知らないんで、あくまで愚考だけど。
でも城(というか縄張りね)は、ほんと調べれば調べる程レベル高いよ。
- 39 :
- >>36
それは、地方知行制の形骸化・廃止による家臣持ちの陪臣の減少及び大名直臣の増加を俟つ必要があるよね。
現代の組織で言うと広域暴力団型から自衛隊型の組織、つまり武士限定だけど国民軍に近い形。
江戸時代では幕末各藩で見られた農兵隊、幕府歩兵隊などがそれに近いかも。
ゥ隊も意図としては近いけど、地域・職域から自発的に編成されたものが多く、規模が均一でないという面で広域
暴力団型の尻尾を残している。
幕末頃の兵学思想になると、三兵戦術とか導入されてるのでそろそろ机上の学問としては騎兵・歩兵・砲兵という
区分が志向されてきていると思われ。その実態は別として。
- 40 :
- >>37
> 戦国時代の戦術とかはどうだったんだろか
> ヨーロッパはギリシャ・ローマの時代から単一兵科で
> 高度な戦術をもっていたけど
時代によって違うのでは? 皇帝専制・絶対王政時代であればそういう編成・運用ができていたと思うけど、小諸侯
が乱立し、皇帝・王と言いながらも単なる盟主的存在だった時代には日本の戦国時代に近い形だったと思うが。
兵制が我々に馴染み深い国民軍形式になったのはナポレオン以降順次各国に普及した結果でしょ。
それ以前の封建軍だったら、旅順も陥落しなかったし第一次大戦の西部戦線が塹壕戦主体の消耗戦になるはずも
なかったと思われ。
- 41 :
- >>40
用兵戦術の知識はローマが滅んでから一旦衰退してるんだよね
中世の暗黒時代なんかそう
ルネサンスを経て15〜16世紀前半にやっと古代ローマに並んだって感じ
兵器はずっと進歩してるけど
- 42 :
- BC4世紀のマケドニアの斜線陣形のファランクス(6mの長槍と大盾を持った重装歩兵の密集陣形)に、
日本の諸兵科連合が勝てるかなあ・・・鉄砲あれば勝つかもだけど
マケドニア軍は重歩兵を集中した右翼が前、左翼は軽歩兵を中心に後ろ斜めに布陣、両翼に騎兵を置く
日本は諸兵科連合
日本が何も考えないで横一列に布陣して、マケドニアがうまく戦えばこんな感じ
騎ママ
侍侍侍侍侍侍侍侍侍侍 侍侍侍 侍侍侍マ
侍侍侍侍侍侍侍侍侍侍 侍侍侍侍侍侍侍侍侍マ
騎ママママ侍マママママ
→. マ
. マママ 騎
. マママ
ママママ
マママ
ママ
騎 ママ
マ
斜線陣形の狙いは、手薄な自軍左翼の突入を遅らせている間に、分厚い右翼が敵左翼を圧倒し、撃破して敵左翼を包囲すること
でもこれ側面攻撃に弱い対ファランクス用の戦術なんだけどね
日本側も甲冑だし何かしら反撃してくるだろうが、長槍の絶対数の差と正面圧力には正直苦しむと思う
まあこのレス自体適当なんであまり気にしないでください
- 43 :
- まあ、その状況下ではバカでも横陣布くこた無いわな。
- 44 :
- >42
マケドニアファランクスの弱点は密集陣形故の機動力の低さにある。
初期ローマの槍兵密集陣が蛮族に敗れたのはこのあたりにある。
そこから機動力重視の盾に小剣、投槍を装備したおなじみの編制となる。
戦国軍がその点に気づけば戦い様が有ると思う。
うーん、マケドニア軍と戦国軍が同数の場合はマケドニア軍のほうが包囲されそうです。
マケドニア軍は方陣の上に密集しているので正面戦力が少なくなるのに対して、
戦国軍は飛び道具による攻撃から戦闘に入るゆえに横隊陣が基本となるので正面戦力が広くなります。
マケドニア軍の正面に対峙した部隊は簡単に蹴散らされそうですが、残った部隊は左右から包囲攻撃ということになりそうです。
- 45 :
- >>44
マケドニア軍ではアレなので同時代のテルシオ〜マウリッツ〜グスタフ・アドルフの軍隊
と較べると・・・
正面から戦えば戦国期軍隊の必敗、但し機動戦、伏撃、奇襲、急襲、夜襲といった不意
を付く形なら戦国期軍隊が優勢
後、地形にも大きく左右され、起伏の多い地なら日本、平原なら欧州の軍隊が有利
- 46 :
- >>44
脆弱なファランクスの側面を包囲される危険を防ぐための、両翼の騎兵ですが
