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天海=明智光秀だった!!!


1 :06/06/30 〜 最終レス :11/12/09
ソースはテレ東
びっくりしたよ!!!

2 :
既出過ぎ

3 :
裏の戦国自衛隊より面白いな

4 :
最近いろんな版で主張してるな…光秀=天海
数年前の時空警察でも同じことやってたね
日光東照宮に桔梗紋があるのはオカシイとか

5 :
>1
前から天海=光秀じゃないかという説はあった

6 :
「美濃志」などによると
小栗栖で切腹したのは影武者で、光秀本人は美濃中洞に落ち延びたという。
そして荒木又五郎と変名した。

7 :
なぜか歴史ゲーム板に立ってた
明智光秀=天海は真実のようなキガする
http://game10.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1151439650/

8 :
天海は明智光秀だよ。

9 :
だったら最後何歳なんだよ。無理がありすぎ。
昔は日付にルーズで、生まれた年は割といい加減だけど、
没年はある程度正確だろうし、そうなると若く見ても110歳越えちゃうぞ。

10 :
まあ、アレだ
光秀が二人だったんだよ

11 :
>>9
天海説の詳細で言うと
光秀=天海ではなく明智の男性が天海であったといわれてる。
明智秀満ではないかともされてるがな。
 光秀本人については
比叡山で生き延びたというのは疑問があるそうな。
なんせ比叡山を焼き討ち指揮した本人だしな。
子供か身内であれば、さすがにかくまうにやぶさかではなかったんじゃないかとも。
で光秀本人については生きてたとしても明智光秀=千利休てのもある。
 光秀の謀反について秀吉や家康に数々の疑惑があるのと絡めて説明される
あれなのだが光秀の決起に一定の理解を示した秀吉は公然と彼を擁護できないが
密かに匿って利休として登用していたという説。
これは信長が主に折檻していた武将の仇名が「はげねずみ」であり
この仇名が光秀のように言われているが実際は秀吉の仇名だったという話と
絡めて説明されてる。

12 :
そっちのは面白いね。

13 :
はげねずみって秀吉のことだろ?

14 :
逆を言えば、天海=光秀だよな。
光秀は明智を名乗ってるけど出自もはっきりしてないんだし。
足利学校から来たのかもよ?

15 :
まぁそもそも足利義輝=光秀だからな
義輝=光秀=天海、というわけだ

16 :
明智平を命名したのが天海
それだけで明智=天海はねえだろ
>>14
先祖が尾張の明智庄出身だからだろ

17 :
>>1は自した方がいいんじゃない?

18 :
知らんかった・・・
こんなに多く諸説あったとは・・・勉強になります。

19 :
それよりもむしろ、
伊達小次郎政道(伊達政宗に斬られて死亡/伊達政宗の弟)=秀雄(大悲願寺15世住職/伊達政宗の弟)
の方が、まだ信憑性がありそうな気がw

20 :
光秀=義経

21 :
天海=ドラえもん

22 :
謙信=女だったとかフカしてる奴も結構いるよな
ほんとに女だったらいくらなんでもとっくに話し広まってるっつーの

23 :
天海=随風

24 :
豆うめー

25 :
天海=空海

26 :
こんなスレ、立ったんだ…
テレ東の番組は見逃したけど、
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149962335/
このスレの725・731・735・737・757にもそれっぽいこと書いてござるから、
興味のある人は見に来てみてくだされ。
見るだけ、でござるよ?

27 :
天海は明智の一族の一人だった可能性はねえの?
明智一族は織田と秀吉を憎んでいて、徹底的に滅ぼしたとか

28 :
>>27
それなんて鬼武者?

29 :
秀忠・家光

30 :
天海=長男

31 :
天海=祐希

32 :
Wikipediaの天海のとこ見ると
光秀より秀満では?ということになってるが

33 :
ここで勉強してみ。間接証拠と傍証は盛りだくさんだ。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/6291/

34 :
天海って前半生が全く不明なんですよね。
これがこの伝説をより説得力のあるものにしているのかも。

35 :
三好長慶や石田光成や真田幸村にも不死伝説があるね

36 :
>三好長慶や石田光成や真田幸村にも不死伝説があるね
そんなのないね、確実に死んでる。
君の妄想か?

