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2011年10月1期戦国時代【僧で】安国寺恵瓊【大名】
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ジョジョの奇妙な戦国第2部−戦国潮流
僕は、筒井順慶ちゃん!
【僧で】安国寺恵瓊【大名】
- 1 :06/07/05 〜 最終レス :11/08/04
- 愉快な坊さんです。
- 2 :
- 西軍の敗戦も予言できなかったのか
- 3 :
- 公孫参が参げつと
ついでにこのスレの予測…だらだらとレスがつくが、149でdat落ち
- 4 :
- 直江兼続と同じで秀吉に騙されて
人柱にされちゃった人
- 5 :
- 日本のラスプーチン
- 6 :
- 毛利氏守るための人柱となった人物の名前を書くスレでつか
- 7 :
- 織田家の没落と秀吉の台頭を予言した人物ですが、自分の死は予言できなかったようです。
- 8 :
- なんで処刑されたんだろ。
- 9 :
- 逃亡に失敗したから
- 10 :
- 輝元担ぎ上げたから
- 11 :
- まぁどちらにしろ大名ではない
- 12 :
- 伊予6万石の大名ですよ
- 13 :
- 何故だろうね
西軍主力のうち大谷吉継は討死
石田、小西は処刑
宇喜多は逃亡
長宗我部(戦ってないが)は土佐に逃げ帰る
早い時期に捕まったからだ、と言ってみる
- 14 :
- 残ってたら子孫は武田を名乗るんだろうか。
- 15 :
- 徳川の名門好きで高家当確
かな?
- 16 :
- >>12
大名じゃないよ
伊予6万石というのも、知行宛行状も出した形跡ないし、伊予和気郡も恵瓊の所領というより、代官地と思われる
それに安国寺恵瓊が「大名」として「家」を為してなく、家臣もいない
関ヶ原の時も、毛利から与力を付けられて、その与力の兵で軍勢を形勢している
- 17 :
- >>16
代官地ってのは、「誰の」代官なのかな。
小早川隆景領もしくは毛利一族の誰かの代官なのか豊臣政権直轄領の代官なのか。
関ヶ原の時以前、朝鮮出兵の時点で「安国寺与力衆」の存在があったようだがこれも毛利からつけられたものか
どうか。
どちらも毛利なら毛利の家臣だし、豊臣直轄領の代官なら存在が微妙なものになる。
もっとも、この時代は直轄領付近の大名に代官をさせているので「毛利輝元に代わって豊臣領の代官を務めてい
た」という可能性もある。
- 18 :
- 代官の意義がわからないけど、任地に行かない代官っているのかな、と言ってみる
- 19 :
- 相当な酒好きで、
毛利家の重臣佐世元嘉と会談した夜などは、酔がまわって、
挙句の果てはみめよい若衆をそばに寄せ付け、輝元側近の御若衆などを随分呼び出すという事をしでかしたらしい。
翌日彼は書状でこの事を詫びている(毛利家文章)。
このような人間くさい一面もあるんですね。
- 20 :
- 要は生臭坊主か。
- 21 :
- 恵瓊は臨済宗のお坊さん
安芸安国寺に身を寄せ、笠雲恵心と、京東福寺で修行
後、安芸と備後の安国寺住持
その後、京東福寺、南禅寺住持
- 22 :
- まあノストラダムスよりは凄いことは確かだ。
- 23 :
- 高松城下における和平交渉は、毛利・羽柴どちらから持ち出されたんだろう。
定説では羽柴側から持ち出されたようになっているが、
当時の秀吉や恵瓊の書状によると、どうも毛利側から持ち出されているのが真実のようだ。
- 24 :
- 武田信重の遺弧
- 25 :
- 恵瓊は親父の仇毛利の外交僧になるのに
どんな心境だったのかな?
- 26 :
- 石田三成、小西行長はともに伊吹山中に隠れていたのに
彼一人京都を目指したのは、ここに知友が多かったためであろう。
- 27 :
- 恵瓊は建仁寺の再興にも係わってるし、(大方丈は恵瓊が移築したんだし)
東福寺、南禅寺の住持だったしね、僧仲間は多いべな
- 28 :
- 恵瓊には伊予領国とともに、彼が住持をしている安芸の安国寺に与えられた莫大な寺領があった。
- 29 :
- 安芸安国寺は1万1千5百石かな?