マケドニアの騎兵が充実していなければ
ローマにやられたときと同様、日本側の側面攻撃を支えきれないでしょうね
日本の正面戦力が広いと、戦列がその分薄くなり突破される危険はありますが、
両翼の幅が広がり側面攻撃に割ける部隊の数は増える
鈍いファランクスを正面に拘束し騎兵を撃破できれば・・・
それまでに日本側の正面がどれだけ持ちこたえるかにかかっていそうですね
日本側にローマの大盾があれば、正面からでもファランクスに肉薄して刀で攻撃できるんですが
- 47 :
- >日本側にローマの大盾があれば、正面からでもファランクスに肉薄して刀で攻撃できるんですが
起伏や障害物の多い地形に誘い込むというのも手ですね。
方陣を崩したがらないがゆえに、ちょっとした障害物で直ぐ止まってしまうんですよ。
そして足の止まったファランクスはそれほど怖くない。
戦場が日本なら・・・って戦国日本軍は日本の環境に適応した軍だからちょっと卑怯か。
- 48 :
- そんなことを言ったら、欧州の環境に適応したマケドニア軍のホームグラウンドで戦うのは卑怯という事にもなる。
まあ、環境があまりにも違うから単純な比較は無理だろうしな。
- 49 :
- >>34 中世ヨーロッパの馬もせいぜい130cm台で、max142cmといったところ。
現存している騎馬用甲冑の大きさから中世ヨーロッパの騎士用軍馬は相当大きかった模様。
デストリアと呼ばれる軍馬は170cm前後あった。
かつて軍馬として使われたシャイア種もそれくらいある。
- 50 :
- >>49
デストリアとは騎士が用いる軍馬のことで種類じゃないよ。
オランダ産のフリージア種のことだと言われているね。一旦廃れ、近代に交配による大型化を経て復活してる。
シャイアー種は19世紀の種だよ。先祖はイギリス軍馬グレートホースだが、近代的改良を受けている。
- 51 :
- 日本の戦国時代!合戦の虚像と真実3!!!!
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1151860317/
- 52 :
- このサイトいいですよ
↓オススメ
http://www.geocities.jp/wainsann_1985/
- 53 :
- >>51
そこ「少佐」なるコテハン持ちが暴れてるから、立ち寄らないのが吉
- 54 :
- >>53
少佐は有名なネタ職人だよ。最近捻りが無くてつまらないが。
- 55 :
- >>50
>>デストリアとは騎士が用いる軍馬のことで種類じゃないよ。
これはわかってるよ。馬の種類ではなくて軍馬の種類てことは。
>>オランダ産のフリージア種のことだと言われているね。
これは知らなかった。シャイア種の祖先か何かだと思ってたよ
- 56 :
- >>51
本スレ荒れてますね
いくら少佐とはいえ、書き込み量が尋常じゃない・・・
- 57 :
- 戦国時代に動員された兵力の実数ってどの程度なんだろね?
関ヶ原なんか1万石当たり300人で計算して数えられているけど実際はそんな都合よくは行かなかったと思うのだけど。
少し時代を遡った英仏百年戦争あたりだとかなり細かい兵数までわかってるようで例えば1428年のオルレアン包囲の際、
ソールズベリー伯が率いたのは装甲兵444人、射手2250人(ブルゴーニュの援軍などは含まない)
1441年のヨーク公の遠征は装甲兵801人、射手2997人
など
- 58 :
- 当時の資料だと、単純な石高計算より多い兵力を動員しているね。
桶狭間の今川なんか好例。
- 59 :
- >>58
桶狭間の今川軍だって総兵力は25000と言われてるけどそれ自体が正しいのかも疑問なんだよ。
大阪夏の陣の伊達軍なんかはかなり詳しい兵数が残ってたはずだけど・・・
ヨーロッパでも年代記なんかの記述そのまま引用するとバノックバーンなんかで30万も動員されたことになってて
当てにならない。
- 60 :
- 潜水艦のようなものが大坂冬の陣で使われたらしい
- 61 :
- ソースは?