37 :
天海=明智
の可能性はあるが、それが光秀につながるとは限らないし、
だいたい光秀の前半生もまったく分かってない(諸説あるが)
言うなれば光秀が明智姓を名乗った事自体が、捏造の可能性も高い。

38 :
>.23が正解だな。
天海が表舞台に出る前のことは概ねわかってきてるみたいだけどな。

39 :
>>36
いや、そういう伝承はあるよ。
死んでるのは否定しないけど。

40 :
上杉や島津の妄想講談レベル

41 :
つーか>>35に対し>>36のレスはおかしい

42 :
幸村は秀頼を連れて鹿児島へ逃げたって昔時空警察でやってた
あと島左近もなんかあったような

43 :
ルソンツボ

44 :
説の根拠
・天台宗の総本山・比叡山松禅寺に光秀寄進の石灯篭があること。
「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」光秀が死んで30年以上経っ
たころ寄進したことになってる。
この比叡山南光坊で1607年頃天海は学徒に教えていた。
・京都府北桑田郡京北町周山に光秀の位牌と木像が安置されている
「慈眼寺」という寺がある。ちなみに天海の諱は
「慈眼大師」である。周山は光秀の居城亀山城があったところ。
・日光の明智平という地名が天海によってつけられたと言われている。
・あの有名な光秀の肖像画のある大阪岸和田市の本徳寺、
ここにも光秀の位牌があり裏に「当寺 開基慶長四己亥」
慶長四年に寺の寄進者になってる。光秀肖像画の裏には
「放下般舟三昧去」仏門に入って去っていったとある。
この寺はかつて光秀の子が住職をしていたらしい。
・比叡山に光秀がいたという文章がある。
叡山文庫 「横河堂舎並各坊世譜」の「長寿院」の項に『第二世法印権大僧都是春、
初名光秀、依光芸薙髪。及住当房監鶏足院。元和八年九月二十五日」
・『長寿院の第二世法印であった権大僧都の是春は、俗名を光秀といった。
そして長寿院第一世の光芸によって薙髪を受けた。その後は鶏足院に起居した。
元和八年九月二十五日にく。』
くというのは去るという意味もあり元和八年に寺を去ったともとれる。
元和八年は天海が東叡山寛永寺建立にむけて動き出した頃では?
・「東叡山開山慈眼大師縁起」によると
慶長十三年、天海が駿府を訪れ家康と面会をした時
『初対面のふたりは、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合った。
大御所が、わけても初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく
前例のないことなので、側近の者たちも「いったい、これはどうしたことであろう」
と目を見張った』結局この時は一刻ほども話し合ったという。

45 :
天海の足跡。
1536ごろ 随風(天海)は芦名の女を母、舟木景光を父として会津に生まれる。
1547ごろ 高田の稲荷堂の別当舜海に学ぶ。
1550ごろ この頃下野宇都宮に移る。
1560ごろ 足利学校へ入学。
1570ごろ 比叡山か園城寺もしくはその両方で学ぶ。その後武田信玄のもとにもいたという。
1573ごろ 芦名盛氏に会津に呼び戻されるが、上野の長楽寺で学んだりもしている。
1588ごろ 武州仙波の喜多院の住持となり、また同無量寺の豪海に師事し学び、天海と名を改める。
1589ごろ 芦名氏が常陸に落ち延びた際、その処理に奔走する。
それ以降は知ってのとおり。

46 :
光秀の親戚が天魔一族を滅ぼした話は信憑性があると思う

47 :
マジな話
天海=祐希
だな。これが一番納得した。

48 :
本名から「ゆりちゃん」だってね。いま義妹が教えてくれた。

49 :
天海の前半生については諸説あるが、あしな氏に仕えその後各地を転々し、信玄に招かれた事があるみたい、そうなると120歳の長寿になる訳で、いったい何者なのか?