- 30 :
-
- 31 :
- 大内義隆には、安国寺真鳳って使僧が仕えてるんだね
- 32 :
- 暗黒痔
- 33 :
- そもそも安国寺って、足利尊氏によって、全国に建てられたらしい
ちなみに>>31は周防安国寺の人じゃ
大内氏に庇護されたらしい
- 34 :
- 周防安国寺・・・日照山安国寺 山口県柳井市
長門安国寺・・・鳳凰山安国東隆禅寺 山口県宇部市
- 35 :
-
石見安国寺=伊甘山安国寺 島根県浜田市
出雲安国寺=寶亀山安国寺 島根県松江市
- 36 :
- 信長の威勢が隆々としている当時、すでに十年先の本能寺の変を予測し、藤吉郎が天下をとるごとき人物であることを看破している。
- 37 :
- >>36
あの文章って「信長は今凄いけど足元がちょっと危ないですな。あ、秀吉ってのと知り合ったけど
あいつはなかなかやるよ」くらいの報告文書だろ。大体安国寺の文書全体の中からアレだけを
切り抜いて出して予言とか看破とか言うのは全く意味が無い。
- 38 :
- さりとては=なんとまあ=ひょっとすると大化けする
ってとこで、天下云々まではね
- 39 :
- ( ´∀` )<ほすほす!
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/_
\/ /
- 40 :
- 現世への執着が断ち切れてない時点で糞坊主確定
- 41 :
- 現世への執着を断ち切ったら即身成仏であっというまにこの世を去りそうだな。
- 42 :
- 「鉢ひらきたるような頭」の持ち主だっけ。
三成の才槌頭も、こいつにはかなわん。
- 43 :
- >>1
俺の認識では最後にヘタれたカス。
- 44 :
- 何で処刑されたんだろう。って?
毛利秀元に関が原で山を下って
家康と戦わせられなかったからじゃよ。
当然、家康から見れば、「処刑」は当然じゃ。
吉川の陣を迂回してでも、徳川と戦わせる
参謀としての力量が不足してたからじゃ。
秀元山下れば、家康と戦わざるをえない。
そうしたら、戦況は、西軍有利に働き、
島津も出て、小早川は最低、山をおりられなかった
公算が高い。逆に最後にしぶしぶ、福島といくさしたかもね。
- 45 :
- 武安国寺
- 46 :
- 昔のことだが
藤吉郎「さりとては」の者と読まず、
藤吉郎さりとて「はちの者」と読んで変な主張を展開した香具師がいたな
- 47 :
- ほしゅ
- 48 :
- あげ
- 49 :
- 恵瓊の家臣で名の通った奴っている?
- 50 :
- 平井藤九郎と長坂長七
- 51 :
- 前田玄以とイメージが被る
- 52 :
- それはない
- 53 :
- 柳生十兵衛を始めとする安国寺恵瓊と雑賀孫市とお市と風魔小太郎が信長を倒しに行くんでしょ?
- 54 :
- 平井藤九郎と長坂長七って美濃の肥田玄番の家臣だな。
ここまで落ち延びたのか。
- 55 :
- 元就が討った武田元繁と関係有るのこの人?
武田氏でしょ
- 56 :
- 元繁のひ孫だね、恵瓊
- 57 :
- 外交坊
- 58 :
- 武田の遺児が毛利の使僧になったのは
竺雲恵心の影響
- 59 :
- 甲斐武田とつながってるな
- 60 :
- >>55
回り回って、毛利家に仇をなしたなw
- 61 :
- 知ってる方にお聞きしたいのですが、家の先祖の墓が安国寺の境内にあるの
ですが、何宗で、またやはり足利家とゆかりがあるのでしょうか?
尊氏さんのお墓はどこにあるのでしょうか?
源氏平氏とすると先祖のお墓が安国寺だとどちらに属し、どんな階層の先祖だったの
でしょうか?凄く歴史に詳しい方ばかりのすれなのですごいとおもいおききして
おきたいと思いました、よろしくおねがいします。
- 62 :
- >>61 コピペだけど
安国寺は、足利尊氏が元弘元年(1331)に後醍醐天皇が企てた鎌倉幕府討伐のための、
いわゆる元弘の乱から後の戦死者について、その霊を弔うために夢窓疎石の提案で発願し、
全国六十六ヶ国二島に一寺一塔の設置をすすめた。
光厳上皇の院宣をあおぎ寺は安国寺、塔は利生塔と称した。
詳しいページ
安国寺・利生塔
ttp://bird.zero.ad.jp/~zam77093/ankokuji.htm
- 63 :
- 尊氏の墓は京都市北区の等持院
- 64 :
- 恵瓊の父信重と、当主信実は仲が悪かったようなのに、
銀山落城時に信実は出雲に逃れ、信重は自刃したんだろうか?
- 65 :
- 斬首される時にガクブルしてたそうだが、案外普通っぽい人だな。
- 66 :
- そうなんだ
念仏だかお経はいらんと僧を突き放したのは、あれはガセかな?