- 62 :
- >>60じゃないけど「続武将感状記」の九鬼水軍の盲船の事だろう。
真偽はかなり不明ですが。
- 63 :
- 大黒柱の働き手が怪我したら、一家壊滅なので兵士はまともに戦って無いよな。
西洋医学の到来以前は、怪我したら終わりだから、兵士は逃げまくっていたよな。
- 64 :
- >>63
逃げてばかりでは、出世も出来ないからいい暮らしも出来ない。だから戦うだろ。
雑兵レベルでは家庭も持てない、次男坊以下が多いだろうし。
- 65 :
- ほしゅ
- 66 :
- 戦国時代の戦における傷の原因の比率
http://www.kurokichi.net/inside/up/src/up1165.jpg
- 67 :
- >>66
藪の中での擦り傷とか蛇にかまれたとか、
あと虫刺されなんかもすごそう。
- 68 :
- >>66
やはり遠距離武器が強いか
- 69 :
- 基本は「相手が崩れるまで飛び道具で攻撃」だからなぁ
- 70 :
- で、双方崩れなかったら槍の叩き合いだからな。
近接戦のメインウェポンはそもそも槍だし。
- 71 :
- 天正4年(1576) 天王寺砦の戦い ダイジェスト
4月3日 信長、石山本願寺を攻撃中の明智光秀・細川藤孝へ
全ての麦の刈り取りと「大坂籠城候男女」へ赦免するので早々に
退去することを促す旨を表示した「立札」を諸口に立てることを命令。
また「坊主」以下の再起を期そうとする連中は「不可赦免」を命令。
──『細川家文書』
4月5日 信長、摂津国平野庄惣中へ石山本願寺に兵粮を運搬
することは「曲事」であるので厳禁すること、もし違反者が発生した
場合は「成敗」することを通達。──『末吉文書』
4月14日 信長、明智光秀・細川藤孝・荒木村重・塙直政らに、
摂津国大坂の石山本願寺を攻撃させる。──『信長公記』
4月29日 信長、近江国安土城より上洛し、京都二条妙覚寺に
寄宿す。──『信長公記』
- 72 :
- 5月3日 石山本願寺一揆勢、数千挺の「鉄炮」を以て織田軍を
攻撃、敗走させる。一揆勢の追撃を阻止した原田備中(塙直政)
・塙安弘・塙小七郎・蓑浦無右衛門・丹羽小四郎らが討死。
──『信長公記』
5月4日 石山本願寺一揆勢、天王寺砦を守備する佐久間信栄
・明智光秀・猪子高就・大津長昌ら織田軍を攻囲。
──『信長公記』
5月5日 信長、100騎ばかりの手勢を率いて京より出陣、摂津国
大坂に向かう。河内国若江城に到着。──『信長公記』
5月7日 信長、自らの陣頭指揮により3千ばかりの軍勢を率い
「三段に御備」て石山本願寺一揆勢1万5千に攻撃を仕掛ける。
先ず住吉口より攻め込み、戸口まで進撃。信長は先手の足軽
と共に攻撃に参加し的確に指令を発していたが、足に鉄炮疵を
負うなど負傷するも一揆勢を撃破し天王寺砦に入る。
敵首2700余を獲る。──『信長公記』
- 73 :
- おお
- 74 :
- 乗馬ってむずかしいよね。
- 75 :
- >>71-72
すごいゴールデンウィークのすごし方だな。
- 76 :
- 軍板のスレ、両方とも落ちてたのね。
- 77 :
- >>75
確かに出発がみどりの日か
- 78 :
- 9
確かに脚色されてるかも!
討ち取った首は首桶にいれて持ち帰り、それに化粧して少しでも位の高い兵に見せかけてたっての聞いたことある
- 79 :
- 日本の戦国時代 合戦の虚像と実像
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1128176890/
日本の戦国時代 合戦の虚像と真実2
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1147453486/
日本の戦国時代の合戦の虚像と真実3
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1152990829/
日本の戦国時代!合戦の虚像と真実3!!!!
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1151860317/
- 80 :
- ほしゅ
- 81 :
-
足軽は本人の希望で槍隊とか弓隊とか鉄砲隊に入りたいとか選べたのかな?