50 :
先の出た岸和田市の本徳寺の他に、高石市の光秀寺ってお寺も明智一族の
血縁者が寺を建立したという伝承もある。
光秀自体も謎だが、出身母体の明智一族ってのも謎が多すぎるな。

51 :
>44
しかし光秀とあるから明智光秀というのは非常に短絡的な考えだよなぁ。

52 :
別の光秀さんか明智家の誰かが光秀名義でやったかってことなのかね

53 :
>>52
そこに落ち着くよ、明智伝説は。遺族が何かしたんじゃねぇの?
戦国末期の三大敗者↓
・明智光秀(一族は大半が許されている・隠然とした再興が可能)
・石田三成(子息も僧籍に入り許されている・血統は保つ)
・豊臣秀頼(許されたのは出家した娘だけ・血統も断絶)

54 :
明智になんら縁の人なんでしょうね。毒(明智)を以って
毒(豊臣)を征すなんでしょうね。

55 :
>>53
そう。結構許されてるんだよな。情状酌量されてるのかも。

56 :
天海、実際には何歳まで生きた??

57 :
まぁ上杉謙信は女だったっていう説よりは信憑性があるよ

58 :
>>56
数え108歳が通説
ちょっと信じ難いけどね
天文五年(1536)〜寛永二十年(1643)

59 :
じゃあ天海が明智光秀じゃないって明確な証拠出して
みろよ!!

60 :
>59
じゃあ天海が明智光秀じゃいって明確な証拠出して
みろよ!!

61 :
展開が二人いたとすれば話の筋は通る

62 :
天海は織田信勝ですよ

63 :
天海=明智光秀は事実かもね、同姓同名の

64 :
織田信行という話は聞いたことがある

65 :
天海祐季+吉川晃司
春日局+稲葉正成(小早川秀秋の筆頭家老)
春日局は明智光秀の縁者。
夫の稲葉は小早川家出奔後に、徳川家に仕官。仕官出来たのは
光秀縁者の春日局の力添えがあったから、ともいわれている。

66 :
>>65
毛利(小早川)裏切り工作の一番手だったからじゃねーの?

67 :
そそうともいう

68 :
そそそうだね

69 :
蘆名説の問題は、その曖昧な根拠しかないうえに、その人脈を含め、天海と蘆名氏を結ぶものが何もないことである。
例えば、蘆名氏の家紋は、三浦であるから「丸に三引き両」である。
しかしながら、天海の用いた家紋(今日においても喜多院あるいは上野の両大師堂で見ることができる)は、「丸に二引き両」と「三宅輪宝」であり、蘆名氏のものとは明らかに異なる。
「丸に二引き両」は足利氏のものであるが、同時に遠山氏も用いている。
一方の「三宅輪宝」は、文字通り三宅氏の家紋である。
家紋は苗字と同じであり、自らの出自と無関係に用いることは普通ない。
少なくとも、出自と無関係な家紋(それも2種類)の使用、すなわち詐称を天海ほどの高僧が行うとは思えないのである。
その出自の曖昧さもあり、小説等で出てくる説として、天海が足利将軍家12代足利義晴の子、本能寺の変で織田信長を討ち、山崎の戦いで戦死したとされる明智光秀と同一人物という説がある。
また天海の没年は最高で135才だという。天海と明智光秀が同一人物だと享年は116になる。
天海は、1561年に信濃国で行われた第4次川中島の戦いを見学していたという。
天海を明智光秀とするのは年齢的にも無理があるが、それに近い人物である可能性は高い。
天海の出自をうかがううえで重要なものは、その用いた2つの家紋、「丸に二引き両」と「三宅輪宝」である。
光秀に近い人物で1536年生まれ、かつその2つの家紋を用いる人物は特定できる。
最初遠山景玄と名乗り、次に母方を継いで三宅弥平次と改め、さらに光秀の娘婿となって名乗った明智秀満である。
天海が遠山景玄/三宅弥平次/明智秀満/明智左馬ノ介であったことは、その取り巻く人物からも頷ける。
まず、従兄弟となる斎藤利三の娘お福(春日局)との関係はよく知られているとおりである。
天海が祈願所として家康に推挙した浅草寺の住職忠豪和尚は、明知遠山第11代直景(江戸城代)の子である。
云々とウィキにはあるが、これなら東照宮の桔梗紋や明智平、光秀名義の寄進も納得出来る。
秀満は山崎本戦には参加せず坂本にいたから比叡山に逃げ込んだ可能性は十分あるし、遠縁を頼って関東に落ち延びた可能性もある。