- 67 :
- 「高転びに転ぶ」と信長の死を予言した彼の眼力は恐れ入る。
それに備中高松城での講和では中国大返しの離れ業をやってのけた秀吉軍を
追撃せず、信長に取って代わるのは秀吉である事を予見し恩を売っておくなど
さすがは大毛利家の軍事顧問であると思わせたが、関ヶ原では彼の策略は悉く
失敗に終わり戦闘にも参加する事なく(山から下りて来なかった)汚名を残し
惨めな死に方をした。
- 68 :
- >67
>「高転びに転ぶ」と信長の死を予言した彼の眼力は恐れ入る。
信長の天下は五年、三年もつ、と予言したのは天正元年のこと。恵瓊の予言、大外れ。
「高転びに転ぶ」も都落ち程度の意味としか考えられない。恵瓊の予言、大外れ。
秀吉云々も書状全体を読めば、また意味が変わってくる。
書状の一部だけ抜き出すから、特別な意味があるように感じてしまうんだよなぁ。
- 69 :
- 恵瓊が予言者というのは後世の評価であって、当時は毛利と秀吉の間をうまく泳いで大名になったという印象だったんじゃないかな
- 70 :
- 頭だか、後頭部が異様にデカい人だったらしいな。
- 71 :
- ノブヤボの恵瓊は過大評価しすぎだと思う
しょせん目立ちたがりやな坊さんだろ
- 72 :
- 今生きてたら株で儲けられそうな奴だな。
- 73 :
- 誰か詳しい人
- 74 :
- 関ヶ原では主戦派として色々と策動したけど、野戦ではあまりにも消極的。
全くと言って良いほど野戦経験は無かったのだろうか?
渡鮮してるのは聞いたことがあるが。
- 75 :
- >>74
所詮毛利の外交僧以上でも以下でもなかったのが、親豊臣(羽柴)だったというだけで秀吉やら三成やらに
持ち上げられて実力以上に政治力を持ってしまい、その気になったに過ぎない。
上杉家の民生担当官だった直江兼続も似たような感じだな。
- 76 :
- 保守
- 77 :
- >>75 毛利本家や吉川、小早川への牽制の意味もあったのかな?=重用
- 78 :
- >>77
秀吉が、有力大名の重臣を1人2人篭絡してその大名家を牽制するのはいつもの手だしね。
これは信長も、勿論家康もやらなかった秀吉オリジナルの政略だな。
- 79 :
- >>66
>念仏だかお経はいらんと僧を突き放したのは、あれはガセかな?
それはキリシタンの小西行長だと思う。
- 80 :
- >>2
秀元が動けなかった?そんなの関係ねぇ
長束と長宗我部誘って池田・山内・徳川を攻撃するだけでも流れが違ってたろう
戦意は三成・秀家と並んでるんだから
もっと果敢に動けよ坊主、と
- 81 :
- >>80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Sekigahara.png
安国寺はいざ知らず、秀元は無理だね。
南宮山は標高400mを越えてるしw
下りるにしても、大垣城側に下りるしかないから主戦力としては期待出来なかっただろう。
長束や長宗我部は言うに及ばず。
- 82 :
- >>79
そうか、黄金の日々だった…
- 83 :
- それ以前にこの人戦の経験あったのかな?
- 84 :
- >>83
朝鮮には従軍してるけど占領地慰撫をしてらしく、槍働きはしてないはず。
- 85 :
- そうなんだ そうすると最初から戦働きは期待できないね。
やはり外交僧なんだね 乱を起こした(?)罪で斬首か。
- 86 :
- 特に家康に恨まれる理由があったのかな?
- 87 :
- >>86
どう考えても関ヶ原の首謀者の一人だろ。
- 88 :
- 輝元を総大将に擁したのはこの人だろうからね。
処刑の理由はそれが一番だろうな
- 89 :
- ということは三成とこの人の謀議が戦のもとという事?
- 90 :
- 恵瓊と三成、そして小西行長が謀議の中心人物だったことは確かだが、
最近の研究では関が原は、宇喜田秀家が暴走に近い形で反乱を始めてしまい、三成ら中心グループが
逆に秀家に引っ張られる形で立ち上がる羽目になった、とされる。
つまり西軍は恵瓊らの思惑と違い、準備不足のまま家康と対峙せざるをえなくなった、まったくの計算違いの反乱だったようだ。
ただ、関が原を通して西軍は、三成、恵瓊、行長のグループが「執行部」として動かしていたのは確かだな。
- 91 :
- くわしくありがとうございます。
- 92 :
- >>90
>最近の研究
どこで誰が発表した研究なのかい?
聞いた事がないので、論文などの紹介よろしく。
- 93 :
- 恵瓊は何を望んでいたのか?
- 94 :
- 毛利家を中心とした政権作り、あわよくば毛利幕府の設立でしょうよ。
その上で最大の謀臣として権力を振るう、と。
- 95 :
- 家風からするとなかなか難しいだろね、毛利幕府
だが恵瓊なら考えそうではある
- 96 :
- 元を辿れば、毛利は一族の仇だよね? よく仕える気になったもんだ。
- 97 :
- 更に辿ると徳川は一族の仇?というほどでもないか。
- 98 :
- >>96
戦国時代にゃよくあること。信長なんて自分がヌッした弟の息子を平然と使っておろうが。
- 99 :
- >>98
理屈は分かる、戦国の習いだからね。
でも、使う側と使われる側では随分違うと思うのだが。
関ヶ原後に毛利家が滅亡してたら、武田家の亡霊も成仏できたかな?
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