- 82 :
- >>81
弓・鉄砲は技量が必須
- 83 :
- >>82
ただし修得難度は、弓>>|越えられない壁|>>鉄砲 な。
- 84 :
- 軍板の新スレ
日本の戦国時代の合戦の虚像と真実4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1167608720/
- 85 :
- 大河みたいに敵味方入り乱れての戦いなんてほとんど
なかっただろうな
あんな激しい戦いをしていたら侍なんて怖くてやってられないよ
最前列の方だけチョコチョコやって陣が崩れた方が負け
だから関が原でも死傷者が少なかったんだと思うよ
- 86 :
- 85氏に一票。
当時の戦争は近代戦との出入りの中間だろう。
戦いの中心は、大ボスの「顔」で行う多数派工作。合戦はその多数派工作の
再確認の場。
関ヶ原みたいのが特殊なのではなくて、あれが普通なんだろう。
- 87 :
- 他スレでのレスを見ると>>86の言葉には微かな説得力も感じられないのであった。
- 88 :
- >>58
たしか、朝鮮出兵のときには西国の大名は1万石につき500人動員するよう
命が下っているはず。たぶんこれくらいが限界値だと思う。
- 89 :
- 防衛戦だと百石七人役とかやる場合もあるっぽいけどな
- 90 :
- >>88
それだと50万石で2万5千人か
根こそぎ出陣になるのかな?
- 91 :
- 豊臣政権の検地は、実際はいい加減なとこがあったらしい。朝鮮の役も北条攻め
も、エエ加減な検地を見越した動員数の割り当てなので、地域や大名によって、
1万石あたりの動員割り当てもバラツキが大きいらしい。
結局、ちゃんとした検地をするためには、かなり強力な政権が成立する必要が
あるんだな。2代で潰れるような政権ではダメなのさ。
- 92 :
- 89>
そうだね。惣村の協力の得やすい防衛戦と、嫌がられる遠征とでは、分けて
考えないとね。
ちなみに、100石7人なら、
100石は、不正確な検地に依っており、実際はプラス数十石。で、実際は
100石あたり、4人〜5人くらい? もっと少ないかな?
- 93 :
- 100石4人だと50万石で2万人か
2万人もいれば誰が相手でも1戦やってみたくなるかも
将棋じゃないから負けたら重大だがな
- 94 :
- 軍忠状(恩賞のため主君に差し出した戦功と損害の報告書)から見た戦傷比較
(1333〜1387年。いわゆる南北朝期)
矢傷 86.4% (462)
切傷 9.2% (53)
石傷 2.8% (16)
鑓傷 1.4% (8)
その他 0.2% (1)
()内は人数
南北朝期にはすでに刀槍併用時代が始まっていたとされていますが、接戦派の
主張する切傷は全体の一割にも満たないようです。
軍板のスレが某研の連投で機能不全に陥っているのでageておきます。
- 95 :
- そだね〜あっちはもう機能してないし
こっちに退避しましょうか
じゃあ、あっちのスレの続きで
備えの編成の話から?
参考はコレ?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
- 96 :
- 一応張っておきますね
軍板の姉妹スレ
日本の戦国時代の合戦の虚像と真実5
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1174502072/
過去ログ
日本の戦国時代 合戦の虚像と実像
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1128176890/
日本の戦国時代 合戦の虚像と真実2
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1147453486/
日本の戦国時代の合戦の虚像と真実3
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1152990829/
日本の戦国時代!合戦の虚像と真実3!!!!
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1151860317/
日本の戦国時代の合戦の虚像と真実4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1167608720/
- 97 :
- >>94
戦傷者の傷だけ?
思うに接近戦だと死亡率高いんじゃない?
遠距離・矢戦だと怪我しても仲間が治療してくれるが
接近戦・乱戦だと負傷>戦闘力低下>そのまま討ち取られるってのも多そう
まあ、遠距離戦が中心だったのは間違ってないけど
結局最後の白兵戦って重要だったのでは?
最後には相手を潰走させなければならないわけで
その為に遠距離戦>時期を見て白兵戦に移行はあったのでは?
白兵戦に移行した段階でほとんど勝負は決まってるから
死傷者は白兵戦では少なかったのかな?
- 98 :
- 「首とってなんぼ」の世界だからな。
弓鉄砲だけじゃ首とれんからな。
- 99 :
- 弓鉄砲で戦闘不能にしてから首とったんだろうよ。
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