70 :
そうかのう。
明智光秀秀満説のほうがあいまいな根拠しかないと思うんだけど。
詐称を天海ほどの高僧がおこなうとは思えないというけど、もし明智説が真実だとした場合、
天海は思いっきり芦名氏の出自だと嘘をついたということになるじゃん。
おまけに足利学校に入学したとか、長楽寺で学んだとか、嘘ばっかりついてることになるね。
その上自分の出自を隠そうとしていたり、一方ではばらそうとしていたり行動も意味不明。
秀満説に至っては何故天海=秀満が光秀が生きていたと騙るような事をしなければならないのか。
いろんな人脈みたいなものもはっきり言ってケビンベーコンマジックだし、
彼らの証言が残っているわけではない。
なにより天海=明智という明々白々な証拠を、誰も発見できない。
芦名説のほうがもっとシンプルだし、どっちのほうにより瑕瑾が少ないかといったら芦名説でしょ。
ちなみに福島の龍興寺というお寺に慈眼大師の両親の墓があるそうですよ。

71 :
馬鹿!天海は左馬ノ介だよ!!!!!

72 :
蘆名氏の一族である三浦氏の出目で、陸奥国に生まれたとされる根拠は、『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一ぞく」と記されていることである。
しかし、同時にそこには、「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。
また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と、足利将軍落胤説も同時に載せられている。
どちらの正誤も明確ではなく、天海の前半生についても詳細は分かっていない。
天海としての足跡が明瞭となるのは、天正16年(1588)に武蔵国の無量寿寺北院に来てからである。
とウィキにはある。天海自身が蘆名氏を詐称したことにはならないのではないか?蘆名説の信憑性も薄いと思うぞ。
あと光秀が生きていたと偽った訳ではなく、自身は光秀の名代だという意味で光秀名義で寄進したのでは?これはあくまで私の推論だが。

73 :
もしかして、天海が光秀ヲタで、光秀の名前を利用したとかじゃない?
対豊臣戦略には効果的!とか思って。

74 :
光秀は坂本城下の天台宗の寺を保護してたし、仏敵信長を倒したから英雄扱いだったのかもな。
んで明智平とか桔梗紋使ったのかも。

75 :
天海=信長説はガチ

76 :
>>73
ほほう

77 :
天海説は春日局の登用が強みなんだよな。もし徳川家康と春日局の子供が家光なら、嫡男になる忠長との対立は当然。ついでに淀君の妹、お江与の方の影響力も低下するし、実際に低下して春日局が権力を奮っていた

78 :
天海=光秀はまじで有り得る話。
てか、本能寺の変の時点で明智と徳川はグルである可能性すらある。
本能寺の変の直前に光秀は家康の接待をしているし、
家康は長男を、光秀は老母を信長のために失っている。
光秀の件は捏造の疑いもあるが、粛清、神モードに入った信長には
どちらも相当な恐怖とストレスを感じていたはず。
明智と徳川の繋がりは、偶然で片付けるには強すぎる。

79 :
初めまして!確かに日光東照宮には明智の家紋がたくさんあります!だからぐるなんでしょう?

80 :
明智と徳川のつながりって何?
東照宮の桔梗は明智の桔梗とは違うかも知れないよ。

81 :
明智平に桔梗といえば、普通は明智を連想するよ。
春日局も光秀の重臣の娘じゃん。
本能寺の変の直前に光秀と家康は、信長に対する不満をぶつけ合って、
家康は味方につくという確信もしくは確証を持った光秀が謀反を起こす。
それに呼応して家康は軍を動かそうとしたが、光秀が秀吉に瞬されたので
密約があったことは隠した。
これは考えすぎかもしれないが、光秀は重臣の中で秀吉と並んで有能な
滝川一益を家康が滅ぼすないし押さえ込むことを期待したのかも。
その後の、豊臣、徳川の確執を見ても明智と徳川がつるんでたと考えると
俺の中では一本に繋がる。
少なくとも家康は明智に対して好意的で、故意に明智を連想させるような
行為をした人物がいたことは事実だろう。

82 :
でも明智=天海には証拠がないじゃない。
情況証拠もえらく危ういものばかり。
家康と光秀がつるんでいたという証拠もない。
まあ光秀=天海説は足利幕府〜本能寺の変〜豊臣政権〜江戸幕府と、
線が一本に繋がるという点ではすごく面白いとは思うけどね。

83 :
そう証拠がない。だから俺も状況からみて有り得るとしか
言ってない。
基本的俺も陰謀説はあまり信じない方なんだけど、
明智と徳川の場合、ひとつならともかく複数あってその点が線として
繋がるあたり他の陰謀とは違うと思ってる。

84 :
徳川の人間にも光秀の顔知ってる人居るだろうし、
普通に顔でバレル気がするけどなぁ。
そこでばれたらもう少し確証的な文献も残ってるだろうし、
明智ゆかりのものであったとしても、光秀本人では無いと思う。

85 :
まあ実を言うとばれてるんだけどね。
そんでそういう証拠が残っている。

86 :
桔梗紋というより木瓜紋に近いと思うけどね

87 :
>>84
光秀没から徳川に天海登場まで数十年
皺くちゃの爺さんになってるだろうから気付かないとしても不思議はない
もちろん付き合いが深い相手なら見破ったかも知れんが
とはいえ、俺は光秀=天海はないと思うけど
やっぱり秀光あたりが臭いと思う

88 :
義経はMスハーンだと思う。

89 :
天海は三成

90 :
明智光秀=天海説について調べているうちに、恐るべき書物に出会った。
岩邊晃三という人の「天海・光秀の謎 −会計と文化−」というもの。
この本マジやばい。イタリア式簿記の伝播を中心に書いているのだが、
それが天海光秀説につながり、赤穂浪士の討ち入りにつながり、ユダヤに繋がりと
ダビンチコード顔負けの歴史ミステリーとなっている。
ひょっとしたら本人はポストモダン的アプローチを目指していたのかもしれない。
でも中身がスゲー電波。学研の超面白雑誌ムーに匹敵する論理構成。
最後には地球滅亡かと思ったが、残念ながらそこまでは行かなかった。
著者は埼玉大学の教授までした人らしいが、このような本を書く人物が
教授となっている国立大学に未来はあるのかを問いかける渾身の一作。
是非一読をお勧めする。

91 :
>>90
わたつた

92 :
光秀だと、やはり年齢がネック

93 :
天海は光秀だと思う!!天海は家康を祀っている所に「明智平」としたし、長寿院の不動堂の庭に古い石灯籠の裏面に「奉寄進、願主光秀。慶長二十年二月十七日」とあるし、僕は信じたい

94 :
じゃあオレは秀満説にのろうかな。

95 :
光秀が家康を祀っている所に「明智平」としたのは何でだぜ?

96 :
天海が明智平と聞いて「懐かしい」とか言ったとか言わないとかの話もあるんで、天海が名付けんじゃないかもね。明智‥開けた見通しの良い「開け地」が元々の地名じゃないかな

97 :
天海は焼討ちで死んだはずの快川和尚

98 :
天海は鋸の刃毀れと化した杉谷(ry

99 :
118歳ってありえない。

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【14代】 足利義栄 【阿波公方】
次々と通説を打ち砕く鈴木真哉・藤本正行について 5
【戦国一の】太閤立志伝総合スレ【出世頭】
信玄、謙信、義元>>>>>>>>>>>氏康